向日神社(むこう)
京都府向日市向日北山65 its-mo



交通案内
阪急京都線 西向日下車 北西800m



祭神
向日神 配 火雷神、玉依姫命、神武天皇



由緒
 式内社の山城国乙訓郡向神社と乙訓坐火雷神社(オトクニニマスホノイカヅチ)を合祀している。 両社は向日山に鎮座していたので、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。
 向神社の創立についての神社の説明は以下の通り。
 大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
 また「日本の神々(白水社)」によれば、大歳神の子神は白日神であり、この神名を向日と(誤って)記したものであろうとの見方をしている。地名と神名の先陣争いである。
 五十猛命の別神名と推定した白日別命と大歳神の御子の白日神とは異なった神格であるとも思われるが、とりあえず五十猛命を祭る中へいれた。

 創祀については、養老二年(718)に六人部氏(むとべ)が当地を賜ったことに発し、同年に日向国から遷座して来たと言う。六人部氏については最後に記す。

寛永二年造営の拝殿と舞殿

 『向日二所社鎮座記』には、神社の裏の峰(八尋矛長尾岬)を「朝日の直刺す地、夕日の日照る地、天離る向津日山」と書いている。 (『秦氏の研究』大和岩雄)。

 火雷神社についての神社の説明は以下の通り。火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。なお、乙訓坐火雷神社(ホノイカツチ)のもう一つの論社は長岡京市井ノ内に鎮座の角宮神社であり、江戸時代には角宮神社が乙訓坐火雷神社と考えられていた。社伝にも「継体天皇六年勅して乙訓社を建営し給ひ、火雷神を鎮め給ふ。」とある。 向日神社は後、養老二年(七一八年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神、玉依姫命を、また創立の因縁により神武天皇を併祭された。

 その後、建治元年(一二七五年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以後下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社として今日に至っている。 上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られるところである。

 火は日であり、向神社と火雷神社をあわせた名前の様にも読める。「向火」とすると仏教的になることもあったのではないか。



お姿
 遠くからでもよく見える向日丘陵の南端に鎮座している。石畳の参道は300m程ある。途中駐車が多くまた坂の上から音も大きくスピードを出している車が走ってくる。鳥居を越えたら下馬させるべきだろう。


 この神社建築は明治神宮の見本となったと云う。


 応永29年(1422年)完成の三間社流造の本殿は南面していたが、天保年間の造営の折りに東向きに変わったと言う。 神社を守る人々の使命は古来からの姿をとことん守ることである。時の浅知恵で創建の由緒を失う事は許されない。
 社宝として、延喜四年(904年)の日本書紀神代紀下巻(重文)がある。

拝殿

役行者、不動尊など

御霊神社「伊邪那岐神、伊邪那美神」
 



お祭り
例祭 5月第二日曜日

『平成祭礼データ』lから

 参拝のしおり
 縁起

当社は延喜式神明帳に記載された、いわゆる式内社であり、神明式においては山城国乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社(オトクニニマスホノイカヅチ)を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。
向神社の創立は、大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。

火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。後、養老二年(七一八年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神、玉依姫命を、また創立の因縁により神武天皇を併祭された。その後、建治元年(一二七五年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以後下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社として今日に至っている。上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られるところである。
 以上

元稲荷古墳

 神社の背後に前期、全長94mの前方後方墳がある。
葺石があった。後方武の中央に竪穴式石室がるが、盗掘されている。



田中卓氏の論考「「六人部連本系帳」の出現」を読む
 宝賀 寿男氏

 
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/mutobe/mutobekei1.htm
 貴重な資料故、消滅を危惧して「六人部連本系帳」をコピペさせて頂きました。この系図についての論評は上記サイトをご覧下さい。

 
※青色のコメントは宝賀寿男氏に依ります。



「六人部連本系帳」
 
天火明命〔亦名、号天握石(一に迩杵志とも書く)速彦命、亦名(同、曰)奇魂迩杵速日命〕
  天照大御神児天忍穂根命娶高弥武須日神女萬幡千幡姫命生児也。
  古昔、此神(同、天火明命)在天之時、以高弥武須日神命天降給時ニ執持奥津鏡・辺津鏡・八束剱・生玉・死返玉・足玉・知返玉・蛇比礼・蜂比礼・品之物比礼、此十種珍宝テ詔曰、一二三四五六七八九十(同、比止・布多・美・与・伊都・武由・奈々・哉・古々乃・多利哉)ト云ツツ布流倍、由良由良ト布流倍。如此テハ死去ナム人モ生返ナムト言教給キ。
  於是、天火明命乗天岩船テ、翔於大空ツツ可天降国々見?之(同、求給于)時倭国ヲ味小国、青垣(同、加伎)山呉母例流美真穂国ト看定テ、河上之伊加流之峯ニ天降給ヒ、即鳥見白庭山ニ幸行テ住給キ。
  於是、国津神鳥見彦百机ニ盛種々物テ、己女鳥見屋姫命ヲ相副テ献キ。※一般に妹とされるし、鈴木真年翁も妹としており(『史略名称訓義』神武天皇の項)、私もこれが妥当と考える。
  然後、可志原宮治天下天皇、倭国ニ幸行時、鳥見彦聞之、取奈良山梓作弓、宇陀野篶ヲ苅テ作矢テ待戦テ、遂彦五十瀬命ヲ奉射殺キ。 ※彦五瀬命の死亡は鳥見彦の手に掛かるものではない。
  依之天火明命大恨曰、奴哉、悪行奈世曽ト詔給テ、即殺鳥見彦テ天神所賜ノ十種珍宝ヲ捧テ献天皇キ。 ※ 火明命が鳥見彦を殺害したとするのは、疑問大。
爾(同、於是)、天皇大歓テ定内物部テ別恵給キ※天火明命は物部氏の祖ではない。すなわち、「天火明命=饒速日命」ではなく、また物部氏の当主も神武当時は饒速日命の子の可美真手命の代になっていて、この者が伯父鳥見彦を殺害し神武に降服した。

児 天香山命
 天火明命娶天美知姫命生児也。

孫 天武良雲命

三世孫 天忍人命
   妹、忍姫命

四世孫 天斗米命

五世孫 建斗米命 亦名妙斗米命 (同、各々「斗米」を「富」と表記)
       ※天斗米命に同人、従って世代の重複有り。

六世孫 安居建身命  ※「天孫本紀」では建斗米命の子の六世孫に建手和邇命(身人部連等祖)をあげており、安居建身命と同人かどうかは不明。なお、物部氏系統では、天火明命の七世孫に安毛建美命をあげて六人部連等祖とするが、両者の関係は不明。両者の世代が(従って、活動年代も)、明らかに異なっており、物部氏系統に見える安毛建美命が仮に竄入としても、同じ一族としたら世代的にみて建手和邇命の子か孫くらいが安毛建美命とするほうが妥当か。しかし、おそらく両者は別族であろう。つまり、安毛建美命は物部氏族であって、尾張氏族ではない(従って、向日神社六人部氏の祖先でもない)、という可能性が高い。この辺は何ら系図資料がなく、決定的なことは言い難い。
  師木(同、磯城)水垣宮治天下天皇御代、詔安居建身命曰、賀茂県主等之持伊都久山背国弟国ニ鎮坐火雷神社大荒タリト聞食ガ故、汝徃テ奉造仕ト仰給キ。 ※崇神朝当時、賀茂県主は山背には居住していなかった。
  於是、安居建身命率諸司テ、仰忌部首奥津真根テ須賀山ノ材ヲ以忌斧伐材持来テ造御屋。仰玉祖宿祢祖加我彦採(同、拾取)須賀山玉テ造吹玉。仰祝部連竹原テ木綿荒妙和妙ニ種々物ヲ備設テ、抜取須賀山之五百枝賢木テ、上枝ニ縣吹玉、下枝垂木綿、以五百枝楓(同、桂)五百津葵御屋裏(同、宮内)ヲ奉飾テ、湯津楓乃蔭ニ隠候テ、御佃田ノ神穂舂白ケテ、河内物忌ガ奉捕年魚ヲ、作膾テ、朝御餞・夕御餞ニ奉仕称言竟奉テ、復奏キ。  ※当時、忌部首・祝部連などの姓氏は未発生。少なくとも、「祖」の字が抜けている。
  於是、天皇歓給テ詔曰、勤モ仕奉シカモ。尊モ奉斎カモ。汝命ハ為御孫命ニ永為火雷神社神主テ、伊都伎奉仕ト言依賜キ。仍、己命ノ母玉手姫命ト児建斗臣命トヲ率テ、弟国嶋家ニ移住給テ、下社ノ朝御餞・夕御餞奉仕也。

七(以下は各々「世孫」を省略) 建斗臣命  ※命名からみて、天斗米命、建斗米命に同人とみられる。所伝から見て、この人物は系譜上の重要人物と知られるが、これだけ取り上げても、本帳の系譜や所伝が不審なことが分かる。
  巻向玉城宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。此命時、小江野篠原ニ大蛇住居テ、往来人多被殺キ。故、百姓雖大困苦、難捕得キ。爾(同、此時)、祝部連竹原児五百野、為彼大蛇被取殺キ(同、呑)。
  故(同、於是)、建斗臣命大怒テ率祝部荒河連・榎本連長江・忌部首阿古根等テ、令焼其野篠原キ。於是、(同、令苅篠時、)彼大蛇大怒テ起雲起風降氷雨ノメテ、開口喰建斗臣命(同、大蛇追出来怒眼如玉光起風降雨ノメキ)。  ※この当時は「姓」は未発生、かつ表記も「榎本長江連」という「姓」が名前の後ろに付けられる形になるはず。榎本連という姓氏は、当時は未発生のはず。祝部連という姓氏は他見なし、おそらく不存在か。
  爾(同、於是)、建斗臣命採持(同、取)弓矢テ、射得其蛇之頭(同、射中其眼)カハ、大蛇転倒之時荒河連抜剱寸々斬殺之(同、祝部荒川連祓剱テ斬殺)。因、時人大歓喜テ、称建斗臣命称味真人建真人吾君命。
  此後(同、以後)、天皇幸此国之時、登此神山テ覧国中之時(同、遊給。於是)、建斗臣命参迎テ、盛百机種々物テ奉仕給。亦狩於粟生小野之時、百姓多集テ為建斗臣命狩出大猪キ。爾(同、因)建斗臣命即射殺之(同、待テ射殺)テ献天皇キ。因、天皇厚其勇夫ナル事ヲ褒テ恵之。於是(同、恵給時)、天皇問左右侍臣曰、今日狩之間、百姓等謂味真人建真人キ。是何人哉(同、是誰哉)。群臣皆不知ト答白キ。仍召建斗臣命テ問之(同、問給)。
時(同、於是)、建斗臣命不能隠其事之起源ヲ、委曲ニ奏之給キ。因、天皇甚褒曰、汝命哉、伊佐乎志クモ為百姓除大患ヌ。仍百姓取称詞テ負真人部之名(同、連姓)テ奉仕ト勅賜キ。此氏ヲ負真人部事之縁也。後曰六人部ハ詞之転也(同、後転曰六人部連也)。
  亦、此命時、別雷神社〔亦号賀茂神社〕定給也。
  亦、娶玉祖宿祢祖(同、玉祖)加我彦女、伊可姫生楯川津身命也。 ※玉祖はもと玉作で、当時は玉祖の表記なし。
  久ク奉仕テ後逝キ(同、逝去)。墓神山ノ北在。言問之片山也。 ※この当時、「逝去」と表現したものかは、疑問。
 次、青蔓髪長姫
   是為祝部荒河連妻也。
 次、真髪姫
   是、為久我直祖清古妻也。

八 楯川津身命
 同天皇御代為神主奉仕也。

九 彦根大人命
 次、大嶋根命
  此二人、母曰須々伎姫也。

十 玉城彦命

十一 石生命
 次、榛生野命
 次、田原命

十二 小榛生野命  ※ここまでの世代数が他の古代諸氏と比べ多すぎる。
  筑紫加志日宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
  玉城彦命児、榛生野命児也。

十三 大狭山彦命
 次、玉手依姫
  是為山背国造川妻也。  ※おそらく「足」の誤記か。この者の他見なし、不存在か。

十四 押草根命
  母曰志多姫、石生命女也。 ※この当時では志多姫の異世代婚という不自然さがある。

十五 勝美命
  押草根命弟也。母榎本連須恵女、鈴依姫也。  ※この当時でも、榎本連は未発生。この辺りまでの世代数は異常に多い。

十六 加味雄連
  岩村若桜宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
  母曰高原姫。

十七  馬人
  長谷朝倉宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。

十八 披津猶良連  ※名前の付け方が不自然、抑もなんと訓むのか。
  近津明日香宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
 次、武隈根
  是六人部牛津連等祖也。  ※姓氏としても名前としても他見なし。

十九 久志理彦 ※この辺から連の姓が付けられないのも不自然。
  岩村玉穂宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
 次、床主
  是長井連等祖也。 ※姓氏なら、長井連は他見なし、おそらく不存在か。
 次、津長子
 次、宇津比子

廿 比佐
  桧前五百入野宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。

廿一 志伎布豆
  磯城島宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。

廿二 葛野麻呂
  同御代、為神主奉仕也。 ※廿、廿一、廿二の世代は本来、年代的には一世代くらいのはず。

廿三 大枝
  他田宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
 次、小葱子
  是、為物部伊侶根連妻  ※「小葱子」は女性の名としては不自然。物部伊侶根連も他見なし。

廿四 兄石蟹
  小治田宮治天下天皇御代為神主奉仕也。
 次、弟石蟹  ※推古朝の当時、兄弟でこうした命名はされなかったはず。
  是、同天皇朝廷奉仕也。

廿五 赤江
  明日香岳本宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
 次、瀧雄
  是、近江世多六人部連之祖也。 ※瀬田の六人部連など何ら所見にない。
 次、由比彦

廿六 上野
  明日香板葺宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
 次、春野子
  是、同天皇朝廷奉仕也。

廿七 茅原
  近江志賀宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。

廿八 真上
  明日香清見原宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
 次、船主
  是、近江志賀朝廷奉仕也。世多戦之時、被殺。

廿九 葉手
  明日香清見原宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
 次、与太  ※与太という名も不自然。
  是、為久我連之祖也。 ※久我連という姓氏は他見なし、おそらく不存在。
 次、比佐幾子
  是、依夢諭、為物忌子テ下社ニ奉仕也。

三十 菅生
  大宝年中、為神主奉仕也。

三十一 波多
  養老年中、為神主奉仕也。此時、下上(横に上下と書き込み有り)社荒廃キ。
  於是、波多大歎テ奏請朝廷テ葛野連石伏、忌部首近麻呂、祝部連麻呂等ト倶奉造仕也。 ※この当時でも、山城国に忌部首氏が居た形跡なし。
 次、原上
  是、同御代朝廷奉仕也。
 次、真知遅子
  是、為物忌テ下社ニ奉仕也。後為多治比真人氏守妻、生多治比后也。
   ※氏守は延暦廿三年〜大同元年条の六国史に見えるが(嵯峨天皇妃の父としては、主な活動期は桓武・平城朝頃)、「真知遅子」(名前も年代的に疑問)の活動した年代である養老頃とは年代が全く合わない。
 次、榛川

卅二 横川
  天平年中、為神主奉仕也。榛川子。母曰久豆子。 ※この当時、こうした命名は疑問大。

卅三 真床
  天平勝宝三年、為神主奉仕也。
  母土師子。飛鳥直人主女也。 ※この当時、こうした命名は疑問大。大和国高市郡の飛鳥直との通婚も不自然。
 次、玄通法師
 次、鯖麿  ※『続日本紀』等に見える人物であり、後述する。
  是、同御代朝廷奉仕也。

卅四 永守
  宝亀五年、為神主奉仕也。母曰玉根子、祝部連家人女也。
  此時大宮処ヲ長岡ノ在尾ニ移給時、大宮之地(同、内)神山多カリキ。
  仍奏請其地テ丹波国天田郡細見郷ヲ奉寄給。 ※この当時、細見郷は現れない。
  亦奉種々幣帛給キ。
  延暦四年正月(*後註参照)、天皇参下社・上社給テ奉寄種々幣帛、及神戸五戸給。
  明年十二月、以正五位下山城守大中臣朝臣諸魚為勅使、下社ニ奉授従五位下位、上社ニ奉授正六位下位給。 ※大中臣朝臣諸魚が山城守の地位にあったのは、延暦五年二月までであり、十二月には別人(三島真人名継)に替わっていた。
 次、海老雄
  是、仕坂上大宿祢大将軍テ撃蝦夷之時、殺敵数十人。仍、大宿祢厚褒恵也。
 次、忠麿  ※当時、このような命名は疑問。
  延暦年中、奉仕朝廷也。後為美濃目。移住、厚見六人部連等之祖也。 ※厚見郡の六人部連の起源は遥かに古く、平安初期に始まるものではない。一書にはこの記事は見えない。『三代実録』貞観四年五月には厚見郡人六人部永貞など三人が善淵朝臣を賜姓して、伊与部連・次田連と同祖と見えるから、まさに天孫本紀の尾張氏系図に見えるものであった。
 次、三足
  是、移住丹波国。天田六人部連之祖也。

卅五 豊人
  延暦廿二年、為神主奉仕也。賜姓外従八位下位。
  同廿四年五月死。母曰桜井子。佐伯宿祢東人女也。 ※佐伯東人は万葉歌人で天平頃の人だが、この娘の確認はできないし、名前の桜井子は命名としては不自然。
 次、直見
  是、同御代朝廷奉仕也。
 次、松子
  是、為大中臣朝臣年麿之妻也。 ※年麿という名は六国史にも中臣氏系図にも見えない。

卅六 魚主
  延暦廿四年、為神主奉仕也。外従八位下豊人弟。
  母曰小野子。釆女朝臣老女也。
  大同二年、触伊予親王事、被流伊豆国也。 ※伊予親王の事件は大同元年十月末のことであるが、このとき流罪に処されたのは親王の外戚関係者が主であり、魚主のことは史料に見えない。

卅七 良臣  ※この命名もやや不自然。
  弘仁二年、蒙恩赦、為神主也。
  外従八位下永守弟海老雄子也。
  母曰霍子、久米直大島女也。  ※子は「多」の誤記かもしれないが、命名としては疑問。

(*同、「延暦四年正月」以下は、写本により記事が大きく異なる。一部欠落がある模様だが、それを記しておくと、次の通りである。

  天親王事被流伊豆国也。  ※この事件の発生は疑問。表現が不正確か。
 次、忠麿  ※この命名は疑問。
  同御代、朝廷奉仕。大同元年美濃目也。
 次、鷹子
  是、下社為物忌奉仕也。

卅五 良臣  ※この命名も疑問。
  弘仁二年蒙恩勅、為神主也。
  永守弟海老雄子也。
  母曰子霍子、久米直大島女也。 )

  右撰進本系之事、度々雖被召問、家運遇不祥而及遅延矣。去弘仁三年、更仰官頻促(同、頻召)諸社神主本系。於是、拠家牒旧記、雖欲速撰集、或漏脱而難知、或祝部葛野両氏混淆難辨(同、混乱難別)。漸就両社本記旧記撰定之。進上如件、謹解。

  弘仁八年七月廿八日
無位六人部連良臣(同、六人部連無位良臣  ※位置がおかしい

  此書、相伝之家本者依虫喰難読、今度新写畢。努々不可出家門者也。
    慶長十年乙巳十一月三日  従五位下伯耆守正長
                     (同、此書以下の記事なし) 


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