名草神社
兵庫県養父市八鹿町石原字妙見1755-6 妙見山中腹 google

参道から見える三重塔



交通案内
八鹿駅から石原までバス、以降は2時間の登山。

祭神
『養父郡古事記』
天御中主神、高御産霊神、神御産霊神、五十猛神(亦名大屋津彦命)、大屋津姫神、抓津姫神

『但馬式社考』
主神 名草彦命

配 天御中主神、高御産霊神、神御産霊神、日本武尊、御祖神、比賣神

鳥居と石段

由緒
  社伝等によれば、敏達天皇十四年(585)、紀伊国名草郡出身の養父郡司であった高野直夫幡彦が当時流行した悪疫に苦しむ民を憐れんで、故郷の祖神を石原山(妙見山)に祀ったのを創祀としている。
 名草彦命は『旧事本紀』によれば、紀伊国造智名曽の娘の中名草姫の御子であり、当然の事ながら紀の国に多く鎮座している祭神。紀の国以外では以下の通りで、当社(妙見さん)からの勧請社も見られる。
京都府熊野郡久美浜町口馬地若宮 三社神社摂社稲荷神社
兵庫県豊岡市日高町野字引坂 北山神社(妙見社)
兵庫県豊岡市日高町観音寺字奥郷 馬止神社
兵庫県朝来市和田山町宮内 盈岡神社摂社妙見社

 祭神については名草彦神と五十猛神のどちらかか、と言うことに関心が向くのだが、一体名草彦神とは紀伊国造の孫であって、何をしたのか不明だが祖神として祀る、と言ったものではなかろう。名草の男神であり、五十猛神と考えるほうが自然。ましてや疫病除けであれば、素盞嗚尊がいいのだが、そこは名草の人、御子神を祀ったと思われる。

 平安末期より祭神中に星の神北辰とされる天御中主神を以て、神仏習合の妙見信仰の場となり、両部神道の典型を構成した。本地垂迹説である。

拝殿
桁行五間、梁間二間、割拝殿入母屋造檜皮葺
棟札に元禄元年(1688)五月から同二年
六月にかけて建立されたと伝えている。本殿
と庭をへだてて相対し、がけの淵に立っている。
柱は円柱。組物は出組で軒支輪をつけている。
中央間馬道の上部には大虹梁をかけ、中備えに
蟇股を置いている。組物、木鼻などは古調で見
るべきものがあり、保存も完好である。
江戸時代中期の代表的な割拝殿として貴重な遺
構である。  兵庫県教育委員会

庭から

お姿
 登りに登ってやっと到着、標高800mであり、そこへ小雨とガスのお出迎え。
 登り口には名草神社と刻まれた大きい石碑があり、砂利道を登っていく。ガスに煙った三重塔が浮かび上がって来る。重要文化財(国宝)である。元々、出雲大社に建てられていた塔を大社建築用の杉をこの山から提供した返礼に出雲から運ばれてきたと伝えられている。出雲には大永七年(1527)、当地には寛文五年(1655)。

 三間三重塔婆を過ぎると幅の広い石段が現れる。大きい鳥居の向こうに拝殿が見える。

 石段を登りきると本殿が登場する。息を呑むお姿。
 宝暦四年(1754)に造営されている。正面が九間、側面が五間、向拝付入母屋造で、屋根はこけら葺で正面に千鳥破風と軒に唐破風が付いている。向拝の両側の柱には口を押さえた獅子と耳を押さえた獅子、その上の軒下には力童子などの彫刻が多い江戸時代の神仏習合の神社建築である。

 参道には至る所に大きい杉の木が生え、恐らく雨の多い山のように思われる。紀伊国名草郡出身者なら、このような山を好むのは判るような気がする。

本殿

 

三重塔

お祭

 例祭  7月18日
 秋祭 10月13日

本殿の彫刻−力童子と獅子(パンフレットから)

本殿の彫刻−口を押さえた獅子(パンフレットから)

参考
「名草神社」の創建(出自)について、 『式内社調査報告』、『名草神社パンフレット』

五十猛命ホームページ

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