埼玉県入間市仏子942 ゼンリン
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大屋毘古之命は字中島の家忠社に祭られていたと境内の由緒板に刻まれていた。家忠は金子家忠で平安末期の武将、武蔵七党村山党・金子氏の出、源義経に従軍し、その功績で武蔵国金子などの地頭を勤めた。入間郡に白髭神社を創建したと伝わる。また氷川神社とも関係があったと云う。ここからは神奈備の推測だが、『古事記』には、大屋毘古之命が斐王子(大己貴命)を助けた話が載っており、その書は江戸時代までは公開されていなかったようだが、話の中身は語り伝えられていたのではなかろうか、それで家忠は大屋毘古之命を祀ったのではなかろうか。不思議なことに五十猛神と異名同神とされる大屋毘古之命をこれだけ祀っている地域はなく、また氷川神社がこでだけ多い地域も当地しかなく、何らかの関連があると思われるが、いかがなものだろうか。 明治に入り、村社を定めるに当って、前記の六社中で最も規模の大きかった天王社を八坂神社と改称の上、村社として仏子全体で祀るようになった。
お姿
お祭
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氷川神社と金子十郎家忠 石井敬三 武蔵武士として鎌倉時代に謳けれた七党の中で、村山党に属して勇名を馳せた金子十 郎の一党には、金子氏を始め村山、宮寺、山口、黒須、荒波多、仙波、難波田、大井の諸士が相次いで蹶起し、其の内で も七党中随一と云ばれた金子十郎家忠は、弟の近範と共に関東武士の花であった。保元、平治の乱に次いで源頼朝の挙兵 に参加して至る処に軍功あり、治承四年の秋頼朝が北条時政の力を借りて兵を挙げ、石橋山に敗れて遂に房総に逃れ、千 葉氏の救援を求めて武蔵領に入り、時に畠山一族は重忠の父重能並に叔父小山田有重等ば京都に在ったが、金子十郎等と 共に彼の有名な相州衣笠城に三浦義明を攻め立てた。
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