八坂神社
埼玉県入間市仏子942 ゼンリン

鳥居


交通案内
西武池袋線 仏子駅 北東500m



祭神
素盞嗚命
 合祀 猿田彦命、武御名方命、大屋毘古之命

拝殿



由緒
『新編武蔵風土記稿』を見ると、地内には白髭社・家忠社・第六天社・御霊社・諏訪社・天王社の六社があり、「以上の六社、皆村中の鎮守なり」と記されており、当時は、集落ごとにそれぞれの鎮守として、これらの神社を奉祭していたものと思われる。

 大屋毘古之命は字中島の家忠社に祭られていたと境内の由緒板に刻まれていた。家忠は金子家忠で平安末期の武将、武蔵七党村山党・金子氏の出、源義経に従軍し、その功績で武蔵国金子などの地頭を勤めた。入間郡に白髭神社を創建したと伝わる。また氷川神社とも関係があったと云う。ここからは神奈備の推測だが、『古事記』には、大屋毘古之命が斐王子(大己貴命)を助けた話が載っており、その書は江戸時代までは公開されていなかったようだが、話の中身は語り伝えられていたのではなかろうか、それで家忠は大屋毘古之命を祀ったのではなかろうか。不思議なことに五十猛神と異名同神とされる大屋毘古之命をこれだけ祀っている地域はなく、また氷川神社がこでだけ多い地域も当地しかなく、何らかの関連があると思われるが、いかがなものだろうか。

 明治に入り、村社を定めるに当って、前記の六社中で最も規模の大きかった天王社を八坂神社と改称の上、村社として仏子全体で祀るようになった。
 「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より

本殿


お姿
 仏子駅に近い四角い敷地に鎮座している。境内周辺は桜・樫などの木々が取り囲んでいる。本殿は東向、

八坂神社由来


お祭
例祭  7月 15日に近い日曜日 天王祭 仏子囃子が有名。

『武蔵野史談』 1956年6月

氷川神社と金子十郎家忠  石井敬三

 武蔵武士として鎌倉時代に謳けれた七党の中で、村山党に属して勇名を馳せた金子十 郎の一党には、金子氏を始め村山、宮寺、山口、黒須、荒波多、仙波、難波田、大井の諸士が相次いで蹶起し、其の内で も七党中随一と云ばれた金子十郎家忠は、弟の近範と共に関東武士の花であった。保元、平治の乱に次いで源頼朝の挙兵 に参加して至る処に軍功あり、治承四年の秋頼朝が北条時政の力を借りて兵を挙げ、石橋山に敗れて遂に房総に逃れ、千 葉氏の救援を求めて武蔵領に入り、時に畠山一族は重忠の父重能並に叔父小山田有重等ば京都に在ったが、金子十郎等と 共に彼の有名な相州衣笠城に三浦義明を攻め立てた。
 竪固を誇る城中には三浦大介義明を始め義澄父子和田義盛等がゐて容易に落城せす、数日の中に途に畠山等の丹党 ば悉で破れ去った。其の時金子十郎が進み出く、三百余騎を卒ゐて陣頭に立ち、二日にして一の城戸を破り、あと二日に して二の城戸を撃ち、遂に堅固の衣笠城を攻め落した。時に治承四年十月十六日のことゝ言ばれてゐる。家忠ば此の功に 依り頼朝より武州金子郷ば勿論のこと、武総の地に地頭職を賜はり、戦ひ終って武蔵郷に入り、此の意気揚々たる馬上姿 で手兵僅か数人を引具して戦勝の御礼と武運の長久を祈願する為めに氷川神社に参籠してゐる。此の日治承四年十二月二 二日と古記に誌されている。
 氷川神社の−の鳥居より駒を進めて神苑に馬を降り、丸に鯱抱合せの紋所を着飾り、弓矢、太刀、道具を小脇に抱 え込んで御神前に額づき、神明に武運の加護を祈ったことであらう。折から冬の北風強く吹き出して神前の燈明が立ち消 え黒々と幽暗の中に身を置き替へた。其の時不思議にも宝前に白髪の老師が暗闇の中に立つて手に燈明を携へて金子氏の 前に進み出で燈火を貸し与えた。家忠け風の中を退って馬の継ぎ場所の大杉御神本の所迄戻り、馬の鐙を外して風をよけ 油に燈火を点けて、再び奉拝して元の駒継ぎの場所造帰りかけると、叉其処に最前の老師が無言のまゝ佇んでゐた。家忠 は辞を低くして御老師ばいづれの御人かと訊ねると、わしば武州大成村の普門院の寺僧ぢやと答え、誘ひ込むやうに家忠 の袖を引いて、貴公を是非御妨に御案内したいと申出でたので、家忠もせかれるまゝに巳むなく、老師と共に氷川神社の 裏山づたへに小径に出て土手村を通つて大成村に辿りついた。
 馬の手づなを握ったまゝの家忠ば寺坊の庭に出て、異様なまなざしで寺の隅々を睨むやうに見入ってゐた。老師ば 丁寧に仏前に案内した。家忠ば小坊の饗なしに答へるやぅに粗茶を飲みほした。夜け更けて凍てるやぅた冬の夜更けだ。 此の夜老師と金子十郎家忠が何を語り合つたかは詳かでない。遂に家忠け禅寺普門院の開基の役を承り今日に至つてゐる 。開基家忠ば武州馬宮村に寺房を建立し、此処に二ケ年移住して入間郷金子圧に帰って、武蔵武士のものゝ憐れを知つた のであらう。其の後数年を経て金子庄に木蓮寺瑞泉院を建立し、当寺の開基として今日に至つてゐる。
 普門院の老師が果して彼の月江上人であったかは詳かでない。叉家忠存命中に氷川大社に鐙(あぶみ)神明燈一基 を奉献してゐるが、私共も此の由来を知らすに幾度か見てゐるが、戦争後御神苑に見当らないので、此の由緒ある御神燈 の所在が今以って惜しく思はれてならない。
 以上

武蔵の五十猛命
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