熊野神社
神奈川県横浜市神奈川区東神奈川1-1  ゼンリン

鳥居

交通案内
JR東神奈川駅下車 南へ300m



祭神
国常立尊、伊邪那岐命、伊邪那美命
合祀 天照皇大神、素盞鳴命、大己貴命、少名彦名命、武御名方命、五十猛命、大物主命、倉稲魂命、速玉之男命、船玉之神

拝殿



由緒
 創建は寛治元年(1087)六月、醍醐三宝院勝覚僧正六十八代が紀伊国牟婁郡熊野坐神社を分祀、神奈川権現山に勧請、熊野三社大権現と号す。天正十年(1582)徳川家康公武州小机領神奈川郷の内御朱印高一〇石を賜う。正徳二年(1712)別当金蔵院の境内に遷し奉る。明治一七年郷社に列す。(『神社名鑑』昭和三十六年)
 権現山は北条早雲が上杉為影(謙信の父)と手を結び、武蔵に侵入した時、上杉側は権現山に城を構えた。

 拝殿に合祀社名が貼られている。金刀比羅社、大鳥社、稲荷社、香取社、鹿島社。

本殿


お姿
 金蔵院の前の道を通り、南側に回る。狭い道に南向きに鎮座。
 朱色の社殿は戦後の再建。御神木の公孫樹(いちょう)の古木が残っているとの説明板があるが、どれかはよくわからなかった。

 永享五年(1433)の『熊野那智大社文書』に「武蔵国かな川のゑとやのふるい」などを紀州熊野の実報院へ売却したことが記載されている。

真言宗金蔵院

お祭
 8月 17日 例大祭

由緒 平成祭礼データから

御由緒概要

 当社の御創建は、寛治元年六月十七日(一〇八七年)に醍醐三宝院宮勝覚僧正が、紀伊国(和歌山県)牟婁郡熊野に坐す熊野権現(官幣大社熊野本宮大社)の神霊を分祀、神奈川権現山(現幸ヶ谷山上)に社祠を創立、神奈川郷の総鎮守として、熊野三社大権現と号し奉る。
 口碑によれば、後三年の役に、源義家公、社参せられ、帰途再び当地に立寄られ、この地を幸ヶ谷と名付けられたと伝へられる。
 その後、応永五年、山賊等のため社祠を焼かれ、僅に草祠ばかりが存していたが、明応三年六月(一四九四年)、上田蔵人が普請奉行となり、宏壮なる社殿が再建せられた。
 又、永正七年六月二十日(一五一〇年)、権現山合戦の砌、兵火に罹り、烏有に帰してしまった。 次で、天正五年六月(一五七七年)、時の別当恵賢僧都等が相はかり社殿を建立し奉る。
 天正十年七月、徳川家康公北条氏を御坂黒駒に討ち給いし時、別当が社前に侍し、秘法を修し奉りしことなど、徳川家との関係深く、別当金蔵院に武州小机領神奈川郷の内、御朱印高十石を賜ったので、代々登城し、御祈祷の宝牘(ほうとく[おふだ])を献上し奉ったと伝へられる。
 その後、正徳二年六月(一七一二年)、山上が逐次崩壊により、別当金蔵院の現地へ遷し奉り、旧地には小祠を安置し、社地三反八畝十歩を有していたが、明治四年、之を上地す。
 慶応四年一月七日(一八六八年)、神奈川大火により烏有に帰したが、逐時再建整備し、明治十七年に郷社に列せられ、明治四十年四月、神饌幣帛料供進社に指定せらる。
 昭和十一年八月、御鎮座八百五十年祭を斎行、二十数台の山車が町内を巡行し、盛大なる祭礼が繰りひろげられた。
 昭和二十年五月二十九日、戦災により焼失、剰え、境内地をも駐留軍に接収せられたるため、やむを得ず西神奈川一丁目(二ツ谷町共有地)に遷座、仮殿にて奉祀す。
 同二十七年八月、宮神輿を奉製、その後、接収解除となり、再建復興に努め、同三十八年八月、現社殿を完成。遷座祭を奉仕し、玉垣、社務所を整備、翌三十九年八月、竣工奉祝祭を執行した。
 その後、四十一年十一月、地区内戦没者慰霊碑を建立、同四十九年八月再建十周年記念事業として、舞殿並に氏子会館の増改築工事を完成した。
 昭和六十一年、御鎮座九百年祭に当り、記念事業奉賛会を結成し、氏子二十四ヶ町の氏子並に崇敬者各位の熱誠奉仕により、御社殿の修復、手水舎の新築、神輿、神輿庫の修理増築、参道敷石、氏子会館の修理、裏門〆柱等を完成し、社域の整備を達成した。謹んで御事歴の概要を誌し奉る次第であります。
以上

武蔵の五十猛命
五十猛命ホームページ
神奈備にようこそ