曽尸茂梨(ソシモリ)考



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『日本書紀』
『日本書紀』の神代上紀の本文は、素盞嗚尊は高天之原から出雲の国の、簸の川のほとりに降りている。
一書(第一)高天之原から出雲の国の、簸の川のほとりに降りている。
一書(第二)高天之原から安芸の江の川のほとりに降りている。
一書(第三)略
一書(第四)
 (天岩戸事件の引き金になった)素盞嗚尊の行いはひどいものであった。 そこで、神々が、千座の置戸の罪を科せられて追放された。この時素盞嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨(ソシモリ)の所においでになった。 そこで不服の言葉をいわれて「この地には私は居たくないのだ。」と。 ついに土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。(大蛇退治へ・・・)
一書(第五)素盞嗚尊が言われるのに、韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。
 

諸説の紹介

1.高い柱の頂上説
   韓国の宗教文化研究院長の崔俊植梨花大学教授の説(平成神道研究会主催での真弓八坂神社宮司の講演の中で紹介)*4
「ソシモリというのは、地名ではない。「ソシ」は「高い柱」、「モリ」は「頂上・てっぺん」の意味、したがって、「ソシモリ」は「高い柱の頂上」という意味だ」。 「牛頭天王の「牛」は「ソ(シ)」という音にあたる漢字の牛を当てはめただけ。」という。
 牛頭天王を祀る八坂神社宮司は学者として「ソシモリ」の場所の可能性を広く求められておられる。 氏は新羅降臨後「ソシモリの所においでになった」と敢えて「所」を入れてあることへ注目される。単なる地名なら「ソシモリにおいでに」で良い訳で、やはり「ソシモリ」とは聖地を形容する普通名詞だったと言うことだろう。
 さて『日本書紀』の書かれた8世紀の日本列島で離されていた言葉と韓半島で話されていた言葉がどの程度違っていたのかは不明である。一体「ソシモリ」とは何語であるのかは特定できないと云うことだ。
 

2.高霊説
 韓国慶尚北道高霊の郷土史研究家金道允氏は、高霊にはその昔「ソシモリ山」と呼ばれていた山が実在していたという。その山は高霊の現加耶山である。加耶山とは、仏教が伝わって以降の呼び名で、古代には「牛の頭の山」と呼んでいたそうだ。 「牛の頭」は韓国語のよみで「ソシモリ」。その山が「牛の頭の山」と呼ばれたのは、加耶山麓の白雲里という村の方から見た時、山全体が大きな牛が座っているように見えるからだという。
 さらに白雲里には「高天原」という地名まである。
 
 高霊は洛東江の上流にあり、伽耶の奥座敷と言える。562年新羅はこの地を併合したが、ここは南朝鮮有数の鉄の産地であった。 新羅は半島の鉄資源を独占することになり、後に半島を統一する力を得たのである。軌を一にして日本でも製鉄が盛んになりはじめる。伽耶と任那は一体で、倭国との人的交流の多い地域であった。
 素盞嗚尊は『日本書紀一書(第五)』で「韓郷の島には金銀がある」と敢えて言っているのは、この高霊の地に坐したことを強く示しているように思われる。 一書(第四)と並べて記載されているのだが、これは第四を受け継いでの話と短絡してはなるまい。もう一つの伝承があったと云うことだろう。
 

3.春川説
 故金達寿氏は『日本の中の朝鮮文化4』の「伊太祁曽から隅田八幡へ」の中で、曽尸茂梨とは朝鮮の江原道春川にある、元新羅の牛頭山の事である。と一つの説を紹介する。
 また八坂神社の真弓宮司は『新撰姓氏録』八坂造の項に「狛国人の之留川麻乃意利佐(シルツマノオリサ)」とあり、春川には古くから狛国があったことを指摘されておられる。 斉明天皇二年に来日した狛人81人は春川の狛人ではないかとの仮説を出されている。三韓覇権争いの地であり、その頃の高句麗の南下で、狛人の亡命が想定され、それに該当するとの見方である。
 
 「ソシモリ」が古朝鮮語のよみで牛頭であったならば、牛頭山に比定されるのは不自然ではない。牛頭天王と素盞嗚尊が記紀編纂の頃には習合しつつあったとすると有力な説と言えよう。 また、八坂造の出自が春川の狛国との仮説も、「ソシモリ」春川説が成りたてば、八坂神社創建の由緒にも関わる重要な仮説となる。
 

4.首都説
 金達寿氏は定説としては、尸は助詞で、曽尸茂梨の曽茂梨とは新羅の原号であった徐羅伐[ソラブル]すなわち「ソの国のフル」の意で、現代語のソウル(首都)の事である。慶州とする説を紹介されている。
 新羅の首都なら他の文献にも出てきても不思議ではない。ましてや徐羅伐であるなら徐羅伐と記せばいい。徐羅伐でないから曽尸茂梨と記したと思うがどうであろうか。
 岩波文庫の注釈によれば、平安時代の貴族の『日本書紀』の勉強会で、惟良宿禰高尚がソシモリを今の蘇之保留と解説し、此説甚可驚云々としている。同時に岩波文庫は「徐羅伐を sio-ia-por として、 sio は金、ia はある所、por は日本語のフレ、村の意として、金のある村と言う意味の古語とする。 新羅も「シラ」を金、「キ」を部落として同義としている。こうなれば高霊説と似てくる。
 

5.済州島説
  泉州の日根郡に遠祖を持つという日根輝己氏は、『倭国・闇からの光』の中で、済州島の東の洞窟のある小島にある山が「ソシモリ」と呼ばれていることを紹介しておられる。 氏は先ず祇園祭りの山鉾巡行のルーツを南インド・タミール地方のクマーリー信仰に置く。少女を祭主とする民俗行事だそうだ。このクマーリーを祀った有名な寺がインド最南端のコモリン岬にあり、ここの牛頭山のルーツであるマラヤ山があるとのこと。 『大唐西域記』にマラヤ山について「高い崖に嶮しい峰、洞穴の様な谷に深い谷川がある。」などと記されている。このような景色は日本では熊野地方(花窟神社)や南朝鮮の海岸、済州島の東の小島などがよく似ていると指摘される。 逆に言えば、山中の春川や高霊はこの景色に当たらないとされておられる。
 クマリと熊野のつながりは面白い。 また牛頭天王はインドの仏教の守護神であるから、仏教との関連を抜きにしては考えられない。興味のある説だと思う。
 

6.国内説−渡来して来た朝鮮民族の部落−
 橋本犀之助氏の『日本神話と近江』から。曽尸茂梨は熊曾、筑紫の曾及び紫をとって曾紫すなわち曽尸としたもので、茂梨はすなわち森、森は叢で、村の意味であると見る可く、 斯くして書記の一書に現れた「新羅曽尸茂梨」は新羅の曽尸茂梨と云う土地を指しているものではなく、新しく渡来して来た朝鮮民族の部落や熊曾や筑紫の村々と云うように之を解釈しなければならない。
 熊曾の曾、筑紫の紫をとる理由が解らない。筑紫は後に筑前筑後と分けられたが、紫前、紫後にはなっていない。熊曾の場合は、熊の国と襲の国があったが、筑の国と紫の国があったのだろうか。


7.国内説−対馬− 出典忘却、調査中。比較的穏やかな人柄を思わせる韓国人の著述だったと記憶する。


8.桓雄降臨地説
 HP神奈備にようこその一つの仮説である。HPでは桓雄檀君と素盞嗚尊五十猛命が習合したとの考えに興味を持っている。故郷の氏神様が半島系であるとの認識は決して愉快なものではない。これは乗り越えるべき感情である。それはさておき、本論に戻って、従って桓雄降臨の地が素盞嗚尊五十猛命降臨の地であるソシモリであると考える。 五十猛命の本宮は伊太祁曽神社であるが、「太祁」は半島の開闢神の檀君(ダンクン)ではあるまいか、檀君に偉大さや威力の「イ」を付けて「伊太祁」が出来る。 この名前の神社は伊太祁曽神社を勧請した愛媛県の伊太祁神社の名前として残っている。出雲にいくつか鎮座する韓國伊太神社の「イタテ」にも通じる。 伊太祁曽の「ソ」は祭壇のような意味があると云われる。伊太祁曽神社の伊太祁曽をして「威力ある檀君を祭る祭壇」と考えることができないだろうか。 紀氏が渡来人を束ねるに檀君を祭ることは必須ではなかったかと考えているのだが、世俗的に過ぎるだろうか。
 桓雄降臨の神話は十四世紀初頭に高麗の一然と言う坊主が編集した三國遺事の古朝鮮條に記載されているが、モンゴルに支配されていた半島民族を鼓舞する目的で構想されたとの見方もあるが、福岡県添田町の英彦山にもよく似た伝承が伝わり、単なる創作だとは思われない。
 この檀君神話によると、桓因の子神の檀君の父親神桓雄が、三危太白すなわち太白山の頂きに祀っていた神檀樹という神木の下に天降ったとある。太白山のある場所がソシモリと言える。 三国時代には新羅に五岳ありと言われ、白頭山、妙香山、阿斯達、太白山、摩尼山がある。江原道太白市に太白山がありその頂きに天皇檀があると言う。「太白」とは、呉の始祖を思わせるではないか。  仁川広域市の江華島に摩尼山がある。古くはモリ山と呼ばれていたと言う。意味は頭もしくは高い所だそうだ。*1
 檀君朝鮮の発祥の地は今の満州であり、ここの白頭山が本来の聖山であったが、これが半島に伝わり太白山が擬せられたようである。
 桓因・桓雄・檀君神話は神話である。伊弉諾尊、素盞嗚尊、五十猛命に対応しているように見える。 今の所、いかなる説も成り立ちうるし、正しいとする論拠はない。幾つかの答えが考えられるが、決め手はなさそうで、邪馬台国論争と似ていると云うか、神の降臨地であるだけに、邪馬台国より難しいのではないか。

9.神奈備の迷い

 HP神奈備にようこその第二の仮説である。
 蘇途と言うものがある。木に木製の鳥形をつけて、村の入り口に置き、悪霊を防ぐ、聖なる境界を現すもので、半島南部に多く祀られていたと言う。日本の鳥居か道祖神に相当するのであろうか。南洋では鳥杆と云うが、ルーツは同じだろう。
 『魏志馬韓伝』に次の様に記載されている。蘇塗を中心としての聖地にはアジール性(駆け込み寺みたいな)があるとする。逃げ込んだ者は守られるゾーンで、他界の掟は通用しなかったのである。

 素盞嗚尊は高天原を追放されたのであるが、なおソトの中に逃げ込んだとは言えないだろうか。五十猛命はチャッカリ、高天原から樹種を持ち出している。追放の身のものに持たせるであろうか。日本全体を青山になした量である。 高天原でも見逃すわけにはいかなかったはずである。追っ手から逃れる為には駆け込み寺がうってつけだったのである。

 ソシモリ、ソシは蘇塗で守られたの意、モリは神聖な場所で、日本では神社の社域ではなかろうか。ソシモリの所との表現は、そのような意味であったろう。


10.樹木神話

 素盞嗚尊、五十猛命の樹種神話から来ている話であり、木の種類と用途として、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。 用途として杉と樟は船、檜は宮、槙は寝棺を造るのに良いされた。 「ソシモリ」には種を播いた訳ではないが、これらの木々が生えている地域であるのではないか。そう考えると楠の木は半島の南端か済州島あたりになろう。

 実はソシモリの話は神話である。素盞嗚尊・五十猛命と云う人間がいて、彼等が降臨したのではない、と云う事だ。 素盞嗚尊が降臨するとは、どう云うことか、である。神としての素盞嗚尊が巫子に託宣する、これが神の降臨ではあるまいか。 その巫子の言葉が記録されているのが神の物語である。巫子は王に仕えていたはずであり、その王が時として神と見なされたのであろうか。




*1 韓国・檀君神話と英彦山開山伝承の謎 海鳥社
*2 日本の中の朝鮮文化3 金達樹 講談社文庫
*3 倭国・闇からの光 日根輝美
*4 祇園信仰 真弓常忠 朱鷺書房


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