白山神社
福岡県糟屋郡久山町大字久原字松浦188 ゼンリン


鳥居

交通案内
博多駅からJRバス 山の神



祭神
五十猛命


拝殿


由緒

 創建年代は不詳であるが、往古より鎮座ありしことは古老の口碑に伝えられる。
 伝説に言う。聖武天皇の天平四年(732)僧源通が勅命を奉りとて社殿を造営、二世源信を経て累代殷盛を極める。春冬両度の大祭は荘厳であった。毎年三月一日より十月までは特に皇室の安穏国家鎮静の祈祷をおこなった。
 元弘建武の兵乱を受け、且つ寺坊中互に闘争し悉く灰燼に帰した。天正十四年、薩摩の兵火に罹り、民は小祠を営んだ。
 大正十三年、許可を受け、同村山の神の山神社「大山祇神」を合祀、同時に字花の木原より現在地に移転したと言う。

 また、社説の云う。白山の宮、本地は百済国より虎の乗って天平二年(730)に来朝し、当山に地を示した。その後、天平四年、聖武天皇源通和尚に詔あり、当山に建立し、二世源信和尚累代繁昌した。
 観念観法の巖あり、続に源通岩と云う。竈山より峯入りの節は今に二夜三日の祈願あり。乗り捨て給う虎の猛威に恐れて郷人弓箭を以て是を害せしが、其の首より光明輝き、化身を顕しければ、首を羅物に包み埋めし所に十一面観音菩薩を安置す。之により、首羅山頭頂上の本殿には春秋の祭礼ありて帝国安穏国家鎮静の祈祷ありき。
 本社宮造は直ちに紫宸殿を移し賜い、十五間四面の講堂ありて、毎日無量寿経を読誦し給う。

 首羅山頂に鎮座していた頃は白山大権現と呼ばれており、僧坊は三百を越えたと言われる。僧坊が互いに争い、五十坊を残し焼失した。それも天正十四年(1586)島津勢に焼かれてしまい、再建されることはなかった。


本殿


お姿

 博多駅前から山の神まで約45分。バス停から鳥居が見える。西向き。山裾まで少し登る。赤茶色の土壌。


お祭り

  

参考 『平成祭礼データ』、『福岡県の地名』、『福岡県神社誌』

九州の五十猛命
五十猛命ホームページ
神奈備にようこそ