稲佐神社
杵島郡白石町辺田2925 its-mo


二の鳥居


交通案内
JP竜王駅 西側

祭神
天神(てんじん)、女神、五十猛神、大屋津比賣之神 配 聖王神、阿佐神

社殿

由緒
 式外社。大同二(807)年創祀。三代実録に貞観三(861)年従五位下とある。
 西国寺社奉行伊豆藤内の『稲佐大明神、神者人王三十代欽明天皇之朝、附国百済聖明王、為明王為新羅之冦所殺也、其世子余晶並弟恵等数十人率妻子従族而来、于我朝』(肥前国誌)とある。
 余晶が父の遺骨を稲佐山(杵島)山の山頂に葬り、帰化して稲佐大明神として祀ったという。
 上記由緒は、配祀の神の説明である。

 『消された覇王』(小椋一葉:河出書房新社)に五十猛が半島から帰国時着岸した海岸が、稲佐山麓八艘帆ヶ崎(はすぽ)と記されている。この言い伝えが実際にあったとすると当地は五十猛命の上陸伝承の地と言うことになる。

八艘帆が崎の説明板から引用する。

八艘帆が崎(はっすぼがさき)
 古代海中に浮ぶ杵島山の山麓東南に二大良港があり、 一は竜王崎、二は八艘帆が崎である。

一、口伝によれば稲佐大明神着岸のところを焼天神と伝えている。

二、神代の時、素盞嗚尊の子、五十猛命は孤津、大屋津命と共に韓地より樹種を持ち帰り、この岬に着岸され全山に植林せられたと言われている。

三、稲佐山累縁記によれば、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命に依り、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる。 一を北の御所と言い、一を太子庵という。この岬に八艘の帆を埋没したので、その後八艘帆が崎と言う。

四、平城天皇大同二年、空海上人(弘法大師)帰朝し、ここ八艘帆が崎に上陸、太子庵にて稲佐山開創の事務を執らる。  補、焼天神の地域は、八艘帆が崎と同じである。

平成四年四月吉日   御即位大嘗祭記念
                 稲佐文化財委員会
引用終わり


 一方、ごく近くの妻山神社がどうやら豊前国辺りからの勧請らしいのに、この稲佐神社が勧請社ではなく、五十猛命の上陸伝説地というのは面白いことである。

 佐賀県神社誌(縣社 稲佐神社)から
 古来、杵島郡の東部白石諸郷の鎮守にして、杵島山中の一峰稲佐山の半腹にあり、往古は同山南の尾向横平山に在しと傳ふるも、鎮座年代久遠にして之を詳にせず。社伝に曰く、鎮座大神は天地剖判の代草木言語の時、天降りまして、国家を造立し給ひし天神及び五十猛命の神霊にして、後世推古天皇の御宇、百済国の王子阿佐来朝し此地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。其の後、里人阿佐の霊を合祀して稲佐三社と云へり。 大同年中(806〜)釈氏空海、神託を蒙りて当山を再興すと伝え、又、推古天皇十五年聖徳太子の命を奉し、大連秦河勝、当国を巡察し、田畑を開拓すること、十萬、大いに稲佐神社を尊崇す、又聖徳太子は聖明王の佛教伝来の功を追誉せられ、河勝に命じて同父子の霊を稲佐神社に合祀せしめ、大明神の尊号を授けられたりとも伝う。

 徐福が不老不死の薬草を探しに来たとの伝承が残る。(角川歴史地名辞典)

 杵島山は佐賀藩の御猟場となり、里人の立ち入りが許されず、杵島山についての古伝承は殆ど失われたが、五十猛神がこの山に樹木の種をまいて繁茂させ、「木の山」と呼ばれたと云う話は伝えられて来た。(平凡社 地名辞典)


お姿

 山の中腹に鎮座、相当な登りである。社殿前の鳥居の前には流鏑馬神事を行う無舗装の道がついている。

 杵島山風土記逸文によると、杵島山には南西から北東にかけて三つの峰があり、南西の峰を比古神、中の峰を比売神、北東の峰を御子神と称すという。御子神は別名軍神とも呼ばれ、この峰が鳴動すると戦いが始まると言い伝えられている。

 神仏混淆で盛んな頃は六十坊を数えたと言う。

 樹齢600年の大楠がある。
 鎮座地の辺田村の宇名は一本松、二本松、・・、五本松といかにも海岸風でもある。 この平野部分は往古はムツゴロウの天下であったのだろう。
 稲佐山の所々に波が削ったと思われる岩が残っているそうである。

楼門

鐘楼

お祭り
  10月18日19日 秋季例祭 流鏑馬神事

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