伊太祈曽村周辺の古代の歴史


先住民と渡来人
上代の伊太祈曽のある平野は浅い海で良い入り江をなしていた。 伊太祈曽の東1km、西3kmに旧石器時代の大池遺跡と鳴滝遺跡がある。 またすぐ西の吉礼には縄文中後期の貝塚が出ている。
水位が下がり、人が住めるようになるのはこの縄文中期頃かと思われる。 人種を特定する史料は出ていないが、縄文人であるので後世いわゆる土蜘蛛、国栖と称される人々であったろう。 縄文晩期人骨には顔に朱を塗ったり抜歯したものが出土しているが、イタキソはカンボジヤ語で「顔に絵の具をぬった人」の意があるとの説もあり、性格穏和な所は基礎人種は南方系とできよう。
伊太祁曽神社には山祇社があった。これは南方系を思わせる。 また里神社、天神社、牛神社など祭神不詳なれど神祭りは古来より行われていたようである。多くの小祠があったようである。 その後も伊太祈曽へはいろんな人々がやってきたと思われる。これは紀の国へ来たと思われる氏族を神社祭神などから推測するしかない。

 浮き宝の神ともされる伊太祁曽神を信奉する人々である。 楠の木は船材にうってつけである。腐敗しにくく、かつ巨木になり、丸木船には良い。南方系の木である。 海人族が来ている。安曇族、綿津見族も来ていたかもしれない。

 巫女の原始的姿げあったろう中言神であった名草姫はまさに名草郡にしか見えない神である。 最古の住人の出であろうか。それとも紀氏が祖神としている所からツングース系であろうか。

 ミズガネ採取の丹生一族は高野山に着いているが、伊太祁曽の側の木枕に丹生神社があったとの事で、やはり来ているのだろう。伊太祈曽の土壌も少しは赤いようだ。

 伊太祁曽神を韓国とのつながりの強い五十猛命に習合させている所から見ると筑紫や出雲への半島系渡来人の子孫が移ってきており、主要な役割を果たしたのであろう。 その間にも漢韓からの直接の移住者もあったろう。木枕の地名は高麗座コマクラを思わせる。 八十神の迫害から逃れた大国主命が木の国に坐す兄神の五十猛命を頼り来た伝承は出雲との強いつながりが窺え、また木種播布の神話は島原半島を五十猛島と云う事や筑紫の基山に五十猛命の木を植え始めた伝承が残ることから強いものがあったと思われる。

 豊富な木材資源を求めて加工の技術を持つ後に忌部氏と呼ばれる一族も来ているはずである。対岸の阿波からであろう。

 最後かどうかは別としていわゆる天孫族が支配者として乗り込んできていよう。その伝承が神武東征神話として名草戸畔を誅すと記されたのであろう。 大和王権の紀の国の支配譚である。紀氏は支配された地元の豪族なのか、支配者として乗り込んできたのか。どうも後者のように思えるが確証はない。



伊太祈曽からは直接には縄文遺跡や弥生遺跡は出土していない。
奧須佐古墳 奧須佐には峯古墳と呼ばれる竪穴式石槨が見出されている。古墳中期で今から1,500〜1,600年前に当たる。 この古墳については伊太祁曽神社の奧宮司家に伝わる伝承が興味深い。 垂仁天皇十六年伊太祁曽三神が日前檜隈宮より山東亥の森に遷座の際、奧家の祖種彦が之に供奉してきた。種彦の子若彦が三神を亥の森に祀った。その後代々居を奧須佐に構えたと云う。種彦か若彦の奧津城と推測する向きもあるが、今となっては知るすべもない。 尤も、奥氏については祖先は弘治天文の頃毛利元就に仕えていたとぞく續紀伊國風土記には記載さている。
山東古墳 伊太祁曽神社二の鳥居の前にある横穴式積石古墳である。6〜7世紀のものである。大きい一枚石が床になっている。 雨の日でもこの古墳の中はべたつかずさっぱりしていた印象がある。(発信者の子供の頃の良い遊び場であった。)
口須佐古墳(須恵器) 吉里小山古1墳(竪穴式) チショ古墳(錆刀数本) 城ヶ峯古墳(須恵器)等が出土している。


日前宮の創建と万葉の人々
 牟婁の湯とは白浜温泉の事だが、有間皇子、斉明天皇、持統天皇2回、文武天皇の一行が紀の国に湯治に来ている。聖武天皇は玉津嶋に御幸している。 文武天皇御幸時に坂上忌寸人長の詠める歌
紀の国にやまず通はむ都麻[つま]の杜妻寄し来[こ]せね妻と言ひながら(巻9ー1679)
この都麻の杜の比定地は橋本市妻の妻の杜神社と山東の平尾の都麻津姫神社がある。後者の場合には倭姫と同じように矢田峠を越えてきたことになる。 後述するが初期の熊野詣での道は、紀ノ川を渡ってからは、暫くは倭姫の道と同じである。 

 文武天皇御幸の翌年、亥の杜に祀られていた伊太祁曽神社三神の分遷がなされている。
 大化改新後氏族制度が廃止され公地公民制が導入され、斑田収授の前提として条里の制がしかれた。伊太祈曽にも三ノ坪と云う坪名が残っているのはこの名残である。
昭和三十年代の伊太祈曽の小字は以下の通りで、大坪が残っている。
高橋、大坪、竹ノ子、宮前、森前、森崎、生平、大桜、桜谷、二ツ池谷、西ケ谷



平安時代と熊野詣と弘法大師
 弘法大師空海は三熊野に詣り日高から藤白の里に入り宇治の里とり吉礼の抓津比賣命の社や須佐太神に参詣し神告により須佐普門寺を建てたと云う。 他伊太祈曽や岡崎に弘法井戸の伝説が残る。
 平安時代には神仏に詣でる事の盛んな時代であった。 熊野詣では都からも鄙からも多くの老若男女が参詣した壮大なイベントであった。 院宮もことのほか熱心で白河上皇から亀山上皇までで百回にも及んだ。 供の人々は五十〜八百人以上を数え、往復半月から一月となり、道筋に多大なる影響を与えた。
 前半期には泉南から紀ノ川を越えて矢田峠から平緒王子を過ぎて伊太祈曽から口須佐・奧須佐から奈久智王子へと向かった。 伊太祁曽神社に奉幣が捧げられている。その後は平地をたどったようで平緒王子は退転していったようだ。

 伊太祈曽に多大な影響を与えたのは覺鑁上人である。上人は鳥羽上皇の後ろ盾で高野山に密厳院と大伝法院を建立した。天承元年(1131年)供料として石手(岩出)や山東など七ヶ所が与えられた。 次ぎに矢田に明王子宝生院(後の伝法院)を建立した。上人は伊太祁曽の神はこの荘の大社であるから之を奧の院とし明王子の丹生神社を下の宮とし神輿渡御の旅所となし、両部神道となった。 神社の領域に神宮寺、僧坊、護摩堂、鐘楼が建てられ、伊太祁曽三神の本地を阿陀、地蔵、弁財天とした。

 天正十三年(1585年)豊臣秀吉の南征の時、其餘浪を受け当社の社殿掃害を受け四十二町五段に余る神領を悉く没収され社宝等殆ど佚散しし去られた。 然し、羽柴美濃守秀長領主となってから、本殿両脇社、瑞籬、拝殿、御供所、護摩堂、神宮寺等の再建があり再に神田及び境内社地の寄付を受けた。 天平十四年(1586年)から秀長の城代として桑山修理亮重晴当国に入り、鐘楼、反橋、鳥居、神輿、宝蔵、御輿蔵、神宮寺本尊、両庁、舞台、金登籠、山林、馬場等を建設寄付された。

 次いで慶長五年(1660年)十一月浅野幸長当国主となり高五行を寄進せられ且つ久安文書に載する所の山東荘五町八段の地課役を免ぜられ元和の年に及んだ。 南龍公この地に封か受けてから萬治三年(1660年)卯月八日公より社領二十石の寄進を受けている。 後貞享四年命によつて唯一神道にかへり仏家の祭典を退け所謂奧の院を廃し神域にあった神宮寺に除地を給り亀尾山、興徳院として今の地に遷った。


明治以降
明治18年、國幣中社、大正7年官幣中社に列格。
昭和12年社殿大改修実施
戦後宗教法人伊太祁曽神社となる。別表神社



注 伊太祁曽神社の詳細については小林国太郎著、伊太祁曽神社由緒記。同著伊太祁曽神社に関する古文書並に文献に詳説している。

伊太祁曽神社
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