「韓国伊太神社の創建とその背景」の概要

瀧音能之氏記述

 一 問題の所在
 『延喜式』神名帳をひらくと、そこには興味をそそられる神社名がずい分とみられる。そして、それらのなかには、いまだに検討が不十分のため実体が明らかでないものや、さらに考察が必要と思われる神社もみられる。
 ここでとりあげようとしている韓国伊大(太)神社もそうした神社のひとつに他ならない。

 韓国伊大神社は、その名称のユニークさに加えて、分布にも特異性をみせている。まず、その呼称であるが、一般的には「カラクニイタテ」神社とよばれる。そして、その分布はというと、神名帳にみえる六社はすべて出雲国に鎮座している。しかも、その内分けをみると、出雲国の九郡中、意宇郡と出雲郡とに三社ずつ分布がみられる。つまり、韓国伊大神社は、出雲国にのみ姿をみせる神社であり、しかも、出雲国のなかでも、国衛が置かれた東部の意宇郡と杵築大社(出雲大社)が鎮座している西部の出雲郡のみにみられるというように分布にいちじるしいかたよりをみせている。

 さらに、韓国伊大神社は、その由来についても不明瞭な点が多い。一般的には、スサノオ神の御子神である五十猛神と関連させてとらえ、この神を祀る神社といわれている。こうした見解は、天保十四年(1843)に千家俊信によって唱えられたものであり、『日本書紀』のスサノオ神の出雲降りについて記した一書をふまえたものである。すなわち、スサノオ神が、韓国(新羅)を経由して出雲へ降るさいに同行した神が御子神の五十猛神であり、このことを前提として、千家俊信は、「伊太は、は気とかよひて五十猛と同じ。忌部正通が神代口訣に、肥前国西南沖五十猛島」、又貝原好古が考に、筑前国御笠都筑紫神社は五十猛神といへり」と述べており、さらに、韓国伊大神社および五十猛神に関連あるものとして、「又帳に、紀伊国名草郡伊達神社名神大あり。是と同神なるべし。又同郡に伊太祁曽神社名神大月次相甞新甞あり。又大隅国囎唹郡韓国宇豆峯神社あり。是韓国てふ言を冠らせたる例也。又仁多郡伊我多気神社も此神を拝祭れり」として類例を提示している。すなわち、千家俊信によれば、伊大(太)は五十猛が転託したものであり、韓国とあるのは五十猛神がスサノオ神に伴われて朝鮮半島を経由して日本へ渡ってきたことによるということになる。こ うした千家俊信の見解はつとに江戸時代末期にのべられたものであるが以後、さほど疑問をさしはさまれることなく受け継がれ、今日ではほとんど定説といってもよいほどの位置を占めるにいたっている。

韓国宇豆峯神社

 もっとも、こうした説に対してまったく異議がとなえられなかったわけではない。たとえば、志賀剛氏は、千家俊信の説にとらわれない独白の見解を展開されている。志賀氏は、イタテはイタチの変化したものであり、さらにイタチはもともとユタテであったと考えられた。すなわち、ユタテ→イタチ→イタテと変わったというのである。そして、そもそものユタテは「湯立」であり、ここからユタテの神というのは湯を立てる神であると解釈された。したがって、イタテの神とは湯立神に他ならないということであり、さらに、イタテに「韓国」が冠されているのは、遠来の神には新鮮な霊カがあるとする古代の信仰からきたものであろうとされた。

 また、こうした志賀説を批判して自説を展開したものとして石塚俊氏の見解をあげることもできる。石塚氏はまず、播磨国飾磨郡の射楯兵主神社を引き合いに出され、ここに祭られている射楯神と兵主神のうち、射楯神は『播磨国風土記』の因達里に記載がみられる「伊太之神」であるとされた。そして、因達里の説話が、神功皇后が韓国平定をおこなったさいにその御船の上に鎮座したのが伊太之神である、という内容であることに注目して、「韓国」を頭に冠しないイタテ神の場合にもすでに韓国との関係がみられると指摘された。その上で、「由来、漢土・漢土の神を迎え祀る例は多く、そもそも『古事記』に「韓神」「曽富理神」と、明瞭な韓神の名がある」とのべられ、こうした韓神・曽富理神を「帰化人によって招来された「今来の神」であった」と把握れている。これらの考察を基に石塚氏は、出雲国の韓国伊大神社も今来の神の信仰と無関係ではないとして、「韓国」は文字通り韓国そのもののことをさし、「これを冠する伊太の神は、だから、あたかもかの八幡神が八鹿の幡によって降臨ましましたというがごとくに、もしかしたら文字通り「射立」であり、矢になって降臨ましました神ではなかったろうか」と考えられた。石塚氏の見解は、先の志賀氏が伊大神に冠せられた「韓国」を遠来の神に新鮮な霊力ありとした古代の信仰からくるとされたことをさらに一歩進められて、渡来人によって招来された今来の神の信仰と関係があるとされた点において志賀説を批判的に継承したものといえよう。ただ、志賀氏が提唱されたイタテが本来、ユタテ(湯立)であるとする見解に対しては、石塚氏は疑問を発せられている。志賀氏の湯立説の根拠のひとつは、ユタテ→イタチ→イタテという音の変化にあるが、もうひとつ『延書式』の神名帳にみられる伊達神社の多くが泉井に依存する立地になっているということも壷要な根拠になっている。この泉井に依存する立地条件に伊達神社が鎮座しているという点については、石塚氏も批判しているようにひとえに伊達神社のみに限ってよいものかどうか問題があると考えられる。むしろ、神社と清らかな泉井との関係は一般的ととらえる方が自然ではなかろうか。また、音の変化についても、ユタテ→イタチ→イタチと変わる可能性はもちろん否定することはできないかもしれないが、その一方では、そのように変化する必然性ということを考えるならば、それほど強いものがあるともいえないのではなかろうか。こうした点を考え合わせると、志賀説は興味深い見解ではあるがにわかに肯定することはできないように思われる。また、石塚説の場合についても、今来の神とされる韓神・曽富理神を例に引かれ、ここから韓国伊大神社も今来の神の信仰と関係があるとすることは論理に飛躍があると思われる。伊大神が韓国と関係のある神ということと、韓神や曽富理 )神と同じ性格をもっているということは別次元で考えなければならないことであろう。石塚説はこの点でなお問題を残していると考えられる。

 以上、通説的な見解とそれに対する異説とをとりあげてみた。通説的な理解は、韓国伊大神社の「イタチ」と五十猛神の「イタケル」とが音の点で類似していること、そして、記紀神話のなかにおいて五十猛神と朝鮮との間に関係がみられることが主要な根拠となっていると思われる。しかしながら、これらの根拠を再度みなおすならば、さほど確たるものとはいいがたいように思える。すなわち、音の類似性についていうならば、主観的な判断が多く含まれており、このことを主要な根拠とするのは客観性に欠けているといえよう。また、神話にみられる交流についても、これをそのまま主たる根拠とするのは問題があろう。したがって、通説的な見解といわれるものではあるが、その実態を追求すると意外にも根拠が弱い不確かなものといえる。また、その通説的な見解に対して出された志賀氏、石塚氏の両説についてもやはり問題が残されており、すなおに従いがたいように思われる。

 こうした点をふまえて、かつてわたくしも考えをのべたことがある。しかし、紙数の都合などもあってふれ足りなかったところもあった。また、小文に対して思いがけずも上田正昭氏がとりあげて下さり、その問題点についても指摘して下された。そこで本稿においては、上田氏が指摘された問題点に留意して再度、韓国伊大神社についてその創建時期および創建の背景を中心に考えてみることにしたい。

二 旧稿の要旨と問題点
 まずはじめに、かつてのべたことを整理し、それについての問題点を抽出することにする。旧稿においては、韓国伊大神社と五十猛神とを関係づけてとらえる通説的理解を論拠に乏しいものとしてしりぞけ、『出雲国風土記』と『延書式』神名帳を手がかりとして検討を加えた。『延書式』は知られるように延長五年(927)に成立したものであり、これによって少なくとも10世紀前半の段階における神社の様相を把捉することが可能と考えられる。また、『出雲国風土記』は天平五年(733)に出雲国において勘造されたものであり、ここには郡ごとに神社がまとめて記載されている。さらに、その神社の記載は神祇官帳に登録されているものとそうでないものとに区別されている。これらから明らかなように、出雲国においては、『出雲国風土記』と『延喜式』神名帳を比較的に用いることによって、8世紀前半と10世紀前半の両時期における神社の様相を追求することが可能である。

 そこで、韓国伊大社の分布を具体的にみるならば、『延書式』神名帳の出雲国意宇郡の条に、
 @玉作湯神社  同社坐韓国伊太神社
 A揖夜神社   同社坐韓国伊大神社
 B佐久多神社  同社坐韓国伊大神社
の三社がみられ、また同じく出雲郡条にも、
 C阿須伎神社  同社神韓国伊太神社
 D出雲神社   同社神韓国伊大神社
 E曽枳能夜神社 同社神韓国伊大奉神社

 というように三社の存在を確認することができる。これらの合わせて六社の韓国伊大太神社を通覧して、まず目につくことは、これらの神社の表記が「大」を用いる場合と「太」を使用する場合とがある、ということである。本稿では、『新訂増補国史大系』の『延喜式』の表記によったが、こうした表記の相違は写本の過程において生じたものと考えられる。また、出憲の曽枳能夜神社の関連でみられる韓国伊大奉神社の「奉」については衍字とみなしてさしっかえないであろう。同じく出雲郡の阿須伎神社と関連してみられる同社神韓国伊太神社についても社名の頭に神の字が冠せられているが、これも神名などの上に神をつける例があるので、さほど特別視することはないと思われる。


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 第一表 韓国伊大神社の分布
 『出雲国風土記』  『延喜式』神名帳
  〔意宇郡〕
 @玉作湯社→   →玉作湯神社
  由宇社→  ? →同社坐韓国伊太神社
 A伊布夜社→   →揖夜神社
  伊布夜社→   →同社坐韓国伊大神社
 B佐久多社→   →佐久多神社
  佐久多社→ ? →同社坐韓国伊大神社

  〔出雲郡〕
 C阿受枳社→   →阿須伎神社
  阿受枳社→   →同社神韓国伊太神社
 D出雲社→    →出雲神社
  御魂社→    →同社韓国伊大神社
 E曽伎乃夜社→  →曽枳能夜神社
  曽伎乃夜社→  →同社韓国伊大奉神社
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 このように分布がみられる韓国伊大神社であるが、またこれらの神社は、『出雲国風土記』の段階においても、それぞれに相当する神社を比定もしくは推定することが可能である。第一表は、秋本吉郎氏の説によって、『出雲国風土記』に記載されている神社と『廷書式』の神名帳にみられる韓国伊大神社とを対応させたものである。この表から明らかなように、『出雲国風土記』には、韓国伊大神社と称する神社は一社も存在していない。つまり、『出雲国風土記』が作成された天平五年(733)の段階では、韓国伊大神社という名称の神社はいまだ成立していなかったと考えれる。それが、時を経て延長五年(927)に成立した『延喜式』には、六社の韓国伊大神社の姿がみられるのである。このことから、韓国伊大神社は8世紀の前半から10世紀の前半の間に創建された神社と規定することができよう。つまり、『出雲国風土記』の段階では、まったく異なった名称であった神社が、そののち韓国伊大神社という社名に変化したということができる。

 こうした成立期に関する問題は、韓国伊大神社の性格を考える上で重要な点であると思われるが、従来、この神社について論及されるさいには社名の読みに考察のウェイトがおかれ、成立期に関してはほとんど注意がはらわれていないようにみうけられる。社名の読みについての検討が重要であることは十分に理解できるが、いままでのような読みにばかり重点をおいたアプローチだけでは限界があることも明らかである。韓国伊大神社の原像を追求するさいには、社名の面からの考察ばかりではなく、それに加えてこの神社の成立時期への配慮もまた必要と考えられる。

 これらのことをふまえて旧稿では、創建期の状況という視点を導入して韓国伊大神社をみてみた。そのさい、すでに指摘したように、創建の時期については、『出雲国風土記』が成立した天平五年(733)から『延書式』が完成した延長五年(927)の間と考えられること、また、韓国伊大神社の「韓国」については、やはり文字通り韓国、すなわち朝鮮半島と考えるのが妥当であるということの二つの点を前提として検討を加えた。この二つの点を考慮して、8世紀前半から10世紀前半までの間を朝鮮半島との関係を視野にいれてとらえるならば、そこに対新羅関係の悪化という外交情勢が浮かびあがってくる。新羅との関係を概観すると、8世紀から9世紀にかけて、その関係は恒常的に悪化の様相をみせている。こうした状況に対して、日本側もさまざまな対応をとっているが、それらの中でも『日本三代実録』貞観九年(867)五月二六日条にみえる記事はとりわけ興味ぶかい。

 造八幅四天王像五鋪。各一鋪下伯耆。出雲。石見。隱岐。長門等國。下知國司曰。彼國地在西極。堺近新羅。警之謀。當異他國。宜歸命尊像。勤誠修法。調伏賊心。消却變。仍須點擇地勢高敞瞼瞰賊境之道場。若素无道塲。新擇善地。建立仁祠。安置尊像。請國分寺及部内練行精進僧四口。各當像前依勝王經四天王護國品。晝轉經卷。夜誦神咒。春秋二時別一七日。清淨堅固。依法薫修。

 これがその内容であり、記事自体は四王寺の建立を命じたものである。この四王寺建立の目的はいうまでもなく新羅への備えという点にある。そして、この記事のなかで建立を命じられた国々のひとつに出雲国が入っていることはみのがせない。これら四王寺建立を命じられた諸国のうち、新羅にもっとも近接しているのは隠岐国となろうが、隠岐は日本海に浮かぶ島であり、国家側の意識からいえば、むしろ、出雲国が新羅と墳を接している国とみなされていたのではあるまいか。

 こうした対新羅関係の悪化という時期が、おりしも韓国伊大神社の創建推定期と重なるということは決して偶然とはいえないと思われる。むしろ、こうしたことを考慮するならば、この「韓国」という語句を頭に冠する韓国伊大神社の由来が、これらの状況と無関係ではないと考える方がより自然ではなかろうか。つまり、韓国伊大神社は、対新羅関係の悪化という事態のなかで、国家によって新羅と境界を接していると認識されていたであろうと考えられる出雲国に創建された神社である、と把握することが可能である。

 それでは、具体的に韓国伊大神社とはどのような神社であったのかというと、「韓国」は文字通り韓国であり、新羅のことを指しているとしてよいであろう。とするならば、「伊大」の解釈が問題になってこよう。この点については、『延喜式』の神名帳のなかに播磨国飾磨郡のものとして、射楯兵主神社がみられることが参考となろう。この射楯兵主神社は、『延喜式』神名帳において、二座の扱いとなっていることから、射楯神と兵主神とを祭っていると考えられる。この射楯神については、『播磨国風土記』の飾磨郡因達里の条に、「伊太代之神」として姿をみることができる。「伊太代之神」は、神功皇后が韓国平定のため渡海しようとしたさいに船前に鎮座したとされる神である。これらのことをふまえると、「伊大」「伊太代」は、「射楯」と考えることができ、韓国、すなわち新羅に対する防備を象徴していると把握することが可能である。つまり、韓国伊大神社は、新羅から出雲国を、ひいては日本を守るために建立された神社ということができる。そして、このことは、四王寺を建立することによって仏教的に国家を鎮護すると共に、韓国伊大神社を創建して神祇的にも国家を守護しようとしたものに他ならないと考えられる。いいかえるならば、新羅からの脅威に対して、国家は仏教的な面からと神祇的な面からとの双方の面からの安全対策をおこなったわけであり、その神祇的な面からの対策が出雲国における韓国伊大神社の創建ということになる。

 このようにとらえるならば、韓国伊大神社の創建期に関しても、四天王寺の建立が命じられた貞観九年(867)のあたりが考えられてしかるべきであろう。すなわち、韓国伊大神社の創建については明確に時期を限定することは困難ではあるが、9世紀後半をその時期として設定してよいのではあるまいか。

 以上が、旧稿の要旨であるが、これに対して、先にのべたように上田正昭氏がとりあげられ、三点にわたって問点を出された。

 上田氏があげられた第一の問題点は、対新羅関係の悪化という点である。すなわち、関係の悪化という点についてみるならば、貞観九年(867)のあたりの時期のみではなく、さらに以前から悪化がみられ、8世紀のなかばにはすでに「征韓」論や、「征韓」の軍事計画が具体化しており、9世紀後半よりも深刻であった、というのである。したがって、韓国伊大神社の創建についても、対新羅関係の悪化という点を強調するのであれば、8世紀の日羅関係をどう把握するのかが問題となるということである。たしかに、8世紀の対新羅関係の悪化については、しばしば指摘されるところであり、天平五年(733)に成立した『出雲国風土記』の性格においても、こうした対新羅関係の悪化を背景とした軍防的要素がみられるという指摘もみられる。したがって、8世紀以後の日羅関係については、再度、検討する必要があると思われる。

 第二の問題点として上田氏が指摘されたのは、「同社坐」とか「同社」・「同社神」とかとして『延喜式』神名帳にみられる韓国伊大神社を四王寺の建立と同類視することはできない、という点である。すなわち、「同社」の意味は、相殿神あるいは境内社的なものを指すのであって主神としての社ではない、とするのが上田氏の理解であり、韓国伊大神は「客神」の社としての要素が強いというのである。したがって、質的な意味で四王寺と同レベルで扱うことはできないというわけである。『延喜式』の神名帳にみえる韓国伊大神社は、たしかに、同社坐韓国伊太神社・同社坐韓国伊大神社・同社坐韓国伊大神社(以上、意宇郡)、同社神韓国伊太神社・同社韓国伊大神社・同社韓国伊大神社(以上、出雲郡)というように、神社名のはじめに、「同社坐」・「同社」・「同社神」といったいい 方がついており、このことをどのようにとらえるかは、ひとつの問題点といえるであろう。

 上田氏の第三の指摘は、「伊大」という社名についての問題点である。この「伊大」を「射楯」とする場合、そこに防備の意味もあったであろうが、それを新羅に対する防備と理解することができるかどうかは疑問とされている。上田氏は、播磨国の射楯兵主神社の「射楯」は渡来系の兵主神の神格にちなむ「射楯」であって兵主神の武徳によっての「射楯」であるとされている。さらに、″まれぴと″の神の祭祀には、今来の神の霊威の感得が前提になった場合が多い、とのべられ、韓国伊大神とその社のまつりは、出雲在地の人びとにとっての「客神」であり、その「客神」を奉じる渡来系の人びととの垂層のなかでの「同社の神」であった、と指摘されている。

 これら三点にわたる上田氏の指摘は韓国伊大神社を考える上でいずれも重要な視点であるといえる。以下、節をあらためて、これらについて考えてみることにしたい。


三 8世紀および9世紀の日本と新羅

 ここでは、上田氏が指摘された対新羅関係の悪化は720年代からみられる、という点を考慮して、8世紀および9世紀の日羅関係について検討することにする。次の頁にあげたのは、720年以降の8世紀・9世紀間の日羅関係の略年表である。この略年表からも理解できるように、8世紀から9世紀にかけて日羅関係は緊張状態の連続といえる。こうした緊張の2世紀ではあるが、8世紀と9世紀の状況をひとつひとつみていくと、そこに質的な相違をみい出すことができるように思われる。それは何かというと、8世紀の場合、緊張のなかにもとにかくまだ国家間の交流が中心になっているのに対して、9世紀になると、海賊をはじめとする私的な交渉が目立つようになるということである。また、新羅の動向に対する日本側の政策に関しても8世紀と9世紀とでは相違があるように思われる。


 8世紀・9世紀の日羅関係
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養老五年(721)  新羅遣朝使、太上天皇の死のため筑紫から帰還
  六年(722)  遣新羅使を任ず
           新羅、日本の賊の侵入に備え毛伐都城を築く
  七年(723)  新羅使来朝
神亀一年(724)  遣新羅使を任ず
  二年(725)  遣新羅便帰国
  三年(726)  新羅使来朝
天平三年(731)  日本の兵船、新羅の東辺を襲う
  四年(732)  遣新羅使を任ず
           新羅使来朝
  六年(734)  新羅便、太宰府に来朝
  七年(735)  新羅の国号を王城国と改称したことを理由に新羅使を追却
  八年(736)  遣新羅使を任ず
           新羅、遣新羅使を受けつけず
  九年(737)  新羅の失礼に対して官人に意見を求める
           伊勢神宮・大神神社・筑紫の住吉社および八幡社・香椎廟に新薙無礼の状を奉幣・奏上
  十年(738)  新羅使を大事府から追却
 十二年(740)  遺新羅使を任ず
 十四年(742)  新羅使、大事府に来朝、新都久爾宮の未完成を理由に入京させず
 十五年(742)  新羅便、失礼により追却
天平勝宝四年(752)遣新羅便を任ず
           新羅便、大事府に来朝
    五年(753)唐朝における朝賀で遣唐使と新羅使が席次を争い、遣唐使が上席を占める
           遣羅使を任ず              遣新羅使、無礼により新羅王引見せず
天平宝字三年(759)征新羅のため太宰府に行軍式を造らせる              香椎廟に征新確の状を奏上
           新羅より帰化の情願者を放還
           征新確のため船500艘の営造を命ず(北陸道89艘・山陰道145艘・山陽道161艘・南海道105艘〉
    四年(760)帰化新羅人131人を武蔵国へ移す
           新羅使来朝、身分の軽さを理由に追却
天平宝字五年(761)征新羅のため美濃・武蔵両国の少年に新羅語を習わせる
    六年(762)征新羅のため香椎廟に奉幣
    七年(763)新羅便来朝
神護景雲三年(769)新羅使、対馬に来朝
宝亀  五年(774)新羅便、太宰府に来朝、問答ののち追却
           新羅人の漂着は追却させる
    十年(779)遣新羅使を任ず
           新羅使来朝の由を問う
   十一年(780)新羅使、万物を献ず
延暦  六年(787)日本王、新羅に万波息笛を求める
   十八年(799)遣新羅使を任ず
           遣新羅便を停止
   二一年(802)新羅の均貞を日本の質としようとするが均貞は拒否
延暦 二二年(803)新羅、日本と交聘
   二三年(804)日本国使、新羅に黄金300両を献上
大同  一年(806)日本国使、新羅朝元殿で引見
    二年(807)筑前国金光明寺に四天王像をもどす
    三年(808)日本国使、新確に来泊
    四年(809)大野城鼓峯で四天王法を修す
弘仁  二年(811)新羅人、大字府に漂着
    三年(812)新羅の海賊船、対馬に漂着
           新羅人の清漢波ら漂着
           新確人の劉清らを追却
    四年(813)新羅人、肥前国小値賀島に来着し島民を殺傷
    五年(814)新羅の王子来朝の時は、隣好の志があっても追却すべしとする
           新羅の商人、長門に漂着
           新羅人、博多津に漂着
    七年(816)新羅人の清右珍ら180人帰化
    八年(817)新羅人43人帰化
           新羅人143人帰化
   十一年(820)新羅人、献物
   十三年(822)新羅人40人帰化
天長  一年(824)新羅人、能登に漂着し琴などを献上
           新確人54人を陸奥に安置し口分田を与える
    八年(831)新羅人の交関文を検領
    十年(833)新羅人を左京に貫付
承和  一年(834)新羅人、太宰府に漂着、百姓が妓らを襲う
    二年(835)新羅の商人、壱岐に来着、島民に要害を警備させる
承和  三年(836)遣唐使船が斬羅に漂着したため新羅に使節を派遣
    七年(840)新羅人の張宝高、万物を献ず、太宰府より追却
    八年(841)新羅人の張宝高、使者を太宰府に派遣するが追却
    九年(842)新羅人の商人の李少貞ら筑紫に漂者、食料を与えて追却
           太宰大弐藤原衛、新羅人の来朝禁止など4条起請を上奏
   十二年(845)太宰府、新羅人の来者を報着を報告
嘉祥  一年(848)能登国、新羅使の王文矩らの来着を報告
    二年(849)対馬の史生を廃し弩師を置く
斉衡  三年(856)新羅人30人、太宰府に来着、食料を与えて追却
貞観  五牛(863)新確の沙門3人、博多津に来着、唐船に乗せて追却
           新羅人、因幡国に来着
    六年(864)前年に石見国へ漂着した新羅人を追却
           日本国使、新羅に至る
    八年(866)肥前国大領、新羅の対馬襲撃を太宰府に奏上
           新羅兵に備え能登・因幡・伯者・出雲・石見・隠岐・長門の7国と太宰府に命じて諸神に奉幣して鎮護の殊効を祈らせると共に兵の試練を命じる
    九年(867)新羅調伏のため伯香・出雲・石見・隠岐・長門の5国に四天王像を安置させる
           豊前国宇佐八幡宮および北陸道諸国に仏像をわかつ
   十一年(869)隠岐国の史生を廃し弩師を置く
           新羅の海賊、豊前国の絹綿を椋奪する
           新羅の海賊の豊前団の貢調使襲撃の件で太宰府を戒める
           長門団に弩師を置く
           新鹿の侵椋に備え太宰府に諸国の浮囚を徴発す
   十二年(870)卜部乙屎麻呂、新羅の対馬襲撃計画を報告、これによって因幡・伯者・出雲・石見・隠岐らの団に警備を命じる
           太宰府管内の新羅人を陸奥国へ移す
           出雲団の史生を1人廃し弩師を置く
           太宰府より新羅人7人が逃亡
貞観 十五年(873)武蔵国の新羅人が逃亡
           長門国の四王院の沙弥数勝・教林を得度させる
           対馬に漂着し鴻臚館に禁固していた新羅人を放還
   十六年(874)新羅人、対馬に漂着
元慶  二年(878)日本国使、新羅に至る
    三年(879)武蔵国の新羅人が逃亡
    四年(880)隠岐国の兵庫が振動、因幡・伯者・出雲・隠岐の諸国に警備を命じる
    六年(882)日本国使、新羅に黄金明珠を進上
仁和  一年(885)肥後国天草軍に来着した新羅使を追却
           北陸道諸国・長門図・大宰府に警備を命じる

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 まず、8世紀についてであるが、天平宝字三年(759)の場合のように、新羅征討を実際に計画した事例もないわけではないが、一般的にはこうした具体的な軍事行動はほとんどみられない。日本側の対応としては、新羅使を拒否して追い返すことと香椎廟などの神社に新羅の無礼を至することがあげられる。それに対して、9世紀になると、北陸道・山陰道・西海道の諸国に対して実際に警備を命じることが多くなる。また、具体的に弩師を設置して軍備を強化しようとする例もみられるようになる。精神的な面での対応にも変化がみられる。それは、四天王信仰による新羅調伏の動きがでてくることである。大同二年(807)の筑前国の金光明寺に四天王像をもどした例などはそのはじめであり、大同四年(809)には大野城鼓峯で四王法を修している。こうした新羅調伏のために四天王信仰を用いようとした典型が、貞観九年(867)の伯菅・出雲・石見・隠岐・長門の五カ国に命じた四王寺建立といえよう。

 9世紀段階における日本側の対応は、より現実的であり、8世紀段階と比べると切実味があるように思われる。その背景には、弘仁四年(813)の場合のように、来着した新羅人によって肥前国の小値賀島の島民が殺傷されるといった実害が起きているという事情が考えられる。そして、貞観期には、新羅による対馬襲撃といった事態にまでおよぶのである。対馬のみではなく、新羅の海賊が豊前国の網綿を奪うという事件が起きたのもこの時期である。つまり、8世紀と9世紀の対新羅関係を比較すると、具体的な被害が現実に起きているという点において9世紀の方がさし追った状況にあるといえよう。当然のことながら、国家としても、8世紀とは異なったより現実的な対応が必要となってこよう。それが、軍備や警周の強化であり、四王寺建立に代表される四天王信仰による新羅調伏であるといえる。

 このような動向のなかで見落してはならないのが神祇面からの国家の対応である。8世紀にみられた香椎廟や伊勢神宮への新羅無礼の報告や奉幣が9世紀にはどのようになったのかという点は問題であろう。みたように、9世紀には四天王信仰という仏教的な面がとかく前面に押し出され、神祇的な面は後退しているようにみえるからである。こうした傾向のなかで、興味深い史料が、『日本三代実録』 にみられる。それは、伯曹・出雲・石見・隠岐・長門の五カ国に対して四王寺建立が命じられた貞観九年(867)五月二六日のほぽ半年前にあたる貞観八年一一月一七日条である。


 勅曰。廼者恠異頻見。求之蓍龜。新羅賊兵常窺間隙。變之發唯縁斯事。夫攘未兆。遏賊將來。唯是神明之冥助。豈云人力之所爲。宜令能登。因幡。伯耆。出雲。石見。隱岐。長門。大宰等國府。班幣於邑境諸神。以鎭護之殊効。又如聞。所差健兒。統領選士等。苟預人流。曾無才器。徒称爪牙之。不異蟷之衛。况復可教之民。何禦非常之敵。亦夫十歩之中必有芳草。百城之内寧乏精兵。宜令同國府等勤加試練必得其人。

 これがその全文である。内容はというと、最近、恠異がしきりとあらわれるとあり、これはひとえに新羅の賊兵が常に間隙をうかがっていることによる、といっている。そして、新羅の賊を防ぐのは神明の冥助しかないとして、能登・因幡・伯菅・出雲・石見・琴長門の諸国と太宰府に命じて「邑境の諸神」に奉幣して鎮護の殊効を祈らせている。また、それと同時に、兵士たちの怠慢ぶりを指摘して試練を加えることを命じている。

 『日本三代実録』にみえるこの貞観八年二月十七桑は、同年に肥前国の大領が新羅の対馬襲撃を太宰府に奏上したことを意識したものであると考えられるが、さらに、翌年の五月二六日条の四王寺建立の件と一連のものととらえてよいと思われる。つまり、新羅の対馬襲撃という状況に対して、まず、同年の十一月の段階で軍律の強化と神祇による鎮護を祈らせ、翌年の五月の段階で仏教による新羅調伏を祈らせたということである。このようにして、実際の軍隊のひきしめと神仏による精神面における防備とをおこない、新羅への対策の万全を期したものと考えられる。

 このようにとらえて大過ないならば、四天王寺建立の命と前年の諸社への班幣とは、仏教的ということと神祇的といいうことの相違はあるものの次元的には同じものと認識することができよう。四天王寺建立を命じられた五ヵ国は、諸社奉幣を命じられた七ヵ国にすべて含まれるということも、質的に両社はほぼ同一であることを物語っていよう。このようにとらえ、しかも、韓国伊大社の創建が仏教面での四王寺建立と対応するものというふうに考えるならば、貞観八年二月一七日の「邑境の諸神」へ奉幣して鎮護を祈れという命が、出雲国の韓国伊大社の創建の引き金となったと推測することは時期的にもさほど不合理とはいえないであろう。したがって、韓国伊大神社の創建を四王寺の建立とほぼ同時期と想定することについては一応の妥当性はあると考えられる。


四 「同社坐」・「同社神」についての問題

 次に、韓国伊大神社につけられている同社坐・同社神・同社について考えてみることにする。いま、あらためて『延喜式』にみられる韓国伊大神社の表記に注目するならば、出雲国の意宇郡として、
   @同社坐韓国伊太神社
   A同社坐韓国伊大神社
   B同社坐韓国伊大神社
とあり、出雲郡として、
   C同社神韓国伊太神社
   D同社韓国伊大神社
   E同社韓国伊大神社
とみえる。つまり、これらの韓国伊大神社には、必ずその頭に同社坐もしくは同社(神)がついているということになる。このうち、同社と同社神とはすでにふれたように同様の意味としてよいと思われる。したがって問題なのは、同社坐と同社との関係についてということになる。この点についてのべるならば、従来、さほど厳密に意識されてこなかったように思われる。この間題に関しては、意宇郡の三社がみな同社坐で、出雲郡の三社がともに同社であることから、『出雲国風土記』の編纂時において各郡の間に表記の統一が不徹底であったという意見がでるかもしれないが、出雲郡には、同社と同社坐の双方の表記があるので、そう簡単にいい切ることもできない。その点では、同社坐と同社との相違に注意を向けられた石塚尊俊氏の指摘は重要である。しかし、いまだに両者の相違については問題が多く残されているといえよう。

 このように同社坐と同社との関係については、簡単にのべることのできない問題であるが、まず、同社坐に関しては、相殿神と考えてよいと思われる。たとえば、『延喜式』神名帳の出雲国意宇郡をみると、

 @玉作湯氏神社
 @同社坐韓国伊太神社

 A揖夜神社
 A同社坐韓国伊大神社

 B佐久多神社
 B同社坐伊大神社

という関係がみられる。ここにみられる@の韓国伊太神社は、玉作湯神社の相殿神と思われる。つまり、韓国伊太神社としての独自の社殿をもってはおらず、玉作湯神社に共に祭られているという形態をとっていたと思われる。しかし、この場合、玉作湯神社の祭神である櫛明玉神に対して従配もしくは合祀されているというのではなく、韓国伊太神社という二社の扱いをされていたということである。こうしたことが、『延喜式』の同社坐となったのではなかろうか。A、Bの場合も@と同じ事情と考えられる。

 これに対して、同社の場合はどうであろうか。『延喜式』神名帳の出雲郡をみると、

 C阿須伎神社
 @同社韓国伊太神社

 D出雲神社
 A同社韓国伊大神社

 E曽枳能夜神社
 E同社伊大神社

という関係がみられる。この場合は、韓国伊大神社は境内社として存在していたのではないかと思われる。たとえば、Cについてみると、韓国伊太神社は阿須伎神社の境内地に祭られていたということになる。しかし、阿須伎神社とは別に、独自の社殿を形成していたと思われる。このような存在形態が、同社とされた韓国伊大神社の実像ではなかったかと推測される。

揖夜神社本殿、手前は同社坐韓国伊太神社

 以上のようにとらえるならば、同社坐韓国伊大神社は独自の社殿をもっていないという点において、また、同社韓国伊大神社は他神の境内地に鎮座しているという点において共に完全に独立して存在している神社とはいえない。このことは、一見すると仏教的な面で新羅調伏のために建立された四王寺と質的に同類とみることはできないように思われる。しかし、ここで、再度、四王寺の建立を命じた『日本三代実録』の貞観九年五月二六日条をとりあげてみたい。

 造八幅四天王像五鋪。各一鋪下伯耆。出雲。石見。隱岐。長門等國。下知國司曰。彼國地在西極。堺近新羅。警之謀。當異他國。宜歸命尊像。勤誠修法。調伏賊心。消却變。仍須點擇地勢高敞瞼瞰賊境之道場。若素无道塲。新擇善地。建立仁祠。安置尊像。請國分寺及部内練行精進僧四口。各當像前依勝王經四天王護國品。晝轉經卷。夜誦神咒。春秋二時別一七日。清淨堅固。依法薫修。

 これが該当条である。これによると、八幅の四天王像を五鋪つくり、それぞれ一鋪ずつを伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の五カ国に安置することを命じている。そして、国司に対して、「彼国地は西の極に在りて、境は新羅に近く、警備の謀、他国と異なるべし」として「宣しく尊像に帰命し、勤誠にして法を修し、賊心を調伏し、災変を消却すべし」とさとしている。さらに、「地勢高廠にして賊境を瞼瞰する」ところにある道場、すなわち寺院を探すようにと指示している。そして、もしそのような寺院がない場合には、新たにふさわしい場所をえらび「仁祠」を建立して四天王像を安置せよとのべ、そこに「国分寺及び部内の練行精進の僧四口を請じ、各々の像の前に最勝王経、四天王護国品に依りて、昼は経巻を転じ、夜は神呪を誦へ、春秋の二時には別に一七日、清浄堅国にして法に依りて薫修すべし」と命じている。これが四王寺の建立ということになるのであるが、ここで、その設置の基準というか状態について注目してほしい。国家は、まず、地形的に高くなっていて見晴らしがよく、賊境を見おろすことができるような寺院を選べといっている。そして、そうした条件にあてはまるような寺院がないときには、新たにそうした条件をみたすようなところに仁祠を建立して四天王像を安置せよといっているのである。つまり、四王寺ははじめから新しく建立することを前提にしたものではない。ということである。適当な寺院がある場合には、そこに四天王像を安置し、四王寺とするわけであり、そうした寺院のないときにはじめて、新たに四王寺を建立することになるのである。その場合にも「仁祠」とあることから推測できるように、それほど大きな寺院ではなく、比較的、小規模なものであつたであろうと思われる。

 このようにみるならば、同社坐もしくは同社という条件がついた韓国伊大神社と四王寺とは規模的にもほぽ同質ということができ、両者は対応しているといってよいのではあるまいか。つまり、韓国伊大神社への扱いがいやに低いようにみうけられるが、四王寺についても建立の命をよくみていくならば、韓国伊大神社と同様な措置がとられていることに気がつく。こうしたことの理由としては、ひとつには経済的な要因もあげられようが、それよりも状況的にさしせまっており、新しく建立する時間が惜しいといった事情があると考えられる。


五 「伊大」の意味について

 最後に、伊大神の「伊大」に注目してその神の性格について考えてみたい。そもそも、韓国伊大神社に祭られている神を伊大神としたのは、播磨国の飾磨郡の式内社として射楯兵主神社(二座)があることによる。つまり、韓国は文字通り朝鮮半島、すなわち当時の新羅のことであり、「伊大」は「射楯」と考えるわけである。このようにとらえるならば、韓国伊大神社の伊大神の性格を規定する上で、播磨国の射楯兵主神社の射楯神の性格は重要である。そこで、『播磨国風土記』の飾磨郡因達里の条をみるならば、

 因達里土中々 右称因達者 息長帯比売命 欲平二韓国 渡坐之時 御々船前 伊太代>之神 在於此処 故因神名 以為里名
とある。因達里の地名由来は、息長帯比売命、すなわち神功皇后が韓国(新羅を平定するために朝鮮半島へ渡ったとき、船前に立って導いた伊太代神がこの地に鎮座しているからであるという。神名がもとになって里名ができたとしている。

中臣印達神社

 ここにみえる伊太代神が射楯兵主神社の射楯神である。因達里の条の伊太代神、すなわち射楯神は、朝鮮半島へ向かう神功皇后の軍船を誘導する航海神としての性格をみせているが、単なる航海神というのではなくて軍船を守護する武神・軍神としての性格もあり、むしろこちらの方が濃厚と考えられる。『播磨国風土記』にみられる伊太代神は音を漢字に移したものであるが、射楯神という表記からはこの武神・軍神としての要素がよく読みとれるであろう。射楯神の「楯」はいうまでもなく敵が射った矢を防ぐための兵器であり、敵から自らを守るためのものである。したがって、射楯神の表記である「射楯」からは、敵から自らを守護するという意味を読みとることができ、『播磨国風土記』の因達里の条にみられる伊太代神の伝承を象徴しているといえるであろう。

射楯兵主神社

 射楯神にはこのように、神功伝承との関係がみられるが、このことは同時に、射楯神と韓国との関係性についてもいうことができよう。このようにのべると、『播磨国風土記』の伝承も『記紀』の影響を受けたもので、創作されたものではなかろうかという疑問がでてくるかもしれない。たしかに神功伝承は、『記紀』の編纂者によってまとめあげられたものであろうが、このことがただちに『播磨国風土記』のこの伝承も『記紀』の影響下にあるとはいえないと考えられる。というのは、『播磨国風土記』の成立は、和鋼六年(713)の『風土記』の撰進の命が出されて程なくの時期と推測されており、『日本書紀』の完成以前と考えられるからである。『播磨国風土記』の伝承と『記紀』の伝承との関係を早急にのべることはつつしまなければならないであろうが、『記紀』にみられる神功伝承が形成されるさいに、『播磨国風土記』にみられる伝承が史料として使われたということも考えてよいであろう。

 『播磨国風土記』の因達里の条で注目したいもうひとつの点は、ここにみられる伊太代神(射楯神)が、通説として説かれている五十猛神との関係についてまったくふれていないということである。もし、通説のごとくであれば、因達里の条は神功伝承よりもスサノオ伝承がみられるのではなかろうか。しかし、因達里の条はみたように、スサノオ伝承についてはまったくふれるところがない。このことは、とりもなおさず「イタチ」と五十猛神との関係は考えられないということになるであろう。

 以上のように、『播磨国風土記』の因達里の条の検討から伊太代神には、韓国(新羅との関係性がみられた。しかもそれは軍事的関係であり、伊太代神は軍船の前に立って軍勢を韓国(新羅)から守るという役割を果たしている。こうした関係は、貞観期の日本と新羅との関係にも通じるところがあるように思われる。もっとも貞観期の場合は、日本が新羅を攻めるというのではなく、新羅の海賊などがしばしば日本を襲うということであり、いわば神功伝承とは攻守ところをかえているといえる。しかしながら、新羅から日本を守護するという存在が必要な点においては同じであり、貞観期に韓国伊大神社が創建される必然性は十分にあると考えられる。そして、伊大神を射楯神と把握することも、以上の点から納得することができるであろう。


結 語

 従来、さほど検討されることもなく、通説化していた韓国伊大神社についてあらためて検討を加えてみた。上田正昭氏からいただいたご教示に導かれて、かつてのべた拙論を再度みつめなおすことができた。結果的には、韓国伊大神社は、射楯神を祭る神社であり、四王寺の建立とほぽ同時期の貞観期に建立されたものであり、当時の対新羅関係の悪化という背景のなかで日本を新羅から守るという目的で建立されたという、かつての自説を補強することになった。上田氏のご教示に深く感謝申しあげると共に、未熟ゆえにいただいたご教示を十分にふまえていないのではないかという恐れもあるがいまはひとまず擱筆することにする。


 注

 (1) 千家俊信『出雲国式社考』 (岩政信比古校定『神祀全書』五所収
 書名     スサノオ神の表記法        スサノオ神の降りた場所    備考
古事記      (速)須佐之男命     出雲国の肥の河上の烏髪の地
日本書紀本文    素戔鳴尊        出雲国の簸の川上
日本書紀第一の一書 素戔鳴尊        出雲国の簸の川上
日本書紀第二の一書 素戔鳴尊        安芸国の可愛の川上
日本書紀第三の一書 素戔鳴尊        場所については明記していない
日本書紀第四の一書 素戔鳴尊        新羅を経て出雲国の簸の川上の鳥上の峰 五十猛命をひきいて新羅に渡る
日本書紀第五の一書 素戔鳴尊        韓郷から紀伊国を経て熊成峯 五十猛命・大屋津姫・抓津姫が登場

(2) スサノオ神の出雲降りについての『記紀』 の記述をまとめると上のような表になる。この表から明らかなように、スサノオ神と朝鮮半島との関係がみられ、五十猛神が姿をみせるのは、『日本書紀』の第四の一書と第五の一書である。たとえば、第四の一書には、「素戔鳴尊所行無状。故諸神科以千座置戸而遂逐之。是時。素戔鳴尊帥其子五十猛神。降到於新羅國。居曾尸茂梨之處。乃興言曰。此地吾不欲居。遂以埴土作舟乘之東渡。到出雲國簸川上所在鳥上之峯。時彼處有呑人大蛇。素戔鳴尊乃以天蝿斫之劔斬彼大蛇。時斬蛇尾而刃缺。即擘而視之。尾中有一神劔。素戔鳴尊曰。此不可以吾私用也。乃遺五世孫天之葺根神上奉於天。此今所謂草薙劔矣。初五十猛神天降之時。多將樹種而下。然不殖韓地盡以持歸。遂始自筑紫。凡大八洲國之内莫不播殖而成青山焉。所以稱五十猛命爲有功之神。即紀伊國所坐大神是也。」

と記されている。これによると、スサノオ神の御子神である五十猛神は、スサノオ神にひきいられて天降りし、新羅国の曽尸茂梨に到ったことになっている。このとき五十猛神は多くの樹種をもっていたが韓地には植えずに大八洲国に渡り、筑紫から始めて国中に青山を成したので有功の神とされ、紀伊国の大神として鏡座しているとされている。また、第五の一書をみると、「素戔鳴尊曰。韓郷之嶋。是有金銀。若使吾兒所御之國。不有浮寶者。未是佳也。乃拔鬚髯散之。即成杉。又拔散胸毛。是成桧。尻毛是成[木皮]眉毛是成 樟。已而定其當用。乃稱之曰。杉及[木豫]此兩樹者。可以爲浮寶。桧可以爲瑞宮之材。[木皮]以爲顯見蒼生奥津棄戸將臥之具。夫須[口敢]十木種皆播生。于時素戔鳴尊之子。號曰五十猛命。妹大屋津姫命。次採津姫命。凡此三神亦能分布木種。即奉渡於紀伊國也。然後素戔鳴尊居熊成峯。而遂入於根國者矣。』棄戸。此云須多杯。[木皮]此云磨紀。」

とある。これによると、スサノオ神が韓郷の島は金銀が豊富であるといい、さらに吾が児の支配する国に船がないのはよろしくないといって自らの身体の毛を抜いて木々にかえたとある。この時、スサノオ神の御子神である五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命の三神もまた、木種を蒔いたとされる。そして、この三神は紀伊国へ渡ったことになっている。このように、『日本書紀』の第四・第五の一書にはスサノオ神の天降りにさいして、朝鮮や御子神の五十猛神のことが記されている。

五十猛神  神奈備にようこそ