神社とその伝承 伊太祁曽神社
松前健著作集から


『松前健著作集第三巻伊太祁曽神社』から

第五章 伊太祁曽神社
                              松 前  健

 

 『延書式』神名帳の紀伊国名草郡の項に、日前神社国懸神社につづいて「伊太祁曾神社 名神大。月次相嘗新嘗」とある。祭神は素戔嗚尊(すさのおの)の子神で木神・植林神とされる五十猛命(いたけるの)である。神位は高く、大同元年(八〇六)に神封五十四戸を充てられ(『新抄格勅符抄』)、嘉祥三年(八五〇)従五位下(『文徳実録』)、貞観元年(八五九)従四位下、元慶元年(八七七)従四位上(『日本三代実録』)、延喜六年(九〇六)正四位上(『日本紀略』)に叙せられている。旧官幣中社。なお、当社のさまざまな中世文書には「紀州一宮伊太祁曾神社」などと記されており、紀伊一の宮が当社か日前・国懸神宮かをめぐつて論議もあったが、実際はどうであれ、中世の当社が日前・国懸神宮に並ぶほどの威勢をもっていたことはたしかであろう。

 紀伊国は古くは「木の国」といい、文字どおり樹木の豊かな国であった。当社はこの木の国の守り神として紀伊国造家に奉斎されたが、日前・国懸神宮とは違って、現実の植林や製材とも結びついていた。

 五十猛命の妹神とされている神に大屋津比売(おおやつひめ)と都麻津比売(つまつひめ)があり、現在当社では、中央に五十猛、左脇に大屋津比売、右脇に都麻津比売が三殿ならんでまつられている。平安はじめの 『先代旧事本紀』地神本紀には、このイタケルとその二人の妹オホヤツヒメ、ツマツヒメの三柱の神は、「紀伊国造の齊き祀る神なり」と記されている。この三神は、伊太祁曾神社の古縁起によると、いま日前・国懸神宮の神域のある宮郷で一所にまつられていたが、垂仁天皇十六年に日前・国懸大神がこの地へ遷座するに及んで山東庄(現在の「亥の森」という地)に移り、そこから和鋼六年(七一三)現在地に遷座したという。この「亥の森」には現在、イタケル兄妹三所神を祭神として摂社三生神社(みぶ)がまつられている。

 この三神については『統日本紀』大宝二年(七〇二)二月朔日の条に「この日、伊太祁曾・大屋津比売・都麻津比売の三神の社を分ち還す」と記されており、これが現在地への五十猛神遷座の正しい年代であろう。延長五年(九二七)の『延喜式』神名帳には伊太祁曾神社の次に「大屋都比売神社月次新嘗」「都麻都比売神社月次新嘗」とあるが、この二社は現在、宇田森と平尾に分かれて鎮座する。大宝二年の国史記録から推して、現在の伊太祁曾神社の脇殿としての二殿は後世に改めて追加されたものであろう。

 三神にまつわる神話は『日本書紀』の一書の伝えに見える。すなわち、昔、スサノヲがその御子イタケルを伴って新羅の国からくにの曾尸茂利(そしもり)の地に天降ったとき、イタケルは天から多くの樹木の種子を持って降ったが、これを韓国の地には播かず、日本に渡り、九州から始めて津々浦々に播いたので、日本全土の山々が青山となった。そこでこの神を「有功(いさお)の神」とたたえ、「紀伊国にいます大神」と呼んだという。また別の一書によると、イタケルは妹のオホヤツヒメ・ツマツヒメの二女神とともに樹木の種子を広く播きほどこして紀伊国に渡り、のちに三神の父スサノヲは熊成峯(くまなりのたけ)から根の国(死者の国)に去ったという。

 『古事記』には、兄の八十神(やそがみたち)に迫害された大己貴命(おおなむち)が木の国の大屋毘古(おおやぴこ)神を頼って行ったとあるが、この神とイタケルとが同一の神であることは多くの学者が承認するところである。妹のオホヤツヒメに対して、兄をオホヤビコと呼んだのであろう。いうまでもなく、オオヤは大きな家を意味し、やはり木材とは不可分の関係にある。

   『日本書紀』一書の木種(こだね)分布の神話は、おそらく古代木の国の林業関係者たちが伝えたものであろう。後世になっても、木曳(こびき)などの林業者たちの山の神は、一年の定められた日に山めぐりをして木種を播くと信じられ、その日の山入りはタプーとなっている。日本の民間伝承の山の神は山の草木を支配し、山の樹々を数えるとか特別な形の樹を座としているとかいわれ、木の神の性格が濃い。現在も当社には、四月第一日曜日(古くは四月三日)に材木業者たちの参加する「木祭(きまつリ)」がある。

 一方、伊太祁曾の近くの鳴神(なるかみ)や井辺(いんべ)などの地は、古くは紀伊忌部の居住地であった。『古語拾遺』は、紀伊忌部の祖先たちを率いて山の材を採り、神武天皇のために宮殿を造営した天富命(あめのとみ)(忌部氏の祖)の子孫が紀伊国名草郡の御木(みき)・麁香(あらか)二郷にいると伝えているが、この伝承は大和朝廷の宮殿建築の用材を伐採して造営を行なう工人の部曲(かきべ)が、忌部氏の配下として古くからこの地に居住していたことを示している。

 なお、右の『日本書紀』の神話は、南朝鮮の地にハゲ山が多く、日本の山々に青々と樹々がしげっているという実態にもとづくものであろう。新羅の地名ソシモリ(「牛頭」を意味するという)や、やはり朝鮮半島の地名であった熊成(くまなり)(コムナレ、熊川)なども、この説話のいわば国際性を物語っている。ちなみに、イタキソのキソはケソの音転ともいわれるが、キソ、ケソを朝鮮系の女神の名「ヒメコソ」の「コソ」に通じる敬称とする三品彰英、鮎貝房之助など諸家の研究がある。

 イタケル神が父神のスサノヲと共に新羅に天降り、そこから船に乗って日本に渡来したという伝承は、単なる架空のものではなく、この神を奉じる紀氏(紀伊国造家)一族の朝鮮半島との交流を物語る神話でもある。『日本書紀』によると、紀氏一族は五世紀から六世紀にかけてしばしば百済・新羅などの朝鮮半島諸国に派遣され、軍事や外交などにたずさわっている。彼らは海人を率い、造船や航海にも長じ、また対外貿易をも行なっていたらしい。

 『日本書紀』の一書の説では、イタケルの父スサノヲが体のいろいろな毛を抜いて撒き散らすと、さまざまな樹木となった。そのなかで浮宝(うきたから)すなわち船の材となったのが杉と樟(くす)とであったという。イタケルは木の神であるとともに船の神でもあり、現在の当社の十月の例祭でも、交通安全とともに大漁が祈願される。この神の父スサノヲの崇拝も、もともとこの地と結びついていたと思われる。平安初期の『倭名抄』は名草郡に「須佐神戸(すさのかんべ)」を記しているが、現在も伊太祁曾の近くに「須佐」の地がある。また、同じ地名は在田郡(現在有田市)にもあり、そこには式内名神大社「須佐神社」が鎮座する。筆者はこの在田郡の須佐神社こそ、スサノヲの崇拝の本来の母胎地ではなかったかと論じたことがある(『日本神話の形成』『出雲神話』)が、この考えは現在も変わらない。スサノヲの崇拝の原郷としては、しばしば出雲国大原郡の須佐郷と須佐神社があげられるが、しかし、在田郡の須佐社は名神大社で、『日本書紀』の一書の植林神話と場所的にも一致するのに対し、出雲の須佐社は『延喜式』では小社にすぎなかった。また、在田郡の須佐神社と伊太祁曾神社は、祭りのとき社人(いまでは氏子総代)を派遣しあうなど、深いつながりをもっていた。

 なお、イタケルの別名といわれるイタチ神も式内の神として広く諸国にまつられていたが、紀伊国名草郡にも伊達(いたて)神社(名神大社)があり、現在、和歌山市園部に鎮座する。『延喜式』神名帳の、出雲国には、韓国伊太神社が六社記されている。イタケルが韓土から数多くの樹木の種子を日本にもたらし、日本の山々を青山となしたという『日本書紀』の伝承を思い浮かばせる。要するに、韓国と結びついた樹木神なのであろう。

 ところで、前述のように、伊太祁曾神社の故地は現在の日前・国懸神宮の神域内にあったというが、次のような不思議な伝承について考えてみたい。

 伊太祁曾神社には『日本紀伊国伊太祁曾明神御縁起事』という中世の縁起絵巻があり、イタキソの神を「日出貴(ひだき)大明神」とか「居懐貴孫(いだきそ)大明神」と呼んで、日輪もしくは日の御子を抱く一種の母神的存在として描いている。

 また同絵巻は、イダキソの神を伊勢の風宮の祭神シナトベと同体の神だと言ったり、その抱く御子をホノニニギであると言ったりするほか、御子を抱く形だからイダキソだという語呂合せ的説明を行なっており、また全体的にかなり中世的な色彩も強いが、古い日本の母子神信仰を残したものであることは西田長男も論じているところである。そしてこの文書にも、この母子神がまず紀伊の日前宮に降臨し、のちにそこから山東庄伊太祁曾の地に影向ようごうしたと記されている。この伝承が何らかの史実を反映しているか否かについてはさまざまに論じられ、たとえば、古い土地の樹木神イタキソの神を奉じる集団と、そこへ新しい日前大神を奉じて乗りこんで来た支配者集団との葛藤というような史実の反映と取る説もある。しかし筆者は、イタキソの旧地が日前神の神域であったとする伝承はこのイタキソの神と日前大神とが未分化であったころの記憶の名残りではないかと考えている。つまり、中世の縁起絵巻にある母子神としての像は、原始信仰を中世密教が変容させたものと考えられるのである。 

 日本の古い太陽信仰は母子神の形を取るものが多かったようである。対馬の佐護の神御魂(かみむすぴ)神社の御神体は日輪を抱いた女体の木像であり、これを俗に「女房神」と称している。社地は式内天神多久頭魂(あめのかみたくつたま)神社の磐境(いわさか)の内にあり、天神多久頭神の母神なりと『対州神社誌』は記しているが、この神も一種の「日の御子を抱く母神」である。これがいわゆる天童法師の伝承と結びつくものであることは、だれしも了解できるであろう。 天道法師の母は「照日の采(さい)の女(むすめ)」といい、朝日の光によって懐胎し天童を生むが、母子ともにウツボ舟で流され、対馬の豆酸(つつ)の内院(ない)の浜に漂着する。天童法師はこの日の御子であるが、要するに、佐護と豆醍の式内タクヅタマ神社の祭神の中世的変容にすぎないようである。大隅正八幡宮(鹿児島神宮)についての中世の縁起(『宇佐託宣集』『八幡愚童訓』など)にある、震旦(しんたん)国の陳大王の女(むすめ)オホヒルメが朝日によって懐胎し、母子ともにウツボ舟に入れられて流され、大隅の海岸に漂着して神にまつられたという話も、これと同様な伝承である。

 こうしたウツボ舟漂流譚は日本のみならず世界各地にあり、流される御子が日の御子であるらしいことはレオ・フロペニウスが論じ、松本信広も指摘したところである。筆者もかつてこの種の伝承を「太陽の船」の祭儀の説話化であろうと論じたことがある(『日本神話の研究』)。

 日前・国懸神宮の神も「船に乗る日神」と推定されるが、あるいはその神はもともと母と子の神で、母神のほうが朝廷の天照大神と無理に同体視させられたため、国懸大神のほうが宙に浮いてしまったのではあるまいか。すなわち、本来は太陽神(御子神)とならんで樹木の生成や田畑の豊穣をつかさどる原母神が祀られていたが、片方が皇祖神と同一視されるとともに、もう一方は実体のない名だけの神格としての国懸大神となり、それに伴って樹木生成および船の神という内性が独立して他に遷され、イタキソ神という形になったのではなかろうか。現在、伊太祁曾神社は紀伊国造家とはまったく無縁な社となっており、また日前・国懸神宮とも関係がない。ただ伊太祁曾神社 の境外末社として、その北方約二・五キロの明王寺字小谷に丹生(にう)神社があり、伊太祁曾神社の御旅所として例祭には神輿がここに運ばれ祭典を受けるが、祭神はイタケルではなくアマテラス他二神である。これはイタキソの神にかつて日神としての内性があったことの痕跡ではないかとも考えられる。

 なお、伊太祁曾神社の境内史跡としては、霊石「お猿石」と、俗称「天の岩戸」という横穴式石室をもつ後期古墳がある。また年間の祭りとしては、前述の四月の木祭のほかに、一月十四日の夜の卯杖祭(卯杖管粥占神事うずえくだかゆうらない)や七月三十日夜の茅輪祭(ちのわ)、十月十五日の例祭などがある。(交通南海電鉄貴志川線伊太那曾駅より南へ約二百メートル)

 (1)鮎貝房之進『日本書紀朝鮮地名考』(国書刊行会復刻初版一九七一年)、三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考証』上(吉川弘文館一九六二年)。
(2)(3) 松前健『日本神話の形成』(塙書房一九七〇年)、本著作集第八巻に再録。
(4) 全国に分布する伊達神社の祭神が、植林の神イタケルであろうとする説は 鈴木垂胤『日本書紀伝』二十四の巻、矢野玄道『神典翼』十三の巻などに主張され、一般に知られている。
(5) 西田長男『古代文学の周辺』 (桜楓社 一九六四年)
(6) 松本信広『日本神話の研究』 (平凡社 一九七一年再刊)
(7) 松前健『日本神話の新研究』 (桜楓社 一九六〇年)本著作集第十一巻に改訂再録。
          以上

伊太祁曽神社
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