神社のトコロテン遷座
大阪市 瀬藤 禎祥

 伏見稲荷大社を稲荷山頂から麓に勧請したのは弘法大師空海によるとの俗説がありますが、実際は中世の出来事のようです。その麓には藤尾社(現在の藤森神社)が先に鎮座していましたが、現在地の伏見稲荷大社の1.5kmほど南へ遷座を余儀なくされました。所がその地には式内社の真幡寸神社が先に鎮座していました。真幡寸神社を城南偶境内に遷座させています。山城国紀伊郡のトコロテン遷座です。伏見稲荷の近所の住民は藤森神社の氏子だそうです。
 紀伊国の濱宮は崇神期に豊鍬入姫命が天照大神を奉じて祀った場所とされています。濱宮には同じ頃に琴の浦から天懸大神・国懸大神も遷し、宮殿を並べたと伝えられています。三年後、豊鍬入姫命は天照大神を奉じて吉備に行かれました。
 時代が下って持統天皇の紀伊行幸があり、紀伊国造は、濱宮から天懸大神、国懸大神を名草萬代宮と呼ばれる現日前国懸神宮の地に遷しました。そこには伊太祁曽神社が鎮座していましたが、これを山東の亥の森に遷座させました。これは紀の国の国譲りと呼ばれています。『続日本紀』大宝二年(702年)「是日。分遷伊太祁曾。大屋都比賣。都麻都比賣三神社。」とあります。伊太祁曽神社にまつられている五十猛命・大屋都姫命・都麻都姫命の三柱の神を三社の神社に分けて祀るようにとの勅命が出て、伊太祁曽神社は三分割されました。おかげで朝廷からの幣帛は三倍になりました。その際、五十猛命を祀る伊太祁曽神社は現在の地に祀られました。実は先にそこに鎮座していた須佐神社(素戔嗚尊を祀る)が遥か有田郡に遷座していったと思われます。伊太祁曽神社の現在の鎮座地は伊太祈曽ですが、その西側を口須佐といい、南側を奥須佐と言います。おそらく伊太祈曽の旧地名は須佐だったのでしょう。『和名抄』には、名草郡に須佐神戸の地名があります。『寛永記』に、和銅六年(713年) 五十猛命、大峰釈迦嶽から山東の地に降臨したとあり、同じ年に須佐神社が吉野の西川峰より勧請とあります。伊太祁曽神社が須佐神社を追い出した形になっていますが、両社の祭礼の時にはお互いが氏子さんを派遣することが続いていますし、須佐神社の中に伊太祁曽神社の遥拝所があります。今、これを主張しているのは神奈備しかいないのですが、小川琢治氏は須佐神社は名草郡にあったと推定されており、心強いことです。 濱宮・日前国懸神宮・伊太祁曽神社・須佐神社とトコロテン遷座をやっているのです。


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