どうなってるの 欠史八代


大和の地図


神武天皇と欠史八代の「妃」と「物部」「海部」の世代から見る。

漢風
世代
和風名 物部の大臣 物部
世代
海部氏 海部
世代
神武天皇 1 神倭伊波礼毘古命 記 阿比良比売
記 大物主の娘 比売多多良伊須気余理比売 *1
紀 事代主の長娘 媛踏鞴五十鈴媛命 2
宇摩志麻治命 天香語山命
   2 当芸志美美命
(手研耳命)
記 伊須気余理比売 *1 同一        
綏靖天皇 2 神沼河耳命 記 師木県主の祖 河俣毘売 2
紀 事代主の次女 五十鈴依姫 2
紀 磯城県主の娘 川派媛
紀 春日県主大日諸の娘 糸織媛
彦湯支命 天村雲命
安寧天皇 3 師木津日子玉手見命 記 師木県主波延(河俣毘売の兄)の娘 阿久斗比売 3
紀 事代主の孫 渟名底仲媛命 3
紀 磯城県主葉江の娘 川津媛 3
紀 大間宿禰の娘 糸井媛
大彌命 天忍人命
懿徳天皇 3 大倭日子鋤友命 記 師木県主の祖 賦登麻和訶比売命
紀 安寧の子の息石耳命の娘 天豊津媛命
紀 磯城県主葉江の男弟猪手の娘 泉媛 3
出雲醜大臣    
孝昭天皇 3 御真津日子訶恵志泥命 記 尾張連の祖奧津余曽の妹 余曽多本毘売命
紀 磯城県主葉江の娘 渟名城津媛 3
紀 倭国豊秋狭太媛の娘 大井媛
出石心大臣 瀛津世襲命
孝安天皇 3 大倭帯日子国押人命 記 姪の忍鹿比売命
紀 姪(兄の娘)押媛
紀 磯城県主葉江の娘長媛 3
紀 十市県主五十坂彦の娘五十坂媛
三見宿禰 建筒草命
孝霊天皇 4 大倭根子日子賦斗邇命 記 十市県主の祖大目の娘細比売命
記 春日の千千速真若比売 *2
記 安寧の子師木津日子の子和知津美命の娘 意富夜麻登玖邇阿礼比売命(蠅伊呂泥)
記 その妹蠅伊呂杼
紀 春日千乳早山香媛 *2 同一妃
紀 十市県主等の祖の娘 真舌媛
大矢口宿禰    
孝元天皇 5 大倭根子日子国玖流命 記 穂積臣等の祖内色許男命の妹 内色許売命
記 内色許男命の娘 伊迦賀色許売命
記 河内の青玉の娘 波邇夜須毘売
紀 記に同じ
鬱色雄命 建田背命
開化天皇 5 若倭根子日子大毘毘命 記 旦波大県主由碁理の娘 竹野比売
記 庶母伊迦賀色許売命
記 和邇臣祖日子国意祁都命の妹 意祁都比売命
記 葛城垂見宿禰の娘 9e07ワシ比売
紀 記のワシヒメなし
鬱色雄命
伊迦賀色許雄命
5,6 建田背命
崇神天皇  御間城入彦五十瓊殖命 紀 孝元の子の大彦の娘 御間城姫
紀 紀伊国荒河戸畔の娘 遠津年漁眼眼妙媛
紀 大海宿禰の娘 八坂振天某辺
紀 尾張大海媛
記 順は違うが同じ
伊迦賀色許雄命 建諸隅命



欠史八代の世代と在位年数の推測について

手研耳命 神聖王神武天皇のもとで、長らく朝政を見ていたが、二人の弟(神八井耳、綏靖)を殺そうと企て、逆に綏靖に殺された。立場上、綏靖天皇と同世代と見なした。

綏靖天皇 神武天皇と同世代の事代主神の娘を娶っているが、神武は50歳を過ぎてからの婚姻であり、綏靖天皇は二代目の世代とする。紀在位32年。

安寧天皇 事代主神の孫を娶っているので三世代目となる。磯城県主葉江の娘をも娶っている。紀在位38年。

懿徳天皇 磯城県主葉江の娘を娶っている。三世代目のまま。紀在位34年。

孝昭天皇 上記と同様。三世代目。紀在位82年

孝安天皇 上記と同様。三世代目。紀在位101年。三代目四人の平均在位は64年。

孝霊天皇 三世代目安寧天皇の曾孫(大倭玖迩阿禮比賣命)を娶っていることから見ると計算上は六世代目に跳ぶが、次の四世代目とした。紀在位75年。

孝元天皇 物部の世代が進んでいるので五世代目とする。紀在位56年。

開化天皇 庶母の伊迦賀色許売命を娶っているので、五世代目としておく。紀在位60年。平均58年。

安本美典氏仮説により、一代10年とすると、欠史八代で80年。また田中卓氏は一世代は約30年とされる。それで言うと欠史八代は三世代弱となるが、孝霊天皇と孝元天皇とは同世代とはしにくいので、4世代とした。同一世代の王とは各地で王となったものと見なした。その『紀』の在位平均年数を80年で配分、丸めたのが、以下の表である。

 綏靖安寧懿徳孝昭孝安孝霊孝元開化合計
世代 
紀の在位32383482101755660 
世代年数
平均
32   6475 58317
八代80年11   2226 2080
丸めると10   2030 2080



『記』での、各天皇と地域との関係


 神武天皇 薩摩 日向 築紫(宇佐 遠賀川)安芸 吉備 浪速 紀伊 大和
 安寧天皇 淡路
 懿徳天皇 甲斐
 孝安天皇 吉備(御子の名が大吉備諸進命)
 孝霊天皇 派兵 播磨 吉備 伯耆 備後 讃岐
 孝元天皇 婚姻 河内 尾張 木国
 開化天皇 婚姻 丹波 山代 淡海
 崇神天皇 婚姻 木国 尾張 派兵 高志国 東国(伊勢〜陸奥) 丹波 吉備

 吉備が大和にとって目の上の瘤のような存在だったようだ。これは雄略の時代まで続く。
 孝元天皇の時代に尾張から姫を娶っている。狗奴国との対立はそれ以降の出来事かも知れない。同盟とは同盟国との次の戦争への準備段階とも言う。。



各天皇を祀る地域別神社(多くの天皇を祀る神社は除いた。)
天皇薩摩肥後豊後筑後土佐伊予阿波讃岐備後備中備前出雲伯耆大和近江丹波
北陸
東国
綏靖 19          
安寧                
懿徳               
孝昭                
孝安               
孝霊   11  1110  
孝元                
開化            

綏靖天皇は肥後・豊後で金凝神として祀られている。褐鉄鉱を採取して叩き固める技術に秀でていた人物だったか。いずれにしても、肥後で多く祀られていることは、大和へ出発前に武器を製造していたのかも知れない。

孝霊天皇は安芸・吉備を中心に南北に活躍している。本格的な大和の王だったか。

  



第六代孝霊天皇について。

 瀬戸内の王者と言える。備中備後、伯耆、土佐に祭神とする神社が主に分布しており、活躍圏を示しているようだ。特に伯耆の樂樂福神社には、「孝霊天皇は武勇絶倫の彦狭島命を伴いて巡幸され、西の国を治め給う」との由緒を持っている。また、備後(広島県府中市)の南宮神社は孝霊天皇の御陵とされている。

 孝霊天皇の妃に大倭玖迩阿禮比賣命(記では意富夜麻登玖邇阿礼比売命)がいる。三代目安寧天皇の子師木津日子の子和知津美命の娘であり、和知津美命は淡道(淡路島)に宮を置いた。淡路の大倭と言えば、式内社の大和大國魂神社が鎮座、この大和に縁の名だろうか。

 淡路の大倭玖邇阿礼比売、即ち大和国を出現せしめた姫、イザナミの神そのもの、原形のように思える。阿波国美馬郡にイザナミを名乗る唯一の式内社である伊射奈美神社が鎮座している。同じ郡に式内倭大國玉神大國敷神社二座も鎮座、淡路とよく似ている。なお名方郡に鎮座の式内天佐自能和気神社の祭神の一柱に大倭玖迩阿禮比賣命の名が見える。

 悪のりをすれば、孝霊天皇がイザナギ命のモデルとなった人物だったのかも知れない。そうすれば、イザギ・イザナミの子が天照大神で、孝霊・玖迩阿禮の子の百襲姫が卑弥呼となり、符合しそうだ。  



淡路の鉄と阿波の水銀朱と百襲姫。

   淡路島に近畿弥生後期(西暦100年〜220年)最大の鍛冶工房がある。垣内遺跡と言う。  淡路島の北部。淡路島には鉄鉱山はない。原料の鉄の入手は、水銀朱との交換ではなかろうかと思われる。弥生後期の西暦100年頃から始まって古墳時代初期までは、阿波の若杉山が水銀朱の大きい産地であり、ここの水銀朱とで鉄原料を交換していたのだろう。徳島平野は局地的に鍛冶遺構の分布密度は高い。鉄器出土も他地域を遙かに凌駕しており、若杉山さまさまだった。

http://plaza.rakuten.co.jp/KUMA050422/diary/200901280000/
淡路市黒谷の垣内(かいと)遺跡の発掘で、鍛冶(かじ)工房跡計十カ所が確認され、弥生時代後期(一〇〇-二三〇年)で国内最大規模の鉄器製造群落だったことが分かった。同市教委が二年間の調査結果として発表した。弥生時代の鍛冶工房跡は九州など西日本各地で見つかっているが、建物が密集した製造専門集落は全国的に珍しく、当時のいわば工業団地。専門家によると、大和政権成立以前の有力者の一大武器供給源だった可能性もあるという。

 鉄は弥生時代中期初頭、中国、朝鮮半島から九州へ伝わった。その後、山陰、近畿へ伝わった日本海ルートと、四国までの瀬戸内海ルートがあるとみられている。今回見つかった鉄器の特徴などからは、徳島から淡路島へ渡ってきた可能性もあるとみられる。

 東アジア考古学・冶金(やきん)考古学を研究する愛媛大学法文学部の村上恭通教授は「農耕民の生活臭がない工房空間で、例がない密集度は安定的な生産を裏付けている」と指摘。市教委は「淡路島が鉄器生産で重要な鍵を握っていたことになる」としている。


 孝霊天皇は大倭玖迩阿禮比賣命を娶り、大倭迹迹日百襲比賣命と大吉備津日子命が生まれた。倭迹迹日百襲姫命を祭る神社は吉備に4社、讃岐に5社、阿波に1社、他に大和など3社に祭られている。
讃岐国  高松市 式内田村神社
讃岐国  東かがわ市 式内水主神社
讃岐国  東かがわ市大内町丹生 艪掛神社 大内は比売の御殿 丹生は辰砂
讃岐国  東かがわ市大内町 
讃岐国  高松市 船山神社
阿波国  鳴門市 定水明神社

 讃岐の神社には百襲比売が七歳の時、大和から到着したとの伝承がある。実際には、淡路か吉備からやって来たのかも知れない。鎮座地に丹生(にぶ)地名がある意味は大きい。『和名抄』の大内郡に入野郷がある。『平家物語』に、義経一行が屋島攻めの前に、「白鳥、丹生屋をうちすぎうちすぎ 屋島の城へと寄せたまう。」とあり、古い地名であり、辰砂に絡む。

 神社名から見ると百襲姫は水神と思われる。これはイザナミの子のミズハノメに相似、阿波には式内社の弥都波能賣神社が鎮座、この神は丹生都比売神と同じく水銀の神である。百襲は桃即ち辰砂に通じる。孝霊天皇は若杉山の水銀朱の涸渇に悩む忌部氏を取り込んで大和に導いたのだろう。

鷲敷町仁宇 丹生八幡神社の木彫り

桃が見える。丹生→桃→百襲姫


  弥生後期から古墳時代初期には若杉山の水銀も涸渇しつつあり、新たな水銀の産地が求められた。孝霊天皇が四国を巡ったのは水銀鉱床の探索が目的だろう。めぼしい鉱山はなく、やはり大和国宇陀郡の鉱山を狙ったのだ。詰まるところ、神武東征の目標に水銀朱確保=鉄原料の確保が見いだされる。


 孝霊天皇の皇子の七代孝元天皇の代に大和で大倭迹迹日百襲比賣命を神聖王として、瀬戸内から畿内までの争乱を治めることが出来た。神武東征の完了である。次代の孝元天皇の妃に物部氏の娘達の名が見える。ここに至って大和王権の誕生である。


 阿波には価値の高い水銀朱が採取できる鉱山があったので、資金が豊富、それなりの発展をした。古墳の原形とも言える萩原2号墳(200年頃)、萩原1号墳(220〜230年頃)の積石木槨タイプの古墳があり、これが大和のホケノ山古墳につながったと言われている。積石塚は高句麗系とされ、高皇産靈神を祖神とする忌部氏の墓に相応しい。恐らく、若杉山で水銀朱を採取していたのも忌部氏だったと思われる。

萩原古墳ホケノ山古墳
 

萩原2号墳  同発掘後
 

 「ホケノ山古墳の被葬者は阿波の人」と石野博信氏。それほど、萩原古墳とのつながりが強い。ホケノ山古墳の築造年代は3世紀中頃と言う。萩原古墳群を築造した忌部氏が大和に移動していき、造営したのだろう。木槨は水銀朱で覆われていた。宇陀水銀であろう。

 阿波忌部氏の祖とされる天日鷲命は、「天加奈止美命」即ち「天金鵄」とされ、神武天皇の弓にとまって燦然と輝いた金鳶であると言われる。

 



欠史八代の年表
西暦支那文献
事件
考古史料執政王神聖王
   大国主命大物主神 
  小さい銅鐸の時代   
    饒速日尊 
  大さい銅鐸の時代   
   長髄彦  
100神武東征開始高地遺跡神武五瀬命 
110倭国王帥升等生口160人を献ず。 手研耳神武 
120  綏靖神八井耳 
130  安寧懿徳孝昭孝安常根津日子伊呂泥 
140  安寧懿徳孝昭孝安↑安寧の兄 
150『魏志倭人伝』倭国乱れ相攻伐すること暦年〜188 孝霊大吉備諸進 
160  孝霊↑孝霊の兄百襲姫誕生
170  孝霊 百襲姫讃岐へ
180184-189 中平銘鉄刀天理市東大寺古墳孝元開化 百襲姫大和へ 
190卑弥呼共立・倭国乱終焉。
卑弥呼、邪馬台国に都す。
高地遺跡
(天皇家、物部、忌部 同盟。)
孝元開化百襲姫 
200 阿波萩原二号墳崇神百襲姫宇陀水銀
210 唐古鍵遺跡が俄に衰退
纏向遺跡が発展
崇神百襲姫 
220 淡路垣内遺跡が消滅
阿波水銀若杉山涸渇
萩原一号墳
崇神百襲姫 
230  崇神百襲姫 
240卑弥呼、親魏倭王に册封。ホケノ山古墳崇神百襲姫 
250247 狗奴国王卑弥弓呼と戦う。
卑弥呼死去・男王たつも国乱れ13才台与共立
箸墓崇神男王/豊鍬入姫 台与 
260  垂仁豊鍬入姫 
266『晋書』武帝本紀 倭人来献 垂仁豊鍬入姫 



阿波の忌部氏

阿波の古墳造営や水銀朱探索掘削技術の忌部氏も大和へお供したのだ。 香具山を愛でる心も。

 徳島県吉野川市(旧麻植郡)鴨島町麻植塚字堂の本鎮座の五所神社の祭神は、物部の五世孫の欝色謎命と同世代の物部の大麻綜杵命(おおへつきのみこと)。大麻綜杵命を祀る神社は全国でここ一社。麻の字のない大綜杵命は尾張国葉栗郡の高田波蘇伎神社にも祀られている。名前から麻を除き、忌部との関連を消したとの説もある。その妃が高屋阿波良姫。「高屋」からは讃岐(香川県坂出市高屋町)が思い浮かぶ。高家神社が鎮座。観音寺市高屋町には式内高屋神社が鎮座、強く四国が意識される。「阿波良」姫の名からはまさに阿波が想像される。

 大麻綜杵命と高屋阿波良姫の間の子が伊香色謎命・伊香色雄命で、伊香色謎命は崇神天皇の生みの親となる。
 不思議なことに高屋阿波良姫と伊香色謎命を祀る神社が丹波国船井郡の住頭神社(すみどじんじゃ)である。

『阿波風土記』の逸文は手持ちの書物に採録されていないが、『麻植郡郷土史』に下記のような引用があると言う。「大麻綜杵命の母は伊香色謎命なり按するに大麻綜杵命は阿波忌部族なるべし〜」。これは、「崇神天皇の母は伊香色謎命なり。伊香色謎命は大麻綜杵命と高屋阿波良姫の女であるから、両親に「麻」、「阿波」の文字がある所から、伊香色謎命は阿波忌部の血を受けている。」との理解でいい。

 阿波国麻殖郡に式内社の伊加加志神社が鎮座している。

 伊香色謎命に阿波忌部氏の血が半分、そうすると、崇神天皇の1/4は阿波忌部の血、半分は全天皇の血、残りの1/4は物部と言える。



(付録)神社伝承 創建時期 出来事など  
漢風 天皇の時代の神社創建譚 天皇の時代の出来事  
綏靖天皇 上総国 望陀郡 飽富神社 皇兄神八井耳命が創始
甲斐国 山梨郡 甲斐奈神社 綏靖天皇の御代、甲斐国開拓に際し甲斐奈山(現・ 愛宕山)の頂きに白山大神を祀ることに始まる。
甲斐国 山梨郡 熊野神社 皇子土本昆古王、甲斐国御開拓の 砌、此地に村邑を設けその守護神として創祀さる。
甲斐国 八代郡 佐久神社 祭神向山土木毘古王、長じて第二代綏靖天 皇の大臣となる。甲斐の国造に任命、入国せられる。
上野国 群馬郡 榛名神社 綏靖天皇の時代に鎮座。
山城国 愛宕郡 下鴨神社 綏靖天皇の御世に御生神事が行われていたと伝えられている。  
筑前国 怡土郡 産宮神社 御祭神奈留多姫命は皇子神渟名川耳命(第二代綏靖天皇)を安産されました。
『神道集』巻二の六「熊野権現の事」綏靖天皇と申す帝は、朝に夕に人を7人食らいなさった。臣下は何よりもこのことを嘆いた。誰ひとり生き残れるとも思われず悲しんだ。mikumano.netから
 
安寧天皇
出雲国 神門郡 日御碕神社 安寧天皇13年勅命による祭祀あり、又第九代開化天皇2年 勅命により島上に神殿が造営された。
武蔵国 多摩郡 小野神社 創建 安寧天皇18年。
   
懿徳天皇 越前国 敦賀郡 野坂神社 懿徳天皇の時、伊豫国越智郡三嶋大明神の祠官、越宿禰成相翁稻鶴姫といふ夫婦が大神を勧請と伝える。
丹後国 与佐郡 籠神社 藤祭りが始まったのは、懿徳天皇四年(皇紀一五四年)と伝えられる。
甲斐国 八代郡 佐久神社 懿徳天皇四月十四日薨去せられ大宮山古宮の地に 奉葬す。
但馬国 美含郡 鷹野神社 懿徳 天皇の第二皇子当芸志比古命は多遅麻の竹別の祖と記されている。
中世の『古今和歌集序聞書三流抄』には、懿徳天皇が出雲に行幸して、素戔嗚尊に出会うという逸話が見える。
 
孝昭天皇 武蔵国 幡羅郡 楡山神社 孝昭天皇の御代の御鎮座。
武蔵国 荏原郡 氷川神社 孝昭帝の御字、出雲国氷の川上に鎮座する杵築大社をうつし祀った。
武蔵国 豊島郡 氷川神社 御創建は第五代孝昭天皇の時代。
相模国 足柄下郡 箱根神社 孝昭天皇の御代、聖占上人 が箱根山の駒ケ岳より、同主峰の神山を神体山としてお祀りされた。
伊豆国 賀茂郡 伊豆山神社 御創立の年代は、孝昭天皇の御代。
駿河国 富士郡 富知六所浅間神社 その創建は人 皇五代孝昭天皇の御宇。
和泉国 大鳥郡 石津神社 孝昭天皇の御宇七年八 月十日、勅願により創建。
出雲国 大原郡 斐伊神社 孝昭天皇三年に御分霊を武蔵国元官幣大社氷川神 社に奉遷した。
前国 田川郡  天降神社 創立孝昭天皇四十九年秋。
日向国 諸県郡 東霧島神社 孝昭天皇の御代に創立されたもの。
日向国 諸県郡 狭野神社 孝昭天皇の御代に、 神武天皇御降誕の霊跡を卜して御創建。
大和国 山辺郡 大和神社 日本の全国土の大地主大神で、第5代孝昭天皇の年、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎された。    
孝安天皇 紀伊国 名草郡 鳴神社 孝安天皇の御代、潮動(ウシホヤ)が起こり、平野が冠水、瀛津世襲が速秋津日神を敬齋すれば逃れられるとの託宣を受け、天皇は瀛津世襲命と武角河依命を派遣して祀らせた。
近江国 神崎郡 建部神社 孝安天皇ノ御代ニ近江国神崎郡千草嶽ニ大国主大神・事代主大 神ヲ祀リ奉ル。
日向国 那珂郡 住吉神社 孝安天皇の命によって創建され、 全国二千有余社の住吉社の総社。
近江国 坂田郡 筑摩神社  孝安天皇、神社を造営し筑摩三所天神と称される。
近江国 坂田郡 山田神社 孝安天皇の時猿田彦大神降臨。
武蔵国 多摩郡 穴沢天神社 孝安天皇4年3月創建。
陸奥國宮城郡 鼻節神社 孝安天皇の御代に、うが崎に鎮座。
三河国八名郡 石巻神社 第6代孝安天皇の時代の創建とも、33代推古天皇の時代とも言われているが、はっきりとしたところは分からない。
武蔵国 足立郡 月讀社 第6代孝安天皇20年の創建とされている。
伊豆国 賀茂郡 伊古奈比当ス神社 孝安天皇の御代創建。
隠岐国 越智郡 伊勢命神社 孝安天皇が猿田彦命を祭神として建立されたといわれる。
富士山に関する最も日付の古い記録は孝安天皇92年(BC301)庚申の年に、雲霧が晴れたところに米俵を積み上げたような山の勇姿が現れた。    
孝霊天皇 美濃国 土岐郡 天津日神社 是れ一書に孝霊天皇の御代の頃なる由を記せり。
尾張国 海東郡 津島神社 孝霊天皇45年に、建速須左男命(タケハヤスサノオノミコト)の御魂が韓郷の嶋より帰朝。
近江国 野洲郡 御上神社 孝霊天皇の治世期、天之御影神が三上山に降臨した。
近江国 犬上郡 春日神社 孝霊天皇五年亥の年虚空より 鹿来り千々の境内をかけ廻りて死す。
丹後国 熊野郡 三嶋田神社 孝靈天皇の御宇、武諸隅命(海部直の祖)生嶋に大山祇命・ 上津綿津見命・表筒男命を祀りて三嶋神社と稱し奉る。
伯耆国 八橋郡 宮崎神社 孝霊天皇の御代、皇子大日本根子彦国牽尊、土人のために今の 本社地に伊弉諾、伊弉冊尊を奉す。
長門国 美禰郡 八幡磨能峰宮 孝霊天皇の御宇、初めて創立し天照大神、蛭子大神を奉斎。
讃岐国 大内郡 水主神社 創祀は遠く孝霊天皇の御宇。
肥後国 阿蘇郡 阿蘇神社 孝霊天皇の時、御子速瓶玉命に勅して大神を祭られたのが当社創建の始め。
肥後国 蘆北郡 陣内阿蘇神社 孝霊天皇の9年(前281年)現在の阿蘇郡一の宮町に阿蘇神社と して祀られたと伝えられている。
伊予国 温泉郡 出雲崗神社 孝霊天皇の御代の創建。
美作国 東北条郡 寄松神社 孝霊天皇の御代に紀州熊野神社より勧請した。
近江国 蒲生郡 奥石神社 孝霊天皇の御宇、住人であった石辺大連という翁が神助を仰ぎ、松・杉・桧等の苗木を植えた所、忽ちに大森林になったという。
駿河国 富士郡 富士山本宮浅間大社 孝霊天皇の御代富士山が噴火し鳴動常なく人民恐れ て逃散し年久しく国中が荒れ果てた。
伯耆国 日野郡 樂樂福神社西の宮 孝霊天皇 は『武勇絶倫の彦狭島命を伴いて巡幸され、西の国を治め給う』と書かれております。
伯耆国 日野郡 樂樂福神社東の宮 溝口町の鬼住山と本町の鬼林山に兇賊あり、その賊をお討ちになって地方を平定。
伯耆国 日野郡 樂樂福神社宮原 鬼住山の悪鬼を降伐遊ばされて後、この地に崩御。
備後国 恵蘇郡 船山神社 孝霊天皇馬坂陵. 孝霊天皇の本当の御陵は広島県府中市南宮神社との見方もある。
備後国 蘆田郡 南宮神社 孝霊天皇陵
讃岐国 香川郡 桃太郎神社 孝霊天皇の皇子の稚武彦が本津川で洗濯をしていた娘に一目惚れして、その婿となり、女木島に住んでいた鬼を退治したと云う伝説を伝えている。
 
孝元天皇 能登国 鹿島郡 能登生国玉比古神社 孝元天皇の創祀という。
信濃国 水内郡 戸隠神社 創建第八代孝元天皇の5年。
信濃国 伊那郡 阿智神社 孝元天皇5年天八意思兼命御児神を従え て信濃国に天降り、阿智の祝の祖となる。
紀伊国 日高郡 内原王子神社 社伝 勧請 孝元天皇六壬辰年
因幡国 気多郡 鷲峯神社 鳥取県神祇年表の巻頭に、孝元5年八千矛神( またの名を大己貴命)が天羽車大鷲にのってこの山に降りられた。
石見国 美濃郡 豊田神社 第八代孝元天皇の御代に御鎮座。
長門国 豊浦郡 龍王神社 乳母屋神社は第八代孝元天皇の御代に鎮座。
肥後国 玉名郡 甲佐神社 甲佐神社ハ阿蘇神社ノ攝社ニシテ人皇8代孝元天皇26年鎮座。
   
開化天皇 武蔵国 足立郡 調神社 第九代開化天皇の時所祭奉幣の社として創建。
丹後国 熊野郡 三嶋田神社 人皇九代開化天皇の御宇に至りて河上の摩須が当社を崇敬した 。
丹後国 熊野郡 菅森神社 人皇九代開化天皇の御宇川上摩須大山昨尊を砥鞍ヶ嶽に祭る。
淡路国 三原郡 諭鶴羽神社 社伝によると、開化天皇の御代にいざなぎ、 いざなみ二柱の神さまが鶴の羽に乗り給い、高天原に遊び給うた。
出雲国 神門郡 日御碕神社 安寧天皇13年勅命による祭祀あり、又第九代開化天皇2年 勅命により島上に神殿が造営された。
近江国 野洲郡 御上神社 孝霊天皇の治世期、天之御影神が三上山に降臨した。開化天皇の治世期、その子孫である彦伊賀都命が三上祝に命じられた。
   


参考文献 『神々と天皇の間』鳥越憲三郎 朝日新聞社、『古代日本謎の四世紀』上垣外憲一 学生社、『大いなる邪馬台国』鳥越憲三郎 講談社、『平成祭りCD』神社本庁、HPs。

神武東征
神奈備にようこそ