神武東征 大和に到達

大和の地図

 『逆・日本史3』樋口清之著 から
 大和平野標高六〇メートル地点の謎
 石器時代の終わりごろの遺跡が、奈良県全体で、約三〇〇近く発見されている。これらの遺跡は、大和の吉野渓谷から始まり、宇陀・三輪を通って大和平野に降りてくるが、平野の周縁部に広がるだけで、中央の平坦部にはまったくないのである。そして、周縁にある遺跡は、いずれも標高六〇メートルほどの線までである。
 これが弥生文化の一八〇〇年ほど前の遺跡になると、標高五〇メートルの線まで下りてくる。もっとも標高の低い島根山古墳も、やはり標高五〇メートルの線で止まっている。
 これはどういうことかというと、石器時代には標高六〇メートルが、古墳時代には標高五〇メートルが、人間が生活できる極限線だったことを意味している。それ以下の低い土地には何らかの障害があって、人間が住むことができなかった。
 そして、住むことができなかった障害とは、そこに水があったからである。標高五〇メートル以下の土地はすべて、かつては水中であった。つまり、大和湖の湖面が、二七〇〇〜二八〇〇年前の石器時代には標高六〇メートルの線にあり、一八〇〇年ほど前の弥生時代には、標高五〇メートルまで水位が下がったということなのである。

 なぜ、北九州にではなく、大和に都ができたのか
 弥生文化が、おもに西日本で発達し、なかでも大和と北九州に大きな文化圏ができたことはよく知られている事実である。だが、なぜ、大陸文化を早くから受け入れた九州に王朝ができず、大和に日本の古代王朝が誕生したのだろうか。
 それは、大和平野に巨大な湖があり、時がたつにつれて、水位が下がっていったことに大きな原因があったと思われる。
 水位が下がったのは土地がしだいに隆起したからであるが、水が引いたあとの湖畔の土地はよく肥えていて、農業にもっとも適した土地であった。しかも、大和平野は周りを山に囲まれているため、強い風を防ぎ、夏は蒸し暑くて、水田で稲を栽培するのには好条件であった。また、地形が複雑で土地の高低差があり、斜面に恵まれていたことから、大和地方に水田稲作農耕がいち早く発達し、それが大和王朝を生んだのである。


たかばみさん提供奈良湖

 記紀に書いてあることを、学問的根拠もなしに頭から否定してしまうのは、戦前、神話をすべて鵜呑みにして「歴史」としたことと同じくらい滑稽な話である。
 なぜなら、神武天皇の話の内容は、じつは古代の大和に存在したいくつかの歴史的事実の印象や伝承を編集、つまり日本の古代社会の雰囲気を如実に表現した部分が、数多く含まれているからである。
 たとえは、地名である。
 神武天皇は九州の日向を出発し、東へ進んで大和に入ると、長髄彦・兄猾・弟猾・土蜘蛛などの未開人を平定し、畝傍山のふもとの橿原の宮で天皇の位に即いた、ということになっている。
 この長髄彦や兄猾・弟猾・土蜘蛛などがいたという土地や、橿原など、神武天皇に関係のある地名が『日本書紀』や『古事記』などに三三カ所ほど挙げられているが、これらの地名を大和の土地にあてはめると、すべて標高六○メート〜線以上に存在していることがわかる。
 しかも、その土地ほ、大和湖のまわりの小高い所で、縄文式土器の出土する遺跡とぴったり一致しているのである。
 神武天皇伝承が、奈良時代にだれかが勝手につくりあげたものなら、うっかり、標高六〇メートル線以下の、古代においては湖底にあたる地名も出る可能性がある。奈良時代には土地の隆起がいちじるしく、大和潮は幻の湖になっていた。 昔は水位が六〇メートル線にあったなどということは記録に残されていないからである。
 とくに驚くべきことは、神武天皇の都とされている橿原が、ちゃんと存在していたことである。



大和に入るルートや大和内部での動き方は記紀によって違うが、ここでは長髄彦との対決までは『古事記』に従って記述する。
 

1 吉野河の河尻 阿陀比賣神社
 「僕は国つ神、贄持(にえもつ)の子」に出会っている。阿陀の鵜養の祖である。
 神武天皇には阿陀の血(木花咲耶比売)が入っている。同族を訪ねて食糧などの支援と情報を求めたのであろう。大和へ入って真っ先に同族を訪問したのである。

2 吉野河を上流へ 井光神社
 吉野河をさかのぼると、尾ある人が井より出てきた。「僕は国つ神、名は井氷鹿」という。吉野首等の祖である。土壌の水銀含有率は 0.0060-0.0078%であり、地下に水銀鉱床が存在することを示している。

3 吉野の山中へ 大蔵神社
 山へ入ると、また尾ある人に会った。この人は岩を押し開けて出てきた。名は石押別と言う。吉野国巣の祖である。
 岩の中から出てきたのなら磐余であり、磐余彦とは神武天皇の名。熊襲の血は国巣の血と同じ。

4 宇陀の穿邑(うがちのむら) 宇賀神社
 宇陀の梟師兄宇迦斯を退治した場所である。兄宇迦斯は押機を造って神武天皇を陥れようとしていたが、大伴連の祖道臣命、久米直等の祖大久米命が兄宇迦斯を本人が造った大殿に追いやり、押しつぶしたのである。兄宇迦斯の血が流れたので血原と言う。これは宇陀が水銀朱の産地として名高く、神武天皇は何を置いてもここを占拠することが東征の大きい目的だった。
 地元では慕われていたのであろう兄宇迦斯の魂を祀ったのが宇賀神社である。

歌謡10 ここで久米歌を歌っている。『紀』では神武天皇が歌う。
 宇陀(ウダ)の 高城(タカキ)に 鴫罠(シギワナ)張る 我が待つや 鴫(シギ)は障(サヤ)らず いすくはし 鯨(クヂラ)障(サヤ)る 前妻(コナミ)が 肴(ナ)乞(コ)はさば たちそばの 実(ミ)の無けくを こきしひゑね 後妻(ウハナリ)が 肴(ナ)乞はさば いちさかき 実の多けくを こきだひゑね ええ しやこしや 

 神武天皇側についた弟宇迦斯は宇陀の水取等の祖となった。



5 忍坂の大室で土雲八十建を殲滅。久米歌。 忍坂坐生根神社
 

歌謡11 八十膳夫を設けて八十建を接待、道臣命の久米歌を合図に刺し殺す。
 忍坂(オサカ)の 大室屋(オホムロヤ)に 人多(サハ)に 来(キ)入(イ)り居(ヲ)り 人多(サハ)に 入(イ)り居(ヲ)りとも みつみつし 久米(クメ)の子が 頭(クブ)椎(ツツ)い 石(イシ)椎(ツツ)いもち 撃(ウ)ちてし止まむ みつみつし 久米(クメ)の子等(ラ)が 頭(クブ)椎(ツツ)い 石(イシ)(椎ツツ)いもち 今撃(ウ)たば宜(ヨラ)らし



6 登美毘古を撃とうとして久米歌を歌う。『紀』神武天皇。  

歌謡12 みつみつし 久米の子等(ラ)が 粟生(アハフ)には 臭韮(カミラ)一本(ヒトモト) そねが本(モト) そね芽(メ)繋(ツナ)ぎて 撃ちてし止(ヤ)まむ。

 また続けて神武天皇 
歌謡13 みつみつし 久米の子等(ラ)が 垣下(カキモト)に 植ゑし椒(ハジカミ) 口ひひく 吾(ワレ)は忘れじ 撃ちてし止(ヤ)まむ

 更に続いて神武天皇 
歌謡14 神風(カムカゼ)の 伊勢の海の 生石(オヒシ)に 這(ハ)ひもとほろふ 細螺(シタダミ)の い這ひもとほり 撃ちてし止(ヤ)まむ



7 兄師木、弟師木を撃とうとして神武天皇が歌う。志貴御県坐神社  
歌謡15 楯(タタ)並(ナ)めて 伊那佐(イナサ)の山の 木(コ)の間(マ)よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢(ヱ)ぬ 島つ鳥(ドリ) 鵜養(ウカヒ)が伴(トモ) 今助(ス)けに来(コ)ね



8 『古事記』では、ここで物部の遠祖邇藝速日命(饒速日命)が登場する。『日本書記』では、大和に先に降っており、当地の神聖王となっていて、長髄彦を殺して神武天皇に帰順するとしている。  

 久米歌は殆どは神武天皇が歌ったと『日本書記』に記されている。神武天皇は久米族の出身と言うべきだろう。



 『古事記』はこれで大和を制圧したとして畝火の白橿原宮に坐して、皇后の選定になる。『日本書記』は、ルートも違うし、戦い殺した原住民が多く記載されているので、以下に紹介しておく。




1 高倉山 

宇陀郡 高角神社
 御祭神 高倉下命 由緒  天皇は宇陀の高倉山の頂き登って、国の中を眺めた。




2 丹生川上 

吉野郡 丹生川上神社中社
 御祭神 罔象女神 由緒 神武天皇が天神の教示で天神地祇をまつり、厳甓を川に沈めて戦勝を占った聖地という。

顕斎(うつしいわい)  高皇産霊神 ←神武天皇 ← 厳媛
○ 神武天皇が「厳瓮の粮」を嘗されることによって天照大神より一段高い高皇産霊神になる。
○ 厳媛とは高皇産霊神を祭る巫女としての天照大神である。
○ 斎主としての天照大神の地位には厳媛と名づけた道臣命が奉仕。

◎ 神武を天照大神に、厳媛を斎王、に置き換えればそのまま神嘗祭。
◎ 高皇産霊神を天照大神とすれば新嘗祭になる。

神武天皇の丹生川上での顕斎
1.まず、榊を立てて諸神を祭り、 榊:高皇産霊神
2.次ぎに厳瓮の置物があって顯齋が成り立ち、 香山の埴土(倭の物実)で祭祀をする
3.道臣命も斎王としてこれを厳媛と名づけ、 男である道臣命を神格を持つ巫女とし、
4.火 水 米 薪 草 何れも「厳」を冠して、稲魂を炊き、 神聖な上にも神聖な扱い、
5.天皇が厳瓮の粮(おもの)を嘗された。 高皇産霊神が神武天皇に憑りつく。

神武天皇顕彰碑(丹生川上神社)

鳥見霊畤




3 莵田川の朝原の地  

宇陀郡 丹生神社(雨師)
 御祭神 丹生都姫命 由緒 鎮座地の雨師の名は中国の雨の神である。この神社は祈雨、止雨の神徳を持つ。  地元の古老によれば、吉野から分遷したとのことである。




4 女坂の地 

宇陀郡 劔主神社(宮奥)
 御祭神 劔主根之命 由緒 磐座である巨磐を割り、運んできて当地で信仰した。宇陀には磐座の欠片を持ってきて祀る習慣があったようで、実に具体的な分祠と言える。




5 男坂の地 

宇陀郡 劔主神社(半坂)
 御祭神 建速須佐之男命 由緒 




6 墨坂の地 

宇陀郡 墨坂神社
 御祭神 墨坂神 由緒 神武紀には兄磯城が炭に火をつけて天皇軍を阻んだとの故事がある。古くは伊勢街道の天神の森に鎮座と言う。現社地から北西1kmの所であり、神武紀の鳥見の霊の畤の跡とされている場所である。




7 磐余の伝承地 

宇陀郡 皇大神社
 御祭神 磐裂神 由緒 磐余の伝承地は桜井の河西・安倍付近とする説もある。




8 椎根津彦が占った場所:嬉河原 

宇陀郡 屑神社
 御祭神 衝立船戸神、道反之大神 由緒 神社はこの地の氏神だから紹介しているが、神武東征とは関係がない。
 椎根津彦と弟宇迦斯が香具山の埴土を取りに行くため敵の中を通り抜ける前に、「我が大君、よく此の国を平定したまうならば無事にこの大任を果たさしたまえ」と祈ったのがこの地と伝わる。




9 金色の霊鵄 

式上郡 宗像神社
 御祭神 宗像三女神 由緒 当社の存在は神武東征とは関係がない。
 当社から西に鵄谷と言うばしょがある。往時、その谷間から金色の霊鵄が飛び立ったと言い、その谷の隣を勝負谷と言うようだ。




10 金色の霊鵄2 

生駒郡 住吉神社
 御祭神 住吉三神 由緒 長髄彦本拠の背後の山が檜の窪山で饒速日命の墓の碑が建つと言う。




11 新城戸畔を誅す。

添下郡 新城神社
 御祭神 素盞嗚命 由緒 神社は神武東征とは関係がない。
 紀には添県の波54c6口多の丘岬に新城戸畔と言う女賊がおり、神武天皇は一部の軍を遣わして殺した。




12 居勢祝を誅す。

添上郡 和爾坐赤阪比古神社
 御祭神 阿田賀田須命 由緒 和珥の坂下に居勢祝がいた。
 ワニ氏は、和爾坐赤坂比古神社や和爾下神社の地から南には石上神宮(天理市布留町布留山)、北には春日大社(奈良市春日野町)の地域に勢力をもっていた。




13 猪祝を誅す。

葛上郡 長柄神社
 御祭神 下照姫命 由緒 臍見の長柄の丘岬に猪祝がおり、帰順しないので誅した。
 葛城の山の麓に鎮座、この山の猪は雄略期にも登場する。神社の西には銅鐸、多紐細文鏡が出土した名柄遺跡がある。銅鐸はやや小型であり、鏡は直径が15.5cmの北方大陸系の古式の鏡である。




13 高尾張邑の土蜘蛛を誅す。


葛上郡 高天原神社、葛城一言主神社
 由緒 高尾張邑の土蜘蛛は背丈が低く、手足が長かった。葛の網で一網打尽にして殺した。邑の名を葛城としたと言う。上記両神社には土蜘蛛塚がある。




14 大伴の祖道臣命が住んだ築坂邑 

高市郡 鳥坂神社
 御祭神 天忍日命 由緒 神武紀二年の論功時、大伴氏の祖の道臣命を讃え賞して「築坂邑に居らしめたまひき」とあり、当地がその築坂の地と推定している。 桃花鳥坂(つきさか)が省略されて鳥坂(つきさか)、これが更に鳥坂(とりさか)と転訓したとある。




15 久米直の祖大來目が住んだ畝傍山の西 

高市郡 久米御県神社
 御祭神 大來目命 由緒 久米一族は熊本県人吉盆地、球摩郡の地の出自と云われ、熊襲を構成したようであり、弥生時代には北部九州的ではない文化を持っていたようだ。王権が西からやってきたとすれば、陸上戦闘員として久米や大伴の氏族が活躍したのであろう。




16 国見山 

葛上郡 国見神社
 御祭神 瓊瓊杵尊 由緒 『日本書紀神武紀』三十一年からの国巡りの中で、掖上のホホマ丘に登り、国の状を廻らし望みて「あなにや、国を獲つること、内木綿の真さき国と雖も、猶し蜻蛉のトナメの如くにあるかな。」と言霊を発し、またこの国を秋津州と呼ぶ発端となったとある。




17 神武宮 

葛上郡 神武天皇社
 御祭神 神倭伊波禮毘古命 由緒  亨保二十一年(1736年)の『大和誌』には橿原神宮は柏原村にありと記し、本居宣長も明和九年(1772年)の『菅笠日記』に、畝傍山の近くに橿原と言う地名はなく、一里あまり西側ににあることを里人から聞いたと記している。

 当社を橿原神宮の合祀してしまうとの話を相当前に聞いていたが果たしてどうなっているのだろう。
 当地に宮を構えたのは、『紀』に「高尾張邑(葛城)に赤銅の八十梟帥(やそたける)あり。この類みな天皇と距き戦はむとする。」とあり、これは葛城に銅鉱山があり、当地の土蜘蛛が所有しているのを奪い取り、利権を守る目的のために近くの柏原に宮を構えたと考えられよう。
 『青銅の神の足跡』谷川健一著によれば、御所市朝町には銅山があり、鉱脈は五百家に走っていると言う。 五百家は金属精錬の「吹く」の伊福部の転だあろうと指摘している。五百家は金属精錬の地であったろう風の森にも近い。

 『紀』には、畝傍山の東南の橿原に宮を設けたとしており、畝傍から山をへだてた柏原とするのは無理がありそうだ。やはり橿原神宮の場所が宮だったのだろう。地下には白橿の根がいくつか残っていたそうで、橿原と呼ばれていても不思議ではない。『紀』国の真中と表現している。磯城勢力(物部)と葛城勢力(鴨)のバランスの上の政権だったのかも。




18 神武皇后 

摂津国 嶋下郡 溝咋神社
 御祭神 媛蹈鞴五十鈴媛命 由緒 『日本書紀』によれば大和を平定した神武天皇が正妃を立てようと思い貴族の女子を探した。 あるが人が奏して「事代主神が、三島溝咋耳神の女ー玉櫛姫と結婚して生まれた子を名付けて、媛蹈鞴五十鈴媛命といい、容色すぐれた女子です。」 と云う。媛蹈鞴五十鈴媛命を召して正妃とされた。と記されている。

 『古事記』では大久米命が神の御子を紹介している。美和の大物主神が三島溝咋の娘を見そめて、富登多多良伊須須伎比売命媛蹈鞴五十鈴媛命が生まれることになっている。丹塗矢伝説である。富登と言うを忌みて名を改め比売多多良伊須気余理比売と言うとある。大久米命との歌のやりとりなど、牧歌的雰囲気である。またどうやら一夜婚である。

 さて、栄光なる初代天皇の后が、「ホト」から始まる名前とはどういうことであろうか。普通ならカットしてもいい伝承である。
 神武天皇の死後、手研耳命の后になるのだが、元々、始めから手研耳命の后だったのではなかろうか。手研耳命は、『紀』では、長く朝政の経験があったとしており、さらに心ばえが仁義に背いていたと記されている。この后なら「ホト」でもいい。綏靖対手研耳は応神対カゴサカ、オシクマに似た話。
 ここにもう一つ、奈留多姫命と言う神武天皇の姉の存在がある。二代目の綏靖天皇の生みの親となっている。皇位継承争いが起こって当然である。神武は皇祖ではなく、鵜鵜葺不合尊もしくは綏靖天皇が皇祖となる。




19 神武陵 

高市郡 生国魂神社
 御祭神 生国魂神、咲国魂神 由緒 「神武天皇を畝傍山の東北の陵に葬りまつる。」とある。まさにこの神社は丸山の上に鎮座しているようである。丸山と思われる場所の東側に生国魂神社跡らしい石が複数ある。丸山の頂上を御神体としていたように見える。
 壬申の乱の最中に事代主神と生霊神が、「神武天皇の山陵に馬や種々の武器を奉るがよい。」との託宣をした。この頃には神武陵は公知の場所だったようだ。事代主神は託宣の神だが、生霊神がここに登場しているのは、まさに神武陵を守る神でもあったのだろう。

神武東征譚
神奈備にようこそ