神奈備掲示板の案内とログ

皆様から神社や古代のお考えのご紹介やご意見などを頂きたく思います。
大いにコラボレーションいたしましょう。

神奈備掲示板  青草談話室ログ

[11144] 90年ぶりの里帰り  ふえふきじんじゃこふんくん [Url] 2012/05/16(Wed) 18:31 [Reply]
名古屋市博物館「尾張氏☆志段味古墳群をときあかす」の展示品の中に三環鈴があります。
大正12年京都帝大の梅原末治先生が志段味大塚古墳から発掘なさったものです。
4-5世紀中国東北地方の騎馬民俗「燕」の青銅器と同じものだそうです。騎馬武装とのことです。

今回、こうした京大保存の出土品が、90年ぶりに里帰りしました。名古屋市民としては嬉しい限りです。

どうぞ、お近くの皆さん 博物館にお越しください。尾張氏は、馬に乗って駆け回った勇敢な武士団だったのでしょうか?


平成24年5月16日よる6時56分 名古屋テレビで「古代の王家」之巻 名古屋市博物館の紹介がありますよ。http://www.nagoyatv.com/shin_omotenashi/index.html

毎々失礼しました。「尾張氏」がテーマになる展示会が無いものですかハイになってしまいました。神奈備様、感謝感謝です。

[11143] お近くの方 来てください!  ふえふきじんじゃこふんくん [Url] 2012/05/13(Sun) 17:52 [Reply]
名古屋からまたまた、おじゃまします。尾張氏好きな市民です。
下記日程でシンポジウムが開催されます。お近くの方、よかったら
お越しください。

☆尾張連吾襲の正体は解明されるでしょうか?!
尾張戸神社を信仰する集団と熱田社との関係は?葛城の高尾張は・・・
ヤマトタケルは・・
何かヒントとなるかも

5月19日(土) 企画展「尾張氏☆志段味古墳群をときあかす」シンポジウム
テーマ:『志段味大塚古墳と五世紀の倭国』
講師:阪口英毅(さかぐちひでき)氏(京都大学大学院文学研究科助教)
   山田俊輔(やまだしゅんすけ)氏(東京国立博物館研究員)
   ほか、当館学芸員
受付:12時より整理券配布、12時30分開場。(当日先着220名、無料)
開演:13時〜(16時30分頃終了予定)
会場:博物館講堂(入口は1階にあります)

[11142] Re[11141]: 聖武天皇の「骨」  神奈備 2012/05/13(Sun) 08:57 [Reply]
> 聖武天皇の「骨」

 骨が何らかの入れ物の中にあったのでしょう。空気に触れたとたんに分解・気化してしまった、と言うことでしょうか。

 一週間ほど小旅行に出ます。

[11141] 聖武天皇の「骨」  多美 2012/05/12(Sat) 19:44 [Reply]
聖武天皇の「骨」

「骨」の発見と紛失

聖武天皇の葬儀が盛大におこなわれたいきさつは、『続日本紀』にくわしく記されている。この葬儀は、聖武にたいして、あたかも「仏の奉ずる」ごとき態度をもって執行された、とそこにある。
盛儀であったことは間違いないのである。それでは聖武は、どのようにして葬られたのであろうか。それがどうもはっきりしない。埋葬されたのか、それとも火葬にされたのか、そのへんのところがどうもはっきりしないのである。

 なぜそのことが問題にするのかといえば、聖武以前の歴代の天皇が、死んだのち火葬に付されたことが『続日本紀』にはっきり記されているからである。すなわちその記述によると、持統、文武、元明、元正とつづく四代にわたって、その遺体はすべて火葬の方式によって処理されたとはっきり明示されているのである。それが、聖武の送葬儀礼にかんしてだけ、そのように記されていない。火葬のことに一つも言及されていないのである。
 
 もしも『続日本紀』のこの記述を信用するとすれば、聖武天皇の遺体は陵墓に埋葬されたと解するほかはないのではないだろうか。それともそこには、何らかの別の問題が介在しているのであろうか。そのへんのところが。よくわからないのである。

 しかしながら一方で、聖武の遺体が『続日本紀』の記述にもかかわらず、火葬に付されたのではないかと推定される根拠がないわけではない、すくなくともその問題に再考をうながす事実が一つだけ存するのである。

 明治から大正にかけての時期であったが、東大寺の大仏殿で大々的な修理工事がおこなわれた。それは明治三十六年七月に着工されたが、たまたま同四十年九月になって思わぬ「遺宝」が発見されることになった。修理工事の足場をつくるため、大仏殿の須弥壇の数ヵ所に穴を掘った。すなわち大仏蓮座をめぐって直径七、八尺の壺堀をおこなったところ、地下一尺四、五寸のところからさまざまな遺宝がでてきた。
 
遺宝が発見された場所は大仏の正面、西南、後方の三ヶ所であったが、壺堀と壺堀の中間部分は不明なので、須弥壇全体でどのくらいの遺宝が埋められているのか、それはむろんわからない。が、その三ヶ所で発見されたものだけみても、種類の豊富さは目を見張るばかりであった。金象嵌(きんぞうがん)をほどこした太刀類、金具類、銀地金渡金の壺、硝子容器、銅鏡、鎧の破片、真珠や水晶などの宝石類、など多種多様であったが、ここでとくに注意したいのは、それらの遺宝に混じって「歯、骨断片」が発見されたことである。

 このときの修理工事で発掘された遺宝について、その概要を記した論文が昭和二年に発表された上田三平氏による「東大寺大仏殿須弥壇内に於て発見せる遺宝に就て」(『寧楽』七、昭和二年七月)であった。そこには発掘目録が紹介され、発掘品の内容について簡単な解説が付されていた。そのなかで、右の「歯、骨断片」は明治四十年九月四日に発掘したときのもので、大仏殿本尊を安置した壇上の、「坤」方位の地中約一尺五寸のところから出土している。上田氏の記す目録番号第二十七の項によると、「齲歯一個 長八分白色骨様ノモノ一個」とある。

 ところが、まことに奇怪なことであるが、この「歯、骨各一個」の出土状況とその行方がよくわからないのである。右の上田三平氏自身もその「歯、骨」を確認していない。なぜなら氏はその論文の末尾で、「目録に臼歯一個として明治四十年九月四日の遺物の中にあるが実物は拝見しない。骨断片と称するものがあるが何の遺骨か明らかでない」と書きのこしているからである。

 ※●上田三平(うえださんぺい)
1881―1950年。教育者・郷土史家。旧国富村(現小浜市)生まれ。福井師範卒。「福井県の教育」に多数の論文を発表。石川、奈良県の史蹟名勝天然記念物の調査にも従事した。

 いったいその「歯、骨」はどこに消えてしまったのであろうか。それがどうもよくはわからないのである。その後、この問題は長らく取りあげられることはなかったが、昭和五十一年になって奥村秀雄氏の注目するところとなった。すなわち氏の「国宝東大寺金堂鎮壇具について―出土地点とそれによる埋納時期の考察―」(MUSEUM 298、一月号、一九七六年)が発表され、新たな問題提起がなされたからである。

 この論文の内容はつぎにのべるとして、その前にふれておきたいのは、さきの「歯、骨」についての疑問である。ただこの論文の末尾に付記されている「あとがき」のなかで、奥村氏がつぎのような思い出話を書きとめているのが、とりわけ私には印象深かった。

 氏は学生のころ、「故安藤更生先生から大仏殿出土の、この歯の話」を聞いたことにふれ、そのときの「師の楽し気な表情」が今も忘れられないと記している。また安藤氏の遺稿集『南部逍遥』(中央公論美術出版、昭和四十五年十二月)のなかには、かつて東大寺二月堂の主任であった稲垣晋僧正のことが語られていることを紹介して、この僧正が実は須弥壇下の遺物の発見者ではなかったかと推測している。それというのも、安藤氏は生前に奥村氏にむかってその話をしたとき、「聖武か元正の歯かもしれんな・・・・」ともらしていたからである。

 しかし。この奥村氏の「あとがき」は、あくまでも稲垣晋僧正から安藤更生氏がきいた話にもとづいて書かれているのであって、確かな資料による証言でないところがいささか心もとない。

 ※●奥村 秀雄 (オクムラ ヒデオ) ( Hideo Okumura) - ID:1 科研費研究者番号 : 6 直近の所属(KAKENから) : 東京国立博物館 研究分野(KAKENから) : 美術史 キーワード(KAKENから): 法隆寺献納宝物/交渉史/彫刻史/正倉院宝物/東南アジア/シュリ-ヴィジャヤ/金銅仏の彫刻史的研究/工芸史/染織史/金銅仏の保存科学的研究/金剛仏の保存科学的研究/南アジア/金工史/法隆寺伝来四十八体仏/光背/金剛仏の彫刻史的研究/木漆工史/潅頂幡/荘厳具/金銅小幡/荘巌具/金銅仏の研究/保存科学的研 http://rns.nii.ac.jp/nr/1  
1992年?1994年東京国立博物館 / 次長
1991年東京国立博物館 / 学芸部 / 部長
1990年東京国立博物館 / 学芸部 / 学芸部長
1988年東京国立博物館 / 学芸部東洋課 / 課長
1987年東京国立博物館 / 学芸部法隆寺宝物室 / 室長

●安藤更生
安藤 更生(あんどう こうせい、1900年6月10日 - 1970年10月26日)は、日本の美術史家。 東京出身。本名・正輝。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒。会津八一に師事し、1923年、奈良美術研究会を創設(のち東洋美術研究会)。1929年、雑誌『東洋美術』を創刊。戦後は早稲田大学教授。 日本の仏寺、中国美術、鑑真、書道などを研究した。

●稲垣晋僧正と思われる
この図書は著作権法第67条による文化庁長官裁定を受けて公開しています。
タイトル : 良弁僧正御伝記
タイトルよみ : ロウベン ソウジョウ ゴデンキ
責任表示 : 稲垣晋清編
出版事項 : 東京:長谷川幾松,明42.8
形態 : 130p 図版;22cm
NDC分類 : 188.1
著者標目 : 稲垣,晋清
著者標目よみ : イナガキ,シンショウ
全国書誌番号 : 40045938
請求記号 : YDM16332
西暦年 : 1909

 これについてすぐに思い起こされるのが、さきの上田三平氏の論文である。なぜならそこでも「稲垣氏」(おそらく稲垣晋僧正のこと)のことに言及されていたからである。しかもその言及の仕方が、もう一つ奥歯にものがはさまったような感じなのである。まずその論文のはしがきにある部分で上田氏は、「遺宝」の実見にあたっては北河原公海師や筒井英俊師とともに「稲垣氏」に多大の便宜を提供してもらった旨を記し感謝の意を表している。ところが、同じその論文の末尾において、つぎのように記している。

        其 他
 目録に臼歯一個として明治四十年九月四日の遺物の中にあるが実物は拝見しない。骨断片と称するものがあるが何の遺骨か明らかでない。当時の発見者稲垣氏の言によると此等の歯及骨類と銀壺とは全く関係はないそうである。

 右の上田氏の論文は、この「其他」の一文をもって終わっている。「其他」と
いうことは、「遺宝」の種類を内容別に解説したあと、それにもれるものという
意味でつけ加えられたものである。「歯、骨」が「其他」として最後に扱われた
のだといっていいだろう。が、それはともかくとして上田氏もまたすでに昭和
二年の段階で、その「骨断片」が何の遺骨であるかもわからないという。わか
っているのは、その骨断片が同じ出土した銀壺とは直接関係はなさそうだとい
う「稲垣氏」の証言だけである。

要するに。「遺宝」の問題について論文を発表した上田氏も、そして奥村氏も
「歯、骨」そのものをみてはいない。さきに奥村論文を通して紹介した安藤更生氏の伝聞にしてからが、きわめてあいまいである。

 そのようにみてくると、大仏殿の須弥壇下から出土した「歯、骨」は、発見と同時にどこかに消え去ったとしか解することができなくなるのではないか。それははたして偶然だったのであろうか。それとも故意に隠滅されたのか。あるいは不慮の事故だったのか。事態は「骨」をめぐる謎めいた話になってくるのである。

 ちなみに、前後三回にわたって出土した東大寺の「遺宝」は昭和三十二年になって「東大寺金堂鎮壇具」として一括して国宝に指定された。ところが不思議なことに、その国宝指定品中にはさきの「歯、骨」についての項目が省かれているのである(『指定文化財総合目録、美術工芸品篇』参照)。こうして謎はますます深まるばかりである。

 ※●北河原公海師
2010年5月27日
東大寺で北河原新別当の晋山式 渡邊理事長が出席
奈良市の華厳宗大本山・東大寺で5月27日、華厳宗管長、東大寺第二百二十世別当に就任した北河原公敬大僧正(67)の「晋山(しんざん)式」が行われ、南都各寺院や各界から約800人が出席しました。立正佼成会から渡邊恭位理事長が列席、荒川公男奈良教会長が同行しました。  
北河原師は奈良市生まれ。1953年、10歳で東大寺に入寺し、15歳で得度、執事長、上院院主などを歴任し、前別当・上野道善師の後任として、今年5月1日付で新別当に就任しました。任期は3年。祖父の公海師(第二百世)、父・公典師(第二百十世)=いずれも故人=も同寺の別当を務めました。
当日、渡邊理事長は、金堂(大仏殿)で行われた伝燈奉告法要に参列しました。金堂裏庭の特設会場で催された披露宴では、北河原師があいさつ。今秋の東大寺総合文化センター建立、伽藍(がらん)再興の構想などに触れ、後世への文化継承の大切さを強調するとともに、「華厳では人と人とが支え合い、つながり合い、共に生きることを教えている。生かされているいのちという自覚に立ち、日々精進したい」と抱負を語りました。渡邊理事長は北河原師とあいさつを交わし、祝意を伝えました。(2010.6.4記載)

【仏教民俗学・山折哲雄・講談社芸術文庫〜「聖武天皇の骨」より】

つまり、
”聖武天皇の遺骨だというのである”

しかし、誰も実物を見ていない、ということである。

稲垣晋僧正(発掘者らしい)の話を聞いた、ということ。

誠に不思議な話であります。

一体、どういうことなんでしょうか?

教えてください。

[11140] Re[11134][11133][11131][11130]: 宇佐嶋  神奈備 2012/05/11(Fri) 12:09 [Reply]
 一柱騰宮
建物があって、その内の一本の柱が川の中に立てられているようなものと想像していましたが、いささか不自然な感じを持っていたのですが、「アシャゲ」の方形の神を迎える建物は、神武さんを迎えるのにふさわしいと思います。

 宇佐では、中臣氏の先祖に天種子が宇佐津比売を娶っていますが、中臣氏も神武東征のお供としていたと主張したかったのでしょう。
 豊国には中臣直入神社も鎮座しており、中臣氏の気配が感じられる所です。
 天種子については、以降全く出てきません。天種子の話はウソだと思います。

 さて、宇佐島をislandであろうとして考えて来ましたが、例えば、『肥前国風土記逸文』に、杵島が出てきます。
 杵島の県。一つの離れた山がある。坤(南西)から艮(北東)にかけて三つの峰が連なっている。名付けて杵島と言う。

 宇佐島を素直に宇佐の山(大元山 御許山)としていいのでしょう。


[11139] ありがとうございました  箕面市民 2012/05/10(Thu) 19:29 [Reply]
御教示いただきありがとうございました。
地元市民のわたしでさえしらないことがまだまだ市中にはあるとおもいます。
北攝地区は雨乞い信仰・伝承が各地に語り継がれているようです。

[11139] ありがとうございました  箕面市民 2012/05/10(Thu) 19:29 [Reply]
御教示いただきありがとうございました。
地元市民のわたしでさえしらないことがまだまだ市中にはあるとおもいます。
北攝地区は雨乞い信仰・伝承が各地に語り継がれているようです。

[11138] Re[11137]: 箕面市白島「水神社・白姫大明神」  神奈備 2012/05/10(Thu) 16:06 [Reply]
 箕面市民さん、こんにちは。

 箕面と言えば、箕面の滝、水に不自由はしない地域かなと思っていましたが、多くの溜池がありますね。箕面の滝も今や人工の滝。貴重な地下水路が切られたようです。
 箕面市の年間降水量は1385mm、810都市中の514番目、多いとは言えないようです。お隣の茨木市も似た状況です。豊能町も同様。

 水神社の白島(はくしま)は、如意谷の東。いずれにしろ、川がなく、水不足の地域だったのでしょう。

 水神様を祭る謂われは、よくわかりませんが、水を大切にし、水への渇望があったのでしょう。

[11137] 箕面市白島「水神社・白姫大明神」  箕面市民 2012/05/09(Wed) 21:20 [Reply]
偶然見つけたのですが、箕面有料道路のゲート付近から府道9号線を東よりに歩き老人ホーム「永寿園」東隣の道を山中に上ると数分して「水神社・白姫大明神」なる神社が目に入ります。(http://bittercup.blog81.fc2.com/blog-entry-144.html)

この他に箕面市内、特に「如意谷」一帯は水神さまを祀る神社・祠が多数ありますがどのような謂れがあるのでしょうか、神奈備さま、なにか情報をお知りではないでしょうか。

[11136] 豊中歴史同好会  5月  神奈備 2012/05/08(Tue) 13:53 [Reply]
2012 5 12 講義 14時〜16時

御所市教育委員会 藤田 和尊

河内政権肯定論

場所:豊中市立蛍池公民館 5階公民館集会場

http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

[11135] 志段味古墳群散策にどうぞ  ふえふきじんじゃこふんくん 2012/05/07(Mon) 18:20 [Reply]
名古屋からこんにちは! 今 名古屋市博物館で「尾張氏☆志段味(しだみ)古墳群をときあかす」展が行われています。渡来系の帆立貝式古墳の最新出土品が見れます。尾張氏は本当に 謎多き、氏族ですね。よかったら名古屋へお越しください。と、一(いち)名古屋市民からの宣伝でした。それから、名古屋市守山区にある志段味古墳は整備前で、自由に散策可能です。名古屋市のHPに便利な地図が載っています。
http://www.city.nagoya.jp/moriyama/page/0000012430.html
これを片手に散策はいかがでしょう。散策のお役にたてるよう、つたないページを作りました。ご利用ください。
http://homepage2.nifty.com/island2/kofun1.html

[11134] Re[11133][11131][11130]: 宇佐嶋  琉球松 2012/05/07(Mon) 16:34 [Reply]
 「あしひとつあがりのみや」は、『奄美に生きる日本古代文化/金子正(刀江書院)1963 』で、奄美沖縄の祭場「アシャゲ・アシャギ」の原型ではないかと書いてますね。

 これが、片足を上げたりするタタラ場と考える説もあるようですけど、しかしなぜに神武は宇佐に立ち寄る必要があったんでしょうか。

[11133] Re[11131][11130]: 宇佐嶋  神奈備 2012/05/07(Mon) 10:27 [Reply]
> もしかして、その中の一つに「宇佐嶋」があって、神宮の名の由来になったでしょうか?

『日本書紀』巻三神武天皇即位前紀甲寅年
一柱騰宮 此云阿斯毘苔徒鞅餓離能瀰椰  あしひとつあがりのみや

 神武さんが宇佐に行った時に、歓迎された建物。

 何となく、天一根命を思わせるネーミングです。


 葦原で稲を育てたら、葦が風を防いでくれて、すくすく育つように思いますが・・・。

[11132] Re[11131][11130]: 宇佐嶋  琉球松 2012/05/05(Sat) 11:34 [Reply]
またまた訂正

 釣川沿い?と考えられるのは「辺津島」だけでしたね。他の2島は海上ですけども「釣川」から生まれた姫(小さい)でしょうか。

[11131] Re[11130]: 宇佐嶋  琉球松 2012/05/05(Sat) 11:19 [Reply]
 "葦原中國之宇佐嶋" と聞くと、宗像を流れる釣川の「沖つ島・中つ島・辺つ島」のように、宇佐神宮沿いを流れる「寄藻川」にも中州のような島々があったんじゃないかと推測しますね。
 もしかして、その中の一つに「宇佐嶋」があって、神宮の名の由来になったでしょうか?

 大阪の淀川などにも「葦原」はあって。。。つまりは、まだまだ水田稲作には不適な湿地帯を「アシハラ」と呼んだんじゃないでしょうか。この「アシハラ」の開発に成功した状態を「瑞穂の国」と言うと考えますがどうでしょうか。

[11130] 宇佐嶋  神奈備 2012/05/04(Fri) 20:34 [Reply]
『日本書紀』巻一第五段一書第三 一書曰。
略 即以日神所生三女神者。使隆居于葦原中國之宇佐嶋矣。略

 誓約で生まれた三女神は、宇佐島に降臨します。宇佐の峰なら話は簡単なのですが、宇佐島とはどこのことでしょう。
 宗像の沖つ島、中つ島、辺つ島を宇佐島とは言わないでしょう。

 地図を見ますと、国東半島の北側にある、姫島がとりあえずは宇佐の地に近い島です。
 八坂神社の姫島龍神の説明に、「天之一根命 弁財天の一神」とありました。この意味が分かりにくいのですが、市杵島姫が弁財天になぞらえられることがあるので、姫島の神をそのように称したのでしょう。

 阿留比売の素性がよくわからないのですが、宇佐の姫神と見ますと、宗像三女神の一柱か、宇佐若宮下照姫大神なのか、もしくは下照姫の娘なのか、想像を楽しんでいます。

[11129] Re[11128][11127][11125][11124][11123]: 難波の比売語曽社  琉球松 2012/05/03(Thu) 16:38 [Reply]
訂正

 「姫島」の生成は12番目でした。

[11128] Re[11127][11125][11124][11123]: 難波の比売語曽社  琉球松 2012/05/03(Thu) 16:16 [Reply]
 『古事記』の国生みで「姫島」の生成は13番目で、その順位の前後からすると国東半島沖の島と考えたほうが妥当なんですけど、『日本書紀』には出てこないですね。
 『古事記』が、"女性の声" を反映させているとすれば、逆に男性的?な『書紀』からは削除されてるんでしょうか?

 これらの島が "海から円錐型になった山が沈んだような感じ" であるとすれば、少なくとも美称辞「浮島」ではないようですね。

 あるいは単に、「小さい・控えめ」などの表現で「ヒメ」なのでしょうか。
 現在でも、昆虫などの名に「ヒメ」はよく使われます。。。「例・アカタテハ/ヒメアカタテハ・ウスバシロチョウ/ヒメウスバシロチョウ」。この場合の「ヒメ」は、比較的小型だったり、比較的色が薄かったりしますよ。

[11127] Re[11125][11124][11123]: 難波の比売語曽社  神奈備 2012/05/03(Thu) 08:48 [Reply]
>  「姫島」は福岡にもありますね。
>
>  だいたい地先の小島ですからね、神々の中継地でしょうか。「うつぼ船」に乗せられて追放された「百襲姫」とその母かも。。。?


 福岡は糸島半島の近くと北九州市にあり、共に小さくて丸い島です。また長崎の五島列島の姫島も丸い島です。

 海から円錐型になった山が沈んだような感じです。やはり天一根。

 百襲姫とつなげようとしますと、香川県に姫島があればありがたい。ネットで見れば、小豆島町神浦に、天理教の姫島分教会があります。ゆかりの地かも。

 また余談。
 和歌山市の紀ノ川の北側に小豆島(あずき)と言う場所があります。ここもかっては島だったのでしょう。小さい島は豆に例えられることもあったのでしょう。


[11126] Re[11124][11123]: 難波の比売語曽社  神奈備 2012/05/02(Wed) 09:53 [Reply]
> これらの小島は「蛭子」を連想するんですけど。。。どうなんでしょうか。

 『古事記』に、女島を生んだとあり、国東半島の東の姫島のこととされています。神の名としては、天一根神、です。いかにも、小さい島がしっかりと海の上に突き出しているような印象の神名だと思います。

 どうでしょうか、蛭子、とはイメージが異なるような・・・・

余談です。
 大阪ではアヒル(合鴨)のことを、ヒル、と言います。鴨の神の事代主とともに、恵比須神、とされています。

[11125] Re[11124][11123]: 難波の比売語曽社  琉球松 2012/05/02(Wed) 09:51 [Reply]
 「姫島」は福岡にもありますね。

 だいたい地先の小島ですからね、神々の中継地でしょうか。「うつぼ船」に乗せられて追放された「百襲姫」とその母かも。。。?

[11124] Re[11123]: 難波の比売語曽社  琉球松 2012/04/29(Sun) 23:09 [Reply]
 あれれれ、「姫島」って、国東半島沖だけじゃないんですね。
 これらの小島は「蛭子」を連想するんですけど。。。どうなんでしょうか。

 しかしまあ、大正区はリトル沖縄って感じのところですね。知り合いも大勢いますよ〜。

 ムムムム、面白くなりそうです。

[11123] 難波の比売語曽社  神奈備 2012/04/29(Sun) 15:24 [Reply]
 ひょっとしたら、本当の難波の比売語曽社かも知れない祠を発見!

 絶好の神社巡りの季節です。大阪市大正区の神社を幾つか廻って見ました。元々海の中だったので、古い神社はないだろうと思っていましたが、三軒家東2丁目の八阪神社に行ってびっくり。姫島龍神ののぼり旗がぎっしり、八阪神社に来たつもりが別の・・・・

 大正区は殆どが埋め立て地域で、海抜1m〜−1m地帯とされていますが、北東の地域は姫島と言う小島であって、そこの小高い丘にいつ頃からか姫島龍神が鎮座していたようです。そこに津波で流された八阪神社を遷座したようです。

 本殿の隣に姫島龍神社が鎮座、社殿に「竜神祝詞」が貼っていました。地域の女性達に圧倒的に支持されている祠のようです。

 大阪には姫島と呼ばれる島はここと、西淀川、東淀川区の三箇所が知られています。それ以外に阿加流比売神社が平野区に、比売語曽神社は東成、中央区に鎮座しています。

 さて、ダークホース的な姫島が出てきました。面白くなりそうです。

http://kamnavi.jp/en/settu/yasaka02j4.jpg
http://kamnavi.jp/en/settu/yasaka02j6.jpg

[11122] 第三土曜日は「古代を偲ぶ会」 その報告  神奈備 2012/04/22(Sun) 09:35 [Reply]
 魏の時代、すでに字典があり、それによる解読
 
 239年、魏から卑弥呼が貰った反物に絳地交龍錦五匹。
 
 
 絳地交龍錦

 絳は工に通じ、あかく染めること この頃の染料は茜の根から抽出した染料、退色が少ない。
 布で染めたか、糸で染めてから織ったのか、錦とあるので糸染めでしょう。布染めと違い、糸が丸ごと染まっているので、あざやかに見えるそうです。

 交龍 皇帝の使う布の場合、龍は一匹づつ。王に与える場合、龍が交差している図柄。赤龍と青龍であろう。

 五匹:この頃の一尺は24cm、10尺で一丈=240cm、四丈で一匹、960cm、五匹で48m。

http://kamnavi.jp/link/sinobu.htm

[11121] 日神を出し奉る  神奈備 2012/04/21(Sat) 18:07 [Reply]
アッサムに天岩戸神話に似たお話があります。

太陽が世界の果ての岩屋に隠れた。皆が声をあげて呼ぶが出てこない。雄鶏が美しい鳴き声をあげると出ることを承知した。太陽が出ようとすると大きい岩で塞がれていたので、大力の猪が岩を持ち上げ、太陽を出した。


アッサムのお話から日本の伝承・神話が思い浮かびます。

『播磨国風土記』賀毛郡山田の里 猪飼野
日向の肥人が天照大神のおられる舟の上に猪を持参して献上した。

『古事記』
天手力男が天照大神の手をとって天の岩戸から出した。
『日本書記』
天手力男神が岩戸をひきあけた。

『住吉大社神代記』
「大八嶋国の天の 下に日神を出し奉るは船木の遠つ神、大田田神なり。」とあり、船木遠祖の大田田神が 太陽神を乗せる舟を二艘造ったとある。
伊勢の船木氏が祀った佐那神社の祭神は天手力男神で、船木氏の遠祖。

この三つを合わせればアッサムになりそうです。

[11120] Re[11119][11107][11104]: 出雲国造の斎る神  神奈備 2012/04/20(Fri) 16:02 [Reply]
> [11119] 投稿してスミマセン。削除して頂いて結構ですので失礼しました。

 日本語解読能力不足と勉強不足で、多賀宮のことは未だよくわかりません。

[11118] の讃岐富士も含めて、最近はよくわからない投稿があります。

投稿者が「削除」を指示したり、口にする場面もあります。

どうやら無責任な内容の投稿だと云うことでしょうかね。

[11119] Re[11107][11104]: 出雲国造の斎る神  加賀 2012/04/19(Thu) 21:33 [Reply]
> > この文書には櫛御気野命とは大日孁貴神 也としており、神宮の古伝を考え合わせると櫛御気野命とは水の神である豊宇賀能売神=瀬織津姫神ではなかったかと想像します。
>  所謂トンデモ説ですね。
>出雲国造側の文書をあたってみて下さい。

倭姫世記の雄略二十一年十月の条に

皇太神の第一の摂神、荒魂多賀宮おば、豊受太神宮に副へ従へ奉らしめ給ふ者也

とあり、皇太神の第一の摂神(荒祭宮)を荒魂多賀宮として、
豊受太神宮に副えて祀ったという多賀宮の縁起です。

度会家行氏の類聚神技祇本源に、

元は荒祭宮一書に並び坐す。東多賀宮、西荒祭宮。

とあり、更に出口(度会)延佳の神宮神秘伝問答にも多賀宮には皇大神宮
の和魂が祀られていた旨が記してあります。

>  豊宇賀能売神が水の神である根拠は何でしょうか。真名井の泉で降臨した? 食物に水は欠かせない? よくわかりません。

神道五部書など神宮側の文書をお読みなればいいかと思います。
>
> > =瀬織津姫神
>  突然の登場ですが、これも良くわかりません。この神は一部の方には大いにもてはやされていますが、何故なのでしょうか。
それは私も存じません、。投稿してスミマセン。削除して頂いて結構ですので
失礼しました。

[11118] 讃岐富士は整形  一般人 2012/04/19(Thu) 16:21 [Reply]
みんないつまで「ほっこ」な振りしているの?
富士山が日本一の高さになるずっと前は小御岳や旧宝永山の時代。どちらからも「1000秒」が讃岐富士でしょ?選ばれた場所だから整えたんでしょ?違う?信じない?先祖が違うから叡智のレベルも違う?追試不可能な祭祀(勉強しても身につけられない)しかみとめないのが学界の常識?
当時の讃岐富士の標高は一秒でしょ?薩摩富士は2倍。薩摩富士までの距離も1000秒でしょ?一秒=地球一周(4万km)÷24時間÷60分÷60秒
いまさらですよね!さて大和三山はいつまで天然の振りですか?
そうそう、都知事が大騒ぎさせた尖閣諸島って東方向に進むと・・・なんで同じ緯度に島(山頂)があるのですか?なぜ三角形の形の孤島が多いのですか?なぜ島に溝をつけて二つに分断したのですか?測量や開発(巨大な盆栽)は中心からどんどん外に広がっていっただけでしょ?渡来重視で先住民無視?先祖の介護放棄?
おまけ
富士山・浅間山のほぼ中間に金峰山があり巨石が目立ている。位置がずれすぎ?だって旧石器時代の浅間山や小御岳や旧宝永山が基準だよ!誤差ほとんどないよ!言い出したらきりがないのでここまでにします。富士山は世界「文化」遺産!
ごめんなさい、質問されてもレスできません。
同じじことを考えれば同じ結論。同じ山頂。山が破棄されても(墓あらし?)リフォームされても周囲の痕跡から推定は可能。それが理系の叡智、数学という文字。

[11117] Re[11116][11115][11114][11113][11112][11109]: 名草戸畔 その後  琉球松 2012/04/19(Thu) 11:09 [Reply]
 神奈備さんへ

 こちらにも、亀にまつわる話は多いんですけど、「海幸山幸」系や「浦島」系の説話には、意外に亀は登場しないんですよ。
 本土側でも、そもそも亀は虐められたわけでも、助けられたわけでもないようですし、唐突に登場しますよね。なんか中国の「玄武・蓬莱山」などの影響でしょうか。
 もともとは「玉依姫・豊玉姫」のように鮫だったと思いますけど、どこかですり替えがあったかもですよ?

 「りゅうぐう」と「りゅうきゅう」は、言語的には全く関係ないのでしょうけど、「常世・竜宮・補陀洛・蓬莱」が観念的には奄美沖縄のことだった可能性はあると思います。「タマ」と表現される海の女神達は薩摩半島の南からやって来ますね。

[11116] Re[11115][11114][11113][11112][11109]: 名草戸畔 その後  神奈備 2012/04/16(Mon) 21:11 [Reply]
 浦島伝承は常世国につながります。
 紀伊半島南端には補陀洛渡海の実施や、少彦名神が常世へダイブしたとされる熊野御崎があります。
 また徐福渡来譚もまた同じような地域で話されることがあるようです。

 和歌浦は風光明媚な所で、鎮座する玉津島神社は地主神の明光浦霊や美人で和歌の神でもある衣通姫尊を祭っています。余談ですが、住吉大社・明石の柿本神社と共に和歌三神と呼ばれました。

 万葉集には住吉大社にかかわると思われる浜での浦島伝説が歌われています。巻9 1740。
春の日の 霞める時に 住吉(すみのえ)の 岸に出で居て 釣舟の たゆたふ見れば 古の ことそ思ほゆる 水江の 浦島の子が 堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣りほこり 云々

 沖縄にはウミガメがやってくる浜が多いのでしょう。浦島伝説があってもよさそうですし、逆に竜宮城がある島ともされているのではないでしょうか。

 和歌山で浦島と言えば、勝浦の大きい温泉ホテルが有名になってしまいました。あまり面白い現象ではありません。

 最近 浦島伝承についていささかまとめましたので、お暇な方はどうぞ。
http://kamnavi.jp/log/ugaurasima.htm

[11115] Re[11114][11113][11112][11109]: 名草戸畔 その後  琉球松 2012/04/15(Sun) 17:10 [Reply]
 神奈備さん、お手数かけました。

 「御名草浦・美名草浦・火名草浦・蜷草浦」なんて、根拠のない地名を推測をしてしまいましたが、消去法としてはありがたい情報です。

 しかし、今度は「浦島子」説話の原風景なか?なんて、よからぬ想像がムラムラと(笑)。
 

[11114] Re[11113][11112][11109]: 名草戸畔 その後  神奈備 2012/04/15(Sun) 13:46 [Reply]
 現在の和歌川が紀の川の本流であった古代、その河口に広がる景勝の地の名称でした。東に名草山(島だったかも)、南東は船尾山、北は雑賀山に囲まれた浦です。


『続日本紀』巻九神亀元年(七二四)十月壬寅《十六》◆壬寅。賜造離宮司及紀伊國國郡司。并行宮側近高年七十已上祿。各有差。百姓今年調庸。名草海部二郡田租咸免之。又赦罪人死罪已下。名草郡大領外從八位上紀直摩祖爲國造。進位三階。少領正八位下大伴櫟津連子人。海部直土形二階。自餘五十二人各位一階。又詔曰。
登山望海。此間最好。不勞遠行。足以遊覽。故改弱濱名。爲明光浦。

最後の行は
 山に登り海を眺めるのに、この辺りは最も良い。わざわざ遠出をしなくとも遊覧に充分。それで、弱の浜(ワカノハマ)と言うのを改めて、明光浦(アカノウラ)とせよ。
と言う意味です。

 和歌浦の古名はワカノハマと言ったようです。現在和歌山城のあう城山は砂が集まってできたような丘で、崩れやすく、弱いので、その名がついたとされています。

 和歌浦の高い場所から東に名草山が見えますが、それほどの印象をもった記憶はありません。名草への意識は薄いのではないかと思います。古代には和歌浦と名草山の間は河口・海だったのです。
http://kamnavi.jp/jm/kinokawa.jpg
 傍証にもなりませんが、和歌浦は海部郡に属し、後に名草郡と合併し海草郡となりました。

万葉歌
 919 若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺あしへをさして鶴たづ鳴き渡る
和歌山弁 和歌浦よ 満潮になったら 干潟なくならいしょ ほいたら 葦の生えちゃる岸辺によ 鶴がねーて 飛んでいかいしょ

1219 若の浦に白波立ちて沖つ風寒き夕へは大和し思ほゆ
和歌山弁 和歌浦に 白い波来てら 沖からさぶい風吹かいしょ そんな日暮れ 大和 こいしいわ

 若の浦と呼ばれており、聖武天皇の気まぐれは採用されなかったようです。


[11113] Re[11112][11109]: 名草戸畔 その後  琉球松 2012/04/15(Sun) 09:50 [Reply]
神奈備さん、どうもです。

 的外れの感はあるかもしれませんが、和歌浦湾の古名は「名草浦」じゃないかと想像するんですが、どうでしょうか?

[11112] Re[11109]: 名草戸畔 その後  神奈備 2012/04/15(Sun) 08:57 [Reply]
>  以前に「名草戸畔」の話題がありましたが、沖縄宮古島の説話「螺草浦(になくさうら)の神女」の舞台となる「螺草浦」の地名に関して、ちょうっと話題になってますのでご参考までに。。。『http://setouchi.ac.jp/~dnagoh/ 自由掲示板2 』

 流石に名護さんの運営の掲示板ですね。会話が弾んでいます。知恵と人柄とでしょう。

[11111] Re[11110]: 「池田・愛宕神社」に関するスレを全部削除してください  神奈備 2012/04/15(Sun) 08:47 [Reply]
> [11108]に関する事は了解しました。
> まことに勝手ではございますがスレ[11103][11105][11106][11108]は全て誤解の無きように削除してください。
>
 削除は小生が判断いたします。
 面白い話題を提供していただいておりましたのに、残念ですね。

[11110] 「池田・愛宕神社」に関するスレを全部削除してください  そ(八筒光) 2012/04/14(Sat) 19:05 [Reply]
[11108]に関する事は了解しました。
まことに勝手ではございますがスレ[11103][11105][11106][11108]は全て誤解の無きように削除してください。

なおこれ以降の私の当掲示板に関する投稿は一切を自粛いたします。
今までにご迷惑をおかけいたし申し訳有りませんでした。

[11109] 名草戸畔 その後  琉球松 2012/04/14(Sat) 13:33 [Reply]
 以前に「名草戸畔」の話題がありましたが、沖縄宮古島の説話「螺草浦(になくさうら)の神女」の舞台となる「螺草浦」の地名に関して、ちょうっと話題になってますのでご参考までに。。。『http://setouchi.ac.jp/~dnagoh/ 自由掲示板2 』

[11108] Re[11106]: 「五月山愛宕神社・建石星の宮」由緒書の内容の紹介  神奈備 2012/04/13(Fri) 20:48 [Reply]
どっかのHPの引用がない書き込みは嬉しいのですが、掲示板での、一方的の自分の主張を述べるだけと言うのは、コミニケーションにはなりません。

[11107] Re[11104]: 出雲国造の斎る神  神奈備 2012/04/13(Fri) 20:44 [Reply]
> この文書には櫛御気野命とは大日孁貴神 也としており、神宮の古伝を考え合わせると櫛御気野命とは水の神である豊宇賀能売神=瀬織津姫神ではなかったかと想像します。
 所謂トンデモ説ですね。
 豊宇賀能売神が水の神である根拠は何でしょうか。真名井の泉で降臨した? 食物に水は欠かせない? よくわかりません。

> =瀬織津姫神
 突然の登場ですが、これも良くわかりません。この神は一部の方には大いにもてはやされていますが、何故なのでしょうか。

[11106] 「五月山愛宕神社・建石星の宮」由緒書の内容の紹介  そ(八筒光) [Url] 2012/04/11(Wed) 21:14 [Reply]
先ほど紹介しました「がんがら火:北摂池田伝統の火祭り」(中岡嘉弘氏著)の内容から両社に関する由緒に関する記述がありましたので引用させて頂きます。
(私が参詣した当日は参詣が目的ではなくただ単に観光目的と山頂からの眺めが目的だったので社殿の前で一礼しただけだったので詳細は解りかねませんでした)

P44「星の宮 勧請札」
「うやうやしく聞くに穴織大明神(あやはとりだいみょうじん)の末社、星の大神を祀る。
その昔、仁徳天皇御代、漢織・呉織が本朝に渡来され、綾錦を織り給う、その時夜々多くの星が天降り織殿を照らし給うた。故に燭火をつける必要がなかった。
漢・呉は共に百三十余歳の長寿を保ち身罷った(みまかった)。

それ故に社を立て、諸々の星を明星大神と号し祀った。
その後度々ぼ兵乱に会い焼失したが、寛正四年第百二代後花園天皇御代紀元二千百二年、当城主池田筑後守勝正父は漢織本殿並びに末社などを五十八世神主秦定森をして再建せしめた。しかし、この社は天正の兵火に焼失す。

されど、村民の信仰厚きにより社を再び造営される所となり、この度修復成る。定盛の十五世秦定興還座し奉るものである。

日月清明 五穀成就 天下泰平 萬民安全 奉祈者也
猪名津比古神七十三世孫 
穴織社正神主 河村上総守秦宿禰定興 謹誌
丁時文化十五年戌寅年四月翔戌辰日」

P70-P73
「池田五月山愛宕神社 縁起」
「摂州池田五月山愛宕神社に鎮座在します御祭神は、火之迦具土大神、武甕鎚大神、佐伯部祖神の三柱にして、摂社に、天照皇大神宮、大国主命、饒速日之命、松伯稲荷明神を亦別に大日大聖不動明王、行者神変大菩薩を各々祭祠奉る。

火之迦具土大神と申し奉るは伊諾諾(いざなぎ)、伊弉冊(いざなみ)の二柱神の御子にして火之元神に在はしまし古は陰暦六月晦にト部氏の人火を打ちて宮居の四隅に鎮火の神事を執り行せられたる御古記有り。

武甕鎚大神と申し奉るは天孫降臨を扶翼し奉りし武神にして大国主命と共に和議し給ひし折の使神に在はします。
佐伯部祖神とは其の御名経津主命(たけふつぬしのみこと)と申し奉り 武甕鎚大神と共に御同行給ひし勇武の神に在はします。

上世より五月山愛宕にこの御三柱を祭祠奉り神武天皇御東征の砌に御奉賛し給へる霊山にして佐伯氏が世々宮守を勤めて日本最初の愛宕社たりと口婢に残れるものなり。
たまたま中世仏教の渡来につれて仏家の管理に屈し愛宕大権現とも称え奉る。
天正年間攝津の乱に山祠及び数宇寺院兵変に罹り荒廃に帰せしも慶長の始めに復興成り元録の頃其の公殷賑を極め火祭りの神事奉納相撲等執り行わるる先史民族の遺風にして斎事に使用せられたると思わる土器の破片や石鏃など発掘され今尚幾多の礎石、欠余の石燈籠、鳥居等の残存せるを見れば当時の盛況を思い余るものなり。

猶、佐伯部は古く池田に於ける原住民で有ること疑いなく古くは五月山を佐伯山と称せしこと有り愛宕の御分霊を各地に火難除、厄除の守護神として奉祠し在るを多く見受けるものなり。
近年に至り山麓より展開し茅渟(ちぬ)の海に至る猪名川、武庫野一円に渉るデルタ地帯に貴重なる先住民族の住居跡、田能遺跡の発掘を視るなど往古の人々其の高所を選び代々祖先偲びて祭祀成せる事確かなり。」

「愛宕火祭りのこと」
「毎年一月二十四日・八月二十四日を祭日(命日)とし、八月夏山の際には昼間大護摩の権修あり宵闇せまる頃山頂の御神火を二基の大松明へ神官による点火の式あり。
中腹鳥居の元なる愛宕祠の神の位置に大一焔の文字を画きて大松明を人形形にかざして鉦半鐘を打ち鳴らして急坂を下り街中を練りに練り行く様を里人呼んで「がんがら火」と称し今に猶池田地方の方言として伝わるものにて途上燃え落ちる余燼を拾い持ち帰り各戸之を元火として神前に燈明を献じ、家内安全、火難厄難除とせんものと先を競い拾うの風習が今につたわるものなり。

たまたまこの行事を拝み共に厄難を免れんものと近郊はもとより遠く河内、灘方面よりも人々の押し寄せて一夜殷賑雑踏を極めのである。
この愛宕火の「大」は天に配し「一」は地に配し「松明」は人に配し天・地・人和合を象徴したるものなり。

世の推移につれ愛宕火にも衰弱がありこの神事が厳修された年には火災厄事が無く怠った年には大厄事が続いたと伝わる。
古老の言い伝えによると往昔の池田丸焼けの大火事の際にも火祭り神事を受持って居た「甲ケ谷町」(現城山町)に於いて一手に行われ居るものにて、過ぐる天保五年の二月東本町の東大和大火の折にも甲ケ谷が無事であり一層甲ケ谷が火祭り行事を盛大に行うようになったる由伝わる。
池田市綾羽二-二○ 愛宕神社 電話072-751-1090番

なおここでお詫びがございます。
先ほど「この行事が「百四十年」絶やさず・・・」旨ですがこれは他の神社の行事リンクとひっくるめてしまったが為に誤りで実際には「三百六十年以上にわたって・・・」でした、関係各氏子連中の方々には深くお詫びいたすと共に長く行事を見守っていただいているご苦労に敬意を表します。

それと余談ですが上記のいきさつからして京都の愛宕山の本家とは別系統の信仰の歴史であることはお察しと通りですが出所は不明ながらも五月山愛宕神社の御神紋は「三つ梟」(みつふくろう)との事、そういえば埼玉・秩父神社で有名な「北辰の梟」の話は聞いた事がある方も多いでしょうがこれにちなみこちらでは「明星の三梟」(明星のみつふくろう)と称す事は許されるでしょうか。

[11105] Re[11103]: 「がんがら火祭り」で有名な池田市の愛宕神社・星の宮の存在はご存知でしたでしょうか  神奈備 2012/04/11(Wed) 11:56 [Reply]
 『摂津名所図会』に、星御門古址ということで、星の宮が記載されています。二女の織姫に星の光をあたえて、作業を助けたとのこと。

 同じ『図会』に池田五月山・愛宕山について、絵入りででています。

 防衛大臣に、「知っているのか知らないのか」の質問が国会でなされていますが、大人げないように見えますね。

[11104] 出雲国造の斎る神  加賀 2012/04/08(Sun) 23:14 [Reply]
出雲国造家が代を継ぐ際に行われる神事に出雲国造の「火継式」があります。
熊野大社の鑽火殿にて燧臼・燧杵によって火を起こし、
鑽り出された神火と、意宇郡山代郷の真名井社の瀧の神聖な水によって調
理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる。「出雲国造火継神
事の研究」に詳細が記されています。
出雲国造は火以外に神聖な水も引き継いでいるわけです。

佐草家の文書、重山雲秘抄にはこの水を豊受大神より受け継いだ水としています。
この文書には櫛御気野命とは大日孁貴神 也としており、神宮の古伝を考え合わせると櫛御気野命とは水の神である豊宇賀能売神=瀬織津姫神ではなかったかと
想像します。現在の熊野大社では地祇の分類となるスサノオ尊を櫛御気野命と
していますが、出雲国造一族である千家俊信氏の出雲国式社考においても
天照大御神であるとしています。
火を継ぐのは男神としての天照大神(スサノオ尊)であったのかも

真名井社の祭神は天津彦根神であり、下照姫命(意宇郡山代郷に下照姫祀る賣豆紀神社が鎮座しています。)の婿となったという天若日子命であるという説もある神です。山代国造の祖であり御上祝家の祖でもあります。
御上神社の神天御影命は、忌火神、二火一水の神と信仰されており出雲国造の神事
の神聖なものと一致します。山代国の式内社に天津彦根命を祀る神社が無いのが不思議ですが、山代国愛宕郡出雲郷にある下鴨神社の元社は御影神社といいます。
(式内出雲高野神社の論社)
恐らく大国主の息子となった天津彦根命がキーマンで、彼が神聖な火と水を
出雲に持ち込んだのではないでしょうか。

[11103] 「がんがら火祭り」で有名な池田市の愛宕神社・星の宮の存在はご存知でしたでしょうか  そ(八筒光) [Url] 2012/04/08(Sun) 20:00 [Reply]
「カグツチ」の話が出てきたところで神奈備さまにお尋ねします。
池田市の神社で五月山山頂付近の「愛宕神社」と建部付近の「星の宮」の存在をご存知でしたでしょうか。

小生は3年前になるのですが当時の池田市に単身で史跡めぐりに出かけて「呉服神社・五所神社(奥の院・鉢塚古墳(内部に重要文化財の「十三重石塔」がある)・伊居太神社」や建部の「星の宮」や五月山山頂の「愛宕神社」に詣でた事があります。

池田市では毎月8月24日の地蔵盆の縁日で京都の「大文字焼き」ならぬ「がんがら火祭り」が140年続いた今もその伝統を絶やさずに挙行され大阪府内では珍しい無形指定文化財として定番の夏の風物詩として有名です。
(がんがら火祭り公式サイト・http://www.gangara.gr.jp/)
(<その興りと経緯>・http://www.gangara.gr.jp/histry/texthistory.html)
(実際の祭りの様子・http://ventus-1.seesaa.net/article/161130829.html)
(http://milky.geocities.jp/kyotonosato/oosaka/08/gangara10.html)
「愛宕神社」
http://blog.goo.ne.jp/iiya118/e/3ab4a65b5877fcc0c2d74d234ca1144e
http://blog.kenchikusha.com/archives/50395180.html
紹介にもある通り、ここからの池田市街の一望が格別にすばらしいです。
「星の宮」
http://bittercup.web.fc2.com/06tesima/hosimikado.html
「伊居太神社」
http://bittercup.web.fc2.com/06tesima/ayahajinja.html
この両社は共通した由緒を持っているのは紹介文にもあるとおりです。
ところが「星の宮」は「がんがら火祭り」の中継拠点的な役割を担っているといいます、それはがんがら火祭りを催行する氏子連中がこの建部地区に集まっているからです。
そのことについては図書館などで所蔵している「がんがら火:北摂池田伝統の火祭り」(中岡嘉弘氏著)をご覧になればご理解いただけるものと思います(ここでは長文になるために紹介は申し訳ありませんが省略させていただきます)。

愛宕信仰と妙見信仰とは「天と地」「陰と陽」「火と水」を一対にした関係の信仰と見て取れるかもしれません。その理由は「妙見信仰」はある程度裕福な身分でなおかつ戦勝祈願や商売繁盛など特に水商売や馬関連の商売に携わる人たちの崇拝対象である程度身分を選びますがその点、「愛宕信仰」はポピュラーな火伏せ・家宅安穏など特に「陶磁器」関連の神様としても知られ「天上の」妙見さまと違って「地上に暮らす人々に分け隔てなく平等利益を与えてくださる権現(菩薩)さま」として庶民信仰として全国各地に根付いているはずです。あの有名な大阪市中央区本町・渡辺の「坐摩神社」にも「陶器神社」に「カグツチ之神」が祀られており「愛宕権現」として周辺の瀬戸物などの陶磁器産業に崇拝されている事が今日の愛宕信仰の庶民に支え続けられてきた証としてみてとれるはずです。

面白いのは愛宕神社と「星の宮」が「火の神様」として共通した神様として認識されていること、これは「星の宮」が「明星(金星)大神」として祀られておりそれは鞍馬山の「鞍馬山魔王大僧正」の伝承と似ているのかも知れません。

[11102] 天日矛の話  神奈備 2012/04/08(Sun) 15:18 [Reply]
 南米の神話に、火の起源譚があります。ある女はいつも一人で食事をするのを不思議がってのぞき見をすると、女は腹を強おし、産道から火の玉が転がり出てき、この火で料理をしていたとのお話です。

 これが、日本ではカグツチはイザナミから生まれたと言うことになるのでしょう。

 さて、これが韓半島では、古事記に採録されている天日矛にまつわるお話として、ある女が阿具沼のほとりで日光に感精し赤玉を生むとのお話になったと考えていいのでしょうかね。


 また、山姥のお話として、山姥が牛車の荷・牛を食べ、さらに牛方をも食おうとして追いかけます。牛方は逃げて山姥の家の天井に隠れました。山姥は餅を食べ、釜の中で寝てしまったので、釜に蓋をして石を置き、熱湯を注いで山姥を殺したとか、また釜を焚いて焼き殺すと言う話もあります。山姥の黒焼きは万能薬となったそうです。

 これが古事記に採録されている天日矛のお話の中で、ある男が牛に弁当を積んで行くのをみた天日矛が、男に対し、牛ごと食べてしまうのではないかと疑いをかける話があり、似ているような気がします。

 天日矛の話は王権にまつわる神話のようにも見えますが、実際にはもっと古い話だったのかも知れません。

[11100] wanted 大出あや子さん     生田淳一郎   2012/04/04(Wed) 12:18 [Reply]
下 11099 ] の論旨は、わずか 四つの類似語彙らしきものを挙げつらって、「依って日本語はロシア語が起源なのであ〜る」とするハチャメチャ論法で、如何に暴れ者の小生でもこれをそのまま放置してはおけません。
 この暴挙には深ァ〜いワケがあります。
 六、七年前か十二年前だったか、詳しいことは忘れましたが、小生はある日大出あや子さんという方から「こんな本を書きました」との報せの手紙を戴いたのでした。おそらく、ここ青草談話室をご覧になったのでしょう。
 みると多くの言語種を当たって超古代の謎を解明しようとする姿勢はまさに戦友じゃないですか。県庁行き文体の返事をさしあげたところ「だぁれもやらないので私がやりました」とのみごとなタンカとともに、主とする斬り込み領域は日本の枕詞をロシア語との比較で解明できそうだとのもくろみであることが分かりました。
 「これはこれはたいへんな本だ、あとでゆっくり読ませてもらおう」と思い、お名前住所、電話番号をメモしました。
 それから幾星霜・・・・・、ここにきて「ててご」がどうもロシア語くさいことになり、いちど大出さんに連絡とってみる必要が出てきました。
 ところが電話口に出て着た40才がらみの男性の声は「そのような人は知らない、関係ない」というのです。
 ネット検索の結果、大出あや子さんの主著書は『アイヌ語の残照』ということらしいので、最悪の場合でも出版社を介すれば直接のコンタクトは可能でしょう。
 ま、果報は寝て待ちましょうか。
 あ、日本語とロシア語の類似はムィス、 xu mat 、naのほかに「ツ(TSU)」があります。古い時代の日本語には tu はあっても tsu は無かったとする主張があるそうですが、もし一連のタジク語連が縄文期から日本にあると言えるもんなら、ロシア語のもつ固有みたいな ツィ、ツェなどの音は由々しきものを蜂起させます。キルリ文字はコを上向けにして右下にノを入れ表記号です。

[11099] オオナムチの語源・日本語の原郷はロシア語??  生田淳一郎   2012/04/03(Tue) 20:54 [Reply]
 ものを書き始める時には、m離隔な文の流れあたりを掴めるのですが、今回という今回はなんかこうギグシャグして、われながらイヤになるのです。しかもテーマは日本歴史の大きな曲がり角。
 小生がここ半年タジク語に打ち狂っていることはご存知かと思いますが、タジク語とは中央アジアの大言語の混血から成り、日本語の直接の親みたいな言語が現在のナニ語にいちばん近いのかは、まだ把握できていません。
 「小生は「日本語にいちばん近い中央アジア語」のことを父語(ててご)と仮称しています。
 「日本語にいちばん近い中央アジア語」は、気にならないわけがなく、この割り出し作業はタイヘンだぞ〜と思い、やるなら纏まったじかんを設けて集中してつっこまねばならないと考えてきました。
  それが・・・・・、チョチョン、チョチョンとひっかかりができて、しかもそれが日本人が一番ケギライするロシア語へロシア語へと導いて行くのです。
 
《ムィス(ロシア語の岬)》。これはアイヌ語に取り憑かれた 40年前に拾った語彙でした。
 《フ・ナロード(人民の中へ)》フ が英語の to とか into にあたる。石川啄木の詩の中に「フ・ナロードと叫べる者なし」があり、バカの一つおぼえでおぼえていました。
 共産主義では「貧乏人様、虐げられた人びと様」と口先では下層階級にオベッカ使うのですが、その実、バスチューユ牢獄破壊みたいな時だけはプロレタリアを有り難たがるのです。が、それらが真っ赤なウソッパチであることは相模原の不和哲三宮殿をみれば
 ・・・
イッパツで一目瞭然。

 《mat(女)》 / アイヌ語 mat(女)。 この語を金田一京助が注目したので有名になったかと思われます。mat は族際語です。
 白状しますが、「ててご → 日本語領域」に導く語彙はこの ムィス、xu mat の三つしかありません。これだけで日本語ウンヌンは言えようわけがありません。だからあっしの脊髄も頸椎もギクシャクしているんです。

 どこの言語も新しくあたるときはいつもそうですが、初めのうちはとくに「単発音で基礎語をねらいます。
 手許の辞書はくだんの『パスポート『』ですけど、これが赤黒印刷で眼が散って、じつに読みづらい。
 やっと読みの基本がわかったキリル文字でなんとか辿りついた発音も脇に書いてあるフリガナとはまるでちがうのです。

 それでもようやく 「na(前)」をみつけました。「オオナムチ」とは「前国務大臣」ぐらいの表現ではなsかったでしょうか。
 パーリ語には namutiで「悟らない人」、「解脱できない人」から転じて悪魔みたいに扱われています。
 mut を個人のハクづけぐらいに思うと、薩摩の間諜とされてきた伊牟田さんや牟田さんあたりも浮かばれそうです。

[11098] 「常富大菩薩」さまのお話  そ(八筒光) [Url] 2012/04/03(Tue) 19:58 [Reply]
神奈備さまを初めこのサイトをごらんの皆様は「常富大菩薩」さまと言う神様をご存知でしょうか。よく「八幡大菩薩」さま、というように神仏習合の中で成立した菩薩さまがこの世には存在しています。

実はこの神様は「宇賀之御霊之大神」、つまりお稲荷さまの事です。
大阪府は日本三大妙見霊場として名高い能勢町野間中の妙見山の北側の中腹にあります、天台宗と法華宗系の修験の一派「妙見宗」の総本山「本瀧寺」(http://www.hontakiji.com/)
の本殿「大空殿」(http://www.hontakiji.com/%E6%9C%AC%E5%A0%82/)に祀られている三神のうちの一柱です。

こちらに祀られておられます「常富大菩薩」さまには次のような伝承が語り継がれています。(http://www.hontakiji.com/%E5%B8%B8%E5%AF%8C%E5%A4%A7%E8%8F%A9%E8%96%A9/)

実はこちらの妙見山の元々の産土神は他でもない「宇賀之御魂之大神」なのです。
ケーブル黒川駅の東側から山頂へと通じている山上への登山ルートの途中に「白瀧稲荷神社」があります。(http://kamnavi.jp/it/kinki/kawanisi.htm)
(http://blogs.yahoo.co.jp/dekunobou36/48570735.html)

私が図書館で確認した民俗学叢書「秦氏と妙見信仰」(植田加代子氏著・岩田書院刊)の内容によれば野間中から石清水八幡宮の荘園だったと伝わる「野間神社」(http://kamnavi.jp/mn/osaka/noma.htm)(http://blogs.yahoo.co.jp/itigonnusi/57782711.html)
のある「地黄」までの集落はかつては「秦氏」などの渡来氏族系の集落地だったと伝わる地域です。

実は妙見宗の管長初め本瀧寺のご住職を勤められておられる人の中に「野間氏」を名乗る方々がおられその方々は「ノウマ姫」と物部氏にかかわりのある末裔ではなかろうかと思われるのです。

もともとは本瀧寺を中心とする「妙見宗」は元々奈良県吉野山にあります「金峯山修験本宗」の総本山「金峯山寺」率いる一派でもありました。それが戦後、独立して今の「妙見宗」と改宗し日蓮宗系プラス天台系修験の新宗教に近い教団になったのですが金峯山寺に属する教会の教祖の中には東大阪市などでは朝鮮人の方の教師もおられるそうでその影響が残っている可能性も見受けられます。

先述の「白瀧稲荷神社」も神社でありながら神仏習合の形式をとっているのもそうした教学のなかで神仏習合の修行道場として確立してきたのかもしれません。

妙見宗は物部氏が「磐座(イワクラ)信仰」を神降ろしのご神体として始めた「イザナギ流」が「法華神前読経」の作法に入れ替わって始められた法華神道の一形態として重視される極めて珍しい一派といえるでしょう。

[11097] Re[11096][11095]: 安徳天皇さまを大阪・露天神社で祀っているのはこちらの「金毘羅水天社」ですね  そ(八筒光) [Url] 2012/04/02(Mon) 19:10 [Reply]
> > 神奈備さまにお尋ねします、大阪・露天神社で安徳天皇さまを祀っているのは
> > こちらの金毘羅水天社でよろしかったでしょうか。
>
> 水天宮でよろしいかと。

大変、失礼しました。

[11096] Re[11095]: 安徳天皇さまを大阪・露天神社で祀っているのはこちらの「金毘羅水天社」ですね  神奈備 2012/04/02(Mon) 19:09 [Reply]
> 神奈備さまにお尋ねします、大阪・露天神社で安徳天皇さまを祀っているのは
> こちらの金毘羅水天社でよろしかったでしょうか。

水天宮でよろしいかと。

[11095] 安徳天皇さまを大阪・露天神社で祀っているのはこちらの「金毘羅水天社」ですね  そ(八筒光) [Url] 2012/04/02(Mon) 18:41 [Reply]
神奈備さまにお尋ねします、大阪・露天神社で安徳天皇さまを祀っているのは
こちらの金毘羅水天社でよろしかったでしょうか。
http://www.tuyutenjin.com/matsu.html
http://nohzoh.seesaa.net/article/120495879.html
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%A4%AA%BD%E9&sk=1

こちらは私も度々、参詣するところで特に由緒書にもあるとおり水運業者や水商売関連の職人さんに人気があると聞いています。
しかしこちらには表には書いていないもうひとつのご利益があったと思います。
それは「善星皆来・悪星退散(要するに方除け)」など星回りに関する利益だと思われます。

その理由は申し上げるまでもなく、でしょうが要するに「天之御中主神・大物主之神・筒之男三神」など星宿に関する本地垂迹に関する神格が一同に揃っているところにあります。

かつては法善寺の金毘羅稲荷と合わせて縁日の毎月9・10の日には屋台などが出て縁日風景で賑わっていたとの事です。



[11094] 安徳天皇  神奈備 2012/04/01(Sun) 10:04 [Reply]
 第81代安徳天皇は寿永4年3月24日(1185年4月25日)壇ノ浦で三種の神器と共に入水しました。勾玉と鏡は源氏によってすくい取られたそうです。

 安徳天皇を祀る神社は、『平成祭CD』によりますと、摂社も含めて全国で111社。
 社名を水天宮とするのが、焼く半分の56社。
 県別では、福岡が30社、徳島9社、高知7社、東京・神奈川が6社と分布しています。徳島では剱を社名に持つ神社が4社。平家の落人伝説と貴種流離譚の仕業であろうか。

 さて、剱を失ったことで、頼朝が義経を責めたとのこと。

 それよりも、八咫大蛇が安徳天皇として生まれ変わり、まんまと剱を取り戻したと、『平家物語』などに記載されている。八咫大蛇は81代天皇、8歳の帝となって取り返したとあります。

 ここまでは普通のお話。
 紀州の津名道代さん『日本「国つ神」情念史2』に、面白い見方が披露されていますので、紹介します。
 天皇家が剱を失ったと言うことは、自らが剱を以て身を守る必要がなくなった時代になったからとの主張。剱の換わりに武家が登場し、天皇家を守る存在になったとのこと。
 神奈備が参詣した安徳天皇を祭る神社
 徳島 剱山本宮殿 http://kamnavi.jp/en/sikoku/turugi.htm
 山口 赤間神宮  http://kamnavi.jp/en/sanyou/akama.htm
 対馬 八幡宮神社 、広島 厳島神社、大阪 露天神社 など。

[11093] 5色について  公園 2012/03/31(Sat) 23:25 [Reply]
>「唯一神明造の御本殿の高欄上に並ぶ青・黄・赤・白・黒の五色の座玉(すえたま)は、伊勢の神宮と当宮にしか許されておらず、元伊勢としての高い格式を表わしています」、5色の布など新たな疑問が増える今日このごろです

上の古いスレがあったので簡単に書きます
光(統一)は宇宙そのものであり全知全能でありとあらゆるものの存在が統一を解き創造活動を始め人間への直接活動の元の働きとして「七つ」に分かれ色に例えれば7色になります
おさらいですがプリズムを使うと7色の光に分かれるし7色を回転させると白になります
キリスト教においての光は素直にこのことを云っており仏教の5色は本来7色のうちこの地上に働いている人間の種類は5種類だと云ってるのです
だから2種類の人が欠けているのでその当時は極楽浄土が地上に現れないと知っていたのにお釈迦さまはその中で一生懸命頑張ってくれたのでした
7色は人の働きに分けられます
また「奇御霊(クスミタマ)」「幸 御霊(サキミタマ)」「和御霊」「荒御霊」一霊四魂の霊系統などに例えられます(諸説あり)
あらためて唯一神明造の御本殿の高欄上に並ぶ「青・黄・赤・白・黒の五色」についてみてみると統合色の白(7色を混ぜると白になる)から赤・黄・青の色が分かれ始めたいわゆる赤・黄・青の働きを持った「清い人達」「八百万の神々の末裔」が全知全能の象徴である白の「天照大神」様を中心とする神々様がひとつになって黒色(ダメの意味ではない)「未開の地上」を照らし出す働き出す象徴をふくめての五色であると思われます
ちなみに今年の伊勢神宮は光がスゴイです癒やされるしひらめくし良いことずくめです
困った事があったら悩んでないで神宮へ行くことをお奨めします
だそくですが
誰でも知ってるように光は電磁波でありいわゆる波動ですから電気にもなります
そして硬い氷は冷えた水の分子の集合体で水の分子はH2Oの集合体でH2OのHは水素で水素は原子1個電子1個だと云われてます
水素は電子を持っており電磁波の性質を持っているので波動だとも云えます
だからすべての物質は波動であるとも云えます
だとするならば全ての物理法則を統合した生体とか物質波動科学が出てくることは必定だと思っています

科学者のみなさん頑張ってください

[11092] Re[11091][11090][11089][11088][11087][11086][11085][11084]: 出雲国造の斎る神  琉球松 2012/03/30(Fri) 13:42 [Reply]
 宮古島出身の方から、ピッチャガマ(ちょうっとだけ・宮古島方言)情報をいただきましたので、紹介します。

*** 『○地震<ナヰ>(武烈即位前紀 紀歌 91) ⇔ない(地震)ナイ/[naji](名:じしん、地震.・・・・
*岩波大系本『古代歌謡集』(紀歌 91)には次のようにある(*括弧内は筆者の補記)
☆臣の子(鮪の臣)の八符の柴垣     下動み 地震が揺り来ば 敗れむ柴垣
 おみのこ(しばおみ)のやふのしばがき したとよみ なゐがゆりこば やれむしばがき
*上代語「地震(なゐ)」の語末音節の歴史的仮名遣いによる表記は、例外なく、ワ行の
「ヰ」である。
ところが、宮古方言の「ない(地震)」の語末音節は“/-イ/[-ji]”であって
それは上代文献語のヤ行の「い」と音声的に対応するものであるように思える。』
                      引用:「宮古古諺音義」p601・新里博著 ***

[11091] Re[11090][11089][11088][11087][11086][11085][11084]: 出雲国造の斎る神  琉球松 2012/03/28(Wed) 10:10 [Reply]
大三元さん

 そうなんですよ、島の古老達に聞いても「ジイナイ(地鳴り?)」くらいなもので、単語としての地震は出てこないですね。辞典にも出てないですよ。
 それと、なぜ地震を「ナイ」と呼ぶのかも、宮古島の方さえ知りませんでした。

 ところで「オオナムチ」なんですが、「オオ/ナム/チ」で分解できるとすると、「ナム」の部分が「ナヰ」に近いようにも思えるんですけど、そんな説なんてあるんでしょうか?

[11090] Re[11089][11088][11087][11086][11085][11084]: 出雲国造の斎る神  大三元 2012/03/27(Tue) 20:29 [Reply]
琉球松さん
>  そう言えば、奄美沖縄諸島では地震そのものを表す言葉が見つかりませんね。

「琉球語辞典」(大学書林)「沖縄語辞典」(国立国語研究所)には nee で出ていますが「沖縄古語大辞典」(角川書店)にはみあたりません。

[11089] Re[11088][11087][11086][11085][11084]: 出雲国造の斎る神  琉球松 2012/03/27(Tue) 18:21 [Reply]
 宮古島の「ナイ・ナヒ」は現在の発音で、いつ頃まで遡れるかわかりませんが、古語の「ナル」が同島で変化したでしょうか。
 そう言えば、奄美沖縄諸島では地震そのものを表す言葉が見つかりませんね。

 アイヌ語の「ナイ」は「河川」でしたか。

[11088] Re[11087][11086][11085][11084]: 出雲国造の斎る神  大三元 2012/03/27(Tue) 15:07 [Reply]
琉球松さん
>  宮古島では、地震を「ナイ・ナヒ」と言ってますよ。
いつのことでしょう。「ヰ」が廃れた20/21世紀の言語資料でしょうか。
「ナヰ」が「ナイ」になり、擬古文調に「ナヒ」にでもしたものでしょうか。

>  これって「ナル」の転でしょうかね。
ここの「ナル」はどんな意味の言葉ですか?

>  あるいは、アイヌ語の「ナイ」と関係あるでしょうか?
アイヌ語の「ナイ」は私の知る限りでは「河川」の意味ですから関係ナイ?

[11087] Re[11086][11085][11084]: 出雲国造の斎る神  琉球松 2012/03/27(Tue) 09:45 [Reply]
 大三元さんへ

 宮古島では、地震を「ナイ・ナヒ」と言ってますよ。これって「ナル」の転でしょうかね。
 あるいは、アイヌ語の「ナイ」と関係あるでしょうか?

[11086] Re[11085][11084]: 出雲国造の斎る神  大三元 2012/03/26(Mon) 15:55 [Reply]
神奈備さん
>  岩波『日本書紀』の推古七年に、「地動りて:なゐふりて」とあり、その注釈として、「ナは土地、ヰは居。ナヰで地盤のこと。」とあります。

これが校注者4人の内の誰かの注釈なのでありましょう(多分、大野晋さん)。
根拠は何なのか。

>  ただし、「な」については、角川『古語辞典』久松・佐藤 にはありません。「なゐ(地震)」は古くは大地の意で、振る・揺らすを伴ってはじめて地震の意になるとという。とあります。

「・・の意になると云う」の様に根拠を示していない伝聞みたいなことで良いのかしら。

さて、日本書紀には確かに次のような記事はあります。
 允恭五年秋七月丙子朔己丑、地震
 推古七年夏四月乙未朔辛酉、地動舎屋悉破。則令四方、俾祭地震神。
漢字だけで書かれた文章を日本語でどう読むのか(ジシン、チドウは漢語であり日本語ではない、という規範)。
もう一つ関係する資料があります。
武烈前紀 にある歌謡に:太子歌曰、
於弥能姑能、耶賦能之魔柯枳、始陀騰余瀰、那為我與釐拠魔、耶黎夢之魔柯枳。
おみのこの やふのしばがき したとよむ なゐがよりこば やれむしばがき
臣の子の  八節の 芝垣  下 動む  ★★が・・・・ 破れむ 芝垣

「下動む」地面・地下が鳴動するのだから「なゐ」は地震のことであろう。
傍証・補強として 類聚名義抄(AD1100頃)に
 地震 なゐ とある(そうだ。。。)

これを根拠として
 允恭五年秋七月丙子朔己丑、地震 
ここの「地震」を「なゐ」と読んだのだろう。穏当だと思う。

そして「なゐ」というものが「よりこば」するらしい。これはなんだ。
「揺れ(振れ)来れば」だろう、というので

 推古七年夏四月乙未朔辛酉、地動舎屋悉破。則令四方、俾祭地震神。
ここの「地動」を「なゐふる」と読むことにしたのだろうか。
それとも「なゐふる」という直接的な用例があるのだろうか。寡聞にして知らない。

大体、「よりこば」(よりくれば)の「より」が「揺れ」の転だとするならここの「よ」は甲類でなければならないが、実は乙類が使われているので「揺れ」の転とするには「疑いが持たれる」むしろ「寄る」に関係あるのではないか(時代別国語大辞典上代編「よる」の項)と論じられている。

つまり「なゐ」が「地震」のことなのか「大地」の意味に過ぎないのか説得力のある解に達していないのではないか、と思っています。

資料不足、考え違いなどあるかもしれません、ご指摘下さい。

[11085] Re[11084]: 出雲国造の斎る神  神奈備 2012/03/26(Mon) 10:36 [Reply]
大三元さん

 岩波『日本書紀』の推古七年に、「地動りて:なゐふりて」とあり、その注釈として、「ナは土地、ヰは居。ナヰで地盤のこと。」とあります。

 全国に命じて地震の神をお祭りさせた。と続きます。

 三重県名張市下比奈知(伊賀国名張郡)に、式内社の名居神社が鎮座しており、上記の命令による神社だとされています。尤も、「なゐ」の名を持つ神社はここだけのようです。


 ただし、「な」については、角川『古語辞典』久松・佐藤 にはありません。「なゐ(地震)」は古くは大地の意で、振る・揺らすを伴ってはじめて地震の意になるとという。とあります。

[11084] Re[11081]11077: 出雲国造の斎る神  大三元 2012/03/25(Sun) 20:48 [Reply]
どんたくさん
> 以前どこかで大三元さんが、「事代主神というのは通訳だったのではないか」というようなことを書いておられたように思いますが、

無責任のようですが、どなたかの説をご紹介したものだったか自説という認識はありません。

> いわゆる天孫族と出雲族(大國主)とでは言葉が違っていた?

アイヌにも「國を造った神」があり我が大国主の別名とされる「国作大己貴命」(日本書紀)、「所造天下大神」(出雲風土記)に照らして興味深いものがあります。
http://www.dai3gen.net/ainu_yu20.htm

「国造神」のアイヌ語は「kotan kar kamuy(国を・造る・神)」ですが、二語目の kar が kor になると「国を・持つ・神」という意味になり「大国主」の語義に一致するのもオモシロイところです。

天孫族と出雲族(大國主)とでは言葉が違っていたか:その区分が十分精確ではないかもしれないとしても、私は概括的に概念的にそのように考えています。前者の言語が後に日本語になり、後者の言語は後にアイヌ語になった、という仮説を立てています。

なお「な」が満州語で「土壌、国土」を意味する、については、少なくとも三国史記のいわゆる高句麗語地名で「壌」の字が「那」「内」と対応しているように見えることがバックになろうかと思います。しかし「オホ」も「モチ」も和語だとすると、何故に真ん中に満州語の「ナ」が入るのだろう:今風に云えば真ん中に英語を入れて「大ランド持ち」とでもいう構造だった、という解なので疑問はぬぐえておりません。こんな構造は「あり得ない」とも言い切れないのですが、いいのかなぁ、、、と、ね。

[11083] Re[11078][11077][11076][11075]: 出雲国造の斎る神  神奈備 2012/03/25(Sun) 09:45 [Reply]
どんたくさん、大己貴・大国主の解説ありがとうございます。


> 「スサノオ命」の二面性も、このあたりの事情に起因しているでしょうか。
> 出雲の地名「須佐」ではなく、紀伊国の「須佐」がオリジナルの地とする説もありますね。

 紀伊の須佐神社の伝承としては、「海を向いて鎮座していた」のですが、通る船が挨拶をしないとひっくり返すので、「海が見えない向き」に変えたとあり、乱暴者の伝承が紀伊にあったと言えます。
 一方、『出雲国風土記』には、素朴な神としての物語があります。

 これらを合わせると、二面性がある神と言えるようですね。

 紀伊をオリジナルとする松前説は、紀伊と出雲と共通する須佐、熊野、速玉などの神社の格付けが紀伊が上位になっていることを一つの根拠としています。平安時代の格付けで、オリジナルを言えるのかどうか、よくわかりませんが・・・。

[11082] Re[11081]11077: 出雲国造の斎る神  琉球松 2012/03/25(Sun) 09:35 [Reply]
 「ナ(庭・テリトリー)」は、琉球方言でも土地や空間を表すとされていて、「ナル(地震・鳴る・成る)」は後世の意味付けでしょうね。「奈良」もその派生語でしょうか。
  ともかくも、農耕民の表現と思われる「ムチ」は、"餅の霊力?" とも関係あるのでしょうか。

 ただ、「オヲ」はどうでしょう? 美称には違いないんでしょうけども、「大・粟・淡・多.阿波.青」などは、もともと海民に関わるよいうに思います。

 それと、「スクナヒコ」は語尾に「ナ」を付けたりしますよね。この場合の琉球方言での解釈は「ニナ(巻貝)」とも考えられます。

[11081] Re11077: 出雲国造の斎る神  どんたく 2012/03/25(Sun) 08:36 [Reply]
No:11080 大三元さん;

> 少なくとも岩波の日本書紀、補注にあります。

アッ! そうだったのですか。
やはり、大三元さんなら何かご存じだろうと思っておりました。

岩波『日本書紀』上 補注 p565:
・・・・・・・・・・・・・
それを一神に結合する際、その結合の中心として、オホ(大)ナ(地又は国)ムチ(貴)を新たに翻訳して、オホ(大)クニ(国)ヌシ(主)という言葉を作り、それに代表させたのである。
・・・・・・・・・・・・・

ここにすでに「翻訳」という言葉が使われていますね。

以前どこかで大三元さんが、「事代主神というのは通訳だったのではないか」というようなことを書いておられたように思いますが、いわゆる天孫族と出雲族(大國主)とでは言葉が違っていた?


> http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/25-5ada.html

大変面白いですね。
「なゐふる」という言葉は知っておりましたが、「へなちょこ」「へなへな」の語源がこういうこととは全く思いもしませんでした。

この「保立道久(ほたて みちひさ)の研究雑記」というのは、色々と面白そうですね。よいものを教えて戴いて、有り難うございました。


[11080] Re[11079]11076: 出雲国造の斎る神  大三元 2012/03/25(Sun) 00:01 [Reply]
どんたくさん
> 実は、オオ(美称の大)+ナ(土地の意)+ムチ(貴人の意)という説は以前にもどこかで見たことがあるような気がするのですが、それがどこであったのか記憶にありません。

少なくとも岩波の日本書紀、補注にあります。大野晋さんが書いたものかと思うのですが「原典」を見つけてはおりません。が、
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/25-5ada.html
が見つかりましたのでご参考に。

[11079] Re11076: 出雲国造の斎る神  どんたく 2012/03/24(Sat) 21:41 [Reply]
No:11077 神奈備さん、こんにちは。

>> 大己貴命

> 豊歴の先輩が興味深いサジェッションをしてくれました。
> それは、大己貴と大国主との関係です。

> 大己貴は奈良時代より古い時代の表現だ。
> 地震を「ない」と言うように、己(な)は土地ないし国の意味がある。
> 貴(ち)は 霊であるとか、支配者の意味がある。王でもある。
> 従って、「大己貴」を新しい言葉に置き換えて見ると、「大国主」となる。


『日本古代史大辞典』大和書房 2006年 の「おおなむちのかみ【大己貴神】」の項に、次のように書かれています。

『記』『紀』神話の神。『日本書紀』では大己貴、『古事記』では大穴牟遲、『万葉集』では於保奈牟知、大穴道、大汝、『出雲国風土記』では大穴持と記す。
名義は、オオ(美称の大)+ナ(土地の意)+ムチ(貴人の意)と解釈して地霊神、地主神とみる説が有力だが、異説もある。
・・・・・・・・・・・・・・・・。

これを受けて、私は次のようなことを考えました。

「弥生語=弥生時代の言葉」と「古墳語=古墳時代の言葉」とは違っていたのではないだろうか?

「弥生語」でオオナムチと言われていたものを「古墳語」に翻訳すると、大國主または大物主になるのではなかろうか?
ナという言葉の意味をどう捉えるか、翻訳の仕方によって、大國主にも大物主にもなりうるのではないだろうか?

『日本書紀』神代上・第八段・第六の一書には、「大國主神、亦の名は大物主神」とあり、また、大己貴神(=大國主神)の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)が大和の三輪山に住むとある。
また、『出雲国造神賀詞』では大物主を大穴持(大国主神)の和魂(にぎみたま)であるとする。

このように、大國主=大物主 という考え方がみられるのは、両方ともそのもととなった「弥生語」がオオナムチだったからではないだろうか?

実は、オオ(美称の大)+ナ(土地の意)+ムチ(貴人の意)という説は以前にもどこかで見たことがあるような気がするのですが、それがどこであったのか記憶にありません。

本居宣長の『古事記伝』にでもあるかなと思って、少しばかりあたってみたのですが、わかりませんでした。

どなたかこの説の原典をご存じの方がありましたら、ご教示ください。

[11078] Re[11077][11076][11075]: 出雲国造の斎る神  琉球松 2012/03/24(Sat) 10:59 [Reply]
 イザナギ&イザナミが淡路のローカル神だったとの説が正しければ、"後から突然に皇祖神の親神にされた新しい神" が説得力を持ちそうです。

 奈良中央の政権は、風土記をかき集めたように、あちこちの信仰を統合したかもしれませんね。これじゃあやっぱり矛盾が出るのも必然なのでしょう?

 又、「スサノオ命」の二面性も、このあたりの事情に起因しているでしょうか。
 出雲の地名「須佐」ではなく、紀伊国の「須佐」がオリジナルの地とする説もありますね。

[11077] Re[11076][11075]: 出雲国造の斎る神  神奈備 2012/03/24(Sat) 09:27 [Reply]
> 大己貴命

 豊歴の先輩が興味深いサジェッションをしてくれました。
 それは、大己貴と大国主との関係です。

 大己貴は奈良時代より古い時代の表現だ。
 地震を「ない」と言うように、己(な)は土地ないし国の意味がある。
 貴(ち)は 霊であるとか、支配者の意味がある。王でもある。
 従って、「大己貴」を新しい言葉に置き換えて見ると、「大国主」となる。


> 邪馬台国の連合に参加?した後の名で、

「大己貴」は大国主より古い言葉ですが、邪馬台国の時代より先か後かは決め手が見えません。


> 出雲においても、熊野信仰はさらに古いとの説がありますが

 意宇郡の熊野信仰の部族が出雲地域を支配したとされており、それが国譲り譚の原型とされています。「古い」と言っていいのでしょう。

 本当に古い神には墓は無いと思っています。例えば、高御産巣神の神陵については、寡聞でもあり、聞いたことがありません。イザナギは淡路なり淡海に幽宮があります。イザナミもおっしゃるとおり。この二神は後から突然に皇祖神の親神にされた新しい神のように思われます。だから神陵があるのだと考えています。

[11076] Re[11075]: 出雲国造の斎る神  琉球松 2012/03/23(Fri) 16:18 [Reply]
 神奈備さんへ

 出雲神の神名は、大雑把に「国譲り」以前と以後に分けられるんじゃないかと考えますが。。。例えば「大己貴・大汝・大国主・大地主・大三輪」など「オヲ」を冠する名は、邪馬台国の連合に参加?した後の名で、海人系の匂いがするんですよ。
 一方、「葦原醜・杵築・八千矛・伊和」などは、銅鐸に関する名でしょうか。

 ところで、出雲においても、熊野信仰はさらに古いとの説がありますが、神奈備さんはどうお考えでしょうか。
 イザナミは、紀伊国と出雲の両方に葬られていますね。

[11075] 出雲国造の斎る神  神奈備 2012/03/23(Fri) 11:18 [Reply]
 『令義解』(833年)に、天神地祇について以下のように記されています。

 天神とは、伊勢、山城鴨、住吉、出雲国造の斎る神など
 地祇とは、大神、大倭葛木鴨、出雲大汝神など

 さて、「出雲国造の斎る神」とは、何のことでしょうか。
 『記』や『紀一書第二』に国譲りの後で、大己貴命のために御殿のような社を建てています。『紀』では、天穂日命に祭祀を司らせます。これこそ「出雲国造の斎る神」と言えるでしょう。大己貴命は地祇中の地祇です。天神に分類されるはずがありません。矛盾があります。
 そうしますと、更に地祇の「出雲大汝神」とは、何のことかいなとなります。

 津名道代さんの『日本「国つ神」情念史』には以下のように出ています。
 「出雲大汝神」と「出雲国造の斎る神」は別もののような書きぶりではないか・・。さらに、「出雲国造の斎る神」を天神としながら、祭神の名を言っていない。じっさい、『延喜式』神名式でも、出雲国出雲郡に
大穴持神社 小社。
杵築神社[キツキ](名神大) こちらが現在の出雲大社。
とでており、「天穂日命に祭祀を司らせます。」との約束はどうなったのか。
と指摘しています。

 『日本の神々』(白水社)出雲大社の項は石塚尊俊氏の執筆ですが、「出雲国造の斎る神」とは、熊野大神のこととして、天神としています。地祇の「出雲大汝神」を杵築大神のこととしています。出雲国造は杵築大社を祀りながらも熊野大神を手放していなかったと言うことでしょう。

 また、『先代旧事本紀』(陰陽本紀)には、熊野・杵築両大社の祭神を素盞嗚尊としています。素盞嗚尊は天照大神の弟ですから、天神にあたるとの理解があったのかも知れません。杵築大社を天神である素盞嗚尊を祭神とするのであれば、「出雲大汝神」を『延喜式』での大穴持神社としても成り立つことになります。

 よくわからないお話です。

[11074] もし「龍神の聖線(ドラコニクル・レイライン)」というものがこの世に存在しているならば・・・  そ(八筒光) [Url] 2012/03/21(Wed) 21:49 [Reply]
かつて融通念仏宗の開祖で大念仏寺を開いた伝説の念仏修行者「聖応良忍大師」が龍神信仰の山岳修験者で龍神信仰のレイラインを密かに形成させていたら・・・
私なりに考察した意見をこちらで述べさせていただいております。
http://31448354.at.webry.info/201203/article_2.html

余談ですが「スサノオの数字(大井道範師著/幻冬社ルネッサンス)」には「古事記のコード」で紹介された「六合の中心」を中心とした橿原宮を中心とした南北のレイラインについて取り上げられていますが実はこちらに(http://31448354.at.webry.info/201202/article_3.html)
私自身がそれ以前に同じ内容の考察を取り上げさせていただいています。

それと同様に今回のレイラインを私自身で発見したのですが神奈備さまとこの掲示板をご覧になられておられる皆様方からご批判をお寄せいただければと思います。


[11073] Re[11070]: 伊勢部柿本神社  和歌山 2012/03/20(Tue) 12:37 [Reply]
> 和歌山の神社 伊勢部柿本神社 海南市日方 倭姫命が諸国を巡行された際、吉備の名方浜宮に来られました。神社の公式HPができました。

 私はここの氏子なんですが、子どものころ遊び場でした。和歌山を離れて奈良へきて3年がたちますが参拝に帰りたいです。
 東大寺二月堂の修二会が終わりましたが7日ほど神明帳の奉読の聴聞に通いました。練行衆が柏手を打つのですが私も柏手を打って神々をお迎えしました。次は新薬師寺です。

[11072] 海人とウミガメは親しい間柄  神奈備 2012/03/20(Tue) 10:39 [Reply]
住吉セミナー 神戸大学 坂江渉る 先生

海人とウミガメは親しい間柄

『古事記』神武東征 槁根津日子(サヲネツヒコ)の登場
 その国より上り幸(イ)でましし時、亀の甲(セ)に乗りて、釣りしつつ打ち羽(ハ)ふり来る人、速吸門(ハヤスヒノト)に遇(ア)ひき。

 亀の背には実際には乗れないが、このような伝承があることは親密さを窺わせる。

『日本書紀』巻二神代下第十段一書第三
 豐玉姫は大龜に乗って、妹の玉依姫を連れて、海を照らしてやってきた。

『日本霊異記』
 難破の津に到る時、海辺の人、大亀四口を売る。 等。

 『丹後国風土記』亀比売。

 亀は神界と人界を結ぶ聖獣、人間に福をもたらす生き物。


 神の去来と亀の去来とは似ている。彼方から、特定の季節に、夜に、やってくる。そうして歓待を受ける。亀の場合にも御神酒を捧げる。

住吉セミナー予定
http://kamnavi.jp/link/sumisemina12.htm

[11071] Re[11069][11068][11066][11065]: 茨木市・五十鈴町の「溝昨神社」に伝わる「暁の御鏡」(二神二獣鏡)  神奈備 2012/03/20(Tue) 10:34 [Reply]
> 古代人にとっては同じ扱いだっかも

 咋の神とは掘る神と理解できます。

 古代の地中深くではなく、露出銅を掘ることで入手できました。

[11070] 伊勢部柿本神社  神奈備 2012/03/19(Mon) 19:40 [Reply]
和歌山の神社 伊勢部柿本神社 海南市日方 倭姫命が諸国を巡行された際、吉備の名方浜宮に来られました。神社の公式HPができました。
http://kamnavi.jp/ki/city/isebekaki.htm
http://www.isebekakimotojinja.jp/index.html

[11069] Re[11068][11066][11065]: 茨木市・五十鈴町の「溝昨神社」に伝わる「暁の御鏡」(二神二獣鏡)  琉球松 2012/03/19(Mon) 11:15 [Reply]
 神奈備さん、大三元さん、ありがとうございます。

 大三元ご紹介のサイトは、だいたい読んでるんですけどね、古代人の感覚にはなかなか近づけなくて苦労します。
 「クイ」に関して、鳥類の「クイナ」の行動を見ていると、「食う・突く・掘る・彫る」などの作業?を表すように思いますが、「百舌鳥」と「溝」の古墳との関係性も面白いですよ。

 神奈備さんは、農耕土木と鍛冶屋の両方に繋がるように示唆されていますけど、これって技術職一般を言っているでしょうか。現在は職種別に表現を使いわけてりするんですけど、古代人にとっては同じ扱いだっかも?

[11068] Re[11066][11065]: 茨木市・五十鈴町の「溝昨神社」に伝わる「暁の御鏡」(二神二獣鏡)  大三元 2012/03/19(Mon) 08:54 [Reply]
琉球松さん:

>  そもそも「溝咋(みぞくい)」の原義はなんなんでしょうか?

私は下記URLあたりのことをぐるぐると巡っています。
一言で言うと「みそくい鳥」のことであり「みそさざい」のことか(広島・岡山方言)(他に「みそなめ」とも)、と考えてます。そう考えると色々と展開、相互補強などが「楽しめます」。

http://www.dai3gen.net//mizokui.htm
http://www.dai3gen.net//sasaki.htm
http://www.dai3gen.net//kangaekata.htm

[11067] Re[11066][11065]: 茨木市・五十鈴町の「溝咋神社」に伝わる「暁の御鏡」(二神二獣鏡)  神奈備 2012/03/18(Sun) 21:11 [Reply]
咋の神

大山咋尊 日吉大社 松尾大社
天咋見命
津咋見命 天日鷲命の御子にして一名津鷲見命と申すとも云い又は天太玉命と同神なりとも云う。

裳咋臣船主 裳咋(もくひ)神社昔、この辺りは大沼を取り囲む水田がある。

咋岡神社 飯岡の北境、宮ケ森に鎮座。永享年間、洪水の爲め被害あり、この地囲に濠をめぐらし土塁の跡が周囲の森林の中に残る。

 三島溝咋耳命については、田圃の草取りをイメージする神名解読が一般的です。鳥に例えた鴨の姿を思い描くのでしょう。
 
 たしかに、「咋」の字については、溝であろうかなかろうか、水なり田にゆかりがありそうにも見えます。掘ると云う共通項があるのでしょう。

 大山咋の場合は金属の発掘とされていますので、三島溝咋耳命も、おっしゃる通り鍛冶屋さんか製鉄・製銅の仕業の奉じる神と見てもいいのでしょう。銅鐸の鋳型が出土した東奈良遺跡に近いのも傍証となるのでしょう。

[11066] Re[11065]: 茨木市・五十鈴町の「溝昨神社」に伝わる「暁の御鏡」(二神二獣鏡)  琉球松 2012/03/18(Sun) 11:16 [Reply]
 そもそも「溝咋(みぞくい)」の原義はなんなんでしょうか?

 文字どうりの意味なら楽勝なんですけど、「媛蹈鞴」は「ホトタタラ」でもあるわけですから、溶鉱炉のホド穴から銅鏡が出産されるとの解釈も可能でしょうかね。

 とすると、「溝咋」は、土木業者というよりも鍛冶屋さんのイメージに近くなるんですけどどうでしょうか。中国製の鏡を型取りして勝手にコーピー品を造ったとか(笑)。

[11065] 茨木市・五十鈴町の「溝昨神社」に伝わる「暁の御鏡」(二神二獣鏡)  そ(八筒光) [Url] 2012/03/15(Thu) 21:36 [Reply]
カムヤマノイワレビコ命(神武天皇)の皇后と伝わる「媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)」とその母君「三島溝咋玉櫛媛」を祀る「溝咋(みぞくい)神社」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%9D%E5%92%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(http://kamnavi.jp/en/settu/mizokui.htm)

その溝咋神社に伝わる隅田八幡鏡に匹敵する位の歴史的価値の重い社宝「「暁の御鏡」(二神二獣鏡)の紹介がこちらhttp://www.geocities.jp/mizokuijinja/sub2.html
(以下、引用)

■暁の鏡 (中国の漢の時代につくられたもの)

第五十一代平城天皇の皇子阿保親王の位田が当地方にあり、第五十三代淳和天皇の天長元年(西暦824年)の夏、ひどいひでりにあい人々が苦しんだ。親王が天皇にお願いして鏡をたまわり当神社の神前にて祈れば大雨が降り人々が大いに喜んだ。親王はこのことを天皇に申し上げたところ、天皇はその鏡に溝咋大神と書かれ当神社に与えられたと伝えられている。
なおこの鏡は中国の漢の時代につくられたもので青銅製二神二獣鏡、漢の騶(すう)氏が五穀がみのるのを祈ってつくったものである。」

なお、茨木市には宇野辺周辺での「雨乞い神事(つい最近になって町おこしのために復活したそうな)」や竜王山・宝池寺の「八大龍王」伝説など(弁天宗・冥応寺(茨木弁天)など)雨乞い伝承話が多いのですがなんと神鏡だけでなく「水天像」も相伝されているらしいのです(http://www.geocities.jp/engisiki/settu/bun/st060512-01.html)ひょっとしたら南側の「星見町」の旧「天満宮」に祀られていたのかもしれません(江戸地方では陰陽五行説で北の「水」の方角から水天を祀る(水天宮など)神社が多かったがそれが「妙見」と間違われていたらしく・・・)

またこちらにはそれに関するこんな伝承話が(溝咋村の民話・伝説)
http://www.geocities.jp/mizokuijinja/sub2-1.html#mizominwa

かつてこちらの祭礼の渡御は高槻市・三島江の「三島鴨神社」(http://kamnavi.jp/en/settu/misimakamo.htm)(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E9%B4%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akbus600/)まで行われていたとのこと。
この三島鴨神社は「加茂氏」などの伝承が残り「大山祇神」を日本国内で初めてまつりあの「饒速日命」が一時的に逗留していた伝承を持つ地域。
(かつてこちらには「妙見宮」があったとのこと(http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/kanko/database/rekishi/1327367980823.html)

さらに気になるのは先述の溝咋神社の五十鈴町の南側には「星見町」と言う地名がありここにはかつて天満神社があったがこちらの溝咋神社に合祀されたとの事。

茨木市の壮大で奥深い古代史ロマンに打たれた方は是非とも大田茶臼山古墳めぐりついでに阪急茨木市から徒歩15分ほどで安威川へ五十鈴町へ歩けばすぐなので是非とも参詣をお勧めします。

[11064] 住吉セミナー  神奈備 2012/03/15(Thu) 11:57 [Reply]
 住吉セミナー188回

平成24年3月19日(月)
14時半から16時
古代の大阪湾に来ていたもの
ーウミガメの上陸・産卵の文化史
神戸大学 坂江渉先生
住吉大社吉祥殿
資料代 たぶん200円


[11063] Re[11061][11059]: 春日大社の摂社の紀伊神社  神奈備 2012/03/14(Wed) 15:21 [Reply]
 『豊後国風土記』に、「豊前の仲津郡の中臣の村」と云う字句が出てきます。平安時代の『和名抄』にも、仲津郡に中臣郷が記載されています。宇佐地方と中臣とは由縁があったのでしょう。

 『日本書記』に、天種子が登場しますが、いっこうに活躍はしていません。しかし、垂仁・景行・仲哀紀には中臣が登場していますし、天岩戸のシーンにも出てきます。不比等としては、「悠久の昔から天皇家を支えた氏族であるぞよ。」としたかったのでしょう。そういう意味では神武の宇佐伝承に繰り込ませたのかもしれませんね。

 天種子そのものは、『平成祭CD』によりますと、埼玉・千葉から滋賀・京都、鳥取、四国、福岡・大分を合わせて26社も祭られています。中臣氏の祖神としての伝承があったのでしょう。

[11062] Re[11060]: 「鞍馬山魔王尊・大地の「気」を「金星」から」の意味とは・・・  神奈備 2012/03/14(Wed) 15:20 [Reply]
> これもまた余談ですがそういえば本堂前にある一時期話題になった「金剛床」、神奈備さまはおたちになった事はありましたでしょうか。

 小生は「波動」を感じない人ですので、見るだけです。

[11061] Re[11059]: 春日大社の摂社の紀伊神社  多美 2012/03/14(Wed) 09:50 [Reply]
天種子命 あめのたねこのみこと

「日本書紀」にみえる豪族。
天児屋命(あめのこやねのみこと)の孫。中臣(なかとみ)氏の遠祖。神武天皇の東征に従軍し,筑紫(つくし)の宇佐(うさ)で菟狭津媛(うさつひめ)と結婚したという

古事記に書かれていないということは、不比等の陰謀でしょうか?

[11060] 「鞍馬山魔王尊・大地の「気」を「金星」から」の意味とは・・・  そ(八筒光) [Url] 2012/03/12(Mon) 22:04 [Reply]
神奈備さまがずっと前にこちらでこの様な事をおっしゃられていたのをおぼえていますか。(http://kamnavi.jp/yamasiro/kurama.htm)

(「歴史」の項目中に・・・)
 「この山は2億数千年前〜7千万年前の地質で成り立ち、素晴らしい波動を発している霊山だと言う。その霊山の波動を護法魔王尊としたのであろう。大地の「気」を「金星」からとの発想は何だろう。地球とともに惑星の仲間と判っていたのかも知れない。」の「大地の「気」を「金星」からとの発想は何だろう」の意味が以下のリンクから情報を得ました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yhwh_lucifer/937281.html

こちらの情報によると先代の管長睨下が「先代の貫主・信楽香雲が神智学の影響を受け・・・」との事で西洋宗教の教えが「和洋折衷」の意味で仏教と融合し鞍馬山魔王尊の教義に繋がったのではないか、との見識が見られます。

大阪市の北区・真言宗の「太融寺」の本堂「大悲殿」には千手観音・毘沙門天に「地蔵菩薩」の三体が本尊・脇仏として祭られています。

鞍馬寺では「地蔵菩薩」を置き換えて「鞍馬山魔王尊」としているのは「大地のエネルギー」(地)を(蔵)しているという意味では地蔵菩薩と本地垂迹の関係に当たるのかもしれません。

余談ですが吉野・金峯山寺の「三位一体金剛蔵王大権現」は「(千手)過去・(釈迦)現在・(弥勒)未来」の三世を表していますがその本地垂迹の関係には「大日如来・地蔵菩薩」と寺側が教えてくれました。これは「天と地」を意味します。

つまり「大地の「気」を「金星」からとの発想は何だろう」とは魔王尊が金星からその偉大な力を地球上に「神降ろし」した「ルシファー」降臨の伝承に似通ったところがあるのかもしれません。

これもまた余談ですがそういえば本堂前にある一時期話題になった「金剛床」、神奈備さまはおたちになった事はありましたでしょうか。

[11059] 春日大社の摂社の紀伊神社  神奈備 2012/03/12(Mon) 21:18 [Reply]
 五十猛神を祀るとされる韓国宇豆峯神社については、『式内社調査報告』には、祭神として天児屋根命も一つの説としてあるとしています。中臣氏の祖神の天児屋根命の孫の天種子命は、神武東征の途中、宇佐にて在地の豪族菟狭津媛を娶った豊前仲津郡中臣郷出身であったとする太田亮の説をあげて、『景行紀』の熊襲征伐ではこの中臣氏一統の援助が功を奏したと考えるのは、直入中臣神を祀っており、当検校川畔に中臣神が祀られても不思議ではないとしています。また中臣氏は播磨国揖保郡で中臣印達神社の例を見るように五十猛神を祀る例があります。

 紀伊では、伊太祁曾・大屋都比賣・都麻都比賣の三神を分遷しており、これは藤原不比等の紀氏への牽制かとも思われます。

 春日大社の摂社に紀伊神社があり、五十猛・大屋都比賣・都麻都比賣の三神を祀っているのも、その一環だと思われます。

[11058] Re[11057][11056][11055][11054][11052]: 淡路と淡海  多美 2012/03/09(Fri) 18:01 [Reply]
「神々の系図」川口謙二によれば、

『日本書紀』には、この後、伊邪邦岐神は神功を終り幽宮を淡路国に建てて隠れ給うたと書かれている。これにしたがって淡路島には伊弉諾神社(旧官幣大社)が建てられている。またこの神の座を近江国・多賀神社としている説もあり、伊邪邦美神についても、神陵の地を紀伊国熊野有馬村にあるとする説、『古事記』の出雲と伯耆の国境にある比婆山に葬ったとする説などあって、この二神の崇敬の拡散が知られる。

古事記と日本書紀の記述の違いは、良くある話ではないでしょうか、

とすれば、二説あってもおかしくないのでは?

川口謙二「神々の系図」は、いつも参考にしています、

本筋(伊勢系?)は淡路、亜流?が淡海、

国生み神話でしょうから。

[11057] Re[11056][11055][11054][11052]: 淡路と淡海  琉球松 2012/03/09(Fri) 12:06 [Reply]
 もともとは淡路島のローカル神だったとの説が正しければ、近畿地方全域に広がっていた信仰が、伊勢湾経由でもたらされたと推測はできないでしょうか。
 多賀大社の近くには「猿田彦」を祀る社もあるようですから、伊勢や熊野からの流入と見たほうが妥当な気がします。

 「多賀」が「オオガ」と読む時代があったとすれば、海人地名「オヲ」でしょうから、淡路説?優位になるんですけども、そういう記録も見当たらないですね。

[11056] Re[11055][11054][11052]: 淡路と淡海  多美 2012/03/09(Fri) 09:34 [Reply]
>、実在するから記述したと考えていいのではないでしょうか。

「淡路の多賀」「淡海の多賀」双方「多賀」、

何だかややこしいですね、

鎌田純一氏は、1923年大阪生まれ、國學院大學日本文化財研究員、皇學館大学教

授を経て、宮内庁掌典、現在は宮内庁侍従職御用掛、皇學館大学名誉教授。とありま

す、以下の発言
 
>これのどちらが正しいということは、近江の多賀大社と淡路の伊弉諾神宮、両者の

争いになるので私には言えません。

この発言から、判断すれば、鎌田純一氏は、どちらが正しいか、知っている、と、思

われます、

てっきり、淡路が正しいと思いましたが、実在するから記述したとなれば、一体、ど

うなっているのでしょうか?

この問題を研究または追求している人が、いるのでしょうか?

両神社は、今は、共存共栄のようですが、かつて、どうなっていたのでしょうか?

大スターになった天照大神の生み親は、糟糠の妻と同じように軽んじられたのでしょ

うか。



[11055] Re[11054][11052]: 淡路と淡海  神奈備 2012/03/08(Thu) 19:16 [Reply]
 『古事記』に記載があるから、淡海の多賀に伊弉諾命を祀る神社を建立したのか、または淡海の多賀に神社があるから、『古事記』に採録されたのか、5対95位で、実在するから記述したと考えていいのではないでしょうか。
 5分の点は、『続日本紀』の次の記事によります。「慶雲二年(705)八咫烏の社を大和国宇太郡に置いて祭らせたとあります。」神武天皇の熊野山中越えの説話があり、八咫烏がいたんだよとの証拠として八咫烏神社を置いたようです。

[11054] Re[11052]: 淡路と淡海  琉球松 2012/03/08(Thu) 09:14 [Reply]
 多美さんへ 

 これは「淡路(伊弉諾神宮)」のほうに分があるんじゃないでしょうか。

 松前健著書『日本の神々/中公新書 1974 』より
***この二神(イザナギ・イザナミ)が、皇祖神アマテラスの親神とされ、高天原パンテオンの上席に位置を占めるに至る前は、単に淡路島を中心とする漁民集団「海人(アマ)」の奉じる一地方神であったらしいことは、つとに証せられている。『延喜神名式』に淡路国津名郡淡路伊佐奈伎神社とあるのがそれである。(略)
 こうしたイザナギの分布は、おそらく海人が持ち運んだからであろう。海から離れた山地にも、古く海人が移住した痕跡があり、二尊の崇拝もおそらく彼らの移動と関係がある。***

[11053] Re[11051]: 一度は行きたい神社25選  神奈備 2012/03/07(Wed) 17:12 [Reply]
 どんたくさん、興味深い神社のご紹介、ありがとうございます。

> (6)日光東照宮
> (7)明治神宮
> (8)鶴岡八幡宮
は未だ参詣していません。

(9)白山比盗_社
は白山頂上の奥宮のみ。

 一社一社を思い起こしますと、それぞれ独特の魅力を持った良い神社だと感じます。早朝の春日大社のすがすがしさ、夏の日の出羽三山神社の上り坂の森、日吉大社の磐座、何回参詣しても楽しい熊野本宮大社、信仰とは違う穏やかさにふれる思いでした。

 松尾大社の磐座、葛城一言主神社の銀杏、高鴨神社のカンナリの音、丹生都比売神社の美しい社殿、霧島神宮、枚聞神社・・ 私にはとうてい神社は選べないと思いました。

[11052] 淡路と淡海  多美 2012/03/07(Wed) 13:04 [Reply]
淡海(多賀大社)と淡路(伊弉諾神宮)

上田正昭

 これに対して『古事記』は、一番古いもので応安の四、五年(1371、2年)

ですから、南北朝ですね。それが真福寺(しんぷくじ)本といわれる名古屋の真福

寺に残っている僧賢瑜(けんゆ)書写の最古の写本です。もちろんそれ以前の写本

もあったに違いないし、真福寺本の奥書を見ても、その前に写本があったことは確

かだと思われるのですが、残っていません。
 
その次に古いのが道果本と呼ばれるものです。道果という人が真福寺本の十年後に

写したもの(上巻のみ)ですが、これも非常に貴重なのです。

 例えばイザナギノミコト、これは国生み神話で重要な神さまですが、この神さま

がどこに鎮まり坐すかというと、「淡海の多賀に坐す」と真福寺本に書いてある。

ところが道果本には「淡路」と書いてある。

〜略〜

鎌田純一

 先ほど言われた『古事記』では写本によって「淡海の多賀に坐す」と「淡路の多

賀に坐す」という違いがあるように、『古事記』『先代旧事本紀』の写本は、揃っ

て伊勢本系とト部本系とに分かれています。伊勢本系の方は、「淡路の多賀に坐

す」で、ト部本系の方は、「淡海の多賀に坐す」となっているのです。
 
これのどちらが正しいということは、近江の多賀大社と淡路の伊弉諾神宮、両者の

争いになるので私には言えません。

〜略〜      (日本の神々『先代旧事本紀』の復権 より)

※写本の誤写ということのようですが、鎌田純一氏は、どうやら、「淡路」の方が

正しいと言っているようです、鎌田純一氏の立場は皇室伊勢系のようですので、
 
どっちが正しいと言っても、原本がないので、どうにもならないイザナギの

キ○○マですね。

 日本書記の方では「淡路」らしいですね。

神奈備さんは、ちょっと皮肉をコメントしています、

弦松子さんは、あえて、触れていないようです。


[11051] 一度は行きたい神社25選  どんたく 2012/03/06(Tue) 20:44 [Reply]
みなさん、こんにちは。 どんたく と申します。

今日、本屋で次のような本を見つけて買いました。

『入門 日本の神様』洋泉社MOOK 2012年2月16日初版 2012年4月3日第3刷 \880

この中に、「一生に一度は行きたい神社25選」として、次の神社の名前があがっていました。

私の場合はこれらのうち約2/3程度しか参拝しておりませんが、ここの常連の方々は、ほとんど全部の神社を回っておられるのでしょうね。

(1)伊勢神宮
(2)出雲大社
(3)出羽三山神社
(4)鹿島神宮
(5)香取神宮
(6)日光東照宮
(7)明治神宮
(8)鶴岡八幡宮
(9)白山比盗_社
(10)諏訪大社
(11)日吉大社
(12)熱田神宮
(13)伏見稲荷大社
(14)八坂神社
(15)北野天満宮
(16)住吉大社
(17)春日大社
(18)石上神宮
(19)大神神社
(20)熊野本宮大社
(21)厳島神社
(22)金刀比羅宮
(23)太宰府天満宮
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[11050] 「役行者と前鬼と後鬼」の伝承話  そ(八筒光) [Url] 2012/03/05(Mon) 19:25 [Reply]
吉野山・金峯山寺にて去る2月上旬の「節分会「鬼火の祭典」」はすでに終わりましたが今度、その金峯山寺にて今月下旬から毎年一定期に公開されることになった蔵王権現秘仏開帳に関連して修験道の開祖・役行者に法力によって屈服されて以来、随従するようになったと言う「前鬼・後鬼」のお話。
http://www.geocities.jp/iko_kan2/ikoma-oni-ennogyouja.html
                                            
私はとあるお方のお話から「熊野権現か吉野・大峯に役行者を慕う修験者の講社組織か氏子の方々の一部に「九鬼」氏を名乗る方がおいででその方は前鬼か後鬼の末裔であることに誇りを持ち今日も役行者に仕えている氏族に誇りを持っている・・・」と言うような信じられないような伝承話を聞いたことがあります。

ちなみに学研ムーブックスシリーズ「消された物部氏・天津甕星の謎」にはヤマト朝廷によって歪められた星神が「鬼・河童・天狗・案山子」などに変えられた旨の興味深い(星神さまには失礼で恐縮なのですが・・・)記述がありました。

私が考えるに前鬼は青鬼で後鬼は赤鬼(或いはその逆?)で好対照なのではなかろうかとも思います。その根拠は「前鬼」は大峯奥掛修行で吉野側から熊野側へ分け入る所謂「順峯」で行者を守護し北方からなので陰陽五行説で「水」を意味するから青鬼で、一方「後鬼」は同じく奥掛け修行で逆に熊野から吉野へと分け入る「逆峯」において熊野側で行者を守護する目的を持ち南方は陰陽五行説で鳳凰の「赤」(ヤタガラス伝承など)だから「赤鬼」と比例しているのではなかろうかとも思われるのですがあさはかな考えでしょうか。

もう一つ、金峯山寺での「鬼火の祭典」では豆まきの際に「福は内、鬼は外」が一般的ですがここでは「福は内、鬼も内」と逆に歓迎されている風習は特筆すべきものがあります。そこには前述の伝承話が庶民に息づいている証拠なのかもしれませんね。

また「前鬼・後鬼」などを従えた「役行者」像を時々、洞川龍泉寺などの修験系寺院で見かけることもありますが、気のせいかこちらの「妙見三尊像」の「抱罫童子・示罫次郎・妙見菩薩」に似通ったところがあるのです。
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/30181010.html

まるで斧などを持つ「役行者・前鬼・後鬼」を彷彿とさせるとは想像できませんでしょうか。またついでに考えられる事に「月・星・日」とも好対照とも考えられないでしょうか。

[11049] 『阿倍野王子物語』から。  神奈備 2012/03/03(Sat) 15:48 [Reply]
 今日、市立中央図書館で見つけた本。

 阿倍王子神社は、熊野詣での道筋の九十九王子社の一社でした。近所の晴明神社の社家の保田家が神職を努めていましたが、幕末に保田家が没落してしまいました。明治維新後、神社を登録する際、村人は四天王寺七社の一である大江神社に相談した所、とりあえず大江神社の社名を借りることになり、明治五年に大江(王江)神社として登録しました。

 明治40年1月に勅令が出て、独立神社には社掌一名を置き、村社維持金として6000円積み立てること、境内地は160坪以上に限るとの規則でした。村は窮地に陥り、大いに悩んだそうです。明治40年6月に神社合併の話が出たので、合併を決めました。あいては、東区安土町の男山八幡神社でした。40年10月14日、村をあげて遷座式を行ったようです。男山八幡神社の社殿・末社・石燈籠・手水鉢・神輿などを大八車にのせて運び、財産とすることができました。
 翌41年大江八幡神社と改称しました。
 合祀以後、当社は熊野王子社であり、『明月記』の「後鳥羽院熊野御幸記」に、阿倍野王子としていることがわかり、明治44年9月に社号復旧の許可を得ました。

 阿倍晴明に関わる葛葉稲荷神社(信太森神社)の建物は、男山八幡神社の本殿が使用されているとのこと。

 以上が図書館で見た長谷川靖高著『阿倍王子物語』の概要。
 大江神社と称したことがあり、男山八幡神社の合祀先の大江神社とは阿倍王子神社のことだったのでしょう。

[11048] 『大阪府全志』  神奈備 2012/03/02(Fri) 12:20 [Reply]
 『大阪の神社関係記事 明治三九−四一年』と言う小冊子が関西大学から出版されています。同じ内容のHPもアップされています。
http://www.kansai-u.ac.jp/Museum/naniwa/publication.html
 この時期は神社合祀が行われた時期です。

明治40年9月15日の大阪毎日新聞の記事の要旨。

 大阪府においては、三九年八月の勅令に基づき、府下における神社の合併整理を行い、一年間の所得財産300円(大阪市内400円)に達せざる神社は、断然他社と合併せしめ居れるが、整理著しく進捗して云々・・。

 とでています。

これに関連する話を、猪飼野の郷土史家の足代健二郎さんから聞きましたので紹介します。

 大阪市の御堂筋に北御堂、西本願寺の津村別院と言います。御堂筋の向かい付近に、山城国石清水八幡宮の神官が別宅を持って布教していました。その家のうちに祀られていたのが、男山八幡神社でした。近隣の方もお詣りしていたようです。この神社が合併されて現存していません。

 『大阪府全志』
 阿倍王子神社の項に、明治40年8月1日、男山八幡神社を合祀したと書かれています。
 また、大江神社の項にも、明治40年9月18日に男山八幡神社を合祀したとあります。

 同じ神社が二つの神社に合祀されたとの記事です。現在、合祀の痕跡が残っているのは阿部王子神社で、祭神の中に、合祀 品陀別命 とありますが、大江神社には八幡さんの気配はなさそうです。
 
 どちらかが間違いなのか、両方とも正しいのか、よくわかりませんが、大きい神社としましては、氏子の取り合いの意味もあったのでしょう。小さい神社は引っ張りだこだったのですね。

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