水門・吹上神社(みなと・ふきあげ)
和歌山市小野町2-1 its-mo


鳥居



交通案内
南海線  難波→和歌山市 南西へ15分


祭神
御子蛭児神、大己貴神


由緒
 神武東征時、兄五瀬命の崩御された場所と伝えられている。「男水門」である。
 社伝によると、「昔、紀水門の海上に、夜毎に神光顕れ、いつしか波にのって浜辺に打ち上げられたのを見ると、戎様の神像であったと言う。そこで、湊村字和田浜鵜島に祠を建て、これを齋き祀っていたが、明応年間(1491〜1500)に大海嘯が起こって砂に埋没したので、住民らが今の西河岸町字元恵美須に遷し、更に大永三年(1523)、現在位置に遷した。 七福神の内二柱をお祀りする神社は珍しい。エビス様とダイコク様である。天正年間(1573〜1591)の吹上神社の合祀による。


お姿
 境内に神武天皇聖蹟男水門顕彰碑がたっている。鉄筋コンクリート製の本殿である。西側にも鳥居がある。ひょっとしたらこちらが元々の入り口かも知れない。享保年間の石燈籠が残っている。

拝殿



お祭り
6月30日 大祓式(輪くぐり)
9月18日 例祭
1月10日 十日戎

本殿



紀伊續風土記 巻之四 若山上 若山神社部から



○恵美須社
      境内周八十間 禁殺生
○吹上社
  恵美須ノ社
 三間半 四間 吹上ノ社 三間 四間 御供所
   神樂所   神庫  潔齋所  廰舎  鳥居
   神 厨  齋 館  舞 殿  廐
  末社九社
   天満宮  鎭守社  辨財天社
   八幡宮  十二所社  稻荷社四社
   八幡宮     小祠四社相殿
小野町二町目古名雄ノ芝といふ所にあり 湊及び吹上の産土神なり 古は二神相殿に祀れり 今二社相並ふ基本は恵美須社は湊の産土神にして吹上ノ社は吹上の産土神なり 當社又聞名[ブンメイ]大明神又湊大明神といふ又湊大明神といふ又唯恵美須社ともいふ 其稱皆恵美須1社の稱なり 兩社に通する稱とするは吹上ノ社は後に此地に合祀せる神なればなり 社家舊説曰昔蛭子ノ像自海中逆流到此處取而葆祀之稱聞名大明神ト社ノ傍ニ有芝號ス雄芝社記神田
 畠山家多寄附スト神田ヲ云  天正之亂悉亡失せり矣其詳ナル不可知也或傳大永三年(1523年)六月二十三日始テ祭ル于此ノ地ニ 一説に此神舊は和田浦雨ノ島にあり明應ノ比和田浦高波に跛られ村民神祠佛宇と共に湊村に移る 此ノ神も其時此地に移れるなりといへり 是恵美須社鎭坐の來由なり 吹上ノ社のこと宇津保物語及西行の歌に見ゆ 又朝野羣載に紀伊國小野社とあるも吹上ノ社の事ならむ 此神舊[モト]は今の湊植松町[ウエマツチャヤウ]ノ南大松の下に鎭り坐せしを天正年間(1573年〜)雄芝に移し奉り恵美須ノ社と合せ祀れるなり 當社中世は兩部の社にて今の湊善福寺は舊[モト]聞名大明神の奥院なりといふ 兩社の事其詳なるは神社考定部に辨せり 明暦ノ記に恵美須ノ社領畠山家多く寄附あり 慶長四年(1599年)桑山法印神田三段を寄附せり 同六年淺野家三石寄附あり 元和の制これを襲用らる
恵美須の祭禮六月二十三日古は牛祭とて名高き神事ありしとなり今十一月二十三日の祭に牛の舌餅とて大なる熨餅を投ることあり 吹上ノ社は九月十八日を神事とす
神主を秋津氏といふ


『平成祭礼データ』

 参拝のしおり 御由緒

 エビスさんで親しまれている水門・吹上の両神社は湊及び吹上の産土神で、水門神社は昔海部郡湊村和田浜鵜の島にあったが名応年間に大海嘯が起って社殿が砂に埋没したので住民らが今の西河岸町に移し更に其後三十年程へて大永三年六月二十三日に現在位置に移したものである。吹上神社は今の植松町の南二本松の辺にあったが天正年間に合祀したものである。
 水門神社は蛭児神(恵美須さん)、吹上神社は大己貴神(大国さん)が御祭神である。
 恵美須さん大国さんの二柱の福の神を祀っている。その鎮座地は神武天皇が東征のみぎり、御兄の彦五瀬尊が和泉で長髄彦の流矢に当り出血甚しく雄詰男の芝で崩御された旧跡である。この辺を男の芝とも、男之水門、雄湊とも言われている。

(十日戎)
 正月九日の宵戎、十日の本戎、十一日の残り福といって福を授かるべく老若男女の参詣し吉兆(福笹)を求めて帰る人の夥しい事は今も昔も変わりない。

(牛の舌餅投げ) 
 牛の舌餅という「のし餅」は毎年十一月二十三日の新嘗祭に行なわれている。一時は中断されていたが現在では復活している。
これは何時の頃より始められたか詳かではないが牛祭りに投げたものと言われている。(牛祭りの事については寺社書上「旧藩の時の記録」にあり)
   以上


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