志磨神社(しまじんじゃ)
和歌山市中之島677 its-mo

交通案内
阪和線 天王寺→和歌山 (60分830円)
    和歌山→紀和下車南3分
    もしくはバス 和歌山→志磨神社前  和歌山市駅→志磨神社前
南海線 和歌山市駅から東へ1km 途中になれずしの弥助があるよ

鳥居

祭神
中津島姫命(市杵島姫命) 配祀神 生国魂神
もしくは、大屋津比売命

由緒
  伊達神社静火神社と共に紀州三所神と呼ばれていた。 不明となっていた式内社の所在を元和年間(1,615-24年)に確定する際、中之島にあった小祠六所の一つであった「九頭明神」を志磨神社に定めたと言う。
 『住吉大社神代記』には、住吉大社の摂社船玉社の注記として、「船玉神社は紀の国に斎祀る紀氏の神なり。志麻神、静火神、伊達神の本社なり」とある。(『日本の神々6白水社』) 特にこの神社には、紀伊国名草郡島神戸が寄せられていた。

お姿
 かっての鎮守の森の常緑樹には、楠、銀杏、樫、杉等が密生し、見事であったが、現在その雰囲気はない。 現状は一の鳥居の西側にマンションが新築されている。かっては社地だったような記憶があるのだが・・

拝殿

お祭
  7月14日 2日間 夏季大祭
10月15日 1日間 例祭

紀伊国名所図絵


紀伊續風土記 巻之七 雑賀荘 中野島村から

○志摩ノ神社 境内周百二十六間 鳥居十八間 七間半 禁殺生
  本社  神樂所  廰  鳥居二基  
   摂社二社
    祇園社   蔵王権現社
   末社十社  
    天満宮  大神宮  稲荷社四社  金毘羅社
    大己貴 少彦名社   樟日社  蛭兒社
  延喜式神名帳名草郡志摩ノ神社 名神大 
    本國神名帳名草郡正一位志摩ノ大神
村中にあり 續日本後紀承和十一年(844年)奉授紀伊國従五位下伊達ノ神志摩ノ神靜火ノ神正五位下 文徳實録嘉祥三年(850年)三神加フ従四位下 三代實録貞観元年(859年)奉授三神ニ正四位下ヲ同十七年奉授三神ニ従三位ヲとあり 其後三神とも正一位を授へ奉らる 志摩の御名は當村に鎭座の御神なれはなり
當社又伊達社貴志ノ庄園部村靜火ノ社神宮下郷和田村と三神一連の神なれは紀三所の神といふ 紀三所の名は三社を合せ稱する名なれとも後には其稱轉て又各社をも皆紀三所と稱せしと見ゆ 祀神は即伊太祁曾神大屋津姫神妻津姫神三神なり然れとも伊達の一社は伊太祁曾神を祭れる證あれとも志曾靜火(瀬藤注:志摩靜火の誤)に至ては何れを大屋津姫とも何れを妻津姫とも定むへき證なし 事は詳に貴志ノ庄園部村伊達神社の條に辨せり 此地紀ノ川の下流にありて地形變遷せし事なれは當社も亦移轉して徃古より今の地に座するにはあらしと思はる
當社土人相傳えて九頭明神といふ是は後世大國主神を合せ祀りて後には専ら合せ祀れる神名を唱へて通稱とはなれるなるへし 刺田彦神社に大國主神を合せ祀りて後世は唯九頭明神と唱へ伊達神社に素盞烏尊を合せ祀りて後世は唯祇園牛頭天王と唱へしと同し例なりかし 當社古は今の當荘の地を以て神戸に寄られ島ノ神戸といふ 當社もと伊達靜火と三社一連なれとも殊更に神戸よ寄られしを見れは 朝廷の御崇敬格別なる神と見えたり
後世戰争の世となり神戸没収せられ古の姿は失ひたれとも慶長(1596年)以前は猶社領田畠五段あり慶長〜)地のとき其詳なる事知るへからす 元和(1615年〜)の後名祠の癈絶を起され新に社殿を再創し漸々舊觀に復し給へり 神宮上郷新在家村の傳に志摩神社は舊は新在家にあり後に中野島に移すといふ其説證據なし傳聞の誤なるへし
古き石燈籠一基あり銘に應永六年とあり
神主島氏なり

『平成祭礼データ』

志磨神社 参拝のしおり 御由緒

 新抄格勅符抄に、大同元年(八〇六)紀伊国志磨神社へ神封七戸寄奉るとあり、御祭神中津姫命(市杵島姫命)は、天照大神、素戔嗚尊との、御誓約の三神の一つにして、生気凛々、清楚にして、瑞々しい女神様であり、古典続日本後記十四に、承和十一年(八四四)正五位下、文徳実禄に貞観元年(八五八)正三位、十七年(八七五)正三位、紀伊国神明帳に正一位と神階が進められた史実によっても、当社が悠久の昔より連綿と続いているのは明らかである。

 特に延喜式名神大社臨時祭に預かり朝廷の尊宗篤く、千六百数十年前、仁徳天皇紀伊国名草郡志磨神社再興の事等、皇室との御関係が深かった事が伺い知れる。また往古、紀之川の中州が堆積して、発達したこの地に氏神として祀られた当社は、氏子崇敬者の信仰ことのほか厚く、紀州三弁財天、九頭(国津)信仰などにより、この地を開いた神恩を忘れず、農・工・商すべての産業開発等、世の幸を増進する人間生活の守護神として、縁結び、治病、交通安全、建築、土木商工業繁栄の祈願が今も多く、参拝者の姿に観る事が出来る。

 中世氏子神領民吉野朝時代に至って南朝に参じ神領封戸を失い、下って天正年間の兵乱等の社殿焼失を入れると実に、明治三十三年の造営まで十度の御本殿再興遷宮が行われている。(この項現存する棟札、明徳、応永、宝徳、文明、天文、天正、慶長、寛永、延宝、享保により明らかなり)浅野家、徳川家の藩主時代、自ら参拝、崇敬の誠を捧げられ享保四年現在の社頭整備が行われた。 <p> 古文書類、記録は枚挙にいとまが無く省略するが、昭和十七年県社に昇格、大戦にも類焼をまぬがれ、戦前の氏子四千参百十八戸も終戦後二千五百戸になり、現在は(中之島、本町地区一部、大新地区一部、宮北地区一部、四ケ郷地区一部、有本一部)その他で九千戸に増え、四季の祭典賑々しく厳修され、戦後数回の社頭整備がなされ現況に至っている。七月十四日の夏祭は和歌山市随一の風物詩として知られ、数万人の参拝客で賑わう。

紀の国 古代史街道
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