堅真音神社(かたまおと)
和歌山市神前253 ゼンリン



鳥居と社域


交通案内
阪和線    天王寺→和歌山
貴志川線   和歌山→神前 西へ徒歩7分 狭い道に入る。


祭神
木華咲耶媛命


由緒
 堅真音神社は延喜式神名帳に記載の古社であるが、『紀伊続風土記』には、「今社を廃す」とあり、江戸後期には碑が建てられており、「堅真音神享保甲辰」の八字が彫られていたと言う状態であった。廃絶式内社である。
 従って現在は鳴神社の境内摂社の逆松社として祀られている。

 所がである。堅真音神社を名のる小祠があるのだ。正月には酒樽も供えられ、大きい旗も立てられている。祭神も神吾田廉葦津姫命即ち木華咲耶媛であり、式内社の復活を思わせる。この小祠のことは『紀伊続風土記』の神前村の項には出てこない。なかったようだ。またこの社の存在は和歌山県神社庁古参の神職にも知られていないようだ。勿論市や県の宗教法人担当の者も知らない。彼らは法人登録のある社にしか目を向けない。

 さて、この小祠を式内論社と言えるのかどうかが問題である。13年前に創建にあたった方は逆松社からの分祀として神霊を頂き祀ったと言われている。花山の元地付近には産業廃棄物が放置されており、そこへ戻すわけにはいかなかったので、当地に鎮座せしめたのである。復活式内社としていいのだろう。




お姿

 貴志川線神前駅を降り、西へ5分ほどあるく。四角い大きい住宅地があり、その手前の細い道を入ると神社が鎮座している。 社殿の前には夏ミカンの木があるのも和歌山らしい。

 一つ10円と書いてあるお神籤があった。好きな色の引き出しの籤を引くようになっている。





紀伊續風土記 巻之十二 名草郡 神宮郷 鳴神村から

○堅真音[カタマオト]ノ神  境内周九十間  禁殺生
  延喜式神名帳  堅真[カタマ]ノ神社
  本国神名帳正一位有馬音ノ大神
鳴神山の麓村の丑ノ方七町許にあり 社今廃す 碑を建て堅真音ノ神享保甲辰の八字を彫む
三代実録に貞観元(859)年五月二十六日授紀伊ノ国正八位上堅真音ノ神従五位上
同七年春正月十七日丁酉紀伊ノ国従五位上堅真音ノ神ヲ列於官社
同八年閏三月十三日戊午紀伊ノ国従五位上堅真音ノ神ニ授従四位下となり此後階を進めて正一位を加へられしなり
當社延喜式に堅真音神とし三代実録に堅真音神とし本国神名帳に有馬音大神とす
又国造舊記に音明神とあり其稱を考るに有馬は地名にして此地は古の有馬郷の地なり 音も亦地名なり
音の地は今有馬村に音浦といへる田地の字にのこれり
延喜式並三代実録の堅真とあるは其義詳ならす

○鳴武神香都知堅真音三神 国命を以て碑を立て遺跡を標し鳴神社の神主をして主祭せしむ





紀伊名所図会 巻四 鳴神村

堅眞音神社 中郷鳴神村鳴神社の東北三町ばかり、有馬村の山のふもとにあり。其ほとりに 御手洗池あり。  また三本松と心へる古松もあり。祭る神神吾田鹿葦津姫命。〔延喜式〕神名帳に曰く、堅 眞音神音大神社。〔本国神名帳〕に曰く、正一位有眞音大神。〔三代実録〕に曰く、貞観元 年五月二十六日辛巳。授ク紀伊国正六位上堅眞神従五位上。又曰く、詔以紀伊国上竪眞神列 於官社。又曰く、貞観八年閏三月丙丁朔十三日戊午。紀伊国従五位上堅眞神授従四位下。    堅眞音の社号及びまつるところの神の御名、すべて考ふるところなし。〔南紀神社録〕に 曰く、堅眞は有眞の誤歟。今考ふるに、祀る紳武内宿禰の子に小鞆宿禰なるべし。武内宿禰 は本国の人なるゆゑに、邦内武内の族類の神祠間間あり。蓋有馬は土地の名にして、香は小 鞆の伝誤なる歟といへり。これをもつてさらに考ふるに、〔延喜式〕神名帳及〔三代実録〕 は堅眞音といひ、一は堅眞とのみいへれば、昔の字にはふかき義理もなきにや。または此地 に音浦山・音うらがはあれば、此音によれるか、いかにぞや。〔本国神名帳〕有眞音とある は、〔和名沙〕に此地を有眞と出せれば、これをとれるならん。さてその堅眞・有眞をおも ふに、いづれ一つはあやまりなるべし。有の字肩の字に形よくも似たれば、古あるひは堅は 肩とも書きしを、有と誤りたるか。あるひは有の字を肩とあやまり書きたるを、やがて堅の 字に為らためしか。其ほどは今しるべきやうもなし。また堅眞にもあれ、有眞にも此御神の 座すによりて、地に名けしや。この地名あるによりて、やがて御社にかうむらせしや。これ よたしるべきやうなし。しかるを加多奈と訓めるは、眞を奈に訓み誤りきたれるにこそ。さ て祭神の神吾田鹿葦津姫といへるをおもふに、〔日本書紀〕天津彦火瓊瓊杵曾既に天降りま して、吾田長屋笠狭之崎(今薩摩国阿多郡阿多といへるあり。これなり。)いにいたらまし ヽとき、鹿葦津姫、またの御名は神吾田津姫、または木花開耶姫とも申すをめ娶して婚ひた まひ、火闌降悸命・彦火火出見尊・火照命、すべて三柱の皇子を生みたまふこと見えたり、 また此神吾田鹿葦津姫命の姉神を、磐長姫と申せり。容色いと醜くゝましましければ、これ をばめさずして、ひとり妹の国色(かほよ)かりしを見感じて、目合したまへる處女にしあ ればこれによりて尚さらに堅眞音といへるを考ふるに、堅は片にて、柿妹両人のうちを片々 といへる義にとりなし、片眞具波比の美人の約れるにや。またはその片々を求めて婚し給へ れば、片求處女の意歟。または眞は美称たるにて、片々の眞處女といへることにもやあらん 。さるにても此御神および建甕槌命の、この地にしづまりますことは、いかなるゆゑによれ るにや。尚考ふべし。此御やしろも前にいへる鳴武神社・香都知神社と同じく廃して、今石 祠のみ立てり。



貴志川線沿い古代史街道
紀の国 古代史街道
神奈備にようこそ