神倉神社
新宮市新宮 its-mo


交通案内
紀勢線  天王寺→新宮 西へ徒歩15分 千穂小学校南西角から538段の石段を登る。約15分



祭神
高倉下命

配祀神 天照大神


登り口の鳥居



由緒
 熊野速玉大社の摂社となっているが、熊野修験道華やかなりし頃に語られた縁起であろうが長寛勘文には熊野権現のこの地方における最初の垂迹の地であるとなっている。 これによると、九州の英彦山に八角の水晶の姿で降臨し、修験道ゆかりの山々を経由し、切部山から神倉山に天降り、さらに熊野川向こうの石淵の谷に遷って後、速玉社と家津御子社に祀られたと言う。
 熊野根本大権現と呼ばれた。要は速玉大社より古い信仰の場であったことが認識されている。速玉大社からはゴトビキ岩は見えない。天に向かった男根を祀っていると思わせる信仰と熊野川に坐ます神を祀ったのが始源であると思われる速玉社とは別個の信仰であろう。


 御神体はゴトビキ岩である。ゴトビキはヒキガエルの方言。ゴトビキ岩を袈裟岩が支える構造になっている。この袈裟岩の穴から袈裟襷文銅鐸の破片が出土している。 弥生後期にはすでに祭祀の場であった。

 神武紀に「熊野の神邑に到り、且ち天磐盾に登り、荒坂の津で高倉下から神剣フツノミタマを献じられた」とある。 この天磐盾に比定されている。
祭神であったから、高倉下命が剣をささげたのか、後世の記紀の伝承から高倉下命がゴトビキの神となったのかである。

 熊野国造は物部系であった。当然祖神を祀ったであろう。それが高倉下命であった。丁度中央では物部氏大伴氏が勢いがあった頃、記紀の編纂も行われていた。
 そういう事から高倉下命が祭神とされたのであろうが、この磐座は何も人格神を必要としない。その姿に打たれる磐座である。



お姿
 平家物語巻十の平維盛の熊野参詣の記事に「かんのくらをおがみ給ふに、厳松たかくそびえて、嵐妄想の夢を破り、流水清く流れて、浪塵埃の垢をすゝぐらんとも覚えたり」と見える。あまり良い季候ではなかったようである。

 小生は雨上がりの真冬のわりには暖かい穏やかな朝に参詣できた。ゴトビキ岩は遙か太平洋から望める。従って太平洋や新宮市街がよく見える。500段をを越す石段を地元の方々で毎朝登られる方がおられる。 雨上がりの朝であったので、滑りやすい石段になっていた。

 ゴトビキ磐とその下の巨大な岩盤が見事である。また朱色の柵は遠目からでも鮮やかである。

ゴトビキ岩と社殿



巨大な岩盤と朱色の柵、その向こうは太平洋の朝

中央右の丸い石塊はゴトビキ岩


お祭り
 2月 6日  御灯祭 修験行事の火祭りである。
夜7時頃、速玉大社から大まさかりに先導された行列が神倉山に登り、本殿前で聖火を作り、二本の迎え松に移し、中腹の地蔵堂まで運ぶ。 ここで白装束の数百人の男子がおのおの手にした松明に火をつけ、頂上の本殿まであがり、それから一斉に急さかを駆け下りる。その後神官たちが山を下り、阿須賀神社まで行き奉幣し、速玉大社へ帰る。勇壮な祭りである。
10月15日  例祭  他神社と合同

御灯祭



紀伊国名所図会から


日本の神々6 神倉神社 二河良英氏
寺院神社大事典 大和・紀伊 平凡社

古代史街道 紀ノ国編

物部氏ホームページ

神奈備にようこそに戻る