熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)
田辺市本宮町本宮1110 its-mo



木造檜皮葺(本殿)



交通案内

紀勢線  天王寺→新宮からバス80分
紀勢線  天王寺→田辺からバス2時間
奈良大仏前からバス5時間



祭神
第三殿証誠殿 家津美御子大神(亦の名を 熊野加武呂乃命、熊野奇霊御木野命、素盞嗚尊 と言う。)

配祀神 第一殿西御前 熊野夫須美大神(伊弉冉尊)、事解之男神  第二殿中御前 御子速玉之男神、伊弉諾尊 第四殿若宮 天照大神
境内社 別社(中四社下四社合祀)「天忍穗耳命、瓊瓊杵尊、彦穗穗出見尊、草葺不合尊、軻遇突智命、埴山姫命、彌都波能賣神、稚産靈命、天村雲命」

境内社 別社(摂末社合祀)「湍津姫命、建角身命、大國主命、須勢理姫命、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神、高倉下命、穗屋姫、天手力男命、市杵嶋姫命、少彦名命」

満山社「八百萬神」、産田社「伊邪那美命荒魂」、真名井社「天村雲命」、月見岡神社「月讀命、天照大神」、祓戸天神社「天兒屋根命」


大斎原 また宇豆の原

由緒
 現在大斎原[おおゆのはら]と呼ばれる熊野川の中洲に鎮座していたが、明治22年の熊野川の大洪水にて流失、現社地に遷座した。
 熊野三山では最も古い成立とされ、第十代崇神天皇65年に社殿が創立されたと(皇年代略記)(神社縁起)に記載されているが、もとより定かではない。

 元々の鎮座地は中洲であり、これは本宮への信仰は熊野川の水神への信仰であった事を示す。大斎原へ行くには音無川・熊野川の清流を歩いたのであり、聖地へ入るための「禊ぎ」が自然な形で行われたのである。 水垣と呼ばれる。水垣は、大和の三輪山を取り巻くように流れる三輪川・巻向川、また京都下賀茂神社も高野川・賀茂川に囲まれているように、流水の中をを歩いて渡る意味があり、より原始の姿を思わせる。

 熊野川の水神への信仰であったが、川が山より発する様に、この神は熊野の山に発するのであり、ここに山に坐す神が川に坐す神となりやがて田の神となる古来よりの日本の神々の姿が見えるのである。

 主祭神は「家津美御子大神」であり、「ケ」は穀霊を表す。また熊野の猛烈な木々の繁茂は、木種を播いたとされる素盞嗚尊や五十猛命の伝承につながり、花の窟の伊弉冉尊伝承から、その御子である素盞嗚尊と同一神とされたのであろう。

 神戸市に証誠神社があり五十猛命を祀る。熊野本宮からの勧請であるが、現在本宮の祭神に五十猛命の名はない。本宮の神職に尋ねて見たが、自らの神が勧請されていった先の神社に就いての知識が少ないようであった事を別にして、 紀伊続風土記には「大神、御毛を抜いて種々の木を生じたまい..」とあり、熊野奇霊御木野命とも称えられたとされ、この地では、木の神である五十猛命の役割を親神の素盞嗚尊は果たしたと伝わっているのではないかとの事であった。 同一神格と見なしている様である。 

 神武天皇伝承、修験道、神仏習合、熊野詣でと歴史の流れの中で大きくなった神社であり、今となっては、熊野・田辺と大和を結ぶ交通の拠点に育った本来の信仰の姿を見ることがかなわない。

お姿
 美しい音無川を見下ろす高台に鎮座、周囲の山々は照葉樹林が繁茂し、まさに神々が坐す原風景である。 


拝殿




以前の満山社

社殿となった満山社





お祭り

例大祭 4月13日 15日
13日 湯登神事
15日 神輿渡御祭

紀伊国名所図会から



湯登神事と本殿祭・渡御祭  熊野本宮大社宮司 九鬼宗隆  熊野三山信仰事典(戎光祥出版)

熊野本宮大社の歴史


 熊野本宮大社は過去『熊野坐神社』と号し、熊野の神と言えば本宮のことを表していたものと推測できます。
 御祭神は三山共に共通する「熊野十二所権現」と呼ばれる十二柱の神で、主祭神(中心にお祀りする神様)は他二杜と異なる、「家津美御子大神」(素蓋鳴大神)です。第三殿誠誠殿を本杜と称してお祀りしております。また、家津美御子大神が造船術を伝えられたことから船玉大明神とも称せられ、古くから船頭・水主たちの篤い崇敬を受けていました。
 特に有名なのは、平安時代に宇多法皇に始まる歴代法皇・上皇・女院の「熊野御幸」が百余度に及んだことで、公武問わず老若男女大勢の人々が競って参詣し「蟻の熊野詣」と呼ばれる現象まで起こすに至りました。
 当時・京都より大坂に出て海岸沿いを通り、田辺より山中の道に入り、本宮に至る行程がメインルートで、「中辺路」と呼ばれた参詣道となつていました。ここを歩き、発心門王子社を入るとそこからが熊野の聖域となり、伏拝王子杜に至れば谷の下方に本宮の偉容が目の当たりに拝され、あまりのありがたさに人々伏拝んだという逸話も残されております。また幾度かの御幸に供奉した藤原定家が『明月記』の中で「感涙禁じ難し」と記していることから、困難な道を歩き御神前に詣でたことがいかにありがたく、いかに御神徳が高かったかの現れであると思われます。
 なお残念なことではありますが、明治二十二年の未曽有の大水害により社殿のうち中・下社倒壊し現在地に上四杜のみお祀りすることととなり、他八社は石祠として旧社地大斎原にお祀りして今に至っております。

本宮の祭典


 当社の御鎮座のことや由緒等については著名な方々がこの後お記しくださると拝察しておりますので、詳述はお任せすることとして、祭典について述べたいと思います。
 御鎮座の当時より現在に至るまでの間に伝承等は多く存在しますが、中でも四月十三日より十五日に行われる例祭はその際たるものであるといえます。
 『日本書紀』一書に「伊邪那美大神の墓所は熊野の有馬村にあり」と記されている中に、「花時亦以花祭。又用鼓吹幡旗歌舞而祭矣」と述べられ、熊野地方ではそのような祭典が広く行われていたことがうかがえます。例祭にはその面影が随所に散見できます。

湯登神事


 まず十三日に行われる「湯登神事」と呼ばれる特殊神事より大祭が始まります。
 当日の早朝本殿前に宮司以下神職・氏子総代・神楽人・稚児などの諸役が揃い・潔斎のために日本最古の温泉と言われる「湯峰温泉」に向かいます。
 途中神歌と呼ばれる歌謡を歌いつつ行列を為して進み、温泉に到着すると当屋と言われる斎館に入ります。当屋は「あづまや」と「伊せや」という古くから当社との関係が深い旅館が、一年交代で奉仕する定となっています。
 潔斎.少憩の後、湯峰王子社に登り祭典を行うのですが、この折「八撥ヤサバキ神事」と呼ぶ稚児舞楽が行われます。社伝によれば、この期間に神が稚児の頭に降臨するとされ、胸に吊した掲鼓を打ち鳴らしながら左右に回る所作を行いますが、これは神が降臨してきた様子を示していると考えられます。
 通常、稚児は氏子の子弟で三歳以下の子供たちが務めます。父兄はウマと呼ばれる役となって、この大祭が終了するまで稚児を地面に降ろしてはならないという決まりに沿い、移動の時には肩に稚児を乗せなければなりません。
 湯峰での神事が終ると、稚児の額には「大」の文字が書かれ、今まさに神がそこに降臨していることを表します。ウマの肩車に乗った稚児は大日越えという峻険な山道を通り、途中大日山月見岡神社にて一度八撥を行い、街道に出て旧社を遙拝した後、本社まで帰ります。
 稚児は家にあっても神と同じ扱いを受け、大事にされます。また、八撥を務めた子は達者になるとか、健全に成長するといわれております。そして祭典がすべて終った後も三年の間、叱る時には頭に触れてはいけないとも言われています。
 同日夕刻に宵宮の行列である宮渡神事が行われますが、巡幸先での神楽の奉納等の記録が見えるだけで、わずかに楽譜が現存するといった状況ですので、本来の姿が失われたままであるといえましようか。

本殿祭・渡御祭


 十五日早朝、本殿前には「挑花」と呼ばれる花をお供えします。これは前述の『日本書紀』の一節に通じる儀式であるといえましょう。社伝によれば「我を祀るに母神をも同じく祀れ」と家津美御子大神が仰せになった故事より起こるとされ、形は太い竹竿に木箱を差し無数の菊の花を飾ったもので、渡御の行列にも加わります。
 本殿での祭は粛々とすすめられますが、神賑行事としての渡御祭はきらびやかに行われます。渡御祭では第一殿・第二殿の問の中殿より御輿に御霊がお遷りになります。渡御の行列は熊野御幸の折の姿のままであるといわれ、氏子が神歌を歌うなか華麗かつ厳粛に旧社地まで進みます。旧社地では齋庭神事という祭典が行われますが、このなかで氏子子弟による大和舞・早乙女舞は特殊なものであるといえましょう。
 この舞の折に歌うのが、有馬の窟の歌・花の窟の歌・大直日の歌で、特に大和舞で歌う先の二曲が前述御鎮座に関わる内容となっています。

 「有馬窟の歌」
   有馬や祭は花の幡立て笛に鼓に
   歌ひ舞ひ歌ひ舞ひ

 「花の窟の歌」
   花のや岩屋は神の岩屋ぞ祝えや子供
   祝え子等祝え子等

 内容は『日本書紀』・社伝に符合しており、成立年代は不詳であるものの、かなり古くからの形を残していると思われます。現在でも先輩より後輩に伝承され、保存に力を入れなければならない神事だといえましょう。

祭を護り伝える意義


 旧社地での祭典は前述のように御鎮座に関わることと、後で行われる田植神事に代表される農事との関連が混在しています。
 また、こうした祭典を護り伝えていくということの大切さも忘れてはならないでしょう。現存する祭典のなかにも年々失われゆく部分があり、中にはほとんどが失われてしまったものもあります。失われたものの再興は困難ですが、残欠のあるうちに繕い直し、何かの形にして残しておくこと、また、失われつつあるものは全力を挙げて保存するということが、山村地域を氏子に持つ当神社の使命であると思います。



紀伊續風土記 巻之八十六 牟婁郡第十八 本宮部から
本宮部
本 宮  境内 
東西二丁半餘 南北五丁十四間  禁殺生
 本宮十二所権現
  第一殿 
面一丈一尺餘 奥行一丈九尺許 向造
   證誠殿 家都御子大神 
伊弉諾尊 伊弉冉尊
  第二兩社合殿 
面四丈四尺 奥行二丈八尺許 二社造
   西御前 
熊野夫須美大神 御子速玉男大神
  第三殿 
面一丈一尺餘 奥行一丈八尺餘 向造
   若宮 
天照大神 國常立神
  第四四社合殿 
面五丈一尺餘 奥行一丈三尺餘 流造
   中四社 
忍穂耳尊 瓊々杵尊 彦火々出見尊 葺不合尊
  第五社合殿 
面五丈一尺餘 奥行一丈三尺餘 流造
   下四社 
軻遇突智尊 埴山姫尊 罔象女尊 稚産靈尊

(中略)
十二所権現の称は三山共に同じけれとも當所下四社祀る所の四坐の神は那智新宮と異なり

(後略)



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