『平成祭礼データ』闘鶏神社由緒
御創建 人皇十九代允恭天皇己未八年九月、熊野権現(現本宮大社)を此の地に勧請し、田辺の宮と称し奉ったのが、起源(一五六八年前)で次いで白河法皇の御代、熊野三所権現を此の地に勧請し、三山御参詣に替える(凡八七〇年前)次いで別当湛決(近衛院久安三年己)の時新に天照皇大神以下、十一神を勧請し新熊野権現と称し奉る。(凡八二〇年前)此のように当社は三度に亘り熊野三山(熊野本宮大社、那智大社、速玉大社)各社の御祭神を勧請し熊野権現の三山御参詣に替えると云う三山の別宮的存在で、熊野信仰の一翼を負い、熊野街道(大辺路・中辺路)の分岐点要衝地としての田辺に御神威高く鎮座され、歴代の上皇、法皇、公達の熊野参詣時は当社に参篭宿泊し、心願成就を祈願したのである。文明三年(一四七一)より杉若、浅野、安藤各領主の篤い庇護により明治維新におよび鬪鶏神社と改称し現在に至っている。
社格 明治六年村社、同十四年二月県社、昭和四十六年七月、別表神社(旧官国幣社)に列格、同年十一月二十・二十一日、御創建一五五〇年並別表神社昇格、奉祝大祭斉行。
社号 現社名、鬪鶏旧社名、田辺の宮、新熊野権現田辺の宮、新熊野鶏合大権現(元録五年建立・石灯篭現存)、田辺の宮に始まり御祭神勧請と故事により四度の社名変遷を経ている。鬪鶏神社は、全国唯一の社名で起源は次の故事に依る。
※源平盛衰記(抜萃)『熊野別当堪増は、頼朝には外戚姨聟(母方のおば)なり、年来平家安穏の祈祷をいたしけるが、国中悉く源氏に志を運び堪増ひとり背きても後難あり・・・・・・如何あらんと進退思い煩う。所詮人力に及ぶべきにあらず、神明の冥艦に任すべしとて、田辺の新宮にて臨時のお神楽を始む。神明巫女に託して曰く・・・・・・赤きは平家、白きは源氏とて、七番の鶏を合せけるに、赤鶏は白鶏を見て一番も番わず逃げにけり。この上は、神慮に任せ奉らんとて、熊野三山吉野十津川、死生不知の兵共を語らい集め・・・・・・兵船二百余隻を調へ紀伊国田辺の湊より漕渡り源氏に加わる、云々・・・・・・』
当時、社領二十八ヶ所十六ヶ国、二十四ヶ庄に及び、その勢力は源平両軍から助力を乞われるに充分であり、周知の壇の浦の戦(海戦)で熊野水軍の力により源氏は勝をおさめたのである。ここに新熊野鶏合大権現の呼称が生れ、明治維新の神仏分離令により鬪鶏神社と改称された。
特殊信仰及祈願
一、鶏合権現の社名より武運の神、勝負の神としての崇敬篤く、転じて証券相場、競輪、競馬の必勝祈願は有名である。
二、八方除御祈念(清砂祓い)建築・土木・移転・厄除・開運を祈願。
三、修験者大修法護摩祈祷、例大祭当日斉行。
四、なぎの木祈念、子宝授受、夫婦円満の信仰有。
五、樟(くす)木祈念、樟木の葉に祈祷すれば、歯痛完治の信仰有。
六、縁結びの神として、信仰をあつめ、神前結婚式県下最多数奉仕。
以上
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