国懸神について
日前神、国懸神、伊太祁曽神に関する一試考

『記紀』に記された紀伊の神々


『古事記』上巻

 八十神に追われた大穴牟遅神は木の国の大屋毘古神の御所に違えて行き、大屋毘古神は大穴牟遅神を木の俣より根の国に逃がした。

古い神と異名同神?

 大屋毘古神は諾冉二神の国生みの後に生まれたとあり、古い神との認識があったようだ。紀氏が名草を支配する以前の人々が祀っていた神かも知れない。
 現在は、五十猛神と大屋彦神とは同じ神と見られている。五十猛神の妹神に大屋津姫神がいるのも傍証である。
 また、『旧事本紀地神本紀』には、「五十猛握神亦云大屋彦神」とある。
 

『日本書紀』巻一第七段一書第一

 天照大神は天の岩屋に入り、磐戸を閉じたので、天下が真っ暗になった。そこで思兼神の智恵で、大神の像を映すものを造って招き出すことになった。そこで石凝姥を工として、天香山の金を採って、日矛を造らせた。

 また鹿の皮を丸剥ぎにして鞴を造った。これを用いて造らせた神は紀伊国においでになる日前神である。


日矛は男性原理

 この神話は文字が抜けているようである。

 まず、「日矛」はどうなったのか。文中から推測すると、「紀伊国においでになる」国懸神となろう。

 「これを用いて造らせた神は」何であるか。おそらくは鏡なのだろう。日前神である。

 紀の一書にこの記事を割り込ませたのは編纂にかかわった紀朝臣清人と思われる。
 


『日本書紀』巻一第八段一書第四

 五十猛神は天降の時に、多くの樹種を持って下った。けれども韓地には植えず、持ち帰って、筑紫から始めて大八洲の国の中へ播き増やして、全部青山とされた。このため五十猛命を有功(イサオシ)の神と称した。紀伊國に坐す大神とはこの神である。
 

『日本書紀』巻一第八段一書第五

 素盞嗚尊の子の五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命の三柱の神がよく種子を播いた。紀伊国にお祀りしてある。

『日本書紀』巻第十四 雄略天皇

 小鹿火宿禰は、紀小弓宿禰の喪のためにやってきたが、ひとり角国(周防国都濃)に留まった。倭子連をして、八咫鏡を大伴大連にたてまつって、願い申させて「手前は紀郷と共に帝に仕えることは堪えられません。それでどうか角国に留まらせて頂きたい。」と言った。大連はは天皇申し上げ、彼は角国に留まることになった。角臣となった。
 

八咫鏡のその後

 紀小弓宿禰は有能で人望篤い将軍であったようだが、韓国で病死した。これを聞いた子の紀大磐宿禰は新羅に行き、小鹿火宿禰の兵馬、船官と諸の小官を取って、自分勝手にふるまった。小鹿火宿禰は深く紀大磐宿禰を憎んだとの記事が先にあり、紀大磐宿禰とは共に働きたくはないとの事である。

 『古代史の新論点』で前田晴人氏が、「大伴大連が預かった八咫鏡は天皇に差し出され、紀小弓宿禰の一族に戻されたのではないか、されにそれが太陽神の象徴として日前宮に祀られた。」と推定されている。

 紀小弓宿禰は淡輪邑に葬られたが、鏡は埋納されている可能性もあろう。しかしわざわざ八咫鏡のことが記録されているのは紀臣が祀った日前宮の御神体の謂われをさりげなく書き残したのかも知れない。紀朝臣清人によって。
 


『日本書紀』天武朝 持統朝

 天武朝朱鳥元年(686) 紀伊国国懸神、飛鳥の四社、住吉大社に奉幣。天武の病気回復。

 持統朝六年(692)三月 持統天皇、伊勢行幸を強行。お通りになる神郡(度会・多気)等の国造に冠位を賜る。

 持統朝六年(692)五月 伊勢、大倭、住吉、紀伊の四ヵ所の神に幣帛をささげ、新宮のことを報告した。新益宮(藤原宮)のこと。

 持統朝六年(692)閏五月 新羅の調を伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足に奉った。

伊勢内宮外宮と日前国懸

 天武天皇の病の回復を祈って紀伊国国懸神に奉幣されている。王権から奉幣された紀伊国の神の初出である。当時の紀伊国を代表する神は日前国懸神宮に坐す神であろう。
 この頃の日前神は地域の太陽神だったようだ。国懸神は紀伊國を代表する大神であり、日神を出す太力男神であり、風の神であり、木の神だったのだろう。

 持統天皇の伊勢行幸を梅原猛氏は内宮の社殿の建築の為と見ている。しかし内宮は文武天皇二年(698)多気大神宮を度合郡に遷したとの記事があり、この時に造営されたものと思われる。

 藤原宮を取り巻く東、北、西、南に鎮座の神々への奉幣と思われる。伊勢が新たに登場して来ている。伊勢とは、皇祖神となった多気大神宮で祀る天照大神のこと。
 紀伊の神とは国懸神から天照大神とした日前神に変わって来ているのかも知れない。

 新羅に関しての神々も伊勢と紀伊を除けば特定の氏族の祖神ではないようだ。
 
 
 天武期持統期の神々への奉幣は国家的祭祀で行われている。天皇家の祖神とされる伊勢の神はともかく、その他の神は一地方氏族の祖神であるはずがない。とは云え紀伊には太陽神として日前神が鎮座しており、国懸神が伊勢に先んじての皇室の祖神の天照大神のこととは考えにくい。ましてや天武の回復祈願にでも皇祖神の天照大神を祀ることになった伊勢の名は出ていない。
 天武期に紀伊国国懸神と書いている。しかし持統期には四所の一の紀伊大神、五社の一の紀伊となっているのは伊勢の天照大神と同様に紀伊に日前神として天照大神が祭られた可能性も考えられる。これは『日本書記』の編纂は、大宝二年(702)の伊太祁曽三神の分遷以後の和銅七年(714)からであることからも推測できる。
 日前神の名が神代紀以来登場するのは嘉祥三年(八五〇)の『文徳実録』で、紀伊國日前國懸大神社とある。従って、紀伊国国懸神とは紀伊國日前神ではなく、国懸神の神格の一である「紀伊國に坐す大神」と見るのが素直な見方。即ちこの頃では木の神の五十猛命ではなかろうか。




古風土記に記された紀伊の神々



『播磨国風土記』

 飾磨郡因達の里 息長帯比売命が韓国を平定しようと思って御渡海なされた時、御船前の伊太の神がこの所においでになる。だから里の名とした。
 

珍塚古墳壁画

 
 御船前の神は珍塚古墳壁画の舳先の鳥で現されている。
 飾磨郡因達郷に中臣印達神社が鎮座している。伊太の神。揖保川の東側である。中臣氏の関与があったのだろう。

『播磨国風土記』

 揖保郡大田の里 昔、呉の勝が韓国から渡って来て、はじめ紀伊の国の名草の郡の大田の邑に着いた。その後、分かれて来て摂津の国の三島の賀美の郡の大田の邑に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の邑に移住して来た。

摂津大田付近の古墳の石は紀の国の石

 名草の大田の東側に日前国懸神宮が鎮座している。摂津の大田は中臣氏の拠点である。ここから揖保に移ったのは中臣氏であったのかも知れない。先に述べたように飾磨郡因達郷に中臣印達神社が鎮座しているのはこの故なのかも知れない。
 更に、日前国懸神宮を祀るのは紀氏と中臣氏に限定されていた。
 

『播磨国風土記逸文』

 神功皇后が新羅征伐に赴く時、集まった神々の中に爾保都比売命がおり、自分を良く祀ってくれるならば赤土を与えようと言った。その赤土を船体などに塗って新羅を攻略した。帰還後、神功皇后は爾保都比売命を紀伊国筒川の藤代の峯に鎮め奉った。

後裔社は相賀八幡神社

 高野山の東の奈良県境の近くに筒香がある。藤代の峯については県境付近と言うが具体的には不明である。筒香の近くに富貴地名があり、共に丹生神社が鎮座。
 『住吉大社神代記』には、紀伊國伊都郡の丹生川上に天手力男意氣績ゞ流住吉大神が鎮座していることを記している。天手力男の名から付近に船木氏の存在がうかがわれる。
 住吉大社の宮司である真弓常忠氏は『古代の鉄と神々』の中で「船木氏は丹生川上よりも砂鉄の豊富な播磨へ移動」と推定されている。
 

『筑前国風土記逸文』

 怡土の県主らの祖五十跡手は、仲哀天皇がおいでになったと聞いて、三種の神器を賢木にかけて穴門の引島に迎えて献った。天皇の問いに、「高麗の国の意呂山(蔚山)に天から降ってきた日桙の末裔です。」と答えた。天皇は恪し(伊蘇志:いそし)なことと云われ、国の名とした。
 

天日矛と天道根

『新撰姓氏録』の大和国神別に「伊蘇志臣」があり、「滋野宿禰同祖、天道根命之後也。」となっている。紀氏の祖である天道根命は日桙の末裔とされているようだ。国懸神宮の御神体である日桙とのかかわりもあるのかも知れない。
 大和国葛上郡 駒形大重神社
 摂津国武庫郡 伊和志津神社
 筑前国怡土郡 伊覩神社
 

『住吉大社神代記』

 船木等本記 昔、大八嶋國に日神を出し奉るのは船木連の祖の大田田命、神田田命であり、船を三艘を造った。この船を武内宿禰に祀らした。それが紀国造が祀る志摩神静火神伊達神である。

佐那神社

 伊勢船木氏の祖神は手力男神とされている。伊勢国多気郡の式内社に佐那神社があり、祭神は手力男神。佐那の地名は銅鐸を思わせる。霊威の強い神。

 船木氏は紀ノ川を遡って高野山の東の県境に到った。富貴(ふき、ふふき)と言う地名の場所である。船木からの転訛だろうか。それとも精錬の吹くであろうか。精錬には風は不可欠、風の神も祀ったであろう。

 船木氏の痕跡は大田田命、神田田命の名をを示す名草郡大田郷、海部郡賀太郷である。名草郡大田郷には式内大社の日前国懸神宮が鎮座、賀太郷には式内社の加太神社(淡嶋神社)が鎮座。

 伊達神は伊太神であり、五十猛神のことである。他の神々も大屋姫、抓津姫にあてる説もある。まとめて紀伊三所神と言う。

 伊太祁曽神社の創建当時は大屋彦神を祀っていた古社であった。奈良時代以前に国懸神にも天照大神を祀ることになり、従来の国懸神である日を抱く手力男神、風の級長津比古神、植樹の五十猛命三兄妹を伊太祁曽神社に遷した。
 
  五十猛神は植樹神であり、渡しの神でもあり、浮き宝の神である。木と舟にかかわる。樹種を播くのは鳥であるのは珍塚古墳の舳先と同様である。

 五十猛神と船木氏とは近い関係にあったものと思われる。船木氏は紀ノ川下流に上陸、それから上流へ金属資源を求めて遡っていったのである。河口に大田、加太と地名として残っているのに加えて、名草郡に船木氏の祭る天手力男神を祭神とする力侍神社が鎮座している。また、伊太祁曽神社の祭神が太力男明神とする時代もあった。

 船木氏が紀の国から播磨へ移動しているのは、呉の勝との関連もあるのかも知れないのは、『播磨国風土記』の述べる所である。

 国懸神の御神体が日矛であり、新羅の王子に天日矛がいると云うことと、五十跡手が日桙の末裔と名乗ったことと素盞嗚尊・五十猛神が新羅に天降り、日本にやって来たとの所伝に、相互に混乱があったのではないかと考えられる。大三元さんからは五十跡は「イサオシ」、五十猛は「イサオ」と称えられたことをご指摘いただいた。



平安時代以降の記述と思われる神話・伝承


『古語拾遺』

 思兼神の議に従ひて、石凝姥神をして日の像の鏡を鋳しむ。初度に鋳たるは、少に意に合はず。(是、紀伊国の日前神なり。)次度に鋳たるは、其の状美麗し。(是、伊勢大神なり。)
 

合理的になって来た。

 西宮一民氏の注では、日前国懸神宮は東西に社地を分けており、東に国懸神宮、西に日前神宮、これは東に出る太陽と西に沈む太陽を象徴しているとし、さらに東の伊勢と西の日前を対応させているつもり、と指摘されている。
 

『先代旧事本紀』

 「神代本紀」 天金山の銅を鋳造して日矛を造ったがこの鏡は少々不出来だったので紀伊国に坐す日前神とした。別に鏡を造り伊勢の神とした。
 「国造本紀」 神武朝に神皇産霊命の五世孫の天道根命に、木ノ国造を賜う。
 

矛の形の鏡とは。

 ここでは「日矛」が日前神と見なしている。日矛とは矛なのか日矛に鏡をぶら下げたものか、意見は分かれている。
 「国造本紀」は記紀にない記述があるので、『先代旧事本紀』の中では評価されている。
 

『令集解』養老七年 806

 太政官符により、名草郡が日前國懸神宮の神都になる。

伊太祁曽神社の立場がない。

 伊勢神宮の場合は多気郡度会郡、杵築大社は出雲国意宇郡、などが同じように神都とされている。
 

『新抄格勅符抄』大同元年 806

 日前宮 五十六戸、国懸宮 六十戸 神封を寄せられた。伊太祁曽神は五十四戸。

伊勢は一千百三十戸

 この時点では、国懸宮が日前宮よりも手厚く遇されている。
 都麻都比賣神 十三戸、大屋津比賣神 七戸 である。
 

『釈日本紀』に引く『大同元年大神宮本紀』大同元年 806年

 崇神朝の頃、天照大神の住むべき良き国をもとめて、豊次比売命がおお神を奉じ、廻国し、木の国奈久佐(名草)浜宮に三年留まった。
 

浜宮は天照大神、天懸大神、国懸大神を祭る。

 崇神紀に御殿から出した天照大神を豊鋤入姫命に託して、大和の笠縫邑に祀ったとある。このお話が発展したもの。

『釈日本紀』に引く『大倭本紀』

 崇神天皇が代々奉斎して来た宝物に斎鏡三面と子鈴一合があった。一鏡は天照大神の御霊で天懸大神、一鏡は天照大神の前御霊で国懸大神とし、紀伊国名草宮で拝祭する大神である。

神を祭ることを神の前を祭ると言うが・・

 天照大神の前御霊とは何か、が色々考えられている。天照大神より先に降臨している日神とされる天照御魂神であるとか、神武天皇より先に大和に入った饒速日尊であるとか、「前」を時間ととらえる考え方が多いようだ。日の前を祀ることは日を祀ることと同意である。
 飛鳥には東漢(やまとのあや)氏の住処を檜隈(ひのくま)と言っていた。紀氏と東漢氏との関連については思いつかない。
 日前をヒノクマとするのは、神をクマとする朝鮮語の影響下にあるのだろう。

『続日本紀』

 文武天皇二年 (698) 多気大神宮を度合郡に遷した。

伊勢神宮の誕生

 天武天皇が天皇家の祖神を天照大神とし、伊勢の神を天照大神とした。文武天皇が伊勢神宮を創建した。
 

『続日本紀』

 大宝二年(702) 伊太祁曽、大屋津比売、都麻津比売の三神の社を分ち遷す。

他に類を見ない処置

 何故、三神分遷が行われたのか。前年の大宝元年に文武天皇・持統上皇が紀伊の牟婁湯(白浜温泉)に行幸しているのと関連があるのか。
 

『文徳実録』

 嘉祥三年(850)遣左馬助從五位下紀朝臣貞守。向紀伊國日前國懸大神社。

日前国懸神宮は伊勢神宮と共に神階は授けられていない。


 
 奈良時代の始めには五十猛三兄妹の社が分遷さされている。国家の命令であろうが、珍しい事態である。民衆の崇拝と神人の勢いが強すぎて紀国造の統制が及ばない状態が続いていたのであろう。同じ頃、須佐神社が名草郡から有田郡へ遷されているようだ。

 中央では持統・文武朝で天皇家は言うに及ばず藤原氏の力が強くなり、紀朝臣も故郷の紀直が祭る日前国懸神宮よりも五十猛三神の勢いが強いのは具合が悪かったようだ。示しがつかない。

 平安時代になると、日前神と国懸神と二神の意味がわからなくなってきているようだ。朝日・夕日説が出ているが、天照大神の和御魂・荒御魂とも考えらよう。

 




紀氏、日前国懸神宮関係資料


『輶軒雑記』に引く「紀氏国造氏古文書」

 天孫ホノニニギが天降った時、天係(あめかかす)大神と国係大神の御霊を奉じ、日向で祭っていた。これは二つの宝鏡であった。天係大神とは天照大神の御魂であり、伊勢の磯宮にまつられ、国係大神は、その前霊(さきみたま)で、紀伊の名草の宮で祭られている。

 御舟山は二つの山からなり二艘の舟と見なされ、一艘は西向の出船の形、一艘は北向。日神である日前大神が舟に乗って西方より来臨し、舟が山に変じた。
 

太陽を運ぶと言う概念

 天孫は複数の鏡を祀っていたと思われていた。伊勢神宮、日前国懸神宮など複数の神社が天照大神を祭神としていることからも頷ける。

 御舟山は日前国懸神宮の神体山である。紀氏の古墳が多く造られている。山に二艘の舟があると思われていたのは日神は船に乗って来臨したとの伝承があったからだろう。太陽神を船に乗せて運ぶのは『住吉大社神代記』では、船木氏の役割としている。

『紀伊国造職補任考』に引く『紀国造系譜』

 神武東征時、紀伊国造の祖の天道根命は二種の神宝を託され、名草郡毛見郷に到り、琴浦の海中の岩上に安置し、奉斎した。

岩上祭祀は古い日神祭祀

 天道根命が紀国の国造であるとは『先代旧事本紀』の「国造本紀」にも記載されている。また物部の遠祖の饒速日尊の降臨の際、防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る神々の中にも出ている。
 

『日前国懸両神宮本紀大略』

 『紀国造系譜』より詳しく書かれている。天道根命は淡路国御原の山に葦毛の馬に乗り天降り、それから名草郡加太浦に到り、更に木本、更に毛見郷に到ったと言う。
 

加太は神田、最後は大田におさまる

 葦毛の馬に乗っていたと言うのは、紀氏と朝鮮半島との関わりの深さを表しているのだろう。
 加太浦・木本に到ったというのが興味深い。
  『住吉大社神代紀』には、「膽駒山に日神を運んだ木舟と石舟を置いている。」とある。日前国懸神宮の東の御舟山にも同様な伝承がある。

 日前神は名草郡の西方すなわち海からやって来た神とされている。太陽は西から出ないが、鏡は西から持ち込まれているのだ。弥生時代には九州では鏡が墳墓に入れられているが、大和では鏡は出土していない。大和に卑弥呼がいれば、鏡を欲しがる状況にないと思われる。




伊太祁曽神社関係資料


『伊太祁曽神社古縁起』

 垂仁天皇の時、五十猛、大屋都比売、都麻都比売の三神は日前大神の来臨に当たって、自らその社地を譲った。

亥の森へ遷座と言う

 垂仁天皇の時代、大和に祀られていた天照大神を倭姫に託した故事によるお話だろう。紀の国の国譲りの話である。この話を裏付ける事象として、五十猛、大屋都比売、都麻都比売の三神を祀る式内社の後裔社が日前国懸神宮から殆ど等しい距離に鎮座していることである。

 春日大社の場合も榎本明神が社地を譲って一度は離れたが、やはり元の場所の片隅に鎮座している。

 出雲での国譲りの際には譲った神は天孫と出雲臣に大切に祀られているように、紀の国の場合も五十猛神は天孫と紀氏に大切に祀られたことだろう。
 

『日本紀伊国伊太祈曽大明神御縁起事』

 イダキソの神を風神シナガトベとする。中世には大風が吹き止まず、伊太祁曽神に奉幣があり、風はとまったと言う。

 また日神を天岩戸から引き出した故に「日出貴大明神」との称す。また「日輪」すなわち天照大神を懐いて伊勢国の五十鈴川のほとりに降臨、そこの奧の宮(風日祈宮)として鎮座、後に紀伊国の日前宮の神域に降臨、ついで垂仁の時代、伊太祈曽に幸し、ここに鎮座した。等々。

 このイタケソの神が、皇孫ホノニニギの誕生にさいし、これを抱き奉り、この功によって居懐貴孫大明神とも申し、また「紀伊国日前宮居懐貴孫大明神」とも号すという。

抱く、語呂合わせに見えるが・・

 大三元さんの、『「国懸」と「日前」の語義・2 』 によると、琉球語には、日本古語の中でも忘れられた要素が残っている可能性がある、という前提で、
 国懸 は 国輝かす が原義であった。
 日前 は 日鏡 が原義であった。
 とある。日神を引き出し、懐いて伊勢に降りる、まさに日鏡を持って、降臨することは国を輝かすと言える。国懸とは「日出貴大明神」、または「日抱尊」と言える。これが伊太祁曽から逆に語呂合わせ的に推論したものと捨て去るにはいかがなものか。

 西田長男はこれらの伝承の中に、「日輪を懐く聖なる母神」の原像が存在していると指摘されている。
 
  神の遷座は、元地に神霊を留めることはよく知られている。同じように、国譲りの場合にも、譲った人々の奉斎する神はその神霊を元の地にとどめる。従って日前大神に国を譲った伊太祁曽神は国懸大神として、秋月の地に留まっていた。
 前に述べたように船木氏が紀ノ川下流から高野山の東側に入植した証として、加太、太田の地名が残り、さらに伊太祁曽の神が太力男明神とされているのは、その一つの証だろうと思われる。

 日神を懐いた太力男明神は国を輝かす神として国懸大神と呼ばれた。日を抱く、伊太祁曽神となったのである。伊太祁曽まで来れば五十猛につながるのは、紀の国では時間がかからなかった。




その他


『延喜式神名帳』延長五年(927)

 紀伊国名草郡 日前神社(名神大。月次相甞新甞。)、國懸神社(名神大。月次相甞新甞。)、伊太祁曾神社(名神大。月次相甞新甞。) 、大屋都比賣神社(名神大。月次新甞。) 、都麻都比賣神社(名神大。月次新甞。) など
 

 

 

佐麻久嶺神社の由緒

 陸奥国磐城郡の式内社で祭神を五十猛神とする。
  元禄二年(1689)の当社由緒書には「当社神霊は紀州日前神社一躰分神にして三所国懸大明神是也」とある。
 

『式内社調査報告十四巻』

 阿倍徹氏は、神社明細帳に記載の通り、紀伊国名草郡の伊太祁曽神社の祭神を勧請したものとされる。 国懸大明神と同体とするのは誤記としている。
 現在の神社祭神から見れば誤記と言えようが、社伝には国懸神とあったのは事実だろうし、重要視したい。
 

伊大和氣命神社

 伊豆國賀茂郡の式内社で、御蔵島の稲根神社を後裔としている。

『式内社調査報告十巻』

 
 祭神は、伊大和氣命神には違いない。
 『神名帳考証』には祭神を「五十猛神」としている。
 『神社書上』(明治中頃)には、「祭神 国懸大神」とある。
 五十猛神と国懸神とが同じような神と見なされていたようだ。
 

播磨国印南郡 泊神社

 祭神は「天照大神、國懸大神、少彦名大神」である。
 社伝には秦川勝公が社殿を建て更に國縣大神を勧請すと伝ふとある。
 


泊神社
 飛鳥時代に、聖徳太子が鶴林寺を建立の際、側近の棟梁の秦河勝が、紀伊の国から自身の氏神である国懸大神を勧請し、社殿を建立した。
 国懸神は秦氏・紀氏の両氏の氏神と言えるのかも。秦氏は天日矛の末裔とされ、国懸神の日矛にあう。また紀氏は五十猛の末裔とされる説が有力。

 泊神社の祭神について大三元さんが面白い見解を述べておられる。
 紀伊での「日前」がなく、その替わりであるかのように「少彦名大神」となっている。これはどうしてであろうか。それは「少彦名大神」は「ががいもの船に乗ってやってきた」からである。「ががいも」とは別名「かがみ」とも呼ばれる植物のことだ。紀伊の「日前」が日鏡を祭っていることから、「かがみ」つながりで「少彦名」が出てきたのであろう。
 

 神社に伝わる伝承の信憑性には疑問があるところ。特に創建年などを古い時代にするとか、自らを飾る伝承はあてにはできないだろう。
 佐麻久嶺神社の場合、勧請した元社を国懸大明神として、伊太祁曽神社としていないのは、五十猛神を祭る神社としては飾っていることにはならないと思う。
 伊大和氣命神社の場合には祭神についての説がわかれている。国懸大神か五十猛神とするのは同一視されていたことを思わせて興味深い。


紀の国 古代史街道

神奈備にようこそホーム