紀の国の古代史 古墳時代






4世紀から7世紀の時代を古墳時代と言います。

住居
 縄文、弥生、古墳時代は大差はない。この時代の遺跡としては和歌山市大日山、北田井、那賀郡岩出町吉田遺跡等からでている。 この遺跡からは後半の時代には竪穴住居の一辺につくりつけのカマドが設けられているのが出ている。

土器
 素焼きの土器である土師器が使われた。後半には焼きの良い須恵器がと耐火性の高い土師器の甕や鍋が煮たき用に併用されている。

食料
 鉄器が普及し、木製農耕具の先に鉄製の刃をつけたもの、また短い柄をつけた鎌が使用されるようになった。 その結果、稲作の生産性が向上した。また漁労や製塩の専業集団も生まれた。余剰生産力が権力の基盤となった。
 製塩は和歌山市友が島、加太、有田市地の島、広川町鷹島、南部町大目津、田辺市古目良の遺跡が知られる。

武器
 鉄製武器が普及した。
  銅鏃  和歌山市岩橋千塚
  銅鏃  南部町城山古墳
  剣   御坊市阪東丘古墳
  剣   田辺市磯間岩陰遺跡
  直刀  和歌山市鳴滝古墳 金銅製環頭装

祭祀遺跡
 和歌山市大日山 泉を対象とした祭祀遺跡
 和歌山市友が島
 川辺町大山
 白浜町阪田山
 串本町矢ノ熊

墳墓
 秋田県鹿角市大湯の環状列石は縄文後期の遺跡であり、土中から検出された残存脂肪酸は人間が葬られた事を示唆している。墓である。
 秦の始皇帝の墳墓は華清池と言う河北きっての名湯に接して造営されている。温泉と墓、この組み合わせは大湯の環状列石も同じように現れている。
 県を代表する和歌山市岩橋千塚古墳群にも泥湯とは言え花山温泉が湧いている。

 弥生時代には集合墓であった。大阪府四条畷の雁屋遺跡には弥生中期の墓地群が出ている。ここから木棺が出土している。材料の木はコウヤマキ、カヤ、ヒノキで腐らずに残っていた。 特にコウヤマキ木棺の被葬者はより丁重に葬られていたようである。次の神話を思い出させる。
 日本書紀の一書の伝えに、素盞嗚尊(須佐之男の命)が鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。 用途として杉と樟は船、檜は宮、槙は寝棺を造るのに良いされ、そのために木種を播こうと申され、その子の五十猛神,大屋都比売,都麻都比売の三柱の神がよく木種を播いたとある。槙の寝棺とはコウヤマキの木棺であろう。
 
 前方後円墳は初期から築かれていた古墳であった。3世紀後半から4世紀前半頃である。強大な労働力の集中が必要であった。即ち権力と富の集中化が顕著になってきた。
 5世紀末には横穴式石室が作り始められた。追葬が行われた。
 6世紀には合葬を目的とした群集墳が出てきた。


紀の国の古墳


海岸線沿いか河川に沿った平野に分布し、紀ノ川沿いが多い。日置川以南は極少。

前期古墳 4世紀 縦穴式
 和歌山市秋月遺跡 日前国縣神宮の西方の向陽高校グランド
 御坊市尾ノ崎遺跡 製塩土器 岬の先端 ここからは先土器時代の石刃、縄文土器、弥生時代の縦穴式住居も出ている。
 那智勝浦町下里古墳 本州最南端の前方後円墳 玉、鉄剣片 下里神社

中期古墳 5世紀 縦穴式から末には横穴式、紀ノ川流域では大型化 大陸渡来品
 和歌山市花山八号墳、四十四号墳 日前国縣神宮、鳴神社
 和歌山市大谷山(三十九号墳) 70mの前方後円墳 大分県九重山の安山岩 馬冑出土 伊久比売神社
 和歌山市木ノ本 車駕之古址古墳 県内最大の前方後円墳 金製空勾玉(新羅の黄金文化)
 海南市山崎山五号墳 前方後円墳 青銅剣 柿本神社
 御坊市岩内三号墳 円墳 巴形銅器
 橋本市陵山古墳 妻の森神社、太神社

後期古墳 6世紀  合葬 群集
 和歌山市岩橋[いわせ]千塚古墳、井辺八幡山古墳 日前国縣神宮、鳴神社、高橋神社

  井辺八幡山古墳について
出土した力士像
 県最大の前方後円墳で、墳丘の高さは88mである。この付近は太田黒田遺跡、日前宮など、古代史の宝庫とされる地域であり、被葬者もこの地域の支配者として活躍し、強大な権力を持っていたのであろう。
井辺八幡山はその上に八幡の小祠のある山の伝承しかなく、古墳であるとは思われていなかった。大野嶺夫氏が前方後円墳ではないかと提唱し、埴輪の調査や入れ墨をした力士像を発掘した。

 この古墳は山塊の中に造営され、大部分は自然の地形を利用している。このタイプの古墳は前期に多く、弥生系高地性遺跡との関連も注目されている。
 日本人と山とは以前は日常的なものではなかったが、これが日常的になっていった等の関連の変化が現れているのである。

 那賀郡岩出町船戸山古墳群 大宮神社上小倉神社
 那賀郡打田町百合山古墳群
 橋本市市脇古墳群 相賀太神社
 御坊市天田古墳群
 御坊市鳳生寺古墳群


出土品、集落跡

 和歌山市大谷古墳 金銅製装身具、馬冑、馬甲 朝鮮半島の伽耶、紀氏の伝来
 橋本市隅田八幡宮所蔵 人物画像鏡 日本最古の金石文 意紫沙加宮(允恭天皇皇后忍坂大中姫)
 和歌山市六十谷大同寺遺跡 家形はそう(瓦扁に泉) 伊達神社伊矢止神社
 和歌山市鳴神遺跡 大きい柱を立てた堀立柱建物跡、用水路 日前国縣神宮、鳴神社
 那賀郡岩出町吉田遺跡 竪穴住居群 力侍神社、山崎神社
 和歌山市鳴滝遺跡 高床式切妻造り妻入りの7棟の堀立柱建物跡 米か武器の倉庫 大和王権、紀氏


余談  淀川水系と紀の国


 播磨国風土記に、景行天皇が摂津国の淀川を渡ろうとした際、渡し守の紀伊国人小玉が「我は天皇の贄人ではない」「渡らんと欲せば、渡の賃を賜え」と言い、景行天皇は弟縵[おとかずら]を賃にしたと言う。
 もう一つ、播磨国風土記に、昔、呉の勝、韓国より度り来て、始め、紀伊国名草の郡の大田の村に到りき。その後、分かれ来て、摂津の国三嶋の賀美の郡の大田の村に移り到りき。その後更に揖保郡の大田の村に遷り来たった。と述べている。
 淀川右岸の摂津の国の大田の村に相当する、茨木市安威の将軍塚古墳の後円部の竪穴式石室のおびただしい用材は、紀ノ川流域の結晶片岩が利用されている。 後期古墳の茨木市海北塚の箱式石棺の用材が紀の川流域の緑泥片岩である。 被葬者は、紀の川沿いの出身者であろう。
  茨木市太田3-15-1 太田神社「素盞嗚尊、天照皇大神、豐受皇大神 配 少彦名命」
  茨木市安威 安威神社
  茨木市福井 新屋坐天照御魂神社(福井神社)「天照皇魂大神、天照国照天彦火明大神」

 淀川を遡って山城へ行くと、石清水八幡宮があるが、当初は紀氏が神主をつとめるしきたりであった。近くには阿蘇山の溶岩を舟形石棺に用いた隼人の古墳がある。隼人の移住にも紀の国の人々の力があったようである。


参考文献
和歌山県史(原始・古代) 発行 和歌山県
原始・古代の紀伊国 紀伊風土記の丘資料館



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