名草の神々と歴史 巻四一から

瀬藤 禎祥

名草の神々と歴史 巻一から巻二〇

名草の神々と歴史 巻二一から巻四〇



 名草の神々−41−

 熊野と言う地名については、いくつかの説があります。熊=神説、熊野とは神々の坐す所をいうとします。 日向(ヒムカ:東向き)に対する日隈(ヒノクマ:西向き)で日影的な意味、(伊勢神宮と日前國懸神宮の対比)とか、 中央に対しての隅(出雲大社を日隅の宮とも言う)とか角(コーナー)を言うとか、様々あり、全てもっともらしい雰囲気です。

 ここでひとつ魅力的な説を紹介しておきましょう。生田淳一郎氏『衝撃のネパール語』三一書房から。
 世界の古い言語が比較的良く残っているとされる辺境の国ネパールの言葉に「クマル・クマリ(少年・少女神)」があるそうで、 これが日本に入ってきて熊野と変化したのではないか、との説です。 確かに熊野の北方に当たる大和から吉野にかけて水分(ミクマリ)神社が点在しています。山々から流れ出る水の分配を司る神とされていますが、 実際の鎮座地は平地や峠の交通の要所に鎮座しています。水配り、雨乞いという感じは見た限りとぼしいようです。 このミクマリも ミ(神)+クマリの変化ではないかとのことです。なお、クマルとクマリのちがいですが、おしまいの -i が女性を表すのです。
 もうひとつは、ご承知のように熊野には王子と呼ばれる神や地名が多いのです。これらは「クマル(少年神)」の漢字的表現とみることができます。 王子と言えば熊野、すごい傍証だと思います。
 少年神少女神への信仰は、結婚式の三三九度に立ち会う少年少女は、全国にひろがっていた昔日の姿を今にとどめていますし、 世界各地の神事にも7〜13歳の少年少女が神の代わりとして、重要な役割を果たしていますね。

 聖地熊野の中でも本州最南端に当たる潮岬はすごい聖地なのです。 ここには潮御崎神社が鎮座しています。この神社の由緒書きには『日本書紀』の「少彦名命行きて熊野の御崎に至りて遂に常世国に適でましぬ。」のお話とか、 「周参見より下田原に至る十八ヶ浦の鰹漁の船頭達が毎年潮御崎神社に参集して執り行った鰹漁に関する約束を、神の御名に於いて遵守した。」と常世信仰と鰹漁の守護神のことが書かれています。
 由緒書きからは、この神社の社叢(神域の森で普通は禁足地)に残されている太陽神祭祀場のことを窺い知ること出来ません。

 『日本建国史開扉』北岡賢二氏からすこし紹介しましょう。
 高塚の森にある太陽神祭祀場の配石遺跡イメージ図を■■■で表しています。夏至の日の南中太陽の方角を「/」の線で示してます。

+++++++++++○太陽+++
++++++++++/++++++
+++++++++/+++++++
++++++++/++++++++
+++++++/■■+++++++
++++++/■磐座■++++++
+++++/+■■■■■+++++
++++/+■■■■■■+++++
+++/++■■■■■■■++++
++/■■斎場■■■■■■■+++
+/■■■■■■■■■■■■■++
/■方段■■■■■■■■■■■■+
〜〜〜〜〜〜〜〜海水面〜〜〜〜〜〜

 方段から磐座を見ますと、その幅は丁度太陽の視直径と同じになり、角度もあうそうです。
 この辺りに人が住み始めたのは14世紀〜15世紀の頃のようで、この遺跡はそれよりはるかな太古のもののようです。
 本州最南端という格好の聖地に太陽神祭祀場がつくられている、またそれが完全に忘れられているということはどのようなことを意味しているのでしょうか。

 太陽祭祀の本家と言えば伊勢神宮を想起します。神宮は太陽神である天照大神をお祭りしているのですが、 所謂太陽儀礼とでも言うべき直接的な太陽祭祀が行われていることは承知していません。
 また、烏と太陽、蛙と月の組み合わせは東南アジアの古い民話などに多く、 熊野の烏、神倉山のゴトビキ岩の名からも東南アジアとの関係が強く示唆されています。 しかし熊野本宮大社は明治時代の洪水で流失するまでは河川の中の大斎原に鎮座していました。 これは太陽祭祀というよりは、クマリからの水分信仰への変化の跡を留めているのではないでしょうか。 太陽祭祀との関係は僅かに牛王宝印の「烏」に残っているものの、実質途切れているように見えます。 それよりも社殿を作らない磐座信仰やヤクラ神社にその観念が残っているように見えます。(−39−参照)

 本州最南端・高塚の森の太陽祭祀跡は、どうも伊勢や熊野三山の信仰とはおもむきを違えたもののように感じます。 後世の王朝とは質を異とする呪術・祭祀形の王権の祭りの跡と見るのが自然なように思いますが、 さて、本州最南端の祭祀遺跡から語れることの分を遙かに越えてしまった想像の世界に入ってしまいました。
 


 名草の神々−42−

 さて、紀氏の領地で起こった神武軍の危急存亡の事態に肝心の紀氏の名や始祖の天道根命の名は全然登場してきません。 ましてや神武東征譚のどこにも紀氏の名はでてきません。紀氏は一体何をしていたのでしょうか。

 神武東征譚は半分以上は神話だと思われます。また記紀は極めて政治性の高いものだと思います。紀氏についての仮説は色々たてられます。
 【1】紀氏こそ東征の主人公であった。
 【2】紀氏は水運・海上輸送を担当していた縁の下の力持ちであった。
 【3】神功皇后譚のように幾たびか東征があったが、古い時代には紀氏はそのような存在ではなかった。
 【4】神武東征の伝承は紀の国ではなく、別の場所(九州など)で語られていた。
 【5】神武東征譚が構想されていた時期には既に紀氏の力は衰えており、海部氏や物部氏がはばをきかさていた。

 さて皆さんならどのような仮説を出されますか?6番目7番目の仮説の投稿ををお待ちします。

【1】紀氏こそ東征の主人公であった。
 元和歌山新聞におられた日根さんと言う方が紀氏や紀の国の歴史について何冊か出版されています。大変な情熱を持って御調査されており、敬服するものです。
 氏の所論は『紀氏は大王だった』との書名でわかるように、東征主役説です。
 氏の論点のポイントは、詰めてみると次の三つかなと思います。

(a)白村江の戦いで日本軍が壊滅的打撃を受けます。天智天皇は近江に遷都しますが、日本に進駐してきた「大海人」すなわち天武天皇によって紀氏系王朝は滅ぼされたとします。 証明の不可能な仮説ですが、天武天皇の所で皇統が変わったと言う見方は流石です。 日根氏は紀氏の祖で東征軍を率いた天道根命の成果を天武天皇が奪って、それが正史の『日本書紀』に記載されたものと見ておられます。

(b)大谷古墳に使用されている石棺の石は熊本県産出で、これは東遷をした証拠。

(c)大谷古墳から出土した馬冑は、紀氏の出自が朝鮮半島であり、鉄についての高い技術を持っていた。

 氏の想定では、紀系の天皇は崇神天皇から天智天皇とされています。ミマキイリヒコの「キ」が紀氏の証だそうです。

 総じて大変興味ある説です。しかし「大海人」進駐説はひとつの仮定です。更に「キ」印紀氏関係説もあくまでも仮説です。結果としてそのような場合が多い可能性があると言う程度の話でしょう。「オ」とつく地名も紀氏と関係があるようにも書かれていました。

 大谷古墳関係は紀氏のもので、半島から九州経由で近畿にやってきたことを示しているとの指摘は頷けます。 他にも九州阿蘇山系の石での古墳は河内(藤井寺市)、山城(八幡市)や岡山、四国に分布しています。 しかしながら、紀氏以外の大半の豪族も渡来系であり、よく似たコースを通っていると思います。紀氏も大王達の一人であったとする傍証程度しか使えない話でしょう。
 壬申の乱で紀氏の武将は殆ど天武側にその名が出てきます。紀大人が近江側にいるのですが、どうやら天武側に寝返っているようです。また、天武天皇の病状の重いときに國懸神に奉幣しています。 紀氏が天武天皇に皇位を奪われたとは到底思われません。大王であったとしても、壬申の乱の頃にはとっくにその地位を奪われていたのでしょう。
 現に、武烈天皇の後継者がいなくなって、継体天皇を迎えますが、その前に丹波の桑田の倭彦王を迎えに行きますが、逃げられます。 紀氏が天皇家(でなくとも御三家みたいな存在)なら、何故、紀の国に迎えがこないのでしょうか。 紀氏は大伴氏などと一緒になって継体天皇を迎える役割をしています。これから考えると紀氏と天皇家とは血縁関係は認められません。 大王説は面白いのですが、紀氏だけが大王ではなく、多くの大王家のうちの豪族であったが、徐々に中央の大和大王家の勢いの中に位置づけられていったように思われます。

 【2】紀氏は水運・海上輸送を担当していた縁の下の力持ちであった。
 名草から熊野へは、海岸沿いに行っているようで、水軍がいたはずですが、特定の名前が出てきません。 強いて言えば、珍彦(宇豆彦、椎根津彦)が水先案内人として登場し、子孫は大和直になっています。 五十猛命の末裔に宇豆彦の名が見えること、紀氏の祖の宇遅彦の子に宇豆彦が出てくることで、あるいは紀氏の一族だったかも知れません。 紀氏の本体は東征軍に入らず、九州に留まったのかも知れません。
 なお、記紀には紀氏の祖先とされる天道根命の名は出てきません。

 【3】神武天皇や神功皇后譚のように幾たびか東征があったが、古い時代には紀氏はそのような存在ではなかった。 紀の川河口域の古墳の増加は5世紀に入ってからです。紀氏はそれほど早期には紀の川河口の支配者ではなかったようです。 応神天皇以降の所謂河内王朝の頃に紀氏は海兵隊の長官のような活躍を見せます。 また神功皇后・応神天皇は九州から来ていますが、紀氏も九州に地盤があったようです。 紀氏と名乗る名前の登場は、神功皇后譚で紀直の祖豊耳の名が初めてです。

 紀氏を思わせる名前は、荒河刀弁(木の国の造)、紀直遠祖莵道彦と武内宿禰が出てきますが、 荒河刀弁は崇神天皇の時代ですが、国造が置かれたのは遙か後世ですし、後で述べますが武内宿禰は和歌山の人ちゃうやろ です。古墳と伝承から、紀氏が名草に登場するのは5世紀初頭頃かと思われます。

 このケースの可能性が相当に高いものと考えられます。
 


 名草の神々−43−

 神武東征譚には紀の国を通るのですが、紀の国の最大の豪族である紀氏の名は見えません。紀氏は一体何をしていたのでしょうか。と言う話の続きです。

 【4】神武東征の伝承などは紀の国ではなく、別の場所(九州など)で語られていた。

 壬申の乱以後、対外的にも王権の確立を宣言・国内には藤原氏の補弼体制の基盤強化等の目的で『記紀』が編纂されたのですが、少し前までは群雄割拠の時代だったと言えるでしょう。平和な時代になって、それまでの争いの事実をあからさまに記述するのは寝た子を起こしかねないとのことで、神話の世界で表現しようとしたとも考えられます。 王権の編集した『記紀』は、各豪族の持っている伝承を収集して、本来並行的なものも縦に並べかえられて、歴史は古代の奥深い所の神代にまで書かれてしまったのかも知れません。

 王権が九州から来ている可能性は高そうです。そうすると『記紀』の中には九州での言い伝えが入っていることが考えられます。これを適当に近畿地方の物語にしてしまっているということも考慮しておく必要があります。 そのひとつの例証が、古事記では孝元天皇、日本書紀では景行天皇の所から出てくる武内宿禰の生誕の伝承です。武内宿禰については次回に述べます。

 神代の話の内容は伝承として存在しこれが収集されたのでしょう。しかし、神名や地名は九州当たりを近畿に持ち込んでいるのかもしれません。紀の国を思わせる地名は、九州では、肥前の基肄とか国東半島にも見えます。

 【5】神武東征譚が構想されていた時期には紀氏には往年の勢いはなく、海部氏や物部氏がはばをきかせており、藤原氏の台頭著しい時代です。 紀氏は中央では紀朝臣、紀の国では紀直と分離していましたが、地方豪族の紀直はもとより、中央の紀氏も往年の勢いはなかったようです。 それをいいますと大伴氏や物部氏もそれほどではなかったのですが、それなりの活躍の場面がでてきます。神武東征譚にわざわざ紀氏の活躍の場面を設けるほどの事はないと見なされたのでしょう。 逆に、紀氏の系図上の祖先に名が登場してくる名草戸畔が、神武天皇に従わずに誅されたという記事が載る始末です。

 話を東征中の神武軍に戻します。
 これより神武軍は八咫烏の案内で荒ぶる神々の多い熊野の山々を越えて行きます。熊、狼、蛇、山蛭、山賊などを恐れたのでしょうか。 山賊と無駄な戦いを避けていったとすれば、八咫烏もまた山賊だったかも知れません。

 神武軍は一体どの道をたどったのでしょうか? 奈良県の十津川村の玉置神社の巻外古文書と言うものには、「神武天皇熊野に御上陸八咫烏の先導にて悪ものどもをうち亡し、この宮にて兵を休め給ふた。」と伝えられているようです。 また、天川村の天河大弁財天社の社殿の下には神武天皇が祈ったとされる磐座があると伝わっています。
 初代の天皇の通り道ですから、所謂聖地のネットワークを通過してきたとして話が構成されているのでしょう。

 いよいよ吉野川に出ます。宇陀へ向かっている道筋に尾ある人光っている井より出てきて「井氷鹿イヒカ」と名乗ります。奈良県吉野町や川上村に井光神社が鎮座しています。 宇陀は水銀鉱床が豊富です。丹生都姫を祀る神社もあります。

 大和平野に入り、登美毘古を撃ちます。五瀬命に矢傷を負わせた登美の長髄彦のことでしょう。 長髄彦はひょっとしたら、本当に東北へ逃れたのかもしれません。東北の秋田家の系図は長髄彦の兄を遠祖と記載して、明治政府に堂々と提出されています。 長髄彦を中州+根+彦と分解して、大和平野の王である神、とする解釈もあり得ると思います。

日本書紀では物部氏の遠祖の饒速日命が長髄彦を殺して帰順することになっています。 この饒速日命は名草郡では和歌山市岩橋の高橋神社と江戸時代までは直川にもあった高橋神社、海南の藤白神社に祀られています。
 饒速日命が長髄彦の妹の登美夜毘売を娶って生ませた子が宇魔志麻遅の命です。物部連の祖とされています。 和歌山市栗栖の丹生神社の祭神は日本武尊、宇摩志摩治命、丹生津比売命となっていますが、これは白鳥山教王院の鎮守社、紀氏栗栖神社、丹生神社を合わせた神社です。 紀氏栗栖神社の祭神が宇摩志摩治命です。現在の由緒書きにも「紀成実が祖神宇摩志摩治命を祀った事で紀氏栗栖大明神とよばれた。」と出ています。 なぜ栗栖(クルス)が物部の祖と結びつくのでしょうか。物部と言えば十種神宝です。十種紋、十字です。これ以上書けば馬鹿にされそうです。
 


 名草の神々−44−

 大阪の八尾に式内社の栗栖神社(現在の八尾神社)が鎮座し、物部氏の祖神の宇摩志摩治命を祀っています。物部氏の一族栗栖連がその祖神を祀ったと社伝にあります。 大和川沿いには物部氏以外にも紀氏の勢力も植え付けられており、逆に紀の川沿いにも物部の一党がいたようです。 高野口町には式内社では伊都郡筆頭に記載されている小田神社が鎮座、饒速日命を祖先に持つ物部大連公、後に小田の連公がこの地へ移住して祖先を祀ったとの由緒です。 下流の紀氏、中流の丹生神を奉じる人々、また、上流の大和の氏族への牽制でしょうか。

 栗栖と云う地名は熊野川沿いに多くあります。 栗の木が多いのでしょうか。栗の木の林を栗栖と言いますが、栗栖は他に、葛、九龍、国栖、国津などと同義との見方があります。

 紀南文化財研究会発行、真砂光男氏著『熊野地名考』に「栗栖の名義をめぐって」の章があり、それによると
1、必ずしも栗林からとは限らないとし、
 イ、国巣、国栖、クズによる(九頭もそうだろう)
 ロ、石を指すクリ、グリと州スによる 川の屈曲点など栗など植生地名は生(フ)が基本で栗生、栗田、栗原を使う栖、巣は動物のすみかに使われる。

2、紀伊半島では、大小字名で熊野川流域44、紀ノ川15、日置川4など特定地域に集中している。姓は和歌山市93、新宮43、田辺40、白浜30、上富田・本宮18、吉備15と原郷からの人の移動を指摘して いる。 中辺路、大塔、熊野川、那智勝浦、北山などがクルス地名を伝承する町村としている。
引用終わり。

 クズの地名のルーツというか、クズとは何かということが問題です。

 奈良県宇陀郡大宇陀町嬉河原に屑神社という神社が鎮座していますが、この社の神を祭っていた民人は漢字の意味を知っていたのなら、まさかこの字は使わないでしょう。 これはクズの民を支配した権力側の命名としか思われません。権力側はこれらの民をクズと呼んだのでしょうが、クズには一体どう言う意味があったのか、この神社名から推測できるのは未開の民族のような印象を権力に与えていたのでしょう。 クズは他に、単に人、と言う説もあるようです。アイヌと言う言葉も人という意味があるそうです。
 クズからはまた、楠、葛が思いつきますが、これらは有用な植物で、屑とは大違いです。
 葛や楠を巧みに利用するからクズの民なのか、クスの民の生活基盤が葛や楠だったからか、人か、人間の屑のような民と見なされていたのか、まだまだ解明されていません。迷宮入りの謎かも。

 紀の国はクズ(国津神社、九頭神社など)が大和、伊賀などと並んで多い地域です。那賀郡には九頭神社の名が現在まで残っています。 それ以外にも、式内社の志摩神社、刺田比古神社や朝椋神社も九頭明神でした。紀の国の人々の祖先はクズの民だったと言えるのでしょう。そうです。誇りを持ってクズの民だったのです。 今でも楠の木は紀の国のシンボルですし、名前に楠の字をつけることは縁起の良いこととされていました。皆さんの祖先のお名前に「楠」「熊」などがついていませんか。

 クズ神社の上に権力の進駐軍が自分たちの神をかぶせて、征服された人々に一緒に祀らせたのではないでしょうか。進駐軍も本来の地元の守護神を粗略にはできなかったと言うことでしょう。
 神武軍に殺された名草戸畔をして紀氏は自分の祖先に組み込んでいるとする系図があることは前に紹介いたしました。

 話を物部に戻します。
 紀氏の祖神に物部氏の祖神が現れています。十一代垂仁天皇の時代の物部の頭領の大新河命が紀の国の荒川戸辺の娘「中大女」を妻としています。従って紀成実は物部の血を受け継いでいるとの認識があったのかも知れません。
 高橋神社についての続風土記の説明に「高橋ノ連ハ饒速日尊七世ノ孫大新河ノ命之後也」とあります。

 物部氏は古代の有数の豪族で、モノノフ、武器作り、戦争、祭祀を司ったとされます。聖徳太子・蘇我対物部戦争で、河内を本拠にしていた物部氏は滅亡します。 この時には紀氏は蘇我氏側についています。それでも和歌山では物部氏の祖神を祀った神社は幾つか現在まで続いています。これは前回に少し名前を出しました。
 名草郡 和歌山市栗栖の丹生神社、和歌山市岩橋の高橋神社、海南の藤白神社、和歌山市和田の竈山神社
 伊都郡 高野口町 小田神社、信太神社
 東牟婁郡 新宮市の神倉神社(ごとびき磐)、本宮町の熊野本宮大社境内別社
 また熊野古道中辺路の王子社の発心門王子社
 などで、神武東征の熊野での貢献(高倉下)、また最後の難関の大和平野制圧に功あり(饒速日命、宇摩志摩治命)と言うことがその理由の大半でしょう。

 話を神武東征軍に戻します。
 日本書紀では神武天皇は橿原に帝宅(みやこ)を造ります。古語拾遺によりますと、この時に紀の国の忌部氏の祖の手置帆負命、彦狹知命の二命の孫が、紀の国で材木の調達を行い、建設に大いに貢献したと記されています。

 二代の天皇は綏靖天皇と言い、神武天皇と三輪の大物主の女子の比売多多良伊須気余理比売との間の三男であった神沼川耳の命です。 兄の神八井耳の命は和歌山市園部の氏神で、江戸時代まで園部神社があり、ここへ伊達神社を合祀し、名前も伊達神社となりました。

 
 


名草の神々−45−

 子孫は凄いし、長寿も凄い、日本古代史の巨魁 武内宿禰の登場です。 

 神武天皇即位とその後の八代の天皇の実在については疑問視されています。妃、子供、宮、御陵が記載されていますが、治世について具体的に記されていないことが主な理由です。 またこの王朝を葛城王朝と名付けて、物部氏の邪馬台国を倒した狗奴国とする鳥越憲三郎氏の説もでていますが、殆ど評価されていないようです。
 各天皇の御子達が各地の氏族の祖となっている様子が細かく記載されています。出自を皇室につなげたい氏族を満足させる役割は果たせたのでしょう。

 第八代の天皇(大倭根子日子国玖琉[オホヤマトネコヒコクニクル]の命)の漢風諡号は孝元天皇と言い、この天皇と物部の伊迦賀色許売[イカガシコメ]との間に比古布都押の信[ヒコフツオシノマコト]の命がいます。 この比古布都押の信の命が木の国の造の祖、宇豆比古[ウヅヒコ]の妹、山下影日売[ヤマシタカゲヒメ]を娶って建内の宿禰[タケシウチノスクネ]が生まれます。

 日本書紀の孝元天皇の項では、孝元天皇と伊香色謎命の子が彦太忍信命[ヒコフツオシノマコトノミコト]で、武内宿禰の祖父と出ています。 また日本書紀の景行天皇の項では、「景行天皇が屋主忍男武雄心命[ヤヌシオシオタケヲゴコロノミコト]を紀の国に派遣します。阿備の柏原で神祇を祭り、住むこと九年、紀直が遠祖の莵道彦[ウヂヒコ]の女子の影媛[カゲヒメ]を娶って、武内宿禰が生まれた。」としています。
 『紀伊国名所図会』によれば、海草郡美里町長谷宮の長谷丹生神社の鎮座地を楮皮杜(ちょひのもり)と言うのは、孝元天皇の時、武雄心命が来て当地の楮の皮で紙を漉く事を教えたと言う伝説によるとあります。 一応の足跡伝承は残っているということでしょうか。

 すこしややこしいので、系譜にしてみます。
古事記  孝元天皇ーー比古布都押の信の命ーー建内の宿禰
日本書記 孝元天皇ーー比古布都押の信の命ーー屋主忍男武雄心命ーー建内の宿禰
母親は、木の国の宇豆比古[ウヅヒコ]の妹、山下影日売[ヤマシタカゲヒメ]であることは共通です。

 神奈備としては、それぞれが祀られている神社を調べて建内の宿禰の生誕の地に迫ってみたいと思います。

【祖父、もしくは父とされる比古布都押の信の命】を祭る神社
福岡県の玉垂神社、佐賀県の伊萬里神社、鹿児島県の新田神社摂社武内社、京都府の梅田神社の四座です。九州が多く、和歌山では見あたりません。

【父とされる屋主忍男武雄心命】を祭る神社
福岡県の葛原神社、佐賀県の千栗八幡宮、武雄神社、長崎県の井石神社 以上九州
奈良県の高屋安倍神社、滋賀県の馬見岡綿向神社、五社神社、甲良神社 以上近畿
新潟県の江野神社
 やはり九州が目立ちます。和歌山では見あたりません。

問題は【母親の山下影媛】だと思います。
福岡県宗像郡玄海町 葛原神社
福岡県小郡市 竃門神社
福岡県八女郡水田町大字月田字宮脇 玉垂神社
佐賀県武雄市朝日町大字中野 黒尾神社
 すべて九州の北部です。残念ながら和歌山には見いだせません。

 武内宿祢誕生の地の有力な候補地は、和歌山と佐賀です。
和歌山市安原にも誕生の産湯の水を汲んだ井戸と言われる武内宿彌誕生井と武内神社があります。
佐賀県の武雄温泉で有名な武雄市に武雄神社が鎮座、やはり武内宿彌誕生の地との伝承が残っています。

 両親は圧倒的に九州が優位です。親が九州で赤ん坊だけが和歌山と言うことにはならないでしょう。 残念ながら、武内宿祢は九州出身としか言いようがありません。正確には武内宿祢や神功皇后、応神天皇の伝承は九州を中心に語られていたと言えるのではないでしょうか。

 地域別に武内宿祢を祀る神社数を調べて見ました。八幡神社が各地に勧請されており、そこに武内宿祢が祭神として入っていることが多いと思われるので、資料としての価値は乏しいとは思いますが、掲載して見ましょう。
福岡 138、島根 82、大分 69、広島 57、兵庫 39、岡山38、鳥取 36、佐賀 32、(和歌山 14) と並びます。瀬戸内海と日本海コースで、近畿にやってきたようです。五十猛命も九州と出雲から来ているようで、紀氏が紀の国へやって来た道か、紀氏が海運で展開した方面を示しているように思われます。

 建内の宿祢の子供を祖とする氏族名が上げられています。
波多の臣、許勢の臣、蘇我の臣、平群の臣、木の臣(中央の紀朝臣)、葛城の長江の曾都毘古、若子の宿祢です。 これらは大和で活躍していた豪族名ですが、九州に同じような地名があります。

『邪馬台国の東遷』(奥野正男著)を引用します。北九州の地図のつもりです。



  博多湾     /
   −−−−−−/
        曾我
    平群    羽田
 背振山地
=======  I      甘木
        ==I基肄
武雄  巨勢   I葛木
    −−−−−+−−−筑後川        
  有明海


 応神天皇、神功皇后、武内宿祢の東征軍の中に、紀氏等もその一翼を担っていたのでしょう。

 武内宿祢から出ていない物部、海部、大伴などの氏族は応神以前の大和の先住豪族と言えるのでしょう。 これらが、唐古鍵遺跡や巻向遺跡、巨大古墳を営んだ氏族かも知れません。
 


名草の神々−46−

 記紀には二人目の御肇国天皇、(初国所知らしし)御真木天皇として崇神天皇が出てきます。勿論一人目は初代の神武天皇です。 母親は物部の伊迦賀色許売ということになっています。
 この崇神天皇の時代、大和の三輪山の神々が祟る物語があります。この物語は、崇神天皇は元々大和の王ではないことを言っていると思われます。

 さて、邪馬台国の跡地だったのではと言われる巻向遺跡からは日本各地で作られた土器が出土しているようです。 「名草の神々−15−」でもふれましたが、紀の国の土器は極微量だそうで、今のところ、崇神王朝と紀の国とはの関連はあまりなかったと言えます。 もっとも「出土していない」からの発想は、遺跡の発掘が進みますとひっくり返る可能性がありますので要注意です。

 記紀に見る崇神王朝と紀の国の関わりを紹介します。
 『古事記』には木の国の造、名は荒河刀弁が女、遠津年魚目目微比売(とほつあゆめまくはしひめ)を娶り、豊木入日子の命、豊スキ(金扁に且)入日売命を生むと、この縁組みのことが真っ先に記されています。
 那賀郡桃山町神田の美しい神社の三船神社はこの豊鍬入日売命が創祀したと伝わっています。
 崇神王朝は、真っ先に紀の国を征服したのか、紀の国の豪族との連合政権だったと言いたいのかも知れません。

 この崇神・垂仁王朝を五十王国論とする説があります。崇神天皇を御間城入彦五十瓊殖天皇、次の垂仁天皇を活目入彦五十狭茅天皇と「五十」が名前の中に入っているからです。 こうなると伊太祁曽神社の祭神の五十猛命も登場してほしい所ですが、「い」を「五十」「伊」「印」と自在に漢字表記すること、「い」には強調語の色彩が強うこと、長い名前の極一部の「い」だけを取り上げて云々することになりますので、 興味津々ですが、とりあえず、将来の課題としておきます。

 記紀では各地に将軍を派遣して切り従える話があります。 北陸道、東の国々、丹波へと出しています。『日本書紀』では吉備にも出しています。また山城国(『日本書記』では河内国も)からの反乱軍のことが出ています。 時代は揺れ動いていたのです。紀の国については反乱や改めて征服するような話は出ていません。

 崇神天皇が各地に将軍を差し向けたのではなく、各地の有力豪族の連合政権を倭国の対外的国家として大和の巻向に作り上げたとの見方もできます。 丁度明治政府が薩長土肥の連合政権であったようなイメージが浮かびます。

 さて、古代統一王権の本拠地は何故、大和か、巻向かと言うことですが、この地は水が豊かで、水害も少なく、奥座敷的であり、かつ東国への通路でもあり、連合政権の首長としてふさわしい人物−巫女の能力の優れた人−がいたからではないかと思われます。 共立された卑弥呼のイメージですね。『日本書記』の箸墓に葬られたという倭迹迹日百襲姫(やまとととびものそひめ)の物語として残っているのかも知れません。

 各地に派遣された将軍は、大彦、建沼河別、日子坐、吉備津彦命を四道将軍と言いますが、このうち、西道に遣わされた吉備津彦命だけが紀の国の神社の祭神となっています。
海草郡野上町西野 丹生神社
那賀郡桃山町垣内 丹生神社
神社名から想像するに、吉備津彦命は合祀されたものですが、西に向かう途中にチョット寄っていっただけでは神様にはならないとは思います。
 これを解く鍵になるのかどうかですが、紀の国と出雲とはよく似た地名や神々がいることはご承知のことと思います。 例えば、延喜式内社で見てみますと
出雲意宇 熊野大社    紀伊牟婁 熊野本宮大社
出雲大原 加多神社    紀伊名草 加太神社
出雲意宇 韓国伊太て神社 紀伊名草 伊達神社
出雲意宇 速玉神社    紀伊牟婁 熊野早玉神社
出雲飯石 須佐神社    紀伊在田 須佐神社
格式で見ますと、熊野社は同格、他は紀の国の方が格式は高くなっています。中央政界での紀朝臣の存在でしょう。

 出雲と紀伊とは海ではつながってはいますが、地理的に直接関係があるようには見えません。 出雲と紀の国を繋いだのは吉備国や播磨国ではないかと黛弘道氏が指摘しています。興味深い見方です。 そのはっきりした証拠として、有田郡に吉備と言う地名のあることを指摘しておられます。 先に記述した丹生神社二社とは有田郡吉備とは場所が違うのが気にかかりますが・・。

 余談に余談を重ねますが、出雲国、吉備国(含む:播磨国加古川以西)、紀伊国の地名比較を例示します。(日本の古代8 中央公論社)
郷名   紀伊国     吉備・播磨
英多郷  紀伊国在田郡  美作国英多郡 
大野郷  紀伊国名草郡  美作国英多郡苫田郡深津郡、播磨国飾磨郡 
苑部郷  紀伊国名草郡  備中国下道郡曽能郷   
大宅郷  紀伊国名草郡  備後国深津郡 
桑原郷  紀伊国伊都郡  備後国世羅郡、播磨国揖保郡 
大田郷  紀伊国名草郡  備後国世羅郡、播磨国大田郡佐用郡 
朝来郷  紀伊国名草郡  播磨国飾磨郡
那賀郷  紀伊国那賀郡  播磨国那賀郡 

黛弘道氏も述べておられますが、大野や大田などは普通名詞的であり偶然性を否定できません。

 所が、「神奈備史観」で神社を見てみますと、出雲、吉備、紀伊の共通性がくっきりと出てきます。

素盞嗚尊を祀る「スサ」の名を持つ式内社は、紀伊、吉備、出雲の三国しかありません。
紀伊国有田郡 須佐神社 有田市千田
備後国深津郡 須佐能袁能神社 広島県芦品郡新市町
出雲国飯石郡 須佐神社 島根県簸川郡佐田町

五十猛命を祀る「イタ」の名を持つ式内社 
紀伊国名草郡 伊太祁曽神社、伊達神社 (和歌山市)
播磨国飾磨郡 射楯兵主神社、播磨国揖保郡 中臣印達神社
出雲国仁多郡 伊賀多氣神社、多くの同社坐韓國伊太て神社

丹生都姫を祀る式内社
紀伊国伊都郡 丹生都比売神社 伊都郡かつらぎ町
備後国奴可郡 迩比都賣神社 広島県比婆郡西城町
出に隣接の石見国安濃郡 迩弊姫神社 島根県大田市三瓶町

 吉備の国(備前、備中、備後、美作)には熊野の痕跡はなさそうで、熊野は出雲と直結していたのかも知れません。海路でつながっていたのかも。
 


名草の神々−47−

 実質的に初代とされる崇神天皇の巻向の連合政権への参画は吉備国が出雲や紀の国をも代表していたのかも知れません。 この場合、紀の国は瀬戸内の覇者だったかも知れない吉備国の統治下にあったと言えるのでしょう。

 桃山町垣内の丹生神社に近い祠に祀られていたであろう吉備津彦命は崇神天皇に木の国の造の荒河刀弁の娘の遠津年魚目目微比売との縁組みを推進して、大いに感謝されたのかも知れません。 仲人の神様と言えますね。ここは全くの空想です。

この荒河刀弁を紀氏の祖の鬼刀彌(天道根命の二代目)のこととする説があります。 刀弁とか刀彌はかの名草戸畔の戸畔と同じように、家長的女性での敬称のようです。
 この荒河刀弁のいた場所ですが、候補地として次の二つがあげられています。
那賀郡桃山町の平野部、ここに鎮座する三船神社は遠津年魚目目微比売の子の豊鋤入姫の創建と伝わります。
和歌山市黒田(JR和歌山駅東北)太田黒田遺跡地。後の紀氏の本拠地です。

紀氏の血を承けた豊城入彦命ですが、夢占いを行って「御諸山(三輪山)に登って東に向かって槍をつきだした」夢だったので、皇統は弟の活目尊(垂仁天皇)に行き、豊城入彦命は東国を治める役割になりました。 豊城入彦命に与えられたのは東国の毛野国で、利根川の東側の地域を指します。なお西側は武蔵国と言います。
『常陸国風土記』の筑波の郡の条に「筑波の県は、久しい以前には紀の国といっていた。」と記載されています。 筑波の県とは茨城県の筑波山の西麓にあたり、『風土記』はこの筑波の県の西側に「毛の河」が流れていると記しています。 現在の鬼怒川のことで、紀の国が毛野国となり、鬼怒川が「毛の河」すなわち「紀の河」で、紀の国を流れる紀ノ川と同じ名前であり、紀の国の国名、河川名が東の国へ移っています。 紀の国からの多くの人々の移住が想定されます。

 何故、紀の国の人々が東国へ移住したのでしょうか?
 一つの物語であり、崇神天皇の頃(4世紀前半と思われます)とは限らないのでしょうが、かってのアメリカ移住のような、 一つは食い詰めたこと、また紀の国の民人の先取の気風、中には大和王権への従属(稲作、納税など)を嫌った信条の人々が移住したのかも知れません。

 東国、特に利根川以東は長く大和王権からは独立した存在でした。
 『記紀』には、例えば、長く王権に従わなかった南九州の隼人の祖として、山幸彦・海幸彦の兄弟の内の長兄の海幸彦を当てています。山幸彦は日子穂穂出見命ですから神武天皇の祖父  同じように、兄の豊城入彦命はまつらわぬ東国の祖と位置づけ、弟の伊玖米入日子伊沙知命を次垂仁天皇としています。 支配下においていった地域に名誉を与えていくとの方法で、いかにも日本的なやり方がこの時代から芽生えていたと言えます。

 毛野の国とは、群馬県を中心として、栃木県、埼玉県の一部を言います。『日本書記』によりますと、豊城入彦命の孫の彦狭島王が東国へ赴く途中で死亡、その子の御諸別王がやっと東国に入っています。 この辺りの話も大和王権とのつながりをつける話かと思われます。
 紀の国とのつながりでは、国名だけではなく「豊城:トヨキ」、地域の崇敬神が「赤城:アカギ」とキ印ですので、相当な人数の移動があったもうひとつの裏付けですね。

 また、次の皇位は垂仁天皇の正当な後嗣ぎの印色入日子(五十瓊敷命)にはいかず、入日子系から外れて大足彦(景行天皇)が継きました。 これらのことは、やはり荒川戸辺の娘「中大女」を妻とした物部の大新河命と十千根兄弟の大連の政権の下でのことでした。 荒川刀弁としては、血を分けた豊城入彦命の皇位継承がならず、あまつさえ崇神天皇の正当な流れさえここで切られてしまったようです。

 わかりにくいので系譜を描きます。

木の国の造・荒河刀弁━遠津年魚目目微比売
              ┣━━━━━ 豊城入日子、豊鋤入姫
        御真木入日子印恵(崇神天皇)
              ┣━━━━━ 伊玖米入日子伊沙知━┳ 印色入日子
   孝元天皇━大彦━御真津比売   (垂仁天皇)      ┗ 大帯日子淤斯呂和気
                                       (景行天皇)

 
 崇神王朝と紀の国、一筋縄では解きほぐせない状況に記されています。
 確かに4世紀頃の大和には大きい古墳や大遺跡が残っています。それと『記紀』の崇神王朝を結びつけることができるのかどうか、 また木の国(日本書紀では紀伊国)と書かれていますが、和歌山のことかどうか、『記紀』が書かれた頃には和歌山の話として書いたのかも知れませんが、 そのエピソードの素材は別の地域のものを持ってきたのかもしれません。

 崇神天皇を祀る神社数では九州17社、近畿3社(三重県のみ)です。 これだけから単純に崇神天皇は九州の大王の話、木の国も肥前なり豊の国なりと決めてしまうことにはならないでしょうが、九州に縁を感じないわけにはいきません。

 傍証として、景行天皇の足跡が参考になります。国を切り従える話は日本武尊と景行天皇の事跡が『記紀』で入り組んでいますが、 景行天皇を祀る神社は九州が48社、近畿には4社しかありません。神社の祭神もわからなくなって、土地の伝承とか記紀の記述から適当に推測した場合とか、勧請されて増えていくことも多いでしょうから、一概には景行天皇は九州の大王だったとは断定しにくいでしょうが、 大和を本拠としているとの固定観念は相当な確率で破れるかも知れません。
 


  名草の神々−48−

 垂仁天皇の皇子の五十瓊敷入彦命(印色入日子)について、少し考えてみたいと思います。『記紀』から年表風に事績を取り上げてみます。
垂仁一五年 日葉酢媛命を皇后とす 
垂仁  年 后、五十瓊敷入彦命と大足彦命を生む
垂仁二五年 天照大神を豊鋤入姫から離し、倭姫命に託す。適地を求めて伊勢に祀る 
垂仁二六年 物部十千根大連に出雲の神宝を検校し掌らせる
垂仁二七年 兵器をもって神祇を祭らせる
垂仁三十年 問われて五十瓊敷入彦命「弓矢を得たい」、大足彦命「皇位を得たい」と答え、大足彦命皇継と決まる
垂仁三二年 日葉酢媛命みまかる 殉死をやめ埴輪を墓にたてる
垂仁三五年 五十瓊敷入彦命、河内国で高石池、茅ヌ池を作る
垂仁三五年 五十瓊敷入彦命、茅ヌの莵砥の川上宮で剣千口を作る これを忍坂邑経由で石上神宮に蔵む
垂仁三五年 五十瓊敷入彦命、石上神宮の神宝をつかさどる
垂仁八七年 五十瓊敷入彦命、妹大中姫に石上神宮の祭祀を託す
垂仁  年 大中姫、石上神宮の祭祀を物部十千根大連に託す
垂仁八八年 天日槍の将来した神宝を献じさせる 刀、自然に淡路島へ至る
垂仁九十年 天日槍の後裔の田道間守に常世国の時非の香菓(橘)を求めさせる。
垂仁九九年 垂仁天皇崩御。明くる年、田道間守復命。

 崇神・垂仁の皇統は前にも書きましたが、名前に「五十とイリ」が入っている王朝です。これは五十瓊敷入彦命こそ正当な後継であったことを示唆しています。 そこに大足彦命(景行天皇)が簒奪王朝としてやってきたと思われます。 「垂仁三十年」の記事は、「五十瓊敷入彦命は武器をとって戦う姿勢をとり、河内国(この頃の今の大阪府域の呼称)で国力を富まし、武器を製造しています。」と読むことが出来ます。 剣千口を先ず忍坂(オシサカ)邑に集結させています。この忍「オシ」とは、朝鮮語では O-sipで、「五十」の事だそうです。孝安紀に押媛を五十坂媛と記していますので、「押」は「五十」と同じと思われます。 五十瓊敷入彦命の拠点だったのでしょう。この地は三輪山の南側で、大和平野に出ずに、宇陀・吉野から紀の川に出ることが出来ます。
 河内にも拠点を持ちます。五十瓊敷入彦命が築いた高石池、茅ヌ池とは『岩波日本書紀』の注では、『和泉志』では阪和線の富木駅のある高石市の乙池と泉佐野市下互屋南付近のことと紹介しています。 高石市には高師の浜と言う所があり、南海電車の支線があります。
 高師の浜から連想できる「高師小僧」とは鉄分の多い土壌の場合に起こる現象で、地下水にとけていた鉄分が,地中の植物の根や茎のまわりに水酸化鉄として沈殿したものを言います。 形が幼児や動物に似ていることから小僧と呼ばれました。最も初期の鉄素材で、700度〜800度で鍛造できたそうです。五十瓊敷入彦命は鉄の確保を目的に高石市を開拓したのでしょう。
 もう一つの泉佐野市下互屋南は関空の東側です。和泉佐野とはいささか離れていますが南海電車の多奈川駅の南側に泉南郡岬町に鍛冶屋谷には水酸化鉄の集合して固まった褐鉄鉱塊が採取できるそうです。 鈴のように中空で中にも塊があり別名を鳴石と呼ぶように鳴るそうです。自然の鈴です。名草山の西側の阿備の七原でもこれらがとれたことは「名草の神々ー35ー」に記載しました。 また『紀伊續風土記』の物産の項に「ツチダンゴ」と名づけて、那賀郡名手荘市場村、日高郡南部荘山田村、牟婁郡田邊荘鉛山村等に産す、と記載しています。
 おそらく五十瓊敷入彦命は泉州の鳴石を原料として武器を製造し、王位の簒奪者達と一戦を交えたのでしょう。
 この時に、紀の国にも豪族がいたものと思いますが、この勢力はどちらの味方をしたのか、と言うことですが、泉南と言う立地を選び、また次の景行天皇の行いから見て、紀の国は五十瓊敷入彦命の側にたったと考えられます。 (この件は後に。)
 剣千口を石上神宮に献じたと言う事は、この戦いで千人の兵士が犠牲になり、敗れ去ったと言うことを示しているのかも知れません。一連隊五十人の二十連隊で千人です。 一連隊五十人を五十猛と言いたい訳ではありません。ましてや「五十」と「イリ=入=丹生」として、五十猛命と丹生都姫命を奉ずる紀の国の人々の集団の象徴として五十瓊敷入彦命を担ぎ上げようとしている訳ではありません。

 五十瓊敷入彦命と大足彦命側との戦いの記述は『記紀』には一言も記載されていませんが、この年表から読みとることは、戦いの末に五十瓊敷入彦命側は敗北し、石上神宮の祭祀を司る立場になりました。 石上神宮と言えば、物部氏の牙城ともされています。恐らくは物部十千根大連は大足彦命側について、「五十:イリ」王朝を終焉させ、「足」タラシ」王朝を立ち上げたのでしょう。
 「垂仁二七年」に兵器をもって神祇を祭らせる、と言う記事があります。今までの祭祀とは質が変わったと言うことで、呪術的な神懸かりの祭りの祭儀であった銅鐸などから、銅検鉄剣などに変わったのでしょう。 物部氏の主管に戦争、兵器作り、祭祀がありますが、この行為は物部十千根大連の時代に確立されたとの伝承が伝えられていたのでしょう。

 五十瓊敷入彦命を祭神とする神社をあげておきます。
男乃宇刀神社「彦五瀬命、神日本磐余彦尊、五十瓊敷入彦命」大阪府和泉市仏並町
船守神社「紀船守、紀小弓宿禰、五十瓊敷入彦命」大阪府泉南郡岬町淡輪
鳥取神社「五十瓊敷入彦命、角凝命 ほか」大阪府阪南市石田
石上神宮「布留御魂神、五十瓊敷入彦命ほか」奈良県天理市布留町
和歌山には見えません。


 


名草の神々−49−


前号で記載しました垂仁天皇の時代の年表を見ると、先に書いてきた五十瓊敷入彦命の剣千口の石上神宮への奉献、皇后を巻き込んだ反乱、倭姫の伊勢神宮創祀、 天日槍の神宝を献じさせる話など、時代は大きく揺れ動く様が見えてくるように記されています。

 『紀伊続風土記』に次のような記載があります。
 『永享文書』に、「【日前國懸影向の刻去進彼千町ヲ於兩宮ニ御遷坐山東ニ】とあることは日前國懸兩神の鎮坐以前は(伊太祁曽)三神共に今の日前國懸兩宮の地に遷坐し給へる事疑ひなく日前國懸大神造濱営より今の地に遷幸し給へるは垂仁天皇十六年なれは此時三神共に今の山東ノ荘へ遷坐し給へる事必せり」 と出ています。
 浜の宮から日前國懸神が遷座してきたので、伊太祁曽神は社地を譲って山東の亥の森に遷座したと記しているのです。垂仁天皇十六年としています。
 この浜の宮からの遷座の話は平安末期以降の『倭姫命世記』を出典としているものと思われます。垂仁天皇の頃を4世紀と想定しても紀氏が名草に来ていたのかいないのか、さらに日前国懸神を奉じていたのかどうか、多いに疑問の残る話です。 垂仁天皇の一六年に、伊太祁曽神社の社譲りがなされたと記載されているのは、垂仁天皇二十五年に、倭姫が天照大神を奉じて斎祀る所を求めて、近江や美濃などを遍歴の後に伊勢国に鎮座する物語があり、これと関連しての話と考えて間違いないでしょう。
 日前国懸神宮に伝わる古記録『日前国懸両大神宮本紀大略』によると、崇神天皇五十一年に豊鋤入姫命が天照大神の御霊を奉じて名草濱宮に遷幸し、3年間留まったとあります。
 この遍歴の物語から、真弓常忠氏の『古代の鉄と神々』では巡行地はいずれも古代産鉄の地だの見解を出されているのは注目されます。 余談ですが、『倭姫命世記』には紀の国では、木乃国奈久佐浜宮に三年間留まってからの次ぎの巡行地は吉備国名方浜宮となっており、岡山市の伊勢神社が比定地となっています。 これについては『紀伊続風土記』には「吉備毛見紀三井元皆一音にして此ノ濱の総名ならん 毛見浦の東南一里餘に名方浦あり 吉備は此ノ邊の総名にして名方濱ノ宮といふもの即チ是なるへし」と出ており、海南市の伊勢部柿本神社の元地を主張していますが、吉備国と「国」がついていることにはふれられていません。お国自慢すぎやしませんか?、と言いたくなります。
 天照大神の巡行については、垂仁天皇か後継の景行天皇の時代の大和周辺を征服した物語の反映とか、壬申の乱での大海人皇子(天武天皇)の足跡が入っているとかの諸説があります。

 伊勢の天照大神の足跡はともかく、伊太祁曽神社の遷座伝承を垂仁天皇の時代に置いてあるのは、紀の国の大神を奉する豪族が五十瓊敷入彦命に味方をして破れたとの話に象徴されるように、際立って大和王権とは独立した存在であったことの記憶の反映とも読めます。

 さて、本当に、日前国懸神宮の鎮座地からの伊太祁曽神社の遷座があったのかどうかですが、この可能性について考えてみたいと思います。 「名草の神々 13」で触れましたように、有田の千田の須佐神社の遷座伝承が和銅六(713)年のこととして伝えられています。この須佐神社の遷座と同じ時に、伊太祁曽神社は現在地の東の亥の森から現在地の字西谷に遷座されたとの伝承です。
 もう一つの伊太祁曽神社に関する話が、記録として信頼性の高い『続日本紀』に記載されています。これは、大宝二(702)年に伊太祁曽三神(五十猛命、大屋姫命、都麻都姫命)の分遷命令が出ているとの記事です。分遷後の形で各神を祀る神社が鎮座していますので、この記事は事実と見ることができます。

 私は、日前国懸神宮の地から伊太祁曽神社の遷座が行われたとしても、三神分遷時とそれほどの時間差がなかったのではないかなと思っています。 これは、伊太祁曽神の勢いが強すぎて、紀氏が祀る日前国懸神の影があいかわらず薄かったことへの紀氏の紀の国の統治上の問題、天皇家への配慮、などが要因で、遷座に続いての伊太祁曽神の神威をそぐための追加措置だったと見ているからです。 「分割して統治せよ。」です。
 この問題を論ずるのは、7世紀頃の話ですから、この垂仁天皇の時代に取り上げるのはおかしいのですが、この時代だとする伝承があること、「名草の神々」のシリーズが7世紀頃の話まで続くかどうかもありますので、ここで取り上げて起きたいと思います。


名草の神々−50−

 先ず日前国懸神宮鎮座地と伊太祁曽神社鎮座地の比較をしてみたいと思います。 
1.名草郡の聖なる山である神奈備山はどこであったでしょうか。名草山であったと考えていいでしょう。
 そうすると日前国懸神宮鎮座地は名草山を仰ぎ祀るのにふさわしい地であるか、と言うことが問題になります。 名草山のほぼ北に位置しており、名草平野の中央に神々しく見えます。しかし、ここの立地からは東側の花山や大日山などの山々が近くに見え、かつ神体山としてふさわしい形に感じられます。
 これらの二山については、『紀国造氏古文書』にある御船山と言う二つの小丘で、それぞれ出船の形をしており、日前国懸神が西国から遷座して来た時の船が変じたものと記しています。 武内宿禰が神功皇后を案内して来た二隻の船を斎祀ったとの話も残ります。
 要するに日前国懸神宮は名草山と無関係だと言えます。現在でも、本殿は北向きで名草山をあがめる拝礼にはなっていません。前述したように本殿内の御神体は東を向いているそうで、海に向かってお参りするのが本来であり、 神体山を持たない神社になっていると言えます。
 一方、伊太祁曽神社鎮座地と名草山は無関係に見えますが、山東からは意外と近くに名草山がよく見えます。実際、直線距離も日前国懸神宮より若干遠い程度です。 しかし現在の伊太祁曽神社には木々が多く、名草山が見えるのかどうかは確認は出来ません。字を西谷と言い、東西に小山があり、おそらくは見えてもほんの頂上かも知れません。 伊太祁曽神社は東向き、従って名草山方面に拝礼する形になっています。伊太祁曽神社の奥重貴様に木登りでもやって確認して頂きたいものです。落っこちないで下さいね。

2.初期の熊野古道は紀の川を渡り、和佐王子から山東の平緒王子、奈久智王子へと伊太祁曽神社の鎮座する山東の道を通っていました。名草山の西側は海辺だったようで、聖武天皇の和歌の浦御幸の万葉歌からも、その頃の和歌の浦は島々が点在しているようです。名草山の東側は葦のはえる湿地帯が多く、更に東側の山の手が通り道であり、熊野詣ではそれなら山東を通って行こうと言うことになったのでしょう。
 伊太祁曽神社に参拝していくことが繰り返されて、ついには山東王子と呼ばれたようで、この道は熊野詣での目的に合致していたのでしょう。なお、後世の熊野古道は日前国懸神宮の方を廻っています。
 山東は決して山間僻地とか隠里などではなく、古代のメインストリートが通っていた地域と言えます。紀の国の大神が鎮座するには誠にふさわしい場所と言えます。 従って、伊太祁曽神社は元々から山東にあってもなんら不思議ではなく、むしろ山東にあるべきだったのかも知れません。 とは言え、日前国懸神宮の鎮座している場所の近くには黒田太田遺跡があり、早くから開けた地域であり、周辺が湿地帯であったと言うことでもなさそうです。

3.紀氏の水運・海軍力は紀氏の権力の源泉でもあり、大和王権との関係でも重要で、当時の国の大きい柱であったことは間違いなさそうです。
 仲哀天皇が船出をしたとされるトコロ津(新在家)も紀の川河口にありました。旅立つ人々は武運長久を祈ったのは紀の国の大神だったはずです。 この紀の国の大神は名草平野を見渡し、かつ西に広がる紀伊水道を見ていたのです。やはり日前国懸神宮の鎮座する名草平野が紀の国の大神の坐す所としてはふさわしいように感じます。

4.日前國懸神宮を中心とする半径5kmの円周上に伊太祁曽三神を祀る神社が置かれています。(伊太祁曽神社奥宮司指摘)
 南東 伊太祁曽神社、都麻都姫神社
 東  高積神社
 北東 大屋都姫神社
 (北  伊達神社)、(北西 衣美須神社)
 それぞれ、途中で遷座もしているようですが、大きい距離を移動しているようではありません。やはり故地を遠巻きにしている立地は遷座の傍証かも知れません。

 どうやら決定的な決め手なないようです。火のない所に煙は立たないと言います。そうすると、古文書に従うのが、素直な態度と言うことでしょう。
 


名草の神々−51−

 さて、伊太祁曽神社は日前国懸神宮の地から山東へ遷座したとしました。
 では、何故に伊太祈曽の地に遷ってこられたのか? 伊太祈曽の地の特徴はなんでしょうか。前回の「名草の神々50」で日前国懸神宮鎮座地との比較を行いましたが、 遷座先としての積極的な理由にはなっていません。 更に強いてこの地の特徴をあげて見ます。
(1)木に関する聖地であった。この神社周辺の小山の切り口(切通しの壁)をご覧下さい。あたかも巨木がそのまま土になった様に見えます。
(2)山東は紀中、紀南への道筋としては便利であっても、紀の川河口周辺が発達して来てからは、後背地となっていったことには違いありません。
(3)吉礼の貝塚は有名ですが、これが物語っているように山東の平地は太古は海原だったようです。 太古には丸木船が往き来していたのでしょう。 山東は山々に囲まれて木材採取には便利であり、木材加工、製材、植林が大いに行われていた地域であったのでしょう。五十猛命を奉ずる人々にとっては、次善の地域であったかも知れません。
 この程度なら他にも候補地が沢山あるかもしれません。やはり決め手がほしい所です。

 さて、南紀では素盞嗚尊が木の神とされています。熊野本宮の説明はそうです。ここに一つの決め手があるように思います。もうひとつは伊太祁曽三神の分遷が行われていることです。 これについては『日本書紀』につづく『続日本紀』に記載されています。『続日本紀』は事実を淡々と記しているようで、信頼性は高い史書です。
 ここで、伊太祁曽神社の遷座と分遷に関する記事を年表的に整理してみます。
★垂仁天皇一六年 日前国懸両大神留坐浜宮遷于同郡名草浜之萬代宮而鎮座也今宮地是也『日前国懸神宮本紀大略』
 解読:浜の宮に鎮座していた日前国懸神宮が名草浜之萬代宮に遷座した。現在地である。
★年代は記さず  日前国懸影向之刻去進彼千町於両宮御遷座山東『寛文記』
 日前国懸両神が顕れた際、両宮に譲り、(伊太祁曽神社は)山東に遷座した。
★702年(大寶二年:文武天皇)二月二二日 伊太祁曽・大家都比売・都麻都比売をそれぞれの地に分け遷した。『続日本紀』
★713年(和銅六年)風土記編纂の詔賀で手、「畿内七道の諸国は,郡,郷の名は好字を著けよ」『続日本紀』
★713年(和銅六年:元明天皇)五十猛命、大峰釈迦嶽等から山東の地に降臨したと伝わる。 『寛永記』
★713年(和銅六年)十月初亥日此地に勧請すといふ 社記曰此神舊在大和國芳野郡西川峯後移于此始祠向西海洋中往來之船不恭謹則飜覆破碎 元明天皇勅令南面今之社規是也『社家の傳』
 解読:大和国吉野郡西川峯から遷座した。後に、かつ西向きに建っていたので、不謹慎な船は進めなかったので、海が見えないように南向きに変えさされた。名草郡山東荘伊太祈曾明神神宮郷より亥森へ遷坐し給へる年月も是と同しきは故のある事なるへし當社領古は伊太祈曾神戸に接して名草郡にあり其地又當社を勧請せり『寛永記』

 さてこの年表から何が言えるのでしょうか。
 先ず、有田千田と須佐神社の勧請時期と連動していることが目に付きます。無関係ではないと思えます。
 もう一つは、その「須佐神社の神戸(領田)が名草郡にあり」と言う不思議な『社家の傳』の文言です。上記の須佐神社の由緒記を見る限り、名草郡とは関係が見いだせません。 何故、名草郡に須佐神社の神戸があるのか、ポイントはここにありそうです。
 伊太祁曽神社の鎮座地は伊太祈曽です。江戸時代には伊太祈曽村です。伊太祈曽村に接して西側に口須佐村、西南に奥須佐村がありました。現在も字(アザ)名で残っています。 須佐地域には須佐神社の神戸があり、それ故に口須佐に須佐神社があったと記されています。現在も小祠が鎮座しています。
 入り口の意である「口」、突き当たりである「奥」のついた地名の須佐があるにもかかわらず、真ん中の「須佐」が見あたりません。「須佐」はどこだったのでしょうか? 地名の伊太祈曽は伊太祁曽神社の遷座後の名前、その前は須佐であったと考えるのが自然ではないでしょうか。ではこの地は何故、須佐であったのか、言うまでもなく須佐神社が鎮座していたからに他なりません。

 須佐神社を有田千田に遷座させ、跡地に伊太祁曽神社が鎮座したと考えられます。「名草の神々 14」で、須佐神社は名草郡に鎮座していたと記しましたが、ここでようやくその場所が判明したのです。
 ついでに述べておきますが、須佐神社の『社家の傳』に「大和国吉野郡西川峯から遷座」とあります。修験の影響を感じますが、現在の吉野郡には西川峯と言う山は見あたりません。 西川と言う川はあるそうです。また吉野郡には素盞嗚尊を祀る神社は二十三座見いだせます。西吉野村津越と言う所に須佐男神社が鎮座していますが、由緒はわかっていませんが、この社は式内社ではなく、式内大社の須佐神社の元社とは思いにくいのです。
 『社家の傳』には山東からの遷座とは記されていません。遷座は愉快なことではなかったのでしょう。従って、「山東」を二重に逆さまにした「西川」と表現して、逆の逆は真として山東からと言うこと、またその心境を後世に伝えたとすれば、今ここに蘇ったのです。

 もうひとつ、伊太祁曽神社の日前国懸神宮地からの遷座の時期ですが、和銅六年に好字令が出ています。 好字令は後の延長五年(927)年の延喜式でも「凡そ諸国の郷里の名は二字とし,必ず嘉名を取れ」とありますように、基本的には二字であったと見ていいでしょう。 この和銅六年以前に伊太祁曽神社が遷座してきて、地名が伊太祈曽に変わっていたとすれば、二字になっていたでしょう。伊達、日抱、木曽とか。
 地名が伊太祈曽のまま今日まで続いたと言うことは、好字令を適用する際には伊太祈曽ではなかったと言うことです。須佐だったと見ていいのでしょう。 好字令以降に地名が伊太祈曽に変わったと言うことです。従って、日前国懸神宮からの伊太祁曽神社の遷座の時期は、それほど太古のことではなく、6〜7世紀以降ではとの推定の一つの根拠として考えています。
 


名草の神々−52−

 「名草の神々 23」で、何故、伊太祁曽神社は遷座をしなければならなかったのか、を書きましたが、ここで再度述べてみます。
 壬申の乱以降、天皇の権威が一層確立・強化されて来たようです。と言うよりは藤原不比等に権力が集中してきます。 おりしも持統天皇五年、十八の氏にその墓記を差し出させています。 勿論紀伊も出しています。紀氏はあわてて天孫降臨や神武東征に天道根命を登場させてこれを祖神とする伝承を作り上げたのかもしれません。天孫降臨の神話などの構想を聞き出していたのかも知れません。

 こうなると、紀氏の本拠地の秋月に國懸神として伊太祁曽神が鎮座しているのは誠に具合がよろしくない。ましてや牟婁の湯への通り道に当たる。 国津神の雄を奉じていては出世にひびく、中央の紀氏(朝臣)もうるさい。 天皇家の祖神と主張できる日前神國懸神を齋祭る形を取ろう、この際、恭順の意をはっきりとわかりやすく示す為にも思い切って國懸神から伊太祁曽神を分離してすこし東の山の向こう遷座してもらえとなったのでしょう。

 ここで、紀国と中央との関係をみたいと思います。6世紀前半の継体天皇の頃までは中央の権力も不安定で、紀氏王国への圧力を強めるというよりは、紀氏の力を利用して中央権力を維持してきたものと思われます。中央の権力が確立してくると、紀氏のような地方の豪族に対して当然のことながら力をそごうとして圧力をかけ出します。

★欽明天皇十六(555)年以降、各地に屯倉(天皇家直轄倉庫)を設置、当然護衛の兵が駐屯してきた。紀の国では経湍屯倉(布施屋)、河辺屯倉(川辺)、海部屯倉(四箇郷)が設けられた。特に経湍屯倉、河辺屯倉は紀ノ川を両側からはさむ立地であり、軍事的意味合いが感じられます。
★6世紀末〜7世紀初め 紀氏の分裂 紀の国の国造をつとめたのは紀直、中央で活躍するのが紀朝臣と二つに分かれていった。これが紀氏全体の力をそいだとは思われないのですが、紀の国在住の紀氏である紀直だけとらえたら弱体化は否めないでしょう。
★587年 蘇我・物部戦争、この時紀男麻呂宿禰(朝臣)は蘇我側につく。以降蘇我氏の権力絶大となる。紀氏は蘇我氏の下におかれた。 
★中央政権が八幡神社を各地に勧請させる。名草の八幡神社の多くはこの頃に創建されたと思われる。 
★645年 中大兄皇子、蘇我入鹿を倒す。以降、大化の改新とよばれる。中央集権が進む。
★658年 有馬皇子の変 有馬皇子は孝徳天皇(軽皇子)の皇子、孝徳天皇は中大兄皇子に見捨ておかれて難波宮で憤死。
★663年 白江村の敗戦 友好国であった百済国支援の軍を出したが、唐・新羅連合軍に壊滅的敗北。
★672年 壬申の乱 大海人皇子(天武天皇)が近江朝を倒した。紀氏は概ね大海人皇子側についた。軍事力による中央政権の誕生。
★686年 天武天皇病む。飛鳥四社、住吉大神、国懸神に奉幣。
★690年 持統天皇牟婁の湯へ行幸
★692年 伊勢、大倭、住吉、紀伊大神に奉幣。
★701年 文武天皇牟婁の湯へ行幸
★702年 伊太祁曽・大家都比売・都麻都比売をそれぞれの地に分け遷した。
★708年 文武天皇牟婁の湯へ行幸
★724年 聖武天皇、和歌の浦へ行幸

 この年表の中で、先ず注目しなければならないのが、紀氏の分裂です。 中央に言った紀氏(朝臣)の祖神は、紀朝臣家の氏神とされる京都伏見の藤森神社(現在の伏見稲荷大社の場所に鎮座していました)の祭神が素盞嗚尊です。 最初に紀の国に入ってきた紀氏の流れを引き継いでいるのでしょう。 残った紀直は同じ紀氏とは言え、出自が違う可能性があります。古代氏族は紀氏の配下に入ればその姓を名乗ることが認められたようで、物部氏などにはこのような場合が多いようです。 残った紀直は祖神を素盞嗚尊や五十猛命とはしない出自であったのかも知れません。
 紀朝臣家の主力が紀の国から中央へ遷った段階で、国懸神を創始し、伊太祁曽神との並祀が成立したとも考えることができます。 国懸神社の御神体は日矛鏡だそうで、これは新羅の王子の天日矛命を示しているようです。素盞嗚尊も新羅降臨神話があるように、親近感があったのでしょう。
 


名草の神々−53−

有馬皇子の変と紀の国との関係は、単に牟婁の湯(白浜温泉)に呼ばれて、帰り道の藤白神社付近で絞殺されたと云うだけではないのです。
 有馬皇子は軽皇子と云われた孝徳天皇の皇子で、孝徳天皇は難波宮から大和への遷都に反対して、間人皇后や中大兄皇子に見捨ておかれて難波宮で憤死しています。 有馬皇子は深く中大兄皇子に怨みを抱いたと思われます。また朝鮮半島の情勢も混乱しており、それを契機として大化の改新が行われ、日本の権力内部にも大きい抗争の根があった頃です。 有力な皇位継承者である有馬皇子は狂気を装って生き抜いていたのです。「牟婁の湯に行きて病を療めよう」としています。 『日本書紀』には「牟婁の地を見ただけで、病が治ってしまった。」と記してあります。更に謀反を図るに際して「先ず宮室を焼いて、五百人で一日二夜、牟婁の津(田辺市の港)に迎え撃ち、 急ぎ舟軍で淡路の国をさえぎり、牢屋を囲んだようにすれば、計画は成りやすい。」と云ったとあります。
 牟婁の湯へ閉じこめた斉明天皇や中大兄皇子への淡路からの援軍をさえぎる舟軍とは、後に熊野水軍と呼ばれる牟婁の水軍のはずです。 三重県熊野市に有馬と云う地があります。花窟神社の鎮座する所で、熊野の海賊の拠点と見る史家もいます。 有馬皇子は牟婁へ来ると心が安まります。味方になる水軍もいるのです。 また五百人の軍兵は田辺湾にどこからやって来るのでしょうか。紀北からでは紀氏が通さないでしょう。紀南、恐らくは中辺路を通ってやって来る計画だったのでしょう。 熊野国造の勢力であったと考えることが出来ます。神武東征の途次に高倉下が現れますが、海人族の尾張氏の祖です。後の壬申の乱では大海人皇子側についている勢力です。
 恐らくこの有馬皇子の変以来、紀氏に対して、熊野の制圧具合よろしからず、と中央からの睨みはきつくなったことでしょう。紀直は負い目を背負ったことになります。

 686年、天武天皇崩御の年ですが、皇室が国懸神へ奉幣しています。同時に飛鳥四社、住吉神に奉幣しています。明らかに国懸神は存在しており、国家的奉幣を受ける神社になっています。 単なる一氏族の氏神ではなくなっています。と言って、住吉大神や飛鳥四社も皇祖神ではないように、国懸神も皇祖神である必要はありません。 そうするとやはり、伊太祁曽神か天日矛命を祀っていたのではないかと想定されます。
 日前神はどうしたのでしょう。『日本書紀』の神代紀の天照大神の岩戸隠れの所の一書(第一)には、「大神のかたちを映すものを造り」として日矛を造っています。これを紀伊国においでになる日前神としています。 有名な神だったのです。日前神が鎮座しておられて、国懸神に奉幣する、ということがあり得るでしょうか。
1.この時代には未だ日前神は祀られていなかった。国懸神のみ鎮座していた。
2.国懸神と云う言葉で、日前国懸両神を表している。岩波文庫版『日本書紀』の注はこの説を採っています。
 どちらにしても、この時期には紀の国の大神は日前国懸神であって、伊太祁曽神はその地位を失っているようです。 ただし、この奉幣から16年後に伊太祁曽三神の分遷の命令が出ている所から見ますと、紀の国の人々の間では伊太祁曽神が圧倒的に支持されていたのでしょう。 日前国懸神は紀朝臣らの活躍で中央では紀の国の大神として認められていたのでしょう。
 686年以前に、伊太祁曽三神は山東へ遷っていると考えて間違いはなさそうです。
 
 


名草の神々−54−

  伊太祁曽神の遷座の時期を探ろうとしているのですが、なかなか固まってきません。今回は別の観点からこの問題を見てみたいと思います。

 遷座していった地が何故、山東の地であるのか。
 結論をいいますと、素盞嗚尊が祀られている須佐神社が鎮座していた地であり、日前国懸神宮鎮座地に坐した伊太祁曽神社の奥宮のような扱いであった名草郡の聖地であったからだと思われます。 紀の国の大神として斎祀られてきた伊太祁曽三神を遷座させる、また紀氏としても、紀の国の大神であった大屋毘古神と紀氏の祖神であった五十猛命を見事に習合させた伊太祁曽神であり、迂闊な扱いは到底出来ない神であったわけです。

 元々紀の国には大屋毘古神と大屋都比売神が祀られていました。そこへ紀氏が五十猛命と抓津比売命を祖神として持ち込んで来て、大屋毘古神と五十猛命を習合させたものと考えています。紀の国の大神にみごとに紀氏の祖神を刷り込んだのです。 紀氏も祖神ですから実際には大切な神だったのです。この習合は外部者であった紀氏が紀の国の人心を収攬する方便だったと思われます。紀氏は神武東征で賊として殺された名草戸畔すら祖神に組み込んでいます。これらの系図は紀氏の秘密系図だそうです。 なお、大屋都比売神と抓津比売命の両女神は習合させていません。これは紀氏の出が男系社会だったと言うことを指しています。朝鮮半島経由の北方系でだったのでしょう。貴人ほど多くの妃を持っていた名残と考えることができます。

 伊太祁曽神の遷座は上記のような理由でした。

 三神分遷時、須佐神社が何故、有田千田に遷座しなければならなかったのか? が解かれなければなりません。

 『日本書紀』などでは素盞嗚尊は天照大神の弟とされていますが、恐らくは縄文的生活者の奉じる神であって、彼らは素直には稲作などには従事せず、大和王権や当時の紀氏からは敬遠したい神であったのでしょう。 素盞嗚尊の犯した罪として、渠埋め、畔の破壊などがあげられています。平地の樹木を伐採して稲田になっていくことは、縄文人にとっては生活の場を奪われることだったのでしょう。

 素盞嗚尊は出雲の国で八咫蛇を退治した話が有名です。この話は『古事記』、『日本書紀』に出てきます。古代神話の山場の一つです。 『出雲国風土記』は8世紀前半にできあがったもので、地名の説話や神社などが記載されている、古代の出雲を知る上で貴重な文献です。これには素盞嗚尊の八咫蛇退治説話は一切記載されていません。 これは、八咫蛇伝承は出雲にはなかった話です。ヤマタノオロチですが、九州では蛇のことを「ヤアタ・ロ」と言う地域があります。(大分県玖珠郡) だからと言ってこの話が九州の話とは限りません。「玖珠」はクスと読みます。クズ、吉野の国樔、国津、葛、櫛、奇などの漢字が当てはまります。ここにも縄文人のイメージが重なります。 素盞嗚尊に八咫蛇を退治させた記紀は、国津神の祖神をして、国津神の奉ずる蛇を退治させた、即ち裏切ったことにして、貶めたのでしょう。 あまつさえ、助けて結婚した姫の名を奇稲田姫として、クズの民と稲作を結びつけています。 この辺りは大和王権の素盞嗚尊を奉ずる人々に対する恐怖感すら感じます。同時に如何に彼らを取り込むか、天照大神の弟と言う男神としては最高の処遇も与えています。 後に熊野詣でが盛んになりますが、これを伊勢神宮が妨害していますが、記紀編纂の頃から伊勢神宮と熊野本宮とを融和させる必要など無かったと思います。

 現在、出雲の熊野大社や紀州熊野の熊野本宮の祭神は素盞嗚尊のこととしています。熊野の神を素盞嗚尊とする根強い思いがあった証でしょう。 熊野の入り口・田辺市の須佐神社には、素盞嗚尊の漂着伝承が伝わっています。ここでは木種を持ってきたのは素盞嗚尊となっています。 素盞嗚尊信仰は南紀からも北上して来たし、出雲から備後を経由して入ってきて、名草から南下していったのもあったのでしょう。 恐らくは有田の千田には素盞嗚尊を斎祀る神社が既に鎮座していたのはないか、従って受け入れる余地があったと見るべきでしょう。 山東にあまたいた素盞嗚尊を奉じる人々が有田方面に移住していったのかも知れません。 その中には荒んだ心のものがいて、沖を航行する船に対して海賊行為をおこなった。神社は海が見えない方角に再度遷されています。
 須佐神社の近くに「出雲」と言う名前の字があったそうです。潮岬の先端近くにも出雲があります。

 紀氏としては、本当の祖神である五十猛命を習合させた紀の国の大神である伊太祁曽神社は自らの本拠地の近くに鎮座して頂いていなければならなかったのでしょう。
 
 


名草の神々−55−

 伊太祁曽三神の遷座の話が続きました。「名草の神々」の見せ場です。次ぎに三神分遷の話です。これは明らかに大寶二(702)年、文武天皇の頃の話です。 伊太祁曽神社の遷座と分遷の話は一体で考えるべきことだとの認識ですから、垂仁天皇の所ですが、ここで書きたいと思います。

 何故、分遷を命じられたか、と言うことです。分遷とはどのような意味があるのか、現代の神道の考え方では、合祀されている神(御霊)を分祀しても、元の場所にも御霊が残る、 丁度蝋燭の火をもう一本の蝋燭に移しても、元の火は消えないことと同じ様なものとの説明が、靖国神社の報道の中で行われていました。この理屈から言えば分遷は成り立たないはずです。 恐らく、出された分遷命令は、神社に仕える人々、また氏子の人々の強制移住をともなっているはずです。 なぜならば、分遷の命令は伊太祁曽神社の力を弱める為に行われたとしか考えられないからです。
 前回までに述べてきたように、先ず、山東へ遷座さされています。鎮座地は現在の伊太祁曽神社の東500m位の亥の森と言われる円形の鎮守の森です。 戦後周辺は相当農地になったそうですが、丸い鎮守の杜、今なお縄文の心を感じます。丸は平等の印です。亥の森社は三生(ミブ)神社と呼ばれます。 何故ミブなのでしょう。かって根来寺を興した覺鑁上人が奥宮とした丹生神社には三部明神との名で伊太祁曽三神が祭られています。 もう一つはミブとは壬生ではないか、即ち丹生ではなかったか、と考えています。丹生神は古い水神・金属(銅・水銀)です。亥の森には元々水神が祭られていた上に伊太祁曽三神が覆い被さったのではないか、と 思われます。

 ここに三神が祀られていました。そうしてそれぞれ分遷していったのです。
大屋毘古神・五十猛命は伊太祁曽神社。
大屋都姫神は紀の川北岸の北野村古宮の地に遷りました。後に、現在地の今の宇田森神ノ木の地に遷ったと伝わります。
抓津比売命は矢田峠を越えた和佐に遷座したものと思われます。妻御前社は高積神社に吸収されていますが、高積神社の主祭神は都麻津姫命となっています。 なお、抓津比売命の遷座の候補地として、伊太祁曽神社の北方500mに都麻津姫神社が鎮座ししおり、ここであるとされる方がいますが、この近さでは、神人、氏子の強制移住とはなりません。 意味をなさないのです。山を越え、川を越えさせてこそ、分遷の意味が出てきます。

 遷座と分遷のタイミングの問題について考えて見たいと思います。
 一体誰が「分遷」を画策したのでしょうか。
 最も考えられるのは、紀の国の国造であった紀氏(紀直)です。伊太祁曽神を山東の地に遷座させても、その勢いは衰えることなく、逆に日前国懸の神々への崇敬は広がらなかったのでしょう。 神権政治・祭政一致の政治の時代、紀氏としては統治上、日前国懸の神々の権威が紀の国で確固たる存在になって暮れなければ具合が悪かったのです。 しかしながら、前からあった伊太祁曽神への崇敬の方がより大きかったのでしょう。 牟婁の湯に天皇も来ます。それ以外にも皇子達や貴族・万葉歌人が訪れることが多い紀の国名草でした。紀氏としては面子を失いかねない状態だったのでしょう。 ついに、伊太祁曽三神を分割して、神人社人をも分割することにしたのです。
 伊太祁曽神は紀氏の祖神でもありました。祖神に対してその力を弱める決断は紀氏としては本来は辛かったものと思いますが、おそらく遷座させた紀氏から幾世代かたっており、 「去るものは日々に疎し。」で、子孫達はあまり気にしなかったのでしょう。二世代五〇年は経ていたのかも知れません。
 亥の森(三生神社)から、それぞれ分遷しました。その跡にも祠が鎮座しています。何故か南向きです。 所が伊太祁曽神社の本殿は東向きです。不思議な話です。
 亥の森にはやはり南向きの祠があり、その上に伊太祁曽三神がかぶさって祀られたのです。 山東の人々も紀の国の大神を喜んで迎えたことでしょう。 三神の勢いがあまりにも強く、以前から祀られていた水神は三神の中に取り込まれてしまって、その名は消えてしまったのですが、山東平野の乏しい水源である和田川の水を保証してくれる水神様を忘れることはなく、 残された祠を通じて和田川の女神を祈り続けたのでしょう。だから南向きの祠が残されたのです。神の名は丹生神、神社の名にミブとして残ったのです。
 分遷命令の五〇年前以上、即ち大化の改新や有馬皇子の変の頃に遷座があったのではなかろうか、と思っています。 
 
 


名草の神々−56−

 伊太祁曽神社の遷座、三神分遷の話はこれぐらいにしておきまして、垂仁天皇の時代以降と紀の国について続けたいと思います。

 垂仁天皇九十年の出来事として、田道間守に常世国の時非の香菓(橘)を求めさせる物語が記載されています。持ち帰った時には垂仁天皇は亡くなっており、間に合わなかったので、墓の前で田道間守も死んでしまったとされています。
 海草郡下津町橘本に田道間守を祭神とする橘本神社が鎮座しています。ミカンの原木が植えられており、秋には小さいミカンの実がなります。熊野王子社の一つの所坂王子でもあります。

 田道間守は、新羅の国の王子と名乗る天日矛命の後裔です。天日矛(槍)の命については、『名草の神々?22?』でも少し紹介しました。 それは国懸神宮の御神体が日矛鏡と言われるものであるのことで、まさに天日矛命を祭神としていると宣言しているととれるからです。

 邪馬台国への道筋に「東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る。」との文言があり、現在の福岡県糸島郡に比定されています。 ここは大陸・半島への玄関口とも言える場所で、古代史上重要な話が残っています。
 後の時代ですが、『日本書紀』によりますと、仲哀天皇がおもむいた際に、築紫の伊都縣主の先祖、五十迹手(いとて)が出迎え、天皇はほめて「伊蘇志(いそし)」と言われて、これが伊都となまったと出ています。 『筑前国風土記』によりますと、この五十迹手は「高麗の国の意呂山(おろやま尉山(うるさん))に天から降ってきた日桙の末裔」と名乗っています。この伊蘇志臣と言う氏族は大和国にいて紀氏の祖神である天道根命の後也とされます。紀氏と同族です。 摂津国武庫郡(宝塚市伊孑志)の式内大社伊和志津神社の鎮座地は、伊蘇志臣の居住地であったようです。 また、伊蘇志臣は後に滋野朝臣と改めており、大和国葛上郡(御所市)の駒形大重神社の祭神に滋野貞主命の名前が見え、この辺りにも一族がいたのでしょう。
 「いそし」からは「有功:いさおし」と言う言葉を連想します。『名草の神々26』でも触れましたが、『日本書紀』の一書(第四)で「大八州国の内に、播殖して青山に成さないところはありませんでした。 このゆえに、五十猛命を称けて、有功の神という。則ち紀伊の国に所坐す大神是なり。」とあることを思い出します。 五十猛、五十迹手、発音も似ていますね。

 紀氏のルーツとして素盞嗚尊ー五十猛命の後裔ではとの話をだしていますが、ここに天日矛命の後裔である可能性も出てきています。 半島に縁のある神々(漢神か韓神と言われる)の系譜がどのように伝わっていたのか、特に『記紀』には五十猛命の後裔については出てきていないので、地方の神社伝承から推測をしてみます。

 但馬養父(兵庫県養父郡関宮町三宅)に鎮座する式内社の大與比神社の祭神について、社伝では「大屋彦命」と伝へ「天日槍命」と伝へているそうです。 また創立所伝は「推古天皇十五年冬十月三宅首が其祖神大屋彦命を祀りしものと云ふ」とあります。一般には三宅連は天日矛命の末裔として知られている氏族であり、実に興味をそそられる社伝です。
 出雲飯石(島根県簸川郡佐田町大字大呂)に鎮座する大呂神社(おおろ)の祭神に五十猛命の名が見えますが天日槍命の名は見えません。しかし大呂からは『筑前国風土記』の「高麗の国の意呂山」を思ってしまうのです。

 この二例で言うのも何ですが、素盞嗚尊、五十猛命、天日矛命などの韓神は明確に区別して認識されていなかったのかな、と思えてきます。
 天日矛命は九州から瀬戸内海、摂津、近江、但馬と足跡を残しています。但馬の出石に留まったことになっています。 紅葉で有名な出石神社に祀られています。また大和国の穴師兵主神社の祭神の兵主神の日本的表現を天日矛命とする見解もあります。 これまた「名草の神々ー22ー」で紹介したように、「天孫は天降った時に、斎鏡三面と子鈴一合を奉じた。 鏡の一つは天照大神の御霊代でこれを天懸大神、他の鏡の一つは天照大神の前御霊で、これを国懸大神と言う。 今紀伊国名草宮にいます神である。 残る一つの鏡と子鈴は天皇の御餞の神となり、大神に奉仕した。これが巻向の穴師の社の大神である。」 との伝承を紹介しましたが、日前国懸神宮と穴師兵主神社とで、天孫降臨の際の神鏡などをこの二社で分けています。ただならぬ関係と言うべきでしょう。

 天日矛命は出石神社、生石神社などの名前の神社に多く祀られています。秋のハイキングにはうってつけの有田郡の生石山付近にも生石神社があるのですが、天日矛命の伝承は承知していません。

 垂仁天皇の次の天皇は景行天皇です。有名な日本武尊のお父さんということになっています。 『日本書紀』では景行天皇三年の記事に紀の国に関わる興味深い記事が見えます。 「紀伊の国に行幸されて、諸々の神祇をお祭りしようとなされたが、占ってみると吉と出なかった。そこで、自らの行幸を中止されて、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を遣わして祭らせた。 屋主忍男武雄心命は阿備の柏原にいて、神祇を祀った。そこに九年住まれた。紀直の先祖莵道彦(うじひこ)の女影比売(かげひめ)を娶って、武内宿禰(たけのうちのすくね)を生ませた。 (『全現代語訳日本書紀』宇治谷孟 講談社)屋主忍男武雄心命は推測ですが、孝元天皇の子の比古布都押の信の命の子ではないかと思われます。

 さて、景行天皇が紀伊国に行幸されるとこと吉ではなかったのかが問題です。
 景行天皇は剣千口を奉献した五十瓊敷入彦命とともに垂仁天皇の子とされていますが、この王朝の特徴であった名前の中に「五十」「入」が入っているのではなく、 大足彦(おほたらしひこ)と言います。別系統の王のようです。「名草の神々ー47ー」で述べましたように、崇神天皇は木の国の造の荒河刀弁の娘の遠津年魚目目微比売を娶っています。 木の国も参加した連合政権的な王朝であったのでしょう。その王朝の流れを切り、新たに大王となった景行天皇としては、自ら紀の国に足を踏み入れることは吉ではなかったと言うことです。 このように思わせて、景行天皇に近い存在の屋主忍男武雄心命を紀の国に派遣する形を作っています。これは武内宿禰の誕生の地を和歌山としておきたいとする『日本書紀』の編纂に当たった紀清人らの構想であったのでしょう。 「名草の神々45」で、武内宿禰の誕生の地は九州であるのではとの仮説を提出いたしました。母親の山下影媛を祀る神社が九州にはあっても、和歌山には見えないことを示しました。

 さて、景行天皇が各地を征服していく話が『日本書紀』に出てきます。地名を見ていきますと、周芳(防府)から始まって、九州の東海岸を豊前市、宇佐市、大分市、別府市と南下し、宮崎県延岡市から西に転じ、熊本県八代市から有明海の東側を北上して、八女市で終了しています。
 とにもかくにも景行天皇が九州の中部、南部を従える話がきめ細かく記載されているのは、景行天皇にまつわる伝承は北部九州の王であったことを物語っているように思われます。
 景行天皇の時代、皇子の日本武尊の東国征伐などの物語がありますが、これは幾多の統一物語をここに集約したものでしょう。

 神奈備流で景行天皇を祀る神社数を記しておきます。
 九州 48社 ( 鹿児島 0、熊本 19 )
 近畿  4社 ( 和歌山 0,滋賀  2 )
 その他の地域では愛知県が4社が目立つ程度です。これから考えても、景行天皇は九州の王であったと言えます。 

****** 第一部 完 ******

名草の神々と歴史 巻一から巻二〇

名草の神々と歴史 巻二一から巻四〇

神奈備の紀の国・和歌山をもっと知りましょう。

神奈備にようこそ