和歌山古事記網 須佐之男

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神代記 須佐之男命


01 黄泉国から帰って来た伊邪那伎大神は、阿波岐原に到りまして、左の御目を洗ひたまふ時、成りし神の名は、天照大御神。次に右の御目洗ひたまふ時、成りし神の名は、月読命。次に御鼻を洗ひたまふ時、成りし神の名は、建速須佐之男命。

 次に建速須佐之男命に詔りたまはく、「汝命は、海原を知らせ」と事依さしき。


02 大屋毘古神の詔命の随に、大穴牟遅神は須佐之男命の御所に参到れば、その女須勢理毘売)出で見て、目合して相婚ひまして、還り入りて、その父に白して言はく、「いと麗しき神来ましつ」とまをしき。ここにその大神出で見て告りたまはく、「こは葦原色許男命(アシハラシコヲノミコト)と謂ふぞ」とのりたまひて、すなはち喚び入れて、その蛇の室に寝しめたまひき。


03 須佐之男命、黄泉比良坂に追ひ至りて、遥に望け呼ばひて大穴牟遅神に謂りて曰はく、「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟は坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて居れ。この奴」とのりたまひき。

[6877] 須佐之男命   神奈備 投稿日: 2013年 5月 8日(水)20時09分6秒
 根の堅州国のイメージはよみがえりの紀州の熊野にあいそうです。ここに須佐之男命のついの住処があったのです。これが今、熊野本宮大社の祭神として祭られることになったのです。

 旧紀伊国だった三重県熊野市には、黄泉の国へ行ったことになっているイザナミの墓所とされる花窟神社が鎮座しています。(『紀』一書第五)

 須佐之男命は出雲神話(記紀・出雲国風土記)のスターですが、祭神としている式内社では、紀伊が名神大社のなっており、出雲は小社です。このことは単に延喜の時代(901〜)の神社の格付けの問題ではなく、それに至るまでのそれぞれの神社と祭る氏族の積み上げた歴史があったのでしょう。

紀州と出雲の同じような名前の神社を比較してみます。

    紀州        出雲

名草郡 加太神社      大原郡 加多神社

    伊達神社(名神大)  意宇郡 同社韓國伊太氏神社  3社
              出雲郡 同社坐韓國伊太氏神社 3社

在田郡 須佐神社       飯石郡 須佐神社
    (名神大。月次新甞)
              出雲郡 同社須佐袁神社  3社

牟婁郡 熊野早玉神社(大) 意宇郡 速玉神社
    熊野坐神社(名神大) 熊野坐神社(名神大)

なお、備後國深津郡 須佐能袁能神社

 総じて紀州の神社が出雲より格が高いようです。

 式内社の格式で、松前健一先生が須佐之男命の本拠を紀州とされておられるのは、紀州人としてはありがたいことですが、須佐之男と言う神は普通名詞、すなわち複数存在していたことも考えなければと思っています。



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