熊野古道、大阪府の王子社
阿倍野王子神社

阿倍野王子神社




 四天王寺の南2kmの地点、大阪市阿倍野区阿倍野元町9-4にこの神社が鎮座している。阪堺電気軌道上町線の東天下茶屋駅の東南200m。 
ゼンリン
 すぐ北には、平安中期の陰陽家安倍清明を祀る安倍清明神社が鎮座している。安倍清明に由緒のある聖神社、葛ノ葉稲荷神社は
篠田王子で紹介する。



阿倍野王子神社の由緒は以下の通り。


 祭神 伊邪那岐命、伊弉那美命、速素戔嗚命


 夏大祭   7月22日 2日間
 秋季大祭 10月14日 2日間


 「高津の南玉勝間のうしとら、あへの中州にあやしき雲あり、老松蓋をかたむけて波縁をあらふ。 其梢に三足の霊鳥ありあへて人をおそれす、首は雪より白く眼は日よりも明くて、見てうたかふ所なしと」
 ・・これは「摂州東成郡阿倍権現縁起」にしるされている一節で、むかし仁徳天皇の御夢に熊野権現の神使が現れ、その場所を捜させると、阿倍島に三足の霊鳥がいたので、そこに神社を祭つたのが阿倍王子神社の始まりと伝えています。
 もっとも、熊野信仰は、奈良時代に吉野から分け入った山林斗薮の道者達によって、開発紹介された新しい信仰であることから、仁徳天皇にかこつけるのはやや無理があるように思われます。
 それよりも奈良時代に当地に居住して、阿部寺を建立した豪族阿部氏の氏神として祭られたのが、平安時代に入って熊野信仰の盛行にともない、街道筋に位置していたことから、熊野神を勸請合祀されて、熊野王子社になったものと考えられます。


 さらに同じ「権現縁起」には、「淳和帝天長三年の夏、空海師をして民の疫難をしつめさしめ給ふ。空海師当社に入て、御本地医王の尊像を一刀一礼して彫刻し、草堂に安置して神宮寺と号し(中略)叡信浅からず寺は改めて痾免寺と勅額をたまひ、(通阿倍)ながく御願寺と定め」という記述があり、平安初期の天長三年(八二六年)、当社に神宮寺が出来たと伝えています。
 この神宮寺も往時はかなりの大寺であったようで、相生通に御坊屋敷の小字名がありまたその南には西政所の小字名も見られます。
 したがって、当時は神社もかなり大きかったと思われますが、阿部氏が他所へ移転し勢力を失うとともに、神社も小さくなり、熊野王子社へと転化したものと思われます。
 幸い当社は住吉大社と四天王寺のちょうど中間に位置して、熊野参詣で賑わう街道筋の王子社として存続し、鎌倉初期建仁元年(一二〇一年)の「後鳥羽院熊野御幸記」には、第四番目に阿倍野王子の名がみえています。
 後世になって第二王子とも呼ばれるのは、南北朝時代の戦乱で途中の王子社が焼失してしまい、安土桃山時代には第二王子社になっていたわけで、江戸時代の「蘆分船」等の書物でも、当社は熊野第二王子として見えています。
 古道は阿倍野王子神社の西側と通る。正門は西側。

 

阿倍野王子神社

摂社 祭神

天照大神、豊受大神、住吉大神、春日大神、金比羅大神
恵美須大神、天満大神、高良大神、由賀大神




 摂社の安倍清明神社は陰陽師安部晴明の誕生の地とされている。陰陽道の聖地の一つである。
 陰陽道とは陰陽五行説に基づいて森羅万象の背後に秘められて意味と働きを解読して、吉凶禍福を判じて未来を占い、人事百般の指針を得ることを目的とした思想と技術の全体を言います。古代チャイナで起こった陰陽の考え方が八卦(乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤)の易の思想へと進んだ。 また万物を五行「木、火、土、金、水)に還元する思想にも発展した。この陰陽八卦と五行が結びついて陰陽道の体系が整ってきた。
 陰と陽はもとより絶対的な物ではなく、陰は陽を含み、要は陰を含むとされ、相対的なものである。
 五行とは気の五つの様態であり方位、季節、時間等に現れる。
 木ー東ー春ー朝
 金ー西ー秋ー夕
 火ー南ー夏ー昼
 水ー北ー冬ー夜
 土ー中ー季節の始まりの18日ーすべてに含まれている。
 陰陽道は古代の日本での基準線であった東西に加え、より南北の線を重要とする思想を持ち込んだ。「太一」信仰である。星神信仰である。その中心に北極星を置き、これを太一(天照大神)の居城とする思想である。 陰陽道は後に政治権力に取り込まれ、さらに貴族社会の中で私的に利用され、その地位を確立していくとともに呪術となっていった。神社のお札のルーツは陰陽道の霊符呪術である。熊野三山の「牛王宝印」もまた霊符である。八咫烏は足が三本の大烏であり、陰陽道の太陽の精「金烏」と同じ姿である。熊野詣での背景には陰陽道の影響が大きかったものと思われる。


安倍晴明神社 この近辺が誕生の地とされる。



『平成祭礼データ』
 阿倍王子神社 御由緒

 「高津の南玉勝間のうしとら、あへの中州にあやしき雲あり、老松蓋をかたむけて波縁をあらふ。其梢に三足の霊鳥ありあへて人をおそれす、首は雪より白く眼は日よりも明くて、見てうたかふ所なしと」
 ・・これは「摂州東成郡阿倍権現縁起」にしるされている一節で、むかし仁徳天皇の御夢に熊野権現の神使が現れ、その場所を捜させると、阿倍島に三足の霊鳥がいたので、そこに神社を祭つたのが阿倍王子神社の始まりと伝えています。
 もっとも、熊野信仰は、奈良時代に吉野から分け入った山林斗薮の道者達によって、開発紹介された新しい信仰であることから、仁徳天皇にかこつけるのはやや無理があるように思われます。それよりも奈良時代に当地に居住して、阿部寺を建立した豪族阿部氏の氏神として祭られたのが、平安時代に入って熊野信仰の盛行にともない、街道筋に位置していたことから、熊野神を勸請合祀されて、熊野王子社になったものと考えられます。
 さらに同じ「権現縁起」には、 「淳和帝天長三年の夏、空海師をして民の疫難をしつめさしめ給ふ。空海師当社に入て、御本地医王の尊像を一刀一礼して彫刻し、草堂に安置して神宮寺と号し(中略)叡信浅からず寺は改めて痾免寺と勅額をたまひ、(通阿倍)ながく御願寺と定め」 という記述があり、平安初期の天長三年(八二六年)、当社に神宮寺が出来たと伝えています。
 この神宮寺も往時はかなりの大寺であったようで、相生通に御坊屋敷の小字名があり、またその南には西政所の小字名も見られます。したがって、当時は神社もかなり大きかったと思われますが、阿部氏が他所へ移転し勢力を失うとともに、神社も小さくなり、熊野王子社へと転化したものと思われます。
 幸い当社は住吉大社と四天王寺のちょうど中間に位置して、熊野参詣で賑わう街道筋の王子社として存続し、鎌倉初期建仁元年(一二〇一年)の「後鳥羽院熊野御幸記」には、第四番目に阿倍野王子の名がみえています。
 一番目が窪津王子、二番目が坂口王子、三番目がコウト王子、次に四天王寺に詣でて、四番目が当社です。王子社とは、熊野神社の末社の事で、参詣者の遥拝と休憩を兼ねた神社でもあり、数が多いので九十九王子とも呼ばれました。時代によって消長増減がありますが、合計すれば紀伊路に沿って約百社の王子社がありました。
 阿倍野王子は第四番目ですが、後世になって第二王子とも呼ばれるのは、南北朝時代の戦乱で途中の王子社が焼失してしまい、安土桃山時代には第二王子社になっていたわけで、江戸時代の「蘆分船」等の書物でも、当社は熊野第二王子として見えています。   以上



 熊野詣での一行は住吉大社に立ち寄って和歌を捧げる慣わしであったと言う。住吉大社の東方に津守王子があったと言う。墨江小学校の敷地や住吉行宮跡であったとされる。

住吉行宮跡


阿倍野王子神社、止々呂岐比売神社、住吉大社の地図


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