熊野古道、大阪府の王子社
坂口王子 大阪市中央区 神崎町 its-mo と朝日神明宮
狸坂大明神
窪津王子から登り道の御祓筋を行く。御祓筋へ入る角に熊野街道の碑が立っている。
坂口王子は中央区神崎町であるが、南大江公園の南西に狸坂大明神が鎮座、側に朝日神明宮旧跡の碑がある。坂口王子はこの公園の南西の筋向かい「狸坂」の上り口の教会のある場所とも言われる。この狸坂の道は残っていないが、坂の途中に鎮座していた狸坂大明神の祠が移転してきている。
狸と赤髭先生古林見宜の物語
(猪飼野の古書店主 足代氏の教えと資料によります。)
南大江公園の東側にあたる場所に、寛文年間(1661〜)に、古林見宜と言う医者がいた。医業のかたわら書生を教え、門下生三千人と言われていた。ある夜、かわった身なりの童子が訪ねてきた。橋の上に落ちていた魚を食べたところ、腹痛がひどくてたまらない。先生、お願いしますと頭をペコペコ下げた。見宣は診察してお前は人間ではないなと笑いながら薬を与えて帰した。
大雨の夜、毛だらけの男が現れ、おかげで治りました。ご恩はは忘れません。とフット、消えてしまった。老狸だったのである。
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また朝日神明宮旧跡の南に樹齢六百年と推定される榎があり、榎木大明神の神祠(正一位稲荷大明神また巳(みい)さんで白蛇を祀る)が置かれている。
当地を坂口王子時跡とされる有力な説がある。一里塚だとする説もある。
なお、この木は榎ではなく槐(えんじゅ)だそうだ。(熊野への道:吉田昌生:藤白神社宮司)
朝日神明社跡 赤い鳥居は狸坂大明神
摂津名所図会の朝日神明社
榎木大明神の神祠
長年に渡り地元の人達に「エノキさん」「巳さん」と親しみ呼ばれているこの大樹は、正しくは「槐(エンジュ)」という中国原産の樹である。楠木正成公がお手植という説もあり、樹齢はおよそ六百五十年と言われる。豊織の時代には当地も大坂城内で、この辺りは紀州熊野参りとお伊勢参りの街道筋だった。だから大きくそびえるこの樹は、何よりの目印になったし、また地元の人達は土地神として「白蛇大明神」の祠を建てて代々この樹をお守りしてきた。(説明板から一部を転記)
朝日神明宮
大阪市此花区春日出中1-6-21 ゼンリン
祭神 天照皇大神、倭比賣命 合 春日大神、菅原道眞
由緒
当朝日神明社は、古く大阪市中央区神崎町に在り、浪速三神明(朝日・日中・夕日)の一つとして有名であった「朝日神明宮」と、
此花区川岸町に在った「皇太神社」を合祀したものである。
朝日神明宮(一名逆櫓社)は、享保年間(一七一六〜一七四〇)、左近衛将監源政冬の書いた縁起書によれば、朱雀天皇の天慶年間(九三八〜九四七)に平貞盛の創建するところとある。
さらに起源を調べれば、平将門が下総国で乱を起こし、常陸国の大掾 平國香を攻め亡ぼした(承平・天慶の乱)。 これがため國香の長男で都に在った平貞盛が父の仇を報ぜんと時の摂政藤原忠平に乞い、朝敵追討の勅命を受け、関東に下向せんとした。
貞盛京師を発つに当り浪速の地に天照皇大神を奉斎し戦勝を祈願した。 幸いにして、将門を討ち平げ右の次第を帝に奏上したところ、帝も叡感の余り時の摂津国の国造を奉幣使とし、東方日の出づる処の朝敵を一時に静め給へる御神徳を称えられ「朝日宮」という神号を賜ったという。
奉祀以来、朝敵追討の節は何時にても奉幣使を立てられ、敵徒降伏の祈願をこめられたという。
また公卿縉神の祈願するものも多く、多田満仲などは、信仰崇敬の志厚く、氏族裔孫に至りて報国の大志を遂げ、天下に美名を輝し、忠孝両全の者を生ずべきことを祈願して、四時怠りなく祭典を執行したという。
(熊野御幸記に記せる坂口王子祠も当社ならんという)
その後年月を経て、文治元年(一一八五年)に源 義経が平家追討のため西国下向の際、当社に寄って戦勝を祈願し、祈願状を奉納しており、その時に家来の武蔵坊弁慶が当社で馬草を借り借用状を残している。
その後に、義経が梶原 景時と史上有名な「逆櫓の論」で争っているが、義経は神明宮に祈願をこめているのて、戦勝疑いなしと敢えてこの論争を行ったものという。
これが一名逆櫓社といわれる由縁である。
お祭り
7月第二土曜日 夏季例祭宵宮 お渡り神事
7月第二日曜日 夏季例祭本宮
10月 16日 秋季例大祭
朝日神明宮
『平成祭礼データ』
朝日神明社之沿革
当朝日神明社は、古く大阪市中央区神崎町に在り、浪速三神明(朝日・日中・夕日)の一つとして有名であった「朝日神明宮」と、此花区川岸町に在った「皇太神社」を合祀したものである。
朝日神明宮(一名逆櫓社)は、享保年間(一七一六〜一七四〇)、左近衛将監源 政冬の書いた縁起書によれば、朱雀天皇の天慶年間(九三八〜九四七)に平 貞盛の創建するところとある。さらに起源を調べれば、平 将門が下総国で乱を起こし、常陸国の大掾 平 國香を攻め亡ぼした(承平・天慶の乱)。これがため國香の長男で都に在った平 貞盛が父の仇を報ぜんと時の摂政 藤原 忠平に乞い、朝敵追討の勅命を受け、関東に下向せんとした。貞盛京師を発つに当り浪速の地に天照皇大神を奉斎し戦勝を祈願した。幸いにして、将門を討ち平げ右の次第を帝に奏上したところ、帝も叡感の余り時の摂津国の国造を奉幣使とし、東方日の出づる処の朝敵を一時に静め給へる御神徳を称えられ「朝日宮」という神号を賜ったという。
奉祀以来、朝敵追討の節は何時にても奉幣使を立てられ、敵徒降伏の祈願をこめられたという。また公卿縉神の祈願するものも多く、多田 満仲などは、信仰崇敬の志厚く、氏族裔孫に至りて報国の大志を遂げ、天下に美名を輝し、忠孝両全の者を生ずべきことを祈願して、四時怠りなく祭典を執行したという。(熊野御幸記に記せる坂口王子祠も当社ならんという)
その後年月を経て、文治元年(一一八五年)に源 義経が平家追討のため西国下向の際、当社に寄って戦勝を祈願し、祈願状を奉納しており、その時に家来の武蔵坊弁慶が当社で馬草を借り借用状を残している。その後に、義経が梶原 景時と史上有名な「逆櫓の論」で争っているが、義経は神明宮に祈願をこめているのて、戦勝疑いなしと敢えてこの論争を行ったものという。これが一名逆櫓社といわれる由縁である。
また、豊臣秀吉が大阪築城に当たり、多くの社寺は遷座を命ぜられたが、当社はまさに勅願の故もあってそのまま旧地に鎮座せられた。のみならず大閤秀吉の崇敬厚く、年々米百俵を寄進せられていた。元和元年(一六一五年)、大阪夏の陣に際し、真田 幸村が当社に金色の采配を奉納し出陣したと伝られる。徳川時代に下っても大阪城代は例年参社の上、神饌を供しており、当時境内は、方八町も有していたという。
一方皇太神社は、古くより川岸町にあった。この川岸町は、南新田といわれ一面芦原であったが、この新田の支配を大阪代官所より命ぜられていた佐竹甚兵衛が開拓し今日の基礎をつくった。この佐竹氏は、生来敬神の念厚く、天保六年(一八三五年)、伊勢の御分霊を乞い受け神祠を造って、新田の鎮守の社として奉斎していた。これが皇太神社である。
明治維新後、両社とも社運傾き維持困難の故をもって、合併・合祠を命ぜられ、その去就を問われていた。当時、南区にあった富豪豊田宇左衛門がこれを聞き、氏は川岸町一円の大地主であった関係上、両社を合祠して明治四十年「朝日神明社」と社号を改めた。同時に春日出町字東原の上、春日神社。西区阿波座下通三丁目、安喜良神社(天満宮)をも合祀した。合祀の春日神社は、元禄十二年(一六九九年)、雑賀屋七兵衛の勧請である。また安喜良神社は、河内国道明寺村の道明寺に安置ありし菅原道具公自作の荒木の尊像を明治維新の神仏分離に際し土師神社神勤松寿院住職より阿波座の有志が譲り受けて奉斎したものである。境内地は三百四十二坪あり、本殿の外に絵馬堂等を有し、末社に伊能知奴志神社、事平神社、稲荷神社があったという。
しかし、川岸町一帯は、世の進むにつれ工場地として発展したため、此辺一帯は煤煙に包まれ、社頭の尊厳さえも維持し難い有様となった。そこで豊田氏より境内地の寄進を受け昭和六年現在地に遷宮した。総坪数は約七百坪あり、本殿を始め幣殿、拝殿、神楽殿、絵馬殿等を有し、末社に春日神社、安喜良神社、事平神社、伊能知奴志神社、稲荷神社を奉斎していた。
しかしながら、第二次大戦中昭和二十年六月一日の大阪大空襲によって、当社境内はもちろん春日出町一帯は焼野原となったが、総代、氏子、崇敬者諸氏の尽力によって、昭和二十四年五月、本殿を復興、さらに昭和四十年七月中門、拝殿を復興し現在に至っている。 以上
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