熊野古道、大阪府の王子社
篠田王子と聖神社、信太森神社


小栗街道と鳥居




 大鳥居王子(大鳥大社)から熊野古道(小栗街道)は阪和線鳳駅北側の踏切をこえて大阪和泉泉南線(30号)に合流する。 和泉市に入った所で、30号より東側を並行する狭い道となる。和泉市のその名も王子町に聖神社の鳥居が東側にみえる。参道入り口である。
  鳥居を過ぎて2軒目と3軒目の間に実に狭い道が東に登っている。10m程行くと篠田王子跡の石碑が建っている。 先ず確実に見逃す王子跡である。小生も行き過ぎてしまい、旭町の
八坂神社の宮司さんに教えてもらった。


篠田王子への道標


篠田王子の石碑と背後の祠


篠田王子の説明板




篠田王子跡から東へ1km登ると聖神社が鎮座している。


聖神社
和泉市王子町919番地 ゼンリン



祭神   聖神

由緒   創建は天武天皇の白鳳三年(675年)秋八月十五日で、永く国家鎮護の神として、信太首が斎き祀ったものであり、信太聖神、又は信太明神とも云う。これは葛葉の大楠のもとに祭られていた時代があるらしいと徳川末期の書にあると、『熊野古道みちしるべ』西律著 に述べられている。
 往時は広大な神域を誇っていた。近くには景初三年銘のある画文帯神獣鏡出土の黄金塚古墳や池上曾根遺跡など重要な史跡がある。
 当社は泉州五社(大鳥、泉穴師、聖、積川、日根)の三の宮である。現在の本殿は慶長9年(1604年)に豊臣家によって造営されたものである。
 祭神の聖神は素盞嗚尊の子神の大年神が伊怒姫を娶って生んだ、大国御魂神、韓神、曽富理神、向日神、聖神の末子である。「日知り」の神すなわち暦の神である。半島系渡来氏族の陰陽師が信仰していた神である。
 陰陽博士として名高い安倍晴明の誕生に絡んだ伝説が伝えられている。今は、次の葛ノ葉稲荷神社(信太の森神社)の縁起の方が有名になっている。

 伝説
 昔、摂津の国住吉の里に、阿倍保名(やすな)という人があった。妻は葛葉姫(くずはのひめ)といったが身体が弱く、たびたび里に帰って養生していた。保名は日夜心を悩まし、神の助けによって一日も早く妻の全快と俊児を授けられんことを、当時最も信仰者の多かった信太明神(聖神杜)に祈願し、三十七日間おこもりをし、白玉を得、斉戒沐浴して池の堤に立っていた。すると水面に白狐がうつり、不思議に思って後ろを見ると一匹のねずみ(実は傷ついた白狐)が走ってきたので、このねずみを袖にかくまい、しばらくして山中に逃がしてやった(聖神杜境内には、この伝承に由来するねずみ坂 と鏡池ー現在は神杜の所有ではないーが残っている)。
 保名は満願の夜、疲れて社殿でいねむりをしていると、冠をかぶった白髪の老人が夢にあらわれて、「汝の日頃の信仰はほとんど寝食を忘れるほど誠意であり、願いは必ず成就する。妻の病気は全快し、俊児も近々賜るる、すこと憂うることはない」とお告げがあつた。保名は神心肝に銘じ、なおも深く祈願をこめて家に帰ったが、翌日の夕方に妻は元気な様子で帰ってきた。保名は本当に信太大明神のお告げどおりだと、たいへん喜んで妻を迎えた。それからというものは楽しく日力を過ごし、妻はまもなく懐妊し・月満ちて男児が生まれた。夫婦の喜びはひとしおで、掌中の珠として愛育した。
 百余日を経たある夜、家中が光り輝き、驚いて眺めていると、妻は白狐神となって「我こそは信太大明神と議(はか)り仮に汝の妻となり願いの如く俊児を授けたる。今は神のおぼしめし告げる時が来て帰らねばならない。大切に育てるべし」と告げるやいなやいずこかへ消え失せた。保名はありがたさにむせぶうちに夜が明け、雨戸を開いて障子を見ると、文字が書き付けてあった。これが世に知られる「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の和歌である。 その後、本当の妻も病気が治り帰つて来て、二人でその子を大切に育てた。この子が非凡の天機を発揮し、成長ののちには陰陽博士として天下にその名を知られた安倍晴明であるという。

例祭   5月10日、10月10日

聖神社本殿 重文 三間社入母屋造檜皮葺



聖神社本殿 重文 三間社入母屋造檜皮葺



聖神社摂社三神社  慶長9年(1604)豊臣秀頼再建
三間社春日造は全国的にも珍しい遺構 重文


写真御提供 福永肇氏


聖神社摂社滝神社  三神社と同じ頃再建 一間社春日造
小規模ながら細部に特色のある桃山時代の遺構 重文


写真御提供 福永肇氏

和泉名所図会から





信太森神社(葛ノ葉稲荷神社)


和泉市葛の葉町2番地   
ゼンリン

祭神   宇迦御魂神、大己貴神、大宮姫命、素盞男命、猿田彦命、若宮葛乃葉姫

由緒
 今より千余年前朱雀天皇の御頃、現在の大阪市阿倍野の里に阿部保名(阿部仲麻呂第七代の孫)という美丈夫が住んでいました。 父は元その地一帯の豪族であったが悪人のざん言にかかってその所領を没収せられました。 保名は何とかして出世して家名を再興したいと思い、世に霊験あらたかと聞いていた信太森葛葉稲荷へ日参することにしました。
 ある日念じ終って帰途につこうとすると一本の流れ矢が飛んで来て傍らの杉の根元にフツと立ちました。 これは何事かと思う間もなく逃げ場を失った一匹の白狐が走り来り、保名の後にかくれ、救を求める様子でした。 元来なさけ深く賢こい保名はこれこそ大神の御命婦であると直感し傍らの石を楯として後の草むらへ白狐を隠し、自分はその石に腰を腰を降ろして静かに憩うて居る体を装うのでした。 折からドヤドヤと駈けて来た数人の狩人は「我々は只今一匹の白狐をここへ追い込んだが貴殿は見なかったか、見ないとは云はさぬ」と問い、かつ、なぢるのでしたが保名は断固として突っぱねたので、狩人等に叩かれ、秘術を尽して闘ったが多勢に無勢で数ケ所に手疵を負い、その場に倒れてしまいました。
 狩人達が他所を探しに立ち去った後、御神木楠ノ樹の下から見るからに神々しい一人の女が走り出て保名の疵に手を当ててかいがいしく介抱しました。 保名は嬉し涙にくれながら礼をいうと妾はこの森に住む葛の葉と申すもの、そなたを阿倍野まで送りとどける程に一挺の山駕を雇うて来ると申すので、保名は彼の女が名乗りもせぬのに我が住居まで知って居ることに不審を抱きながらも唯夢うつつの如く駕にゆられて立帰るのでした。
 保名は早速近くの医者を招き手当を致しましたが、其の夜から発熱が甚だしく枕も上らぬ始末でした。
 保名は葛の葉の姿が目の先にちらつき、何人の娘であろう早く快くなってお社へ詣ったら又逢うこともあらう、あの娘も毎日お社へ詣るのであらうかなど思いは信太の森へ通うのでした。
鴬の声なかりせば雪消えぬ山里いかて春を知らまし。
 今迄は家の再興と云うことが一心になって、女の事など考へて見なかった保名も、葛の葉の姿を一目見てよりその事ばかり思いつめ、心は信太の森へ飛びつつも自由にならぬ我が身を腹立たしく思うのでした。 それから二、三日した或る日の夕暮れ時、意外にも葛の葉が見舞に来て呉れました。 葛の葉は「女手が無くては何かと御不自由と思いますれば、暫らく泊って御手伝い致しませう」。との事に保名の喜びはいかばかり、感謝の言葉も俄に口へは出ぬ程でありました。 医師の手当と葛の葉の痒い所へ手の届く介抱に日一日と快方に向い殆んど全快に近づきましたが葛の葉は帰ろうとはいたしませんでした。
 「それ男女和合は天地自然の理にて森羅萬象何ものかこれなからむ」保名と葛の葉も互の心が通じ合い、いつしか離れられぬ仲となり夏去り秋去り、その年の暮には葛の葉は保名の種を宿し妊娠の身となっていました。
 「歳月は流れる水の如し」とか保名と葛の葉の間にもうけた一子、童子丸(後の阿部正明)は疱瘡も無事にすみ早や五ツの春をむかえたのです。
 その秋も中頃葛の葉は我が子を寝させ秋風の肌に快よいまま椽先に腰をおろし、庭に咲き乱れた乱菊の花を見るにつけ、六年前立ち出たまま帰らぬ信太の森の棲家のことなど恍怱と考えるうち、いつしか神通力がゆるんだのでしょうか、化性の姿を顕したのに少しも気がつきませんでした。 童子丸「母様こわい」とワッと泣き出す童子丸の声に、ハッと我に帰った時にはもう取りかえしがつきませんでした。
 その夜いよいよこの家を去る決心をした葛の葉は我子の寝顔を打ちまもり、葛葉「これ童子丸、今この母が申すこと寝耳にしかと聞き覚えよ、我はもと人間ならず、六年前信太の森にて悪右衛門(狩人の隊長)のため狩り出され、死ぬる命を汝の父保名どのに助けられし狐ぞや、その恩にむくゆるもさる事ながら保名殿は信太の森大明神に信仰なし、阿部家の再興を念じたまう故にその真心を感応ましまし、我は稲荷大明神の仰せをうけ仮に女の姿と変じ保名どのと契りを結びそなたをもうしうけしは、阿部の家名を興さしめんためなり、それ夫婦親子の愛は愚痴なる畜生三界とて変りないぞや、せめてそなたが十になるまで居りたけれど我が本性を見られし上は、しばしも止り難たし、これから後は父上の云うことをよく聞いて手習学問に精出し仁義の道を忘れずに成人せよ、そなたにあげるこの賓玉は大事にして肌身離さず持たれば必ず役立つこともあるぞ」 と童子丸の枕元へ置いて立ち上がりましたが、今別れてはいつの世に又逢えるかと別離の涙にくれたことでした。 せめて夫への形身に一筆書き残さんと傍らの障子に口に筆をくわえて書き残したのが、世に有名な左の一種です。
 恋いしくば尋ねきて見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
 かくして葛の葉は「我子よ、我夫よさらば」と絞る悲痛の声と共に白狐の姿と変じて行方も知れず飛び去ったのです。 この物音に目を覚ました保名は、葛の葉の姿が見えぬので驚きあたりを見廻すと、傍の障子にかの歌が書いてありますので、保名「サテは今のは正夢であったか、六年このかた連れ添うて来た妻の葛の葉は稲荷大明神の御神慮を蒙りし白狐の化身であったのか」有難くとも辱ぢけない、さりながら今日より母のいない童子丸がいとしくて男泣きに泣きいるのでした。
 保名はなおも諦めきれずその日童子丸を連れて信太の森に詣でてみますと今まで無かった葛が社頭一面に生い茂っているのでした。 保名は有難さ、忝けなさにこの葛の葉(当社の紋章)を給はり童子丸のお守りとして養育しました。 この祈子こそのちの阿部晴明です。
 晴明伝に「冷泉、円融、花山三帝に仕え、晴明がかつて修めた陰陽卜占の術で帝の御病気を癒したとの功により、名を晴明と賜り、又芦屋道万法師との問答に打勝って播磨守に任ぜられ、従四位を賜った」とあります。 此のことが伝って全国津々浦々から子供の欲しい人、賢こく成人(入学試験に合格)する様、其の他種々の願い事が叶うようにと参詣者は後をたちません。

11月23日 新穀感謝祭

信太森神社


神木の楠 千年  石切大神
 

和泉名所図会から



和泉市の小栗街道の地図


公式信太森神社(葛ノ葉稲荷)


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