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和歌山貝塚線は樫井川にかかる明治大橋を渡り、さらに新家川を越えて信達大苗代に至る。一岡神社の前に出る。 厩戸王子へは明治大橋の手前を北上し新樫井橋を渡る。すぐ左手にゴルフ練習場が見える。練習場の西側の道を左におれる。練習場の隣に跡地がある。明治以降も厩戸王子神社とか筆神社と呼ばれた小祠があった。共同墓地の小丘の北側。熊野古道おとくいの道筋である。ただし、この王子社へは引き返す道筋になり、いささか不合理。明治大橋の手前を直進する古道があったのだろう。新家川や香椎川があれて、道筋が変わったものと思われる。 明治40年一岡神社に合祀された。 信達宿と呼ばれ熊野詣での宿泊地であった。次の宿泊地は和歌山の海南市藤白神社であった。 すごい距離である。 厩戸王子跡碑、遠くに生駒山系が見える。 ![]() 一岡神社 泉南市信達大苗代373番地 ゼンリン 祭神 建速須佐之男命、稻田姫命、八王子命 由緒 一岡神社(一丘神社)は海会宮(海営宮)祇園さんとして古くから世人に親しまれていた。日根郡内では唯一の大社であった。 その社伝によれば、二十九代欽明天皇の御代(西暦五三九年)悪疫流行し、勢日に増し激しく止まる事知らざるに及び、時の長人一丘神社に平癒祈願させた処、神徳現証顕著であったので、その寄徳を仰ぎ山城國に御分霊を斉して帝都の疫病除け祈願の神と定められ、毎年大祭には御神輿を迎えて祭典を執行する事となった。 即ち毎年六月七日、当社を御発輦し十三日御着輦、十四日大祭を行い、三日間滞在され、その間帝都の氏子達は御神輿を奉じて各地の御巡行をされ、一丘神社御供人等は、その間山海の珍味を以て接待を受け十八日に御発輦還行の途につき、二十四日当社に還御し、二十五日御供人等供洗川で身を浄め二十八日還行祭を執行して居た。 かくて三三代推古天皇の御代(西暦五九二年)に厩戸王子(聖徳太子)はこの地に七堂伽藍を建立し海会寺(海営寺)と称して、当社も海会宮(海営宮)改め、鎮守神として御供田三反歩を供して崇敬された。 後、四十五代聖武天皇の御代(西暦七二四年)高僧行基は当社の南の方に一大溜池を築造し、海営宮池と名附けて、この地の潅漑用に供し、同時に神社と寺の修繕を行った。 境内神社の中の厩戸皇子神社は聖徳太子、即ち馬戸王子命(厩戸皇子或いは馬留王子)が祀られている。 第八二代天皇の後鳥羽院熊野御幸記建仁元年(西暦一二〇一年)十月七日の条に日く「騎馬競出て先づ厩戸王子に参る。今筆王子と云ふ」と記されており、昔日より崇敬を集めていた。 社の西方、中小路二〇番地(大阪府史跡指定二一号から明治の御代に境内に移された。 現在、社殿の再建中である。銅板葺きの華麗が想像される。広大な社域である。鎮守の杜は遊歩道になっている。 お祭り 3月 14日 祈年祭 8月 1日 夏季大祭 10月 9日、10日 例祭 一岡神社 ![]() 一岡神社の伽藍跡と杜 ![]() 籾井王子、厩戸王子の地図 ![]() 次の王子社、信達一ノ瀬王子 熊野古道 紀伊路 大阪府の王子社 熊野古道、九十九王子社 神奈備にようこそに戻る |