鴨と市、最古の王権



倭人は金星の子孫金星の降臨天甕星神と天甕津姫命と阿遅須枳高日子命伊福部と鴨東夷のクニ 安曇東夷のクニ 吉野ヶ里東夷のクニ 伊都国大和の国浪速狗奴国邪馬台国以前邪馬台国以前の浪速鴨族のその後常陸と陸奥

[584] 鴨と市、最古の王権  1  神奈備 2004/03/01(Mon) 21:48 [Reply]
 後漢の退職役人の王充は1世紀の人で、『論衡』と言う史書を残しています。
 『論衡』巻八  周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。
 『論衡』巻十九 成王の時、越裳、雉を献じ、倭人鬯草を貢す。と記載されています。
 周の成王は紀元前1002年に没しています。だからこれは千年後に記述された倭人の話であり、さて列島の住民だったのか、大陸の江南辺りの土人だったのか、定かではありません。この献上品の「鬯草」とは何かcですが、「HP:暢(鬯)草とは昆布である」で十川昌久氏が昆布との指摘をされておられます。
http://members.jcom.home.ne.jp/4313532601/page006.html
 昆布ならば、倭人とは、列島の人間をさす可能性がより高い。しかし、この時代、この倭人が国を作っていたのかどうか、いたのなら大陸の史書にその片鱗があっても不思議ではないが、どうなんだろう。出ていないようだ。

 呉の太伯の有名な物語がある。
 『史記 卷三十一 呉太伯世家 第一』
 呉の太伯と弟の仲雍は周の大王の王子で、王の季歴の兄。大王は季歴を立てて次の王にしたい気持ちを持っていました。従って、太伯と仲雍の兄二人は荊蠻に行き、文身斷髮を行い、二度と戻ることのないことを明らかにしたのです。季歴が立ち、文王となる。太伯は荊蠻に行き、自ら句呉と名乗ったと言う。荊蠻はこれを義とし、従属する家は千餘家。立てて呉の太伯となった。紀元前11世紀。
 仁徳前期のお話はこれをヒントにしたのかも。


[621] Re[584]: 鴨と市、最古の王権  1  神奈備 2004/03/18(Thu) 08:08 [Reply]
>  『論衡』巻十九 成王の時、越裳、雉を献じ、倭人鬯草を貢す。と記載されています。

『日本文化の形成(上)』宮本常一著
、『論衡』に倭人が貢じた「鬯艸」ですが、この本では鬱金(うこん)のこととしています。カレーの黄色です。薬にもなるとか。越は南方、倭も南方のイメージか。



[585] 神奈備>Re:[4913] 鴨と市、最古の王権  2  神奈備 2004/03/02(Tue) 20:52 [Reply]
> 書紀編纂者がつけた呼称でしょうけれど天を冠するのは天孫と血縁関係が明確な場合とみています。

青草の与太話です。
 悪神とされた天津甕星−金星らしい−も、天孫族?
 また、天火明命とは星明かりの命。
 
 この天津甕星は常陸の国で退治されました。
 そうです。明けの明星は太陽が登ると(日が立つと)消えてしまうのです。



[591] 鴨と市、最古の王権  3  神奈備 2004/03/05(Fri) 20:42 [Reply]
 平安時代の『日本書紀私記』に日本書紀の講義のなかで、「この国が姫氏とよばれるのはどうしてか?」と言う問いに対して、講師が「始祖の天照大神が女神、神功皇后が女帝だったから」との問答が記録されているそうです。『日本の古代』
 周や呉の姓は「姫」氏です。呉の太伯はこの家の出であり姫氏と思われていたのです。「倭人」を太伯の裔とする説は、『魏志倭人伝』より早く成立し魏志の母体とされる『魏略』の逸文や『梁書』に見られるとか。
 例えば、『後漢書倭伝』(五世紀成立)には、「建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す」。また『梁書諸夷伝』(七世紀成立)には、「倭者は自ら太伯の後と云う。俗、皆文身す。」とあります。後の時代の成立の書は詳しいのですが、勝手な想像が入ったりしており、やはり近い時代、できれば同時代の資料が一番。

 所で、角川古語辞典によれば、「太白星」とは金星のことです。先の『史記』の物語は、太陽王が世継ぎとなって、明けの明星などは世継ぎにならないとの説話ともとれます。それゆえの太伯のネーミングかも。
 「『天文要録』に「太白昴星を犯せば四夷起こると言へり」」と『平家物語』にあるそうだ。太伯は乱を呼ぶ星。昴星はスバルで金星との遭遇の可能性はあるようですよ。
 で、このように金星にまつわる占いや諺には、権力者にとって面白くないものが多い。

 倭人が太伯の後裔と名乗ったのは、入れ墨などの風習は卑しいのもではないとの顕示であったのでしょうが、同時にお隣の傲慢なる国への対抗心などが金星を崇拝する方向へ導いたのかも知れません。



[594] 鴨と市、最古の王権  四 金星降臨の伝承  神奈備 2004/03/06(Sat) 21:35 [Reply]
 とんでも伝説が山城国愛宕郡加茂郷の鞍馬寺に伝わっています。
 650万年前に魔王尊「サナト・クマラ」が人類の進化を図るために降臨した所がこの鞍馬寺と言うのです。一体この650万年とは何だろう。弥勒菩薩はもっと先の話。
 「人類の進化を図るために」鞍馬へクマラさんがやって来たのですが、ちょうど現在有力な学説では、人類と現生の類人猿が共通の祖先からわかれたのは、およそ650万年から550万年ほど前のことのようで、ドンピシャリの伝承。誰が伝承したん。
 琵琶湖の誕生は約400万年前であり、650万年前には日本列島は存在していたのかも知れません。
 また、恐竜は650万年前に絶滅していますが、隕石衝突か大火山の爆発による寒冷化が原因かも知れないと言われています。

 650万年前の伝承そのものは何時から語られたのでしょうか。まさか650万年前! それとも霊能坊主が天啓を聞いたとかでしょうが、それが平安時代なのか江戸時代なのか、現地へ行かないとどうも判りません。『神社寺院大事典山城』の鞍馬寺には一切記載がありません。鞍馬の青草のようですね。

鞍馬山の神々 http://kamnavi.jp/yamasiro/kurama.htm




[595] Re[594]: 金星降臨の伝承  恋川亭 2004/03/06(Sat) 22:44 [Reply]
さすが、青草らしくなってきましたネ。結構、好きだったりしてます。
> 魔王尊「サナト・クラマ」
ボクも出典・原典が気になっていたことのひとつです。シャンバラの香りが漂っているように思うのですが・・・宝亀元年、鑑鵜上人が鞍馬山にて、毘沙門天の姿をとって降臨されたサナート・クマラに導かれたとかいう伝説ですね。

 鞍馬弘教初代管長:故・信楽香雲師 著作
 「鞍馬山歳時記」(鞍馬山双書1970年)あたりかな〜???(未見です)

『RIRC 宗教教団情報データベース 鞍馬寺』より
http://www.rirc.or.jp/data/output.cgi?id=99031802

 マダム・ブラバッツキーとかニコライ・レーリッヒなんかの神智学系オカルトの匂いがするのですが。。。シャンバラやアガルタなど、中央アジアの地底王国伝説につながるのでしょう。プレスター・ジョンの伝説なんてのもありましたネ。古代ヨーロッパ人が抱いた東方への憬れの残骸かも。ゴダイゴの名曲「ガンダーラ」をリクエスト!

 先日の新聞に、恐竜絶滅は巨大隕石衝突からだいぶ経た後だったことが検証された、という記事がありました。少なくとも6500万年前ですので、もうヒト桁プリーズでまんねん。



[608] 鴨と市、最古の王権 5 天甕星神  神奈備 2004/03/08(Mon) 08:26 [Reply]
天甕星神

 『日本書紀』巻二神代下第九段一書第二
 一書曰。天神遣經津主神。武甕槌神使平定葦原中國。時二神曰。天有惡神。名曰天津甕星。亦名天香香背男。請先誅此神。然後下撥葦原中國。是時齋主神號齋之大人。此神今在乎東國楫取之地也。

だいたいの意味
 蘆原中国を平定しました二神が「まだ天に悪い神がいます。名前は天津甕星、または天香香背男です。この神を取り除いてから天降りますように。」と言いました。甕星を征する斎主(いわい)を斎の大人(いわいのうし)と言い、東国の香取においでになります。

 天津甕星は天に居る神であり、葦原中国に居た訳ではなさそう。と言うことは天津神であり、しかし高木神と天照大神の連合には反対の立場を象徴していそうです。天神ながら地祇に変神。よく似た立場に素盞嗚尊が当てはまる。また天若日子の生まれ変わりと形容されもする味耜高彦根もそう言えるのかも知れません。

 『日本書紀』では、味耜高彦根神が登場したシーンの次に出雲の国譲りとなります。一書では天津甕星退治があって国譲りとなるのです。味耜高彦根神の一瞬の登場と天津甕星の登場と滅亡、微妙な位置づけが気にかかる所。
 また逆らう味耜高彦根神と従う事代主神、兄弟が二手に分かれる神武東征譚の関連が読みとれそうです。



[616] 鴨と市、最古の王権 6 天甕星神2  神奈備 2004/03/10(Wed) 16:50 [Reply]
 『尾張国風土記』吾縵(あづら)の郷
 垂仁天皇の時、品津別の皇子が物を言わず、どうしていいかと悩んでいました。その時、皇后の夢に神があらわれ「私は多具の国の神、名を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)です。私を祭る人を宛てがって祭ってくれるならば、皇子はよく物を言い、寿命も長くなるだろう。」と言いました。
 多久神社については『出雲国風土記』楯縫郡神名樋山の条。
 阿遅須枳高日子命の后の天御梶日女が、多久の村までおいでになり、多伎都比古命を産み給うた。
 出雲の多久神社 http://www.genbu.net/data/izumo/taku_title.htm

 ここでは天御梶日女の表記。
 
この女神は美濃の国の花鹿の山の花長上神社の祭神として鎮座しています。
 美濃の花長上神社 http://cscns.csc.gifu.gifu.jp/pushcorn-kit/tanigumi/paged/0300214020002307.html

 美濃や尾張にこの神々が出現しているのは、出雲から葛城(高尾張邑)経由の尾張族が絡んでいるのかも知れません。(後に)

 品津別の皇子は『古事記』では自ら出雲の大神を拝礼して物を言うようになります。この物語には三種の鳥が登場、鳥取部や鳥甘が定められます。

 さて、阿麻乃弥加都比女は出雲国秋鹿郡鎮座の伊努神社の祭神の天甕津姫命のことです。同じ郷鎮座の芦高神社には赤衾伊野意保須美比古佐和氣能命を主祭神として天甕津姫命が配されています。

伊努神社 http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/izumokamiakahusuma.html
伊努神社 http://www.genbu.net/data/izumo/inu_title.htm

 また、大きくなるまで物を言うことができなかったとの説話は品津別の皇子、味耜高彦根神、素盞嗚尊などがありまあす。金属精錬の廃液の影響との説があるようです。

 『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷
 出雲の国の伊農の郷においでになる赤衾伊農意保須美比古命の后、天ミカ津日女命が国を巡ってお歩きになられた時、云々。

 楯縫郡、秋鹿郡の二例から、離婚再婚をしていないものと仮定しますと、阿遅須枳高日子命と赤衾伊農意保須美比古命とは后を同じくしている、則ち同一神と見られていた伝承があったことになります。しかし、今関心があるのはそう言うお話ではなく、阿遅須枳高日子命の后が天御梶日女であると言うこと。天御梶日女は天甕津姫命であり、天津甕星神の配偶神と見なしうると言うことです。
 即ち、迦毛の大御神である味耜高彦根神は悪神の天津甕星と見なされていたことを示唆しているようです。(..;)

 阿遅須枳高日子命と目される赤衾伊農意保須美比古命は国引きの神である八束水臣津野神の御子神とされています。この八束水臣津野神こそは出雲の大祖神であり、所造天下の大穴持神以前の神であることが重要。
 則ち、阿遅須枳高日子命は出雲出自の神であり、大穴持神、事代主神とは出自が違うのだ。



[617] 鴨と市、最古の王権 7 天甕星神3  神奈備 2004/03/12(Fri) 12:20 [Reply]
尾張大国霊神社は天甕星神の後裔が祭った。序

 『尾張国風土記』吾縵の郷 もう一つ。
 尾張国丹羽郡に阿豆良神社が鎮座、天甕津媛命を祭神としています。
 由緒書き
 尾張大国霊神社と同時代(垂仁朝)の創建。建岡の君は美濃国花鹿山(揖斐郡花長神社現存)に登って山中の榊の枝で縵(古代頭髪に押すもので「カンザシ」に当る)を作つて、天神に祈って「此の縵の落ちた所が神を祭る所である。」と申されて縵を遠く投げられました。縵は遠く南方に飛んで此の地に落ちました。
 素盞嗚尊かも知れない、味耜高彦根神かも知れない本牟智和気の御子。
 本牟智和気の御子(品津別の皇子)は尾張の木で造った船で遊んだり、鵠(たづ)を見て「あぎ」と言ったので、人に鵠を追わし、鵠は三野から尾張へと飛んで来ています。この「あぎ」と言う言葉は何でしょうか。「あぢすき」と言ったのを聞き違えたのでは。

 この皇子は、出雲では「檳榔(あぢまさ)の長穂宮」にいたとあり、ビンロウ樹の南洋を思わす宮殿名で、この皇子、火の中から誕生し、物を言わず、蛇と交わり、神話的始祖王の雰囲気を持っていますね。
 この始祖王的皇子にまつわりつく「あぢ」、これは味耜高彦根神に通じているはずで、鴨族がこの国の始祖王の役割を果たした伝承が『古事記』には混ざっていると思えます。



[619] 鴨と市、最古の王権 8 伊福部と鴨  神奈備 2004/03/14(Sun) 09:11 [Reply]


伊福部と鴨 

 出雲国の出雲郡と神門郡に伊福部氏が居住していました。『青銅の神の足跡』(谷川健一著)によりますと、この伊福部氏は出雲の斐伊川流域で製鉄の仕事に従事していました。伊福部氏が斎き祀る意布伎神社は阿須伎神社の西4kmと言う近くに鎮座しているように、鴨氏との近い関係が認められます。
 伊福部氏は『古代の製鉄と神々』(真弓常忠著)では、その系図は、遠祖を大己貴命とし、途中に天御鉾命などを経由して、櫛玉饒速日命に至ります。また尾張氏と同祖とし、天火明命の裔を名乗ります。各地で金属精錬に従事した関係上、それらに関連する神々をおしなべて奉戴したようだ。
 
 丹後の宮津の海部氏系図で有名な籠神社に伝わる由緒では、主神の彦火明命はまたの名を天火明命、天照御魂神、天照国照彦火明命、饒速日命、また極秘伝によれば山城の賀茂別雷神とも異名同神としています。賀茂別雷神の御祖の大神も併せ祀られているとも伝えられるそうです。山城の賀茂神は本来なら迦毛の大御神である味耜高彦根神のはずであり、伊福部氏や尾張氏は底流では鴨氏の系統と言えるのかも知れません。

 因幡の一宮の宇部神社の宇部は伊福部からの転であり、美濃不破(伊富岐神社)、大和葛城と同日同時にあらわれたとの古典があると『青銅の神の足跡』は記しています。大和葛城とは御所市五百家(山に金糞があるとか)の東の大穴持神社付近なのか、新庄町の笛吹神社付近なのか、でしょうが、鴨と伊福部の深い関わりが認められる。伊福部の斎祀る神社で葉栗郡木曽川町に伊富利部神社が鎮座、イフリベであり、イブリ、オハリとなり尾張と伊福とは同じにゃーもんね。




[620] 鴨と市、最古の王権 9 伊福部氏と鴨氏 2  神奈備 2004/03/16(Tue) 10:06 [Reply]
 さて、『青銅の神の足跡』谷川健一著では、銅鐸の製造者として伊福部氏に注目しています。銅鐸造りには相当な技術が要るようで、全ての氏族が造れたわけではなさそうで、それらしい氏族に焦点を当てれば、伊福部氏は有力な一角を占めると言うことでしょう。

 銅鐸は誰によって造られたか、これも面白いテーマです。
 また、どのように分配されたのか、どのような祭祀に利用されたのか、かつ何故埋められた状態で発見されているのか、神代に近い古代の面白い所です。面白いとは正解不明の想像をたくましくできる領域と言うこと。しかし、簡単に仮説がたてられるお話でもありません。

 出雲の加茂岩倉遺跡から銅鐸39個(20組みで元は40個かも)と荒神谷遺跡からの銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個の出土があります。これらについても諸説紛々。

 まず、加茂岩倉遺跡の銅鐸の39個ですが、同じ鋳型で作られた組み合わせの銅鐸は、当地、鳥取、岡山、兵庫、徳島、大阪、奈良、和歌山、福井、岐阜などで出土しているそうです。一つの信仰圏をなしていると見るべきでしょう。出雲神族系の王国とか銅鐸信仰の王国を彷彿させるし、その考えを駄目とする理由はない。物流としては、王の中の王が配ったと言うよりは、安曇かもしれない商人が売り込んだのかも。

 加茂岩倉遺跡出土と他の出土地 近い神社

鳥取 出土(岩美町新井上屋敷) 美取神社(岩美町大字太田)、宇倍神社(国府町宮下) 
岡山 出土(勝央町植月念仏塚) 中山神社(津山市一宮)
兵庫 神戸市灘区桜ヶ丘町神岡 河内國魂神社(神戸市灘区国玉通) 近くに荒神山がある。
徳島 出土(麻植郡川島町神後) 伊加加志神社(川島町大字桑村) 
大阪 出土(茨木市福井)、新屋坐天照御魂神社(茨木市福井)
奈良 出土(北葛城郡上牧町) 石園坐多虫玉神社(大和高田市片塩町)
和歌山 出土(和歌山市太田)  日前國懸神宮(和歌山市秋月)、伊太祁曽神社  
福井 出土(坂井郡春江町井向) 紀倍神社「別雷尊」(春江町木部)
岐阜 不明



[622] 鴨と市、最古の王権 10 伊福部氏と鴨氏 3  神奈備 2004/03/19(Fri) 09:09 [Reply]
 加茂岩倉遺跡の銅鐸には「X」が刻印されており、これは荒神谷遺跡の銅剣にも刻まれており、物部の印し説もあるようですが、根拠がよく判らない所。それでも両遺跡には関連がある証ではあろう。
 『出雲国風土記』大原郡の条の「古老の伝えていへらく、天の下造らしし大神の御財を積み置き給ひし処なり。則ち、神財の郷と謂ふべきを、今の人、猶誤りて神原の郷といへるのみ」の御財とは、神原神社古墳から出土した景初三年銘の三角縁神獣鏡等と見る説がありましたが、神社から遠くない加茂岩倉遺跡から大量の銅鐸が出土したことで、「積み置」いた御財とはこの銅鐸のことかも知れないとされるようになりました。

 当地をなぜ加茂と言うのか、『出雲国風土記』や『和名抄』には、加茂の地名はないようです。ペギラさんによれば、カモとは「平野が山際に深く入り込んだ土地」との説があるとかで、特定の氏族につながらないのかも。それでは青草物語にはならないんですね。

 神原神社の東側に加茂神社が鎮座、風土記記載の屋代社の後裔社とか。事代主を祀る。摂社に上賀茂神社があり、味耜高彦根神を祭神としています。これらはどうも後から持ち込まれた気がしてなりません。同町には貴船神も山城から勧請されています。
 神原神社の神原は神宝の訛のような説明ですが、カモのタカラからの変化かも知れません。この神社が星と関係がありそうな磐裂・根裂神の子の磐筒男、磐筒女を祭神としているのは、埋められた神宝への祭祀を思わせる所。

 この遺跡の北側に、磐座を神体とする矢櫃神社が鎮座しており、地名の岩倉の元となったようです。南側には赤秦神社が鎮座、神体は石で、徐々に大きくなると言われ、あたかも常陸の甕星神社に居た天津甕星を彷彿とさせます。 

 矢櫃神社の鎮座地の地形、壱岐の物部布都神社の矢櫃山、全国に矢櫃と言う地名が散見されます。長方形の箱状のものをイメージできる雰囲気でしょうか。


[623] Re[622]: 加茂地名について  ペギラ [Mail] 2004/03/19(Fri) 15:16 [Reply]
加茂地名について。
大日本地名辞書の吉田東伍さんの見解では、
加茂・賀茂・鴨・かも=神・かむ・かみ
という推測をされております。

ですから、出雲国大原郡の神原が、加茂になるということもそのあたりかもしれない。

すべての「神」地名地がそうなるということではありません。
これには、やはり「平野が山際に深く入り込んだ土地」というのが
鍵になっているようです。

その土地に住む氏族が「鴨」という話にならないか?と暗中模索。



[631] 鴨と市、最古の王権 11 伊福部氏と鴨氏 4  神奈備 2004/03/22(Mon) 13:40 [Reply]
 銅鐸は祭祀に使われたようですが、どうやら叩いてもあまり良い音はしないようで、見せるものだったとされています。『稲・金属・戦争』(佐原真編)によりますと、加茂岩倉遺跡出土の銅鐸39個のうち、17個は製作地が判っていないとのことですが、それでも山城産の可能性を指摘しています。そうしますと、加茂岩倉の加茂の命名は後世であっても、そうなった由縁として古くから山城の賀茂との交流があったればこそと思われます。

 どんたくさん曰わく「京都の上賀茂神社のそばには出雲路橋や出雲郷があり、古くからこの神社は出雲国と朝廷との間をとりもつ存在であったようです。そのようなことから、上賀茂神社は出雲に対して特別な影響力を持ち、この土地に色々な権益を確保していたのかもしれません。」と。
 どんたくさん、ありがとうございます。出雲路橋は鞍馬山への道筋でもあるんですね。ここも金星が匂う。
 山城の地名に出雲が残っていたことは、両者の相当古いつながりを示しているのかも知れません。

 ●青銅器のネットワークは弥生初期から大陸、半島、北九州とできており、さらに出雲や瀬戸内海沿岸に及んでいたようです。これらのネットワークは「朝献」によって成り立っていた訳ではなく、生口をも貨幣の替わりとした商業によって成り立っていたのでしょう。

 ●流通していた物、ヒスイがそうです。弥生前期終わり頃、北九州で流行、ここからは産出地にもないような美しくて大きいヒスイが出土しているそうです。このネットワークは日本海側を新潟までつながっていた。
 吉武遺跡 http://museum.city.fukuoka.jp/jg/html/49/49_05.htm

 ●南方の貝であるゴホウラやイモガイで作った腕輪も流行したようで、これは西南諸島とのつながりです。
 吉野ケ里遺跡 http://www.sagatokimeki.ne.jp/yosino/kouza/chishiki/syasin/syutudo_chu.html

 このように様々な地域と物品と、人と情報ががつながっており、弥生初期にはそのセンターは北九州のようです。



[632] 鴨と市、最古の王権 12 東夷のクニ 1  神奈備 2004/03/23(Tue) 20:30 [Reply]
 大陸の古文献
  1.楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国をなす。歳時を以て来たりて、献見すると云う。『漢書地理志』
 楽浪郡は前108年以降。前漢は7年に滅亡。弥生中期中〜後半のこと。

 2.東夷の王、大海を度りて、国珍を奉ず。『漢書王莽伝』
 王莽は紀元5年に摂政。
 東夷倭奴国王の言葉は後の4.あり、東夷の王が倭国の王とすれば、史書に記録された最初の王です。。

 3.建武中元二年(57)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。『後漢書東夷伝』

 4.東夷の倭の奴の国王、遣使奉献す。『後漢書光武帝紀』

 5.安帝の永初元年(107)、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。『後漢書東夷伝』
 『後漢書』は『魏志』を底本としており、資料の価値は『魏志』より低い評価が一般的。『卑弥呼が都した所』(福嶋正日子さん著)は、同じ原資料を使ったはずで、低く評価をすべきではないとされるのも見識。建武中元二年(57年)の年号や印綬については疑う必要はないのでしょう。
 『倭人伝』では「奴国」が二つ出てくるのですが、原資料で既に■奴国の■が漏れたのかも。従って同じ奴国と見たんでは。
 ■奴国、南端なら■=熊、焼き蛤なら■=桑。

 2.の「東夷の王」は、その50年後に金印をもらった倭奴王、また100年後の帥升、代々王がいたとされる伊都国辺りの前身と見ていいのでしょう。列島の中では大陸、半島に近く、往来も盛んであった九州−北九州−の国の王が東夷の王だったのでしょう。
 志賀島から金印が発見され、それが今日まで伝わっています。志賀島には安曇族の祖神を祀る志賀海神社が鎮座、摂社には船玉社でもある印鑰神社が鎮座、印鑰神社は普通国府の近くに置かれ、印とは国司の印、鑰とは府庫の鍵との説が『小さき社の列島史』(牛山佳幸著)には出ていますが、金印と関係があったのではないでしょうか。


[633] 鴨と市、最古の王権 13 東夷のクニ 2  神奈備 2004/03/27(Sat) 21:20 [Reply]
安曇と金印

 「漢委奴国王」の金印を貰った委奴国王の朝貢は57年。
 また107年には倭国王帥升等の朝貢の記事が『後漢書倭伝』に記載されています。文献による初めての倭国王の表示のお目見え。
 金印「漢委奴国王」が出土した志賀島は安曇族の祖神を祀る志賀海神社が鎮座。委奴国とは安曇族の建てた国だったのでしょう。

 「漢委奴国王」をどう読むかについては諸説があるようです。教科書で習ったのは、漢(カン)ノワ(委)ノナ(奴)ノクニ(国)ノオウ(王)でした。大陸の漢の属国である倭の中の奴国の王の意味ととれます。
 独特なのは『悲劇の金印』(原田大六著)で、日本的には「ワダツミ(漢=海神国)ノイツ(委=筑紫)ノナ(奴)ノクニノキミ」とよむようです。 意訳でしょうね。

 さて『海神宮訪問神話の研究』(宮島正人著)に、興味深い見解があります。
 『万葉集 巻七 一二三〇』
 ちはやぶる 金の岬を 過ぎぬとも 吾は忘れじ 志賀の皇神
 この金の岬の場所として、宗像郡鐘ノ岬を比定する説が多い中で、志賀島に「金之三埼」が存在していることから、志賀島説を主張されるのです。金印発見の口上書に「叶の岬で・・石の間に光る物云々」と記されていることを根拠にされています。他に、宗像郡鐘ノ岬では特段に志賀の皇神を拝む場所でもないこともあるようです。
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=500000&el=130%2F24%2F30.475&pnf=1&size=500%2C500&nl=33%2F46%2F47.167
 この地図で、従来説の北東隅と志賀島は南西隅に辛うじて現れます。30kmは離れているようです。この30kmの間に宗像大社の辺津宮が鎮座、迦毛の大御神である阿遅須伎高比古根神の母神(多紀理毘賣命)が祀られています。宗像神は半島への航路の神、志賀神は内陸内海の航路の神と住み分けがあり、友好関係があったのは、『万葉集』巻十六の三八六〇からの歌で示されています。友好関係1000年以上、根は同族でしょう。鴨に安曇の血が混ざっていると云うこと。

 なお、志賀島の叶の埼は金印発光碑の西300mの南の浦崎で、叶の浜の南端。
 志賀海神社の磐座に金印が奉納されていたとの伝承があったのではとの推定があります。摂社に印鑰神社があり、船玉社と呼ばれていることは前述。

 さて、宮島氏の圧巻は次の論で盛り上がるのです。
 『古事記』安曇連等は、其の綿津見の神の子、宇都志日金折命の子孫なり。とあります。この宇都志日を「現し霊」、金折を「金埼」の転ととられ、金之三埼に祀られた金印が神霊となって示現した神との解釈を示されたとするのです。
 綿津見−宇都志日金折命−穂高見命 この並び、確かに真ん中がおかしい感じ。


[634] 鴨と市、最古の王権 14 東夷のクニ 3 吉野ヶ里  神奈備 2004/03/30(Tue) 16:30 [Reply]
 紀元前の東夷のクニの発掘例として有名なのが吉野ヶ里遺跡。
 『卑弥呼が都した所』福嶋正日子氏によれば、「漢の祖の国」との説明を魏志倭人伝では華奴蘇奴国と表記したものと推測されています。後に、神埼となって郡の名に残ったのかも知れないと言うこと。

 吉野ヶ里の発展の歴史は、以下のサイトにあります。以下、概要を。
 http://www2.begin.or.jp/sakura/yosinogari.htm

 ◎弥生時代前期(紀元前3〜前2世紀)
 吉野ケ里の丘陵一帯に分散的に「ムラ」が誕生、やがて南側の一画には環壕をもった集落が出現し、「ムラ」から「クニ」へと発展する兆しが見えてきます。

 ◎弥生時代中期(紀元前2〜紀元1世紀)
 丘陵を一周する大きな外環壕が掘られ、首長を葬る「墳丘墓」やたくさんの「かめ棺墓地」も見られます。
 集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから「争い」が激しくなってきたことがうかがえます。

 ◎弥生時代後期(紀元1〜3世紀)
 国内最大級の環壕集落へと発展し、大規模な∨字形の外環壕によって囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭・南内郭)をもつようになります。特に北内郭では大型の建物が登場し、吉野ケ里の最盛期にあたります。

 誠に簡潔にまとまっています。
 で、さて、先ず「ムラ」が出来たのでしょうが、「ムラ」とは何でしょう。広くない地域にさほどの数でない家族が住み着いたものは、未だムラとは言えないでしょうね。皆んな親戚の部落程度ですね。共通の水源地を持っていたとか、水神を祀ったとか、シャーマンがいて、病気を治していたとか。
 血が濃くなるのは望ましくないことは猿の時代からわかっていたので、娘は親戚ではないお隣さんの部落に嫁に出したのでしょう。で、お隣さんとも親戚になってきて、やがて、共通の祖先を戴くようになって来ます。広域の集まり、ムラの誕生と言えるのでしょう。

 ムラが集まってクニになります。クニとは、大林太良氏の言う宇宙樹(大きな楠の木の影などの話が風土記に見えます)があることが、クニと言えるようです。

 吉野ヶ里はクニの首都が置かれたムラであった可能性があります。このクニとは「楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国をなす。」の一つのクニであり、うまく遺跡が残ったものです。『邪馬台国と吉野ヶ里』の中で森浩一氏は「吉野ヶ里が最後の頃に大和の巻向遺跡が入れ替わるように姿を現す。」と意味深なことを言われていますが、全員が大和へ東遷していったのでしょうか。それとも疫病か戦争で死に絶えたのでしょうか。


[635] 鴨と市、最古の王権 15 東夷のクニ 4 吉野ヶ里2  神奈備 2004/04/01(Thu) 08:17 [Reply]
 吉野ヶ里遺跡をクニと見ますと、あまたあるクニの一つです。後の肥の国の一部の前身かも。そうしてこのようなクニが幾つかまとまって、倭国と呼ばれる列島を代表する国になるのですが、この統合のキイは何だったのでしょうか。現在の日本は統合の象徴としての天皇が存在しています。それと同じように、大宮司のような例えば卑弥呼の如き存在が必要だったのかも。何らかの宗教的畏怖心を与えるものがあったのでしょう。それが彼女の場合には鬼道だったと言うこと。また、各ムラムラのシャーマンを集めてパワーアップ訓練を行ったり、治療や薬剤の新知識を与えたりしており、皆んなで押し戴くに値する存在であったはずです。

 で、『卑弥呼が都した所』福嶋正日子氏が「漢の祖の国」とされた漢の祖とは秦のことで、秦の徐福のたどり着いた場所であり、クニを建てた所とされているようです。『漢書』では、「徐福は平原大沢を得、止まりて王となりて来らず。」と記されています。

 徐福は不老不死の方士と言うことで、何でも道教の教祖の福永光司氏によると吉野ヶ里遺跡にもその影響が残っているとされます。
 『馬の文化と船の文化』で故福永光司氏は、吉野ヶ里遺跡 と前2世紀のクニの王達が畏敬の的であった漢の武帝が秦山で行った封禅の祀りがそのレイアウトでそっくりであることを指摘されています。墳丘墓の南側に見られる祭祀遺跡と西南の方角から入る墓道や、墳丘墓の型が武帝鋳造の貨幣と同じ変形八角形であることなどを指摘されています。

 「NPOカムナプロジェクト」の黒川史明さんは、その独創的発想で、某歴史研究会を活性化されている方ですが、氏の説をひとつ紹介いたします。カムナプロジェクトは http://www.kamuna.net/ 。
 徐福の船団一斉にが列島に向けて船出をしても到着する場所はてんでバラバラになるはず。ある船は九州へ、ある船は熊野へ、丹後へ、東北へとたどり着きました。これは古代の航海では常識の話。で、事前に徐福はメンバーに「大和を目指せ。幾世代後でも言い。大和を目指せ。何故なら大和こそ不老不死の仙薬のある地。」と言い渡していたのです。水銀のこと。それで、先ず、物部の饒速日命、神武天皇、崇神天皇、応神天皇、継体天皇とそれぞれの地域で力を蓄えては順に大和へやって来た。」とのお話。 半村良の「アイララ」みたいな感じですね。



[636] Re[635]: 鴨と市、最古の王権 15 東夷のクニ 4 吉野ヶ里2  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/01(Thu) 18:06 [Reply]

≫森浩一氏は「吉野ヶ里が最後の頃に大和の巻向遺跡が入れ替わるように姿を現す。」

そのとき歴史が動いたですね。
この頃は寒冷ピークの時代です。
農耕の発達で縄文時代に比して10倍にふくれあがった九州の人口、その農耕が不振になれば飢饉と混乱。
環境がよい場所ならそこから姿を消す人はいないと思います。

AD150〜AD300頃は九州の暗黒時代→倭国争乱→豊かな場所を求める人々が東へ向かった。
大和の纒向を目指す人々もいた。
そこには唐古・鍵遺跡があって、纒向の登場と入れ替わるように姿を消す。
とすると、唐古・鍵の人々とは・・

ちなみに背振山(ソ・フルの山、だと思う)の北側の伊都国は400年頃に炎上して滅びるようです。
応神時代かな、単なる事故かなあ。
壱岐には「なになに触」という地名が無数にありますね。

吉野ケ里から出土する遼寧式の細身銅剣、これは半島の剣。少なくともある時期にはここに半島とつながり深い人々がいたということだと思います。




[637] 鴨と市、最古の王権 16 東夷のクニ 5 伊都国  神奈備 2004/04/02(Fri) 21:35 [Reply]
> 伊都国は400年頃に炎上して滅びるようです。

 これは知りませんでした。気の毒でしたがロマンをかき立てますね。大坂城。

 紀元ゼロ年の頃には、糸島半島は島であって、前原との間には水道があったようで、これは出雲でも素尊水道があったように、日本人がものごころがついてから海が埋まって来ています。河内湖や児島半島も同じようです。一時的ではないと言うことですから、寒冷化と言うよりは、野山の木々が燃料や家屋、造船のために大々的に切り倒されたり、焼き畑で坊主になったりで、土砂がドッシャと川に流れ込んだ結果と思われます。水田にあう土地が増加することにもなり、一石二鳥の効果となって人口増加を促進して、弥生時代から古墳時代と発展の土台がでたのでしょう。

 『魏志倭人伝』に伊都国の名があります。その説明を箇条書きにすれば次の通り。
 1.官を爾支といい、副官を泄謨觚・柄渠觚という。
 2.千余戸がある。
 3.世々王がある。みな女王国に属している。
 4.帯方郡使が往来するときつねにとどまるところである。
 5.女王国より以北には、とくに一大率をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。一大率はつねに伊都国において治めている。
 6.倭王の使が洛陽・帯方郡・諸韓国におもむき帰還したとき、帯方郡の使が倭国にいたりおよんだときは、みな津に臨んで伝送の文書とくだされ物とを照合点検し、女王のもとにいたらせるときに、差錯がないようにする。

 このうち、邪馬台国以前の事象としては、3.世々王があること、6.の交易の港であったことと言えます。怡土郡には、有名な三雲遺跡があり、遺跡を囲むように環濠があったようで、伊都国王の居城付近と見なされています。また、この遺跡からは大陸産の辰砂の原石が出土していますので、単なる交易の港だけではなく、権力者である王のような存在が確認出来ます。『後漢書東夷伝』の「安帝の永初元年(107)、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。」の帥升はこの国の王だったのかも知れません。

 大陸では今日でも小学校で日本のことを「小日本」と格下に見る教育を行っています。だから一部留学生は猿でも殺すように日本人を殺し、核兵器保有国として尖閣列島の領有権を主張してくるんです。中華は料理だけにしてもらいたいものです。
 古代に於いてもそのいまわしき中華思想はあったようで、列島は東夷でした。その中で、伊都国だけは佳字のように思えます。邪馬台国の邪、卑弥呼の卑、奴国の奴、倭国の倭とあまり良い字を使わないとされている中で、伊都国の漢字は光ります。帥升あたりが自国名をきちっと伊都国と書いたものを持参したのでしょう。当時の首都的な国が伊都国で、帥升は東夷を代表する王であったのでしょう。だから『後漢書東夷伝』にその名をとどめた。そうでなければ、夷投国、夷対国、為対国あたりの字だったのかも。



[639] Re[637]: 鴨と市、最古の王権 16 東夷のクニ 5 伊都国  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/04(Sun) 09:27 [Reply]

≫一時的ではないと言うことですから、寒冷化と言うよりは、
≫野山の木々が燃料や家屋、造船のために大々的に切り倒されたり

ある集団(地域)の衰退がなぜ起きるかですね。
殷(商)の首都が移転を繰り返しているのは青銅器生産と燃料用で山が裸になったからだという論があります。
青銅器用の燃料消費は生活用に比べたら桁違いに多いだろうなあ。

吉野ケ里などで一般人が食べていたのは縄文古来の採集によるものが大半で、稲の割合は少ないようです。
(出所ちょっと忘れましたが考古学資料です)
一般人が米を主食にできるようになるのは近世で、作る米のほとんどは租税であったのは歴史が示すところで、弥生だけそうではなかったとは考えにくいです。

米以外の食糧を得る場所は山だと思います。縄文と同じに。
山に無茶はやらないはずです、支配者も同じく(やってはならないことを覚えている限りはですけど)。
それで足りなくなれば他地へ展開する、もとの地が衰退することはありません。
(これが天孫降臨だと考えています、子孫拡大のための新しい土地の確保)

寒冷化への気候の変わり目では洪水や旱など異常気象が起きるようです。
稲作だけではなくすべての食糧供給が不安定になる。
そして、年々寒冷となってついに飢饉が続くようになる。

飢饉になれば脱出や掠奪もおきます。
新羅本紀でも飢饉による避難で倭人がやってきた、といった記事が登場する時代でもあります。
AD150〜AD400頃まで寒冷の時代が続きます。

九州は縄文時代に比して10倍に人口がふくれあがっていて、新たに開拓できる土地もなかった。
今を生き延びることを考えねばならず、本来やってはならないこともやったでしょう。
これが倭国争乱の勃発であり、吉野ケ里もこれに連動して衰退していったと考えています。

下図は時代区分に気候変動を重ねた図です。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/hennen.png
なお、時代区分はこれまでの定説によるもので、縄文晩期後半というのが弥生に含まれるようになりつつあります(持論でいう初期開拓者の時代)。

縄文の崩壊、倭国争乱が寒冷化の時期に一致し、中国での周の滅亡、後漢の滅亡も寒冷化が始まる時代に一致します。
再び温暖化が始まるのは400年頃からで、復興の時代。
応神〜倭王五代の時代、中国との交流も再開されて最新の渡来文化が一気に流入しはじめた。
(巨大古墳建設はエジプトのピラミッド建設と同じく、労働チャンス提供という民衆救済の意味もあった可能性を考えています)


弥生のこの地域の変化では甕棺のありようが重要なヒントになると思っています。
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html
(あいにく半島側の出土状況の情報がみえなくていまのところ関連づけがやりにくい)

興味深いのが弥生土器の代表名にもなっている遠賀川流域に甕棺がまったく出土していないこと。
文化が違う状況が存在してたことを示すものと思います。




[642] 鴨と市、最古の王権 17 東夷のクニ 6 伊都国 2  神奈備 2004/04/04(Sun) 21:12 [Reply]
 『魏志倭人伝』には、伊都国には、「3.世々王がある。」とあるのですが、王様の名は記載されていません。多分、知らせなかったのでしょう。また、「1.官を爾支といい、副官を泄謨觚・柄渠觚という。」と役人の呼称は記載されています。これも個人名ではないでしょう。
 この辺りの国々については要は個人名などは一切出ていないと云う理解でいいのです。すべて役職名ということ。なお、『柄渠觚』は“ヒホコ”などと読むことが出来るようで、何となく天日矛を思わせます。
 『筑前国風土記』の怡土の郡の條に「怡土の県主の五十跡手は、高麗の国の意呂山に天から降ってきた日鉾の末裔。」と自己紹介をしています。一方、天日矛は新羅の王子と言うことになっていますが、怡土郡には白木神社も鎮座、日矛の新羅とは伊都国のことかも。
 また、怡土郡には天降神社が6座も鎮座、祭神はそろって瓊瓊杵尊、これは天孫降臨の印象が強いので、そうなったのかも。『筑前国風土記』の日鉾の降臨の方が似合うのだが。

 尤も、「1.官を爾支(ニキ?)といい」を瓊瓊杵尊のこととしてからめるともう一つの青草話ができあがりそうです。

 神社名に「天」が付き、かつ菅原道真を祭神としていない神社の数について。
 筑紫の国の郡で多い順に
 三瀦郡 76  久留米市、大川市など
 山門郡 51  柳川市、大和町、瀬高町など
 企救郡 27  門司、小倉など
 竹野郡 24  田主丸町など
 三池郡 23  大牟田市、高田町など
 天孫族の拠点は北九州ではなく、築後川や矢部川の流域の有明海に近い所のようです。

 天*神社(除く菅原道真)の県別の密度(数/県の面積)で、福岡を100として多い順に。
 福岡 418社  100
 大阪 144社   91
 奈良 191社   62
 香川  95社   60
 佐賀 114社   56
 兵庫 348社   49
 愛媛 148社   31
 徳島 107社   31
 九州内部では福岡からの距離に応じて少なくなってきます。福岡と近畿地方の密度の濃さは納得できます。大阪の密度が高いのは山地が少ないこともあるでしょう。平地面積で云えば奈良も多いようですね。


[646] 鴨と市、最古の王権 18 東夷のクニ 7 伊都国 3  神奈備 2004/04/09(Fri) 11:25 [Reply]
 前の天*神社(除く管公)の密度表は、天孫族が福岡・佐賀から四国北岸を経由して大阪奈良に到っている足跡が残っているように見えます。しかしこのコースは神武さんのコースではありません。これは『大いなる邪馬台国』で鳥越憲三郎氏が主張される物部氏の東遷コースに符合します。物部氏は四国北岸を通っているのですが、これは吉備の国の勢力を避けたこと、また鉱床の豊富な中央構造線沿いを金属採掘の民のガイドがあってのことだと考えられます。

 物部の遠祖である饒速日尊の所有物が天神の子孫の持つものと同じと『日本書紀』で神武さんが認めているのですが、天*神社の足跡を物部氏のものと見るよりも、後世に天皇家となった天孫族の足跡と見るべきでしょう。天孫族は協力氏族の物部氏や大伴氏などと共に東遷して大和に入ったと言うことが言えるでしょう。また、それも五月雨的に、時には集中豪雨的にと、東に活路を求めたことがあったのでしょう。

 一体、天孫族は九州のどこに居たのか、です。天降神社の多い怡土郡、かっての伊都国と思われます。伊都国と言えば、ひょっとしたら『後漢書東夷伝』の「安帝の永初元年(107)、倭の国王帥升等」とある帥升がこの国の王様だったのかも知れません。神武天皇の兄君に五瀬の命と言う悲運の皇子がいましたが、伊都の背の君であって、帥升の末裔だったのかも。

 『魏志倭人伝』「世々王がある。みな女王国に属している。」と言う文章の意味ですが、その昔、伊都国王が東遷して女王国を建国、また後の伊都国王は女王国から派遣された一大率であるとか、かっての伊都国王の子孫であると言うことでしょう。邪馬台国の核となったのは伊都国と見るのがよろしいようで。
 神武天皇の子に神八井耳の命がいます。二代目天皇の綏靖天皇の兄君に当たります。筑紫の三家の連の祖と『古事記』に出ています。那賀郡三宅郷のことで、現在の福岡市南区三宅付近と思われます。怡土郡ではない所が苦しいのですが、伊都国と奴国の境と見て、一大率が睨みをきかすのにはいい立地だったのかも。



[647] 鴨と市、最古の王権 19 東夷のクニ 8 伊都国 4  神奈備 2004/04/10(Sat) 17:01 [Reply]
 伊都国に天孫族が天降って来る前には無人であったのではなく、安曇族や素盞嗚尊を奉じる先住の民がいました。特に糸島半島には、全てが全て古社とは言えないでしょうが、素盞嗚尊、稲田姫、五十猛命などの出雲の神々を祀る神社が目立ちます。五十猛命を祀る神社名はほとんど白木神社と言う名で、糸島半島と新羅の国と往来の盛んだったことが見て取れます。またやはり半島から伝来したとされる志登支石墓が糸島には多く、その側に白木神社(潤神社)が鎮座している所から見ますと、紀元前後からの祭祀があったのかも。
潤神社 http://www.kamnavi.net/it/tukusi/maebaru1.htm

 また、伊都国には天日槍の妻(阿加流比売)を祭神とすると云われる高祖神社(前原町大字高祖)や託杜神社(前原町大字多久)が鎮座、女神を天日矛が追いかける話、実は女神はおなり神で、船魂の神としての先導神で天日矛の旅路を護っていた神であったとも言えるのかも。これは、女神の託杜神社と地名の多久、これは船魂神に通じる名のようであることからの思いつき。これにつきましては拙HPの「船霊について」 http://www.kamnavi.net/jm/shipkonosk.htm を参照下さい。

 高祖神社、託杜神社の祭神の阿加流比売は渡来神ではなくこの国の神です。「我が御祖の国に行かむ。」と戻ってきています。難波の比売碁曾の社に坐す阿加流比売と『古事記』は記しています。難波の東小橋に鎮座する比売許曽神社の祭神は下照比売となっていますが、何故、同一視するような混乱が生じたのでしょうか。
 比売許曽神社 http://www.kamnavi.net/ym/hiboko/himekoso.htm 

 阿加流比売はタカソ、タクコソの神として祀られ、それは出雲へ伝播すると、多久神社の祭神として天甕津比女命、またの名の天御梶姫命、またの名の天甕津姫となります。悪神金星の天津甕星神の配偶神。また迦毛の大御神である阿遅須枳高日子命の后とされています。下照比売は阿遅須枳高日子命の妹神として顕れますが、妹は時として妻のこととされます。

 伊都国に天孫族が降臨して来て、それまで居た下照姫神を奉じる先住の民の一部は出雲や難波に新天地を求めていったのでしょう。いよいよ鴨の女神の登場となりました。



[651] 鴨と市、最古の王権 19-2 大和の国  神奈備 2004/04/12(Mon) 16:57 [Reply]
 東遷していった神武さんはどうなったのでしょうか。

 『日本書紀』等によりますと、その前に物部氏の遠祖である饒速日尊ご一行が大和入りを行っています。饒速日尊は「虚空見つ日本の国」と云ったとかで、この国の命名者としての栄誉を誇っています。なお、神武さんは「秋津洲」、大己貴命は「玉垣の内つ国」と名付けました。
 何故、饒速日尊は「日本」と云ったのか、どうやら長髄彦が神武さんの軍に抵抗した場所である草香は、彼らの拠点であり、難波の聖地であり、日の神を拝する所であり、従って日下と呼ばれていたのが日本のもととなったのでしょう。

 日下、鴨の女神の下照比売に通じる地名のようにも思われます。

 『旧事本紀』には、饒速日尊は高天原から先発隊的に派遣されて来て復命もしない内に亡くなったとあります。長髄彦の妹を妃として、物部の祖である宇摩志摩治尊を生むました。『古事記』では神武さんの後から大和へやって来たことになっています。『日本書紀』では、長髄彦を殺して神武さんに恭順の意を示すのです。
 天孫の端くれに位置づけられていますが、土蜘蛛の長髄彦と手を結び、後に裏切ると云うことですが、この時代に権謀術策が出来ることは立派なことであって、不名誉ではないとの観念があったのかも知れません。
 物部氏は生駒山系の東西を中心に畿内での力をつけていったのでしょう。

 神武さんご一行ですが、あっちこっちの豪族と争乱を繰り返し、三代目あたりでやっと大和へはなだれ込んだようです。

 神武さんの次からの天皇さんを祀る神社の特徴をリストアップ。
 綏靖天皇 圧倒的に熊本県と次に大分県。
 安寧天皇 橿原市吉田町 安寧天皇神社
 懿徳天皇 橿原市畝傍町 池田神社 http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/kasihara-shrine07.htm
 孝昭天皇 滋賀県大津市真野町 神田神社摂社棋神社(このもと)http://www.genbu.net/data/oumi/kanda2_title.htm
 孝安天皇 御所市玉手 孝安天皇社
 孝霊天皇 鳥取県へは遠征、岡山、広島は吉備津彦との関係?、高知は伊予の越智氏との関係?。
 孝元天皇 香川県、京都府亀岡市
 開化天皇 京都府亀岡市 小幡神社 http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/obata2.html

 三代目の安寧天皇でやっと大和に祀られます。その後少し発展して遠征も行っているようです。すんなりとは大和に入れたのでもないでしょうし、幾人の登美彦達と摩擦を起こしつつ数十年。所謂倭国乱ると形容される騒動をやらかしていたのです。後漢桓帝(147)から霊帝(185)の間。
 しかし事代主の末裔の鴨族とか師木の県主には比較的かわいがってもらっていて、嫁などを貰っていたようですが、大和全土を征圧するような力を持つまでには至っていないようです。辛うじて生き延びていたと云うことかも。

 大和盆地の南西の地域が拠点だったようです。



[652] 鴨と市、最古の王権 20 大和の国 2    神奈備 2004/04/13(Tue) 16:10 [Reply]
 大和の国で天孫族が徐々に力をつけて来ている頃、伊都国には五十瓊殖(いにゑ)と云う英雄が誕生していました。天孫族の裔と物部の女との間の子でした。この間に天日矛神を奉じる一派が入っているのかも。前に書いたように赤留比売神を祀るとされる神社も鎮座。伊都県主の五十跡手の”五十”が崇神さんや垂仁さんにあらわれていること、天日矛神の五世孫の田島守が垂仁さんに橘をと命がけ。近親者でないと出来ないこと。

 崇神さんは、倭国の乱の一角を担っていた九州の乱れを武力で統一、余勢をかって東へ向かったのです。崇神天皇を祀る神社は不思議なことに出羽の国に7社も鎮座しているのを別にすれば、九州に多いのです。福岡を中心に各県あわせて17社。大物主神と合わせて祀られているのが多いのです。相互に祟るのを牽制してもらうつもりでしょうか。
 神社一覧  http://www.kamnavi.net/jm/eiko.htm#sujin

 記紀には東遷の記録はありません。従ってそのルートは推測するしかありませんが、神武さんのルートに近かったのかも。問題は吉備の国ですが、『古事記』には吉備に将軍を派遣したのは三代前の孝霊天皇、『日本書紀』では崇神天皇、伝承が乱れていますが崇神さんの東遷時に、吉備を手なずけてその協力を得たのでしょう。推測に推測を重ねますが、霊力の傑出した倭迹迹日百襲姫命やその兄の大吉備津日子命を大和から呼び寄せて「言向け和したまひ」たと云う事。

 古代の戦いには巫女が先頭に立ったのです。前にTVで聖徳太子をやっていましたが、物部守屋軍には二人の巫女さんが付いていましたね。これは敵に呪詛をかけるためです。巫女の呪力の優劣が勝敗にかかわったのは、後世の口合戦にその名残があると云われます。『卑弥呼の墓』原田大六著では「呪詛を伽辞離(カシリ)、可之布(カシフ)、止古比(トコヒ)、乃呂不(ノロフ)と云う」とあります。カシは橿と同じで、橿の木で枷(カシ)をつくり、身動きを出来なくすると云う呪詛の意味があるようです。神武さんが宮殿を造った橿原、恐らくは天孫族の敵を身動きできなくする呪詛の意味があったのでしょう。
 止古比(トコヒ)のトコは床、大地の意もあります。銅鐸に関係しているのかも。

 で、傑出した呪力を持つ女が登場して、戦をやめさせ国をまとめる、卑弥呼や臺与を想起します。卑弥呼である倭迹迹日百襲姫命と弟分にあたる崇神さんが大和に乗り込んで、ついに倭国乱をおさめたのでした。邪馬台国と倭国の女王の誕生です。



[653] 鴨と市、最古の王権 21 大和の国 3  神奈備 2004/04/14(Wed) 10:23 [Reply]
 この青草話では最古の王権を邪馬台国と言っているのではありません。邪馬台国以前にあったのでしょう。卑弥呼の時代、崇神天皇の時代、これらがどのような国であったのか、この時代ですら推測に推測を重ねるしかありません。ましてや、それ以前の王権については、偶然に残って偶然に発掘された遺跡遺物や神話の世界から推し量るしかありません。

 大国主神や土蜘蛛の時代、たどりつけますのかいな。

 秀麗な霊山を「お山」と呼ぶことは、現在でもよく行われています。大阪では伏見稲荷をそのように呼んだりします。奈良の中洲ではたたなずく青垣の連山をお山と呼び、山とその麓に居住している縄文文化を基盤にした人々をヤマビトと言っていました。稲作や鉄、漁法を持った倭人が登場。倭人の中で祭りにたけた者が王になり、縄文人達と調整してヤマト集落を形成したのです。ヤマトの語源です。各地にヤマトはあったはず、大和が都となった故、この地が大和として残りました。

 素直に考えれば、邪馬台国は大和にあった国で、大和国と言うこと。その特徴。
 @ 国の名は地名の名から。大和神社の旧鎮座地付近がヤマトの中心地。
 A 時代は弥生末期から古墳初期、箸墓、西殿原古墳が傑出した存在。『考古学と古代史の間』(白石太一郎著)では、それぞれが卑弥呼と台与のお墓だとか。
 B 3世紀になれば、近畿、瀬戸内、山陰の土器が北部九州へ流入。逆の動きはない。東遷はなく、逆に侵攻か。上記書。
 C 瀬戸内海の東端である河内とその後背地の大和は東国への起点でもあること。
 D お山の神霊と交感する卑弥呼、台与というスーパー巫女の存在。

 北部九州は半島に近く、往古よりの人々の往来もあり、弁辰(加耶)からの鉄資源の持ち込み、交換の拠点であった。交易の港であった伊都国以西、またその東の豊かな後背地を持つ奴国が力を持っていました。しかしこの交易の権利は邪馬台国に持ち込まれ、一大率によって伊都国は制御されたのでしょう。



[654] 鴨と市、最古の王権 22 大和の国 4    神奈備 2004/04/16(Fri) 15:09 [Reply]
 『日本書紀:崇神紀』崇神八年
 大田田根子が大神を祭り、活日が神酒(みわ)を天皇に献じ、
 この神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久
 と歌をよみ、宴をもよおしています。「倭成す」とは「ヤマトナス」の訓。ヤマト国を建国した民人が奉じていた神が大物主神と言うことです。

 『崇神紀』では、崇神さんの時代、三輪山の神妻であった倭迹迹日百襲姫命が箸墓に葬られていると記されています。百襲姫姫は大和の大王(孝霊天皇となっている)の娘。
 箸墓は「傑出した巫女の墓で、その巫女は箸で陰部を突いて死んだ。」と言う伝承が残っていたと言うことでしょう。この死に方は珍しいので、永く語り伝えられたのでしょう。

 大物主のヤマト国を崇神朝が邪馬台国として引継ぎ、列島西部の乱れを治め、さらに大陸の魏の国から卑弥呼が倭王として認められて晴れてこの列島の盟主となることができました。

 崇神侵攻以前のヤマト国の支配者は大物主神の裔を名乗る鴨氏で、彼らを支えた同族の三輪氏、先に来ていた天孫族、物部氏などと他のヤマトの古い豪族達だったのでしょう。大物主神の裔としては三輪氏、大神氏、神人氏などがヤマトでは勢力があったのでしょうが、彼らは河内に拠点を設けることをせず、ひたすら山辺郡や磯城郡で活躍していました。一方、鴨族の祖神を祭る式内社は河内・摂津には数社鎮座し、数百年後にまでその痕跡をとどめています。ヤマトの王者たらんとすれば、河内はその港としても押さえておかねばなりません。同じく、紀の川流域も押さえる必要があり、鴨氏の拠点の葛城は河内と紀の国とに隣接しており、絶好の位取りをしていることになります。
 河内国石川郡 鴨習太神社(河南町神山)
 河内国高安郡 鴨神社(八尾市大竹)『古事記』で大田田根子が居た所の近所
 河内国澁川郡 鴨高田神社(東大阪市高井田)
 摂津国嶋下郡 三嶋鴨神社(高槻市三島江)
 後世、物部氏が跋扈した地域であっても、これほど鴨族の神社が残ったと言うことは感動的です。尤も、鴨習太神社の祭神は物部祖神に置き換わってはいますが、神社名は残ったようです。



[655] 鴨と市、最古の王権 23 浪速  神奈備 2004/04/17(Sat) 07:52 [Reply]
 志紀 藤井寺市 国府遺跡の状況
 弥生時代前期以降の水田、集落跡や周溝墓等が確認。弥生中期の水田跡から河内独特の石小刀、打製石器が大量に発見、板状の人形木製品が出土。現状では最も古い出土例だそうだ。
志紀県主神社、志紀長吉神社が鎮座。

 これらの初期水田の開発者を鴨族と言う気は毛頭ありませんが、瀬戸内海を東にやって来た安曇海人などが上陸して、先住民達と共に開拓したのかも知れません。その後、鴨族が鉄製農機具を持ち込んで本格的な農耕がなされたのでは。
 河内湖の南側での鴨系の神社としては、鴨高田神社、鴨習太神社、鴨神社が鎮座していることは前回に紹介。河南町大字神山に鎮座の鴨習太神社は現在は物部の遠祖饒速日命が祭神となっていますが、神社名からは鴨氏のはず。
 『日本書紀』神代紀に、下照姫の歌「天[あめ]なるや 弟織女[おとたなばた]の 頸[うな]がせなる 玉の御統[みすまる]の 穴玉はや み谷 二渡らす 味耜高彦根」更に歌って「天離[あまさか]る 夷[ひな]つ女[め]の い渡らす迫門[せと] 石川片淵[いしかわかたふち] 片淵に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来[こ]ね 石川片淵」と歌われたのです。この石川は国府遺跡の東で大和川と合流している石川で、遺跡付近は古来からの市である餌香の市のたった所。

 石川の片淵とは鴨習太神社の近くと言う。要は、鴨族は高台に居住し、ゆるやかな傾斜地を水田としていたようで、これは葛城の地形を見てもよくわかる所。
 「弟織女の頸がせなる玉の御統の穴玉はや」とは、「弟織女の玉を連ねた首飾りの玉の輝くこと」を読んでいるのですが、この輝きは太陽を言っているようには思えません。と言って通説のタタラの火が連なっているのでは弟織女を引き合いに出すことにはなりません。織女の登場している所からは星明かりでしょう。暗い天空の連なった輝き、明るい星の輝きなのです。金星と言いたい所ですが、はてさて。



[656] 鴨と市、最古の王権 24 狗奴国  神奈備 2004/04/19(Mon) 11:14 [Reply]
 物部氏や天孫族の祖先達は、河内にやって来て何も直ぐに鴨族と戦争したわけではないのでしょう。どっちかと言えば、八尾の平地に展開しているように平坦地好きの物部氏は、より湿地帯に水田を開拓していったのです。
 これは大和でも事情は同じであったものと思われます。共存の時代があった。鴨と物部の共存が高尾張や五百家で行われて、尾張氏、伊福部氏(五百木部氏)などが成立して、祖神としての天火明命や天香山命が生成されたのでしょう。それ故に伊福部氏の遠祖は大己貴命、直接の祖先は饒速日尊となっています。

 大和や河内の山地を鴨族や物部氏等が焼き畑、カンナ流し、木材の切り出し等で従来とは違う開発を行い、結果、土砂が河川に流れ込み、河内湖や大和国中湖を埋めていき、自ずから低地の物部氏の生産量が増加し、彼らがが優位にたっていったのです。
 さらに低地好きの物部系が港湾を支配するようになって、市の支配権、交易権が鴨族から離れていったのでしょう。列島の支配者が変わったとの認識が大陸にも伝わり、政権交代の序曲だったのです。

 加えて、呪術よりは武術の王権であったと思われる崇神軍の侵攻によって尾張氏や鴨氏、物部氏の一部は大和国から逃げ出して山城、近江、濃尾平野等に移住し、濃尾平野に狗奴国を建国します。
 山城は岡田鴨神社などに鴨族の足跡。また近江と美濃には天稚彦の足跡、即ち下照姫の足跡、また美濃と尾張には、味治須岐高彦根命の異名とも思われる天津甕星神と妃神天甕津日女命を祭る神社が鎮座しています。
 狗奴国濃尾説、最近よく言われる説にのっています。墳墓のありようと列島が南に伸びているとの陳寿認識を考慮した考え方のようで、有力な説と思っています。さて、鳥越憲三郎氏『大いなる邪馬台国』の中で、狗奴国とは葛野(クズノ→クナ)のこととされております。氏は葛城王朝と邪馬台国との対立を、大和平野の中のこととされていますが、『魏志倭人伝』に記載されるにしてはローカル過ぎる話。
 葛城の地から押し出されて濃尾地方へ展開した王により建国されたのが大陸での表記の狗奴国となったと見ることができます。葛城に居住していた名族、鴨氏が狗奴国を建国したのです。味耜高彦根神の後裔であり、悪神の天津甕星であり、天背男命。従ってこの神は尾張族の祖先とされ、また後裔は尾張大国霊神社の神官として連綿と続いたのです。



[662] 鴨と市、最古の王権 25 邪馬台国とその以前   神奈備 2004/04/21(Wed) 09:10 [Reply]
 卑弥呼が何故、倭国の盟主と成り得たか。『倭国の謎』(相見英咲著)に面白い説が載っているので紹介します。
 @ 邪馬台国王家の娘であったことによる尊貴性とカリスマ。
 A 霊能に優れていた。
 B 大国主・少彦名に現されている治癒技術に長じていた。
 C 酒つくりにも長じていた。卑弥呼の1000人の婢は、酒をかむ女、女医、看護婦、薬草、巫女などである。
 『倭国の謎』では、卑弥呼の邪馬台国を天孫族の国ではなく、国津神の国としています。もしそうならば、『魏志倭人伝』に銅鐸を思わせるような記述があっても不思議ではないでしょうが、好物として鏡のお話しか出てこないのは不自然なような気がします。千田稔氏は、邪馬台国の登場は、銅鐸祭祀から銅鏡祭祀への時代の転換と見ておられる程です。邪馬台国は天孫族の国です。

 卑弥呼の1000人の婢の中には、当然のこととして、最古の商いに従事する女達もいたのでしょう。市には裏側の機能も不可欠。豪族共は気分良く取り込まれたこともあったのでは。

 崇神王権が大和を支配してから三輪山の神を無視した状態が続きました。だからこの時代に、しばしば災害が起こることがありました。大神は「倭国の域(さかひ)の内に所居る神、大物主神」と名乗って、「国がうまく治まらないのは吾が意である。もし、吾が児、太田田根子を以て、吾を祭れば、たちどころに平安となり、海外の国も帰伏するだろう」との託宣をされました。

 太田田根子は『古事記』では河内の美努の村にいました。八尾市西高安町の鴨神社の西。『日本書紀』では茅渟県の陶邑にいました。堺市上之の陶荒田神社付近。いずれにしろ、河内にいた太田田根子を探し出し、大物主大神を祭る神主としました。
 鴨神社 http://www.kamnavi.net/en/kawati/sikiato.htm
 陶荒田神社 http://www.kamnavi.net/en/izumi/suearata.htm

 太田田根子、いよいよ三輪・鴨の祖の登場です。滅ぼされた王朝の末裔のようです。三輪山の神はよそ者に祭られる気持ち悪さ、よそよそしさに我慢がならなかったのでしょう。氏神として崇敬する者が祭って始めて神は機能すると言うこと。
 これで邪馬台国の前に大和を支配していた政権が見えてきました。三輪・鴨の王権と言うことです。



[664] Re[662]: 鴨と市、最古の王権 25 邪馬台国とその以前   恋川亭 2004/04/21(Wed) 22:00 [Reply]
ここだけちょっと。

>  卑弥呼の1000人の婢の中には、当然のこととして、最古の商いに従事する女達もいたのでしょう。市には裏側の機能も不可欠。豪族共は気分良く取り込まれたこともあったのでは。

『卑弥呼の1000人の婢』について私は、旦那持ち・子持ちの主婦であったかもしれない、と空想しています。卑弥呼には『夫婿無し』とありますが、婢についてはコメントしてません。豪族とその配下の一族の益荒男たちが、気を安んじて諸国平定・交易に出張する為に、強固なヲナリ組織が在ったかも。女王国の風俗の記述では、倫理道徳がしっかりしているような印象を受けるのですが。。。(イメージだけです)



[670] 鴨と市、最古の王権 26 邪馬台国以前 2  神奈備 2004/04/23(Fri) 11:51 [Reply]
 祭祀同盟と言う言葉があります。『倭国の時代』岡田英弘著に出てきます。神を祭って、その祭りに関係のあるいろんな国が同盟を結んでいる状態を言うようです。
 大己貴神を中心として、別の名の大物主神、同一神または御子神とされる事代主神、御子神の味治須岐高彦根神を祭る同盟が成立していました。ナニワ−ヤマト同盟と言えるのでしょう。
 また、このような基層の信仰・祭祀は、権力構造が変化しても、民人が根絶やしになることはないので、そのまま引き継がれていくことになります。邪馬台国の崇神朝になっても、祭りの道具は銅鐸から銅鏡に変わりましたが、結局大物主神は復活して祭られてきました。今日まで続いていると言えます。

 ヤマトでは大己貴神、事代主神、味治須岐高彦根神を祭神とする古社が鎮座、ナニワには味治須岐高彦根神を祭る神社が鎮座、他に、播磨、出雲、尾張にも鎮座、鴨の王国の範囲がおぼろげに浮かび上がってきました。

 大和には所謂出雲系の神々が多く鎮座しています。出雲系と言うと地域としては島根県東部に束縛されますので、やはり地祇とか国津神と言うのがいいのでしょう。とは言え、『和名抄』には見あたりませんが、大和に出雲と呼ばれる場所があります。三輪山・巻向山の南側の地域で、近年まで野見宿禰の墓があったと言います。相撲を取ろうと当麻に行くには半日程度の距離。
 大名持神が鎮座する神奈備山と式内社。
吉野郡の大名持神社 http://www.kamnavi.net/as/yosino/oonamuti.htm
葛上郡の大穴持神社 http://www.kamnavi.net/as/katuragi/oonamoti.htm
城上郡の大神大物主神社 http://www.kamnavi.net/as/yamanobe/oomiwa.htm

 全て相当な古社と思われます。この大名持信仰の発生源はどこでしょうか。また各地の大名持信仰は同じ信仰なのでしょうか、地域地域の開拓に従事した格別の村長の御霊を祭っていたのが集約されていったのか、等が解かれねば判らない話。難しい。
 大名持神を奉じた氏族は大和から出雲へ流れたのでしょうか、出雲から大和へやって来たのでしょうか、出雲と大和とはどちらが先だったのか、そのような問題のたてかたでいいのかな。
 出雲大社は有名な神社ですが、この大社の祭神は創建時から奈良時代末までは大穴持神、平安初期から延宝七年(1679年)頃までは素盞嗚尊、その後は大穴持神に戻っています。大穴持神の元社なら、途中で変わると言うことはあるんでしょうかね。



[672] 鴨と市、最古の王権 27 邪馬台国以前 3  神奈備 2004/04/24(Sat) 14:30 [Reply]
 『日本国家の成立と諸氏族』(田中卓著)から。
 出雲国の東の勢力−意宇郡−熊野大神(伊射那伎乃真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命)を奉じる氏族が西の勢力−出雲郡−大穴持神を奉じる氏族を圧倒して出雲国を形成したとされる史家が多い。熊野大神が素盞嗚尊とされている事から大穴持神がその御子神と位置づけられたのでしょう。
 所が出雲国には国引き神話があり、八束水臣津野神(古事記では淤美豆奴神)は大穴持神の所造天下の観念より先行しているようだ。

 神奈備の余談:八束水臣津野神の御子に赤衾伊野意保須美比古佐和氣能神、その妃神が天甕津姫神である。天津甕星神を彦神とした場合の彦姫ペアのの姫神。

 田中卓氏は『出雲国風土記』の各郡の地名説話の元となった神をリストアップされる。九郡中の意宇郡、嶋根郡、出雲郡の三郡が八束水臣津野神に因んでいることを指摘される。また国引きでは石見国、伯耆国にも関係する広範囲な信仰圏を持っている本来の出雲国の神であったと推測される。大穴持信仰は4世紀以前には希薄であったと結論される。

 田中卓氏は垂仁天皇の時代、新羅の王の子、天日槍の渡来譚を考える。播磨国宍粟邑に居た際、天皇は三輪君の祖大友主と、倭直の祖の長尾市を遣わして詰問している。この物語は『播磨国風土記』に大汝命また葦原志許乎命が天日槍と戦う物語として記述されていると想定し、大汝命は大和の神とする。また播磨の伊和坐大名持御魂神社の伊和は三輪であり、大名持御魂神社のルーツを大和とされるのだ。田中卓氏は以上。

 出雲国へは筑紫からの流れ、また大和からの流れもあったのでしょう。出雲はそのような拠点と成り得たのは、朝鮮半島との接点の一つであり、文明の最先端に触れることのできる地域であり、かつ往古は天孫族の手の及ばない所だったからでしょう。尤も、元天孫族の天穂日命の末裔が大己貴命を祭祀することになり、この神を持ち込んだことで、素盞嗚尊の後裔神となったり、味治須岐高彦根神の親神となったりしたのでしょう。大物主神のヤマト国を邪馬台国に譲ったお話が出雲の国譲りになって記紀に記載されたのでしょう。だから出雲とは無縁の事代主神が主役を演じているのかも。

 事代主神は大物主神の託宣神として、和解を勧めたということのようです。従って、その娘達が神武天皇と綏靖天皇の妃に、また孫娘で鴨王の娘が安寧天皇の妃になっていると『日本書紀』が記すのです。御巫の祭神八座の一。

 『神武紀』 夷を 一人 百な人 人は云えども 抵抗もせず
 エミシは100人力だが、手向かいはしない。それだけに従順で判りにくい国譲りだったのでしょう。



[673] 鴨と市、最古の王権 28 邪馬台国以前 4  神奈備 2004/04/26(Mon) 20:39 [Reply]
 事代主神の素性ですが、大物主神と同じように見られたりもしています。それにしては、エビス神として海民の奉ずる神となっているのは面白いことです。エビス神とは漁業の神で、事代主神は出雲で魚釣りをしてみたり、国譲りの託宣の後で船を傾けて隠れたと言います。
 また、海のない大和にも事代主神を祀る神社が鎮座、こちらは狩猟の神でしょう。鴨は捕らえられる対象物だったか。いずれにしろ、エビスの神は縄文時代より受け継がれてきた漁業狩猟の豊穣の神です。

 エビスで思い出すのが、最古の海人であろう志賀島の安曇氏で、その祖先の安曇磯良は別に磯良夷と称されています。イソラエビスです。事代主神はエビス神として漁業の神としても祀られているのですが、そのイメージは安曇磯良神を彷彿とさせるものがあります。安曇が原型だったのかも。不漁の際、若者に目隠しをさせて海底の石を拾ってこさせ、これをエビス神として祀ると言います。

 大陸の史書に「東夷」という言葉で列島の国が出てきますが、九州の磯良夷、近畿の事代主夷等の国を指しているのでしょう。天孫族では蛭子夷となります。列島の住民は元来エビスだったのです。後世、天孫族からはエビスをエミシとされ、土蜘蛛などとともに蔑視されて来たのです。
 夷は後世までこの国の支配者に逆らう者達との意味で使われているようです。征夷大将軍の呼称は150年前のこの国の支配者の肩書きでした。

 阿遅鋤高日子根命は漁業狩猟と云うよりは、鋤の字に惑わされて云いますと農耕の神、国土開発の神なのでしょう。農機具の製作も含めて、鍛冶の神の要素もあるのでしょう。この鴨の祖神を慕った下照姫は「石川片淵」の地名を織り込んだ鄙曲を歌います。「石川」、蘇我氏の本貫とも言われます。彼らの蘇我蝦夷、蘇我毛人とエミシを名乗る氏上が輩出されます。従って鴨の後裔として葛城の地を求めます。

 余談 鴨と難波のお話
 大阪の難波はミナミと云われ、南の繁華街で、庶民の町です。社用族跋扈の地ではないとの意味。その昔は、葱(ネギ)の産地として知れ渡っていました。「ションベンタンゴ」と云う言葉を耳にされたことがおありでしょう。ネギの肥料は小便で、桶(タンゴ)に小便を入れ、桶の穴から肥料を流しながら、畝を歩いていくのです。このションベンタンゴはきれいなものではありませんが、すらーと並んでいるのを見ますと、それなりに風景として美しく見えると云うことです。これが「ションベンタンゴも百荷」。
 で、葱の匂いは眼に滲むごときと形容されるのは肥料のせいだとの見方があります。「鴨が葱を背負って来る」と云う餌食となる人間を馬鹿にした言い回しがあり、「鴨る」と云う言葉で残っています。
 鴨肉には葱がよく合うようで、鴨葱を鴨なんばんと云います。なんばんは南蛮ではなく難波の事で、葱の意味。
 偶然でしょうが、出雲蕎麦での鴨なんばん、名物です。鴨、難波と出雲をつなくのは今に始まった事ではありません。

 鴨なんばんの鴨は合鴨、即ちあひる、漢字では家鴨、飛べなくなった鴨のこと、不具の鴨をアヒルと云い、浪速ではこれをヒルと云います。不具の蛭子神は鴨の神の零落した姿だったのです。



[674] 鴨と市、最古の王権 29 邪馬台国以前 5 浪速  神奈備 2004/04/29(Thu) 13:05 [Reply]
 なにわ、なの国の一つ、倭人伝に奴国が二つあり、博多と浪速かも。太陽祭祀の場と云う説があります。長随彦の日下とは押し照るなにわの聖地で、後に日本と云う漢字になり、国号になりました。ニホンではなくニッポンが正しい読みなどと云っていますがとんでもない事で、「ひのもと」がこの国の本来の名前であることは、いきさつから明らか。ニッポンと云う読みは大陸が勝手に読んでいるだけで、我が国の名は我が国の読み方によるべきでしょう。
 五輪ではジャパンからニッポンへ少しは進歩したようですが、さらに、ヒノモトへと進むべきでしょう。

 古代の王権は何故、大和を目指したのでしょうか。最近発行された『大和誕生と水銀』(田中八郎著)には、宇陀の水銀の存在が強調されています。そこは鋭い観点だと思います。しかし宇陀に都があったとは言われていません。採掘と精製の現場よりは、流通させる市場に都を置いたのでしょう。

 大和と不可分に浪速が王権にとって重要な存在でした。
 浪速の上町台地、現在の大阪天満宮付近から住吉大社を通る台地です。ここには竜脈がはしっており、聞くところによりますと紀州熊野の果無山脈を経由して、室生から大和へ流れていると云います。中央構造線と龍脈が交差しているのが、宇陀であり、吉野です。宇陀の丹沙はこれによるのでしょう。

 呪術の時代、大和と浪速を征する者は日本を征すると云うことでした。
 下照比売の系統の巫女達は後の世の卑弥呼と巫女達のような役割を果たしており、託宣、酒造り、調薬・施薬などの医療、機織りなどに従事する女軍を束ねていたのです。

 統治機構がどの程度整っていて、徴税などがどの程度なされていたのか、これは推測するしかない所です。王家の本家と分家、郎党、使用人、小作などで構成された大家族のようなものよりはより包括的で、多くの氏族の連合が行われていたものと思われます。邪馬台国はその仕組みを受け継いだと見ていいのでしょう。

 国家の仕事
 占いと祭祀 恋川亭さんご指摘のおなり
 対外折衝
 王家の家政と警備(祖神祭祀、国家の財産、官僚組織、親衛隊)
 防衛と攻撃(王家の軍、豪族の軍)
 警察、司法
 金属資源の確保、精錬、鋳造
 港湾管理と徴税
 宣伝工作(土蜘蛛の教化)



[675] 鴨と市、最古の王権 30 邪馬台国以前 6 浪速2  神奈備 2004/05/01(Sat) 09:31 [Reply]
 式内社で言えば阿遅須伎高比古根神の御子神の塩冶比古能命は出雲国神門郡鹽冶神社、多伎都比古命は出雲国楯縫郡の多久神社、阿遅速雄神を祭る神社は摂津国東成郡(大阪市鶴見区放出)の高台に鎮座しています。出雲国神門郡は出雲神門臣の拠点でしたが、三輪の神主となった大田田根子は出雲神門臣の娘である美気姫を妻としています。これは『旧事紀』記載の記事です。崇神帝の周辺では神を祀っていたのは百襲姫などの女性でした。従って大田田根子を女性とする説があります。「根子」は女帝の元明天皇が日本根子ですので男とは限らないこと、また『神代紀』に大物主の子として、甘茂君等、大三輪君等、又姫タタラ五十鈴姫命と並べて表示しており、甘茂君等、大三輪君等の祖は大田田根子のことのようですので、いかにも女性を並べたように感じています。しかし『旧事紀』では妻を迎えるとあり、男か女かよくわからない所。
 姫タタラ五十鈴姫命は神武天皇の后となっています。二代目天皇の兄である多(意富)氏の祖の神八井耳命の母、この多氏の流れが大田田根子の大に残っている可能性もありそうです。また河内でも最古とされる藤井寺の国府付近の統治者は多氏の末裔。

 浪速は鴨族の支配する国で、早期に水田稲作が営まれていました。なだらかな斜面を切り開いての広くない水田だったのでしょうが、それでも鉄の鋤や木材を加工する鉄器がなくては水田を耕すことはできなかったでしょうし、水路の板材も作れなかったのです。素晴らしい鋤を入手できる貴い御方としての神名が阿遅須伎高比古根神の一つの要素です。鴨族は筑紫の宗像海人を利用してか、または出雲経由だったのでしょうか、海の彼方からの板状鉄斧の入手を行っていたのです。

 浪速は瀬戸内海の突き当たりで、河内湖から大和国中への水路もありましたが、この場合、途中の津で川船に乗り換えることもありました。そこは港町として、自ずから市場が形成されました。遠い国からの海の商人との接点でありました。当然のことながら、大陸や半島の商人達をはじめ、筑紫などからもやって来ました。また大和、山城などからも商品と情報を求めて商人達が集ったのです。藤井寺の国府付近の橘の木が生えていた餌我の市はその一つ。

 『魏志倭人伝』に「国国有市。交易有無。使大倭監之」とあります。大倭を女王の派遣官吏として身分の高い倭人との説がありますが、そうだとすれば王権は関税を徴収していたのでしょう。
 交易品としては、浪速や大和でほしい物は、鉄、稲作技術、貝の腕輪、銅、ヒスイ、諸国の情報、逆にやって来た商人達がほしがったものは、砂金、丹沙、穀類、干物、ヒスイ、女、生口、また九州などの商人は黒曜石、サヌカイト、毛皮、塩、布などもほしがったのでしょう。
 鴨の商人は東国や信濃の同族や親しい氏族を訪ねていき、物資を入手して、海外の商人と交換したのです。砂金は遥か蝦夷の商人との交易で買い付けていたのかも。



[676] 鴨と市、最古の王権 31 鴨族の移りゆく場と時  神奈備 2004/05/02(Sun) 20:52 [Reply]
 大己貴神を奉じるヤマトの人々の支配者は葛城に拠点を置く鴨氏、磯城の三輪氏などが中心となっていました。この鴨族からの派生親族として、葛城氏(鴨氏と渡来人)、尾張氏・伊福部氏(鴨氏と物部氏)、分家の宇陀の建角身神(八咫烏)を奉ずる賀茂氏などが大和の各地に点在していたのです。天孫族の侵略軍に対しての対応はそれぞれであったことは記紀などに記載されています。
 賀茂氏は、後に山城の賀茂郷と出雲郷を得ることになります。
 旧ヤマトの勢力は濃尾平野の狗奴国に合流、邪馬台国に戦いを挑んだのですが、敗れ去り狗奴国の残党は東国に落ち延び、常陸国等で味耜高彦根神の名を憚って天津甕星神と崇めて王国を作ったのです。
 伊福部氏は各地で銅鐸などを造っていましたが、これが邪馬台国の支配国では禁止されたので、周辺国に展開するも銅鐸は急速に衰亡していきました。しかし金属精錬鋳造の技術者集団として各地で重宝されました。
 葛城氏は鴨本家を上回る勢力となり、後世の王朝変遷に多大な影響を与えてました。

 鴨本家は、縄文からの原住民である土蜘蛛、葛、国津の民を保護していました。彼らに慕われていたので、後の大和王権からもその懐柔策もあり、鄭重に扱われ、この国での最古の王族として、祖神の味耜高彦根神は迦毛の大御神と大御神の称号で呼ばれたのです。また事代主神は宮廷内で御巫等祭神八座の一として鄭重に祀られました。夷への配慮もあるようです。

 鴨−葛城−蘇我と血脈は続いていました。蘇我馬子−蝦夷−入鹿と権力をほしいままにし、その間に物部本家を討伐しています。馬に始まり鹿に終わった蘇我をバカにしてはいけません。 ”蘇”と言う牛乳を煮て固めたチーズ風の食べ物があります。コンデンスミルクのような味。出所を忘れましたが、その栄養食品である「”蘇”は我のもの」、と言うのが蘇我氏の意味だとか。

 蘇我氏は紀氏などと同じく武内宿禰を祖とする氏族と言うことですが、紀氏の秘密系図によりますと、祖先に素盞嗚尊の名があるのです。蘇我氏も同じと思っていいのは、出雲の須佐神社の横を素鵞川が流れており、出雲大社の本殿の真後ろにーあたかも奥宮のごとくー素鵞社が鎮座、素鵞川も流れています。国津神の大祖先となる素盞嗚尊を祭っているのは蘇我氏なのです。仏教を守護したのも事実でしょうが、日本の神々をも大切にしています。



[677] 鴨と市、最古の王権 32 鴨族の移りゆく場と時 2  神奈備 2004/05/03(Mon) 09:26 [Reply]
 濃尾平野の狗奴国に合流した鴨族、尾張氏、伊福部氏達は邪馬台国と覇権を争いましたが、結局敗北したようで、山間、沿岸奥地や東国へ落ち延びたのでした。

 美濃国の星神・香香背男命を祭る神社四座は全て加茂郡に鎮座しています。加茂郡には加茂神社も多く鎮座していますが、阿遲志貴高日子根命を祭神としている神社は見受けられません。山城の賀茂の系統か加茂県主の祖としての彦坐命を祀っているのです。加茂郡で迦毛の大御神は星神香香背男命の名で祀られていると言うことでしょう。

 美濃国で阿遲志貴高日子根命を祀る神社は四座あり、全て武儀郡に鎮座しています。長良川沿いの武儀郡は木曽川沿いの加茂郡の西側と言うことになります。武儀郡は牟義都君氏(牟毛津氏)の拠点で、『岐阜県史』によりますと、牟毛津氏と美濃の東部に多い伊福部氏とは同族だとしています。

 『記紀』によりますと、阿遲志貴高日子根命は死んだ天若彦命と間違われて、怒って喪屋をぶっ飛ばした先が美濃の喪山で、武儀郡藍見山(美濃市)とされています。物語は神話ですが、鴨族が当地へ移動したことがベースになって語り継がれたのかも。

 牟毛津氏は、後世に『丹生祝氏籍記』に登場します。品太天皇が丹生都比賣神社に、犬甘として、蔵吉人と、三野の国の牟毛津と言う人の子で、犬黒人と言う人を寄進された。と出てくるのです。犬甘の足跡は奈良県五條市に見えます。五條市に犬飼町があり、犬飼山転法輪寺の鎮守に丹生明神が祀られています。当地は金剛山の南麓で、少し北には高鴨神社(高鴨阿治須岐託彦根命神社)が鎮座、当地からこの神を奉戴して美濃に行った部族の末裔は犬飼として再びたちあらわれたとでしょう。

 葛城の地を本拠としようとしますと、記の川の運行を押さえねばなりません。河口の名草を支配するのか、支配者との祭祀同盟が必要だったのでしょう。

 大田田根子命の子が大御気持命、その子が直接の大和の鴨氏の祖となる大鴨積命です。この大御気持命ですが、紀氏の系図で御気持命の子孫が名草戸畔、その後裔は紀氏の祖とされる天道根命です。御気持命が唯一の存在とすれば、鴨氏と紀氏とも何も素盞嗚尊にまで遡らずに親戚だったと言えます。同族的な意識があったと言うことは頷ける所です。
 大田田根子命系図 http://homepage1.nifty.com/moritaya/kamokeifu.html
 紀氏の系図 http://www.kamnavi.net/kinokuni/historykisi.htm



[678] 鴨と市、最古の王権 33 常陸国  神奈備 2004/05/04(Tue) 11:45 [Reply]
 『常陸国風土記』によると、所謂まつろわぬ民である土蜘蛛がしばしば登場してきます。
 茨城の郡 国巣(土蜘蛛、八束脛)で、山の佐伯、野の佐伯が穴倉に住んでいた。穴居生活者。狼の性と梟の情を持つと形容される。茨蕀(うばら)を穴に入れておいて追い込み、退治されてしまった。茨城の語源で、土蜘蛛を一網打尽にした葛城と説話と似ています。

 行方の郡 郡役所の西北に提賀の里がある。昔、手鹿(てが)と呼ぶ佐伯が住んでいた。
 ここから北は曽尼の邑で、疏祢毘古と言う佐伯がいた。

 郡役所の南七里の男高の里に佐伯の小高というものが住んでいた。

 夜刀の神が登場します。箭括氏の麻多智が葦原を開拓しようとしたが夜刀の神がさまざまな妨害をした。そこれ山に追い払い、標の杖を境界に立てて、上は神の土地、地は人の田、と宣言、そうして神を祀ったとある。後の世になって再度現れ、追い払われている。やはり土蜘蛛だろう。

 板来の村に建借間命が留まっていた時、安婆の島の東に国栖の夜尺斯、夜筑斯(やさかし、やつくし)という二人の指導者に率いられていた。杵島ぶりの歌舞音曲で誘い出して皆殺しにしたと言う。肥前国の杵島の歌垣での民謡を「杵島ぶり」と言うようですが、九州の言葉から考えると、サカシは抜け目ない、ツクシはつつき回す、と言うことで、やはり土蜘蛛の形容の言葉。何故、杵島が登場するのか、筑斯が出てくるのかですが、筑波が紀の国であったり、安曇の末裔であろう安是の嬢子が登場したり、人々の流れは東へ向かっていたのでしょう。

 もう一つは国栖のいた安婆の島ですが、船が安心できる港の島と言う説がありますが、青草的には金星の鞍馬を思わずにはいられません。

 行方の郡当麻の里に鳥日子という佐伯がいた。

 芸都の里に寸津毘古、寸津毘女と名乗る二人の国栖がいた。彼らは従順でした。

 久慈の郡 静織りの里がある。太田里の北の薩都の里に昔土雲と名のる国栖がいた。薩都神社と言う式内社が鎮座、この奥宮は御岩山とされ、その巨石の林立する様は圧巻だとか。
 薩都神社 http://www.genbu.net/data/hitati/sato_title.htm
 御岩山 http://www5f.biglobe.ne.jp/~h987/yamatabi/yamatabi_7.htm

 このように行方の郡は土蜘蛛、佐伯の巣である。

 さらに『常陸国風土記』行方の郡
 無梶河(かじなしかわ)から郡の辺境まで行き着いた時、鴨が飛んでいるのが見えた。倭武天皇が射ると弦の響きに応じて地に落ちた。その地を鴨野と言う。現在の行方郡玉造町だそうだ。鴨の宮と言うのが鎮座、祭神は日本武尊。
 鴨の宮 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Cosmos/4774/page107.html
 この伝承は何だろう。日本武尊は鳥を射るのが趣味だったのか。他の国の風土記に出てくるのだろうか。
 白鳥と鴨とは仲が悪いのか?醜いアヒルの子の物語を思い出すよ。

 要するに、行方の郡は土蜘蛛が多く住んでいました。これらを統率していたのが、鴨族の残党、それを大和の王権の兵士がうち破ったと言うこと。

 鴨の宮から距離はあるが、西茨城郡岩瀬町に鴨神社(鴨大神御子神主玉神社)が鎮座しています。
 玄松子さん http://www.genbu.net/data/hitati/kamoookami_title.htm 大田田根子命を祀る神社。鴨の種類でミコアイサ、神子秋沙と言う白黒のパンダもどきがいますが、連想する神社名。

 大和でもそうだったですが、鴨族は土蜘蛛、国栖の統率者。鴨族の出自がそうだったと言うこと。



[679] 鴨と市、最古の王権 34 常陸国と陸奥  神奈備 2004/05/05(Wed) 16:28 [Reply]
 これが最終回。いささか冗長気味の上に「市」については実に中途半端。
 「市」には、神社につかえる巫女の意味があり、これは上方でも常陸でもそう言う。柳田国男『巫女考』にそう」書いています。常陸では大市、小市と、市子などと言うようです。卑弥呼がねむるかも知れない箸墓は大市と言う場所にあります。大巫女王に相応しい地名。

 天日矛を詰問に行った大友主と長尾市ですが、長尾市は大和大国魂神を祀り、また子孫は出石神社の宮司家をやっています。これも「市」、巫女だったのかも知れません。

 余談はさておき、『日本書紀』(神代下)
 一書(第二)にいう。天神が経津主神、武甕槌神を遣わされて、葦原中国を平定させられた。ときに二柱の神がいわれるのに、「天に悪い神がいます。名を天津甕星といいます。またの名を天香香背男です。どうかまずこの神を除いて、それから降って、葦原中国を平らげて頂きたい。」と。倭文神建葉槌命を遣わして征服させたとのこと。 倭文は布、これは魂をつつむと言う。

 日立市大みか町に大甕神社が鎮座、武葉槌命を祀ります。『大甕倭文神宮縁起』(志田諄一氏は江戸時代作と見る。)では、甕星香香背男が巨岩に依っていたのを討ったと言います。巨岩は戦前に軍が道路を通すべく砕いてしまったようです。依っていたのが甕星でなく、天津神なら軍も迂回したのかも。
 倭文神が蹴っ飛ばして巨岩がバラバラになり吹っ飛んで、各地に落ちたと言う話もあります。
 大甕神社 http://www.yominet.ne.jp/hitachi/city/mukashi.html

 大甕山の戦い検証 http://f26.aaacafe.ne.jp/~hiroji/kakaseo19.html
 を紹介しておきます。このHPに「香々背男のことをカウラザメと言う。」とあるのは面白い。甲羅鮫?夷かな。

 大和の葛下郡の当麻に葛木倭文坐天羽雷命神社が鎮座、当地は二上山の北側にあたり、河内と大和との境でもあり、要衝です。ここに倭文神が鎮座しているのは、まさに葛城の鴨族を北側から圧迫するのに相応しい場所。倭文神は大和で鴨氏を追い払い、また常陸国でも打撃を与えたのです。
 葛木倭文坐天羽雷命神社 http://www.kamnavi.net/as/katuragi/kzkamori.htm

 倭文神ですが、伯耆の国の一の宮である倭文神社には建葉槌命と下照姫等の鴨の神々が祀られています。川村郡は下照姫に縁のある地です。やはり甕星退治の一環として倭文神が現れたのかも知れません。
 当地が甕星の支配地だったとしますと、下照姫又の名を高照姫は、やはり宵の明星又の名を明けの明星とする青草説が成り立つのかもしれません。神奈備山には金星は似合うものです。
 倭文神社 http://www.genbu.net/data/houki/sitori2_title.htm

 『常陸国風土記』では逆らう土蜘蛛は全滅させられたように書いていますが、どっこい蜘蛛の子を散らすように陸奥に逃げて行きました。『陸奥国風土記逸文』の八槻郷に八人の土蜘蛛が日本武尊に退治されたお話が残っています。黒鷲、神衣姫(かむみぞひめ)、草野灰(かやのはい)、保々吉灰(ほほきはい)、阿邪爾那姫(あざになひめ)、栲猪(たくい)、神石萱(かむいしかや)、狭礒名(さしな)と言う名だそうです。八人の土蜘蛛の首領に当たった矢から槻の木が生えたので、八槻の郷と言うとあります。
 草野灰、焼き畑の灰のように多くの民がいたのかも知れません。
 狭磯名、事代主神社の鎮座する阿波国長邑の人で、深い海に潜って絶命した漁夫の狭磯を思い出します。安曇氏の一人でしょう。
 神衣姫と神石萱の子孫は生きながらえたそうです。彼らが祖先の味耜高彦根命を都々古別神社に祀ったのでしょう。この神社はかっては陸奥国の一の宮です。福島県東白川郡棚倉町大字八槻や大字棚倉に鎮座しています。
 馬場 都都古別神社 http://www.genbu.net/data/mutu/tutuko2_title.htm
 八槻 都都古別神社 http://www.genbu.net/data/mutu/tutuko_title.htm

 土蜘蛛の子、都都古別、星の王子様、味耜高彦根命の物語。完



神奈備にようこそ