都麻都姫神

[5956] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 1  神奈備 2005/01/17(Mon) 17:35 [Reply]
いささか気が重いのは、宮司さんは式内社の都麻都姫神社であると信じておられるのですが、小生は違うと思っています。結論でもめるかな。

1. 伊太祁曽神社の御祭神
 祀られている神様は五十猛神、大屋都比売神、都麻都比売神のお三方の神様で、共に素盞嗚尊の御子神と『日本書紀』には記載されています。『日本書紀』とは今残っている日本の最古の歴史書です。これによりますと、素盞嗚尊は高天原で大暴れして、追放されるのです。この時に、その子、五十猛神を率いて、新羅の国に降りられて、曽尸茂梨(ソシモリ)の所においでになった、そこでこの国にはいたくないのだ、と言われて、出雲の国の簸の川の上流にある鳥上の山についた、とあるのです。

 更に、以下の事が書かれています。
 五十猛神は天降られる時に、たくさんの樹の種を持って下られた。けれども、韓地に植えず、全て持ち帰って筑紫から初めて大八洲の国の中に播き、全部を青山とした。このため五十猛命を名付けて、有功(いさおし)の神とする。紀伊国においでになる。

 続いて『日本書紀』には、別の伝承が書かれています。
 素盞嗚尊が言うのは「韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。
 「わが子の治める国」とは、この日本列島のことです。これが公式歴史書の『日本書紀』の中に出てくるんです。この国の最高神とされていたと言う事です。沖縄以外の全ての都道府県に祀られています。

 天津神の天照大神が現れる以前のこの国の神々としましては、素盞嗚尊の系列が最も神威の強い神々だったのです。天照大神さんのグループを天津神、そうでない神々を国津神と言います。五十猛命は国津神の中の大神だったと言う事です。

 『日本書紀』は続いて、「素盞嗚尊は、そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟をなした。」とあります。素盞嗚尊は木々の用途として杉と樟は船、檜は宮、槙は寝棺を造るのに良いされ、そのために木種を播こうと申され、その子の五十猛神,大屋都比売,都麻都比売の三柱の神がよく木種を播いた。 五十猛神は「紀伊の国にお祀りしてある」と記載されています。

 ここに大屋都比売,都麻都比売の女神が出てきます。五十猛命の妹神とされています。伊太祁曽神社の本殿の左右の脇宮に祀られている神様です。

[5957] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 2  神奈備 2005/01/18(Tue) 17:27 [Reply]
植樹の神々

 皆さんは「焼き畑農業」をご存じですよね。やっていた経験のお持ちの方もおられるかもしれませんね。縄文時代後半から1950年代までは多く行われていました。山裾の区画を一部焼いて。そこに芋等を植えるんです。粟、稗、豆、5年位で次の山裾に移ります。跡地は、自然の復元を待ちます。再び森になるのを待つんです。おそらく、苗木を植えてやると、復元する期間が短縮できたんではないでしょうか。

 実際の所、日本の山は元々木だらけだった。平地もそうだった。そこへ積極的に木を植えるのは、何かの理由で木がなくなっていたんです。一つは焼き畑で木がなくなる、何かの拍子に山火事で木がなくなる、もう一つが、金属製錬のための「炭」を得るために木を取り尽くす、その他建築や造船や橋をかける為に木が切られたのです。

 ご承知の通り、山林はダムの役割を持っており、復旧することは渇水対策と洪水対策に不可欠だった。また大阪の淀川流域もそうですし、紀の川の流域もそうですが、縄文から弥生時代あたりにかけて平野が大きく生成されています。国生みに見えた事でしょう。これは焼き畑と炭焼きが山の土を流したんでしょう。
 問題は洪水です。これが国生み、次に木の神、そして治水が出来て国土開拓の神、と一連の神々が出てきたのです。

 有功の神とは、もっぱら役に立つ木々を植えたからとの解説をされる人もいます。家屋や船に向いている木々の他に果物、蚕の桑などをさすのでしょうが、青山とした事そのもので有功とされています。山に木々が多いと、保水率が桁違いに高まります。豊かな水の源です。 いろんな用途に使えて、最後はタキギか肥料にもなります。木は加工も容易なまれにみる良質な材料です。人工の化合物ではできない命を持つ高分子材料です。

 ここいらにこれからの世に伊太祁曽の三柱の神々が果たしうる大きい役割が見えているであろう思います。植樹により、また森を守り、地球環境保全、温暖化防止、自然を守り、その良さをアッピールする、まさに、今の時代にふさわしい神様です。

[5958] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 3  神奈備 2005/01/20(Thu) 08:38 [Reply]
三兄妹の上陸 出雲

 島根県大田市に五十猛町(いそたけ)と言う町があります。魚釣りで有名な所です。ここに素盞嗚尊と御子神の上陸伝説があります。素盞嗚尊と二人の女神とが別れた神別れ坂と言う坂があります。韓神新羅神社(大浦神社)に素盞嗚尊、大田市大屋町に大屋姫命神社、抓津姫命は石見の物部神社の漢女神社に祭られています。大田市の五十猛神社には五十猛命。

 出雲に上陸する前に、隠岐島に上陸したのかも知れません。と言うのは隠岐島に都万村大字都万なる地名があり、天健金草神社、幣之池(しでのいけ)神社に抓津媛命が祀られています。

 出雲からこの神々はどう移動していったのか、日本海側を東へ北へと移動したのでしょう。隠岐島に渡津神社があり、五十猛命を祭神としています。佐渡島にも同じく渡津神社があるのです。途中で能登半島などの寄りながら、北を目指したのでしょう。しかしながら抓津比売命は日本海側にはあまり痕跡は残していないようです。 

 素盞嗚尊が降臨したとされる鳥上峰(船通山)の付近に、鬼神神社と云う名の神社があります。ここは五十猛命の神廟とされています。五十猛命がここに治まったのであれば、紀の国へは誰が来たのでしょうか。

 うそかほんとうか判らない話ですが、韓国で聞いたお話。「素盞嗚尊は女神二人と五〇人の武者を引き連れて出雲へ渡ったと云うことです。」五十猛命を五〇人の兵士としています。五〇の神廟があってもいいのですが、想像するに韓国人が日本書紀を読み間違った可能性もあるようです。

 有名な八俣大蛇退治に五十猛命が加勢したとこの地方で云われていますが、これは江戸時代に出雲に持ち込まれたお話のようです。

[5959] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 4  神奈備 2005/01/21(Fri) 11:34 [Reply]
三兄妹の上陸 九州

 佐賀県杵島郡に妻山神社が鎮座しています。御祭神は抓津姫命、抓津彦命となっています。この抓津彦命とは抓津姫命の兄なのか亭主なのかですが、とにかく男神の抓津彦命が現れました。この神社の近くに杵島山三山があり、ひとつが勇猛山、ここに御子神が鎮まり、後の二山は天神と女神と云われています。この勇猛山が振るえると戦が起こると云われています。勇猛神とは五十猛命のことです。

 さて、宇佐八幡宮を祀った氏族に辛島氏と云う氏族がいまして、その家に『辛島勝系譜』なるものが伝わっています。
 素戔嗚━━五十猛━━豊都彦━━豊津彦━━都万津彦━━曽於津彦━...━宇豆彦━━辛島勝乙目━>
 五十猛命の曾孫に都万津彦がいます。妻山神社の由緒は、五十猛命を祀り、妹の抓津姫命を配祀したとあり、曾孫の都万津彦もまた五十猛命とされて祀られているのでしょう。
 九州では基山町に荒穂神社が鎮座、ここには五十猛命が植樹を始めた山との伝承があります。五十猛命は基山の頂上にある玉玉石に座って下を見ていたら、洗濯していた娘が目に留まり、基山の東の「契り山」で結婚したと伝わっています。娘は園部谷サコの姫だったと云います。神の降臨を待つ巫女だったのでしょう。

 園部、有功と云う名が出てきます。紀の川の北岸の伊達神社も五十猛命をお祭りしています。ここも園部の有功です。ゆかりがあるのでしょう。

 抓津姫命の足跡は九州で途絶えますが、おそらくは瀬戸内海を通り、紀の国にやって来たのでしょう。

[5960] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 5  神奈備 2005/01/22(Sat) 20:51 [Reply]
紀の国に鎮座

 『日本書紀』では、五十猛命は筑紫から始めて大八洲の国の中に播き増やして、全部青山にしてしまわれた。このために五十猛命を名つけて有功の神とする。紀伊国においでになる大神はこの神である。また、五十猛命、大屋都姫、都麻都姫の三柱の神がよく種子を播いた。紀伊国にお祀りしてある。

 『日本書紀』のできあがったのは720年、奈良時代です。その頃は「紀伊国においでになる大神」とは五十猛命のこととされていました。根強い信仰があったようです。

 紀の国で名草万代之宮の伊太祁曽の神を祀っていたのは縄文以来の土着の人々でしょうが、その代表格が神武東征の時に殺されてしまった名草戸畔です。名草戸畔も巫女的な女王だったのです。

 さて、この時には伊太祁曽の神とは五十猛命と呼ばれていたのか、または大屋彦神であったのか、と云うことが一つの疑問として出てきます。御承知の通り、伊太祁曽神社では中央の御祭神を五十猛命でその別名を大屋彦神としています。女神の一人に大屋姫命がおられます。大屋彦神とはペア神が大屋姫神です。九州の抓津彦、抓津姫もペア神です。二つのペアが重なって、男神は大屋彦神と抓津彦神が習合して五十猛命、二人の女神はそのまま残ったと云うことになります。

 紀氏は九州からやって来た侵入支配者で祖神として抓津彦、抓津姫を紀の国に持ち込んできたのです。そうして古来からの紀の国の国魂である大屋彦、大屋姫とを取り込み、合わせ祀って、太古からの紀の国の統治者のような顔をしたかったのです。祖先に名草姫をも取り込んでいます。

 五十猛命は紀の国で誕生した神で、紀氏が瀬戸内海から九州へ逆に五十猛命伝承を流布させて、抓津彦や大屋彦を五十猛命に変えていったのかも知れませんね。

[5961] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 6  神奈備 2005/01/23(Sun) 10:48 [Reply]
遷座

 その昔には、今の日前宮の地に伊太祁曽神社が鎮座していました。15世紀半ばの永享時代の文書に、「垂仁天皇十六年に日前宮を浜の宮から迎えるにあたって、伊太祁曽神社を山東へ遷す。」とあるのです。
 「紀の国の国譲り」と云う方もいます。垂仁天皇が存在していたとすれば、概ね西暦300年の頃です。『倭姫命世記』によりますと、豊鋤入姫や倭姫が八咫鏡即ち天照大御神のよりしろを持って鎮座すべき場所を探したのです。紀の国では浜の宮に来られたと云うことになっています。

 元々、五十猛命を紀氏が祀っていたんですが、紀氏は五十猛命をも祀りながら、更に大和王権の圧力などで日前大神と呼ぶ日の神や正体の判りにくい國懸大神をも祀るようになるんです。
 あげくの果てには、伊太祁曽の神から日前國懸大神に乗り換えるんです。浜の宮から日前国縣大神を迎えたのです。ヤシロ譲です。伊太祁曽神社は山東の亥の杜(三生神社と云います)に遷座して来ました。
 三生神社はミブと読めます。新選組の壬生と同じで、丹生のことです。亥の森は水神と言われていますが、水神としての丹生社は大和にも鎮座しており、亥の森が水神の丹生社であって何ら不自然ではありません。そこへ重なっていったのでしょう。それが覺鑁上人が明王寺に伊太祁曽神社の奥宮として丹生神社を創建したのは、深い由縁と申しますか因縁があったのでしょう。

[5962] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。7  神奈備 2005/01/24(Mon) 14:25 [Reply]
分割

 『続日本紀』 伊太祁曽の神々は山東へ遷座後も紀氏の祀る日前宮よりは遥かに勢いが強く、紀氏は紀の国の支配権を確立すべく、伊太祁曽三神を分遷して力を弱めようとしました。
 大宝二年(702年)この年、文武天皇と持統上皇が紀伊へ御幸しています。紀氏の面子にかけて紀の国の支配権の揺るがない所を見せる必要があったのでしょう。

 伊太祁曽神社の遷座も遠い伝承の世界ですが、崇神天皇は天照大神と倭大国魂の神を磯城の宮から出して、分けています。それ以来、朝廷は神を祀れとは言っているのですが、祀られている神々をバラバラにせよ、なんて命令は、この伊太祁曽三神の場合しか私は知りません。珍しいことです。

 遷座は亥の杜から、五十猛命は現在の伊太祁曽神社へ、大屋津媛は和歌山市北野の古宮(御祓山)、ここから現在の宇田森。

 わが抓津姫命は果たしてどこへ遷座したのでしょうか。候補は四つ。

 1.吉礼 都麻都姫神社

 2.平尾 同上

 3.和佐関戸 妻御前社 → 高積神社に合祀
 『続風土記』祀神妻津姫命 寛文記に宮三社作り五十猛命大屋姫命を合祀するならんとありその頃までは伊太祁曽の社人毎年五節句に当社に来て神事あり 

 4.橋本 妻の森神社 江戸時代には神社はなかったようです。
 万葉集1679 紀の国にやまず通はむ都麻つまの杜妻寄し来こせね妻と言ひながら
 紀ぃの国へは いつれも来るでぇ 都麻の杜よ 妻を わいに あてごてくれへんか

 三神分遷の目的はなにか、と云うことです。神威が高い神が三柱も揃っていること、これを分割して一柱づつにする(神人や社人の数を減らすこと)です。三神がそれぞれ近い所では駄目なのです。離れさせることです。大屋姫は紀ノ川の向こうに行きました。抓津姫が平尾や吉礼としますと、伊太祁曽神社と近すぎるのではないでしょうか。和佐関戸辺りの妻御前社が距離感から云えば、良いところ。

 平尾には都麻神戸(都麻都姫神の穀田)があったので、関戸から分祀して来たと推定しています。

 吉礼からは貝塚も発見されているように海辺であったようで、伊太祁曽三神が日前宮の場所から伊太祁曽へ遷る途中に陸揚げし、お休になった場所だったのではなかろうかと思います。代々吉礼津姫が祭祀を行っていたのでしょう。江戸時代に式内大社の都麻都姫神社の確たる後裔の神社が見いだせず、チャンスと名乗ったのではないでしょうか。

 大屋姫が紀の河の北、抓津姫は紀の川の南岸、五十猛命は山東と紀の川の東側の砦となっています。熊野古道のルートです。
 詳細は省きますが、紀伊三所神社と云う伊達神社、志摩神社、静火神社は同じく、西側に配置されています。

[5969] 都麻都姫神社を祀る平尾の里人の為の青草話。 8 最終回  神奈備 2005/01/25(Tue) 17:40 [Reply]
付録 須佐神社

 また、『続風土記』には、和銅六年(713年)五十猛命、大峰釈迦嶽等から山東の地に降臨したとも伝わるとしています。
おそらく、和銅六年に、おおむね現在のような規模の社殿が完成したのでしょう。分遷の命令を逆手に取って、社殿が三つも出来たのです。そしてそれぞれ、兄神や妹神を配したのです。反骨精神というか、紀の国の大神を祀る思いが強かったようです。
 不思議なのは、同じ年の同じ月に、伊太祁曽神社の親神ともされる有田は千田の須佐神社が大和国吉野郡西川峰より勧請とあるんです。千田に鎮座したとあるんです。
 後に、西向きに建っていたので、不謹慎な船は進めなかったので、神社から海が見えないように南向きに変えさされたようです。
 紀の国の支配者は、素盞嗚尊や五十猛命には手を焼いている様です。須佐神社は明らかに海賊の神だったのでしょう。

 有田千田の須佐神社は、五十猛命が名草に鎮座した後、その父神の素盞嗚尊を有田千田にお迎えしたとの説が江戸時代に記されています。そして、伊太祁曽神社の近くに須佐神社の領地を確保したとするんです。なぜ有田千田の方に領地の田圃を設定しなかったのでしょうかね。どうもおかしい気がします。
 また、大和の吉野郡の西川峯からの遷座とも言われます。吉野の西川峯と言う場所はわかっていませんし、吉野当たりに素盞嗚尊の勢いが強かった名残は残っていないようです。元の神社がないんですね。この話もどうもおかしい気がします。
 南方から南紀に着いて徐々に北上したのではとの説もあります。紀の国の発展の歴史から見ますとやはり紀北からですね。銅鐸の出土も、古いのは紀北、南へ行く程に新しい形になります。後の時代と言う事です。面白い説ですが、説得力不足です。

 古い神社でしょうがそれでも大和から遷座して来たと言うのはそれなりの理由があっての事です。
 西川峯 これは暗号です。語順を逆さまにすると「川西」です。意味を逆さまにすると「川西」、は「山東」です。
 そう山東からの遷座なんです。「西川峯」とは「山東の平野」と言うことです。すなわち伊太祁曽の西に口須佐があります。南に奥須佐です。入り口と南があって、本家である須佐と言う地名がないんです。おかしいと思いません。そうなんです、ここ伊太祁曽の元の名が須佐だったのです。すなわち須佐神社が鎮座していたのですね。