紋 次 郎 ・ ほ っ つ き あ る 記
甦った伊太祁曾神

主筆 生田淳一郎


 

   …… 1 …… H12.10.27

 
神社に限らず、古代人が遺した名前の意味はわからないことばかりです。
伊太祁曾神社は和歌山市の東のほうに坐す(います)古い神社で、主祭神は五十猛命です。
ホームページ『かむなび』主催者の瀬藤禎祥氏は、この神社と神につけられている名前の意味を知ろうと解読に永いあいだ情熱を傾注してきました。
ところが、このほどそれがわかったのでした。
瀬藤禎祥さんへとE メール交信が始まったのは、パソコンを入れた年でしたので、もう3年前のことです。小生は極めつきのキカイ・オンチで、パソコンは入院ばかりしていましたので、瀬藤さんが伊太祁曾神社への執心がにことのほかつよいことを知ったのは一昨年の暮ごろでしたか。
その前に、小生は瀬藤禎祥さんの奥行きの深さに感心しました。また、処理があざやか・さわやかでズバ抜けていることにど胆を抜かれました。
あとで瀬藤禎祥さんは大阪屈指の名物おとこだと知って、“まさにさもありなん”と、自分の鑑識眼にも自信が持てたことでした。
ところが、そればかりではなかったのです。
そのころ、小生はネパール文化が日本文化の底流になっていることを突き止めていました。そこで、なにかお役に立てないかと、或いは神社関係で新しい発見はないかと、伊太祁曾神の周辺についてあれやこれ質問を始めたのでしたが、その回答の早いこと、しかも予定したボリュームの10倍ぐらいの資料が即座に折り返し届けられるのでした。小生はびっくりして瀬藤禎祥先生と呼び、資料の神様の称号を捧げました。ところが、いつのまにかそれが崩れて、少年時代の呼び名「サラヨッチャン」をもじって、今ではサラセッセ……なんです。
瀬藤禎祥さんは初心者の指導をするなどパソコンの技術にも秀でていますが、整理整頓の正確さと資料摘出の鑑識はまさにズバ抜けの神わざなんです。
 小生はネパール語の辞書と神さまなどの名前が示すとおりを導かれながら歩いて今回の解読に至ったのです。今回の解読がもしホンモノ・本筋を衝いているなら、それはサラセッセの卓越した包容力と処理能力の賜です。




 

   …… 2 …… H12.10.28

   古代語は特殊なヴェールにつつまれています。神様とか神社の名は現代感覚からはかけ離れたものとなっています。
 それは神様の名前がつけられた期間が、日本という国がしだいに今のような体裁を取ろうとしてゆく草創期にあたっていて言語も在来のものと、大陸から来た数系統のものによる混成期だったわけだからです。
 いや、地方々々での神様の名が固まったからこそ、その統合形態としての“くに”ができたのでした。
 ここに伊太祁曾神社、五十猛神の御名が語源的にわかったのですが、その解明コースをはじめから説明するわけです。

 古代の思考には古代固有の偏執があります。○○の命とか△△尊などの神が現れるまえは、カミナリを頂点においた自然神(日月、岩、風、水、動物など)、光を呼び込むカラスを頂点においた鳥神、出産や収穫を司る童神など、区分けすらむずかしいほどのいろんな神樣がいました。また、特に金属製錬士が信奉していたものは、このほかに「一つ目、片目、盲、鎚、刀、片足、龍、黒石、耳、大風、つの、源」などの狂執がありました。もちろん、金属製錬士はこれら狂執のほかに鳥神、自然神、童神をも持っていたわけです。
 これらをここで一つひとつ説明すればいいのですが、幸いこれらは別のところで説明していますので繰り返す手間は省略させていただきます。(『紋次郎ほっつきある記』・www.you-i.org で)。
 ついでにインダス源流にあるカイラース山や遮光器土偶の記事も御覧おきださい。
 上では挙げませんでしたが、伊太祁曾、五十猛を説くにあたって、極めて重要なキーは“柱”にまつわる偏執です。

 カイラース山頂に降りてくる神は目には見えない柱をヨリシロとして、そこを通ってアモ(降臨)されるのです。
 ですからアイヌ語では柱は i-kush-pe (神が貫くもの)になっています。
 北海道の、いよいよの少数民族のギリヤ−ク語では tola(ネパール語で「恐ろしいもの」)まる出しで「柱」です。 
 ところが、支配階級となって、わが日本民族を形成した金属製錬士の柱についての考え方は、それよりも一歩先に進んでいて「柱そのものが神様だった」のでした。柱とは has(神)ra(強調末尾辞)だったのでした。
 英語での foot のことを「アシ」などというのは日本だけです。……ということは、日本列島で新しく生まれた語彙だということです。沖縄では足のことを hwishya といいますが、これは満州など内陸にひろがる *pes(足)系の語彙です。
 アシ(足)は has の h が消えた語形です。
 物部系神社の家紋に使われていたり、各地の民話・伝承に出てくる「3本足のカラス」は、現代人が忘れ去った sex に関しての縄文思惟を復活させます。
 光は「いのちの子」です。それが太陽と月の二様でアマから降りくる。それを背骨(屹立できるのは人間だけ!!)の柱でうけて睾丸で“しらこ”として生成させ、これを「いのち袋(mat……大地・女)」の入り口まで噴射する……。
 個とは命の結節点にすぎません。それは生物学的真理です。物見遊山にふらつくブタ・ニンゲンの在りようなどとは約束されてないのです。縄文時代においては、これに基づいたシッカとした生命に関しての思惟の場でのバトン・タッチが、正確に実行されていた時代だったのでした。




 

   …… 3 …… H112.11.2

   伊太祁曾神社の中に五十猛命が坐す。
 イ・マスとは i ……神 bas ⇒ mas (坐る・住む)の変化をたどって日本語になったネパール語です。

 ふつう、祭神と神社名がちがう場合は、祭神は一つの意味を持ち、神社名はそれとは違う別の意味を持つものです。私どもは永いあいだ、この常識と字づらにひっかかって、意味がわからないままに時間を潰したのでした。伊太祁曾も五十猛も意味はほとんど変わらなかったのでした。

 ここで日本語のなりたち……とりわけ圧倒的多数派だった倭蛋民が金属製錬を中心としたネパール系支配階級のことばをどのようにして吸収し、ぜんたいとしての日本語ができあがるまでの過程をおおざっぱながら、掴んでおきましょう。
 その観察には言語学者が問題にしている母音をめぐる「甲類・乙類の区別」がよい題材です。
 もともと水上生活をしていた倭蛋民は、氷河期にはもっと南のベトナム周辺にいて、ほかの南方氏族と同じように5ヶのきれいな母音をもっていたと考えられます。アイヌ語も日本同様にきれいな5ヶの母音です。ところがネパール語には “a” という字をひっくり返して表記している「 a と o の中間母音」があるのです。一部の例外はありますが、日本古語での甲類、乙類の区別はおもに「コソトノホモヨロ」の“オの段”で興っています。
 これはネパール系の中間母音が古代支配階級のなかでは、細々と残っていて会話や文章のなかで区別されていたことを物語っています。
 ところが、鎌倉時代のころからでしょうか、日本語にはそんな中間母音はなくなり、アイヌ語同様になっています。これは圧倒的多数派の蛙が少数派のへびを呑みこんだ現象です。これを蛙の蛇のみと称しましょう。
 言語はよっぽどのことがないかぎり、圧倒的多数派の発音の基礎はかわらないのです。

 さて五十猛の五十(イ・イソ)とは別記の「sait 偏執」です。これを「イ」にしぼって読むところからナゾが解けはじめました。
 伊太祁曾の末尾の“曾”とはふつうには「神」のことだと解釈されます。両方の頭にある「イ」も神です。
 これらを取ってみると、「タケル / タキ」……しだいに近かよってきました。


 

   …… 4 …… H12.11.3

    「sait 偏執」とは 50 + 50 = 100 = sae(幸せ)= momo = イイの展開を示す古代人の偏執です。このことは、ほかのところで書いていますのでご確認ねがいます。
 いま、「タケル / タキ」に恵まれました。更に、ここで共通のステムを求めると「tak」が得られます。
 ではtak とは何でしょうか。このままでは解りません。しかし、多くの神名を当たってゆくと tak に続く語彙の形は takat(タカ……力・権力)しかないことに思い当たります。
 力とか権力の意味を吐きだした takat とは「高い」の語源でもありますが 「kat のta(神)」であることを示しています。(古代では神を示す語彙が先に立ち形容詞後置形となります)。
kat とは「切る」ことです。「切ること」はなぜ権力になるのか……ここに、伊太祁曾・五十猛の意味を解体するキーがあったのでした。

 奇跡的な伝統が現代の日本にも残っていました。しかもこれは世界共通な行事でもありました。
アマ(目ではよく見ることができない領域・天)から降り下ってくる神は「柱を通過して降りくる」という考え方が、この日本列島でも支配的なんです(いろんな氏族いたのです。そのことを忘れてはいけません)が、樹木を柱に切り変えて、即刻その柱が神に変身するのが、日本の支配階級だけにみられる“偏執”です。

 大工さん……とくに宮大工などは昔も今も第一級の青年が就ける名誉ある仕事だったのでした。その大工さんは ネパール語では dakarmi といいます。どういう中間語形を通過したのかは掴めませんが、これが「たくみ」になったことは、まずまちがいないところです。末尾の mi は訳がむずかしいのですが、「尊身」ぐらいにしか訳せません。とにかく、神にも用いる mi なんです。
 神官・僧侶への尊称は swami といいますが、swa は神です。
 よりみちですが、ここで序でに言っときましょう。 swa は日本列島では swi ⇒ si へとなります。清水とは「神水」だったのでした。……石清水八幡宮。「岩」はdeva(天と訳されます・=出羽)が語源です。


 

   …… 5 …… H12.11.7

立っているだけの樹木を“神そのもの”に切り替える力(takat)を持っているのは、人ですが、すでに人ではありません。
 日本の皇室では、皇太子が皇位に就くときには、三日三晩神殿に籠って神とともに寝食をともにします。そのような神事を経て神となったひと(?)だけが、「これと思える木を神にする力」があるとされてきたのでした。
 現代では諏訪湖の諏訪神社の「御ばしら祭り」に往古の儀式をみることができます。
 枝ぶりなどをみて「この木だ」と定めた木を切る前には「のりと」を唱え、次に大きな鋸を打ち込みます。
 その鋸の背にはオンドリの形が刻まれています。古代には鉄の鋸などありませんので、何か別のものを打ち込んだのでしょう。このオンドリ・マークは世界共通です。 たまたまのことでしょうが、去年のサッカー・ワールドリーグではこのマークが、シンボルとして採用されました。次は日韓共同主催のリーグですが「3本足のカラス」がシンボル・マークです。これもいわくつきで、金属製錬士の執念がこもっています。

 恐らく……ですが、木を神へと切り換える役を担ったのは、選ばれた紅顔の美少年だったと思います。童神の化身です。童神はネパールでは kumar(i) と呼ばれ、その痕跡を熊野(神社)などにとどめています。クマリは女の子です。男の童神は kumar です。
 女の子をその地方の護り神の化身にする風習は、極めてネパール色の強いものと言わねばなりません。ヒミコは「クマリ」のはずです。熊野には「ミクマリ」という名前の神が(峠なんですが……)残っています。
 熊野神社は出雲、豊にありますが、もし、そこに「クマリ」という名前が見られなかったら、「紀氏」のかかわりを洗えば「邪馬台国」の一つが浮上するという仕組みになっています。jamat-ai とは豪族代議制連合のことです。
 チベットでは今でもそのまま少年が指定されています。

 そして木を切るのですが、この「切る」ということが、ことのほか大事な宗教行事だったにちがいないのです。ネパール語; kat-au とは「切ってもらうこと」という妙な意味になっています。遮光器土偶は掘り出されたものすべてが(3体を例外として)片足が切られているのです。ネパールの主都・カトマンズとは「一本の材木で支えられているお寺」という意味です。
 ほんとうかどうかは知りませんが、目撃された「天目一箇神」は一本足だと言い伝えられています。
 この「切ってもらうこと」は、最初のうちは「kat 」が使われていたのですか、それが倭人下層階級の進出とともに「kat から kir (切る)」という“現在の日本語”へと変わったのでした。
 ここで、ita-kir の語形が出ています。
 埼玉県行田市・稲荷山古墳から出土した剣には「ワカタキル」と読める文字が出ました。古形の「猛」はタケルではなく「タキル」だったのです。
 思いだされましたか? 蛙が蛇を呑み込んだのです。しだいしだいに、庶民文化が神事までにも届くようになってきたものと、小生には思えます。




 

   …… 6 …… H12.11.7

とはいえ、その庶民の言語もまたまたインド系金属製錬士の文化を受けて造語されていたのです。ここはあたまゴッチャになりますが、まぁ聞いてください、読んでください。

 動詞形成接頭辞というのがあって、短い音を語幹の前に置いて「全体の語彙を動詞にする」という造語のやりかたを説明したいのです。
 有名なのが南海〜台湾の ma , mang です。これはもともと「 ma = 手」だと思われます。カマイタチの kamay はフィリピン・タガログ語で手です。フィリピンは神霊手術で有名ですね。手て断つのです。
 この傾向は日本列島にも上陸していました。

* わ(輪)の前に ma を置けば 輪が廻り始めます。これに機能別に「す」や「る」を後置すると「廻る」「廻す」となります。

* kal は世界的に「死」とか「いのちを失った抜け殻・体」です。これに ma を前置させて「まかる」となる……と「、死ぬ」です。偉いひとが死んだ場合は「みまかる」となります。

* ku は世界中で、古い古い「セックス」です。これが喋られていたときには、セックスはそんなには社会の裏に押し込まれていませんでした。で、ma-ku で生まれた一族を「マケ」とか「マキ」とい  うのはこれです。不倫をすることは「アワマク」といいす。
 wa は人で a- は反・非・不・否 を意味しますので「ヒトデナシの sex 」だと、よくわかります。
 ヨイトマケで卑猥な唄が唄われるのもこれです。ma-ku の名詞形は magu-ai です。

 ma- ではなくwa- の場合もあります。tar はインドのネパール語、パーリ語で「(水を)わたる」ですが、「垂る」との同音衝突を避けたのでしょうか、wa- を前置させて日本語にしています。

 日本語の動詞形成接頭辞で特筆すべきは ta- です。これももともと ma- と同様に「手」だったのでしょう。 

* 「たが(違)う」は「交う」に ta ば接頭されたものとして理解できます。

* 「束ぬ」は一見「束」nu(する……これもネパール語)みたいですが、これはパーリ語の*bandh 、ネパール語 badh-(結ぶ)……英語の band と同根……に ta が接頭されたものでした。

* 「すく(掬)う」と「すき(鋤)」はどちらが語源かはわかりません。しかしこれに taが接頭されると「助く」となります。ただし、ネパール語 *sukh には「幸せ」という意味が絡んでいますので「助ける」とは「幸せにする」ではないか……現在ではどちらとも決定できません。

* 「問い質す」の「ただす」は、ネパール語 dos-(咎めだてする)に ta が接頭された形です。

* 「尋ぬ」はネパール語 sun-(聞く)に ta が接頭された形です。

 その他、「頼る」「頼む」「倒る」「矯む」「たじろぐ」「耐ゆ」などもこの系統とおもわれます。そして、これらグループに「たぎる」がありますので、記憶していてください。takir……です。

* 以上の語幹にワンサとネパール語などが出ました。一見日本の固有語彙と思っていたのが ta などがつ  いたり……音転したものが実に多いのです。伏せておきましたが、「交う」はいままでの常識とは逆で「買う」から「交う」が出たのでした。「買う」はパーリ語に残っていたのでした。




 

   …… 7 …… H12.11.8

拙い小生の説明もいよいよ佳境に入ってまいりました。まもなく伊太祁曾神がその 御名前の意味をお明かしになられます。  

  ではなぜ、切るという日本語がうまれたのか、ここが伊太祁曾・五十猛の意味解明 の核心部です。
 「切る」という動作は世界中の大多数が kat です。
 日本語の「かる」は「きのこかり」や「紅葉狩り」に用いられています。世界語 kat の t が落ちたところへ動詞形成接尾辞の ru がついた形でしょう。「切る」が 現れたことによって「狩る」「切る」の区分が定着したものと見受けられます。
 動詞形成接尾辞の ru は現在の日本語に直結し、よその言語とのちがいをきわ立た せています。似ているものにアイヌ語がありますが、それは ru ではなく re で、ネ パール語と同一の nu とともにすべてのアイヌ語動詞の半分ほどで使用されています。  

  「切る」は柱を「切る」こと、すなわち神事から興ったとしか思えません。
 このようなご神体そのものを作るときに必要なものは、高度に発達した精神文明で す。
 ここで思い起こされるのは、かの横浜埠頭の高島桟橋ができるまでのことです。い ちど国の名でほかの国に支払った金員は、再び返戻されることはありません。ところ が、初代高島易断によってそれができるというケがでたのでした。相手国はアメリカ でしたが、微細にわたっての交渉のやりかたが指導され、そのとおりにやったところ、 奇蹟的に支払ったおかねが日本に返戻され、そのときの約束で、今の高島埠頭が完成 したのでした。
 易占では筮竹を抜くとき、そこにヤオヨロズの加護を受けるとあります。天与の能 力と日頃の研鑽と精進によって、強力な神のご加護を呼び込めるようになるのではな いでしょうか。  

 「切る」の kiの音が kat から興ったとするのは、かなり無理です。アイヌ語 ki は「行う」ということですが、これを適用させることも少し無理です。
 「切る」は「火をキル(点火する)」とほとんど同時に造語されているはずです。 これもネパール語の kii(だんだんなくなる・だんだん擦り切れる)が語源だと思わ れます。
 これらの言葉が造語されたのは石器時代で、鉄の斧や鋸はありません。研摩した硬 い石を棒にくくりつけて、これを振るって木などを倒したのでした。石器時代人がど んなに上手に木を伐りたおすかを、本田勝一さんがニューギニア高地石器時代人の例 で紹介しておられます。なにしろ、現代の鉄斧と大差ないぐらいに早いのだそうです。
 しかし、ご神体になる大木は石器の斧では、そんなに簡単には伐れません。何日も 何日もかかって人々は泊まり込みで伐るしか方法はなかったのでした。




 

   …… 8 …… H12.11.9

ひと里から遠くはなれてご神体となる木を伐りに行く男たちの胸には、57年前の神風特別攻撃隊の勇士と同じ心情が去来していたにちがいありません。
 いや、思考順序を整えて言い直しましょう。スパンの長い大衆心理での「日本固有の心理的伝統」が、57年前に神風特別攻撃隊となって爆発した……と言い直すべきでしょう。
 諏訪の御柱祭りのとき、御柱に乗って、坂道を駈けくだる男には、嬉々として「死を享ける悦び」があふれています。「ケンカ祭りのさなかに死ぬなら男の本懐だ」と、荒神輿をぶっつけ合う祭りは日本じゅうに見られます。
 ……やはり、ちょっと先走ったことを言ってしまったようです。どういうことかといいますと……、
 現代でも謎に包まれていますが、古い巨木を伐れば、伐ったひとには災いが降りかかるのです。
 これは現代では、ようやく「フィトンチッド」という概念にまでたどりついたのですが、巨木を伐ったひとがなぜ不慮の事故に遭うのかなどのナゾは解明されていません。
 冬のあいだは南のほうで、夏には北のほうで暮らす習慣を持っていたアメリカ・インディアンのある氏族は、移動の途中にある森には悪魔が住んでいると考えてきました。そこを通過するたびに頭痛がしたり、身内に病人が多発したりするからでした。
 彼等には樹木が出すフィトンチッド……という考えには及びも寄らなかったのでした。
 巨木を伐ると強烈なフィトンチッドが放散され、それを嗅いだら、生命を維持している重要な要素かキレるのです。その重要な要素がナニなのかは、現代でも解明されていません。 

 古代ならこのフシギは尚更のことで、人々は木の伐採を介して、「一種の神意の発動がなされた」としか考えつきません。
 仮に、伐採に出かける男たちを15名としましょうか、そうすると必ず5〜6名はそのキャンプ場でおかしくなったり、水汲みに行ったまま死んでいる……などの事故に必ずあうのです(だから、巨木が神になるのです)。
 あ、いつもハナシを先走りさせてすみません。「死」ということなんですが、古代人の意識では、「死」はごはんを食べたり、子供を育てる暮らしなどと連続していて、現代人が考えるような「あってはならないこと」ではけっしてなかったのです。

 神意の発動によって、村びとは人身御供を捧げたからこそ“柱そのもの”を神として意識できるわけです。サラセッセから教えてもらったのでしたが、千年経った木で建築物を造ると千年もつそうです。ヘナチョコ木材で建てた分譲住宅は、形だけはイッパシの商品ですが、いつも風の当たるところはペンキを塗り替えてやらねばなりません。

 懐かしい「あのオッチャン」が柱にこもって村びとの暮らしを守っているのです。
 明治政府は、列強の圧力を撥ね返すために、神社の木を伐ろうとしました。それもわかります。しかしそれに猛反対したクマグスさんの気持ちもまた、一面の真理でした。
 しかし、神風特別攻撃隊の目で見れば、政府の方針のほうが正鵠をえていた……となるはずです。




 

   …… 9 …… H12.11.9

さきの動詞形成接頭辞 ta の分析でもおわかりのとおり、日本語となった「伐る・切る」は最初の語形は「ta kir」でした。いまでも「ぶった切る」などの表現にそのなごりを留めていると思われます。これがその後、ネパール語の kii に 動詞形成接尾辞の ru が添えられた形へと落ち着いたのでした。
 「だんだん減っていく」という意味のネパール語 kii は「切る」とともに日本語「火をキル(点火する」にもなりましたが、それは古代(現在でも神事で)の点火が棒を擦って得られる熱によることで理解できるのではないでしょうか。棒がどんどん摩擦ですり減っていくのです。
 穴開け道具の「キリ」も「切る」「火キル」と同根と思われますが、同じネパール語 khil(とげ)があります。こうなると、言葉が変わってゆく現場に立ちあっていないわれわれでは判断のつけようもありません。
 アイヌ語には *kis(擦る) があって類似をみせています。  

 では、「猛」という字がなぜ i・takir の takir にアテ字されたのでしょうか。
 じつはこれも kii に関係していました。
  もっと、そのものズバリの語彙は、アジアのどこかに潜んでいるはずですが、小生はそれをまだ掴んでいません。ただ朝鮮語 ikirkir(熱) 日本語に ikire(熱)があることぐらいしか証拠をあげれません。アジアのどこかに潜伏している語形は *gir(熱・暑)のはずです。
 古語辞典にも、方言辞典にもありませんが、隠語に「たぎり(男根……それも屹立し、イキリ立ったイチモツ)」があります。このタギリが沖縄の男根「タニ」です。

 神様のお名前に関する解説に「タギリ」だとか「男根」だとか、不謹慎きわまる……とおっしゃるアナタは認識不足です。
 「まっすぐ立つ」「キッと立つ」ということは「柱・足・背骨」の偏執にとって、ひじょうに重要なことです。やはり、それは男根崇拝に裏打ちされた偏執なんです。
 漢字の「屹立」のキツもそうです。キッチョムさんには朝鮮文化を感じますが、キッチョムさんは天に昇る大きなハシゴを立てます。
 アイヌは、だらんと垂れた状態を「のう」、屹立した状態を「ニィッ」と峻別して男根を表現していました。この「ニィッ」が kir , gir 、タニとの同根を意味しています。
 勇ましい男を「タケル(その前はタキル)」というのは、それ以前の広範囲な男根崇拝文化に裏打ちされているのです。インドであれほどハッキリした語形・意味のブッダ(目覚めたひと)が日本で「ほとけ」となったのも、何千年も続いた男根崇拝の然らしめたものです。




 

   …… 10 …… H12.11.9

古代語……とくに神にまつわる語彙は「懸詞」だらけです。……というよりも、言語混成期にあっては、いろんな似たことばが“せめぎ合い”をおこしますので、ひとつの発音は複合概念になったまま、社会に通用して周辺の人々に強制力で以て服従を迫ってゆきます。イタキソ、イタキル、イタケルもその例外ではありえません。

 「切る」という意味の「ta ・kir 」がいちおう安定した「ハバきかせ」をみたとき、国家形成のうごきが活発となってきたのでしょう。そこには「勇ましい男」とか「たけだけしい」英雄が社会で大きな評価をえてきます。
 風に吹かれて「イ・タ kat」は「i・ta・kir」へと変身を遂げたあと「イタケル」へと呼ばれることになります。
 「では、ほんとうの呼び名はなんだろうか……」という疑問はその後ずーっと神官、氏子のあいだで疑問とされ続けたわけです。
 とうとう疲れ果てたのか、サラセッセの通報によりますと、江戸時代では「五十猛」も「伊太祁曾」も双方ともに「イタケ」と呼ばれ(発音され)ていたそうです。“-e”とは単なる強調末尾辞です。ですから小生は「疲れ果てた」という表現をとりました。
 初めから主祭神・神社名がともに「イタケ」なら、苦労はありません。しかし、古文書には漢字で「五十猛・伊太祁曾」が出ているのですから、どうしようもありません。
 主祭神五十猛の語頭の「イ」に「五十」をあてたため、意味解釈での混乱はいっそう増幅されました。

 国家形成の嵐に乗って、イタケルが暴れ廻ったのでした。で、嵐がいちおうの鎮まりをみせたとき、神社の名前は“もと”を留めて「伊太祁曾」のままだったのです。
 五十猛と伊太祁曾をこのままナマで探索しても徒労に終わります。五十猛は少なくとも「i・takir」まで、里帰りしてもらわないといけません。古形こそ真実をにぎっているものですから。
 しかし、ここまで読み進んでこられた諸賢には、もう答えの半分はお判りのはず。takir は倭人のことばクセでは taki で止めて「 r 」 は脱落させるのです。

 ここに 五十猛=itaki ………= 伊太祁 がえられたのです。  

 「イタケル」と変化する前の段階で「伊太祁曾」の漢字と呼び名が決まったのです。
 では伊太祁曾の「曾」とは何だったでしょう。これは前にも説明しましたが、当時の「神」です。語形はo(神)に強調辞の S が 接頭されただけです。




 

   …… 11 …… H12.11.9

以上で五十猛・伊太祁曾の語源的、根元的な説明はし尽くしました。
 ただ、途中、あまりにも多くの寄り道をしたので、読者諸賢には初めてのことでもあって、まだすんなりとは腑に落ちないことだと見込めます。そこ以下は、筋にそって今いちど辿ってみてご理解を深めていただくよすがにしたいとぞんじます。

 「ta-kat……切ることの神」が「力・権力者」だったわけで、その神を i・takat と呼んだところまでが、われわれ20世紀末人の辿れるギリギリの語源です。
 ところが一方では kat = kii だったので、日本では ta・kir の語彙が多用されて,神名であるところから、語頭に i を立てて i・takir の神ができたのでした。また、日本造語のクセで末尾の r を脱落させますので、itakir は itaki となり、そこへ当時はやりの so(神)を後ろにつけて、形容詞前置に馴れている人々にもわかるようにしたわけです。ここに神社名としての「伊太祁曾」が出来上がったのでした。
 あ、あまりにも初歩的なことですので言うのを忘れていました。使用されている文字は一切意味はないと思っていてください。漢字は音が決まったあとに、適当に持ってきただけです。
 itakir ができあがったとき、国家形成の動きがケタタマしくなって、タギリと同根(らしい)タケ(猛)を当て字して、最初のうちは「イタキル」と発音していたのです。これが時代の風で「タケ」が一般的になって「イタケ」となったのですが、もともとの「○○r-u」がカッコよかったのでしょう。そのまま続いたのが「イタケル」です。
 また、当時は50偏執(文化)が流行っていて、イイ、ササ、モモ、スズなどで 50 や100 を表わしていました。その「イ」に「五十」をあてたのが「五十猛・神」だったわけです。「五十猛」を「イソタケル」と発音し、その音を不動のものと信じることは、それこそ「ヨコナマレル」ものなり……です。(以上、主要部解説、完)



紋次郎ほっつきある記

ユー・アイ母船へ帰る

神奈備にようこそ