あさもよし紀の国 MLログ 平十二年九月 発信者のお名前は省略させて頂きます。

平十二年十月 

更新 2000/10/1


0107 00/09/27
ご承知の事でしょうが、古事記によりますと於能碁呂島に降り立ったイザナギ命、イザナミ命が国生みを行います。 この「オノゴロシマをはどこに比定するか」と言う事が真面目に論議されています。この神話や王権の発祥の地にかかわるからでしょう。
 比定地は、淡路島そのもの、沼島、友が島(の神島)があります。これらはいずれにしても、紀の国に近い所です。
 もう一つの比定地は九州です。邪馬台国九州説、九州王朝説、九州の神話が大和に盗まれた云々と、九州説も賑やかです。 私は邪馬台国を2,000円以内で往復できる所にしたいので、九州説はあまり勉強していません。この説はこと細かくはよう紹介しません。どなたかお詳しい人がおられましたら、お願いしたいですね。
 博多湾に能古島と言う島があります。確かにオノゴロシマの名前の一部が遺っているようですね。この島を比定している方もおられます。

 イギリスが植民地を支配する際、拠点を近くの島に置きました。安全を確保しつつ観察進出の拠点としたのでしょう。 印度のセイロン島、マレーシアのペナン島、大陸の香港島などです。 それから類推しますと、日本列島にやってきた進んだ文明を持った人々が拠点を置いた島がオノゴロシマだったと言えるのかも知れません。

 女神が島々を生む神話はハワイにあります。ワケア神はパパ女神と夫婦になり、ハワイ島やマウイ島を生んだとなっています。この神話は火山と関係するのかもしれませんね。

 古事記ではオノゴロシマから順に淡路島、四国(伊予、讃岐、粟、土佐)、九州(筑紫、豊、肥、熊曾)、壱岐、対馬、佐渡、本州と国生みが進んでいます。
 日本書紀では、淡路島は最初ですが次に、本州、四国、九州、隠岐、佐渡、越州、大州、吉備子州の順位なっています。

 オノゴロ島は塩をコオロコオロとかき混ぜると、矛からしたたり落ちた塩がつもって島になると書かれています。この矛が問題で、銅矛は九州方面が多く出土し、卑弥呼の事が記されている魏志倭人伝にも倭人の武器のトップに挙げられています。

 さて、皆さんがオノゴロシマを比定されるとしたら、どの辺りにされますか?九州でしょうか、淡路でしょうか、それとも・・

0106 00/09/26
和歌山県内の神社建築で社殿が重要文化財になっているところがあと2ヶ所抜けていましたので補足します。
十三神社(美里町)
白岩丹生神社(金屋町)

KODAMAさん>高野山の伽藍配置は「高野山古絵図集成」、「紀伊続風土記」などで知ることができます。壇上伽藍の配置は、中央手前に金堂、中央に根本大塔、その東西に東塔、西塔と並ぶのが基本ですが、一遍上人聖絵では根本大塔と金堂の位置が左右逆転しています。高野山に伝わる絵図でこのような配置は確認できないところから、聖絵は現地での写生ではなく聞き書きの体裁をとったものと思われます。

0105 00/09/26
>(高野山の伽藍配置も間違えていますから)
高野山のオリジナルの伽藍配置がどうなっていたかご存じであれば教えていただけないでしょうか?もしくは、文献等ご紹介いただけたら、お願いします。

0104 00/09/25
ようやく気候も涼しくなり、行楽シーズンの到来となりました。今回は、指定文化財件数全国7位の和歌山県に存在する、重要文化財のうち神社木造建造物を紹介します。すでにご存知の方もおられることと存じますが、しばしおつきあいのほどを…。

和歌山県に現存する神社の社殿のうち、重要文化財指定になっている神社は桃山期の特徴(精緻な彫刻と派手な色彩など)を示すものが多数を占めるようです。また、地域的には下津町以北の地域に集中しているのも面白い傾向です。その背景には南北朝時代の戦乱や織田信長や豊臣秀吉による紀州攻めがあったことはいうまでもありません。

ちなみに重要文化財というと、国宝の下のランク、と誤解してはいけません。戦前の指定なら国宝と呼ばれていたのです。現在は、重要文化財のうち特に優れたもので世界に誇れる文化財を国宝と呼んでいます。よって国宝の正式名称は「重要文化財」でもあるのです。

■社殿が重要文化財に指定されている神社
丹生都比売神社(かつらぎ町)桃山
鞆淵八幡神社(桃山町)桃山
三船神社(桃山町)桃山
野上八幡宮(野上町)桃山
和歌浦東照宮(和歌山市)江戸初期
和歌浦天満宮(和歌山市)桃山
淡島神社(和歌山市)桃山
加太春日神社(和歌山市)桃山
三郷八幡神社(下津町)桃山
熊野那智大社(那智勝浦町)幕末
熊野本宮大社(本宮町)幕末

※熊野速玉大社は明治時代に焼失後、戦後に再建のため指定物件になっていません。ゆえに世界遺産登録についても非常に微妙な位置にあります。一遍上人聖絵と比較し、社殿配置が全然違うのも致命的です。おそらく、聖絵が間違っていると思うのですが。(高野山の伽藍配置も間違えていますから)

■社殿が重要文化財に指定されている鎮守社(寺院境内)

※寺院境内にある鎮守社はその土地の地主神として寺院あるいは仏教を守るという意味合いがあるので上記の神社とは別分類としました。
金剛峯寺壇上伽藍四社明神社(高野町)室町
金剛三昧院四社明神社(高野町)桃山
金剛峯寺徳川家霊台(高野町)江戸初期

本年は文化財保存制度制定70周年、文化財保護法制定50周年という節目にあたる年です。もう一度ふるさとの文化財を見直してみるいい節目かもしれませんね。

0103 00/09/24
大伴部直は大伴氏を管掌する氏の事で、その名が続日本紀に名草郡片岡里にいたと出ているとの事です。
刺田比古神社が鎮座しています。
名草郡には紀氏と混在していたようですね。上の神社は紀氏のまっただ中ですね。
那賀郡にも居たそうで、粉河寺内の産土神社の祭神にも大伴氏の名がでていますね。

0102 00/09/23
約2週間ほど前、父が和医大付属病院に入院したおり、実家から病院へ行く道の途中に、伊太祇曽神社や竃山神社、日前宮、国懸神社、足守神社などの看板を見かけました。和歌山に帰るのが年2回ぐらいの私にとっては、近くを通りながらも行けなかったのが非常に残念でした。このメーリングでよくでるこれらの神社でしたので、本当に残念でした。いつか時間をつくって、行ってみたいと思います。それまではみなさんのメイルや神奈備HPなどで、想像を膨らませて楽しみに待っていようと思います。
ちなみに和医大付属病院のすぐ近くに玉津嶋神社と塩竃神社がありましたので、1時間ほど空き時間ができたときに見に行ってきました。想像していたよりも小さかったですが、美しい神社でした。

0101 00/09/23
丹生祝氏を調べているなかで、疑問が出てきましたので、みなさまのお力をお貸し頂きたくよろしくお願い致します。

1)丹生祝氏の婚姻関係等を調べてみると紀氏、大伴氏、丹治氏の名前がみられます。ここで大伴氏については和歌山ではあまり聞いたことがありません。大伴氏の和歌山での活動拠点をご存知な方がおられましたらアドバイス頂ければと思っております。
 また、丹治氏は渡来系と聞いたような記憶があるのですが、何かこれについてご存知でしたら教えて下さい。宣化天皇の末裔であるので私の勘違いかも知れませんがよろしくお願い致します。
  確か、武蔵国の丹生神社には丹治家義か家影が丹生明神として祭られていたかと思います(続武蔵風土記に書いていました)。ちなみに武蔵武士の七党の丹党は丹治氏です。

2)小さいときに聞いた話ですが空海が高野山に行くまでの道順について、初め丹生川上神社に行き、次に丹生酒殿神社、そこから上って丹生都姫神社に行ったと聞いたことがあります。
 先日司馬遼太郎の本だったでしょうか、空海について書いていたのですが、猟師(狩場明神)にあって、そのあと九度山の川のほとりに丹生を名乗る家があり、そこに泊まったと書いてありました。
 このように空海が高野山に行くまでの道順についてご存知な方がおられましたら、上記の道順について真実かどうか教えて下さい。
 ちなみに推測ですが、この道順が事実であれば、空海は丹生氏の協力を得るため、まず丹生川上神社に行き、そこで本筋は伊都郡丹生氏であるのでそこへまず行くことを勧められ、其の途中丹生祝氏と出会い、丹生祝氏の家(当時かつらぎ町三谷、丹生酒殿神社近く)に泊まり、ここで丹生祝氏より密教守護の約束を取りつけ、その後丹生氏が祭祀していた神が祭られている丹生都姫神社に参り、そのまま高野山に上ったのだろうと思うのですが。丹生川上に先に行ったのは、当時丹生都姫神社より丹生川上神社の方が有名あるいは大きかったのでしょう。
 当時丹生都姫神社と言ったか、また丹生都姫を祭っていたかは分かりません。
 また、九度山と三谷は隣なので、九度山の丹生氏?に泊まったのではなく、3〜4km程先の丹生祝氏の家に泊まったとするほうが正しいかもしれませんね。まあいずれも川のほとりになるのでしょうが。
ご存知の方よろしくお願い致します。  

0100 00/09/23
初めまして、摩依夢(まいむ)と申します。
9月の初めにご紹介いただいておりますが、その後ご挨拶もいたしませんで、失礼いたしました。
この夏に、伊太祁曽神社にお参りをしました。静かな佇まいの、気持ちの良いお社だったという印象を持っています。
Ekawaさんと瀬藤さんの投稿によると、伊太祁曽神社が「平家物語」と関係があるかもしれない、とのことで「平家物語」が好きな私としては、もう少し早く知っていれば、神宮寺の方も見られたかもしれないと、少し残念に思っています。
次の機会には、ぜひ竹藪の中まで入らせていただきたいですね。・・・・・・立入禁止でないと良いのですが。

関東生まれの関東育ちで、和歌山内の位置関係もあやふやな状態ですが風土記に始まり、歴史や文学の中で様々に描かれてきた紀州は何を学ぶにしても、大きな背景があり、興味は尽きません。
もっとも、私の知識程度では、皆さまの投稿を読ませていただいてただただ、頷くばかりなのですが・・・・・・
これからも末永く、よろしくお願いいたします。

0099 00/09/22
伊太祁曽神社の「祁」の文字につきましては中国の霊山の祁山の字だと言う事で、宮司さんはたいそうお気に入りのようです。

 > 赤土がたくさんある
 お聞きになった事とは思いますが、大木が倒れて化石的な土になったように見える土ですね。小生が丹生都比売神社の裏山で見かけたどす赤い土とは赤さや雰囲気が違うような気がしました。非科学的ですみません。

>「山東の王子」
 続風土記の時代と平家物語が出来た時代との山東の範囲は同じかどうか承知していませんが、山東荘には熊野王子社は二座見られます。
伊太祁曽神社の直ぐ北に平尾王子(これは早い目に退転したそうですが)と
 伊太祁曽神社に合祀されたと言われる奈久智王子が須佐明神の南側にあります。口須佐村です。

 伊太祁曽神社を山東の王子と表現したのは知りませんでしたが、熊野の祭神がその頃には素盞嗚尊とされていたのなら山東の王子と呼ぶ事があったとしても不思議ではありませんね。

> 周辺には真言系(密教または浄土仏教)の神宮寺
 続風土記には
興徳院  龜屋山延壽寺  眞言宗古義京勸修寺木
村の南にあり中世伊太祈曾社兩部の時の神宮寺本地堂にて社地にありしを 官命ありて社を唯一こ復せらるゝ時當寺には除地を給はりて此地に引移せり 什物金鼓の銘に伊太祁曾明神御本地堂とあり  古寫の大般若經を蔵む又傳へいふ伊太祁曾の神宮寺に長壽院といへり今廢絶す興徳院は伊太祁曾の供僧六人の内明王院轉して清僧となり院號を改めて興徳院となりしといふ因りて明王寺村供僧の株の内明王院の株は絶たり
 と出ています。貞享四(1687)年の官命だそうです。
  伊太祁曽神社の一の鳥居の正面に坂が見えますが、その登った所に興徳院の建物が竹藪の中に朽ち果て寸前の姿で残っています。

 津本陽さんの 大悲根来寺と覺鑁上人伝に出ていますが、高野山の腐敗に業を煮やし、根来寺を創建した覺鑁上人が鳥羽上皇から山東荘一円を寺領に認められています。伊太祈曽の北の矢田に伝法院を設けています。根来寺の始めは大治五(1128)年だそうです。それから3〜6年以内に矢田に来ているのではと推測されています。伊太祁曽神社に進出もほどなくだったと思われます。平維盛さんの時代には神宮寺は出来ていたと思われます。

 所で、吉備町に藤並神社がありますが、摂社に山東神社があります。祭神は不明なのですが、ひょっとしたら伊太祁曽さんかも?
 山東王子の情報ありがとうございました。

0098 00/09/22
「伊太祇曽神社には赤土がたくさんある」ということを聞き、今日、仕事で和歌山市の東部にある伊太祇曽神社へ行ってきました。今までも何度か参拝したことがありますが、公私の「公」では初めての訪問で、初めて神主さんにお目にかかり、苔むした切通しの参道に案内していただきました。ここの土は赤く、水に溶かして和紙に絵や文字を書くと、乾いた後は水につけても絵や文字は乾かない…などという実験も行いました。これがいわゆる「丹」でしょうか?

 近世に再建されたと思われる社殿の荘厳さもさることながら、そこに木の国紀州の由緒ある神社にふさわしい相当豪華で非常に立派な木材が使われていることも推察でき、行ってよかったと思いました。この木材なら何00年でももちそうです。

 平家物語巻十に、紀州に落ち延びた平維盛は熊野街道を南進する途中「山東の王子」に参拝したという記述があります。
 山東の地には熊野九十九王子社はないことから、維盛がもし紀州の地に敬意をもって山東周辺の由緒のある神社に参拝したのが史実であれば「山東の王子」とはまず間違いなく伊太祇曽神社だと私は考えています。ただしこのとき維盛は高野山で出家した後ですので、単に神社に参拝しただけとは考えにくい部分があります。おそらく伊太祇曽神社の境内かその周辺には真言系(密教または浄土仏教)の神宮寺があったのでしょう。今となってはまったく知るすべはありませんが、誰かご存知ではないでしょうか?

 おとといには下津町の長保寺に出かけました。国宝の本堂、多宝塔の内部も拝観でき、中央から遠く離れた地方密教寺院としての長い歴史と誇りの一端を知ることができました。紀州徳川家の菩提寺としてのみクローズアップされがちですが、この寺院の千年(ことしちょうど千年です)の歴史からすれば徳川家との師壇関係など、ごくごく一部の出来事にすぎないことが、ここに来ればよくわかります。

 本堂の東にある国重要文化財の鎮守堂(江戸時代まで八幡神社、紀州徳川家入封後は東照宮、神仏分離後に鎮守堂)は15世紀ごろの建造物で、和歌山県下に現存する最古にして代表的な神社建築です。このような由緒正しい神社建築が「堂」を名のらねばならない日本の宗教の現状はまだ「国家神道」の途上なのでしょう。

0097 00/09/21
 急がば回れと言います。古事記・日本書紀(以下、記紀)などに登場する神々や人物・事件で紀の国に関係しそうな所をピックアップしながら、名草郡について考えていきたいと思います。 ぶつぶつと独り言になるやも知れません。皆さんはとっくにご承知の事が多いでしょうが、瀬藤が勉強しようと言う事です。退屈と思われた方は遠慮なく「削除」して下さい。

 今や常識となっていますが、紀の国だけではなく、各地方の国々は何も歴史が始まってすぐに大和王権の一つの地方組織だったわけではありません。
 とりわけ、紀の国は紀の川とその河口に良い湊を持っており、朝鮮半島とのつながりも強く、相当期間大和王権から独立的な存在であったでしょうから、 紀の国の事を記紀に則って調べていくのはあまり良い方法とは言えないのです。

 出雲国には『出雲風土記』のような地方から見た風土記が残っているのですが、残念ながら、紀の国の『紀伊風土記』は散逸してししまっており、 殆ど残っていません。
 従って、文献的にはやはり記紀しか頼りになるものが見当たらないのが現状です。

 『紀伊風土記』が引用された文献が残っており、それを紹介しておきます。
 ●手束弓 タヅカユミとは紀伊の国にある。風土記に見えている。弓のとつか(手束か)を大きくするのである。それは紀伊の国の雄山の関守の持つ弓であるという。(万葉集抄下)
 ●アサモヨヒ アサモヨヒとは、人の食う飯を炊くをいうのである。風土記に見えている。(万葉集抄上)
 何とも興ざめな残り方ですね。古語には疎いのですが、どっからこのような解釈になるんでしょうね。

 幸運な事に、江戸時代末期(今から約200年前)『紀伊続風土記』が編纂されています。時の紀州藩のすばらしい仕事です。
 これができあがって、暫くすると明治維新、時代は大きく変化していきました。タッチの差で出来た『続風土記』がなければ、ますます紀の国の歴史とりわけ神社の由緒なども解りにくかったと思います。 尤も、この書物も記紀をベースにし、記紀の相当部分を史実として認識した上で記述されてますので、気をつけて読まねばなりません。

0096 00/09/19
えかわさん> 仏教史を通して見えてくる神社史というものには非常に興味深い
同感です。私は不勉強で、全く仏教史を知りません。今回の式内社格上げ運動につきましては、いい勉強をさせていただきました。今後ともよろしくご指導下さい。

所で、高野山と熊野(三山とも?)が、世界遺産に登録される見通しだそうですね。紀の国にとっては、大変すばらしい事ですね。

秋は祭の季節ですね。紀北の古い建物が保存されていると思われる神社と祭礼日を調べてみました。
力侍神社 10月10日 桃山時代
且来八幡神社  10月14日 数世紀経
野上八幡神社 10月15日 天文十年以降
三船神社 10月16日 桃山時代
丹生都比売神社 10月16日 桃山時代
八幡神社(那賀郡粉川町鞆淵) 10月15日 寛政三年
白岩丹生神社 10月15日 桃山彫刻
以上hpにあり。
八幡神社(下津町黒田) 10月10日 桃山時代

貴志川線三社
日前宮 9/26
竃山神社 10/13
伊太祁曽神社 10/15 御輿が出る年です。

0095 00/09/16
yuka> 新宮にも浜の宮はありますよね。
   > ここも補陀落渡海で有名。
お気付きの方もおられる思いますが、新宮ではなく、那智勝浦町です。失礼しました。(*_*)また冷や汗をかきました。
補陀落山寺というお寺がありますね。那智勝浦も不思議な感じのする土地ですね。

0094 00/09/16
yuka > 熊野の権現は、名草の浜にこそ降りたまえ

熊野権現垂迹縁起によりますと
 熊野神は、唐の天台山から九州の彦山、伊予の石槌山、淡路の遊鶴羽峯、紀伊切部山、新宮の神蔵山に降臨、その後阿須加社の北に遷座、13年後に大斎原に天降りました。

 面白いのは、熊野神のルーツを唐の天台山からとなっており、先達をつとめた天台宗の関与が想像されます。

 もう一つは熊野神は九州から瀬戸内を通って、南紀に来た事になっています。これは神武天皇の東征コースに重なります。天皇の名前のひとつに「ミケヌ命」があります。関連の深い出雲一の宮の熊野大社の祭神は櫛御食野神で、似ています。本宮の祭神も櫛御食野神ではとの説もあるようです。 

 熊野神と神武天皇を混ぜて考えると、神武天皇は名草邑を通っていますので、熊野神も名草に降臨しているのかも知れません。
 名草郡には日前宮などが勢力を持っており、高野山はもとより、熊野権現の信仰も定着しなかったと言うことではないのでしょうか。神々の里には、高野も比叡もなかなか入れなかったのでしょう。紀三井寺は平安末期ですね。この寺以外に紀の川の南には有力なお寺はないようです。

kammer > 狩場明神については非常に奥深く、犬黒比とか犬飼の神
 熊野権現垂迹縁起によりますと
岩田川の南河内の犬飼(狩人)である熊野千与定の前にこの神が現れ「我は熊野三所権現と言う一社を証誠大菩薩と言う、二月を両所権現と言う」と名乗ったとあります。
 熊野神の祭祀の初期には高野山が働いていたとの主張もあった言うことでしょうか。

kammer > 狩場明神を祭っている神社
 柳田国男翁の採取した熊野の伝承 (「青銅の神の足跡」から)
  熊野の山中に昔住んでいた一踏鞴(ひとつたたら)といふ凶賊の如きは、飛騨の雪入道と同じく、また一眼一足の恠物(怪物)であった。一踏鞴大力無双にして、雲取山に旅人を劫かし、或は妙法山の大釣鐘を奪い去りなどしたために、三山の衆徒大いに苦しみ、狩場刑部左衛門といふ勇士を頼んでこれを退治して貰った。 色川郷三千町歩の立合山は、その功によって刑部に給せられたのが根源であって、後にこの勇士を王子権現と祀った。
 とあります。那智勝浦町に色川神社が鎮座、ここへ大字樫原の王子神社が大正三年に合祀されています。
 さて、毛原宮に祀られている狩場明神も悪獣を退治したとの伝承が残っています。狩場刑部左衛門と似ていますね。

0093 00/09/15
本日よりホームページの作成に取りかかりました。今は丹生祝家系図の作成中。
 その後は、丹生都姫について一般的に言われている事を書きこみ。後はメインテーマとして考えている狩場明神について分かったことから書きこみ、その関連の神社めぐりの写真なんかも載せていく予定です。恐らく完成は来年1月ぐらいでしょうか?乞うご期待!

 狩場明神については非常に奥深く、犬黒比とか犬飼の神とか言われております。
 高野明神と同一かどうかは不明です。長谷の丹生神社、毛原の丹生狩場神社、橋本の光三宝荒神社、犬飼山の丹生神社?(奈良)、かつらぎ町宮本の丹生狩場神社をまず回る予定です。長谷の丹生神社は大黒人を祭っていますが、恐らく後世犬黒人の犬が大に変わったのでしょう。宮本の丹生狩場神社は狩場明神が亡くなり葬られた土地。確か墓?があったはず。それゆえ宮本は上記の神社の中で最も興味のある神社なのです。
 そこで、みなさんにお願いが、狩場明神を祭っている神社をご存知でしたら教えて下さい。そのほか伝説など何か情報がありましたらよろしくお願い致します。

0092 00/09/15
こんにちは。久しぶりの書き込みです。
私のような素人の発言していいものか、とか考えていましたが質問はしたいもの。丹生神社のことは勉強になりました。
ホンの数ヶ月前は、丹生の意味さえ知らなかったのですから。
 名草郡のお話は興味深いです。
ご存知かもしれませんが、梁塵秘抄に下記のような歌があるみたいです。
「熊野の権現は、名草の浜にこそ降りたまえ、
 若の浦にしましませば、年はゆけども若王子(にゃくおうじ)」

また名草の浜に近い 浜の宮神社(和歌山市内原)では補陀落渡海をした人がいたようです。(立て看板で読んだものです。)
新宮にも浜の宮はありますよね。ここも補陀落渡海で有名。

 さて名草郡では、熊野参詣の通行税をかける権利をめぐって熊野と高野山が争っていたという記述もあるそうです。
 建徳3年(1372)熊野と高野山は名草郡大野郷(海南市)における兵士米=大野関米(熊野参詣道の通行税)を賦課する権利をめぐって争っていた。この時、熊野は高野山から難癖をつけられ、高野山が「鎮国安民の道場、高祖明神常住の霊くつ」で「上品上生」であるのに対し、熊野は「他国降臨の神体、男女猥雑の瑞がき」から「中品上生」に過ぎない、といわれている。(「高野山文書」又続宝簡集一七六八号より)
 今回参考にした本は 「熊野古道」(岩波新書)です。読みきるのに2ヶ月かかりましたが8月の熊野旅行には参考になりました。

0091 00/09/14
延喜式における和歌山の神社の格上げについて私見を少し。

■なぜ格上げが必要なのか

 都の所在から遠く離れた神社ほど、格式が高くなければ王侯貴族の参詣、財政的支援が望めません。ましてや霊験を高める高僧の来訪など夢のまた夢です。まず社格を上げ、財政 支援を得る=貴族の参詣にふさわしい体裁を整える…。

 それは王侯貴族をその地に導く先達の生業にもかかわることでもあって、遠い土地にほど霊験あらたかな神社があることを朝廷に奏上して、みずからの権威と地位の向上、安泰を願って神社の格上げ運動に修験者が競って参加したことは想像に難くありません。

 古代から中世にかけて、官寺として認められれば朝廷や貴族の支援が容易に得られた寺院と違い、その時代の神社の存続は非常に困難をきわめたと思われます。延喜式にはそういった意味で時宜を得たものであったのかもしれません。

■天野大社(かつらぎ町)の場合

 年代的には高野山が荒廃して冬場は人も住まなくなっていた(冬場は天野に退避)10世紀ごろ?(うろ覚えでごめんなさい)天野大社を宿として利用した仁和寺の法親王が天野大社の格上げ運動を起こしたという史 実があります。これについてはそう遠くない時期に厳密な調査が行われることでしょう(^^)。

※私は神社についてはほとんど知識がありませんが、仏教史を通して見えてくる神社史というものには非常に興味深いものがあります。

0090 00/09/14
式内社の話が出ましたが、全国で3132座が記載されています。紀伊国は31座と1%分です。 大社は493座中13座で、割合としては多い方です。 とりわけ名草郡(あらく言えば和歌山市海南市一帯)には19座あり大社が9座もあります。これは多い方です。 神話の舞台と言うほどの神話が残されていると言う事でしょうか、何故か、名草郡は神の坐す郡だったとさえ言われておりました。 確かに、大社数では、畿内では王権の本拠地の大和、山城の郡に大社が多く、後は摂津国住吉郡の大社10座が目立ちます。 畿内以外では、伊勢皇大神宮のある伊勢国度會郡、出石神社のある但馬国出石郡とならび、名草郡が多いのです。

 【一体何故大神の坐す郡になったのでしょう】と愚考してみました。
 紀氏の拠点として半島先進文化との接点、とくに鉄の輸入?でのパワー?。
 王権創立に寄与した重要な湊を持ち、海運・海軍の拠点であった事。  上記の推測はお互いに関連していると思います。キイワードは紀氏みたいですね。

 名草郡の個々の神社を考えて見たいのですが、紀の国の多くの神社は、信長・秀吉軍によって殆どが焼き尽くされ、社地さえ奪われています。 おそらくは、それ以前にも南朝北朝の戦乱、地元内部でのもめごと、不意の火災などで、文書的なものは灰燼に帰しているはずで、創建の由緒や祭神名なども人の口から口への言い伝えしかなかったのでしょう。土人曰わく、古老曰わくです。 そう言う事を踏まえても、敢えて検証してみたいのですが、記紀のような文献があったとしても、神社の祭神については解らない事だらけですね。 解ってしまうようでは、神様とは言えないのかも。

 御批判を覚悟で(御批判歓迎)、お知恵を貸していただけるともっとありがたいと思います。

 名草郡での特徴は樹種播布神話の神々三座?六座が大社になっています。 すなわち、伊太祁曾神社、大屋都比賣神社、都麻都比賣神社、紀伊三所神と言われる伊達神社、志磨神社、静火神社です。 また王権の祖神を祀ったと思われる日前神社、謎めいている国懸神社二座が大社です。それから、紀の忌部氏の祖神を祀ったのか湊の神を祀ったのか鳴神社が大社です。

 と、ここまでは書いたのですが、これは手に負えないテーマかも知れません。以降は後日。

0085 00/09/10
近江国伊香郡の丹生神社二座は式内社になっています。
この辺りは神功皇后を出した息長氏の影響下にあった所です。
昨日の土曜日に参詣してきました。
余呉湖のあるJR余呉駅から4km位北東の丹生川沿いの谷間に鎮座していました。行きがけの山裾で山王神の小祠が残っているのを見つけました。これは比叡山天台宗の進出の跡と言うことです。どうやら、ここは高野山真言宗系の丹生神社ではなさそうだと思われます。

瀬藤 > 延喜式の撰上は905年からで、
Okujr> 延喜式の完成は延長5年(927)ですが、施行は40年後の康保4年(967)です。
 延喜式神名帳について奥jrさんから「完成と施行の40年間」について教えて頂きました。

さて、本宮と新宮の延喜式での扱いを整理してみましょう。
紀伊國には31座が載っており、大社13、小社18となっています。
 この内、牟婁郡には6座あり、大2社、小4社です。記載順にあげますと
熊野早玉神社(大) 
熊野坐神社(名神大) 【注 和歌山県史には、ともに名神大社としています。】
です。一応、記載順の上位の神社が格も上とされています。本当でしょうか?
 ただ、第二順位の熊野坐神社が名神大社となっており、こちらの方が上にも見えます。
 大社と名神大社については、名神祭をやったとされますが、格付けとしてはどのような違いがあるのでしょうか、ここいらはOkujrさんよろしくお願いします。
 また和歌山県史の記述は両宮ともに名神大社となっていました。延喜式もの色々な異本があるのでしょうか。
小生は昭和56年の吉川弘文館の國史体系を見ています。

所で、出雲国の意宇郡では
筆頭が 熊野坐神社(名神大)
六番に 速玉神社 
となっています。出雲の場合には、記載順と格付けが連動していますね。

 紀の国の伊都郡では、小田神社、次に、丹生都比女神社(名神大。月次新甞。)となっています。伊都郡や牟婁郡では記載順と格付けがずれているのか気にかかります。

 ここで、22年かけて完成し、それから施行まで40年の期間があった事に何らかの意味が出てきそうです。

 えかわさんのおっしゃっている高野山の格上げ運動があったとすれば、丹生都比女神社は一度は小田神社の次にランクされたのを、格を上げて、名神大、月次新甞が書き加えられた証になるのかも知れませんね。

 巻物見たいなものに書かれていたとすれば、順番が変わったら書き直さざるをえないでしょうが、格付けアップなら書き加えるだけで済むとのメリットがありますね。
    これは 怠け者の発想でした。

 もしくは、時の神祇官が「我々はこうランク付けした。政治的圧力があって格が変わった。」と言うメッセージを残したのかもしれません。完成から40年、十分時間がありますね。

 同時に、熊野坐神社についても、その時代に熊野への崇敬の念が増してきて、かつ紀氏の運動や、出雲とバランスから、名神大社に格上げされて、それが書き加えられたたのかもしれませんね。

 記載順と格のアンバランス、これぞ格上げ運動の痕跡なり、あさもよしMLの大成果ですね。\(^O^)/

0084 00/09/8
> 文化人類学上、文明とはそのほとんどが大河の河口部より始まり、
> 上流にさかのぼってゆくのが常だからです。
 創建の年代は、由緒書によりますと 本宮は 崇神天皇の時代、新宮は 景行天皇の時代となっています。新しい神社ほど由緒を昔に引っ張りたがると言う事でしょうか。もとより、両宮とも由緒書に記載の年代については??だと思います。

  本宮の祭神は熊野牟須美神であったとされています。新宮は速玉御子神で、川上が御祖神、川下は御子神としています。(和歌山県史)
 祭神の場合、どっから見るかにもよるのですが、遠方ほど親神になるとの説があるそうです。地理的なものと時間的なものとはおなじように理解されていたのでしょう。
 例をあげますと、紀北の伊太祁曽神社、その親神が有田の須佐神社、その親神が熊野市の花窟神社のイザナミ命と、大和や難波から見た距離感なのでしょう。
 天皇の祖先が筑紫の日向からと言うのも悠久の時間を語りたかったのでしょう。

 おなじように新宮のほうが近く、本宮のほうが遠いと言う距離感を持っていたのでしょう。海運・水運の場合には当たりますね。
 本宮は明治22年の洪水までは、川中の大齋原に鎮座していました。熊野詣での頃には既に川の中だったようですが、創建時から川の中だったのでしょうか。
 一説には当初の祀りの場所を音無川の水源地辺りとする説があります。伏拝王子辺りは登りすぎみたいですね。祓戸王子辺りでしょうか。?

 ekawa> 本宮・音無川の上流には船玉神社という名前の神社
 私はえかわさんのおっしゃる船玉神社は存在も場所も知らないのですが、ひょっとしたら、本宮の当初の祀りの場所だったのかも知れませんね。
 前に書いた、「早玉神を祀る連中が船玉神と名付けた」、瓢箪から独楽にならないでしょうか。
 速玉大社の例祭には「早船」が出ます。これこそ、根拠のないごろあわせでした。

 ekawa> 大師が吉野を抄覧中、あまりにもせせらぎの音がうるさいので川に石を投げ
ekawa> ると、川の音が止まった
ここいらが面白いと思いません。宗教的な意味合いについては解らないのですが、日本の神道と仏教の違いが出ているような気がします。
 例えば、熱海の来宮神社のお話 、「我は五十猛命であるが、波の音がはなはだ耳ざわりである。 これより西方の山地に七株の楠の木があり、そこは波の音の聞こえない静かな所だから、その地に祠を立ててわれを祀れば、この里は永く栄えるに違いない。」

0083 00/09/7
> さて登ろうと境内に入りますと、恐らくは新宮高校の生徒さん
> でしょうか「おはようございます。」と大きい声であいさつしてくれました。
> 大阪では高校生の集団とすれちがうと不気味な感じがするのです
>が、 ここでは実にさわやかな印象をもてました。
田舎の素朴さ、といえば熊野の方に怒られるかもしれませんが、私も三重県から東牟婁郡あたりの高校生は非常にさわやかな印象があります。特に新宮高校の諸君は!

 > たまたまかも知れませんが、ごとびき岩から阿須賀神社の方向は
> 丁度夏至の頃の日の出の方向に当たります。太陽祭祀と言う言葉が
> うかびます。もっと延長すれば、富士山の方角になりそうですね。
似た方向ではあるのですが、新宮周辺の夏至の太陽は富士山のやや西寄りになります。これは那智山でも同じですね。厳密にいいますと夏至の日の出と富士山が重なるのは三重県二見ヶ浦の夫婦岩と富士山とを結ぶ線上とご理解ください。そして富士山の頂上から登る太陽が見える限界は同じく紀伊半島の奈良県大台ケ原の経ヶ峰近辺ですね。これも時期は6月頃です。
厳密にいえばそうなのですが、富士山と飛鳥神社のかかわりについて瀬籐さんの意見に同調できる部分があります。それは修験道と富士山、飛鳥神社の関係です。
飛鳥神社の本地仏は大威徳明王、これは密教の仏です。そういえば神倉神社の本地仏も密教のものでした。つまり富士山と飛鳥神社は、修験道という接点があったのでしょう。ただし時期は江戸時代と推察しますが。

 > 阿須賀神社も式内社にはなっていません。藤原時代の仏教遺物が
> 出土しているようで、神倉社と同様、お寺になっていたのでしょうね。
銅鏡に本地仏を線刻または貼り付けた「御正体」が多数発掘されています。そのすべてを拝見する機会がありましたが、間違いなく重要文化財クラスの逸品です。しかし同じ発掘場所にあったであろう飛鳥時代〜白鳳時代作のこれも国宝級の仏像は一体も保存されていません。これも見つかれば即、国宝でしょう。
熊野地方のものとおぼしき御正体は、和歌山県、奈良県あたりの骨董屋で公然と売られています。私も1枚買いました。なんとも人類の罪深きことよ、と思わずにはいられません。

 > 速玉大社からはごとびき岩は見えません。また神社の建物もごとびき岩
> 方面を祈る向きではありません。前記二社とは別の系統とされるえかわさん
> の見方に同調できます。
私の推論は、神倉神社はごとびき岩をご神体とした原始信仰が始まり、飛鳥神社は蓬莱山を神奈備とした原始信仰が始まりで、どちらも修験道と結びついて精進潔斎の道場として形作られたものでしょう。ちなみに飛鳥神社は戦争末期、米軍の空襲により社殿が焼失し、再建資金の一部とするため古神宝類(国宝!)が国立京都博物館などに売却されたという悲しい歴史もあります。

 > 早玉神を祀る連中が船玉神と名付けたなんて、これは根拠のないごろあわせ。
また別の神様ですものね。

 > ekawa> 本宮・音無川の上流には船玉神社という名前の神社の存在
音無川というのは吉野にもありまして、そこには弘法大師伝説が残っています。
大師が吉野を抄覧中、あまりにもせせらぎの音がうるさいので川に石を投げると、川の音が止まった=ゆえに以後、音無川とよばれるようになったと。本宮の音無川の由来も同じものでしょう。
真言宗は特に本宮においてかなりの影響力がありましたから、このほかにも本宮大社の摂社である月見丘神社(大日堂)が鎮座する「大日山」という地名もあります。
それから、熊野詣を世に広めた一遍上人、西行法師はいずれも高野山に長年草庵を結んだ念仏聖であることはあまり語られていませんね。

 >  帰路で本宮の方へは温泉にでもはいろうと寄ったのかもしれませんね。
>  熊野川の場合、どの辺りまでは船でさかのぼれたのでしょうかね。
川底から推察する限りではせいぜい十津川村の入り口あたりまででしょうね。

0082 00/09/6
ある日の朝、新宮駅前からごとびき岩を目指してその麓まで着いたのですが、登り口が見当たりません。ちょうど、通りかかった方に尋ねますと、山沿いのいりくんだ道を案内して、神社の入り口にまでつきあってくれました。さて登ろうと境内に入りますと、恐らくは新宮高校の生徒さんでしょうか「おはようございます。」と大きい声であいさつしてくれました。
 大阪では高校生の集団とすれちがうと不気味な感じがするのですが、ここでは実にさわやかな印象をもてました。

 神倉神社のごとびき岩の下から銅鐸が発見されているそうです。
 阿須賀神社の神奈備に当たる蓬莱山(昔は島)は弥生時代からの遺跡が出ているそうです。
 たまたまかも知れませんが、ごとびき岩から阿須賀神社の方向は丁度夏至の頃の日の出の方向に当たります。太陽祭祀と言う言葉がうかびます。もっと延長すれば、富士山の方角になりそうですね。
 この二つの聖地は弥生時代からのもので、山の磐座、島の神奈備、祭祀の場として何らかの関連があった考えられますね。
 阿須賀神社も式内社にはなっていません。藤原時代の仏教遺物が出土しているようで、神倉社と同様、お寺になっていたのでしょうね。

 速玉大社からはごとびき岩は見えません。また神社の建物もごとびき岩方面を祈る向きではありません。前記二社とは別の系統とされるえかわさんの見方に同調できます。

 大和の吉野に宮滝という所があります。ここに縄文遺跡があります。橋の横に立てられている説明板には「熊野の海岸で採取した石」が出土している」と記載されていました。持ち込んだルートは書いてありませんでした。

 どうでしょうか「ぐるっと紀ノ川下流にまわって川を上る」、「直接 山を越え 谷を越え 川を遡り」運ぶルートを思いつきますね。

 縄文商人は、熊野の石(ついでに塩や魚貝類も?)をどう運んだのでしょう。
 直接のルートでしょうね。紀ノ川まわりなら、海賊に襲われる可能性も高いし、それらしい石を手に入れるチャンスは幾度となくあったと思われますから。

 記紀では、 神武天皇軍が山を越えて吉野に入っています。往古の人々の足腰の強さは現在の我々にはおよびもつかない強靱なものがあったのでしょう。
 坂道を越える際には、安全を祈願して「柴を手向け」る風習があったとか。 峠の語源。吉野からの帰りは、適当な所で、竹か木々で筏もどきを作って川下りをしたのではと想像できます。材木資材の調達を兼ねられますし。

 その時にも安全祈願は行ったのでしょう。そのような聖地が後世に船玉様と呼ばれるようになったの考えられないでしょうか。もっとも熊野本宮の方から吉野に行ったのではなさそうで、熊野川をのぼるとすると宮井から169号線沿い、または熊野市の新鹿あたりから行ったのでしょう。
帰路で本宮の方へは温泉にでもはいろうと寄ったのかもしれませんね。

ekawa> 本宮・音無川の上流には船玉神社という名前の神社の存在
早玉神を祀る連中が船玉神と名付けたなんて、これは根拠のないごろあわせ。
熊野川の場合、どの辺りまでは船でさかのぼれたのでしょうかね。 

0082 00/09/4
延喜式の完成は延長5年(927)ですが、施行は40年後の康保4年(967)です。
それから、延喜式巻9・10がいわゆる神名帳と呼ばれるモノで、全国の神社が記されています。ここに記されている神社を「式内社」と呼んでおります。
ところで、延喜式の前には弘仁式・貞観式の2式がありました。これらは散逸してしまっており詳細は判りませんが、これらに神名帳があったとすれば、歴史はもっと遡ることができますね。 (『弘仁・貞観式逸文集成』と言う書籍があります。これには何か書いてあったかもしれません。今手元には置いていないので・・・)

0081 00/09/4
 風土記の編纂は和銅六(713)年に命令されており、その頃には、筒川の藤代峯に爾保都比売命が祀られていたと考える事が出来ます。ここでは、丹生都比売命と呼ばれていたのでしょう。もっとも、神功皇后の話などは付会かも知れませんが。

 高野山の創建に関する初期の文献とされるものには確かに丹生神社の名は出てきません。また鎮守として「地主山王」が出てきます。山には山の神がいますと信じられていたのでしょう。後世に高野山だから高野明神と呼ばれたのでしょう。

 承和二(859)年、空海入定後、直ぐに書かれたとされる「空海僧都伝」には、高野山に登る途中に丹生都姫からの託宣を聞いた事になっていますが、これは後世の作とされます。より信頼のできそうな続日本後紀(869年)などには丹生明神の名は出ていないようです。

 丹生神と高野山との関係を示す最古の事実は、天暦六(952)年六月に炎上した奥御院廟塔拝殿を天徳年中(957−61)に再興し、廟の左に丹生・高野の二社を造営した事のようです。

 延喜式の撰上は905年からで、完成は927年です。従って、高野山が丹生都比女神社を式内大社に格付けするべく運動したのであれば、それが、丹生神と高野の関係の最古の事実となります。えかわさんの大発見ですね。

 石清水文書の宮寺縁事抄によりますと、石清水八幡宮が式内社になれなかったのは、創建が新しいのではなく、山城の平野神社、祇園社などと同じく、魚味を供さない社は載せないとの事です。平野祭神四座は載っているのですが・・。
 祭祀の主体が僧侶の場合と言うのか、お寺の支配下にあった神社は、神社とは認識されていなかったと言う事でしょうか。

丹生都比女神社は式内社ですから、お寺の色彩は薄かったものと思われます。
高野山が側面支援したとすれば、丹生都比売神の社域が広まると、高野山も寺領を広げやすかったと言う事でしょう。

0071setoh> 誤解を与える表現がありました。
 延喜式制定から100年後白河上皇は熊野詣でを行いました。
下記を追加します。
熊野詣でのはしりでしょうが、延喜七(907)年宇多上皇が熊野御幸をされています。

0078 00/09/1
>  天野大社こそ、高野山の大きな後押しがあって式内社に編入されたものと思わ
>  れ
とありますが、高野山が後押しした理由は何だと思われますか?天野大社が式内社に編入される事による高野山のメリットは何かあるのでしょうか?
また、高野山が丹生神社を広めた理由は、メリットは?何か水銀と関わりあるのでしょうか?それとも他に何かあるのでしょうか。
う〜ん、今日の朝から考えてるけど思いつかない。やばい、これは眠れなくなるパターンだ。まあ、天野は高野山によって繁栄し、高野山は天野を含めまわりの里の人々に助けられて、お互い共生してきたのだから、理由なんかなかったりして。

0077 00/09/1
kammer> 「源風景の森」は今週の土曜日で閉鎖となります。
それはそれは残念ですね。良い資料ですからこれからダウンロードをします。

kammer> 丹生氏が大和国志摩庄にいた
現在の明日香村の「島庄」と言う所があります。石舞台古墳の西すぐです。ほかには見当がつきません。この古墳の内部にも丹砂がどっさり使われていたのかもしれませんね。神社などからは丹生氏の痕跡は見当たりません。

 余談ですが、明日香村島之庄には春日神社があります。この辺りの春日神社は藤原氏の春日大社とは関係のない春日神社だと思います。TVでの宮司へのインタビュを聞きました。

 大和三山近辺から吉野方面へ点在する春日神社を結んでいくと、巨大な地上絵が現れて、その姿は楯を持った武士が立っている姿になるそうです。丁度藤原京から平城京への移転を見送った物部大臣を彷彿させます。

yuka12>真土山
http://www.kamnavi.net/kinokuni/manyou/index.htm
から「紀の国だ! 紀ノ川沿い」をクリックして頂ければ、真土山と大和と紀の国の境の飛び越え岩の写真をいれてあります。行きしなの道筋には万葉に詠われた木々が植えてあり、名前をと歌を付けてくれています。観光地にしたいのでしょうが、それほどにはなっていません。

0076 00/09/1
Ekawa> 一点、大きな誤りがあります。
Ekawa> Seto氏:■弘法大師空海が高野山を開いたのは10世紀初頭の弘仁七年(916
Ekawa> 年)です。
> ※Ekawa9世紀初頭の弘仁七年(816年)です。
kammer> ちなみに、弘仁7年は816年ですよ。延喜式は800年ごろの成立
kammer> でしょうか? 
 延喜五年(905年)に編纂が開始された律令です。平安の世も100年経っています。

 おふたかたの御指摘ありがとうございます。私のミスです。大変失礼いたしました。もともと雑な上に猛暑でおつむが「キ」印になっています。これからも誤りがあればよろしくご指導下さい。

 丹生都比売独り立ち説には格好の数字が出た!と思いきや、でした。・・

 またえかわさんは引用にSeto氏と「氏」を付けていただきました。私は抜いています。これも失礼かなとは思ったのですが、別のMLでは「氏」ぬきでやっています。
このままでご容赦いただきます。

 さて、丹生都比売について整理しますと
高野山が開かれる以前に、丹生都比女神社は確固たる存在であったかどうか?
高野山が後押しをしなければ丹生都比女神社は式内名神大社になれなかったのか?
と言う事を調べようとしている話です。問題は前者です。

kammer>丹生氏の惣神主職が725年にはありました  弘法大師空海以前の年代です。丹生都比女神を祀っておればいい資料ですね。

kammer>記紀の「天野祝」 (あまのはふり=天野での神職)
 日本書紀の神功皇后の所に出てくる天野祝の物語を紹介しておきます。 皇后は紀の国においでになって、太子(応神天皇)に日高でお会いになった。群臣とはかった忍熊王を攻めようとして、更に小竹宮(しののみや)に移られた。この時ちょうど夜のような暗さとなって何日の経った。時の人は「常夜行く」といったそうだ。一人の翁がいうのに「聞くところでは、このような変事を阿豆那比(あずなひ)の罪というそうです」と。「どういうわけか」と問われると答えて。「二の社の祝者を一緒に葬ってあるからでしょうか」という。 それで村人に問わせると、ある人がいうのに、「小竹の祝と、天野の祝は、仲の良い友人であった。小竹の祝が病になり死ぬと、天野の祝が激しく泣いて『私は彼が生きているとき、良い友達であった。どうして死後穴を同じくする事が避けられようか』といいい、屍のそばに自ら伏して死んだ。それで合葬したが、思うにこれだろうか」と。墓を開いてみると本当だった。ひつぎを改めてそれぞれ別のところへ埋めた。すると日の光が輝いて、昼と夜の区別ができた。

注 小竹宮を御坊市小竹の小竹幡神社に比定する説があります。または、那賀郡粉河町の志野神社に比定する説もあります。 天野祝を丹生都比売神社の神人とするならば、志野神社の方が近いと言う地の利がありそうです。日高からの移動ですから、御坊に利がありそうです。
 丹生都比売神社で聞いた所によりますと、「天野祝」は丹生都比売神社の神人ではなかろうかとの事でしたが。・・

 火山の噴火でもあったのかもしれません。

 この記事を持って、丹生都比売神社が、この頃から存在していたとは、しにくいですね。播磨風土記では、神功皇后は、紀伊国筒川の藤代の峯に爾保都比売命を鎮め祀ったとあり、矛盾して来ます

「丹生」と名のつく神社で、延喜式内社になっている神社を掲示しておきます。
■大和国宇陀郡 宇陀郡 丹生神社 論社の鎮座する菟田野町入谷の土壌には水銀成分が多いという。 大和の 宇陀の真赭の さ丹著かば そこもか人の 我を言はなむ
■伊勢国飯高郡 丹生神社  安濃郡 小丹神社(?)
■近江国伊香郡 丹生神社二座 天武天皇御代、丹生真人が丹保野山に神籬を儲け山土と丹生川の清水を沿えて天津神を祀り、天平年間に社殿をい創建したと言う。丹生真人は息長氏の一族。
 伊香郡と栗太郡の高野神社が式内社です。栗太郡のほうは和銅元年(708年)勧請
■若狭国遠敷郡 丹生神社
■若狭国三方郡 丹生神社
■若狭国三方郡 仁布神社

 私は高野山の進出の地や時期についての情報は持っていません。えかわさんにここいらはお願いいたしたいところです。

播磨風土記や万葉集にからむと思われる丹生神社
■神戸市北区山田町  丹生神社 土壌の水銀濃度高い  播磨風土記に言う爾保姫神社と推定されています。
■群馬県富岡市下丹生  丹生神社  土壌の水銀濃度高い 
万葉歌碑 まがね吹く 丹生のまほその 色に出て 言はなくのみぞ 我が恋ふらくは

0075  00/08/31
4)みなさん教えて頂きたいことが。
丹生氏が大和国志摩庄にいたと書いた本を見つけたのですが(初耳、いや初目?)どなたかこの大和国志摩庄(シマの漢字が違うかも)が現在のどこになるかご存知でしたら教えて下さい。よろしくお願い致します。

5)> ■弘法大師空海が高野山を開いたのは10世紀初頭の弘仁七年(916年)です。
>  所が、丹生都比女神社は堂々と名神大社として延喜式内社になっています。高野山
> が開かれて有名になったからでは間に合わないタイミングです。やはり、紀の国の古
> 社として、日前国懸神宮や伊太祁曽神社と並ぶ存在だったと言えるでしょう。
> 「売り」は何だったか?奈良の大仏等の金メッキにも貢献した水銀の女神だったとす
> れば、納得できますね。

丹生祝本系帳の真偽が分からないので、これを除いて私の知っている限りでは、丹生氏の惣神主職が725年にはありましたので、(その当時から丹生氏を名乗っていたかは別として)丹生都比売神社はそのころから存在していたのではと推測します。
(記紀の「天野祝」が丹生氏なのか、また丹生都姫を祭っていたかどうか不確かなのでこれも省かせていただきました)
ちなみに、弘仁7年は816年ですよ。延喜式は800年ごろの成立でしたでしょうか?

6)>  まさか「酒作り」ではないでしょうね。紀の国の「キ」には、酒の意味がありま
> す。御神酒の「キ」ですから。

インターネットでみつけたのですが、愛知にも丹生に関わる土地があるよう で、その中でこのあたりに、「ささ踊り」というのが残っているらしく、このささが鉄をあらわす「ささ」なのか、笹を表す「ささ」なのか、あるいは酒を表す「ささ」なのか、なんて書いてありました。また、この中で和歌山県伊都郡かつらぎ町三谷に「笹踊り」が残っていると書いていました。三谷は丹生酒殿神社のあるところです。丹生惣神主が天野に上るまで(1200年ごろ?)住んでいたところですね。一体「ささ踊り」のささは何を表すのでしょう?やっぱり紀(キ)の国ですし、お酒かな?酒殿ですしね。

参考に、関東の高萩市丹生神社に「ささら囃子」なるものが残っているようで、踊りもあるとか。インターネットでみつけました。「ささ」と「ささら」近いけど何かつながるものがありそうな。

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