あさもよし紀の国 MLログ 平十三年一月二月 発信者のお名前は省略させて頂きます。
 

更新 2001/2/28

ログ



更新 2001.2.26

掲示板 setoh  熊野のこと h13.2.26

 瀬藤はかねがね、この辺りをゆっくり歩きたいと念願していましたが、未だ実現していません。3月に行かれるとのこと、心弾みますね。
一見この辺りは辺境に思いますが、往古は黒潮にのった海人の交流が盛んだったのでしょうね。神話にまつわる伝承が復層しているようですね。
伊弉册尊  花窟神社、産田神社
徐福    産田神社、波多須神社
神武東征  二木島町(丹敷戸畔)
熊野古道  波田須王子、かねたたき王子、花窟王子、久生屋王子
花窟王子は熊野王子社なのか軻遇突智尊なのか−後世の付会か−要調査ですね。花窟神社の境内なのでしょうね。ここに近い所の歴史民俗資料館で聞かれたら色んなことはわかるかも知れませんね。
 縄文遺跡と神社との関連は相当難しい課題ですね。聖地として連綿と受け継がれていれば可能性はあるでしょうね。

> 熊野本宮大社は出雲の熊野大社から遷したもの
出雲との関連もにわかには断定しにくい所ですね。熊野本宮大社の立地は、熊野川を遡った所で、田辺からの道筋(後世には中辺路と呼ばれる)と交差する所で、北上して吉野や高野へのポイントに当たると言えます。私は、先ず、新宮や田辺が開けてから本宮の辺りが開けたのではないかと思っています。速玉大社の方が先にあったのではないでしょうか。
この当たりについては「あさもよしMLログ」を参照して下さい。
http://www.kamnavi.net/log/kamlog.htm
http://members.tripod.co.jp/itakeru/index.htm
 この速玉大社も伊弉册尊に関わり、お書きのように産田神社の方が先行したとの説もあるようですね。
 熊野市の歴史民俗を調べるのなら、教育委員会、歴史民俗資料館、図書館などが便利です。(どの地域でも)おそらくは面白い幾つかの史料、土地の伝承が見つかると思われます。楽しいですね。
 伊弉册尊信仰は淡路島辺りから淡路海人、紀州海人、熊野海人などが、熊野灘へ持ち込んだもので、実際の所は付会ではないかと思っています。この神話は河内に王朝ができてから王宮に持ち込まれたようです。
 お役に立つ情報は提供出来ませんでした。ご容赦を。
 現地で何かつまれたら、是非教えてください。

掲示板 ひふみ Re[22]: 花窟神社と産田神社に関して h13.2.26

神奈備様、早速のお返事有難うございます。
三月に熊野へ行く予定なので、教えて頂いた事を大切にお参りして来ようと思います。

ところで、花の窟の項で書かれていた「王子の窟」というのは知りませんでした。
花の窟のすぐ側にあるのでしょうか。花の窟の境内にあるカグツチノミコトがお祭りされている巨石の事でしょうか。よろしければ、お教えください。

又、産田神社の方ですが、崇神天皇の御代創建という事ですが、近くにあるといわれる縄文遺跡との関連について、御存知ありませんか。
実は、たまたま知り合った地元の方の話では、崇神天皇の夢見により、ここにお祭りされていた神様を熊野に遷したのが、熊野本宮大社の始まりだというのです。江戸時代までは、産田神社と熊野本宮大社では、同じ巫女舞が伝承されていたというのですが。
その方の云われる事には、それが証拠に4月の本宮大社の例大祭の折に舞われる巫女舞の中に、「有馬の〜」というものがあるそうです。私自身、まだ聞いていないので確認はとれてませんが。
私自身は、熊野本宮大社は出雲の熊野大社から遷したものだと聞いていたもので、びっくりでした。ただ、産田神社に初めてお参りした際、普段神主様があまり来られない神社にも関わらず、大変な神気を感じたのも事実で、説得力のない説でもないなとも思いました。

崇神天皇といえば、有名な所だけでも、伊勢神宮や大神神社の祭祀に際し、深く関わった方ですよね。熊野でも、何かあったのでしょうか。
又、崇神天皇とは、いったいどういう方だったのでしょうか。崇神天皇の陵墓が、奈良にありますが、そのすぐそばに、イザナミ神社もありますし。(以下、崇神天皇で気になる事は、まとまり次第、神奈備サイトにて質問させて頂きます。)話がそれましたが、産田神社の元熊野説は、やはりあるのでしょうか。よろしくお願いします。

掲示板 setoh  花窟神社 h13.2.25

花窟神社 はなのゆはや 五七の桐 熊野市有馬町
祭神 伊弉册尊、軻遇突智尊
例祭 2月2日 10月2日
御綱掛け神事が斎行される。口有馬の氏子が中心となって、およそ10メ−トルの三旒の幡形を作り、その下部に種々の季節の花々や扇子等を結びつける。それを約170メートルの大綱に吊し、その大綱の一端を岩窟上45メートル程の高さに、もう一端を境内南隅の松の大樹にかける神事である。昔は朝廷より毎年錦の幡旗が献上されていたが、ある年幡旗を乗せた船が難破し、奉納されなかった。そこで土地の人が急遽縄で形作った幡旗をこしらえてそれに代用し、現行のような神事になったという。
社殿 拝殿
由緒 創始については詳らかではないが、『日本書紀』(神代巻上)に一書に曰わくとして「伊弉冉尊、火神を生む時に灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、此の神の魂を祭るには、花の時には花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る。」とみえ、それが当社のことであると伝える。
つまり、当窟は伊弉冉尊の御葬所であり、季節の花を供え飾って尊を祀ったが故に花窟との社号が付けられたと考えられる。一説に伊弉冉尊を葬し奉った地は産田神社であり、当社は火の神の御陵ともいう。また、御綱掛け神事は音曲歌舞こそ伝承していないが、大要において書記の記載に合致し、往古の遺風を残すものという。
古来、当社には神殿がなく、熊野灘に面した巨巌が伊弉冉尊の御神体とされ、その下に玉砂利を敷きつめた祭場が設けられている。それを少し隔てた所には王子の岩屋と呼ばれる高さ12メートル程の岩がある。『紀伊続風土記』によるとここに軻遇突智尊の神霊を祀り、この神が伊弉冉尊の御子であることに依拠して、王子の窟(別名、聖の窟)の名称由来を説いている。

掲示板 setoh  Re[20]: 突然ですが・・・。産田神社 h13.2.25

> 特に産田神社の方の記述がネット上で少しあっただけで、なかなか見つかりません。
白水社から出版されている『日本の神々』シリーズの6に記載されています。

以下は『三重県神社誌』から(昨日三重県の若宮八幡神社から借りました)
産田神社 五七の桐 熊野市有馬町
祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、軻遇突智尊、天照皇大神、大山祇命、木華開邪姫命、神武天皇
例祭 1月10日 祭日には、烏帽子、布衣、帯刀の男子二人による御弓の神事を斎行
春祭 2月10日 直会の際、「ホウハン(汁かけ飯一碗、骨付きのさんまずし、赤和え、神酒)」と称される膳を頂くと厄落としができる。あるいは左利きが治るといわれる。
秋祭 11月23日
社殿 本殿(神明造)、拝殿、神具庫 2480坪
由緒 天正の兵火で古記録宝物等焼失ゆえ詳ならす。崇神天皇の御代創建と伝わる。産田は産処の義にして、伊弉册尊がこの地で火の神軻遇突智尊をお産みになったが故に産田と名付けられたという。一説に伊弉冉尊が神退りました地ともいわれる。また、永正十八(1521)年十一月十四日の棟札に「奉棟上産土神社二所大明神」と見え、『紀伊続風土記』によるとこの二所大明神とは伊弉册尊と軻遇突智尊二神を指し、後に伊弉諾尊が併せ祀られるようになったと説く。

掲示板 ひふみ 突然ですが・・・。 h13.2.25

はじめまして。こちらへ投稿させて頂くのは初めてです。
皆様の情報量の多さと、様々な視点からの学説、驚嘆と共に楽しく拝見させて頂いております。
さて突然ですが、和歌山からはややはずれてしまうのですが、三重県熊野市有馬の「花の窟」と「産田神社」に関する資料等あれば、お教え願えませんでしょうか。
いろいろ調べては見たのですが、特に産田神社の方の記述がネット上で少しあっただけで、なかなか見つかりません。紀州熊野三山とも御縁のある両社なのでいろいろ調べたいのですが・・・。よろしくお願いします。

0170 名草の神々 −23−  h13.2.22

 伊勢神宮の八咫鏡については、魏志倭人伝の伊都国とされる前原市の平原の古墳から出土した古代最大の鏡(直径 46.5cm)と同じ位だと云われています。 天の岩戸の壁でこすった傷跡が残っているとの話もありますが、これは江戸時代の目撃譚だったと思います。

 記紀に、崇神天皇が、皇居内の天照大御神を畏れ多いとして笠縫の地に遷座せしめたとあります。 八咫鏡を皇居から出したと言う事です。 大和国城下郡のの鏡作坐天照御魂神社(田原本町)の社伝によりますと、八咫鏡の代わりの神鏡を鋳造した際の試鋳の像鏡を、鏡作坐天照御魂神社の御祭神としたとなっています。 そうすると、本物は伊勢神宮、代わりの神鏡が皇居の内待所に祀られている、その試作品は鏡作坐天照御魂神社と言う事になります。

 斎部氏、紀氏、物部氏らが、朝廷の権力を占有した藤原氏に対抗すべく、伊勢の皇大神宮と豊受大神宮に対抗する軸として、日前国懸神宮穴師兵主神社、鏡作坐天照御魂神社の由緒を深めようとしたのかも知れません。

 天岩戸の前で太御幣を捧げた布刀玉の命(天太玉命)は鳴神社の祭神で、紀伊忌部氏の遠祖です。後に齋部と漢字表記を変えています。 朝廷の祭祀の主役を中臣氏に奪われて、斎部広成が平安時代大同二(807)年に齋部の由緒の深さをアッピールしたとされる『古語拾遺』と言う書物を書いています。これも貴重な史料です。

 日本書紀によりますと天武天皇は紀伊国に居す国懸神に奉幣しています。同時に飛鳥の四社、住吉大神にも行っています。日前神については何ら記載されていません。存在していれば奉幣があってしかるべきだとお思いになりませんか?
 伊太祁曽神社は元々この地にあったと伝わっています。もし國懸神と伊太祁曽神が同居していたならここに伊太祁曽神の名が出ても不思議ではありません。

 國懸神とは伊太祁曽神のことだったと理解するのが自然です。陸奥国磐城郡の式内社佐麻久嶺神社の祭神は五十猛命で由緒には紀伊國日前国懸大神を勧請とあります。傍証にはなります。 えかわさん流に言えば、☆☆程度にはなりませんでしょうか。
(それにしてもえかわさんの文章には説得力がありますね。 本地佛あたりについてはうといのですが、☆がキラメクように読めました。ありがとうございました。)あさもよしログ参照

 この頃には天智系、天武系と王権の流れは揺らいでいました。大胆に割り切れば、葛城・河内・瀬戸内から百済へつながる系統が天智系、磯城・近江・北陸から新羅につながる系統が天武系と見ることができます。 (古代倭国王朝論 畑井弘氏)

 国懸神は新羅系の神と言えます。それに対して日前神は百済系の神として構想されたかも知れません。 新羅系とした国懸神とはやはり日矛を神体とするとされ、そうすると、天日矛のイメージになりますが、天日矛は新羅の王子と言うことで、 素盞嗚尊・五十猛命の後裔としてもいいのかも知れません。そう言えば紀氏はその秘密系図での祖神を素盞嗚尊や五十猛命としているので、もうひとつくらい☆を増やしてもよさそうですね。

 天武没後に天皇の位についた持統天皇は天智天皇の娘で、王権を再び葛城系に戻しました。 これを見た紀氏は天照大神をも祭ることにしました。檜隈坐国懸神を二つに分けて日前神を創設したと考えることができます。中央の紀朝臣からもつつかれて、かつ天岩戸神話の構想を聞き出し、思兼命や石凝姥命を取り込んだのではないでしょうか。

 紀氏は両天秤をかけて存続を図ったとすれば、戦国時代の真田家のような知恵者だったと言えますね。

 壬申の乱以降、天皇の権威が一層確立・強化されて来たようです。と言うよりは藤原不比等に権力が集中してきます。 おりしも持統天皇五年、十八の氏にその墓記を差し出させています。 勿論紀伊も出しています。紀氏はあわてて天孫降臨や神武東征に天道根命を登場させてこれを祖神とする伝承を作り上げたのかもしれません。

 こうなると、紀氏の本拠地の秋月に國懸神として伊太祁曽神が鎮座しているのは誠に具合がよろしくない。ましてや牟婁の湯への通り道に当たる。 国津神の雄を奉じていては出世にひびく、中央の紀氏もうるさい。 天皇家の祖神と主張できる日前神國懸神を齋祭る形を取ろう、この際、はっきりとわかりやすくする為にも思い切って國懸神から伊太祁曽神を分離してすこし東の山の向こう遷座してもらえとなったのでしょう。

0169 神像から見た熊野三山の歴史  h13.2.21

おそらくこれは熊野三山の歴史を塗り替えるかもしれない仮説を提起します。ただしこれは私のひとりごとですので、おいそりゃちゃうで、という場合はビシバシ批評してください。(☆印は信頼度)

■熊野垂迹縁起は法華修験の創作である---☆☆☆☆
 瀬藤さんが以前ご案内くださっていたように、熊野権現垂迹縁起による熊野権 現降臨  伝説は、唐の天台山から瀬戸内海の山々を越えて新宮の神倉、飛鳥が舞台になるわけですが、いずれも役の行者が開いたという有名な修験の行場であったり、本地仏に密教の影響が色濃い場所であること、それと垂迹縁起を再現する新宮のお燈まつりは密教系の法会「修正会」となんら変わらないものである。奈良のお水取り(修二会)も同様の法会。
神前で大々的に火を灯すなどということは神道的な発想でないことはあきらかであり、人間の力を超えた自然の力=火を自在に操るシャーマニズム=密教もしくは修験の信仰がお燈まつりに反映されているように思えてならない。
元来、信仰の場に火を灯す行為はお釈迦様の教えによるものである。(原始信仰は別として)

 瀬藤さんが以前ご指摘のように、天台山をわざわざ起点に持ってくることは、 真言系の行者ならまずありえないことであり、法華修験(天台系)の影響によるものであろう。そもそも、熊野はもと神社があった場所に仏教が習合したものであり、垂迹するという思想そのものが成り立つはずがない。つまり、このことから垂迹縁起がさかん流布されたのは熊野信仰が貴族の絶大な崇拝を集めた平安末期から鎌倉時代に創作されたことは間違いないであろう。ただこの仮説が5つ星にならないのは、それを証明する文献がないからである。これだけ状況証拠が揃っているのに残念(^^;

 ・神倉社の本地仏=愛染明王 ・飛鳥社の本地=大威徳明王

■神像から見た熊野三山の歴史----------☆☆☆☆☆5つ星!
・ポイント1 本宮はなぜ新宮の神像を祭ったのか?
・ポイント2 新宮はなぜわざわざ本宮の神像を後に(しかも小さく)作ったのか?
・ポイント3 熊野三山は当初、新宮・本宮・浜の宮であった・・・かも
 熊野三山(新宮・本宮・那智)の神像はことごとく国重要文化財に指定されている。
その作風から推定できる最古の神像は新宮の早玉神・夫須美神(平安時代初期)であり、これより1世紀くらい遅れて本宮の家津御子神・早玉神・夫須美神の神像が登場する。つまり熊野「三所」神社の始まりは本宮といえるのである。ここで着目すべきは、当初、新宮では家津御子神は作られていなかったことである。新宮の家津御子神は本宮よりずっと遅れ、平安末期あたりの作である。その作風は同じ時代のものであろう那智の神像と極似している。熊野三山の成立はここで帰結か・・・といえば物事はそう単純ではない。
 ふだらく渡海で名高い那智海岸の浜の宮(熊野三所権現社)の神像が登場するのである。すなわち、古さの順番を私の推理でおさらいすると・・・
 新宮 早玉神・夫須美神 → 本宮 家津御子神・早玉神・夫須美神(熊野三神) → 新宮 家津御子神  → 浜の宮  熊野三神 → 那智 熊野三神  
となるわけである。
 つまりこのことから、新宮が熊野三山の中で初めて文献上に登場した意味が神像の歴史からも推定できるのである。すなわち、熊野信仰は新宮から始まり、そこに本宮の信仰が合体し、海沿いの浜の宮に至り、初期熊野三山の成立を見た。
 間もなく元来、修験行場として開けた那智山に新宮から神々が勧請され、そこに滝の宮=大己貴命も合せて那智神社が成立、すなわち熊野三山が成立したのでは、と考える次第です。夜中のひまつぶしゆえ、うろ覚えの部分が多々ありますが、なんとか肉付けすればひとつの大胆な仮説が成立するとおもいます(^^)

 しかしここでどうしても疑問に思うことがあります。
そもそも熊野最古とされる早玉神社の神像は、最初からそこにあったのか、ということです。あれだけのすぐれた彫刻のできる仏師は地方にはいますまい。それは後に作られた神像についてもいえることですが。

つまりこのことから熊野信仰の成立の過程には次の要素がからんでくると結論づけられるわけです。
 1.古代熊野の中核としての新宮の存在
 2.新宮の権威にあやかろうとした本宮
 3.京都の影響(修験者から貴族へ)のもとで進展した熊野信仰
   →神仏習合へと進む過程もこの一点で理解できる
 4.那智の滝の霊験を高めるため新宮、本宮から神々を勧請し成立したのが那智神社
 特に4.ですが、那智の主祭神がなぜ夫須美神であるのかを考えるとき、そもそも那智神社は新宮から勧請されたものではないかと思わざるを得ないのです。
 もちろん、滝宮は別格としての話です。結論的には日本の歴史上、大東亜戦争に勝るとも劣らない時の政府の大愚策・廃仏毀釈、それ以降の神社のあり方についての大批判に結びつくわけですが、それはまたいずれかの機会に。

掲示板 setoh 秦と和田 h13.2.19

>> 物部に支配されていた秦氏の部民だったと考えられないでしょうか。
> 秦、物部に繋がりますか。
今来の渡来系とされる秦氏は上田正昭氏によると「パタ」と言う朝鮮語からの名前でそうです。真偽の程は不明ですが、「和田」と「秦」とは無関係ではありえないと思います。
これら今来の渡来系は古来の豪族の配下に入ったのは大和や河内の交野などにも見ることができます。
祭神の饒速日命、姓のスズキ、地名和田とからの勝手な推測で、勿論それ以上の証拠を持っていません。

> 彼を招聘したのは幸島という名家
千島と改姓の話、また幸島家も昔からこの姓だったかどうか、ここらは素性隠しがあった可能性を感じます。
宇佐神宮にからんだ氏族の辛嶋氏は香春の産銅に従事した赤染氏などと同様秦氏と同系とされています。「辛」を「幸」とか「千」とかに変更していないでしょうか。
スズキは物部で和歌山県海南市の藤白神社の辺りにルーツがあるとされ、名門スズキを敢えて千島に変更する理由はないように思いませんか。
なお、金属採取の氏族故に名を変えて秘密を守ったとも考えられないことはありませんんが・・。

掲示板 kokoro-t@mug.biglobe.ne.jp Re[17]: 金山神社  h13.2.17

 setohさん、毎度ためになるご意見を頂戴しております。本当に嬉しいです。
>  このような海人族のネットワークは、記紀を記述したころも王権の経済的なささえになっていたとか、後々までも、権力の基盤となったはずで、聖地ワダは堂々と各地に勧請されていったのでしょう。
>  熊野の山間でおそらくは金属資源がなくなったのか、スズキ一族が秩父山中に入っていったのは、偶然ではないはずで、呼び寄せるなにか先行したものがいたのでしょう。八咫烏ですね。
すごい鮮やかな洞察というか、何とも鮮やかな八咫烏のイメージですね。千島家の文書では紀州からの航海があったのは霊亀・養老の頃となっていますが、霊亀の1つ前の年号が和銅で、慶雲五年に秩父市に鎮座する聖神社付近で自然銅が発見され、喜んだ元明天皇が年号を改めたのが和銅であるわけです。そして、この発見をしたのも鉱物資源探索のために内陸部へ浸透していった紀州海人だったのかもしれませんね。

>  大滝村中津川に金山神社があります。何故か通称は権現様ですね。
中津川の辺りは資源の宝庫で、山奥にはつげ義春の漫画に出そうな鉱山や、溶け出した鉄分で見渡す限り赤錆色になっているような場所があります。エレキテルで有名な平賀源内は、こうした鉱物資源を開発できないかと請われ、中津川に滞在していた時期があります。彼を招聘したのは幸島という名家で、幸島家の敷地内には今でも源内が自分の起居用に自ら設計した「源内居」という建物が残っています。
僕は2年ほど前に何度か、幸島家の現当主の方のお酒のお相手をさせてもらったことがあります。大滝村は日本有数の面積を有する市町村ですが、この方はものすごい大地主で大滝村の5分の1かそれ以上の山林を所有しているという噂でした。一度、「幸島さんは日本一の山林地主ではないですか。」と伺ったことがあって、その時、返ってきた答えがとても印象的でした。幸島さんによると和歌山県にはもっとすごい山林地主がたくさんいて、恐らく日本のトップランクの山林地主はほとんど和歌山の人なのだそうです。僕はその時、やっぱり紀の国は木の国なんだ、すごいことだなと実感しました。

>  通常、スズキは物部系統とされます。現に、紀伊国名所図会には発心門王子社の祭神を饒速日命としています。移住したスズキ氏は物部に支配されていた秦氏の部民だったと考えられないでしょうか。
 秦、物部に繋がりますか。すごいことですね。埼玉の山奥に伝わる古文書を説くカギが今でも和歌山に残っていること自体、感動的だったのですが、さらに奈良朝以前の古代氏族が関連するとなるとこれは全く新しい展望といっても大袈裟ではないですね。それに海人のネットワークを先導し、伝播させるもののメタファーとしての八咫烏のイメージは鮮烈でした。

掲示板 setoh 金山神社  h13.2.16

 おっしゃるように、海人族の聖地(俗地も)のネットワークに「わだ」と言う地名が残っていったと考えることができます。

聖地のネットワークの例。
1.山の磐座 ごとびき磐−玉置山−天河村−吉野方面
 神武天皇コース

2.海の磐座 ごとびき磐−花の窟−二見興玉神社−伊勢方面
  高倉下コース

このような海人族のネットワークは、記紀を記述したころも王権の経済的なささえになっていたとか、後々までも、権力の基盤となったはずで、聖地ワダは堂々と各地に勧請されていったのでしょう。

熊野の山間でおそらくは金属資源がなくなったのか、スズキ一族が秩父山中に入っていったのは、偶然ではないはずで、呼び寄せるなにか先行したものがいたのでしょう。八咫烏ですね。

大滝村中津川に金山神社があります。何故か通称は権現様ですね。

通常、スズキは物部系統とされます。現に、紀伊国名所図会には発心門王子社の祭神を饒速日命としています。移住したスズキ氏は物部に支配されていた秦氏の部民だったと考えられないでしょうか。

掲示板 kokoro-t@mug.biglobe.ne.jp Re[15]: 猪鼻王子  h13.2.15

 setohさん、毎度ありがとうございます。またまた長いカキコになりそうですが恐縮です。
>  この熊野神社の祭神は伊弉諾尊、伊弉册尊、猪鼻王子となっています。熊野古道中辺路に猪鼻王子があります。本宮町三越
> という場所で、まさに山中の三越川沿いの土地です。熊野本宮の元宮といわれる船玉神社や五体王子の一つの発心門王子に近いところです。船玉神社は海人の足跡と思われます。
> 8世紀初頭に猪鼻王子そのものがあったとは思えませんが、千島家のルーツはこの辺りかも知れませんね。

実は僕も千島家のルーツは漠然と本宮町のどこかあるのではないか考えていたので、setohさんのご意見を読んで思わず「我が意を得たり」と膝を打ちました。その理由は後で書きますが、それにも増して中辺路の猪鼻王子について示唆があったのは、僕にとって大変な収穫でした。

荒川村大字白久(しろく)猪鼻の熊野神社について、setohさんの紹介してくれた社伝は当社が鎮座する小字名「猪鼻」の起源説話にもなっています(ところでsetohさんはこの社伝をどうやって入手したのでしょうか?以下に記す猪狩神社の社伝も含め、僕は秩父地方の神社については「秩父路の百社めぐり」という本をよく参考にするのですが、この猪鼻に似た岩の話は載っていないので全く初耳でした)。ところで、猪鼻の地名については猪狩神社という別の神社の社伝にも説話があります。この神社は熊野神社の真東約1qほどのところに鎮座しており、猪狩山という山の麓にあります。社伝によれば、日本武尊が当地を通過したとき巨大な猪が現れたので剣をとって退治し、尊は山上にイザナギ・イザナミの二神を祀って、宴会を開いて大いに飲まれたそうです(現在でも猪狩山の山頂には当社の奥の院があり尊が二神を祀ったのはここだと思われます)。そして、同じ社伝によると猪鼻は退治の際に猪の鼻が飛んでいった場所なのだそうです。
さて、僕は以前からこの小字「猪鼻」の起源説話は後世の附会ではないかと感じていました。猪狩神社の社伝でも、setohさんから教わった熊野神社のそれでも、「猪鼻」という地名の起源説話の部分だけが何となく収まりが悪く不自然な感じがするからです(恐らく猪退治の部分は、尊と伊吹山の神が化身した白猪が対決する古事記の有名なエピソードから着想を得ているのではないでしょうか)。そして、@猪鼻の地名の起源説話が神社の社伝の一部になっており、どうやら「猪鼻」はこれらの神社の祭祀と深い関係があるらしいこと、A小字猪鼻には熊野神社があること、B熊野神社と猪狩神社の社伝には磐座祭祀や神体山信仰のような古い祭祀の痕跡が感じられ、両社共に創祀は古い時代に遡るらしいこと、等から「猪鼻」は何か古い信仰と結びついた地名で深い意味があるのではないかと考えておりました。この考えはそこまで来て行き詰まっていたのですが、今回、中辺路の猪鼻王子と関連づける意見があったのは、海人の話とのからみで非常に魅力的な示唆でした。
なお、白久の熊野神社、猪狩神社、三峰神社の祭神がイザナギ・イザナミを含む点で共通しているの注意しておくべきかもしれません(単に三峰神社の影響を他の二つの神社が受けただけだとは思いますが)。

僕が千島家のルーツを本宮町(あるいは熊野川町)のどこかだと漠然と考えていた理由は、@千島氏の住んでいた浜平を含め、大滝村内に熊野神社が少なくないこと、A現在のように日本各地に熊野神社の分祠社がみられるようになったのは、修験道の行者達による熱心な布教活動と熊野海人の活動による功績が大きいと言われていること、B現に千島家に紀州から船出したという文書があったこと、C「紀州海人について」でカキコしたように中公文庫の「日本の古代8 海人の伝統」のP244以降に「ワタ」「ワダ」の地名は海人と深い関係があるとあり(「ワタ」は海の意)、同P248〜9に掲載されているある西日本の地図をみると新宮から熊野川に沿った地域、すなわち本宮町と熊野町に「ワタ」「ワダ」の地名の異常な集中がみられること、D熊野本宮も熊野川の流域にあったこと、熊野本宮大社の神主、熊野連は平安後期には和田氏と称していたこと、等です。
なお、三峰神社がある三峰山の荒川を挟んだ対岸に竈三柱神社という神社がありますが、ここはもともと和田神社という神社があったのを、遷座してきた竈三柱神社に乗っ取られたもので、和田神社は海(ワタ)神社で海人の痕跡ではないかと思っています(秩父郡内で「ワタ」「ワダ」は他に秩父郡小鹿野町に和田という大字が2ヶ所あります)。
発心門王子に近い船玉神社については、澤村経夫の「熊野の謎と伝説」にとても印象的な記事があり、一度は行ってみたい神社のひとつです。
setohさんの「熊野三山を勧請した全国の神社一覧」は大変な労作だと思いますが、どうやって調べてるのでしょうか?ちょっと想像がつけにくいのですが…。

0168 名草の神々 −22−  h13.2.15

 『探訪神々のふるさと』の中で、松前健先生は「紀国造氏古文書」には御船山という二個の小山があり、一つは西に向いた出船の形、他は北を向いた出船の形をしており、日前大神が乗ってきた船という。と記載されていると書いています。
 和歌山駅付近から日前宮の方を見ると形の良い小山が二つ並んで見えますが、これらを指しているのでしょうか。 所謂、神奈備山とすれば二神が祀られていて不思議ではありませんね。ただ並び方は山は南北、両宮は東西ですから、どうでしょうか。
 風土記の丘のある大日山が何となく西向きの船に見ようとすれば見えますね。

 寄神信仰や御船山の伝承は日前國懸神と海民との強い結びつきを示しています。 またレルネット主幹の三宅善信さんの平成神道研究会報告によりますと、社殿は南向きながら御神体は(こっそり)東向きだそうで、これは太陽崇拝ともとれます。なお太陽崇拝と海人とのつながりは伊勢神宮も同じとされています。

 もう一つの伝承は、「天孫は天降った時に、斎鏡三面と子鈴一合を奉じた。 鏡の一つは天照大神の御霊代でこれを天懸大神、他の鏡の一つは天照大神の前御霊で、これを国懸大神と言う。 今紀伊国名草宮にいます神である。 残る一つの鏡と子鈴は天皇の御餞の神となり、大神に奉仕した。これが巻向の穴師の社の大神である。」とあります。
 ここに天懸大神と言う神が登場してきました。この鏡は伊勢神宮の鏡と言うことになりそうです。 紀伊国名草宮の鏡を前御霊としながら、日前大神ではなく、国懸大神としています。天武天皇崩御の前に、国懸大神に奉幣の記事が日本書紀に見えます。 もともとは国懸大神を祀っていて、日前大神はいなかったと考えることができます。

 濱の宮神社の祭神は天照大神に天懸大神と国懸大神とが配祀されており、日前宮の元宮とされています。天懸大神を日前大神と見てもいいのかも知れません。これについてのもう一つの傍証としては、奈良県吉野郡東吉野村谷尻に日之前(ひのまえ)神社が鎮座しており、祭神を天懸神としています。

 このあたりの伝承は混乱しているようです。後から日前大神、國懸大神をもっともらしく説明を付けたものに思えます。

 次に、上記の話の穴師の社とは大和国城上郡の穴師坐兵主神社の事です。穴師の社と日前國懸神宮との親近性が見えます。 問題は穴師坐兵主神社の祭神とされる兵主神ですが、山東半島の東に祀られていた中国の神で、漢の高祖が「蚩尤:シユウ」を祀って勝利を祈った事に由来するとのこと。貝塚茂樹氏は兵主神とは武器製造の鍛冶屋神としています。 この神を人格神化した日本的表現を天日矛命とする説があります。

 また国懸宮の御神体を日矛鏡とするとの説明もあります。兵主神は謎多き日前神国懸神を解き明かす鍵になるかも知れません。日前國懸神宮は紀氏と大和の王権との力関係、その後、王権とどのように向き合っていったか、そのおそらくは苦渋に満ちた歴史の集積といえるようです。

 後の時代となりますが、崇神天皇の時代に、「豊鋤入姫が天照大神の御霊を奉じて名草浜宮に遷幸した時、両神も琴浦から名草浜宮に遷り、垂仁天皇の時代に現在地に遷った。」との物語があります。 この時、トコロテン的に伊太祁曽神社が山東荘へ遷座したと伝わります。
 なお、豊鋤入姫のさすらいの物語は『倭姫命世記』が出典ですから、平安末期から鎌倉初期に形成された伝承です。

 また、平安時代の初めの宮中にレガリアであろう鏡が三面保存されており、「伊勢御神」、「紀伊御神」「名称不明」と呼ばれていたそうです。 火災があり「伊勢御神」は焼け残ったが、他の二面は損壊したと言います。 それらは「日前神」「国懸神」であったとも伝わっています。 何か、紀氏の朝廷での地位の凋落していく様子を示しているようですね。

setoh あさもよし掲示板へのkokoroさんの投稿記事の紹介 H13.2.13

紀の国の歴史に関しての掲示板「あさもよし掲示板」を発足させています。 http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/asabbs.cgi
小生のhpの「古代史街道紀の国編」から入れますが、ほとんど目立ちません。

ここへ、kokoroさんが投稿してくれました。紀の国の海人にかんするお話です。
8世紀の初頭に和歌山から埼玉県秩父郡大滝村(三峯神社が有名)に移住したとの伝承を持つ千島家(元はスズキ)のお話です。

ご興味のあるかたは、ひとつ覗いて見てください。resなど頂ければ幸甚です。

また、書き込みをメールサービスする仕組みをいれてありますので、ご希望の方は瀬藤まで連絡してください。

掲示板 setoh 猪鼻王子  h13.2.14

kokoroさん 山奥と山奥をつなぐ海人のお話、ありがとうございます。
大滝村は有名な三峯神社が鎮座している所ですね。狼でしたか。ここには役小角、空海などの紀州にゆかりの人も来ているようです。江戸時代には紀州藩の崇敬も篤かったようです。

荒川村白久の熊野神社の社伝に猪の話が出てきます。
『甘酒まつりは次のように言い伝えられています。
今からおよそ1900年くらい前のこと倭建命(景行天皇の第三皇子)が東夷(東方のえびす、えぞ)を平定のおり、甲斐(山梨県)の国から雁坂峠を越えて三峰に登り、下山の途中この地で人びとを苦しめていた大きい猪を退治しました。この猪は山賊の頭でした。その他の仲間の山賊はみんな巨岩におし倒されて死んでしまいました。
この巨岩の形が猪の鼻にそっくりでしたので、この土地をイノハナと呼ぶようになったのだそうです。
山賊を退治してもらった人びとは大変喜んで、濁り酒(ドブロク)を造って命に献上しました。これが後に甘酒となり、村人がお互いに甘酒をかけ合う疫病除けのおまじないになり、甘酒こぼし、とも言い熊野神社(オクマンサマ)の夏祭りとなり、今に伝わっています。』

 この熊野神社の祭神は伊弉諾尊、伊弉册尊、猪鼻王子となっています。熊野古道中辺路に猪鼻王子があります。本宮町三越という場所で、まさに山中の三越川沿いの土地です。熊野本宮の元宮といわれる船玉神社や五体王子の一つの発心門王子に近いところです。船玉神社は海人の足跡と思われます。

8世紀初頭に猪鼻王子そのものがあったとは思えませんが、千島家のルーツはこの辺りかも知れませんね。

掲示板 kokoro-t@mug.biglobe.ne.jp 紀州海人について  h13.2.13

玄松子さんの芳名帳でいつもご教示を受けているkokoroです。このページには初めてカキコします。非常に長いレスになって申し訳ないですが、紀州の海人に関わるのではないかと思われる話を聞き込んだことがあるのでそれを紹介します。

平成8年頃、埼玉県の秩父郡大滝村に住んでいた千島という旧家の方から聞いた話です(現在は70代の半ばくらいの年齢になっておられる方です)。その方の家はダムで水没する大滝村の浜平というところにあったのですが、その家に伝わる古文書に千島家の由来が記してあり、それによると千島家の先祖は「霊亀・養老の頃、紀州から船で東へ船出し、荒川を遡って大滝村内の浜平を含む4っの土地にたどり着いて定着した。千島家はもとはスズキという家名だったが、航海の途中、千の島々を見たので千島という名に改めた。また浜平にある熊野神社はその時に紀州から勧請した」等々とあるそうです。また、船団が到着した浜平以外の3っの土地には確かに今でも千島(スズキだったかも?)という家が続いており、熊野神社もあるそうです(ただし、熊野神社はこの地方ではそれほど珍しい神社ではありません。秩父郡荒川村大字白久にある熊野神社は、神奈備ホームページの「熊野三山を勧請した全国の神社一覧」にも載っていますが、こうした秩父地方の熊野神社の一例です)。
いつかその文書を見せてもらう約束をして別れたのですが、またお会いしたときは、残念なことにダム建設に伴って移転する際、誤って他の雑多な証文類等と一緒に燃やしてしまったという話をしておられました。また、紀州のどこから移住したのかという肝心な点は覚えていないそうです。ただし、その方の弟が戦後まもない時期に和歌山にあるその土地まで出かけ、文書にあるような伝承がないか聞き込みをしたそうなので、現在でもその地名が残っているのはほぼ確かだと思います。その弟の方は大学で民俗学かなにかを研究していたらしいですが、調査に行ったジャワ島(だったと思います)でマラリアにかかって夭折されたそうです。また、この方が和歌山で調査した時の古いノート類もなくなったという話でした。しかしながら、千島さんから伺ったこの話は類話がなく非常にユニークで、僕としては創作ではなく本当にあったことだとしか感じられません。また仮に作り話だったとして、先祖がこの話にあるとおりの人たちだったと詐称するメリットが千島家にあったとは考えられないことも、作り話とは思えない理由です(霊亀・養老という年号を創作することでのメリットはありえますが)。

さて、僕は初めてこの話を聞いたときから、千島さんの先祖はほぼ間違いなく海人だったのではないかと思いました。一つには古代史の定説として、海人が単なる漁民だっただけでなく、航海民として交易したり、海から川を遡って内陸部に移住したりした人々だったからですが(信州に安曇や穂高といった海人にゆかりの深い地名があるのは、上代のこうした移住の痕跡とされている等の話は有名です)、もう一つは、いうまでもなく紀州が海人の多くいた地域であるからです(この点でリアリティがあるのも、この古伝が本当にあったことではないかと感じさせる理由の一つです)。「名草郡の神々21」の後段の方ではsetohさんが紀氏の先祖が海人であった可能性を示唆していますが、他にも現在の日高郡は古代の海部郷ですし、紀氏と並んで紀州の代表的な氏族であった忌部も海人的な色彩が強かったことは「式名社調査報告 第十一巻 東海道6」及び「日本の神々 第11巻 関東」の安房坐神社の項を読むと分かります。また、中公文庫の「日本の古代8 海人の伝統」のP244以降には「ワタ」「ワダ」の地名は海人と深い関係があるとあり、同P248〜9に掲載されている「ワタ」「ワダ」の地名のある西日本の地図をみると新宮から熊野川に沿ってと大和の吉野地方にかけて、この地名の異常な集中がみられます。

とにかく、問題の古文書がなくなってしまった以上、今ではこの話を検証するのは難しいと思われますが、もしも何か心当たり程度でも情報がある人がいれば教えてほしいものです。

なお、大滝村と浜平について簡単に説明しておくと、この村は荒川流域の最奥部に当たり、さらに奥に進めば甲武信岳に突き当たってその向こうは甲州になります。村全体が山地で地形は非常に急峻です(ちなみにこの村には水田が全くないそうです)。浜平は有名な三峰神社から車で2〜30分上流にあり、鋭く切り込んだV字谷の底にあります。実見すると、よくこんな場所で人が生活できたなと驚かされます。

また、秩父郡全体で他に海人を思わす伝承が残っているのは、僕の調査した範囲(たいしたことをやった訳ではないですが)では、大滝村の隣の谷にあたる秩父郡両神村に「浦島」という小さな集落があり、ここに浦島伝説があることだけです。もちろんここも大変な山の中です。

016x 名草の神々 −21−  h13.2.8

 ここで日前神の鏡についてのいくつかの伝承を紹介しておきます。

 朝廷の祭祀を司っていた忌部氏の作である古語拾遺では、先ず、鏡を作っては見たが、もうひとつできが良くない、それで、作り直したとの事です。 作り直された鏡は八咫鏡と言い、皇統を嗣ぐ標の「三種の神器」の一つとして伊勢の皇大神宮の御神体となっているものと思われます。 先に作られた鏡はいわば試作品で、これを日前宮の御神体の日像鏡とする説があります。「日前」と言う名前にこじつけたお話との見方が有力です。試作品と言うことですから紀氏の伝承ではないでしょう。

 日前國懸神宮で頂いた由緒書きには、「鋳造されたのが、伊勢神宮奉祀の八咫の鏡、日前神宮奉祀の日像鏡、國縣神宮奉祀の日矛鏡であります。」と出ていました。「日前國縣大神は、天照大神の前霊に座します」ともあります。「前霊」とは何でしょうか。神の御前に・・と言う言葉がありますが、そこを祀ると言うことでしょうか? どうも日前の字にとらわれた解釈に思えます。

 日前はもとの字としては檜隈、隈を神とする解釈からは日神、火神は考えられます。 漢字にこだわれば檜神、檜は(檜でなくとも木は)こすると火が出ます。実際に木は火をも生むのです。木の国としてはこれも考慮にいれるべきでしょうね。
 せっかく頂いた由緒書きですが、「前」は庭先の先や前後左右の前ではないように感じています。

 ヒノクマについては、「名草郡7」で仮説を出しましたが、皆さんは「日前」をどのようにお考えでしょうか? なお日本書紀気長足姫尊の條に火前国(ひのみちのくちのくに)と言う言葉で肥前国を表しています。「前」には入り口などの口の意味もあるのですね。

 武内宿禰の子に紀臣の祖とされる木の角宿禰(きのつののすくね)がいます。この角の訓みについて、岩波文庫日本書紀に熊野大角の訓の注釈に角はクマと訓める、更にその場合には神の意味があるとしています。 木の神のキノクマ ===>> ヒノクマ と音転があったと考えれば、紀の国にふさわしい神ですね。
 そうすると、紀氏は五十猛命を奉じていたと考えることができます。

 さて、日前国懸神宮に伝わっている『両神宮本紀略』によると「瓊瓊杵命の天孫降臨の時、二つの神宝を紀伊国造の祖天道根命に託して日向の高千穂宮に祭らせた。その後の神武東征の際に、再び天道根命に託され、 紀伊国加太浦に到った。そこから木本に移り、更に毛見郷に到り、琴浦の海中の岩上に日前神、国懸神として祭った。」とあります。
 加太春日神社、木本八幡宮、毛見の濱宮のそれぞれの由緒書きにも記載されています。

 海中の岩上に神が現れるのは、海のかなたからやってくる寄神信仰の名残です。濱の宮の祭祀に携わった氏族は海人であったのでしょう。 紀の国に住み着いた人々や紀氏の祖先も海のかなたからやってきたと伝えられていたのでしょう。

016x 名草の神々 −20−  h13.2.1

 さて国津神は「多に蛍火の光く神、蠅声す邪しき神」と形容されていますが、その分、息づかいのする、存在感のある神々のように見えます。 それに対して、天津神は系図上の位置がよりどころのように見えます。宮廷にはどの程度の神話が伝わっていたのか判りませんが、天津神は構想された神々、頭脳の産物の神々と見たほうが良いのかも知れません。
 佐賀県に基山と言う山があります。白村江の戦いの後で九州に二城を築いた内の基肄城の跡がある山です。 ここに荒穂神社が鎮座しています。祭神は瓊瓊杵尊、五十猛命となっています。所が地域に伝わる民話伝承は五十猛命の鬼退治伝説、契り山伝説、植樹伝説など五十猛命に関するものが多く残っています。 一方、社伝には瓊瓊杵尊が国見をした山と記されていますが、民話集には瓊瓊杵尊の名は出てきません。

 とどのつまり、次のような民話が語られています。
荒穂さんは、元は大地主の作男で、この地主は人使いが荒く、三日三晩不眠不休で働かされて寝てしまい、その間に馬が畔の草を食べていった範囲の住人が氏子となった。
荒穂神はついに作男にされてしまいました。これは、各地で国譲りが行われたこと、すなわち国津神が開拓した国土を天津神がおさえていったことを民衆が民話の形で残したのでしょう。

 この基山付近は交通の要路で、北九州からと有明海からの合流点で、九州の中央部を横断して豊国に出る道筋に近い所です。紀氏の九州での一つの拠点だったのかも知れません。

 さて、天照大神は天岩戸を閉じて隠れます。夜のように暗さが続きましたので、八百万の神が天の安の河原に集いました。 知恵の神様とされる思金の神が考えて、天の金山の鉄を取って、鍛人天津麻羅を求めて、伊斯許理度売の命に科せて、鏡を作り、 (中略)、布刀玉の命が御幣を持ち、天の児屋根の命が祝詞をとなえ、天の手力男の神が岩戸の脇に立ち、天の宇受売の命が桶のようなものの上に立って、これを踏みならし、 神懸して、胸乳をだし、裳の紐を陰に忍し垂りき、八百万の神々が大いに笑ったとあります。
 日本書紀の一書(第一)には、「大神のかたちを映すものを造り」として日矛を造っています。これを紀伊国においでになる日前神としています。

 多くの神々が登場してきました。天津神のオンパレードです。高天原最大のピンチ、ここに出てくる神々を祖神とする豪族が大和王権を支えたと認められたのでしょう。
 この物語に出てくる神々の多くは日前國懸神宮に祀られています。

 思兼神は伊都郡の蟻通神社にも祀られています。
全くの余談ですが、蟻通神社と言う名の神社は他には田辺市の蟻通神社「天児屋根命」、泉佐野市長滝「大国主命」、奈良県吉野郡東吉野村丹生川上神社中社通称蟻通さん「罔象女神」、滋賀県伊香郡木之本町の蟻通神社「大穴持遅命」となっています。

 作られた鏡、日矛、紀伊国においでになる日前神の登場です。名草郡を神領とした日前國懸神宮に関連します。このことを記載している日本書記の一書(あるふみ)[第一]は紀氏が伝えた物語ではないかとされています。天照大神をかたどった日矛は日前神とされています。 名草の神々−8−で、日前國懸神宮を名草上下溝口神と呼んだとし、上宮を日前宮、下宮を國懸宮と書きましたが、日前宮の古記によりますと、國懸社を上宮、日前社を下宮としていたとのことです。訂正しておきます。

 鏡については諸説があります。また日前神、國懸神についても完全には解明されていないようです。
 現在の日前國懸神宮の両宮は同一敷地内に並び建っています。両宮は伊勢の皇大神宮とともに神階を贈られない傑出した格の神社でした。 往年の紀氏の実力は大和王権と同等な存在のように見えます。

0161 空海の高野山への道筋  h13.1.26

> 0101 00/09/23 kammerさんの問い−空海の高野山への道筋−について
集英社新書『聖地の想像力』植島啓司著 p148に『天河への招待』大山源吾著p177からの引用として、次の文が載っているのを発見しました。
弘法大師が高野山を修業の場とするための許しを求めた、いわゆる「空海上表文」によると、彼は吉野より南へ一日、さらに西に向かって二日という行程で高野山に入っているが、それも詳しく見ていくと、早朝に吉野を出立して、金峯山を経て、夕方天河へ。そして、翌朝天河を出て、大塔村中原を経て中原川を遡り、野迫川村野川あたりで一泊し、次の朝、天狗木峠を越えて、奥高野稜線づたいに夕方高野山に到着するいうもの。これは近世の大峯高野登拝コースと一致する。
 書籍『天河への招待』については、ホームページ「吉野へようこそ」http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/" のマルヤさんがお持ちかもしれませんね。

0160  h13.1.25

御無沙汰しております。kammerです。
>瀬藤様
>また紀伊続風土記によりますと、丹生都姫神社の所蔵古文書に「譽田天皇勅筆祭文一帖神殿に秘蔵して總神主の外は見る事を許さす」とあります。 真偽の程はわかりませんが、kammerさん、写真かなんかでもお持ちだったらこれは凄いことですよね。

原本はなかったと思います。大正6年の丹生都姫神社の火災と供に消えてなくなったようです。
しかし、丹生相見氏も写しを持っており、結構知られているという事は、「総神主の外は見ることを許さず」というのは少し疑問があります。原本を見たかったですね。

0159 名草の神々 −19− h13.1.24

 卑弥呼=天照大神説を検討していました。
 百歩譲って、天照大神がとある人間の投影だったと仮定して、たまたま大陸の歴史書に始めて登場する女王が天照大神であるとの確率を計算すれば解る話です。
 魏志倭人伝はざっくり100年間の事を記載しています。日本の神々が構想されていったのを弥生時代から古墳時代として、約1,000年間としますと、時代的に当てはまる確率は10%、 また日本には幾つかの国々があって、これを10国とおいて、天照大神が統治していた国があったとして、その国が卑弥呼が統治していた国と同じである確率はこれも10%、掛け算でききますから、1%程度の確率で天照大神は卑弥呼の投影、と言えるのではないでしょうか。九分九厘違うと言うことです。

 卑弥呼=天照大神のもう一つの興味ある説は古代の大王の在位年数が約10年程度、確実に年代が判っている天皇を起点として、天照大神までの年代を逆算すると、丁度卑弥呼の生きていた時代に重なると言うものです。 神武天皇の次から開化天皇までを欠史八代として実在が疑われている中での、全部存在した、祖先の名前は忘れられることはない、しかし年代は全く不明との観点に立っています。 世界的には近親結婚を避けるためにも、ある程度祖先の名前は記憶されることはあったそうですが、全部が全部実在して記述され、それが直列になっていたと言い切れるでしょうか。

 先日、ひまわり亭さんが「神代文字」のことを調べられているとの発信がございましたが、隋書に「倭国王は夜明け前に政(まつりごと)を行う」と答え、隋帝は「義理なし」と言ったとの有名な話があるように、6世紀末になっても、闇夜で政を取ったと言うことですから、書いた物がない状態で、政を行っていたと解釈できます。
「政の場にすら文字は使われていなかった=(共通に使用されていた)文字はなかった」可能性がありますね。
書いた物がない状態で、幾度も権力が交代して来ている、銅鐸の記憶すら失われた時代の貴族が記載したものが記紀です。それをよりどころにして、卑弥呼と天照大神の年代を重ねるのは、貴族の作為の上に現代の学者の作為を重ね合わせた産物のように思えます。

 神代文字のことはわかりませんが、古墳や建物を造る際に計画書や指示書はあったはずです。何らかの記号や各氏族特有の文字があって、それぞれに使われていたとは考えられますね。
 また紀伊続風土記によりますと、丹生都姫神社の所蔵古文書に「譽田天皇勅筆祭文一帖神殿に秘蔵して總神主の外は見る事を許さす」とあります。 真偽の程はわかりませんが、kammerさん、写真かなんかでもお持ちだったらこれは凄いことですよね。

0158 卯杖祭 h13.1.18

こんばんわ。伊太祁曽の奥です。
おかげさまで14日夜の卯杖祭は無事に奉仕できました。

本年はここ数年になく豊作との結果がでましたのでご報告しておきます。
尚、卯杖祭についてのご質問がこのMLでありましたので、別項にて返信いたしております。

0157 RE:神代文字 h13.1.18

○○さん、こん○○わ。
> 私は14日に62回目の誕生でして、孫たちが遊びにきてくれ、祝ってもらいました。

それはそれは、おめでとうございます。是非、ご健康に長生きして下さい。
私も普段は東京に在住しております。ことしは本当に寒いですね。

さて、お問い合わせの「日本の古代文字」とは所謂「神代文字」についてのことかと思います。
高田さんのメールにもありましたように、残念ながら国史学会では認められてはおりません。
私自身も、今のところその存在については疑問視しております。
もちろん、そのような文化があったのであれば大変喜ばしいことであるとは思いますが・・・。
また、漢字輸入以前の文字とされる文字がいくつか伝えられているとは聞いたこともありますが、私が聞いた物はすべて後世の作り物であった様です。
高田さんが見られた山口県の文字については私は知りませんので、残念ながらコメントは差し控えさせていただきます。
ご期待に添える回答ではないかもしれませんが、以上が私の考えです。

0156 卯杖祭について(返信) h13.1.18

> 初歩的な質問で申し訳ありませんが
> 「卯杖祭」と「粥占神事」というのは違うお祭なのでしょうか?
> そうであるなら、「卯杖祭」とは具体的にどのようなお祭なのでしょうか?

○○○さんこん○○わ。
ご質問の件について、返答いたします。
結論から申しますと、全く別のお祭りです。
「卯杖祭」はもともとは宮中儀礼であったようです。
初見は日本書紀持統天皇3年正月であり、平安期に盛んに編纂された各儀式書や公家の日記にも散見することができます。
1年中の悪気を払うために初卯の日に陽性の木を用いて作製した杖を卯杖といいます。

これに対し「粥占」はその年の作物(稲)の豊作を占う祭りです。
大きな鼎に小豆粥を作り、その中に竹筒を沈め、竹筒の中に入った小豆粥の量で、品種ごとの出来を占うのです。
以上、簡単ですがおわかりになりますでしょうか?

0155 名草の神々 −18− h13.1.17

ようやく大寒波から逃れられそうな天気予報ですね。
所で、メーリングリストに登録されたアドレス以外で発信されますと一時保留になります。伊太祁曽神社さんとひまわり亭さん、アドレス変更いたしましょうか。
 さて、名草の神々−18−をお届けします。

 須佐之男命の乱暴な振るまいに、天照大神はとうとう天石戸に隠れてしまいました。 高天原は暗くなってしまい、悪い神々がうごめきました。

 魏志倭人伝の中に出てくる邪馬台国の卑弥呼の死を、この事件になぞらえて、卑弥呼は日巫女で、天照大神のことだと称する研究家もあまたいるようです。
 魏志倭人伝が指し示している時代は2〜3世紀の辺りです。この頃の皆既日食を調べて、その事件が天照大神の天石戸に隠れの伝承として残ったのだとする興味深い見方があります。 それも九州で見事な皆既日食が見えたはずで、邪馬台国九州説の補強資料になっています。 パソコン天文学ソフトが簡単に手に入るようになり、こう言う研究が容易にできる時代になりました。 西暦247年の3月24日の日食は午後から徐々に太陽がかけ始め、ついに隠れたままで、日没を迎えました。さあ、大変だ、女王の神通力が失せてしまったと言うことのようです。 卑弥呼は翌年に死んでいます。この日食が天石戸隠れの神話になったとの説です。
 翌朝になれば、太陽は本来の姿で昇ってきます。私は日食と天石戸とを結びつけるのには、その短時間の出来事であること、太古から繰り返されてきた現象であること、ましてや類似の月食は毎年起こりうることなどを考えますと、その説に無理を感じます。 それよりは、火山の噴煙で、作物が不作になるとかの問題が起こり、それが暫くは続いたとか、句奴国との戦況が不利のまま推移したとかで、当時の人々に卑弥呼の神通力に対して大きい不安を持たせたことではないかと思っています。
( ひまわり亭さんの『心の料理』の「天の岩屋戸」と日食の話 に氏のお考えやよく似た世界の神話が紹介されています。http://www.ah.wakwak.com/~himawaritei/kokoro-20.htm )
 さらに、まず、天照大神は日本の最高神として構想された神です。伊勢の皇太神宮の御神体は心の御柱で、これを齋き祭る巫女が神格化して、天照大神となったとの説もあるくらいです。 かたや卑弥呼は実在した生身の人間で、たまたま魏志倭人伝に名が記載されているということです。
 記紀では、神功皇后と卑弥呼を重ね合わせるような記述がされており、記紀を編集していたインテリ貴族も、天照大神=卑弥呼説にはのっていません。

0154 RE:卯杖祭について質問いたします h13.1.17

本日のメールは神社関係の奥さまに聞いてみたいとおもい、メールを発信させてもらいました。
私のHPに「古代の日本の文字はいずこ」を掲載しました。これを見てくださった人から続きをという声があります。
図書館など調べてみましたが、漢字以前の文字について記載されたものがありません。
社会思想社発行 上田正昭編 日本古代文化探求「文字」に漢字の伝来の項に「神代文字」があったが、現在では誰も学問的に顧みられない・・・・と記載されています。
私の推察では三輪神社など紀元前から存在したと思われる神社には手がかりになる物があると考えています。
なにか情報があれば教えてください。

私の体験では、20年前に山口県田布施にある「神道天行居」という古神道を伝える神社がありますが、その磐城山の、禰宜さまがいらっしゃる社務所で、写筆されているのを見たことがあります。
ミミズが這っているような形のものを墨で書いていました。
その時は古代の文字に関心がなかったので、聞くこともなかたのですが、あの字は漢字以前の日本の文字ではないかと思います。

0153 卯杖祭について質問いたします h13.1.14

初歩的な質問で申し訳ありませんが
「卯杖祭」と「粥占神事」というのは違うお祭なのでしょうか?
そうであるなら、「卯杖祭」とは具体的にどのようなお祭なのでしょうか?
お教えいただければ幸いです。


0152 卯杖祭 h13.1.13

伊太祁曽神社では、明日(14日)深夜に卯杖祭が斎行されます。
卯杖祭というのは「儀式」や「新儀式」「江家次第」などの平安時代の儀式書にも見ることができる祭事です。
この祭典を行う神社はそう多くはないと思います。
その証拠と言うわけではありませんが、全国の特殊神事のひとつに数えられています。

併せて、粥占神事も行われます。
餅や米を煮立てた釜の中に竹筒をいれ、その中にどの程度餅や米が入るかによって作物の出来不出来を占う神事です。

興味のある方、ご参列をお待ちいたしております。


0151 名草の神々 −17− h13.1.11

名草の神々−13−で 国懸とは「国見をする」「国を脅かす」などと解釈されるようです。 と書いたのですが、この内「国見をする」は意訳すぎるので、「国を輝かせる」に訂正いたします。

 いよいよ記紀の最初のクライマックス須佐之男命の乱暴狼藉と天照大神の石戸隠れの有名な段にさしかかりました。
 須佐之男命は田の畔を壊したり、溝を埋めたりの、水耕稲作の妨害を行います。 神御衣を織っている所に馬の皮を剥いだものを投げ込みます。織女は織機から落ちて杼がホトに突き刺さり死んでしまいます。 紀の一書では天照大神や稚日女尊が傷を受けるとなっています。

 東北のオシラ祀り”の云われの中に次のようなものがあります。
 長者夫婦は、観音様に祈願して、美しい娘を授かった。ところが、長者の飼っていた馬が娘に情を寄せたので、怒って長者は馬を殺して皮を剥いでしまった。すると、はがれた馬の皮は娘に抱きついて飛びさってしまった。
馬の皮と娘の死、このモチーフの神話は大陸にも多くに見られるようで、このように記紀にも取り入れられています。

 杼は「ヒ」と読みます。近年の織機では杼をシャットルと言い、開口した経糸の間に緯糸(ぬきいと)を通すものです。 余談ですが、タイ国でコーヒを注文する際、コーヒと発音するのは避けてください。「ヒ」はずばり女性器を表す言葉なのです。 「コー」は乞うですから、失礼な言葉になります。おそらくタイ国だけではないでしょう。古代の日本でも同じような意味があって、このような説話が出来たのでしょう。 「脾弱い」と使われる脾でもあり、胎内に命を宿すもの、命の根元の日・太陽をも合わせて示しています。

 和歌浦の玉津島神社の祭神は稚日女尊で、社記には丹生都比売の別名とされています。 天野の丹生都比売神社から神輿遷幸が玉津島神社にまで行われたそうです。濱降[ハマクダリ]の神事と呼ばれていました。

 丹生都比売命=稚日女尊 の等式は大和王権が確立してから生じたものかも知れません。 丹生都比売は国津神で、具体的な存在感があるように見えます。稚日女尊は机上で構想された神のようで具体的存在とは思えません。 神社の神階を上げるべく、天津神と同じ神、ましてや天照大神の妹とするのは神社にとってこの上もない系譜を手に入れたことになります。 古老曰わくですが、紀の国の筒香の里のほうでは、降臨された神を天照大神と思っていたとも伝わっています。
 神官も氏子も、記紀に自らが齋祭る神の由緒を求めるとすれば、高天原の神で、天照大神の妹神としたらまさにこれに勝る神様はいませんね。 江戸時代には、伊太祁曽神社の祭神を日抱尊として、天手力雄に比定する話もあったようで、続風土記の作者から、「供僧等かゝる妄作をなし妄作の御名抱腹に堪さる事なり」とされています。
 およそ神々の事ですから、そうだった、否そうではない、と言う事より、人々が信じたと言う事でしょうね。信じて祀っている人にとっては、神様の名前には無頓着な方が多いように思います。 氏神様で十分なのです。
 神様の名前にしつこくこだわる方が場違いな気がすることがありますね。


0147  名草の神々 −16− h13.1.4

 あさもよしの皆様、今年もよろしくお願いいたします。  
昨年末には、三貴子が誕生、須佐之男尊の高天原行き、そこから何故か、太田黒田遺跡、銅鐸へと話は脱線中でした。銅鐸の出土数では、紀の国は、出雲、阿波などと並ぶ多い地域です。後期の大型銅鐸は阿波、土佐など紀伊水道の対岸にも集中しています。
 銅鐸は、偶然にしか発見されないような埋め方がなされていますから、今後もよく似た比率で発見されるのでしょうが、突然なにが出るかは予測はすきません。 「出たもの」で語るのはいいのですが、「出ていない」ことで語るのは怖いですね。

 記紀に戻ります。高天ヶ原では、須佐之男命に対して、天照大神は手に珠を持ち、珠の威力を発動せんと構え、完全武装のスタイルで男建(おたけび)をして待ちかまえています。 どう見ても女神とは思えない姿です。
 天照大神は須佐之男命を疑っています。心の清明さを立証すべく、神に誓って神意を伺うことにあいなりました。誓約(うけひ)の開始です。
 天照大神は須佐之男命の剣を振って、霧を吐きました。この時、宗像三女神が誕生しました。三女神は須佐之男命の子とされました。
 次に須佐之男命が天照大神の髪に飾った珠を振って、霧を吐きますと、天忍穂耳命、この様にして天菩卑命、天津彦根命、活津日子根命、熊野久須毘命が生じました。天照大神の子の五男神です。
 天忍穂耳命は皇室の祖神です。天津彦根命は木の国の造等の祖とあります。日本書紀には木の国の祖の件は省かれています。
 問題はこの木の国が一体どこの木の国を指しているのか、紀の国とすれば国造は紀氏の祖と言う事になります。 紀の国の紀氏(紀直)としては飛びつきたい程の祖先ですが、紀氏の系図には入っていないようです。もう一方の紀朝臣は武内宿禰からの分岐で、これまた天津彦根命が祖神とはしていません。 どうやら、紀の国とは関係がなさそうです。

 宇佐神宮の宮司家の宇佐公康さんの宇佐神宮に伝わる古伝の紹介の本には「木国は南九州の日子の国(日向)にあったが、のちに東九州の国東半島に移り、やがてここ紀の国に移ってきたとされています。 木造建築、木工技術をもたらした神としています。

 『八幡信仰』の研究家の中野幡能さんによりますと、五十猛命と南九州とには深い関連があるようです。
 宇佐八幡の祭祀にかかわったのは、宇佐氏、辛嶋氏、大神氏です。宇佐氏の原始磐座信仰へ、辛嶋氏のシャーマニズムが持ち込まれ、その上に大神氏の譽田別の八幡信仰が重なったとしています。
 「辛嶋勝姓系図」によれば辛嶋氏は素盞嗚尊を祖とし、その子五十猛命を奉戴し、新羅を経由し筑前國筑紫神社に五十猛命を祀り、次に香春岳で新羅の神を祀り、さらに宇佐郡に入ったと言います。 ここに五十猛命の子孫の名前が登場しています。木の国、紀の国の歴史に関係があるかも知れませんので紹介していきます。

 神々の系譜   瀬藤推定の地域名と由緒がありそうな神社「祭神」
素盞嗚尊     
五十猛命     
豊都彦トヨツ   豊の国
豊津彦トヨツ   豊の国
都万津彦ツマツ  宮崎県児湯郡妻町 五十猛命の妹神に抓津姫あり 都萬神社「木花開耶姫 神名帳考證には抓津姫」
曽於津彦ソオツ  鹿児島県国分市 韓國宇豆峯神社「五十猛命」
身於津彦ミオツ  日向市美々津町 神武天皇の船出の伝承地 立磐神社「住吉三神」
照彦テル
志津喜彦シツキ  鹿児島県曽於郡志布志町 枇榔神社「乙姫」
児湯彦コユ    宮崎県児湯郡 都農神社「大己貴命」
諸豆彦モロツ   宮崎県諸県郡 都城市 早水神社「諸縣君牛諸井」
宇豆彦ウヅ    大分県北海部郡佐賀関町 早吸日女神社摂社木本社「椎根津彦命」、同町 椎根津彦神社「椎根津彦命 配 武位起命」
豊後国史には椎根津彦、珍彦、宇津彦を同一神としています。
宇豆彦は紀氏の系図では宇遅比古の子、山下影姫(武内宿禰の母)と兄弟と同一の名です。

 これを見ると一つは南九州の地名が目立ちます。南九州の熊襲制圧軍は五十猛命の旗を先頭に攻め込んだと伝わります。 軍神の頭領神の顔が見えます。これは、東国征圧に活躍した日本武尊や坂上田村麿も五十猛命を祀っている事にも付合します。 神功皇后の軍船の先頭に祀られた御船前韓国伊太氏神も五十猛命とされています。

 もうひとつは、宇豆彦の名です。紀氏の祖先に宇遅比古、その子に宇豆彦が出てきます。紀氏は五十猛命を祖神としていたのかも知れません。 紀氏の秘密系図なるものは、須佐之男命から記述されているとのことです。紀氏のルーツを南九州と考えれば、神武天皇東征に天道根命が付いてきたとの伝承もむべなるかなと思われます。 また、宇豆彦を珍彦とすれば椎根津彦ともとれます。椎根津彦の父神は起位武命です。五十猛命とよく似た名前です。

 丹後の籠神社の由緒に祭神の火明命の子神に起位武命の名が見えます。通常、火明命の子神で有名なのは天香山命で、新潟の弥彦神社の祭神とされています。 五十猛命の別名の大屋毘古神の「大」を除いた名前と一緒です。一つの輪が九州、紀州、丹後、越後でつながってしまいました。
 紀氏と宇佐神宮の祭祀を行った辛島氏は同族だったのかも知れません。石清水八幡宮の祭祀を紀氏が行った由縁はこのような所に見えてきますね。

 話がつい五十猛命に行ってしまいました。寄り道のおかげで紀氏の祖神が五十猛命か知れないことが出てきました。
 五十猛命が樹種を播き始めたとの伝承の残る基山がある基肄郡を木の国とする説もあるようです。

 五男神の中に熊野久須毘命の名が出てきました。紀の国の熊野坐神社の本来の祭神名が熊野久須毘命とされますので、これは紀の国熊野の神を言うのでしょう。

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