あさもよし紀の国 ML・掲示板ログ

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あさもよし紀の国メーリングリストご案内


更新 2001.12.31

[84]   斯くは書くべ  焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/23(Sun) 11:34 [Reply]
 神社という場所へ先輩たちがナニを込めようとしたのか‥‥、ここの視野
を外してジンジャエールしたんでは、ガキあそびと同じこった。

 『かむなび』さんに3年いたら、柱(神)と柱(神)に鋏まれた結界として
の、われわれの居住空間……そういう古代偏執(文化)も浮上してきました。

 柱(神)偏執(文化)……蛇の支配から自らの足を切って自らの「死」への
昇華……これも出てきました。
 『かむなび』こそ日本文化の中核たらめ。「気高さ志向」カネ。

[83] 名草の神々 62  Setoh 2001/12/22(Sat) 20:00 [Reply]
 「伊蘇志臣 滋野宿禰同祖。天道根命之後也。」については「名草の神々の56」で次のように書きました。
 摂津国武庫郡(宝塚市伊孑志)の式内大社伊和志津神社の鎮座地は、伊蘇志臣の居住地であったようです。 また、伊蘇志臣は後に滋野朝臣と改めており、大和国葛上郡(御所市)の駒形大重神社の祭神に滋野貞主命の名前が見え、この辺りにも一族がいたことが分かります。

 さて、神功皇后と天日矛を語る際、どうしても出てくる古代氏族の秦氏のことについて少し触れておきたいと思います。
 『日本書紀』「応神天皇十四年、十六年」から
 弓月君が百済より来朝して言うことには、「私の国の百二十県の人民を率いてやって来ました。しかし新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています。」 そこで葛城襲津彦を遣わして、弓月の人民を加羅に呼びました。しかし三年たっても襲津彦は帰らなかったのです。

 『日本書紀』「応神天皇十六年」から
 平群木莵宿禰・的戸田宿禰を加羅に遣わした。精兵を授けて、詔して「襲津彦が長らく帰ってこない。きっと新羅が邪魔立てしているにちがいない。 汝等、急ぎ行って新羅を討ち、その道をひらけ」といわれました。 是に、木莵宿禰等、精兵を進めて、新羅の境に臨みました。新羅の王はおそれてその罪に服した。そこで弓月の人民を率いて、襲津彦とともに帰ってきました。

 『新撰姓氏録』の山城国諸蛮に秦忌寸の説明に「弓月王、大和国の朝津間の腋上の地に置かれた」と出ています。

 腋上の地とは上記の滋野朝臣の居住した処です。奈良県御所市です。ここの駒形大重神社の祭神に滋野貞主命の名前が見えるのです。大重神社はシゲノサンとも呼ばれており、これを裏付けているようです。
 何を言いたいか、そうです。秦氏とは天日矛命から出た一族ではなかろうか、と言う事です。

 もう一つ、弓月岳と呼ばれる山があります。大和平野の東山麓に山辺の道と呼ばれる古代を味わえる趣の古道があります。 この途中を少し外れて更に東へ登って行きますと、穴師坐兵主神社が鎮座しています。元の鎮座地は弓月岳の上であったと言います。 この弓月岳とはどの山であったかについては三つの山が候補山とされていますが、問題は弓月の名前です。先に紹介しました秦氏の部民を率いて渡来して来た人物(神かも?)の名前も弓月です。 この兵主神社とは秦氏の祖神を祀ったものか、少なくとも秦氏の斎祀った神社だったと言えます。この神社の神体は国懸神宮と同じく日矛です。 天日矛命を祀っていると考える学者もいます。千田稔氏は『王権の海』の中で同様の考証をされています。氏は更に、天日矛命がおさまったとする但馬には古い兵主神社が多く鎮座していることを指摘されています。

 ここに、紀氏←天道根命=天日矛命→秦氏 の関係がでてきました。(矢印は祖神と氏族を表します。)


[82] 名草の神々 61  Setoh 2001/12/16(Sun) 15:08 [Reply]
 『日本書紀』にそって神功皇后の動きを追いかけてみます。
 神功皇后は多くの魚の協力を得ながら西へ向かいます。日本海側の海人と云われる宗像一族や海部一族
などの海人族の協力を言っているのでしょう。また多くの魚が集まるイメージはアツム、安曇と言う海人の頭領
となった氏族の協力をも思わせます。
 九州へ入った天皇は筑紫の伊覩(伊都)県主の五十迹手(いとて)の服属儀礼をともなった出迎えを受けま
す。
 そこで天皇は五十迹手の「いそいそさ」をほめて「伊蘇志:いそし」と言われ、五十迹手の国を伊蘇の国とさ
れ、これが訛って伊覩となったとしています。
 伊覩国の場所は現在の福岡県糸島郡(怡土郡と志摩郡を合併)で、邪馬台国のことが記載されている『魏志
倭人伝』に「代々王有り」と紹介されている伊都国のこととされています。 古来より大陸・半島への玄関口だっ
た処です。だから元々から「いと」だったので、「いそ」の説話は別に目的があって語られたのでしょう。
 この伊都国は紀の国にゆかりの深い土地だと言われています。
 一つは丹生都比売を奉じた人々が上陸した地点と、和歌山県の歴史家で丹生都姫神社ゆかりの丹生良広
氏が『丹生神社と丹生氏の研究』で述べておられるのです。 氏によりますと、伊都国王の後裔が紀州丹生氏
や大分豊後丹生氏になっていったとの見解を示され、和歌山の伊都郡の名はここから人々と共に運ばれてい
たとされています。
 また別に、伊都国の氏神の高磯比メ神社の祭神を丹生都姫とされる方や阿加流比売神とされる方もおられ
ます。

 平安時代に作成された『新撰姓氏録』には畿内し住む氏族の自己申告で、粉飾もありそうなルーツを記して
います。 これに「伊蘇志:いそし」と言う名前の氏族が載っています。 すなわち、「伊蘇志臣 滋野宿禰同祖。
天道根命之後也。」と出ています。 滋野宿禰については「紀直同祖。神魂命五世孫天道根命之後也。」とあ
り、紀の国の国造家である紀直も天道根命の後裔とされていますので、同じルーツだと記していることになりま
す。

 また五十迹手については、『筑前国風土記逸文』に、「高麗の国の意呂山(おろやま尉山(うるさん))に天か
ら降ってきた日桙の末裔」と名乗ったとしています。
 糸井造なる一族がおり、伊都国にルーツを持つと言われています。大和の『日本の神々4大和』の中の糸井
神社の項に「糸井造は、考合の結果、三宅連あるいは伊蘇志臣と同祖で新羅国天日槍の後裔と見られる。」と
出ています。天日槍とは天日矛のことです。

 一つの結論に近づいています。紀氏は天之日矛命につながる氏族ではなかろうかと言うことです。
 一つの氏族が天道根命の後裔であり、天日矛命の後裔でもある、このことは天道根命と天日矛命とは同一
系列の神と言えることになり、これから自然に導かれてしまう結論です。
 これで、日矛鏡を御神体とする国懸神宮の祭神は紀氏の祖神の日矛神であり、同時に天道根命でもあると
いうことになり、これはまさに国懸神宮の由緒の謎の説明にうまくはまります。共に日の神の動きに連動するの
です。

 また五十猛命は伊達(いたて)命とも呼ばれており、五十迹手との名前の近さが気になるところです。糸島郡
には五十猛命を祀る神社が濃く分布しています。五十猛命は有功(いさおし)の神と呼ばれています。 天道根
命と天日矛命の後裔が「いそし」、SAOをSOと読めば同じです。これはどう云うことでしょうか。

[81] Re[80]: 「あかるい」からアカル…… やろかね   Setoh 2001/12/14(Fri) 11:03 [Reply]
善果報紋さん こんにちは。

★ 質問 1 「ヒホコという道具」は確認できてるのカネ。
日前国懸神宮では戦国時代に燃えてしまったとか,誰も見ていないそうな。
日矛とは日槍で,「日」プラス,今で言う「ヤリ」らしい。

★ 質問 2 アカルというのは「岩戸」にかくれたアマテラス(だったか?)を、引っ張り
       出すいろんな「試みの代名詞の名前」の神のひとつやろ? するってぇと、こ
       こでは「姿を表す(AKAR)」が考えられる。「あかるい」の「る・い」「る・き」
       あたりの用法、そんなに古いかねのみことカネ。 
> 「試みの代名詞の名前」の神のひとつ
『日本書紀』の天の岩戸の所では、一書(第三)に天明玉命(あまのあかるたまのみこと)の名が出てくる。流石,詳細に読んでおられる。この神は八坂瓊(やさかに)の曲玉を作ったそうな。
> アカル
新羅の王子の天之日矛命が追いかけた女神を「阿加流比売神」(あかるひめ)と言います。
用法については阿呆の音痴言語でやんす。

[80] 「あかるい」からアカル…… やろかね   焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/14(Fri) 07:13 [Reply]
 ここ、『あさもよし』の前科紋の紋次郎にござんす。

★ 質問 1 「ヒホコという道具」は確認できてるのカネ。
★ 質問 2 アカルというのは「岩戸」にかくれたアマテラス(だったか?)を、引っ張り
       出すいろんな「試みの代名詞の名前」の神のひとつやろ? するってぇと、こ
       こでは「姿を表す(AKAR)」が考えられる。「あかるい」の「る・い」「る・き」
       あたりの用法、そんなに古いかねのみことカネ。
 

[79] 名草の神々 60  Setoh 2001/12/07(Fri) 16:46 [Reply]
 紀氏の祖神とされている天道根命について若干触れておきたいと思います。
 不思議なことですが、この神の名は『古事記』『日本書紀』には登場して来ません。 これらが書かれた時代、紀氏は中央の紀朝臣(きのあそん)と紀の国の紀直(きのあたえ)に分かれていました。 中央の紀朝臣の祖神は武内宿禰命で、この神は無理矢理にも登場して来ている事と比べますと、地方の国造(大名のような存在)である紀直の力量は、当時にはさほど評価されていなかったのでしょうか。
 『記紀』が書かれた8世紀初頭の瀬戸内海への港湾は、すでに紀の川水運よりは大和川に移り、また木津川から淀川へ移っていたようです。また例えば藤原京造営の用材を供給したのが近江の田上山であるように、木材の産出国としても、その地位が下がっていたようです。
 このような中でも、日前国懸神宮の存在は大きくなり、後に伊勢神宮と共に位をつけるのも憚られるようになりました。聖地、神々への崇敬の念は現在とは比較にならないほどのものだった上に皇祖神を祭っていると思われて来ていたと言うことでしょう。

 これを斎祀ったのが国造家の紀氏でした。その紀氏が祖神とする天道根命、この神の名は平安時代に書かれた『先代旧事本紀』と言う古書に出てきます。この書物は物部氏が自らに伝わる伝承を記して、古代より建国に当たった粗略にはできない一族であることを再確認させようとした意図がある書物とも言われています。 例えば、物部氏の遠祖である饒速日尊が天降する時のお供の中に、時の権力を恣にしていた藤原氏の祖とされる「天児屋根命」を入れてあります。藤原氏への対抗意識か嫌がらせかと言われていますが、まさか嫌がらせとは思いにくい所で、物部氏にはそのような古い伝承が残っていたのかも知れません。

 この『先代旧事本紀』に物部氏の遠祖饒速日尊の降臨に「防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る」とされた神々の中に「天道根命 川瀬造等の祖」と記載されているのです。この川瀬造は泉州にいたであろう豪族で、紀氏とは同系列と言えます。
 泉州であるとしたのは、平安時代に作成された畿内豪族の素性を書いた『新撰姓氏録』の抄録によっています。畿内には紀の国は含まれていません。この本文は散逸しているようですが、レジメが残っている貴重な資料です。 この中に、「和泉国神別。川瀬造。神魂命五世孫天道根命之後也。」とあるのです。 同じく「河内国神別。紀直。神魂命五世孫天道根命之後也。」とあります。 紀氏の一部は現在の大阪府八尾市付近にいたようです。

 『先代旧事本紀』には紀国造は神武天皇の時代に設けられたと記してあり、これは史実とは思われませんが、比較的古い時代に大和王権に服属した氏族であったとは言えるでしょう。

 現在の日前国懸神宮には境内の小祠は僅かになっていますが、かっては多くの摂社末社が鎮座していました。その中に先ほど紹介した「防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る」神々の名前が並んでいました。 物部氏の影響下に置かれた時代があったことを推測させます。
 同時これは日前宮の祭神にかかわる問題かも知れません。現在の祭神は両宮とも天照大神ですが、皇祖神の天照大神が日の神として最高神になる以前の時代には、一般的には日の神としては天照御魂神と呼ばれた神が知られていたとされます。 松前健一さんは中公新書『日本の神々』で、各地の天照御魂神の多くは皇祖神の天照大神に置き換わっていったのであろうと述べられていますが、現在でもこの神の名前を付けた古い神社が残っています。京都の蚕の社と呼ばれている三柱鳥居のある木嶋坐天照御魂神社が著名です。 この天照御魂神は物部氏の遠祖饒速日尊と同一神と見られたりして、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊と言う長い名前の神として『先代旧事本紀』に記載されています。こうなれば、日本海丹後の海部氏の奉斎した籠神社や尾張国の一宮の真清田神社 を祀った尾張氏と物部氏は同族であったと言うことになり、大和王権の地盤が確立される以前のいわば群雄割拠時代の100万石の大名のような存在だったのでしょう。

 神武天皇以前の大和の先住支配者として饒速日尊の名前が『記紀』に記載されています。 『先代旧事本紀』記載の内容を信じるとすれば、饒速日尊に天道根命がお供していたことになり、そうしますと紀氏は思ったより古くから紀の国にいたのかもしれません。

[78] 名草の神々 59  Setoh 2001/11/30(Fri) 17:44 [Reply]
 ここで神功皇后の祖とされる天之日矛命について紹介しておきます。日槍、日桙とも書かれます。槍は鎌
倉時代以前まではホコと呼ばれていたそうです。
 『古事記応神天皇段』には、新羅国の阿具奴摩[あぐぬま]沼のほとりで女が昼寝をしていた。 そこに虹の
ように輝いた日光がホトを射した。女は妊娠して赤玉を産んだ。 様子を窺っていた男がその赤玉をもらい
受け、腰につけていた。 男は谷間の田の小作人の食べ物を牛の背に積んで谷間に入るときに天之日矛命
に出会った。 「お前は牛を殺して食べてしまうであろう」と言って獄舎に入れようとしたので、男は赤玉を天
之日矛命に差し出し、許された。天之日矛命は赤玉を持ち帰り、置いておくと、うるわしい乙女になった。そ
して結婚して妻とした。 妻は色々な珍味をそろえ夫に食べさせた。ところが天之日矛命は心が奢り妻を罵
るようになった。妻は「そもそも、私はあなたの妻となるような女ではありません。私の祖先の国に行きま
す。」と言って、ひそかに小舟にのって逃げ渡り、難波に留まった。これが難波比売碁曾社に坐す阿加流比
売神と言う。」と出ています。
 現在、大阪市東成区東小橋に比売許曽神社が鎮座、何故か下照比賣命を祭神としています。
 また、大阪市平野区平野東には赤留比売命神社が鎮座、祭神も赤留比売命神で、元は住吉大社の管轄
だったそうです。

 赤い玉の化身である阿加流比売神とは、言うまでもなく太陽・日の神です。日の神を追いかけるのが天之
日矛と言うことです。また「色々な珍味をそろえ」た所からは食物の神の要素も感じられます。
 天之日矛命は宇治川、近江、若狭を遍歴して但馬国出石郡(兵庫県出石郡出石町)に落ち着きます。但
馬国出石郡の伊豆志坐神社(出石神社)に持参した八種の神宝と共に祭神として祀られています。

 日矛については『日本書紀』に、素盞嗚尊の乱暴狼藉にうんざりの天照大神が天の岩戸隠れますが、こ
れを導き出すための儀式の中に出てきます。 思兼神が「大神のかたちを映すものを造って、招き出しまし
ょう。」と言われ、天香具山の金をとって、日矛を造らせた。また鹿の皮でフイゴを造った。これを用いて造ら
せた(日像鏡である)神は紀伊国においでになる日前神である。
 とあります。(日像鏡である)は瀬藤が付け加えました。日矛に日鏡をぶら下げたのでしょうか。 どうも日
矛と言うものは、日神を運ぶもののように思えます。
 先の天之日矛命も阿加流比売神と言う日神を動かすというか共に動いています。

 少し紀の国に話を戻しきます。紀の国の国造であった紀氏の祖神は天道根(あまのみちね)命と言いま
す。神魂の神の五世の孫とされます。日前国懸神宮に伝わる古記録『日前国懸大神宮本紀大略』によると
「昔、天孫降臨のとき、二つの神宝を天道根命に託し、また神武東征の際にも二つの神宝を奉じて名草郡
加太浦に至った」とあります。二つの神宝とは日像鏡と日矛でしょう。このように天道根命には日の神を運
ぶ役割がついています。

 太陽を「おてんとうさま」と言いますが、白水社『日本の神々1対馬の民俗信仰』には天道信仰について記
されています。この一部から。
 対馬にある天道(てんどう)信仰は仏教の影響を受けていますが、元々は古い信仰のようです。 天道法
師(菩薩)縁起には対馬の豆酸(つつ)の天道童子は、母が日光に感じて懐妊したと伝えられています。 霊
峰竜良(たてら)山に、天道法師の墓所と称する聖地があり、最高の聖地とされ、日ノ神、穀霊、祖霊の信
仰があるようです。たまたまかも知れませんが、紀氏の祖神の天道根命と漢字表記は同じで、日ノ神の信
仰を持っています。 また日光感精説話は天之日矛命が追いかけた日ノ神を想起しますし、聖地が豆酸と
言うのも、住吉の神の名前を思い起こします。謎解きが楽しみになってきます。

[77] Re[76]: 熊野の神社配置  Setoh 2001/11/29(Thu) 11:37 [Reply]
> ・熊野本宮―那智―新宮は、本宮を頂点とする二等辺三角形。
> ・丹生都姫―本宮―那智、丹生都姫―玉置―新宮はライン上に配置。
> > こんなこと、誰か、何処かで書いてますか?

 「大江戸魔方陣」,面白い着想ですね。
 平地の神社とは概ね地域住民の発散年に一回の無礼講の為に作られたと思っていましたが,この種の目的があったんですね。

玄松子さん>・熊野本宮―那智―新宮は、本宮を頂点とする二等辺三角形。
玄松子さん>・丹生都姫―本宮―那智、丹生都姫―玉置―新宮はライン上に配置。

 寡聞にして先達については承知していません。何となくさもありなんと言う配置ですね。修験者移動の最短ルートでしょうか。

[76] 熊野の神社配置  玄松子 2001/11/28(Wed) 22:30 [Reply]
・熊野本宮―那智―新宮は、本宮を頂点とする二等辺三角形。
・丹生都姫―本宮―那智、丹生都姫―玉置―新宮はライン上に配置。

こんなこと、誰か、何処かで書いてますか?

[74] 加門七海の本  玄松子 2001/11/26(Mon) 09:24 [Reply]
ずっと以前に読んだ本なのですが、電車通勤なので文庫を買って読みなおしている本があります。加門七海の「大江戸魔方陣」「東京魔方陣」という本です。
その中に、江戸(東京)を呪的に包囲し鎮護するために熊野の神社を意図的に配置しているという説が紹介されています。
また、「東京魔方陣」には、浅草の浅草寺周辺の地名と紀ノ川周辺の地名の近似なども紹介されています。一部、疑問な点もありますが、神仏に関して独特の視点を提供してくれます。

[73] Re[70]: 丸石信仰  玄松子 2001/11/25(Sun) 23:47 [Reply]
和歌山に関係しないので、神奈備掲示板でやった方が良い気もしますが。

> 『対州神社誌』にある金=Aあるいはかね≠フつく神社はおおむねここに揚げられただけですが、興味深いことにそれらは大部分が伊奈郡≠ノ集中しています。現在の対馬に伊奈郡という郡名はありませんが、上県町と上対馬町を合わせた、上県郡の北半分に該当するようです。

下県には「銀」山がありますね。現在は「ギンザン」と読むようですが、「カナヤマ」と訓のある本もあります。

[72] 名草の神々 58  Setoh 2001/11/24(Sat) 17:01 [Reply]
 5世紀に入りますと河内を舞台に大きい古墳が作られています。 また大陸の史書から「邪馬台国」が姿を
消してから100年、この期間を松本清張氏は「空白の4世紀」と名付けましたが、その後倭国のことが記載
されるのは『宋書』で、いわゆる「倭の五王」が登場してきます。 この100年間、『記紀』では大和の王権の
物語や日本武尊の遠征などが語られます。このように『記紀』では神話の世界が続いているようですが、大
和では唐古・鍵や巻向から遺跡・遺物が出土しているように、日本列島各地では人々が生活をし、移動し、
開拓をおこなっていたはずです。 紀の国名草郡も「空白の4世紀」ですが、邪馬台国の消息が途絶えた
頃、名草の大田黒田の住居遺跡の住人の姿がぷっつり途絶えているのです。銅鐸祭祀からの支配者の交
代があったのかも知れません。 しかしながら名草全体の住人数は徐々に増えているそうです。祖先達は
黙々と地域の開発に勤しんだのでしょう。

 『記紀』で語られる神話・呪術的歴史から人間歴史への過渡期が、神功皇后応神天皇の時代から河内の
大王達の活躍の頃へと言えましょう。 「名草の神々」は紀の国の神々について語るのがテーマですが、少し
その背景となる列島の様子を見てみたいと思います。

 河内大王家の日の女神・息長帯日売(神功皇后)とその先祖、紀氏と深く関わる建内宿禰、住吉大神辺り
から始めていきたいと思います。

 『日本書紀』では、神功皇后の夫である天皇の仲哀天皇(日本武尊の子)が数百人の官人を従えて紀の
国の徳ろ津宮(「ろ」は革篇に力)に居た時、熊襲が背いたとの知らせがあり、船で穴門(山口県)に急行し
ています。 徳ろ津宮とは和歌山市新在家の付近に比定されています。江戸時代に石碑が立てられたそう
です。 JR紀伊中之島駅の東側、新在家の南1kmには日前国懸神宮が鎮座しており、神宮領の北限とさ
れていました。 史実とすれば4世紀後半になるのでしょうが、それはともかくとして、古来よりの大和王権の
港としての紀の川の河口の重要性、木々の調達と軍船の製造能力、紀氏の水軍能力などが物語られてい
ると理解できます。

 一方、敦賀にいた神功皇后にも知らせが届き、天皇皇后は穴門で落ち合うことになります。敦賀からは塩
津へはゆるやかな峠道で、これを越えれば琵琶湖、水運で畿内につながります。畿内から日本海側への
良好な窓口で、重要な港でした。瀬戸内への名草の湊、日本海への敦賀の湊がそろいました。 敦賀には
北陸道一宮で神功皇后、応神天皇と縁の深い気比神宮が鎮座しています。
 ここには敦賀の語源説話と言える物語があります。『日本書紀』垂仁天皇二年の條に「御間城天皇(崇神
天皇)の時代、額に角のある人が越国ke飯浦に泊まる。地名を角鹿と言う。意富加羅国(韓半島の南の
国)王子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と言う。 (ke 竹冠に司)。都怒我阿羅斯等の都怒我が敦
賀となったと言うことです。またこの都怒我阿羅斯等と神功皇后の祖とされる天日矛とはほとんど同一の説
話で語られる渡来神で、異名同一神と見ることができます。
 紀の国の国懸神宮の御神体は日矛鏡と言われます。天皇皇后の物語の出発点に現れるキィワード「日
矛」から考えて行きたいと思います。

[71] Re[70][66][64][63]: 丸石信仰  Setoh 2001/11/23(Fri) 17:27 [Reply]
 kokoroさん,こんにちは。
 丸石信仰の情報ありがとうございます。
 対馬は不思議な所で,結構古い伝承とか赤米栽培の伝統が残っているようですね。モンゴル兵に島民が皆殺しのめにあったとすれば,後に住み着いた連中が復活させたとか,でっち上げたとか,または逃げ延びた島民が多くいたと言うことでしょうね。

 神功皇后を調べていくと,住吉の大神が登場するのですが,豆酸(つつ)と言う地名もあるようで,あんがい『日本書紀』の「橘小門(たちばなのをど)の水底(みなそこ)に所居(ゐ)て、水葉(みなは)も稚(わかやか)に出(い)で居(る)神、名(みな)は表筒男(うはつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神有(ま)す。」の水の澄んだ雰囲気を思わしますね。
 対馬には神功皇后伝承が多く残っているそうで,これらはモンゴル兵や高麗兵の殺戮から逃れた島民が三韓征伐の女神をこよなく慕ったものかも知れません。
 素盞嗚尊、五十猛命の伝承は半島大陸への怨念とは関係はなさそうですが・・。

 神功皇后は天日槍命の子孫となっていますが,『日本の神々3』白井神社の所で,近江国穴村(草津市)の安羅神社は丸い石数十個を御神体としていること, 摂津国穴太村の白井神社の御神体も丸石だそうです。ここは最近参詣したのですが,当然見ることはできませんでしたが,境内に円形の石組があり梵字のようなものが彫っていました。

[70] Re[66][64][63]: 丸石信仰  kokoro [Mail] 2001/11/23(Fri) 02:16 [Reply]
 setohさん、こんばんは。名草の神々の第二部突入、楽しみにしています。

玄松子さん> 対馬の上県郡(北の方の島)の西海岸の側に、「金山宮」という小さな神社があるのですが、その鳥居の横に、直径1.5m程度の大きな丸石があります。その石に合せて屋根付きの小屋が建てられており、大事にされている感じですが、社殿は他にあり、別にお祀りしている場所があります。

 貞享3年(1686年)の『対州神社誌』によれば、上対馬町(旧豊崎町)大ソ(ソはつちへん≠ノ曾)の「氏神天台矢房」と「宗像」にそれぞれ神体丸キ石≠ニあり、また同町富ヶ浦の「氏神天神社」にも神体丸石高サ七寸≠ニあります。こうしてみると上県郡には古くから丸石を祀る信仰があったようで、玄松子さんが見つけた金山宮の丸石もそうしたものの1つかもしれません。
 ちなみに本書には「金山宮」の記載はありませんが、上県郡上県町(旧仁田村)志多留に「かな倉山」という神社が載っています。『対州神社誌』に記載のある神社を分析した鈴木棠三の『対馬島の神祠』(『対馬の神道』所収)によれば、「かな倉神」とは以下の通りです。

「かな倉山四社、かな倉神一社ある。うち、不入の神地であるという例が二つあり、小鹿村金倉社について、大帳(※『対馬州神社大帳』のこと)に「此金倉、鎮火之神ト言フ也」とある。また、倉玉神、金の倉玉という例も各一ある。同じ系列に属するものと思う。やや名称の似たものに小鹿村かなごがあるが、これは式内の金子神だといわれている」

『対州神社誌』にある金=Aあるいはかね≠フつく神社はおおむねここに揚げられただけですが、興味深いことにそれらは大部分が伊奈郡≠ノ集中しています。現在の対馬に伊奈郡という郡名はありませんが、上県町と上対馬町を合わせた、上県郡の北半分に該当するようです。金山宮の鎮座地も伊奈郡に包摂されるので、こうした同じ系列に属する∴齪Aの神社の1つであるかもしれません。
 ところで、文中の式内の金子神≠ニは對馬嶋上縣郡の式内小社、那ス加美乃金子神社(スはさんずい≠ノ頁)のことであり、小鹿村かなご≠ヘ同社の論社の1つ、上対馬町小鹿の那須加美乃金子神社のことです。この神社にはsetohさんもご承知の通り、素戔嗚尊と五十猛命にまつわる伝承があります。神社明細帳から引用します。

「素戔嗚尊、五十猛命ヲ率ヒ八十木種ヲ持チテ韓地曽尸茂梨ノ所ニ行キ其種ヲ植サセ玉ヒ皈朝ノ時、此山ニ八十木種ヲ植玉フヨリ繁茂シ、人入ルコトヲ深ク禁スル所ニシテ、実ニ心霊ノ地ナリ」

上県郡にはこうした、素戔嗚尊と五十猛命が曽尸茂梨ソシモリのところから戻るときに立ち寄ったという伝承があり、このためこの二神を祭神とする神社も多く鎮座しています(興味のある方は神奈備ホームページの「五十猛命ホームページ」→「西日本」→「長崎県」を参照してください)。ところで、ちょっと気にかかることがあります。『日本書紀』神代 上の一書(第四)によれば、曽尸茂梨のところへ行って不服だった素戔嗚尊は泥の舟でそこを去り、出雲にある簸の川上流の鳥上トリカミの山に着いて八伎大蛇退治をした、とされています。ここでいう簸の川上流域というのは出雲国の仁多ニタ郡に該当しますが、対馬の上県郡にもかって仁田村があり、現在の上県町の範囲に該当し、町内には今でも仁田湾や仁田川といった地名が残っています。これは偶然でしょうか? ただし、素戔嗚尊と五十猛命を祀る神社の大部分は、上県郡でも上対馬町の方にあり、上県町にあるそれは大字女連の「地主神社」1社だけですが。

[69] 名草の神々 57  Setoh 2001/11/16(Fri) 21:03 [Reply]
 神武天皇の次の第二代綏靖天皇から開化天皇までの八代の天皇については、その事績などは『古事
記』『日本書紀』にはほとんど記載されていません。欠史八代と言われる所以です。 『古事記』では、第八代
の孝元天皇の条に建内宿禰(たけしうちのすくね)の出生と子孫のことが記されています。 これによります
と、「孝元天皇(大倭根子日子国玖琉)が物部の伊迦賀色許売(いかがしこめ)の命に生ませた御子が比古
布都押の信(ひこふつおしノまこと)の命。 比古布都押の信の命が木の国の造が祖、宇豆比古の妹、山下
影日売に生ませた子、建内宿禰。」と記されています。
 さらに建内宿禰の子孫のことが書かれています。子は七男二女に恵まれました。 それぞれが後々に一
家をなし、葛城、波多、許勢、蘇我、平群、木等の氏の祖となったとしています。 この顔ぶれは古来より大
和にいた豪族と違い、新参の豪族で、蘇我物部戦争の時には蘇我氏に味方した氏族です。
 『古事記』によりますと建内宿禰は後の十三代の成務天皇のときに大臣の地位についています。
 『日本書紀』ではその前の天皇の景行天皇の時に、東国の巡察を行って、東国征伐を進言しています。
後、棟梁之臣としたと記しています。また成務天皇の条で「天皇と武内宿禰と、同じ日に生まれませり。」と
出てきます。 これがどの様な意味があるのか判りませんが、天皇の補弼役として忠義を尽くし、三百歳の
長寿と云う伝説上の人物として登場します。 武内宿禰は蘇我入鹿と藤原不比等をモデルに構想された補
弼の臣の理想像のようにも見えます。 藤原不比等や藤原氏は外戚として権力はほしいままにふるまうが、
決して皇位をうかがったりないがしろにしないことを『記紀』を通じて言っているのかも知れません。

 紀の国との関わりでは、木の国の造が祖の孫として誕生していることと、紀の国の国造の紀直が途絶え
た際、武内宿禰の子孫である紀朝臣家から養子が出て後継しています。

 尤も「名草の神々ー45ー」で母親の山下影日売を祭神とする神社は九州にしか見られないので、建内宿
禰の出生の地は九州ではなかろうかと言うことと、 その子孫の各氏族と同じ名前の地名が北部九州に分
布していることを指摘しておきました。

 余談ですがおそらくは偽書であろう『富士古文書』と言うものがあります。徐福と徐福の子孫が記述したも
のといわれています。
 この中に「武内宿禰、富士の大神宮へ奉幣にきて、徐福の来朝を聞いて大いに悦び、その門に入って教
えを受け、後に一子矢代宿殊をも門人にした。 矢代宿禰は秦人に学んだので姓を羽田と改めた。徐福は
武内宿禰の請をいれて、塾を開いて学を講じた。大神宮のほとんど全神官が学生になった。」とあります。

 第二部では神功皇后の物語から入っていきたいと思います。

[68] Re[67]: 「紀の国」異聞  Setoh 2001/11/15(Thu) 17:13 [Reply]
>「常陸の国」になる以前は「紀の国」

厳密には常陸の筑波の郡が紀の国と呼ばれていたようです。
常陸のは宝亀三年(772)創建の青山神社があります。祭神は五十猛命。
不明になっていた式内社ですが,水戸光圀さんが再建してくれたそうです。

>へそ石(地震が起きないように大ナマズを押え込む石)
要石もそうでしたかね。
>昔3日3晩掘って
十津川の玉置神社の玉石は,丸石かもしれませんが,掘ってみたそうですが,大きすぎて全容はつかめなかったとの事。それでも祭祀用具が出ています。 掘ったのは村おこしの為だったとか。

[67] 「紀の国」異聞  習志野のてつ [Mail] 2001/11/15(Thu) 09:51 [Reply]
最近文庫本で、「常陸の国風土記」を見かけました。
以前風土記は一度読んだはずなのにすっかり忘れてました。
「常陸の国」になる以前は「紀の国」と呼ばれたそうです。

全然違う話になりますが、鹿島神宮の偉い神職さんの書いた
「鹿島神宮」と云う本の中で、天=常陸であると主張してます。
また鹿島神宮の作り方は大社造りですが、『そもそも出雲大社を
造ったのが建御雷之男神(タケミカヅチ)だから、同じ造りに
なるのは当然』とあり、妙に納得しました。

丸石と云えば、丸く小さい石に見えますが…へそ石(地震が起きな
いように大ナマズを押え込む石)もあります。氷山のほんの一角の
ように出ていて、残りの大部分は地中に深く入っているそうです。
昔3日3晩掘っても、全体は出てこなかったとか。

[66] Re[64][63]: 丸石信仰  玄松子 2001/11/07(Wed) 00:05 [Reply]
もう一つ「丸石情報」。ただし、和歌山とは関係ないのですが。
対馬の上県郡(北の方の島)の西海岸の側に、「金山宮」という小さな神社があるのですが、その鳥居の横に、直径1.5m程度の大きな丸石があります。その石に合せて屋根付きの小屋が建てられており、大事にされている感じですが、社殿は他にあり、別にお祀りしている場所があります。今朝、思い出したので、僕のサイトに載せて見ました。

[65] Re[64][63]: 丸石信仰  Setoh 2001/11/05(Mon) 16:47 [Reply]
 丸石は御神体として祀られていたものですが,社殿を作ったりしている間に,その謂れが忘れられて,神社境内の片隅の放置されたり,あげくの果てには持ち出されたりしているものもあるようです。
 力石なんかも,そのような丸石が意味不明となって,そのような役割を与えられたものがあるのかも知れませんね。

[64] Re[63]: 丸石信仰  玄松子 2001/11/04(Sun) 21:20 [Reply]
> 皆さんの中で、丸石を目撃されたかたは教えて下さい。
> また旅先ででも見つけられたら教えて下さい。

この「丸石」 ですが、神体として祀られ・信仰されている石のことでしょうか。
あるいは、境内に転がっている力石と云われるものも含むのでしょうか。
「力比べに用いる石」であれば、肥前の田島神社境内にもありますし、石川県の各神社では、「盤持石」と呼ばれ、順番に持って競う石が境内に置かれています。奈良の飛鳥坐神社にも「力石」はありましたね。

[63] 丸石信仰  Setoh 2001/10/29(Mon) 18:01 [Reply]
丸石への信仰があります。玉で魂に通じるとか、卵型で生命力を励起するとか、理屈上はいろいろ言える信仰でしょう。
実際には、玉石は住民の不思議な体験と共にあるようです。村はずれの玉石を歌いながら老婆が通る。村へ帰るとその老婆は亡くなっていたとか。泣きながら通ると地獄、その老婆は極楽へ行ったといわれる。など。

 南紀にも玉石を祀った神社があります。
串本町口和深 矢倉明神社(続風土記に 社なし 木を神体とす 拝殿あり)
串本町田子の江田浦の徳明神社
古座川町土井の平(旧三尾川村) 矢倉明神社
古座川町真砂 寶山明神社
古座川町滝の拝(旧 長洞尾村) 産土神社

串本町田並から数キロ山に入ると矢倉神社があるそうでそこにも丸石が祀られているそうですが、続風土記では神社の存在を確認できませんでした。

皆さんの中で、丸石を目撃されたかたは教えて下さい。
また旅先ででも見つけられたら教えて下さい。

[62] Re[61]: 朝臣  玄松子 2001/10/29(Mon) 12:27 [Reply]
> 朝臣はカバネでしたか。幕臣から発想して朝廷に仕える官かと思ってしまいました。

みなさんはご存知だと思いますが、僕は、最近知ったので、僕のような人のために。

「朝臣」は天武天皇が「八色の姓」として氏族に階級を設けたもので、「真人」についで第二位の姓ですが、平安になって藤原(朝臣)の勢力拡大により、最高位になりました。

ということで、「千島氏のルーツは平安朝時代の朝臣の末裔」とすれば、かなりの名門となりますね。しかも「近江」に縁のものとなれば、ある程度の限定はできると思いますが、僕は知りません。だれか教えてください。

また、「平安朝時代の朝臣」であっても、それ以前(古代)においては、渡来氏族であったり海人族である可能性もあると思うのですが、どうでしょう。

[61] Re[60]: 朝臣  Setoh 2001/10/29(Mon) 11:06 [Reply]
> 紀氏も朝臣じゃなかったですか。

中央の紀氏は朝臣でしたが地方の紀氏は直で、後に朝臣になりました。
朝臣はカバネでしたか。幕臣から発想して朝廷に仕える官かと思ってしまいました。
近江縁の朝臣では小野朝臣、橘朝臣、などがあるようで、幕末の井伊家もそうだったようですが、元々は遠江国引佐群井伊谷の古代からの豪族だったそうです。

本家筋の方>分家筋でそこの伝承など信用するに当たりません。
小生も分家筋ですが、本家よりいろいろ伝わっているものがあります。熊野詣での上皇のご落胤説などをひっさげて、貴種の流れ着き物語をやってみようかな。

[60] 朝臣  玄松子 2001/10/29(Mon) 09:53 [Reply]
> 近江の豪族で朝臣だった一族
天武の時代に、朝臣の姓を受けた氏族は、50程度だったと記憶しています。そのうち、近江に勢力を持っていたのは、どの氏族なのでしょうか。
古代史には疎いので、だれか「朝臣姓」の氏族一覧など教えてください。
九州宗像の胸形氏も朝臣でしたね。朝臣には渡来系の氏族が多いのでしょうか。海人出身も多いのかな。紀氏も朝臣じゃなかったですか。

[59] Re[55][54]: 千島氏のルーツは平安朝時代の朝臣の末裔  kokoro [Mail] 2001/10/28(Sun) 21:25 [Reply]
 千島宏明様、はじめまして。あの投稿は、千島本家の遠祖についてよく知らずにこの掲示板に投稿いたしました。お詫び申し上げます。またなによりも、千島姓は大滝村では村長を出す名家であり、現在でも秩父ではこの姓を名乗られる方が多いわけです。そのような家系について実名で投稿してしまったことも配慮が足りませんでした。これについても謝罪いたします。
 ただ、少しだけ弁明させてください。私の父方の祖父は両神村の浦島という土地出身です(もちろん、千島様のご立派な家系と比べれば全くたいした家系ではありません)。そして、この土地には晩年の浦島太郎が鳥になって飛来したという浦島伝説があると父から聞いたことがあります。私が浜平の千島さんから「霊亀・養老の頃…」の古文書の話を聞いたとき、まず思い出したのがこのことでした。昔話の「浦島太郎」は本来、海人族の伝承です。そのような伝承が両神の山中に伝わっていることは奇異ですが、海人族が荒川をさかのぼって秩父に来ていたのだとしたら説明がつきます。また、浦島と浜平は昔から交流があり、実際に父の親戚にあたる浦島出身の女性で浜平の人と結婚した方がいるという話も聞きました。これも遠い海人族繋がりかもしれません。
 ここで、お断りしますが私は千島本家のルーツが海人族だったと主張する気はありません。千島様の家に「千島家の遠祖は鉢形城の武士千島下総に始まります。更に出自は近江の豪族で朝臣だった一族だといわれております」という伝承や系図が伝わっているならば、そちらを尊重するべきだと思います。また、そもそも浜平の千島家に伝わっていた古文書の内容が海人族の活動を記したものだという話自体が、紀州に海人族が多くいたこと等から私が導き出した仮説にすぎません。とにかく、問題の古文書がなくなってしまった以上、もはやことの真偽は不明になっております。
 ただし、ではこれが全く「単なるでまかせ」だったのかというと、私はそうは言い切れないと思います。こうした家系に関わる伝承は、その血統を尊貴なものとするのが普通です。これに対し、浜平の千島さんから聞いたこの古文書の話には、そのような雰囲気が全く感じられません。また、寡聞にして類話もあまりない気がします。これだけでも注目すべきことです。浜平の千島さんはいかにも世故に長けた感じの人ですが、また知性を感じさせる人でもあります。お会いしたときは、この古文書のこうした点を面白がっておられた感じでした。
 ですから、「航海の途中、千の島々を見たので千島という名に改めた」という点など附会かも知れないですが、この古文書のもとになった古伝承が浜平に伝わっていて、それがここに採取された可能性までは否定できないと思います。ましてや「浜平の千島家は千島家の分家筋」なので「そこの伝承など信用するに当た」らないというのは、判断基準にならないと思います。そして、この古文書の話はこのままだと埋没して忘れ去られる恐れがあったので、ここに紹介しておく意義を感じたわけです。他意がなかったことはご了解いただけるかと思います。
 最後に、私の投稿が千島様に不快な思いをさせたことをもう一度、お詫びいたします。

[58] Re[53][48]: 誰か教えて  にぎはやひおたく [Mail] 2001/10/27(Sat) 11:13 [Reply]
> にぎはやひおたく様
> > 平安末期までは出雲国造と同じく、その代替わりのときには朝廷にとくに召しだされて補任式を行っていた」とあります。
>
> 紀国造家代替わりの国造新任の儀礼は室町末までは出雲国造と同じく火継神事を行われていたようです。新任時は都に登り・・・「丹生都姫神社誌」より

[57] なにがし様ありがとう  にぎはやひおたく [Mail] 2001/10/27(Sat) 11:02 [Reply]
紀伊の国は出雲と同様に大和朝廷成立時に敵対した勢力だったとの確信が持てました。わたしは出雲の国と紀伊の国は同族が治めていたと考えています。出雲はすさのおが治め、紀伊は卑弥呼が治めていたのでしょう。二人は新羅から来た姉と弟と考えています。

[56] Re[53][48]: 誰か教えて  にぎはやひおたく [Mail] 2001/10/27(Sat) 10:51 [Reply]
> にぎはやひおたく様
> > 平安末期までは出雲国造と同じく、その代替わりのときには朝廷にとくに召しだされて補任式を行っていた」とあります。
>
> 紀国造家代替わりの国造新任の儀礼は室町末までは出雲国造と同じく火継神事を行われていたようです。新任時は都に登り・・・「丹生都姫神社誌」より

[55] Re[54]: 千島氏のルーツは平安朝時代の朝臣の末裔  千島宏明 [Mail] 2001/10/27(Sat) 09:22 [Reply]
> 私の出身は埼玉県大滝村です。大滝村千島家の本家にあたります。千島家の遠祖は鉢形城の武士千島下総に始まります。更に出自は近江の豪族で朝臣だった一族だといわれております。海人という説は私が調べた限り知りません。鈴木だったとか紀伊だったというのは単なるでまかせでしょう。浜平の千島家は千島家の分家筋でそこの伝承など信用するに当たりません。

[54] 千島氏のルーツは平安朝時代の朝臣の末裔  千島宏明 [Mail] 2001/10/27(Sat) 07:06 [Reply]
私の出身は埼玉県大滝村です。大滝村千島家の本家にあたります。千島家の遠祖は鉢形城の武士千島下総に始まります。更に出自は近江の豪族で朝臣だった一族だといわれております。海人という説は私が調べた限り知りません。鈴木だったとか紀伊だったというのは単なるでまかせでしょう。

[53] Re[48]: 誰か教えて  なにがし 2001/10/22(Mon) 19:37 [Reply]
にぎはやひおたく様
> 平安末期までは出雲国造と同じく、その代替わりのときには朝廷にとくに召しだされて補任式を行っていた」とあります。

紀国造家代替わりの国造新任の儀礼は室町末までは出雲国造と同じく火継神事を行われていたようです。新任時は都に登り・・・「丹生都姫神社誌」より


【掲示板】 TITLE: 名草の神々−56− setoh H13.10.13

 伊太祁曽神社の遷座、三神分遷の話はこれぐらいにしておきまして、垂仁天皇の時代以降と紀の国について続けたいと思います。

 垂仁天皇九十年の出来事として、田道間守に常世国の時非の香菓(橘)を求めさせる物語が記載されています。持ち帰った時には垂仁天皇は亡くなっており、間に合わなかったので、墓の前で田道間守も死んでしまったとされています。
 海草郡下津町橘本に田道間守を祭神とする橘本神社が鎮座しています。ミカンの原木が植えられており、秋には小さいミカンの実がなります。熊野王子社の一つの所坂王子でもあります。

 田道間守は、新羅の国の王子と名乗る天日矛命の後裔です。天日矛(槍)の命については、『名草の神々?22?』でも少し紹介しました。 それは国懸神宮の御神体が日矛鏡と言われるものであるのことで、まさに天日矛命を祭神としていると宣言しているととれるからです。

 邪馬台国への道筋に「東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る。」との文言があり、現在の福岡県糸島郡に比定されています。 ここは大陸・半島への玄関口とも言える場所で、古代史上重要な話が残っています。
 後の時代ですが、『日本書紀』によりますと、仲哀天皇がおもむいた際に、築紫の伊都縣主の先祖、五十迹手(いとて)が出迎え、天皇はほめて「伊蘇志(いそし)」と言われて、これが伊都となまったと出ています。 『筑前国風土記』によりますと、この五十迹手は「高麗の国の意呂山(おろやま尉山(うるさん))に天から降ってきた日桙の末裔」と名乗っています。この伊蘇志臣と言う氏族は大和国にいて紀氏の祖神である天道根命の後也とされます。紀氏と同族です。 摂津国武庫郡(宝塚市伊孑志)の式内大社伊和志津神社の鎮座地は、伊蘇志臣の居住地であったようです。 また、伊蘇志臣は後に滋野朝臣と改めており、大和国葛上郡(御所市)の駒形大重神社の祭神に滋野貞主命の名前が見え、この辺りにも一族がいたのでしょう。
 「いそし」からは「有功:いさおし」と言う言葉を連想します。『名草の神々26』でも触れましたが、『日本書紀』の一書(第四)で「大八州国の内に、播殖して青山に成さないところはありませんでした。 このゆえに、五十猛命を称けて、有功の神という。則ち紀伊の国に所坐す大神是なり。」とあることを思い出します。 五十猛、五十迹手、発音も似ていますね。

 紀氏のルーツとして素盞嗚尊ー五十猛命の後裔ではとの話をだしていますが、ここに天日矛命の後裔である可能性も出てきています。 半島に縁のある神々(漢神か韓神と言われる)の系譜がどのように伝わっていたのか、特に『記紀』には五十猛命の後裔については出てきていないので、地方の神社伝承から推測をしてみます。

 但馬養父(兵庫県養父郡関宮町三宅)に鎮座する式内社の大與比神社の祭神について、社伝では「大屋彦命」と伝へ「天日槍命」と伝へているそうです。 また創立所伝は「推古天皇十五年冬十月三宅首が其祖神大屋彦命を祀りしものと云ふ」とあります。一般には三宅連は天日矛命の末裔として知られている氏族であり、実に興味をそそられる社伝です。
 出雲飯石(島根県簸川郡佐田町大字大呂)に鎮座する大呂神社(おおろ)の祭神に五十猛命の名が見えますが天日槍命の名は見えません。しかし大呂からは『筑前国風土記』の「高麗の国の意呂山」を思ってしまうのです。

 この二例で言うのも何ですが、素盞嗚尊、五十猛命、天日矛命などの韓神は明確に区別して認識されていなかったのかな、と思えてきます。
 天日矛命は九州から瀬戸内海、摂津、近江、但馬と足跡を残しています。但馬の出石に留まったことになっています。 紅葉で有名な出石神社に祀られています。また大和国の穴師兵主神社の祭神の兵主神の日本的表現を天日矛命とする見解もあります。 これまた「名草の神々ー22ー」で紹介したように、「天孫は天降った時に、斎鏡三面と子鈴一合を奉じた。 鏡の一つは天照大神の御霊代でこれを天懸大神、他の鏡の一つは天照大神の前御霊で、これを国懸大神と言う。 今紀伊国名草宮にいます神である。 残る一つの鏡と子鈴は天皇の御餞の神となり、大神に奉仕した。これが巻向の穴師の社の大神である。」 との伝承を紹介しましたが、日前国懸神宮と穴師兵主神社とで、天孫降臨の際の神鏡などをこの二社で分けています。ただならぬ関係と言うべきでしょう。

 天日矛命は出石神社、生石神社などの名前の神社に多く祀られています。秋のハイキングにはうってつけの有田郡の生石山付近にも生石神社があるのですが、天日矛命の伝承は承知していません。

 垂仁天皇の次の天皇は景行天皇です。有名な日本武尊のお父さんということになっています。 『日本書紀』では景行天皇三年の記事に紀の国に関わる興味深い記事が見えます。 「紀伊の国に行幸されて、諸々の神祇をお祭りしようとなされたが、占ってみると吉と出なかった。そこで、自らの行幸を中止されて、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を遣わして祭らせた。 屋主忍男武雄心命は阿備の柏原にいて、神祇を祀った。そこに九年住まれた。紀直の先祖莵道彦(うじひこ)の女影比売(かげひめ)を娶って、武内宿禰(たけのうちのすくね)を生ませた。 (『全現代語訳日本書紀』宇治谷孟 講談社)屋主忍男武雄心命は推測ですが、孝元天皇の子の比古布都押の信の命の子ではないかと思われます。

 さて、景行天皇が紀伊国に行幸されるとこと吉ではなかったのかが問題です。
 景行天皇は剣千口を奉献した五十瓊敷入彦命とともに垂仁天皇の子とされていますが、この王朝の特徴であった名前の中に「五十」「入」が入っているのではなく、 大足彦(おほたらしひこ)と言います。別系統の王のようです。「名草の神々ー47ー」で述べましたように、崇神天皇は木の国の造の荒河刀弁の娘の遠津年魚目目微比売を娶っています。 木の国も参加した連合政権的な王朝であったのでしょう。その王朝の流れを切り、新たに大王となった景行天皇としては、自ら紀の国に足を踏み入れることは吉ではなかったと言うことです。 このように思わせて、景行天皇に近い存在の屋主忍男武雄心命を紀の国に派遣する形を作っています。これは武内宿禰の誕生の地を和歌山としておきたいとする『日本書紀』の編纂に当たった紀清人らの構想であったのでしょう。 「名草の神々45」で、武内宿禰の誕生の地は九州であるのではとの仮説を提出いたしました。母親の山下影媛を祀る神社が九州にはあっても、和歌山には見えないことを示しました。

 さて、景行天皇が各地を征服していく話が『日本書紀』に出てきます。地名を見ていきますと、周芳(防府)から始まって、九州の東海岸を豊前市、宇佐市、大分市、別府市と南下し、宮崎県延岡市から西に転じ、熊本県八代市から有明海の東側を北上して、八女市で終了しています。
 とにもかくにも景行天皇が九州の中部、南部を従える話がきめ細かく記載されているのは、景行天皇にまつわる伝承は北部九州の王であったことを物語っているように思われます。
 景行天皇の時代、皇子の日本武尊の東国征伐などの物語がありますが、これは幾多の統一物語をここに集約したものでしょう。

 神奈備流で景行天皇を祀る神社数を記しておきます。
 九州 48社 ( 鹿児島 0、熊本 19 )
 近畿  4社 ( 和歌山 0,滋賀  2 )
 その他の地域では愛知県が4社が目立つ程度です。これから考えても、景行天皇は九州の王であったと言えます。 

****** 第一部 完 ******


【掲示板】 TITLE: 名草の神々−55− setoh H13.10.4

 伊太祁曽三神の遷座の話が続きました。「名草の神々」の見せ場です。次ぎに三神分遷の話です。これは明らかに大寶二(702)年、文武天皇の頃の話です。 伊太祁曽神社の遷座と分遷の話は一体で考えるべきことだとの認識ですから、垂仁天皇の所ですが、ここで書きたいと思います。

 何故、分遷を命じられたか、と言うことです。分遷とはどのような意味があるのか、現代の神道の考え方では、合祀されている神(御霊)を分祀しても、元の場所にも御霊が残る、 丁度蝋燭の火をもう一本の蝋燭に移しても、元の火は消えないことと同じ様なものとの説明が、靖国神社の報道の中で行われていました。この理屈から言えば分遷は成り立たないはずです。 恐らく、出された分遷命令は、神社に仕える人々、また氏子の人々の強制移住をともなっているはずです。 なぜならば、分遷の命令は伊太祁曽神社の力を弱める為に行われたとしか考えられないからです。
 前回までに述べてきたように、先ず、山東へ遷座さされています。鎮座地は現在の伊太祁曽神社の東500m位の亥の森と言われる円形の鎮守の森です。 戦後周辺は相当農地になったそうですが、丸い鎮守の杜、今なお縄文の心を感じます。丸は平等の印です。亥の森社は三生(ミブ)神社と呼ばれます。 何故ミブなのでしょう。かって根来寺を興した覺鑁上人が奥宮とした丹生神社には三部明神との名で伊太祁曽三神が祭られています。 もう一つはミブとは壬生ではないか、即ち丹生ではなかったか、と考えています。丹生神は古い水神・金属(銅・水銀)です。亥の森には元々水神が祭られていた上に伊太祁曽三神が覆い被さったのではないか、と 思われます。

 ここに三神が祀られていました。そうしてそれぞれ分遷していったのです。
大屋毘古神・五十猛命は伊太祁曽神社。
大屋都姫神は紀の川北岸の北野村古宮の地に遷りました。後に、現在地の今の宇田森神ノ木の地に遷ったと伝わります。
抓津比売命は矢田峠を越えた和佐に遷座したものと思われます。妻御前社は高積神社に吸収されていますが、高積神社の主祭神は都麻津姫命となっています。 なお、抓津比売命の遷座の候補地として、伊太祁曽神社の北方500mに都麻津姫神社が鎮座ししおり、ここであるとされる方がいますが、この近さでは、神人、氏子の強制移住とはなりません。 意味をなさないのです。山を越え、川を越えさせてこそ、分遷の意味が出てきます。

 遷座と分遷のタイミングの問題について考えて見たいと思います。
 一体誰が「分遷」を画策したのでしょうか。
 最も考えられるのは、紀の国の国造であった紀氏(紀直)です。伊太祁曽神を山東の地に遷座させても、その勢いは衰えることなく、逆に日前国懸の神々への崇敬は広がらなかったのでしょう。 神権政治・祭政一致の政治の時代、紀氏としては統治上、日前国懸の神々の権威が紀の国で確固たる存在になって暮れなければ具合が悪かったのです。 しかしながら、前からあった伊太祁曽神への崇敬の方がより大きかったのでしょう。 牟婁の湯に天皇も来ます。それ以外にも皇子達や貴族・万葉歌人が訪れることが多い紀の国名草でした。紀氏としては面子を失いかねない状態だったのでしょう。 ついに、伊太祁曽三神を分割して、神人社人をも分割することにしたのです。
 伊太祁曽神は紀氏の祖神でもありました。祖神に対してその力を弱める決断は紀氏としては本来は辛かったものと思いますが、おそらく遷座させた紀氏から幾世代かたっており、 「去るものは日々に疎し。」で、子孫達はあまり気にしなかったのでしょう。二世代五〇年は経ていたのかも知れません。
 亥の森(三生神社)から、それぞれ分遷しました。その跡にも祠が鎮座しています。何故か南向きです。 所が伊太祁曽神社の本殿は東向きです。不思議な話です。
 亥の森にはやはり南向きの祠があり、その上に伊太祁曽三神がかぶさって祀られたのです。 山東の人々も紀の国の大神を喜んで迎えたことでしょう。 三神の勢いがあまりにも強く、以前から祀られていた水神は三神の中に取り込まれてしまって、その名は消えてしまったのですが、山東平野の乏しい水源である和田川の水を保証してくれる水神様を忘れることはなく、 残された祠を通じて和田川の女神を祈り続けたのでしょう。だから南向きの祠が残されたのです。神の名は丹生神、神社の名にミブとして残ったのです。
 分遷命令の五〇年前以上、即ち大化の改新や有馬皇子の変の頃に遷座があったのではなかろうか、と思っています。 さて、本州最南端の祭祀遺跡から語れることの分を遙かに越えてしまった想像の世界に入ってしまいました。


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