青草掲示板ログ平十四年十二月 2002.12 |
[585] 鳥見山傳称地私考(要旨)13 最終 神奈備 | 2002/12/30(Mon) 12:13 [Reply] |
kokoroさん 「大先生」はこらえて頂いて、今年は八ツ岩などありがとうございました。 第七章 結論 一、要するに石上神宮の鎮魂祈祷祝詞に「鳥見山」とあり、同十種祓詞にも「桃尾山」と記しトミノヤマと仮名付けし大和名所図絵にも「桃尾山:トウビサン」となし布留神社略記(寛保二年)には「虚見ノ地:トミノチ」とあり、更に布留社記に「桃尾の御前社」と記し、「太宇部能語牟膳牟」と読むとなし、これは鳥見山の麓なれば「鳥見の広前」といふ意味であり、この村を熊橋(カケハシ)村といひ、梯村とも書き鳥見山に登るキザハシの村といふ意味に思はれる。山腹にあった龍福寺の寺伝に鳥見氏(現在士族)のあったこと「布留小野」といふ小名があり古歌(拾玉集)が残っていることが大和名所図絵(寛政三年)に記されていること等により今の布留から瀧本の辺を指していること、針尾村は榛原の訛であること、榛(ハリ)は萩(ハリ)に同じ(木村博士の説による)萩が針と書くこと(播磨古風土記)、磐境の現存すること、磐境は古代の神祇鎮祭の形式であること、土俗方面から見てもこの山が神聖視されて来たこと、伝説から考えてもこの山一帯は石上神宮に深い関係のあること(八ツ岩と出雲建雄神社)、石上神宮は饒速日命に関係あること(祝詞)、饒速日命は姓氏録によりその裔は鳥見姓なること、石上神宮の禁足地は霊畤の形式をそなえていたこと(石上神宮旧記)義淵、行基の開基といふ龍福寺に十二所権現社あり、天神七代地神五代を祀ってあったこと。 二、鳥見山の口碑は古くからあったこと、この研究を系統的にはじめたのは明治中期からで越智敏?、西川純一、堀川慶造氏等でその結果は山辺郡教育委員会編纂の山辺郡誌に記され、その後「東洋考古」「丹波市町概要」に発表されたこと、郡誌の一節を掲げてこの章の文を結ぶ。 『因に鳥見山は即ち此処なりと云ふ説あり 其の説に曰く 桃尾は鳥見の訛にして針尾は榛原の転化なり 而して桃尾山の鎮守は十二所権現即ち天神七代地神五代を祭り 鎮守の鳥とて鳥は一の名物なるのみならず桃尾山姓は鳥見氏なればなり 如何にや鳥見氏今に存す』 ー 完 ー 谷川健一『青銅の神の足跡』 小学館ライブラリー の248ページ に鳥見山傳称地私考を記した乾健治氏は谷川健一氏に八ツ岩の件の話をされた内容が記載されています。 |
[584] 今年もお世話になりました。 kokoro [Mail] | 2002/12/30(Mon) 01:20 [Reply] |
神奈備大先生、今年もお世話になりました。よいお年をお迎え下さい。 来年もよろしくお願いします。 |
[583] 「たまらん」は魂・ある・A - NU 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] | 2002/12/29(Sun) 22:30 [Reply] |
まちがえました。神奈備カキコNO3816を訂正させてもらいます。 大阪弁のアカンは「悪・A - NU 」としたら「良い」にしかなりまへん。 この場合の「アン」は地球規模の広がりをみせる AN(ある)でないとおかしいです。 「たまらん」というのは「魂・ある・A - NU 」の造語法。 のっけから「ない」と言わないで、かなりの言語は「ある.ない」で「ない」を表現 します。 そんなことが絡んできて、ついつい間違えました。 ベトナム語で“悪”は AC 。 |
[582] 鳥見山傳称地私考(要旨)12 神奈備 | 2002/12/29(Sun) 18:13 [Reply] |
第六章 石上神宮との関係 一、由緒 丹波市町大字布留に鎮座する石上神宮は明示四年五月官幣大社に列せられた。御祭神は布都御魂大神、配祀として布留御魂大神、布都斯魂大神、五十瓊敷命、宇摩志麻治命、白河天皇、市川臣の六柱である。由緒の概要は神武天皇御東遷の際、紀伊国熊野において皇軍難に遭ひ給うた。此時天照大神の大詔によって武甕槌神のもたらせる神劔「フ[音師]霊」を授けて大捷し給うた。即ちこのフツノミタマを奉斎して我が建国の巧神武天皇の守護神である。饒速日命は十種瑞宝(瀛津鏡、辺津鏡、八握劔、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼の十種 病気平癒、健康長寿の守護神である)を天照大神に授り給うて天磐船に乗り河内哮峯に降り大和の鳥見の白庭山に遷り長髄彦の妹を娶り宇麻志麻治命を生み給ふ。饒速日命は天皇に帰順し十種瑞宝を献上し、崇神天皇五年伊香色雄命は勅によって十種瑞宝とフツノミタマ劔を石上邑布留高庭に祀らる。これ布留大社である。もと神殿なく禁足地に霊劔を封埋せられていたが明示七年教部省に請い発掘し神劔フツノミタマを得て神体とされた。 石上神宮が何故この地に建てられしか、それは鳥見霊畤伝承地との関係によるものと推察するのである。 二、『饒速日命は天孫瓊々杵尊の皇兄たる火明命の一名で天孫の日向降臨の後にも尚ほ大和に留まり其の御子に天香久山命がおり、天香久山命の裔に尾張連があって並に大和に居られたのであるが、長髄彦の奉ずる所の饒速日命が天孫の皇兄たる火明命は年代に相違があるから恐らく火明命の数世の孫たる同名の饒速日命でなければならない。若し或いは火明命であるならば非常たる長寿の方であったと申さねばならぬ。何れにしても皇統の金枝玉葉たるは勿論であるが此の饒速日命は長髄彦の妹たる三炊媛一名に鳥見屋媛また一名長髄媛を娶り給ひて可美真手命を生まれたのであるから爾来長髄彦は外戚の権を専たして威を大和に振ひ其の居を生駒山の東麓に占めて勢頗る強盛であった。』(日本民族論:中村徳五郎著) 旧事記に云ふ「饒速日尊従河内川上上哮峯、遷座於大和国鳥見白庭山、住娶長髄彦妹」 布留神社記「神武天皇時、饒速日命之孫宇麻志間兒命殺外舅長髄彦而帰服、天皇美其大勲賜神劔号豊布津?劔在大和石上」 三、摂社出雲建雄神社の由緒は鳥見山の一部たる八ツ岩、日の谷の伝説にその起源を発していることは石上神宮の古文書に明らかである。 |
[581] 呱々の声・KHU紋字式古代語探索法 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] | 2002/12/28(Sat) 09:12 [Reply] |
KHU紋字式はクモンジシキと発音します。 KHU は席亭が1年ほどまえに教えてくれたペルシャ語起源の「良い」という意味をこめ、 ネパール語での KHU(悪い)を懸け言葉させています。 神奈備掲示板では、この方法でいけば「改めてハングル文字は覚える必要はない」と書き ましたが、ハングル文字をおおえれば朝鮮語二漢字一覧表は作る必要はなくなります。なぜ なら紹介した『朝鮮語小辞典』の巻末には「日本語→朝鮮語」がひけるように利便を計って くれてなっているからです。でも、これではボリュームが少し足りないような気もします。 「ハングル文字を覚えるのは、30分もあればいい」と、よくいわれています。 清音で発音するのか濁音で発音するのかがワカランことが多いのですが、それだけに「第 二子音濁化のクセ」とか語頭拗音を持つ朝鮮語のクセに注意を払わざるをえなくなって、そ の分だけ原音把握のセンスがおのずと磨かれます。 もう、既得知識の日本語変化態の中だけで、語彙の意味把握にもがくことはやめましょう。 クモンジをやってみてもワカラン場合、初めて「ワカランの座」が確定するのです。 それでも尚、中央ユーラシア語やペルシャ語、アラビヤ語が控えています。絶望は早やすぎます。 |
[580] 神奈備から勝手ワープ。 習志野のてつ [Mail] | 2002/12/26(Thu) 01:27 [Reply] |
苗(miao) さん、こんばんわ 神奈備[3809] [3812] から勝手にワープ。 > ダウザーが山中で自然を利用して使う枝は三つ又 私の知る限り、L字形、別名くの字形、を二つ使うのかな?と思ってました。 二つを両手に持って、両方が差し示す交点に、何物かが存在すると。 「ダウザーの三つ又」について、教えて下さい。 |
[579] Re[578]: 異様なもの ユアン [Mail] | 2002/12/25(Wed) 00:26 [Reply] |
>玄松子さん > もし、富士山がエベレストの隣りに聳えていたら、単なる丘としか見られないかも。 > もし、屋久杉がアマゾンのジャングルに育っても、普通の木にしか見えないかも。 > もし、田舎の老人が宇宙人に遭遇したら、手を合わせるかも。 見事な三段オチです!(笑) 何かを神聖視するという行為の根本には環境の影響大ですね。 そもそも社会集団がなければ特定の人物を神聖視するということはなかったでしょう。 もともと穢れは不浄の行為をなしたり不浄のモノに触れて ヒトに災いとして降りかかるモノでした。 だから穢れは定期的に祓わなければなりません。それの古い形がサニツなどの磯遊びです。 それがしだいに特定のモノに穢れを集めて、それを隔離するという手法がとられ始めました。 カタシロなどもそうですが、いきた人間をカタシロにする事もありました。 そのもっとも古い形が持衰ではないかと思います。 それは共同体内に必ず一つは必要だったと思います。 村八分というシステムも、共同体内のカタシロとして機能していたのではないでしょうか。 それらカタシロは、必ずしもさげずまれたのではなく、隔離する必要があるコトから おそらく必然的に共同体の中で孤立した立場をとらされるのです。 …なんかキリスト教っぽい考え方かも。贖罪思想? |
[578] 異様なもの 玄松子 | 2002/12/24(Tue) 00:51 [Reply] |
もし、富士山がエベレストの隣りに聳えていたら、単なる丘としか見られないかも。 もし、屋久杉がアマゾンのジャングルに育っても、普通の木にしか見えないかも。 もし、田舎の老人が宇宙人に遭遇したら、手を合わせるかも。 人は、周囲のものとは違う、異様なものに「聖性」を見るのかもしれません。 そういう意味で、不具にも「聖性」を見るのかもしれません。 異様だから、理解を超えた存在だから。 「神業」「神の如き」とは、名人・達人に用いる形容詞ですが、彼らも異様。 |
[577] ・・・〓■●ポテッ ユアン [Mail] | 2002/12/23(Mon) 23:47 [Reply] |
玄松子さんのたたみかけるような反論に、ぐうの音も出ません! うー、めっちゃ悔しいよう…。 確かに賎民すべてに聖性が有ると云う説には無理がありそうですね。 けどまだ「聖痕」の問題には希望が持てそう。 奇形は聖なる者とされるか忌むべきモノとされるか二通りの反応がありますが、 忌む心の内には畏怖の念も有ったのでは?と思います。 得体の知れぬチカラを持つものは聖なる者と解釈することは出来ませんか? モノノケも神も根は同質のものだとは考えられませんかねえ…。 うーん…まだ反証としては甘いですなあ…(笑) 仇やおろそかに「聖性」などという言葉を使って居ては 混乱のもととなりかねませんね。解釈し難い言葉でした。 >神奈備さん ユアン、物部氏と蘇我氏を取り違えてました! うひゃー!ハズかしー! どうか、ユアンの事をどうしようもないおばか野郎と思わないでやって下さいね? どちらかというとほぼ「お馬鹿娘」ではありますが…(笑)午年だし(笑)じゃじゃ馬だし?(笑) |
[576] Re[572][555]: ニワトリの足跡 かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/23(Mon) 23:36 [Reply] |
ZOUさん、こんにちは。 一ノ矢八坂神社の伝承ありがとうございます。 面白いですね。 スサノオが太陽を射落としたと解するなら・・ アマテラス族を次々に射落としたので最後のアマテラスが岩戸に隠れて世界が真っ暗になってしまった(^^; 天の岩戸神話はそのまま射日神話に乗ってしまうなあ。 甲、乙、ム、の文字を書くところもあるようですが、これは鬼をばらばらにしたぞってことかな。 いろいろ変形してゆくらしきパターンも面白いです。 関東は海洋系らしきもの(九州→熊野→)と内陸系らしきもの(諏訪系?、蝦夷系?)が錯綜する地域のように感じています(特に弥生末期〜古墳時代に)。 オビシャ神事の分布を知りたいところですが容易ではなさそうですね。 |
[575] Re[571]: 穢れと聖性 かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/23(Mon) 23:28 [Reply] |
習志野のてつさん ≫=神の思し召しに近い行動をする。」だったと思います ユアンさん ≫ハリジャンは各地を放浪し、不具のある子が生れるとそれをなんらかの力で察知し、 ≫自らの集団に迎えるために赴くそうです。 相互扶助組織が伝承化したのではないかなあ。 そういった共同体に施政者がなんらかの特権を与えることもあると思います。 不具に聖なる、が接続していた場合・・心理的誘導によって一般人の支援が得やすい状況が作られたから、これもありえると思います。 (なお、聖なるというイメージが唯一絶対ではない日本の自然神ないし祖先神にあるのかどうか) 話がずれますが、イスラムの一夫多妻は戦で夫を失った婦女子を救済するためにマホメットがゆとりある者にその保護を指示したことがはじまりです。 穢れとはなにか。 いやだなと思わせるもの、その原因になるものがケガレだと思います。 死体を扱う、ケガレの代表かもしれません。 動物を屠殺するところを見る、たいていはいやですね。 ではその結果の肉をみることをいやがる人がいるでしょうか。 屠殺者がケガレを引き受けることで肉は浄化されていると感じているのでしょうか。 いたって主観的なものだと思っています。 その反対がいわゆるハレ、うれしいと思わせるもの。 こちらには生まれ変わりの意識も含まれそうです。 なんらかの方法でケガレを払い落としてハレに変える、もしケガレに生まれ変わりのイメージが見えるならこのあたりにあるのかも。 大地母や豊穣を女性に見るにもかかわらず、女性の生理や出産に対してケガレの意識があると思います。 おそらくは血だと思います。 しかし生まれた子にケガレなどない。ハレだと思います。 表裏一体ともいえるのかもしれません。 |
[574] Re[571]: 穢れと聖性 玄松子 | 2002/12/23(Mon) 16:36 [Reply] |
> 中性の芸能民の流れは、そうした穢れと聖との要素が多々ありました。 > 共同体の外のモノたちは、諸国を流浪して「マレビト」の地位を得ます。 > 古い時代においては、渡来人の職能集団が下賎のモノとされて使役民となります。 確かに、中世の芸能民の中には、巫女や神に仕えるものもあり、「聖性」と見れないこともありませんが、 彼らの全てが「聖」なる存在ではないのではないでしょうか。 たとえば、河原者と呼ばれる人々は、なめし革の製造を生業としました。 革製品は、武具の材料として、当時の社会では、なくてはならないものですが、 たとえ動物でも、死体から革を剥ぎ、なめす作業は穢れとされ、 一般民が従事することを忌んだので、河原に住む下層民(いまでいえばホームレス)が行いました。 彼らは、身分制度の外の存在でしたが、彼らに聖性はありません。 また、彼らは土木作業に借り出され、建築や作庭に従事し、 なかには棟梁となり、枯山水など、著名な寺院の庭を完成させますが、 彼らは歴史に名を残していませんし、聖なるものではありませんでした。 一部は、諸国放浪のよすがとして、曲芸や芸能を見せ、奇形を売り物としますが、 申楽を発展させ芸術にまで昇華させるものも登場します。 でも、聖なるものではありません。 仏などの聖なる存在は、その姿かたちが、一般と異なるというのは、ありえる話ですが、不具=聖、穢れ=聖と見るのは、ちょっと疑問です。 |
[573] Re[571]: 穢れと聖性 神奈備 | 2002/12/22(Sun) 09:44 [Reply] |
物部神道については詳しくはありませんが、天台開祖の最澄がからんでいたように記憶していますが、間違っていたらご免なさい。で、土佐の村とは直接は関係していないように思われますが定かではありません。 また、物部氏を排仏と決めつける必要はなく、お寺も造っていたようですが、一応蘇我氏が仏教派、物部氏を排仏派と『日本書紀』などには記載されています。 > ユアン的には、「生まれ変わり」の概念が先にあって、そこから「穢れ落とし」の概念が派生したのではないかと思うのですが。 ソロバンの「ご破算に願いまして・・」は祓い、それから再度計算にかかります。祓うのは生まれ変わりの為と言うことは理解できます。 人形(ひとかた)に罪穢れをつけるのは祓いで、この穢れを佐須良比メが背負ってさすらう事で浄めが出来ると言う筋書きになっています。 再生の為の祓い → 女神のさすらい → 浄め の流れ。前の→の取り持ちは神職、後の→は神様のお仕事、さすらい姫の行き着く先はやはり海。 |
[572] Re[555]: ニワトリの足跡 ZOU [Mail] | 2002/12/22(Sun) 02:16 [Reply] |
かたばみさんはじめまして。 私もオビシャ神事にちょっと興味があったのでおじゃまいたします。 かたばみさん>もっとも的の裏に鬼と書くのもあるようで、 奈良の大和神社のそばの素戔鳴神社にこの神事が残ってまして、ここでは「将軍祭」と呼ばれます。http://www1.kcn.ne.jp/~rascals/shikinokuni/mato.jpg 豊作祈願の意味の祭りだそうです。 三足烏ならぬ八咫烏に矢を向けたのはエシキやエウカシでした。あと、三本足の悪烏を射た勇士の話がのりちゃんちに掲載されていて、興味深く読ませていただきました。http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto/ichinoyayasaka.htm 烏嫌いな人も多かったんですねぇ(^_^;) |
[571] 穢れと聖性 ユアン [Mail] | 2002/12/22(Sun) 01:12 [Reply] |
えーと、穢れと聖性の問題に関しては、ユアンもまだ論を煮詰めきれてないので 異論、反論等多々あるのは当然の結果でしたかね。 ちょっと補足しておきますね。 ユアンのいう「穢れ」とは、奇形、盲目、カラダの一部の欠損などのいわゆる 不具を含み、さらに「聖痕」と呼ばれるしるしのあるモノや、罪を犯したモノや 人格的に社会不適合なモノまで含みます。 そして「聖性」とは、「神」とまではいかずとも、運気の強いもの、幸を運ぶもの、 豪傑、英雄、または芸能や職人技など、共同体内にない能力を有しているものなどを 差すモノとします。 中性の芸能民の流れは、そうした穢れと聖との要素が多々ありました。 共同体の外のモノたちは、諸国を流浪して「マレビト」の地位を得ます。 古い時代においては、渡来人の職能集団が下賎のモノとされて使役民となります。 それがいずれ河童や鬼などと同一視されてゆきます。 つまり、「穢れ」と「聖」と言うよりは、「被差別民」と「技能」というふうに とらえ直すと理解し易いかもしれません。本来技能は尊敬の対象です。 >かたばみさん >汚れを落として元に戻るの意と、脱皮して成長するではちょっと違いますね。 ユアン的には、「生まれ変わり」の概念が先にあって、そこから「穢れ落とし」の概念が 派生したのではないかと思うのですが。 海幸山幸の神話からも、産屋を海の近くに作るコトから「誕生」と「海」は 深く結びついているモノと認識されていたと読みとるコトができるような気がします。 「穢れ落とし」としての禊は、その古来の信仰の一部をのこすものだとは 考えられないでしょうかねえ。 >神奈備さん >物部神道では蛭子は大日霊子貴尊だそうです。 すごーい、コレならヒルメに対するヒルコと素直に認識できますね。 ところでこの物部とは「物部村伊弉諾流」のコトですか?それとも古代の物部氏の 信仰ですか?あるいは全然別のモノ?物部氏って仏教支持派でしたよねえ? >習志野のてつさん >北インド・パキスタンを舞台にした小説で、足が曲がり、背中も 曲がった不具者が、一般人よりも神に近い者として描かれていました。 これは「ハリジャン」と呼ばれるカースト外のヒトタチですね。 ハリジャンは各地を放浪し、不具のある子が生れるとそれをなんらかの力で察知し、 自らの集団に迎えるために赴くそうです。 ユアンの考えでは、コレもまたカースト外という外部の存在であるが故に 聖性を獲得したモノと考えます。 |
[570] Re[569][568] 習志野のてつ [Mail] | 2002/12/21(Sat) 14:42 [Reply] |
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…物部神道では蛭子は大日霊子貴尊だそうです。・・・ これは面白いですね。初めて聞きましたが、ありえますね。 ◎蛭子は長子だから、外へ出て行った説。すばらしい新仮説ですね。 > 海月なすような蛭子には天地開闢の原始がにあう最高の神様だったのかも。 > 古代の豪族の相続では…所謂末子相続はこの辺りの実用上の工夫かも。 長子は出て行き、父の援助で自分の国を作ることができる。末子はそれが できないので、父のものを譲る、と考えられています。 古来遊牧・狩猟民の風習で、初期大王家は、代々末子相続。騎馬民族説の 一つの根拠だったのでは? ◎「末子相続」であれば、スサノウが後継者です。ただし 女系末子相続なら、アマテラスが、後を継ぐことになる。 高天原で争うのは、この両者で、ツキヨミは、無関係。 > かたばみさん> 障害がある=聖なる、にはならないと思います。 > 基本的に同感です。 私も同感です。ただ = ではないが、近いものとの考えは有ったのでは? 以前読んだ北インド・パキスタンを舞台にした小説で、足が曲がり、背中も 曲がった不具者が、一般人よりも神に近い者として描かれていました。 当然アッラーの神にですが。「生まれつきの不具者は、自己主張がしにくい =神の思し召しに近い行動をする。」だったと思います。 > ・・・江戸崎町のオビシャでは的に3本足のカラスと兎を描いています。 これは正に太陽と月ですね。八千代市は習志野市に隣接してます。 江戸崎もほとんど千葉県です。千葉の「オビシャ」は、「御歩射」 (オブシャ)のなまったもの、と考えていましたが、「御日射」説は 有力な説ですね。 > なぜニワ・トリというのだろう。 > 二羽の鳥?庭の鳥? 庭の鳥ではないでしょうか?最近のテレビ番組(サバイバー)で 野生化した鶏がでました。人に追いかけられて、捕まってました。 鳥類の中で大型で、余り飛ばなかったので、庭鳥? |
[569] Re[567][556][554][544][542][533]: 海人のロマン 神奈備 | 2002/12/21(Sat) 12:44 [Reply] |
今東光著『毒舌日本史』によりますと、物部神道では蛭子は大日霊子貴尊だそうです。蛭子と漢字を当てはめてしまったから、声をかけた順番などの儒教的物語が出来たとも考えられます。 また 海月なすような蛭子には天地開闢の原始がにあう最高の神様だったのかも。 船に乗って常世へ行く、神武天皇の二、三番目の兄弟達もそうですが、長男の五瀬命は戦いで敗死していますが、古代の豪族の相続では長子は戦いにおもむき戦死するケースが多かったはずで、所謂末子相続はこの辺りの実用上の工夫かも。 かたばみさん> 障害がある=聖なる、にはならないと思います。 基本的に同感です。 教派神道の開祖は別に障害者ではなかった。「神の声を聞くことが出来る。」は障害ではなかった。 > Re:無題 阿蘇の一宮町の国造神社の摂社に鯰社があります。大鯰の靈を祭っていますね。地震封じでしょうか。 熊本県上益城郡嘉島町鯰に鯰三神社があります。 |
[568] Re[564][563][555]: ニワトリの足跡 かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/21(Sat) 11:33 [Reply] |
≫「動物(けもの)はダメだけれど、鳥肉は食べても良い。」と云うことでは? 獣と鳥は違うという感覚はありそうですね。 インドのジャイナ教では植物の根すら食べてはいけないそうです。 植物が復活できなくなる→殺すことになるからです。 どこにラインを引くか、鳥はOKというのはほとんど形式だけになった肉食禁止の面影かな。 なぜニワ・トリというのだろう。 二羽の鳥?庭の鳥? 太陽が複数あって暑い時代があったという神話は世界中にあるようです。 アフリカの月誕生神話は 二つの太陽があって人々が暑がっているのを知った一方の太陽がもうひとつの太陽を水浴びに誘って、川に飛び込む真似をした。 もうひとつの太陽はそれをみて川に飛び込んだのでジュジューッ、火が消えて月になった。 太陽を射落とす射日神話は東南アジアや中国に広範囲にありますが、メラネシアやポリネシアにはないようです。 日本にも射日神話はないですが、オビシャ神事(弓で的を射る神事)が各地にあります。 茨城県江戸崎町のオビシャでは的に3本足のカラスと兎を描いています。 http://www5d.biglobe.ne.jp/~noujin/top_page.htm 千葉県八千代市でも2本足ですがカラスを描いてる。 3本足のカラスの原産地は中国、太陽の中に住む鳥を射るとするなら、オビシャ神事は射日神話の流れを汲んでいる可能性が高いです(兎は月でしょう)。 和歌山県串本町のオビシャ神事では射た的に石を投げたり、矢がはずれた的を押し倒して壊してしまう「的壊し」が付帯するようです。 的を壊す、これも射日神話の変形とみることができます。 苗族では新年に射日神話を語るのが伝統になっているのだそうで、これはオビシャが新年におこなわれるのと共通。 オビシャ神事は年占神事ではなく、太陽の更新、生まれ変わりを願う神事だと思います。 もっとも的の裏に鬼と書くのもあるようで、これはお祓いの意識が混じり合ったものか。 オビシャの語源はわからないようですが、「御日射」ならずばり。 |
[567] Re[556][554][544][542][533]: 海人のロマン かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/21(Sat) 11:24 [Reply] |
なかなかむずかしい問題になりそうですが、生まれ変わるといっても、汚れを落として元に戻るの意と、脱皮して成長するではちょっと違いますね。 伊弉冉尊のミソギは穢れを落として元に戻るもの(政治家がよく使うミソギも同じ(^^;)。 船に乗せて流すのは成長、脱皮を願う方。 古いものを脱ぎ捨てる、の感覚が双方に共通するのですが、新品同様と新品の違いがあるわけです(^^; 伊弉諾尊のミソギによって生じた神々、とは脱ぎ捨てたものから新しい神々が生まれた、と解釈できます。 ここには脱皮と生まれ変わりに近いものがある。 また、これ以前では夫婦神であったのが独り神に変わる、新しい概念がここから導入されているとみえます。 森あるいは農耕の民であれば水≒浄化の意識は普遍的にあると思います。 海の民ならその根幹は海と船(むろん海にも浄化はあるはずです)。 水をもって浄化する意識と海と船による生まれ変わりの意識の双方が記紀編纂者にあったのではないかと思っています。 ひとつのことに両方が含まれていたのではなく、ふたつが合体している、というみなしです。 表現がなにかとやっかいですが・・ 岩波の書紀のヒルコの一書の註に沖縄では不具の子や発育の悪い子をビールーと呼ぶとあります。 障害がある=聖なる、にはならないと思います。 イタコのごとく障害ゆえに他の感覚がとぎすまされて常人にはできないことができるようになる、あるいは巫者に通じることもある、そこまでだと思うのです。 これ以上は観念化、信仰の世界だと思います(意図的に障害を作ることすら登場し得る)。 (沖縄ではユタですが、こちらは障害とは無関係) 魏志倭人伝の持衰も巫者のひとつと考えています。 女人を近づけずとあるから男性、巫者も巫に失敗すれば殺されることもあるわけで、命をかけた巫を必要とした時代ということでしょう。 (日本では事代主が男性巫者とみえますが現代ではゼロかな、韓国には若干残る) 人柱=贄 身内の者、同族のもの、もっとも大切なものゆえにそれを捧げることが最高(最強)の贄。 これらが重なり合い混じり合ってゆくと・・うーんどうなるのかなあ(^^; 日本文化のひとつの特徴に先鋭化し、削り落としてシンプル化する傾向があるように思います。 複合していたものがそういう段取りを踏んで変化するとなかなかやっかいそうです。 |
[566] Re[559][557]: 海人のユアン ユアン [Mail] | 2002/12/21(Sat) 00:06 [Reply] |
>玄松子さん > 蛭子的存在を、贄と混同するのはちょっと疑問。 そうですね、贄ではないですね。 贄ではなく、恵みをもたらすものとしての性質が強いと思います。 豊漁の先触れとか、航海安全を約束するとか。 その意味ではヒルコと持衰と水死体は同質ととらえることができると思います。 うーん?逆かな? ヒルコの持つ「恵み」の性質から、持衰の観念や、水死体などが豊漁の前触れだと いう観念がうまれたのかも…。 ユアン的には、ヒルコが忌み子として忌避されたという来歴が、 のちの不具者の聖性とつながりえたのだと思われまして、 そこから発展して「穢れ」の「聖性」を考える重要なキーワードと なりえるのではないか、などと考えています。 コレもまた逆かな…。 穢れ=聖という観念がなければヒルコは神聖視されなかったでしょうね。 このへんは考えると混乱してきます(笑) 是非皆さんのご意見をお聞きしたいですね。 |
[565] 無題 蛭子 | 2002/12/20(Fri) 12:15 [Reply] |
皆さんこんにちわ。「巴」はhttp://www1.sphere.ne.jp/enshoji/kamon1121.htmの「1つ巴」をみると「おたまじゃくしは蛙の子、鯰の孫ではないわいな」のおたまじゃくしか、鯰のようにみえます。「古代に海の彼方から渡来したデザインである」という方面から考えると 「巴人も淮南子では人面魚身無足の鯰に結び付けられているそうで、巴の首長は呉と同じ姫姓ですから鯰神の祭りは周の后稷に由来する」説の真偽を確かめたくなります。 粘液で覆われた鯰は、精液や男性器に結び付く子孫繁栄のシンボルで、且つ、豊穣をもたらすそうで、そういうご利益のある神社はないでしょうか? |
[564] Re[563][555]: ニワトリの足跡 習志野のてつ [Mail] | 2002/12/20(Fri) 01:13 [Reply] |
> 鶏肉をカシワと称するのは食べてはいけない人々の隠語が一般化したのでは > ないかと思ってます。 > 酒→般若湯と同じくです。鹿肉→モミジ、猪肉→山クジラなども同じくか。 成る程。十分に考えられますね。 ただ、兎を一羽、二羽とあえて数え、鳥呼ばわり。食べられる様にしました。 「動物(けもの)はダメだけれど、鳥肉は食べても良い。」と云うことでは? > 苗族の民話 太陽が九つもあって… 昔読んで、すごく感動した漢人の民話 聖帝・尭の時代、太陽が10個ありました。 太陽には金鶏又は烏が住む。つまり、太陽は三本足の鶏又は烏の精なのです。 何故三本か?陽だから。奇数なのです。陰であれば偶数。女神を祀る神社は、 原則偶数の千木を揚げます。 さて太陽は、朝に陽谷(ようこく)を出て、夕べに蒙谷(もうこく)に入る。 谷川で水を浴びてリフレッシュ。元気になって飛び出して来る。10個もあ る太陽が次々に天空に昇ると、地上は日が照り通し。暑くて草木も耐えられ ず、枯れ果てました。尭はこれに心を痛め、弓の名人・ゲイに、太陽を射落 とさせます。次から次へと、出てくる毎に、8個が射落とされ、残りは2個 となりました。次に昇ってきた太陽は、「今度射られるのは自分だ!」と青 ざめて、隠れようとしました。その結果今の月ができました。 確かゲイは、子供を殺されたことを無念に思った太陽達の母に呪われ、ひど い目に遭ったはずです。 |
[563] Re[555]: ニワトリの足跡 かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/19(Thu) 23:30 [Reply] |
縄文遺跡から鶏の骨がでていますが縄文時代の骨ではない可能性もあるようです。 弥生になると鶏らしき土製品が出土します。 福岡県下稗田遺跡(BC150頃)、福井県吉河遺跡(BC100頃)、奈良県唐古・鍵遺跡(AD100頃) 古墳時代になるとニワトリ埴輪と称されるものがでてきます。 675の天武天皇の詔で牛馬犬猿鶏の肉を食べることを禁じていますから、食べていたのでしょう。 延喜式では鶏二翼、卵10枚などを神饌に使っているようで、少なくとも神様は食べ続けていたとみえます(10枚ということは卵焼き?(^^;)。 このあたり仏教思想と旧来慣習との錯綜があるとみえます。 鶏は東南アジア原産、BC2000頃の縄文でも存在し得ると思いますが、農耕とともに鶏を飼いはじめたのかもしれない。でも飼う理由はなんだったのか。 苗族のニワトリ民話では、ひよこをつれた雌鳥が日がな一日村はずれで虫をついばんでいた、という出だしで始まる話があります。 雄鳥はどこに? 放し飼いでは卵をどこに生むかわからなくなりそう。 食べるとしてもなんらかの祭礼の時だけのような気がします。やっぱり目覚まし用なのかなあ。 古事談(1212)という平安貴族の様子を描いた本に「鶏子」の折り詰めがでてくるそうで、ゆで卵と解されるようです。 しかし鎌倉時代の仏教説話では卵を食べた人が報いを受ける話もあります。 仏教側からは盛んに禁止しようとしているといったところか。 一遍聖絵(1299)で屋根の上に雄鳥がいるそうですが、雌鳥はどこに? かごの鳥? その後、鶏や卵を食べる様子はみえず、1546のポルトガル人の記録でも雄と雌をつがいで飼うだけで養鶏といった状況はないようです。 そして江戸時代になると肉も卵もどんどん食べるようになるらしい。 鶏肉をカシワと称するのは食べてはいけない人々の隠語が一般化したのではないかと思ってます。 酒→般若湯と同じくです。鹿肉→モミジ、猪肉→山クジラなども同じくか。 苗族の民話 太陽が九つもあって暑くてしかたがなかったので、弓の名手が太陽を次々に射落としました。 末っ子の太陽はそれを見て山の陰に隠れたので、今度は世界が真っ暗になってしまいました。 困った人々は獅子に大声で太陽を呼ばせたけれどでてきません。 つぎに雄鳥に太陽を呼ばせましたが・・太陽:なんて汚い声の奴だ・・やはりでてきません。 そこで雄鳥は声を鍛えてからまた呼びました・・太陽:おやいい声じゃないか、誰が歌ってるのだ・・ 山陰から顔を出すとみんなが大喜びしてお礼をいうので太陽はまた毎日でてくることにしました。 寝坊しないように毎朝おれを呼んでおくれ、太陽は赤い着物の切れ端で雄鳥に帽子をつくってやったそうな。 チョンチョン |
[562] 無題 蛭子 | 2002/12/19(Thu) 18:48 [Reply] |
神奈備 さん 有難うございました。水の神は鯰だそうですが、巴は呉系楚の渡来人http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/zhuzhi23.htmという線は無関係でしょうか?もう少し調べてみます。 |
[561] Re[560]: 三つ巴 神奈備 | 2002/12/19(Thu) 14:14 [Reply] |
> 蛭子さん、こんにちわ。 > 三つ巴の「紋」は3匹のナマズだそうですが、よく神社の太鼓などで見かけます。 > 全体は、なにを表しているのでしょうか? 玄松子さんの下記のサイトをご参照下さい。 http://www.genbu.net/sinmon/index.htm ここの巴紋。 |
[560] 三つ巴 蛭子 | 2002/12/19(Thu) 11:39 [Reply] |
掲示板の主様、掲示板にご来訪の皆様、こんにちわ。 三つ巴の「紋」は3匹のナマズだそうですが、よく神社の太鼓などで見かけます。 全体は、なにを表しているのでしょうか? |
[559] Re[557]: 海人のユアン 玄松子 | 2002/12/19(Thu) 09:01 [Reply] |
>
蛭子と言う言葉に不具の意味があるのですか。どこの具合が不正常だったのでしょうかね。 日本書紀では、「足がたたない」と記されていますね。 蛭子の聖性は、それが貴種であることが大きいのではないかと思いますが。 貴種であるにもかかわらず、捨てられたという点が御霊信仰につながるのかもしれない。 蛭子的存在を、贄と混同するのはちょっと疑問。 |
[558] 海人のユアン(笑) ユアン [Mail] | 2002/12/19(Thu) 00:23 [Reply] |
>神奈備さん うーん、海人になりたい!と思いました(笑) >どこの具合が不正常だったのでしょうかね。 どうも骨のない軟体生物のような有様だったらしいですね。 クラゲを連想してしまいがちですが、中国の古い神話に見られる 「視肉」という骨のない生き物ともしかしたら似たようなものだったかもしれません。 そうすると常世からのミケとしてのエビスとつながります。 不具者の聖性については御伽草子からもその信仰がうかがえます。 古くは奈良時代以前、航海の際にともなった「持衰」こそが 「聖なる不具者」と見るコトができるのではないでしょうか。 もっとも、持衰は罪穢れを一身に背負うモノであり、身体的な不具を 有していたかどうかはさだかではありませんが。 ヒルメに対するヒルコの扱いが低いのは、まつろわぬ民海人族に対する 朝廷の悪意ある書き換えかもしれないなあと思います。 まあそのぶん親しみある神様にはなりましたけどね、エベッサン! |
[557] Re[556][554][544][542][533]: 海人のユアン 神奈備 | 2002/12/18(Wed) 21:13 [Reply] |
> ヒルコの場合はあの不完全さが「不具者の聖性」を具現ではないか。 > 海の力でむしろ聖性を磨くのではないかと 蛭子と言う言葉に不具の意味があるのですか。どこの具合が不正常だったのでしょうかね。 不具、より神に近い存在と考えられていますが、これは相当古い昔からのことのように思われます。共同体としてカバーするのは、動物の世界でもあったような。 所で、蛭子がもし聖性を磨いたのなら、神代に再登場しても不思議ではありません。未だ再登場がなされていなさそうで、ヘタをすれば新興宗教り神様として利用されるかも。 男神と見立てると、蛭子の女版は蛭女、即ち大蛭女、大日靈貴尊と最高の神様なんですね。 蛭子さんが恵比寿さんになったのでは何となく磨き足らないような・・・あ!えべっさんゴメン。 |
[556] Re[554][544][542][533]: 海人のロマン ユアン [Mail] | 2002/12/17(Tue) 23:46 [Reply] |
>かたばみさん > 水に流す、は浄めるの意が強いと思いますが、先の脱解の出自説話やヒルコを流すなど船に託して流す場合は、浄めるのではなく、海の力によって不完全なものからの脱皮、生まれ変わりを期待する行為ではないかと考えています。 そう!死と再生が禊の本質!ユアンは沖縄の「サニツ」という行事が 海に対する古い見方を残しているのではないかと思います。 でもヒルコの場合はあの不完全さが「不具者の聖性」を具現ではないか。 海の力でむしろ聖性を磨くのではないかと思われます。 |
[555] 唐土(トウド)の鳥 習志野のてつ [Mail] | 2002/12/17(Tue) 00:15 [Reply] |
一段落した鳥について、再度。 善知鳥(ウトウ)ならぬ唐土(トウド)の鳥 ♪七草なずな 唐土の鳥が 日本の土地へ 渡らぬさきに♪トントン ストトン♪ 七草粥をつくる時に唄う歌らしい。地域によって色々有るそうです。 「七草 なずな 唐土の鳥」この三つのワードをGoogle検索。なんと142件。 唐土の鳥とは、別名鬼車鳥と呼ばれ、疫病を運ぶ鳥とされたようです。 来年のことなので、鬼に笑われるかもしれないが、七草粥でも食べて、 ウトウド居眠りなどせずに、健康に過ごしたいですね。 鳥やカモノハシには、ABO型で分類できる物質は無いらしい。 食べるのに、血液型は無関係のような気がします。 人間も脳内物質には、それが除かれているとか。脳に入る直前に 関所でもあるのでしょうかね?それを作り出すDNAはあるはず なのに。 ちなみに私は猫が好きですが、猫の血液型はA型93%、AB型 5%、B型3%で、O型はないそうです。ただし調査によって、 異論も多いようです。 |
[554] Re[544][542][533]: 海人のロマン かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/16(Mon) 20:11 [Reply] |
≫流し雛って、穢れを海に流す意味合いがありますよね ≫穢れを祓うという概念自体、海人の文化がその源だと思います 形式としては中国の「曲水の宴」がみえますね。 周礼(戦国期の著作とみられる)にその原形が認められようですが、読破はできず未確認です(^^; 水に流す、は浄めるの意が強いと思いますが、先の脱解の出自説話やヒルコを流すなど船に託して流す場合は、浄めるのではなく、海の力によって不完全なものからの脱皮、生まれ変わりを期待する行為ではないかと考えています。 再生あるいは通過儀礼の一種でもあります。 古いものを捨てて新しいものになる、そのとき脱ぎ捨てた古いもの(≒不完全なもの)をどうするか・・ 「故郷」へ送り返す・・火を用いる場合もあるでしょう。 海人系であれば船を用いて不思議はないです(皇室の葬儀→御舟入)。 住吉へ送り返すのが淡島信仰だと思います(身につけていたものを送る≒形代→自分を送る)。 これらが水→浄めや曲水の宴の形式と重なって現在の流し雛になっているのではないか。 そんなように考えています。 虫送りのような農耕祭祀もなんらかの力で害のないものになってもらうのであって、殺虫ではない微妙な感覚があった、そう思っています。 |
[553] Re[543][542]: 海人のロマン かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/16(Mon) 20:08 [Reply] |
あるある大事典の記事の誤りでしょう。 ダダモ博士の血液型ダイエット/集英社を参考にしていると思われますが、B型は鶏肉を食べない方がよい、と明確です(自然医療の立場からの血液型と食品の関係を書いた本です) 血液型によってはトマトやピーナッツを食べてはいけないなどいろいろあり、その業界からもクレームくるかも(^^; お勧めの場合はいいけど、だめ、というのはやりにくいですね。 |
[544] Re[542][533]: 海人のロマン ユアン [Mail] | 2002/12/15(Sun) 03:07 [Reply] |
>かたばみさん、こんにちは☆ > 弥生あたりの半島南部と九州北部は同体だったと考えています。 それ、ユアンも賛成です☆ユアンの根拠はすっごい薄弱なんですけど、 韓国の言葉と福岡の方言って聞いたカンジがすごく似てるんですよ。 > 高句麗など半島北部では大陸の遊牧民や狩猟系になるのでしょうけど、半島南部では農耕型の人が多かったんじゃないかなあ。 そうですね、北の方は女真族かな?騎射に優れる民族だそうですが。 あるいはツングース系?…やばい、超知識あやふや。世界史選択のはずなのに…。 > サムゲタンも面白い歴史があるかもしれないですね。 サムゲタンは美味ですよね!ユアンもA型だからかな? でも鶏皮はキライー。軟骨もダメー。 > ≫うつろ舟なども興味深いサンプルですよね > 流し雛につながりそうな伝説ですね。 > 流し雛もこれも、なんとなく海人の漂流記憶が根底にあるんじゃないかと感じています。 流し雛って、穢れを海に流す意味合いがありますよね。 その意味では陸に上がった海人の習俗かも。 逆にヒルコの伝承に結びつけると、恵比寿信仰と素直にリンクするような気がします。 でも、穢れを祓うという概念自体、海人の文化がその源だと思います。 或は貴種流離譚とすると今度は海人の属性が抜け落ちる気がします。 流し雛の意味をかたばみさんはどうお考えですか? >神奈備さん >天の岩戸をして夜明けの盤と・・・・ ということは?この歌の意味は天の岩戸で鶴と亀が滑るという、 なにやら不穏な意味になりますね?でも意味は納得できます。意味深な解釈ですね。 >玄松子さん >いつ? という問いに対して、夜明けの晩という答えは、「おとといきやがれ」的回答。 >つまり、未来永劫出られない囚われの身なのだと思っていましたが。 たしかに…。「後ろの正面」というフレーズも、同様にありえないコトと 解釈することができますね。 ユアン的には、鬼が両面宿禰なんじゃないか…などと思ってましたが(笑) それにしても囚われの鶏。なんかストーリーできそうですね。 |
[543] Re[542]: 海人のロマン 玄松子 | 2002/12/15(Sun) 01:58 [Reply] |
鶏肉業界からクレームが来そうですね。 > 鶏を食べて良い体質はA型だけだそうで、 http://www.ktv.co.jp/ARUARU/search/arublood/blood6.htm 「発掘!あるある大事典」 これには違う情報が載ってますが。(B型に鶏肉はあう) http://www.fujitv.co.jp/jp/supernews/info/mi_10419.html 「みみより@ホーム」 こんなサイトもあるようです。(B型に鶏肉はあわない) どっちなんだ。 |
[542] Re[533]: 海人のロマン かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/15(Sun) 01:03 [Reply] |
≫ええっ!じゃあダッカルビィは?サムゲタンは? ≫アレはB型じゃない韓国のヒトのための食べ物なのかなあ? ひょっとしてそうかも。 鶏を食べて良い体質はA型だけだそうで、A型は農耕民型。日本ではこれが多い。 弥生あたりの半島南部と九州北部は同体だったと考えています。 高句麗など半島北部では大陸の遊牧民や狩猟系になるのでしょうけど、半島南部では農耕型の人が多かったんじゃないかなあ。 キムチは韓国の代表的食文化ですがそれほど歴史は古くない。 漬け物で塩が入手しにくくて唐辛子を代わりに使ったのが始まりのようで、聞いた話ですがその唐辛子が半島に持ち込まれたのが秀吉の朝鮮攻撃の時なのだそうです。 サムゲタンも面白い歴史があるかもしれないですね。 ≫うつろ舟なども興味深いサンプルですよね 流し雛につながりそうな伝説ですね。 龍城国の王に積女国から妃がやってきたが、生まれたのが卵だった。 王はその卵を箱に入れてどこかで新しい国を造ることを期待して船で海へ流すのですが、その船が流れ着いたのが新羅。 その箱をあけたらなかに子供がいて、それが新羅の昔氏系王朝の始祖の脱解です。 卵は鳥だと思いますが、ここでは船とジョイントしてる(新羅は海を得意とする国ではない)。 流し雛もこれも、なんとなく海人の漂流記憶が根底にあるんじゃないかと感じています。 |
[541] 一羽、二輪 習志野のてつ [Mail] | 2002/12/14(Sat) 21:26 [Reply] |
かごめは鳥名?神奈備さん> 常世の長鳴鳥 う〜む? 玄松子さん> 夜明けの晩という答えは、「おとといきやがれ」的回答。 なるほど。こりゃあいかん…。で、方向転換。 一羽ならぬ二輪話 以前話題になった「家紋」について(掲示板違いか?) 家紋の由来は「結(ゆい)」だそうです。 結とは女系社会の結社の意味で、独特のひもの結び方をした。 いまだにその痕跡が残り、その一つが菊花紋。 「菊の花から来たものではなく、…元来は、糸を二輪、 四輪、八輪、十六輪と結んだ結び目が、菊紋の起源になったのである。」 完本『梅干と日本刀』―日本人の知恵と独創の歴史― 樋口清之・詳伝社・黄金文庫 P196 世界的にみても珍しいケースで…家紋の総数は1万1千種類もあった…とか。 |
[540] 夜明けの晩 玄松子 | 2002/12/14(Sat) 12:41 [Reply] |
いつ? という問いに対して、夜明けの晩という答えは、「おとといきやがれ」的回答。 つまり、未来永劫出られない囚われの身なのだと思っていましたが。 伊勢神宮の神使に、鶏があり、鶏の狛犬(狛鶏)を置いている神社もありますね。 鶏肉を「かしわ」と呼ぶのはいつ頃から、どのような理由によるのだろう。 |
[539] Re[538][536]: かごめは鳥名? 神奈備 | 2002/12/14(Sat) 11:54 [Reply] |
> かごめかごめ > かごの中の鳥は > いついつ出やる > 夜明けの晩に 天の岩戸の絵に鶏が数匹描かれていましたが、これは常世の長鳴鳥と言うことで、実際は夜明けを告げて、天照大神をさそい出そうとしたのかも。 一方、天照大神をして夜明けの象徴である鶏になぞらえたとも読むことができるのでは。 >「夜明けの晩に」は夜明け前の晩で判ります。 夜明けの晩、こんな言葉はないですよね。昔読んだ本(名前忘れ)に、晩は磐のこととあったように記憶しています。そうしますと、天の岩戸をして夜明けの盤と・・・・ |
[538] Re[536]: かごめは鳥名? 習志野のてつ [Mail] | 2002/12/14(Sat) 01:49 [Reply] |
> > かごめかごめ > > かごの中の鳥は > 鳥の名は? > 果たして鳥は何匹でしょうか? > 鳥籠の数は? 単純に「一羽の鶏」と思っていましたが、ハテ? ま籠に入るのだから、それに見合う運動量、大きさ。 てな事で、鶏と信じて疑わなかった。はて? まあアヒルでもカラスでもない。ある種の鳥なので しょう。 鶏を大事にする風習、何時頃から在るのでしょうか? |
[537] 無題 日下部 | 2002/12/13(Fri) 17:08 [Reply] |
かたばみ様、訂正いたします。その前に神奈備
様 お邪魔しております。無作法をお許し下さい。 「太刀」は「扇子」の間違いだったかも知れません。4月24日は京都「葵祭り」の原型と言われる籠神社の祭りです。昔は「かごめのマークのついた」幟をたて太刀振りを奉納する祭りですが翌25日は須津の祭りです。確認を来年してみます。お許しください。 ついでにと言ってはなんですが倉梯山をご案内します。以前ある掲示板に「「倉梯といえば、応神天皇の子、隼別王(はやぶさわけのみこ)と女鳥王(めとりのみこ)が駆け落ちした、奈良県桜井市倉橋の「倉梯山」が有名だが、舞鶴の倉梯にも倉梯山がある。海部氏の籠神社の所在地は天橋立。関係ないだろうが、枕詞、「梯立の(はしだての)」は「倉梯」にかかる。「倉梯」といえば、安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)。奈良の倉梯山の西にある、安倍文殊院を創建した人だ。日本三大文殊は、安倍と天橋立切戸と亀岡なのだ。」が掲示されました。私は無作法にもご挨拶もせず、いきなり夢中で、おっととと、森の石松よろしく 「天橋立の内海を与謝の海(あわてて阿蘇を与謝と書きました)といいます。ここに倉梯山があり阿知江(山+石)部神社(唄わず神社)がかつてあって、隼別命、女鳥王を所祭。籠神社(元伊勢)までは4km位です。この山から天橋立は横一文字にみえます。」(!なお、この山を地元ではカラス山(韓が住むなのか?それともあの烏か?)と呼ぶ)と投稿しました。わたしは何故仁徳にかかわる人がここにあるのか不思議でした。(小林女史から履中は仁徳の子ではない、寧ろ敵対関係にあると聞いていたのです) 「黒日売が天皇(仁徳)に贈った歌の中に、「倭方に 西風吹き上げて 雲離れ 退き居りとも 我忘れめや」という、哀しくも美しい歌があるが、これは「丹後国風土記」の浦島伝説の中に見える、「大和べに 風吹き上げて 雲ばなれ 退き居りともよ 吾を忘らすな」の類歌であることは明らかで、もとは瀬戸内海の港の遊女の歌であったろうと言われている(藤田徳太郎著「日本歌謡の研究」)。海人部に伝わった歌を、傀儡女が伝承したものであろう。それにしても、日本海側の丹後と瀬戸内海側の吉備で、同じ歌が伝承されている。海人はみんな同族なのだ。」これを私は記録していました。履中の后は黒姫だがスキャンダルはhttp://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki072.htmlのほうで、寧ろ真鈴宮の鈴はこの「鈴」で須津彦神社の須津もこの「鈴」からきている(!これは地元で誰一人言わない私の独善珍説で口外するのは今が最初)かも知れないと密かに考えていました。このことについて「古代」の研究家なら誰でもが知っている著名なかたから直接私にとっては「驚愕」の話(チョットオーバー)を承りました。PCの調子が悪くなりました。改めて投稿します。格別のご愛顧の程宜しくお願いします。 |
[536] かごめは鳥名? 神奈備 | 2002/12/13(Fri) 14:35 [Reply] |
> かごめかごめ > かごの中の鳥は 鳥の名は? 果たして鳥は何匹でしょうか? 鳥籠の数は? |
[535] 無題 日下部 | 2002/12/13(Fri) 14:04 [Reply] |
かたばみさん、こんにちわ。今日は話題を変えて私の居住する近くの観光案内をさせていただきます。http://www5.nkansai.ne.jp/com/tankai/kasamatsu.htm 左下の森は籠神社です。その裏山に真名井神社があります。昨日仕事のついでにお茶用の水をいただいてまいりました。先客の近所のかたに由来をお尋ねしたら「全然知らない。水がうまいから汲みに来ているだけ」との返事でした。「瓢箪」のマークや「巴」のマーク をみながら若干の説明をしました。「豊後では速見郡の日出(ひじ)に「真那井」という字がある。またどちらの地にも、「羽衣伝説」がある。当地と似た地名が、尾張も含めて大宮、日出、三重、やさか、竹野、かいばら、蛭子、大野等多くある。人と共に地名が動く」という統計学者の話や、「阿蘇海」の蘇は西を示すというある方のお説を伝え別れました。箱庭のような匏(与謝)の海を「国宝雪舟の天橋立」の丁度反対側から観る景色だなと思いながら眺めていました。そのとき右やや後方に夕日をみました。私は写真右で写真の外に倉梯山があるのですがそのあたりから天橋立の手前の付け根あたりから登るこの世のものかと思う「かすかに黄色がかった見事な朝日」をみたことがあります。ここは冬以外は朝日と夕日が何処から登り、何処に沈むかの観測で農業は勿論必要な月日や季節の移り変わりを予測できる場所だと思いました。天橋立の向こうの付け根は文殊です。その向こうに「吉野神社」があります。この吉野が「葛城族」を追いかけている私にとって、奈良県の吉野に「井光」という地や「国東半島」と共にチェックしたい対象です。「阿蘇海」の右奥(写真外)に「難を逃れてきた億計、弘計が祖父母の履中、黒姫を祭った須津彦神社(元真鈴宮)があります。祭りには「笹ばやし」、「太刀振り」、「神楽」が奉納されます。大野と似ているのは「天狗の面」です。須津の神楽で天狗と獅子の舞いを紹介します。ストーリーは天狗の持っている太刀を獅子が欲しがるのですが、天狗が太刀をくれてやるふりをし、太刀を取りにきた獅子をからかい、ひらりと体をかわし、繰り返しおちょぐるのです。獅子がへとへとになり、最後は天狗が獅子に太刀をくれてやり、その後、獅子が(喜び)その太刀を持っておごそかに舞いを奉納します。「天狗」は犬戎なのか、獅子の意味はわかりません。http://okuoono-mura.hp.infoseek.co.jp/sub10.htm なお、竹野の地名は機会があればどなたかにご教授願いたいと思っています。真名井神社のすぐ近くに(写真「左」側で写真外)「麓神社」が有ります。地元の人が真名井神社よりもっと古いと言ってました。長くなりましたので観光ガイドは小休止させていただきます。 |
[534] 鳥肉きらい 習志野のてつ [Mail] | 2002/12/13(Fri) 00:01 [Reply] |
鳥取県、東郷町のHPに、鶏肉鶏卵は昭和初期まで食べなかった話が載っていました。 美保関(みほがせき)の話も。(少しだけ確認) http://www.togo-town.net/town_history/4hen/2syo/02030100.htm 余談1 来年二十三回忌になる伯父と、昔将棋を指していました。そのとき、伯父の持ち駒は「金、桂馬、香車(キン、ケイ、キョウ)」でした。手持ち駒がこれだけあると、必 ず相手を詰ますことができるとか。 「金鶏鳥は韓の鶏(キンケイチョウはカラのにわとり)」と喜んで駄洒落てました。 なんだそりゃ?と思っていましたが、今は、唐ではなく韓だと思います。 余談2 鮫は、いわば海の掃除屋です。金魚でも死にかかると、水面に浮かんでパシャパシャ します。同じように、海面でバシャバシャ音をたてると、死にかかっている魚と誤解 して、食べにきます。ダイバーは水面下にいる場合、襲われることはめったにありま せん。ハワイとかで、サーファーがパドリング(ボードにのって手で漕ぐこと)をし ていて、よく襲われます。鮫の習性からすると、手や足で小型船を漕いでいたら、や はり襲われる可能性は高いです。 余談でした。m(__)m |
[533] 海人のロマン ユアン [Mail] | 2002/12/12(Thu) 19:18 [Reply] |
卒論のときに資料として谷川健一の著書をたくさん読んだんですが、 最近読み直して見てハマったー! やっぱいいわ!特に「古代海人の世界」あたしを常世に連れてってってカンジです☆ 沖縄のサニツと禊の関連性、ニライカナイにみみらくの地。 伊弉諾流の太夫と沖縄のユタとの相似性は、物部村の調査を始めて強く感じています。 すみません。雑文で。明日実家に帰るんでちょっとハイです(笑) >かたばみさん >韓国はB形が多い。遊牧民の血液型だそうで、体質的にB形が食べてはいけないのは鶏(^^; ええっ!じゃあダッカルビィは?サムゲタンは? アレはB型じゃない韓国のヒトのための食べ物なのかなあ? 韓国の始祖神話も興味深いですね。 ユアンは韓国と九州北部は文化的交流があったと思ってます。 うつろ舟なども興味深いサンプルですよね。 >玄松子さん >もともと、龍の頭にはショボイ鶏冠、鶏の頭には立派な角があったんですが、龍はそれを恥じて、鶏に「ちょっとの間、交換してくれないか」と頼み、交換した後、ずっと返さないので、鶏は「角を返せ」と鳴くのだそうです。 そう!その神話を何かで読んでいたんだと思います。 たぶんそれに、西洋のコカトリスとバジリスクの関係がまぎれこんで 龍より鶏が強いと思ってたのかもしれません。 でもユアン的には鶏の霊力を検証してみたいですね。 鶏って、普通の鳥と一線を隔してる気がする今日この頃。 |
[532] 裏道しか書いてない地図で森にはいったら遭難するだけです(^^; 日下部 | 2002/12/12(Thu) 15:05 [Reply] |
かたばみ様、大先生が私のような新参者の迷子に何故そのようにおっしゃるのか、真摯に考えてみました。http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kf06.htmlの年表で神武は36年〜65年となっています。これは定説でいわば表道りです。 小林惠子女史の「地図」はおおせのとおり裏道りで危険だと感じます。このご指摘は今後「古代」を観光するうえで貴重なものと心得ました。「降参」です。理由は 「「神武東遷」に投影された勢力は 1.句麗王・大武神ー五七年頃 44年に後漢に国を追われて倭の丹波に亡命後、辰韓王位を簒奪。さらに北九州を 制圧し奴国王も兼ね、後漢に遣使して「漢委奴国王」として承認される。 2.月氏系ニギハヤヒ勢力 2世紀前半オアシス国家・亀茲からの亡命民族で、半島の加羅勢力とは同族。南九州に 定着した後、奴国を滅ぼして王・帥升を追放し、やがて大和盆地に入る。 3.高句麗の東川王 247年頃 列島の東倭、狗奴国と連合し、魏の幽州刺史・毋丘倹との攻防の末、列島 に亡命。伊都国など北九州の諸国を征服し、瀬戸内海伝いに大和へ向け東征に発つ が、二四八年九月に安芸で死去した。 以上3人の「外人」ばかりの神武と200年にわたる3つの時代を万世一系ということで、一人の人物にしたなどと言う「受け入れ難い」あの手の説と評価されているからでしょう。 ご指摘を十分心得て、定説と異説を見極めていけるようにいたします。今後とも宜しくお願いします。 |
[531] Re[528]: 民話「鶏嫌い」? 玄松子 | 2002/12/12(Thu) 08:33 [Reply] |
> なんかで読んだ記憶があるんですけど、鶏の頭と蛇の胴体を持つ霊獣が > 龍だというんです。 龍は、牛・鬼・鹿・駱駝・蛇・鷹・虎・大蛇・魚の9つの生物のキメラ(合成獣)ですが、中国の民話に、「龍と鶏」の話があります。 もともと、龍の頭にはショボイ鶏冠、鶏の頭には立派な角があったんですが、龍はそれを恥じて、鶏に「ちょっとの間、交換してくれないか」と頼み、交換した後、ずっと返さないので、鶏は「角を返せ」と鳴くのだそうです。 |
[530] Re[529]: 古代の森に入られるなら「興亡古代史・・」をまずお捨てください。 玄松子 | 2002/12/12(Thu) 08:20 [Reply] |
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ここの掲示板はひょっとして「万世一系支持者」、「渡来説否定者」専用の掲示板かなと思って書き込みを控えたのですが、あなたが出てこられて、森教授を推薦いただいたのでちょっと安心しました。といいますのは、私の大事な「ガイドブック」を歓迎してくれる掲示板の中に極度に「右」でない方々の影を感じたので「掲示板」とは所詮そういうものなのかと思い始めたのです。 この部分をもっとわかりやすく説明してください。 ・どなたのどの書き込みをみて、「万世一系支持者」、「渡来説否定者」専用と思われたのでしょう。 ・「所詮そういうものなのか」とは、どういう意味なのでしょう。 |
[529] 古代の森に入られるなら「興亡古代史・・」をまずお捨てください。 日下部 | 2002/12/12(Thu) 02:17 [Reply] |
かたばみさん、こんばんわ。 ****「古代の森に入られるなら「興亡古代史・・」をまずお捨てください。*森浩一(新潮文庫)をお勧めしておきましょう。 *** ですか。森がらみで森教授をお勧めいただいているわけでもないでしょうが。 森同大名誉教授のおっしゃる「近畿地方の古墳からしばしば出てくる三角縁神獣鏡は、呉(中国大陸南部)の文化的影響を受けたもので、日本で鋳造された、やや大型の銅鏡である。したがって、この銅鏡は、卑弥呼が、魏(中国大陸北部、黄河流域の国)からもらった銅鏡であるはずがない。同じく、魏の遺跡からは、日本の三角縁神獣鏡に類似したものは発見されていない。」は 「三角縁神獣鏡について (さんかくぶちしんじゅうきょう) 邪馬台国時代の女王卑弥呼が、魏の明帝から下賜されたとされる100枚の鏡ではないかとされる銅鏡。平成10年1月、奈良県天理市の黒塚古墳から33枚も出土し、一躍‘卑弥呼の鏡’として脚光を浴びた。しかし、三角縁神獣鏡に限っても、出土数では第2位の京都府山城町の椿井大塚山古墳の32枚等、日本全国に散らばって出土している。また、京都府福知山市の広峰15号墳から出土した、実在しない景初4年号の紀年銘入り三角縁神獣鏡も存在すること等から、卑弥呼の鏡どころか魏の鏡かどうかも含めて、まだまだ検討の余地がありそうです。」となっています。(あなたのおきらいなG.Bはこれを肯定したうえでさらにとんでもないことをおっしゃていますが書き込みを控えます。ことをこのむ方ではないので) 「神話というと非科学的としりぞけてきた戦後の歴史学会に、神話と史実との関係に実体験による関連性を求めた。」についても意義無し賛成です。 椿井大塚山古墳第5次調査の調査指導をなさった森教授は、例の捏造事件について 「今回の捏造事件はこの4年後から起きているわけで、マスコミが安易に作った考古学ブームと無関係とは思えないのです。この発掘を指導してきた文化庁の官僚の見識も問われると思います。 昔、学者の力は学問的能力のみではかられ、それはみんな全国的に知り合っていた。ところが、この20年間、役所の中で考古学の予算がつくようになったのはよかったけれど、学問的能力とは別に、役所に取り入ることで、権限を持つ学者が生まれてきた弊害もあると思います。 批判を受けないし、批判できなくなっているのではないでしょうか。学問の世界でも、結局、他人に対しても、自分に対しても、どれほど真蟄(し)に批判ができるか、それが大切なことだと思います。」とバッサリお切りです。「考古学にしろ文献史学にしろ、ある種の想像力が必要とされるのはまちがいないと思うんだけど、遺跡相手にするのと、文献相手にするのとでは想像力の使いかたがだいぶ違うんだと思う。やっぱ遺跡っていう「モノ」を相手にしてる人のほうが、すごく地に足が着いた思考を展開するのだな、などと思った。」とすこぶる評判のよい先生です。 ここの掲示板はひょっとして「万世一系支持者」、「渡来説否定者」専用の掲示板かなと思って書き込みを控えたのですが、あなたが出てこられて、森教授を推薦いただいたのでちょっと安心しました。といいますのは、私の大事な「ガイドブック」を歓迎してくれる掲示板の中に極度に「右」でない方々の影を感じたので「掲示板」とは所詮そういうものなのかと思い始めたのです。まあ、私にとっては、とりあえず「古代」で視界に入った3つの森が、あるのか、ないのかの確認をします。「委」が「倭」と「委任」で解釈が異常に対立していることは解りました。 |
[528] Re[525][524][521]: 民話「鶏嫌い」? ユアン [Mail] | 2002/12/12(Thu) 00:02 [Reply] |
鶏って不思議な動物かも知れないです。 強い霊力を持ち、神聖視される蛇の天敵だと考えられてます。 なんかで読んだ記憶があるんですけど、鶏の頭と蛇の胴体を持つ霊獣が 龍だというんです。 蛇の霊力、鶏の霊力ともに神聖視されていたと考えられます。 けど、福岡の郷土料理として有名な「カシワ飯」は鶏の霊力を知ってのコトか どうも鶏肉食の禁忌に対して無頓着な気がします。 紹介した民話で、漁師が災難に見舞われるコトになったのは、 霊力のある鶏を鮫の餌にするために殺していたコトが原因だったとも考えられます。 特に鶏をトーテムとしたり特別に信仰したりする習俗はないようですが、 その霊力を考えると、鶏に対する畏怖の念はあったのではないかと思います。 >習志野のてつさん >なにかで、『新羅系渡来人は、鶏を神聖視し、鶏や卵を食べる ことをタブーとする…』とか読んだような…。 それはあるかもしれませんね。 ユアンが聞き書きした中に「エベッサンは鶏が嫌いだから漁師は鶏を食べない」 というのがありました。あと「トキを告げる時間を間違える鶏はツブす」 というのもありました。これは鶏を神聖視した結果というよりむしろ 鶏の呪力を恐れた結果ともとれると思います。 >玄松子さん >鮫に襲われ、不具になる(一説には一本足)という点は、蛭子とのリンクでしょうか。 エビスが不具の神だというコトは、漁師のあいだでもいわれています。 たとえば「エベッサンは耳が遠いから、船べりを櫂で叩かないと来てくれない」 などというのはその典型ではないでしょうか。 エビスが不具神だとすれば、確かにヒルコと同一視されていたと考えることもできますね。 水死体のコトをエビスと呼ぶのも、ヒルコをイメージしていたのではないかと思います。 ユアン的にはヒルコとヒルメはそれぞれ光と影。 ヒルメは高天原を、ヒルコは常世を、それぞれ司る性質を持っていたのでは? あ、私信ですが、玄松子さんのホムペみてみました。 ステキなワールド全開でした。「クシ」と「トヨ」の考察、面白かったです。 福岡オフとか開きたいなあと思いました☆ >神奈備さん まともに鶏が鳴いてよかったですね☆ ユアンの実家では朝の三時四時からけたたましくトキを告げる鶏が いいかげんウザいです(笑) |
[527] Re[524][521]: 民話「鶏嫌い」? かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/11(Wed) 23:44 [Reply] |
≫『新羅系渡来人は、鶏を神聖視し、鶏や卵を食べる ≫ことをタブーとする…』とか読んだような これは知りませんが、始祖神話にはいろいろ動物が象徴的に登場しています。 新羅の始祖とされる赫居世(朴氏)では白馬。(赫居世〜8代154) 4代脱解および9代184〜16代310の昔氏系王朝の始祖脱解ではカササギ。 17代356以降の金氏系王朝の始祖閼智が鶏で、登場の地が現在も鶏林となっています。 ちなみに伽耶6国の始祖首露王は亀。 最近流行の血液型と食品の話題から・・ 韓国はB形が多い。遊牧民の血液型だそうで、体質的にB形が食べてはいけないのは鶏(^^; |
[526] Re[518]: 遭難確実 かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/11(Wed) 23:37 [Reply] |
日下部さん、古代の森に入られるなら「興亡古代史・・」をまずお捨てください。 この本は「普通」では物足りなくなってより強い刺激や冒険を求める方が読むものだと思います。 裏道しか書いてない地図で森にはいったら遭難するだけです(^^; 私からは「古代史の窓」/森浩一(新潮文庫)をお勧めしておきましょう。 示唆に富む「見識」が豊富にあります。 |
[525] Re[524][521]: 民話「鶏嫌い」? 玄松子 | 2002/12/11(Wed) 19:46 [Reply] |
> 事代主が、鶏が早く鳴いたため、鮫におそわれた話 > 早く鳴く鶏、鮫、船、事代主(えびす様) かなり近い話か? 鮫に襲われ、不具になる(一説には一本足)という点は、蛭子とのリンクでしょうか。ある伝承では、手を噛まれたとも。 |
[524] Re[521]: 民話「鶏嫌い」? 習志野のてつ [Mail] | 2002/12/11(Wed) 15:19 [Reply] |
ユアンさんの書き込み > 福岡の志賀島という漁村で採取した民話を紹介します。 > 昔鮫漁の得意な漁師がいた。… > 以降漁師の家では鶏を飼わず、また鶏の肉を食べるのも禁忌とした。 美保神社の公式HPに、面白い話があります。 えびす様の紹介→えびす様の鶏嫌いです。 http://mihojinjya.shimane.to/ebisu_niwatori.html 事代主が、鶏が早く鳴いたため、鮫におそわれた話 早く鳴く鶏、鮫、船、事代主(えびす様) かなり近い話か? > …実際漁師さんは験担ぎに鶏は食べない方が多いです。… 以来美保が関町では、鶏も卵も食べないそうです。(未確認) ところで、これは、鶏を大事にしているようにも感じます。 なにかで、『新羅系渡来人は、鶏を神聖視し、鶏や卵を食べる ことをタブーとする…』とか読んだような…。 たとえばこんな例もあります。 神奈備神名帳、若狭の国、阿奈師神社 http://www.kamnavi.net/ym/hiboko/obana.htm > かごめかごめ > かごの中の鳥は > いついつ出やる > 夜明けの晩に > 鶴と亀がすべった > 後ろの正面だあれ > ユアン的に解釈すると、かごの中の鳥とはこの漁師に飼われている鶏のこと。 > それが餌にされるためにいつかごから出るのか。 > 夜明けと思ったらまだ晩だった。そして災難に見舞われた。 > こじつけですが、かなりシンクロしてませんか? 「夜明けの晩に」は夜明け前の晩で判ります。 「かごの中の鳥は」まあ鶏でも うしろの正面は鰐鮫だったのかな? でも、何となく「よく判らない」? |
[523] Re[522]: 次女っこクラブ 玄松子 | 2002/12/11(Wed) 09:20 [Reply] |
>
五十猛命の妹神二柱、大屋津姫、抓津姫命と申しますが、この抓は東霧島神社の東と同じくツマと読みます。即ち東の姫。 > 一方姉の姫は大屋津姫、ここには大小が来ています。都合のいいところをツマみ食い。 > この妹神二柱は別系統の姉妹の組み合わせかも。 「つま」は、端あるいは妻で、建物の端として、大屋に対応しているのでしょうが、 端には、末という意味合いも含めているような。とすると大小までは、あと一歩でしょうか。 |
[522] Re[520]: 次女っこクラブ 神奈備 | 2002/12/11(Wed) 08:34 [Reply] |
ユアンさん おはようございます。まともに鶏が鳴きましたよ。 > 兄と弟=(甲と乙)=大と小(大ウスと小ウス) 櫛と豊は玄松子さんのHPに詳述されています。 http://www.genbu.net/zatu/index.htm 門神でしょうか、櫛石窓神と豊石窓神のコンビの神社があります。 筑紫 → 櫛 豊国 → 豊 これから行くと 櫛=西、豊=東もあるのでは。 五十猛命の妹神二柱、大屋津姫、抓津姫命と申しますが、この抓は東霧島神社の東と同じくツマと読みます。即ち東の姫。 一方姉の姫は大屋津姫、ここには大小が来ています。都合のいいところをツマみ食い。 この妹神二柱は別系統の姉妹の組み合わせかも。 |
[521] 気になる民話 ユアン [Mail] | 2002/12/11(Wed) 01:12 [Reply] |
二連カキコになるかもという危惧をおして投稿します。皆様に聞いてもらいたい話がありましたので…。 福岡の志賀島という漁村で採取した民話を紹介します。 昔鮫漁の得意な漁師がいた。彼は飼っている鶏の身を餌にして漁をしていた。 ある朝一番鳥が鳴いたので漁に出ると、あたりはまっくら闇で時化が襲ってきた。 その日だけ鶏は午後九時ごろに鳴いたのだという。 本来一番鳥は午前三時に鳴くモノである。その漁師は一晩中時化の中死ぬ思いをした。 以降漁師の家では鶏を飼わず、また鶏の肉を食べるのも禁忌とした。 これはよくある禁忌譚ですが、実際漁師さんは験担ぎに鶏は食べない方が多いです。 ユアンがこの民話から連想したのは、かの有名な童謡でした。 かごめかごめ かごの中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった 後ろの正面だあれ ユアン的に解釈すると、かごの中の鳥とはこの漁師に飼われている鶏のこと。 それが餌にされるためにいつかごから出るのか。 夜明けと思ったらまだ晩だった。そして災難に見舞われた。 こじつけですが、かなりシンクロしてませんか? これぞ気になる民話として推薦します! |
[520] 次女っこクラブ ユアン [Mail] | 2002/12/11(Wed) 00:55 [Reply] |
うわ☆ユアンのカキコに対して皆様いろんな意見を御披露下さって、 うれしいです〜、マジで! >玄松子さん 祝詞って延喜式をもとにしてたんですね。教えてくださってありがとうございます。 乙姫=玉依姫。雷はコワいねえ…なるほどってカンジです。 「豊」の漢字が次女をあらわすというのも面白いですね。 豊玉姫に関しては、じつはさらに上に誰かいたとなったら面白いかも。 それにしても大祓の祝詞って、ダイナミックで、ドラマティックで、 すごくロマンティックな文章だと思います。 やっぱ仏教より神道の方が好きだなあ(個人的にね) ところで神功皇后に妹がいたのですか?初耳だ!まだまだ勉強が浅いっス! 記紀読み直して出直しまっス!(笑) >習志野のてつさん 長女メグ…天照大神、次女ジョー…天鈿女命、三女ベス…櫛名田比売、 四女エミリー…須勢理比売で若草物語はいかがでしょう(笑) 神話にはパワフルな女神が多いですね。神功皇后も結構すごい女神だと思います。 宗像三女神はそれぞれ大祓の中の水の三女神に対応するかもしれませんね。 「醜男」は美男子の意味だったんですか。私は力強い男の意味だと思ってました。 葦原の醜男は大国主ですよね。というとこは、この国でナンバーワンをはる男…(笑) 弟と乙の音の類似は興味深いですね。同一のモノととらえられていたかも? ところで古代においては妹と兄がそれぞれ妻、夫をさしてましたよね。 じゃ、姉と弟はどうなんだろうと思ってました。 弟っていうのが二番目を表すとすれば?姉は一番目? |
[519] Re[517]: 青草デビュー☆ 玄松子 | 2002/12/10(Tue) 20:25 [Reply] |
>
そういえば、姉(豊玉姫)の夫・山幸彦(ホヲリ)の名は「虚空津日高」だったなぁ。 山幸彦と浦島太郎を同一つする説があったような。 すると、乙姫=豊玉姫となる。 天照-豊受、神功-豊姫(淀姫)、卑弥呼-台与、石長姫-豊吾田津姫(木花開弥) 。 豊(トヨ)と名の付くものには、「次の女」が多い。 豊=乙。豊玉姫は実は妹かも。 |
[518] 無題 日下部 | 2002/12/10(Tue) 19:57 [Reply] |
神奈備 様 既に収集済みの情報かも知れませんが念のため投稿します。 ***> 日本海側の越という地名は江南の越国、あるいは南越由来の名 エツ、コシと読むのが古いのでは。これを漢字の越で表現してからエツになったと思っていますが、元々エツだったのでしょうか。古志王神社なんてのがありますね。エツのつく神社名は直江津大神宮くらいなものですね。*** 「「呉越同舟」の諺で有名な江南の呉王扶差は紀元前四七三年越王勾践に滅ぼされた。この時の呉の遺民が中国・半島を経て、列島に至ったという説がある。「晋書」(四夷)などに、倭人は呉の始祖太伯の子孫と自称していたとあることも、その根拠にある。呉を滅ぼした越は紀元前三三四年、楚の国に滅ぼされた。呉と同様に、遺民が列島に渡ったことも想定されている。、、、」。「現在の新潟県一帯はかつての越(こし)の国だが、「出雲風土記」には、、、神門(かんど)郡に古志(こし)の郷という条があり、、、イザナミノミコトの時代、古志の国人がやって来て堤防を築き、日淵川をせき止めて池を作った。、、、」。 「、、「論衡」、、越常の説明には、「越は九夷にあり、けい(!漢字です)の衣を着て、、とある。ここでは越常ではなく、「越」と記されているのが注目される。」(興亡古代史) 「記紀の神話に秘められた歴史は倭王の自己認識だったのです。信じない隋の煬帝は蛮夷と怒り、唐が倭人は自国の大を誇りほらを吹くと言ったのです。自国への誇りが他国を傷つけ国際紛争の原因になった反省から、神話に秘め隠したのでしょう。、、、、」(中村亘宏さん。今は繋がりません。呉の太伯の後裔) |
[517] Re[512][506]: 青草デビュー☆ 玄松子 | 2002/12/10(Tue) 16:34 [Reply] |
> >
竜宮には「乙姫」がいます。この乙姫の乙というのは二番目という意味で、 玉手箱をくれた姫なので、玉依姫ってのはどうでしょう。龍宮の妹の方だし。 そういえば、姉(豊玉姫)の夫・山幸彦(ホヲリ)の名は「虚空津日高」だったなぁ。 |
[516] Re[513]:美の感覚 習志野のてつ [Mail] | 2002/12/10(Tue) 15:39 [Reply] |
>
狂言では、乙(乙御前)は、醜い女なんですよね。オタフクですね。 オタフクは昔の典型的美人じゃ〜あ〜りませんか! 「下膨れ、細い目、低い鼻、長い髪」 十二単の重さ(20Kg近い)に耐える太い足、 和服の似合う扁平胸(Aカッパーズ?) いずれも美人を表します。え〜と、1000年前ですが。 冗談はさておき、「お多福」はカワイイと云う意味は有っても「ブス」では ないと思います。「醜(みにく)い女」ではなく「醜男(しこお)」となる と、美男子だし。「醜女(しこめ)」も「力強い」との解説もありました。 |
[515] 無題 日下部 | 2002/12/10(Tue) 13:40 [Reply] |
神奈備
様 恐れ入ります。 ****古代史倶楽部横須賀との重複投稿ですね。その趣旨は?*** [501]でかたばみ様の投稿 「「漢委奴国王」について持論を少々。 金印の書体や彫り方が他の出土品にないものだったので本物かどうかを疑っていました。 しかしある漢墓から発見された金印のそれが同じだったことで現在は本物とみています。(どこの漢墓だったか失念) 委を「ゆだねる」とよむ論がありますが私は与しません。類例をみないからです。 対して「晋・鮮卑・帰義侯」のごとく中国王朝名に続いて相手国名ないし種族の性格を記す印はいろいろあります。 したがって「委」は国名ないしは種族の性格を表すとみています。」 なお、公式印に略字を用いることは考えられません。 AD57当時では「倭」という文字(あるいは表現)はまだなく、当時の奴国は「委」と称される人々の国だったから「委」としているだけのこと、と考えています。 (それ以前の書物の「写本」に「倭」がある場合など補足解釈が必要ですけれど)」 このように「委」に待ったがかかりました。数日前にも別の掲示板でスクナヒコナの書き込み中に「委」に待ったがかかりました。そこで数日後追加して「あの長い書き込み」となりました。ここからリンクして参照させていただくのが都合が良かったのですが[497]でご指摘された直後でもあり、リンクを控えて「重複投稿」となりました。他意はありません。 谷口さんについては大変なミスをしました。中村亘宏さんの間違いです。訂正します。 言い訳になりますが書き込みが途中で消滅し書き直したりして長い書き込みで疲れていたのか、中村さんを「谷口」と書き間違えたり、なぐり書きの印象を与えてしまい、お詫びします。HPのアドレスは同様の理由で「リンク」を自粛しました。隠す意図はありません。http://www.aa.alpha-net.ne.jp/nnakamur/new_page_1.htm 私は「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」の「奉貢朝賀」という(私は主従関係の被差別を感じておもしろくない)現実に関心が集まるのなら理解できるのですが「漢」を傘に貿易商売に利用する印鑑の文字など「委」でも「倭」でもかまわないといえば「素人は引っ込め」とおしかりを受けるのでしょうか。 二つの掲示板で同じような話題が偶然出ました。私は出来るだけ多くの掲示板をみせていただき自分と、他の掲示板の意見を比較検討しより「正しい」とおもえるものを採用し自分なりによりよい認識を深めていきたいと思っています。鵜呑みした情報は間違っているとおもう新証拠を発見した時に吐き出せばよいと考えています。鵜のように。 *** 「他の掲示板」と青草との回答を集めて比較してと言うやり方ですか。あまり面白くありませんね。*** これについては主催者側の心情がよくわかります。「どちらかの書き込みを中止」するよう努力します。 ***南越由来の名***は勉強します。以前「巴紋」でオタマジャクシのことを書かれていたとおもいますが、鯰、しゃもじ、精子あるいは大きい、粟などや、針、小さい、蜘蛛などの文字で「部族」を読むらしいですがよくわかりません。 ***原本でもこなされる方のようにお見受けいたしますが**** これには 参りました。古典がどんなものかも解りません。この時代の列島は日本ではないと錯覚するひらがなのない漢字だらけの書物だと思っていました。けれども私の先祖がこの時代に存在しているのだとも思います。「古典とは記紀風土記の現代語訳」とは初めてしりました。それなら私のレベルではもっとやっかいです。 各言竟之後、告其妹曰、「女人先言不良。 各言ひ竟へし後、其の妹に告げたまひしく、「女人先に言へるは良からず」とつげたまひき。 生雖然久美度邇【此四字以音】興而、子、水蛭子、此子者入葦船而流去。が 「然れども久美度迩興して生める子は、水蛭子。此の子は葦船に入れて流し去てき。」であったり、「イザナギが“女人、先に言えるは良からず”と言ったのは、イザナミ派の母権的・女権的体質=まあまあなあなあ体質、集団無責任的体質では、国作りというレベルの高い仕事はうまくいかないよ、ということです。もっともこの言葉は後に、女が出しゃばるとろくな事がない、女は引っ込んでいろ、といった女性に対する抑圧として使われました。」とか多数の解釈を吟味できません。水蛭子は「恵比須」だと解釈されたり「一部足りない土着の縄文人?がでしゃばり(新来の1つ多い文明の力をもつ勢力にたてついて結局・ここは私の想像ですが)国づくりに失敗したとか諸説があり手におえません。こういう古典をしっかり認識した後でないとイザナギを語るなということでしょうか。私は古代の森をざっとみて一刻も早く森の中に入って木々をみたいのです。学者のような専門知識を吸収する能力がありません。必要に応じて必要な知識を能力の範囲で吸収する方法を模索している最中です。 ネチケットがなさ過ぎることは一言もありません。ネット歴2ヶ月目に入りましたのでお叱りをうけないように努力します。宜しくお願いします。 |
[514] これは抽象論ですけど。。。 hvhy [Mail] | 2002/12/10(Tue) 13:14 [Reply] |
「知的ゲーム」という表現が相応しいかどうかはともかく、 文献に対するアプローチの一つである。とは言えるでしょう。 その場合かなり大きな境目になってくるのは、そもそも記紀は、 実際にあった事柄を並べたものか、違う原理で組み立てたものか。 どちらに近い立場で読むかという点です。実に当たり前の話ですが。 というのは、例えば「厩戸皇子」の「片岡遊行」の記事に対し、 そういうことがあったから、あった通りに書かれていると見るか。 「片岡」という地名の場所が当時あったかどうかすら分からないし、(※7世紀の前半) 「厩戸皇子」という名前の人物がいたかどうかも分からないと見るか。 仮に前者の立場に立つ場合は、「どうして片岡なのか?」という問いは、 まあ意味を持ちません。「たまたま片岡へ行った」で終わってしまいます。 しかしながら、後者の立場に立つ場合には、例えば「どうして片岡なのか?」 「どうして推古21年なのか?」「どうしてその物語の内容なのか?」などが、 すべからく問題として浮上してきます。「適当に書いただけ」では話にならない。 「そういう伝承があったのだろう」では話にならない。少なくとも後者の立場では。 ここで極論を言うと、黄道十二宮によって多くのことが統一的に説明でき、 出典論もクリアーしているのであれば、そういう創作原理があった可能性を、 私はむしろ検討するべきだろうと思います。あらゆるフレームを検討するのは 不可能なことですが、理論的には、「有り得るフレームをすべからく検討した後、 そのフレームが実際に創作フレームであった蓋然性を評価し」といった過程を経て、 一つのフレームに絞られてくる場合、そのフレームが創作原理であった可能性が高い。 そういう意味で、玄松子さんでなくても、だれかが黄道十二宮なら黄道十二宮に関して、 オタク的に吟味すればいいと思います。それぞれオタク的に吟味し尽くしたものを比較し、 どっちの蓋然性が高いかをむしろ競うべきでしょう。そういう過程が必要だと思っています。 「二人のハツクニシラス」に関してすら、未だに「分からない」と言われているのが現状です。 |
[513] Re[512]: 青草デビュー☆ 玄松子 | 2002/12/10(Tue) 12:58 [Reply] |
>
〜話は青草へ〜 しかも通常「妹(乙)」のほうが美人。 狂言では、乙(乙御前)は、醜い女なんですよね。オタフクですね。 |
[512] Re[506]: 青草デビュー☆ 習志野のてつ [Mail] | 2002/12/10(Tue) 12:46 [Reply] |
ユアンさんの青草デビュー☆ うれしいですね。 私は青草話、大好きなんです。 > 竜宮には「乙姫」がいます。この乙姫の乙というのは二番目という意味で、 > 名前の中に入れる場合はその人の上に兄弟がいることを示す… > 乙姫の姉は誰か…乙姫の姉は「橋姫」もしくは「七夕津女」ではないか 兄弟と云うより、姉妹、姉(甲)がいる、ではないでしょうか。 〜話は青草へ〜 しかも通常「妹(乙)」のほうが美人。 木花咲夜姫と磐長姫の例がその典型ではないでしょうか。 宗像三姉妹でも、長姉は沖津島から出ないのですが、理由は同じ 末娘だけが、厳島他で大いに出かけてます。 乙は若いに通じ、愛でられる。 男子皇統も末子相続だった。 更に青草物語(四人いれば、若草物語) 乙=弟、弟橘姫は美人ですが、兄橘姫も美人。 石田ゆり子、ひかり姉妹は珍しい例ですが、橘姉妹も二人とも美人 姉の兄橘姫が地元で有名な美人で、采女として景行天皇に仕えていた。 妹が成長した頃、倭武命がやってきて妃とした。海で亡くなった為、 天皇が、兄橘姫を倭武命に下された。 兄と弟=(甲と乙)=大と小(大ウスと小ウス) 風土記「大和から降ってきた大橘姫」は、弟橘姫のお姉さんでした。 …青草よりも妄草ストーリー…この辺でお姉妹… |
[511] 鳥見山傳称地私考(要旨)11 神奈備 | 2002/12/10(Tue) 09:13 [Reply] |
第五章 十二所権現と鳥見氏の存在 【鎮守十二所権現】 (龍福寺との関係) 和州山辺郡桃尾山絵図に依れば桃尾山龍福寺本堂(義淵又は行基の開基)より東北に当たる所に鎮座せるものの如く絵図の文に曰く「鎮守十二所権現表行二間奥行丈間拝殿梁行二間桁行五間」とある。熊野十二所権現といひ天神七代、地神五代の鎮守といひ伝える。天神七代とは国常立神・(略)・・伊邪那岐神・伊邪那美神の神代七代、即ち神聖経綸の業比に基き国土既に成り神人成生す。地神五代とは天照大神、正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、天津日高日子火能瓊々杵命、天津日高火々出見命、日子ナギサ武鵜茅草葺不合命。 天神地神を鳥見山山頂に祀れるを後世少し下の今の地に移し龍福寺の鎮守の社としたものと考察される。口碑に依れば山頂より順々に神殿十二所建ち並びありたりといふ。何故に龍福寺が特に天神地祇を十二神祀れるか、それは鳥見霊畤伝承の故を以て特に寺域の最高處に拝殿まで設けて建てられしものと考えられる。 【鳥見氏の存在】(大字瀧本(元の熊橋(カケハシ)、今の滝本)百九十四番地の一に士族鳥見衛 明治二十八年十月十八日生)がゐる。父は奈良作(明治五年七月二十四日生、大正十一年九月二十八日死亡)といひ、祖父を秀夫といふ。この鳥見秀夫は龍福寺の寺侍であった。鳥見山に住居する意味に於いてか鳥見氏と称す。鳥見秀夫ー奈良作ー衛(長男) 現在この大字では士族はこの一軒のみである。考ふるに鳥見氏は現在古記録散逸してゐるが舊家らしい。姓氏録に依れば鳥見姓は饒速日命の裔とある。饒速日命は石上神宮に関係あり、又山辺郡誌に依れば桃尾山は山姓鳥見なれば鳥見と称するとある。 |
[510] Re[503]: 漢委奴国王 神奈備 | 2002/12/10(Tue) 08:03 [Reply] |
長い文章ご苦労様と言いたい所ですが、古代史倶楽部横須賀との重複投稿ですね。その趣旨は? > 谷口亘宏さん この方はどなた様でしょうか。失礼ですが記憶にありません。青草か横須賀さんに登場されていましたか? それともどなたかの本名でしょうか? なぐり書き的投稿に見えます。これは読んで下さっている方々に失礼とは思いませんか。 日下庵主さんと青草との回答を集めて比較してと言うやり方ですか。あまり面白くありませんね。庵主さんも時折こちらを御覧頂いているかも。神奈備は時々横須賀を訪問させていただいております。 ところで中央公論社の『日本の古代』シリーズ(文庫本になっています)など少々昔の本ですが、所謂通説が記述されています。古典の引用も多く、オーソドックスな解釈が出ておりますので、目を通されたらいかがでしょうか。 > 玄松子様 貴方は、「まず、古典を読んで」とおっしゃいますが私は読めません。 古典とは記紀風土記の現代語訳をと言われていると思います。「読めません」と断言される理由が分かりません。投稿内容からは原本でもこなされる方のようにお見受けいたしますが。・・ > 神奈備様は批判する前にまず読んでからなのでしょうか書籍名を求められました。 通説でなさそうな書籍は嫌いではありません。しかし、残念ながら今その本を読む気にはなれません。 > 日本海側の越という地名は江南の越国、あるいは南越由来の名 エツ、コシと読むのが古いのでは。これを漢字の越で表現してからエツになったと思っていますが、元々エツだったのでしょうか。古志王神社なんてのがありますね。エツのつく神社名は直江津大神宮くらいなものですね。 |
[509] Re[508][504]: 「羊」について? 玄松子 | 2002/12/10(Tue) 02:43 [Reply] |
補足。 > ユアンさん> ところでこの大祓にでてくる神の名前は古典の何からとっているのでしょうね。 > > 延喜式(927年)に出ています。 yanaseさんのサイト:延喜式祝詞 六月晦大祓 http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/kyodo/norito.htm#10 |
[508] Re[504]: 「羊」について? 玄松子 | 2002/12/10(Tue) 02:26 [Reply] |
>
これはあくまでも例として玄松子さんがヒョイヒョイと書かれたものでしょうが、 そうですね。「ヒョイヒョイ」と書きました。 実は、まだ続きがあって、 ・神武の12代前(つまり一順前)は国常立。神代七世の初め。 ・1月を初めと考えると、神武の三代前のニニギが最初になり、その12代後が崇神となる。 ・0代(魚座)で、ウガヤはワニの子。 ・−1代(水瓶/宝瓶)で、ホヲリは龍宮で宝を得る。 で、この説で見ると、高御産日は射手座で、「矢」に縁あり。 #誤解しないで下さいね。hvhyさんに対してどうこうということではなく、 #純粋な知的ゲームとして、これもまた楽しいと実感してしまったのです。 #「この手の」知的ゲームの中から論証できるものが発見されるかもしれない。 ユアンさん> ところでこの大祓にでてくる神の名前は古典の何からとっているのでしょうね。 延喜式(927年)に出ています。 |
[507] 伊邪那岐命伊邪那美命 日下部 | 2002/12/10(Tue) 02:05 [Reply] |
玄松子様 貴方は、「まず、古典を読んで」とおっしゃいますが私は読めません。真名井神社の祭神は伊邪那岐命伊邪那美命です。私は伊邪那岐命が「徐福」であると仮定してみます。垂其矛末落之塩累積成嶋の「塩」とは血潮の塩だそうですが凄まじい戦闘のすえ出来た両者の境界が出来たということを「成嶋」から読み取れとおっしゃるのですか?この初心者の私にたいして。勘弁してくださいよ。でも関心はあります。 於是天神諸命以詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神修理固成是多陀用幣流之國賜天沼矛而言依賜也彼二柱神立天浮橋而指下其沼矛以畫者塩許袁呂許袁呂邇畫鳴而引上時自其矛末垂落之塩累積成嶋是淤能碁呂嶋、、、 |
[506] 青草デビュー☆ ユアン [Mail] | 2002/12/10(Tue) 01:36 [Reply] |
こんにちは、最近こっちのカキコも読むようになりました。最初は「神奈備」と「青草」がどいうった位置関係にあるのかよくわからなかったのですが、カキコを読んでくうちにわかってきました。 ここでは資料や原典を熟読して、参考文献を提示するという手間をはぶくコトができるのですね?ふと思いついたアイディアを、資料で裏打ちする前に発表しちゃってもいいのですね? んじゃ、こないだ思いついたアイディアをひとつ。 竜宮には「乙姫」がいます。この乙姫の乙というのは二番目という意味で、名前の中に入れる場合はその人の上に兄弟がいることを示すと大学の授業で耳にしました。では、乙姫の姉は誰かという疑問がしばらく頭を離れなかったのですが、このあいだふといいことをおもいつきました。乙姫の姉は「橋姫」もしくは「七夕津女」ではないかということです。どちらも川の女神ですから、海の女神に対しては上位にあるのではないかと…。あるいは「瀬織津比売」「速開都比売」「速サスラ比売」の三姉妹がいると仮定して、乙姫は潮の八百曾にましますワケですから速開都比売と考えて、次女と考えれば納得です。(少なくとも私は) ところでこの大祓にでてくる神の名前は古典の何からとっているのでしょうね。大祓自体は作られたのがごく新しいものだとききましたが。でも「中臣祓」は中臣氏が神事を司っていたとして、そのときに用いられたモノだとすれば、平安時代にはあったことになりますよね?神道って、近年になって神社本庁が色々と手を加えたので、本当のところが良く分からなくなったような気がします。 あ、長くなりましたか?では。 |
[505] Re[503]: 漢委奴国王 玄松子 | 2002/12/09(Mon) 23:42 [Reply] |
> 「この種の著作の場合は、、」とか玄松子
様の「この手の本は」の表現には小林女史が侮辱されているようで、 「この手」という表現には侮蔑・侮辱の意味は含まれません。 【手】大辞林(国語辞典) いくつかに分けたうちのある種類。また、ある手法・技法によるもの。 「この―の品」「高麗―」 辞書でご確認ください。 |
[504] 「羊」について? hvhy [Mail] | 2002/12/09(Mon) 22:58 [Reply] |
>ある組み合わせは名前の一字、あるモノは御陵地名の一部、 >あるモノは別称、あるモノは家族の名の一部、あるモノは事績の一部。 >そのように一貫性の無い共通点を並べただけでは「コジツケ感」を払拭できません。 コジツケのコジツケたる所以は、そういう点にあるわけではないでしょう。 というのは、月宿に付随する名辞とかキャラクターを各所に配置することが 編纂の方針だったとするなら、それが各所に見つかるのは当たり前ですからね。 そういう編纂の方針が有り得ないのでない限り、コジツケである論拠にならない。 #つまり月宿の名前やその性格などを一覧表のように並べる表現方法もあれば、 #そうでない表現方法もある。一覧表のような表現方法を採らなかった場合には、 #そこに一覧表を見つけることはできません。最初から一覧表じゃありませんから。 ------------------------------------------------------- では何がコジツケか。最も肝腎な点は出典論だろうと私は思っています。 例えば、神奈備[3632]で「カシハ」は「KSP」と書きましたが、やはり、 外証的な部分が弱いわけです。なにしろ日本には漢字しか残ってませんから。 これが中国なら、漢文とシリア語が併記されているものが残っていたりします。 日本の場合、そういうものは見つかってない。言わば物証がないという状態です。 また出典が明示できない場合でも、問題としているのは記紀ですから、 第4代は名前に「友」(トモ)を負う←→月宿「底」の和名は「トモ」。 こんなことを言う場合は、少なくとも和名が7世紀の後半にあったのかが、 どうしても問題になってきます。そういう要素が欠けると、コジツケですね。 実際にこの例は、和名が何であるかの説明がなければ、ほとんどコジツケです。 >・1代は神武であり、黄道十二星座の最初の牡羊座に対応。 >・1代と10代は「羊」が共通で、ともに「ハツクニシラス」。 >・4代御陵は真名子谷、真名子は真砂で、蟹とともに砂に縁がある。 >・10代山羊座は麿羯宮とも、「かつま」の意は受戒・懺悔・業。この辺りから記述に現実味があることと関連在り? >・12代景行の子(実質13代)日本武尊と神武天皇の東征という共通性。 これはあくまでも例として玄松子さんがヒョイヒョイと書かれたものでしょうが、 コジツケの例には確かになっています。そもそも出典論が欠けているわけですから。 例えば「1代と10代は羊が共通」ということを持ち出して意味があるとするならば、 当時もたらされた天文知識に「牡羊座」と「山羊座」を同一視する考え方があったこと。 これが前提になります。そもそも「山羊座」という表記は未だ当時はなかったわけですし、 「牡羊座」と「山羊座」をセットで見る見方があったかどうか。そっちがまずは問題になる。 出典論も含めて、仮に10項目ぐらいコジツケられるということなら、もちろん話は別ですが。 #今回の玄松子さんのご教唆は、非常に有り難かったです。 #ただ項目を箇条書きにするだけだと、パッと見たところで、 #コジツケもコジツケでないものも一緒に見えるということが、 #具体例を通してよく分かりました。どうも有り難うございます。 |
[503] 漢委奴国王 日下部 | 2002/12/09(Mon) 22:53 [Reply] |
かたばみ様 はじめまして。真名井神社の瓢箪のマークに興味を覚え「ガイドブック」1冊持って「古代」に闖入しました初心者の迷子です。生まれて初めて「古代系掲示板」に今年の10月書き込みをさせて頂いたネット初心者でもあります。無作法者ですが宜しくおねがいします。以前真名井神社にあったカゴメというのでしょうか?マークに関して別のマークについて書かれた方でしたね。次々に偉大な人に登場いただき、いささか興奮気味です。 さて、重複しますが「興亡古代史・小林惠子」が私の大切にしている「ガイドブック」です。「この種の著作の場合は、、」とか玄松子 様の「この手の本は」の表現には 小林女史が侮辱されているようで、その原因の私としては情けないです。神奈備 様は批判する前にまず読んでからなのでしょうか書籍名を求められました。有り難いことです。 では気を取り直してまいりまする。 小林説。 BC30年代 句麗が建国。 8年 前漢、 王莽に滅ぼされる。 12年 王莽、句麗を討伐 12年頃 王莽が新潟県の越国を朝貢させている。 「紀元前後は前漢の末期にあたり、前漢を簒奪し、新を建国する王莽が実権を握っていた時代である。やがて王莽は前漢を滅ぼしたが、王莽の新は紀元八年から二三年までの十五年間できわめて短い。にもかかわらず王莽の鋳造した貨幣である貨泉が丹波の函石(はこせき)遺跡の一枚をはじめ、西日本を中心に約十六枚も出土しているのはなぜだろうか。それには理由がある。王莽は紀元十二年に匈奴攻めの徴兵に応じなかった高句麗を攻めた。敵を攻めるには、まず敵国やその周辺の地理、民族、文物を知るのが常套手段である。、、、、最も東辺にあって辛うじて王莽の視野に入ったのが日本海沿いの国々だった。そこで列島の越(こし)はいわば南越の代理として、王莽に朝貢させられたのではないだろうか。」 「 武帝によって南越が滅ぼされると、南越の遺民は南西諸島を北上して薩摩半島を通り、半島由来の既存勢力のいる北九州を避けて、本州日本海地方に上陸し、同じ中国南部の江南の呉越の遺民や縄文以来の土着勢力と戦いながらも、混血して定着していったのではないだろうか。つまり日本海側の越という地名は江南の越国、あるいは南越由来の名だったと思う。 ところで、日本海側の国を代表するのは出雲であり、大物主だから、大物主こそ呉越か南越からの民族の代表者と考えるのが普通だろう。しかし、そう簡単にいかない。私は大物主は越を制圧したが、江南の民族とは違っていたとおもう。その第一の理由は大物主の国の名は出雲であって越ではない。第二に大物主は蛇で意表されていることだ。出雲の国に由来する大物主を祭る出雲大社も、同じ大物主を祭る大和の三輪大社も主神は蛇である。また後漢の光武帝に北九州の奴国(なこく)が貰った金印のつまみ(鈕)も蛇だった。つまみが蛇だというのは大したことではないように思われるかも知れないが、金印は奴国が後漢によって正式に列島の国王として封ぜられたという証拠の璽だから、つまみにいたるまで重要な意味を持っている。蛇は金印に表された唯一の動物である。中国にとって列島は蛇をもって意表される国と考えられていた証明なのである。蛇をトーテムとする民族はテン(!「氵+眞」)である。南越の西は雲南で、かつてテン(!「氵+眞」)国があったところである。中央アジアの遊牧民の月氏が前漢の始め、強盛になった匈奴に攻められ、大部分は西方に逃れ、大月氏になったが、、、またその一部は南下して雲南から南越に住み着いた。、、、紀元前一〇九年、漢の武帝はテン(!「氵+眞」)王に封じたが、その時、授けた金印のつまみが蛇だった。テン(!「氵+眞」)もまた蛇を崇拝する国だったのである。、、、また「魏志」東夷伝の馬韓条に月支国がでてくる。月氏は月支とも書かれるから、月支国は月氏由来の国だったことが想像される。テン(!「氵+眞」)から北上した月氏は二手に別れ、半島に上陸した集団が月支国を作り、列島に来た集団が大物主勢力になったのではないか。」 57年 脱解辰韓王(大武神、62歳) 58年 北九州奴国王は後漢に朝貢し、光武帝から金印「漢委奴国王」を貰った。私はこの金印の文字を「漢が奴国王に(列島の)統治を委任した」という意味に解釈する。」(興亡古代史・小林惠子) 「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」 59年 新羅、倭国と国交樹立 脱解の辰韓を攻めた倭人とは、列島に新来したニニギ勢力 107年 「奴国王の帥升が後漢に、、、会見を願い出ている。、、、帥升は脱解から何代目かの子孫にあたるのだろうが、、、神武勢力の脅威を感じ、後漢のバックアップを求めて使者を送ったと思われる。」(興亡古代史) 「安帝永初元年 倭国王帥升等献生口百六十人 願請見」 谷口亘宏さんのご意見 「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」 建武中元二年(西暦五七年)に倭国の極南界の奴国が貢物を奉げて漢の朝廷に挨拶に来たので、印章と下げ紐を賜ったと記述されています。 金印を賜った五十年後には、このような連合の代表としての倭国王が出現していたことが、『後漢書』のすぐ次の一文から判ります。 「安帝永初元年 倭国王帥升等献生口百六十人 願請見」 印鑑に「委」と表示して貿易などであれは「倭」と読んでくれ、素人の私には解りません。ですから [502]「玄松子> まず、古典を読んで、通説と呼ばれているものをしっかりと認識することが先決です。」の玄松子 様にお尋ねしたわけです。 古典とはこの場合は印鑑そのものではないでしょうか? かたばみ様のさらなるご意見をお待ちします。 |
[502] Re[501]: 事実と推測 玄松子 | 2002/12/09(Mon) 20:24 [Reply] |
一言だけ。 > ある程度読めるようになるまでは、玄松子さんも書かれている「鵜呑みにはしない姿勢」が必要と思います。 > (これは定説とか著名学者などの説であっても同じです(^^;) 玄松子> まず、古典を読んで、通説と呼ばれているものをしっかりと認識することが先決です。 認識:物事を見分け、本質を理解し、正しく判断すること。 かたばみさんの仰るとおり、通説・定説であっても、「鵜呑み」はいけません。 ただ、この手の本は、通説への反論として書かれており、反論されている通説を「認識」していなければ、反論に疑問を感じることもないので、「鵜呑み」してしまうことになってしまいがち。よって、「まず、古典を読んで」・・・ |
[501] Re[485]: 事実と推測 かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/09(Mon) 20:05 [Reply] |
日下部さん、はじめまして。 ≫興亡古代史 東アジアの覇権争奪1000年・・ 読み物としては面白いですね。 ただ・・この種の著作の場合は著者の推測の元になっているデータを読みとることが大事と思っています。 幸いにこの本では著者の推測部分を「私は思う」として書いています。 しかし、著者が「思うこと」がベースになって次の「思うこと」が生まれてもきますから、このあたりが読むことのむずかしさになるかもしれません。 推測か事実かわからない書き方のものもあります。これは読者を惑わすことになっていささか危険。 それを見抜くには若干の経験や知識が必要です。 ある程度読めるようになるまでは、玄松子さんも書かれている「鵜呑みにはしない姿勢」が必要と思います。 (これは定説とか著名学者などの説であっても同じです(^^;) なにせ古代は謎の固まりですから。 情報、データが集まってくればひとりでに自分の考え方がでてくるようになると思います。 しかし、いっぺんにいろいろが飛び込んでくると混乱しますね。 少しずつすこしずつ・・ とりあえずはおおよそ、でとどめて全体をながめてから部分を追求するという姿勢もあると思います。 「漢委奴国王」について持論を少々。 金印の書体や彫り方が他の出土品にないものだったので本物かどうかを疑っていました。 しかしある漢墓から発見された金印のそれが同じだったことで現在は本物とみています。(どこの漢墓だったか失念) 委を「ゆだねる」とよむ論がありますが私は与しません。類例をみないからです。 対して「晋・鮮卑・帰義侯」のごとく中国王朝名に続いて相手国名ないし種族の性格を記す印はいろいろあります。 したがって「委」は国名ないしは種族の性格を表すとみています。 なお、公式印に略字を用いることは考えられません。 AD57当時では「倭」という文字(あるいは表現)はまだなく、当時の奴国は「委」と称される人々の国だったから「委」としているだけのこと、と考えています。 (それ以前の書物の「写本」に「倭」がある場合など補足解釈が必要ですけれど) |
[500] コジツケの例 玄松子 | 2002/12/09(Mon) 18:57 [Reply] |
独善的とは「ひとりよがり」の意味ですね。 > 玄松子さんの印象はよく分かりましたが、仮に印象に過ぎないとしたら、 > 「1通り」の組み合わせに対して、私が具体的に言及している事柄に関し、 > それを「コジツケ」と言えるほどの根拠は、ことさら無いことになりますね。 > 「神武」が「元」であり、かつ「Mula」の漢訳が「根元」である点は事実です。 > そもそも意味の対応が無かったら、コジツケようにもコジツケようがありません。 【神奈備掲示板より転載】 ある組み合わせは名前の一字、あるモノは御陵地名の一部、あるモノは別称、あるモノは家族の名の一部、あるモノは事績の一部。 そのように一貫性の無い共通点を並べただけでは「コジツケ感」を払拭できません。 たとえば、 「天皇と黄道十二星座には相関在り」 1)神武=牡羊座(白羊宮) 2)綏靖=牡牛座(金牛宮) ・・・・ 3)懿徳=蟹座(巨蟹宮) ・・・・ 10)崇神=山羊座(麿羯宮) ・1代は神武であり、黄道十二星座の最初の牡羊座に対応。 ・1代と10代は「羊」が共通で、ともに「ハツクニシラス」。 ・3代御陵は真名子谷、真名子は真砂で、蟹とともに砂に縁がある。 ・10代山羊座は麿羯宮とも、「かつま」の意は受戒・懺悔・業。この辺りから記述に現実味があることと関連在り? ・12代景行の子(実質13代)日本武尊と神武天皇の東征という共通性。 (これらは青草に相応しいコジツケです) |
[499] 無題 日下部 | 2002/12/09(Mon) 15:59 [Reply] |
神奈備
様 はじめまして。貴方のようなスーパースターに直接「会話」ができて、感激です。 [478]のとおりこれまで私は「興亡古代史 東アジアの覇権争奪1000年・小林惠子」を「ガイドブック」に選択し、視点の軸がぶれないように暫くのあいだこの1冊にしぼり、出来るだけ正確に(長い文章にならない範囲で)伝わるよう小林女史の文章を書けば、先輩諸氏の意見、反論、批評などが期待できるのでは思い、そうしてきました。結果、「飛躍がありついていけない」などの感想を戴き、私も批判的摂取ができるよう心がけるようになりました。今回「引用文」を示さず、自分の感想を書きました。理由は「感想」が小林女史の意図に反する解釈をして迷惑をかけたくないからです。「バイエル」を習いかけた者が弾けもしないのに「ピアノ発表会」に出たようなものです。おはずかしい。 大武神句麗王、葛城族、犬戎、狗奴国、狗邪韓国、脱解などについて我流の解釈を慎み、当分「習うより慣れろ」でいきます。宜しくご教授ください。 ネットの作法もしらずマルヤ様にはご迷惑をおかけしました。反省しております。 私はスクナヒコナを集団と捉えて初めて追いかけているものが葛城氏の「葛」であることに気づきました。意図は感謝です。お許しください。 |
[498] 無題 hvhy [Mail] | 2002/12/09(Mon) 14:53 [Reply] |
そもそも「独善的かどうか」の基準がはっきりしませんし、 「だれだれの発言は独善的である云々」などという類の話は、 私自身あまりしたくありませんので、その手に話題に関しては、 コメントを差し控えさせて頂きたいと思います。ご了承ください。 >例や解説で挙げられた「程度」のものなら、 >見つかりそうな印象ですが。(僕はしませんよ) 玄松子さんの印象はよく分かりましたが、仮に印象に過ぎないとしたら、 「1通り」の組み合わせに対して、私が具体的に言及している事柄に関し、 それを「コジツケ」と言えるほどの根拠は、ことさら無いことになりますね。 「神武」が「元」であり、かつ「Mula」の漢訳が「根元」である点は事実です。 そもそも意味の対応が無かったら、コジツケようにもコジツケようがありません。 #「月宿を背景にして系譜を作ったかどうか」に関しては、 #「そう」か「そうでない」か。そのいずれかと言えますが、 #仮に「そう」だったとしましょう。「そう」だったとしても、 #こちらが月宿に関する知識を持っていなかったら、そのことは #永遠に確認できません。これは外国語に関しても全く同じ話です。 #私は考える頭より、いつも知識の足りなさを痛感してばかりいます。 #外国語を知らないがばかりに、見落としてることがあるかもしれない。 #そういうことを私はむしろ恐れます。これは私が正直に思うところです。 |
[497] Re[494]: 無題 日下部 さんへ 神奈備 | 2002/12/09(Mon) 14:12 [Reply] |
日下部さん 一つのきっかけを糸にして古代史の中に入っていく方法はいい方法だと思いますよ。 > 大武神です。ひっくり返すと神武です。 これは小林恵子さんお本からの引用でしょうか。立ち読みの記憶があるんですが・・。 もし引用でしたら、引用されました書名を御紹介下さい。引用でないなら失礼いたしました。 また、マルヤさんの『吉野へようこそ』の掲示板はよく見させていただいております。横木瓜さんの名の投稿も見ました。おそらく貴殿だろうと思っていましたが、掲示板への質問への回答を別の掲示板で披露してというのは、いささかネチケット上いかがなものかとは思いますが。 |
[496] Re[493]: 神武 玄松子 | 2002/12/09(Mon) 13:14 [Reply] |
玄松子>・ご自身の解釈・意見は無いのですか? 日下部さん> 玄松子様、お言葉にあまえて発言します。 意見はあったわけですね。 では、 >・以下の書き込みのように、多くの方々の『貴重』な解釈を収拾し、どのように処理なさるつもりなのでしょう。 |
[495] Re[491]: 無題 日下部 玄松子 | 2002/12/09(Mon) 12:59 [Reply] |
大きな勘違い・混同・決め付けをしていませんか。 青草掲示板は、神奈備掲示板とは違い、 「素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!」 という趣旨で運営されており、青草=アホクサイ話が基本にあると認識しています。 僕がこの青草掲示板に書き込んでいる内容(日下部さんへのレスは別)も、一見アホクサイものになっております。アホクサイけれども、ひょっとしたら真実が含まれていないとも限らないという程度です。 そのことをご理解いただければ、 > 「トンデモ本」だったと思うのですが、書名は忘れました。」 > 「今ひらめいた、まったくの思いつきですが。」 も、問題は無いのではないでしょうか。 青草掲示板に対する書き込み内容と、古代史や神々へ対する探求とを混同され、決め付けられても困ります。 |
[494] 無題 日下部 | 2002/12/09(Mon) 12:19 [Reply] |
マルヤ様すみません。誤解しました。 ●部族名:狗族(中国西北の遊牧民・犬戎の一派) ●信 仰:狼・犬を先祖として崇めた。 ●部族長:スクナヒコナ ●俗 称:イヒカ、イワオシワク、ツチグモ 部族長でした。お詫びします。部族長の文字がら一つの勢力、集団を感じました。ブッシュをブッシュ政権のようにです。 |
[493] 神武 日下部 | 2002/12/09(Mon) 12:05 [Reply] |
玄松子様、お言葉にあまえて発言します。 「真名井神社」を調べていますが「神武」が視界に入りました。神武東遷に投影された勢力の一人「44年に後漢に国を追われ倭の丹波に亡命後、辰韓王位を簒奪。さらに北九州を制圧し奴国王も兼ね、後漢に遣使して「漢委奴国王」として承認される。」という神武です。大武神です。ひっくり返すと神武です。 次に、スクナヒコナを追っていることは、「葛」を追っているのだと解りました。「葛城」、「槃瓠」の瓠、「国樔部」のくず、「赫居世」のかく、「倭人瓠公」などです。「新羅本紀」には「葛文王」と名のる人が多い。舞鶴の笶原神社は以前は「匏宮」で匏はひょうたんで祭りの矢は「磯葛島」の竹薮にあった。「葛」はカツと読み「ひょうたん」の「瓠」カク。混乱させてすみません. |
[492] Re[481]: はじかれた少彦名 マルヤ | 2002/12/09(Mon) 11:39 [Reply] |
> 続けさせていただきます。 > マルヤ様からスクナヒコナを個人でなく集団として捉えるようご指導いただきました。 マルヤです。今、拝見しました。 日下部さんは横木瓜さんと同じ方なのでしょうか? 私は、おこがましくも上記のように「指導」など、していないと思います そして、「スクナヒコナを個人でなく集団として捉えるよう」と表現した訳でもはありません。もう一度下記の「やさか掲示板」[136]を、よくお読みください。 どうか誤解のないようにお願いします。 http://www.journey-k.com/cgi-bin/mbs/mbspro-2/bbs.cgi?room=maruya88 |
[491] 無題 日下部 | 2002/12/09(Mon) 11:15 [Reply] |
玄松子様、私の書込みに注目して頂き感謝します。 [485]「私はガイドブックを鵜呑みにして「古代」をさまよう初心者で、自分の意見など補うどころか持ち合わせもない情けない迷子です。」 と申し上げたのですが、重ねて [488]「・ご自身の解釈・意見は無いのですか?」とおっしゃいます。 「歴史学は常に仮想現実です。どんな定説でも絶対ということはありえません。、、、考古学にしても今日の新発見が、明日には覆される可能性を常にはらんでいます。、、、現在まで「記紀」と違った定説が成立したことは、皆無といっていいのです。私の場合も「記紀」と外国史料を比較検討して、より事実と思われる可能性に迫ったに過ぎません。、、、」(興亡古代史・小林惠子) 膨大な史料から纏められたこの書を、自分の「古代ガイドブック」として利用しても、公の場で今の自分のレベルで感想をのべたり、評価するなど僭越なことです。他人に誤解や混乱を与えるだけと思い自粛しております。 私は、自分の祖先や、身近な神社、日本という国がどのように形成され、成立したのか?「古代」でまごついているものです。ただ、貴方がおっしゃる [486]「「知識」(出来る限りオリジナルな知識)を収拾し、ご自身の意見として昇華するべきではないでしょうか」のオリジナルな貴方ご自身のご意見の証が [480]「青草らしい話題。 子供の頃に、何かの本で読んだ記憶。 ナスカ−アラスカ−アスカ。 スカでつながる環太平洋文化圏。(モンゴロイドだったかな) 「トンデモ本」だったと思うのですが、書名は忘れました。」 なのですか? [482]「まず、古典を読んで、通説と呼ばれているものをしっかりと認識することが先決です。(これは、人間のすべての行為で言えることではないでしょうか)」と貴方は説かれて [425]「「雨」と「海」とが根が同じだと仮定すると、水全般に「アマ」という音が用いられていたかもしれない。(これは根拠のない無責任な思いつき)」とおっしゃる貴方の「しっかりした認識」 に私は矛盾を感じるのですか? それなら私にもこの場をお借りして、混乱を招く恐れがありますが、是非自分の感想を書き込ませてください。 しかし、貴方のように [412] 「> 今ひらめいた、まったくの思いつきですが。 青草掲示板ですからね。それで十分だと思います。」 でいいのでしょうか?????? やはり私にとっては重要な「古代観光案内所」です。 |
[490] Re[489]: 無いものを見つける行為がコジツケなのです 訂正 玄松子 | 2002/12/08(Sun) 23:24 [Reply] |
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僕らにとってもhvhyさんにとっても意義のあることではないのではないでしょう。 僕らにとってもhvhyさんにとっても意義のあることではないでしょう。 |
[489] 無いものを見つける行為がコジツケなのです 玄松子 | 2002/12/08(Sun) 23:18 [Reply] |
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天皇と月宿(二十七宿)の組み合わせは、形式的に見れば「54通り」あります。 「天皇と月宿に関係在り」という前提に立てば、任意の組み合わせを決めて、「使えそうな」ものを探すことは可能です。 > ここで仮に他の「53通り」の組み合わせに対しても、これに近い程度の「使えそうなもの」が見つかるということなら、話は違ってきますね。 出来ませんか? 例や解説で挙げられた「程度」のものなら、見つかりそうな印象ですが。(僕はしませんよ) hvhyさんがこれまで書かれた内容には、多くの疑問を感じています。そのほとんどは僕の知識の無さが原因だと思いますが、幾つかは明らかな疑問。 その疑問を多く含む内容から導き出した結論を前提として、次の書き込みが行われ、それがくり返されています。 今回、古事記と方位と風に関して、幾つかの疑問を感じ、みなさんのイロイロな意見を聞くことが出来ましたし、イロイロな見方があるということもわかりました。 hvhyさんが当然の前提、説明の一部として使用する多くの事象が、このような吟味・意見交換を行わず、処理されていくことは、僕らにとってもhvhyさんにとっても意義のあることではないのではないでしょう。 hvhyさんにとって書き込む内容は、ご自身の吟味を経たもの、当然のことと思われるでしょうが、初見のものには、鱶飼(フカカイ)の塊なのですよ。 質問しても回答を得られない場合もありますよね。 |
[488] Re[487]: 無題 玄松子 | 2002/12/08(Sun) 21:24 [Reply] |
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玄松子様 言葉足らずですので追記します。 申し訳在りませんが、日下部さんの「意図」が理解できません。 八束水臣津野命と大己貴命と素盞嗚尊の関係を示して欲しいということでしょうか。 あるいは、もっと深い疑問があるということでしょうか。 ・ご自身の解釈・意見は無いのですか? ・以下の書き込みのように、多くの方々の『貴重』な解釈を収拾し、どのように処理なさるつもりなのでしょう。 |
[487] 無題 日下部 | 2002/12/08(Sun) 20:34 [Reply] |
玄松子様 言葉足らずですので追記します。 「八束水臣津野命について、幾多の先学が様々な読み方と解釈をされており私の出番はありません」とおっしゃるかたや、 「国引「くにびき」とは国引き神話から名づけられた愛称です。(島根国体の名称にもなっています)その粗筋はこうです。八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)という神様が出雲の国が余りに小さいことを嘆いて、海の彼方にある余った土地を引っ張ってきて、出雲国の土地を広くしてくれた。というお話しです。ちなみに、この時に出来た土地が、今の島根半島になります。 なお、ここで出てきた舌を噛みそうな名前の神様ですが、早い話が大国主命の事です」とか 「 美保神社のある島根県八束郡美保関町の地名は、この力持ちの神に由来します。島根半島は神が造った聖地であり、東端の美保関は古くは大いなる岬を意味する「御大之御前(ミホノサキ)」と呼ばれていました。 「国引き」は八束水臣津野命が行ったが、大国主神と八束水臣津野命は同一神視されている。」 「出雲神話は所謂『風土記』にその残存が有る。 出雲は八束水臣津野命が縄で彼方此方から引き寄せ大国を作ったという いわゆる国引き神話である。引き寄せた範囲は出雲の勢力範囲であろう、西は新羅 東方は越前辺りにまでおよぶ。 もちろん新羅の国を属国化したなどという事実は無い これは朝鮮半島に交易拠点になるポリスでも有ったというところだろう。 向こうからみれば日本人街がある程度のものだがここを通して中国に物を運べば これが朝貢品として納められ、持っていった物に数倍する物をくれる。ぼろい商いだ。 良客に対して腰を低くするのは当たり前、銭を払う奴が神様と思えば万事OKである。 臣従の例を教えられればその通りにしただろう。 中国側の記述と矛盾しない。ようし、いいぞ。実に無理の無い展開だ〜。」 等々諸説あるようです。ただ、 「「狭野」は出雲国引き神話の八束水臣津野命(ヤツカ・ミヅ・オミヅノみこと)の言葉「この国は狭布の稚国であるが・・」に含まれる共通モチーフであり「御毛沼」(ミケヌ)という音は「加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」(カブロギ・クマノの・オオカミ・クシミケヌのみこと)(出雲国造神賀詞)と同じである。」 これは別です。 |
[486] Re[485]: 無題 玄松子 | 2002/12/08(Sun) 19:50 [Reply] |
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あなた様のお説を御聞かせください。 古代史の全てに関して、「知識」と「興味」があるわけではありません。 「興味」のある方が、「知識」(出来る限りオリジナルな知識)を収拾し、ご自身の意見として昇華するべきではないでしょうか。 |
[485] 無題 日下部 | 2002/12/08(Sun) 19:39 [Reply] |
玄松子様はじめまして。私はガイドブックを鵜呑みにして「古代」をさまよう初心者で、自分の意見など補うどころか持ち合わせもない情けない迷子です。 「58年 北九州奴国王は後漢に朝貢し、光武帝から金印「漢委奴国王」を貰った。私はこの金印の文字を「漢が奴国王に(列島の)統治を委任した」という意味に解釈する。」という通説でない「説」があることがわかったくらいです。あなた様のお説を御聞かせください。 於是天神諸命以詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神修理固成是多陀用幣流之國賜天沼矛而言依賜也彼二柱神立天浮橋而指下其沼矛以畫者塩許袁呂許袁呂邇畫鳴而引上時自其矛末垂落之塩累積成嶋是淤能碁呂嶋、、、 の塩累積成と水蛭子についての通説と貴方様のご意見を承りたくお願します。 なお、ご指摘の件は、実は「、、、」のところに「「出雲風土記」の記載はいかにも童話風な記述なので、まともに歴史的事実として評価されたことはなかった。しかし、」と書かれていました。私の独断でかつあいし誤解を招いて申し訳ありません。ですがこうして、貴重な助言をいただけて大変ありがたく思っています。なにとぞ、今後とも宜しくお願いします。 |
[484] Re[477][476]: 須賀 かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/08(Sun) 19:30 [Reply] |
≫「スカ」と読んだ方が面白いかも 須賀スカの分布はスガと重複して、より太平洋岸に絞り込まれます。 地名分布からは須賀スガと同義とみえます。どちらが先輩かな? 須賀神社の呼称は近世での当て字だとしても、須賀の地名分布とスサノオとの関連は今のところないですね。 (菅の分布のほうが臭う) 素鵞神社というのも少なからずあるようですが平成祭りCD入手するかなあ。 ヒットした神社位置をドンと白地図上に表示できるといいんだけど・・独り言(^^; 分布を視覚で受け取れると、おややっという発見がけっこうあるんです。 (畑の地名の分布をみて愕然としたことがあります) |
[483] Re[482][481]: はじかれて発想 習志野のてつ [Mail] | 2002/12/08(Sun) 16:58 [Reply] |
八束水臣津野命(ヤツカミヅオミツノのみこと)が最後の国引きに、高志の都都の 御崎を引いてきて出来たのが三穂(美保)の崎。 この八束郡美保関町の美保神社に、諸手船(モロタブネ・フネ)神事があります。 諸手船は刳り(くり)舟(?)が二艘でセットになっています。この諸手とは両手 と考えますが、いかがでしょうか?(私説:一木を二つに割り、二艘の船を造った。 しかも連結し、双胴船にした。) 事代主が海に入るとき、 「記」では船を傾けますが、「紀」では船竅iフナノヘ)からはいっています。 船竅iフナノヘ)とは一体どこだろうか?*竅iエイ・かい・かじ、木偏に世) 岩波文庫の解説ではフナダナ(私説:双胴船の連結部分:この説まだどこにも無い) もし双胴船(カタマラン)なら、船を傾けることなど出来ない。 「古事記の記載はおかしい。」と思います。 自分の青草意見の為の勝手引用です。 |
[482] Re[481]: はじかれた少彦名 玄松子 | 2002/12/08(Sun) 15:58 [Reply] |
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もう錯乱状態です。どなたかお助け下さい。 他者の意見を全て鵜呑みにするから混乱するのではないでしょうか。 他者は、自分の意見を補う形でしか、古典を引用しません。 まず、古典を読んで、通説と呼ばれているものをしっかりと認識することが先決です。(これは、人間のすべての行為で言えることではないでしょうか) > 「「出雲風土記」(意宇郡)の最初に、大物主が新羅の国の一部の岬に綱をつけて「国来(くにこ)、国来」と出雲に引き寄せたという話が載っている。 大物主ではありませんし、大己貴でもありません、八束水臣津野命です。原点を確認する行為が重要です。 |
[481] はじかれた少彦名 日下部 | 2002/12/08(Sun) 14:36 [Reply] |
続けさせていただきます。 マルヤ様からスクナヒコナを個人でなく集団として捉えるようご指導いただきました。 スクナヒコナが大国主と協力して国造りを終えると粟の穂にはじかれて常世の国へ去っていったのが通説だそうですが「はじかれた」とは 「「出雲風土記」(意宇郡)の最初に、大物主が新羅の国の一部の岬に綱をつけて「国来(くにこ)、国来」と出雲に引き寄せたという話が載っている。、、、大物主と少彦名こと葛城氏は共同統治していたのだから、この国引き説話は両者が協議し、葛城氏が後進の大物主に押されて、辰韓に行き、辰韓を統治して、国の一部を大物主に割譲した事実を伝えているといえるかもしれない。葛城氏が辰韓に入った時期はおそらく紀元前五七年前後のことだったと想像される。この頃から約百年間が大物主勢力の全盛期だったのである。」(興亡古代史・小林惠子」 とありますから、後進の大物主と同系の月支国方面、犬戎系の瓠公=葛城氏の本拠地だった可能性のある狗邪韓国、「常世の国」方面に入りたいとおもいます。誤った方面に移らないよう、皆様「おかしい」「間違っている」などアドバイスをお願します。 なお、大三元様のHPを昨夜初めて見せて頂きました。 「奈良県の吉野に「井光」という地が今でもあります。これは(少なくとも現在では)「イカリ」と読まれます。神武記では「井氷鹿」と書かれているので「ヰヒカ」と読まれてきましたが、上記を見ると、もともと「イカリ」と読むべきなのかもしれません。 そういう次第で、丹後風土記残欠と姓氏録の話のルーツは同じなのではないか、と思いました。こんな説、ありますか? <これは宮津の真名井神社にも関係する話でしょうか。ふと思ったのですが真名井神社とは葛城氏と関係する神社だとおもいました。なぜそこにイザナギ、イザナミが関係するのでしょうか。イザナギとは徐福のことだと言う人がいましたがもう錯乱状態です。どなたかお助け下さい。 |
[480] スカ 玄松子 | 2002/12/08(Sun) 13:00 [Reply] |
青草らしい話題。 子供の頃に、何かの本で読んだ記憶。 ナスカ−アラスカ−アスカ。 スカでつながる環太平洋文化圏。(モンゴロイドだったかな) 「トンデモ本」だったと思うのですが、書名は忘れました。 |
[479] Re[477][476]: 須賀 神奈備 | 2002/12/08(Sun) 11:56 [Reply] |
式内社では須加と須賀が拮抗。 伊勢国壹志郡 須加神社[スカ] 河内国石川郡 壹須何神社[イスカ] 但馬国二方郡 須賀神社[スカ] ] 須はさんずいへん 丹波国何鹿郡 佐須賀神社[サスカ] 玄松子さん> 「スカ」と読んだ方が面白いかも。 延喜式の読みは全部、スカっとしていますね。 現在の須賀神社(含む摂社 すがのルビが多い)は『平成CD』では 1位 福岡 130 鞍手郡、宗像郡が多い。 2位 兵庫 64 赤穂郡が多い。 3位以下 高知 29、茨城 28、千葉 24、山口 21。 各地の由緒書きなどにはよく合祀されているようです。須賀社は牛頭天王として後世に勧請された小社が多かったのかと推測。 かたばみさん> 須佐の男。海辺の砂にまみれて漂着した男(^^; 山口県の須佐湾。 いい感じですね。高山(神山)には素盞嗚尊降臨伝承があるようですし、また鉄を食う神と云われる蚩尤と戦った黄帝を祀った黄帝社が鎮座しているようです。 |
[478] 無題 日下部 | 2002/12/08(Sun) 11:37 [Reply] |
神奈備 様 始めまして。私は丹波道主のエリアに住んでいます。籠神社の裏山にある真名井神社で汲んだ水を沸かしコーヒーを戴いています。この神社に愛着を感じております。雅子様がご出産されてはや1年が経ちました。「皇族とは」「自分の先祖は」と考えているうちに「古代」にワープし、さまよい多くの古代掲示板と、神奈備掲示板を知りました。私の持っているガイドブックは「興亡古代史 東アジアの覇権争奪1000年 小林惠子」です。この掲示板にも書き込みさせていただいております。私は迷子です。「国神の井光と名のった」「吉野の国樔部」「高尾張邑」これらが槃瓠伝説を持つ犬戎と呼ばれる北方民族の葛城を率いるスクナヒコナが定着した場所ではないか?その後、舞鶴、宮津に「匏宮」という足跡をのこし常世の国にさった頃で紀元前57年頃でしょうか。大三元様の「記紀のスクナヒコに関わる説話に、少しでも葛城さんとのつながりのあるものがありましょうか。私は知らない。」をはじめ立派なアドバイザーの方々から親切なご意見を戴きました。この場をお借りしてお礼を申し上げます。一刻も早くこの迷路から脱出できるよう今後ともよろしくお願いします。 |
[477] Re[476]: 須賀 玄松子 | 2002/12/07(Sat) 21:38 [Reply] |
> 須賀で地名を探すとほとんどが大河川か海岸近くにあります。 > わずか2文字なんですがほかにスガと読む地名は菅しかなく、こちらはほとんど山間に分布するのが面白い。 「スカ」と読んだ方が面白いかも。 |
[476] Re[470][462][459]: 須賀 かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/07(Sat) 19:53 [Reply] |
≫「須賀とは砂の丘を云う」との話、何かで読んで気に入ってます。 須賀で地名を探すとほとんどが大河川か海岸近くにあります。 わずか2文字なんですがほかにスガと読む地名は菅しかなく、こちらはほとんど山間に分布するのが面白い。 須賀はス+ガ、菅はスガで、同じではないのかもしれません。 河川や海岸であれば「須」が「州」である可能性あり。海や川の堆積物の部分。 とすると須佐とか須波(須羽、周防、諏訪)にもつながって面白いです。 須佐の男。海辺の砂にまみれて漂着した男(^^; 山口県の須佐湾。 須波→海浜の波、周防の武将タケミナカタが隠居してその地が諏訪。 なんて・・ しかし1文字や2文字では「似ているもの」はいくらでも転がっていそうです。 もうひとつひねれば佐賀や滋賀も須賀と同じ、とできるし。 須賀神社の分布はどうなっているのかなあ。 |
[475] Re[469][468][466][465]: 新羅と百済 かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/07(Sat) 19:45 [Reply] |
≫統一新羅はやはりシラギと読まれていたのでは シラが本来なのかもしれません。 シラギというのはシラの城という意味のようですがだれが使い始めたのかなあ。 平凡社の三国史記では表題にわざわざシラとふりがなをつけてシラギじゃないぞと主張してます(^^; 神奈備掲示板の3693 ≫3世紀に百済はあったのでしょうか 晋書(265-420)の夷伝には扶餘国、馬韓、辰韓、粛慎、倭人が記されています。 扶餘国が対外的に百済の呼称になるのは372に晋に朝貢したときからと思われます。 百済本紀によればAD300頃では百済(扶餘国)はソウル南方あたりまでの進出で、接触(抗争)していたのは新羅(辰韓)だけで倭国との関係はみえないです。 また、近肖古王346-375の時代に文字を使い始めたとあります。 この時代に中国文化を導入しはじめたものとみえます。 したがってこれ以前に「百済を介した中国文化渡来」という事象はありえないと思います。 朝鮮半島の情勢は流動的で、百済や新羅を一元的にとらえることができない時代が続きます。 半島と列島の関係を考えるにその流れが非常に重要と思いますが、ここでは省略します。 |
[474] 鳥見山傳称地私考(要旨)10 神奈備 | 2002/12/07(Sat) 13:46 [Reply] |
第四章 民俗学よりの考察 土地所有者の手記を掲ぐ。 『鳥見霊畤伝承地ノ国見山(頂上を矢倉王岳トイフ)ハ布留川ト高瀬川ノ分水嶺ヲナシテ南ハ桃之尾(元ト官有地)北ハ高橋山(地積貮百貮拾町歩)櫟本外拾参ヶ大字ノ共有地ナレリモ元禄拾三年二、上郷ト下郷トニ分割シ現在ハ下郷ハ共有山(上郷ハ私有地)デアッテ東ニ八ツ岩ト云フ王岳ヨリ少シ高嶺ガアリマス。是ハ古シヘ天カラ一振ガ布留川ヘ流レテイッタノヲ折柄洗濯ヲシテヲッタ布ニ留マッタ為ニ布留川ト云フ。其ノ劔ヲ石上神宮ニ御祭リシテアルノダト言ヒ伝ヘテイマス。 国見山ノ近クニ天狗岩、クツカケ、イワシ谷、マスガ谷、等ガアッテ、イワシ谷ニハ石ニイワシヲ彫リ付ケテアリマスガ谷ニハ枡ノ形ヲ石ニ彫リ付ケテアリマス。又北ノ方カラ国見山ヘ登ル所ニ大道ト云フ所ガアリマス。古来王岳ヘ 神武天皇様ニ由緒ガアッテ神聖ナル森厳ナル場所トシテ地方人ヨリ尊ビ恐レラレテイマシタ。 其ノ山ヲ伐採スレバ必ズ祟リガアルト云フ伝ヘラレテイテ又実際ニ負傷シタリ病気ニナッタリ其ノ外色々ナ事ガモチアガッタ事ガ多イノデス。山ノ七合目辺リカラ奇岩大岩ガ重ナリ合ッテイテ石ノ間カラ木ガ殊更ニ生エテイル観ガアリマシタガ、今カラ十二三年前ニ或ル石工トノ間ニ石ノ採掘契約ヲ結ビマシテ三年間程石ヲ採掘イタシマシタ為ニ西側ハ表面ニ出テ居タ巨石ノ大部分ガ取リ去ラレ山ノ形ヲ非常ニ損ジタ事ハ残念ニ思ッテ居マス。又大岩ヲ採掘シカケテ貮年目位ニ私ノ父ガ発病シテ亡クナリマシタ。是ハ偶然ソウナッタダト思ヒマセズ一般ノ人人々ハアノ山ノ石ヲ採取サシタ為ニ死ンダノダ、外ニ石工モ種々事件ガアッテ中止シマシタ。 又古クカラ桃尾ノ奥院ダト云ッテ今モ龍神ヲ祭ッテアル場所ガ□ノ方少シ下ッタ所ニ小サイ池ガアッテ旱天ノ為農作物ニ被害ヲ蒙ル様ナ場合ニ祈願スレバ雨ガ振ルト云ヒ伝ヘテ居マス。又其ノ池ヨハ高イ所ニアルニ不拘水ガ絶ヘタ事ガアリマセン。』 福井氏の手記中にある鳥見山の一部高橋山(高瀬山ともいふ)は俗に タコセ といふ。高瀬の訛である。上郷と下郷とに分かれ上郷は米谷(マイタニ)、堂ヶ谷の所有で、下郷は別所、田部、小田中、指柳(サシヤナギ)、新庄、横田、櫟枝、櫟本、全(ママ)部等の所有である。もし全区域は薪刈場であったが今は分割して各村々各個人に所有し年貢を払ひ村へ配り当てゐる。高瀬川の流域の村々であるが水利関係ではない。別所、田部などはこの川の流域よりも布留川の流域である。領主関係でもない。例へば別所が藤堂藩、櫟本が東大寺領である。然からば何に関係するかといへば全く一の信仰関係によるものと謂わねばならない。この山を分水嶺とする流域の村々は信仰上から毎年の薪刈は一は神聖なる山の掃除と見なければならない。この山の背の端が国見山であり鳥見の山である。 |
[473] Re[472]: アホクサふらつきにも“タブー”があった 玄松子 | 2002/12/06(Fri) 21:56 [Reply] |
>
編纂当時、すでに意味が判らなくなっていた「ククノチ」の「クク」について、古事記はこれに「木々」だとの注釈をしています。日本書記……推して知るべしです。 古事記では「次生木神、名久久能智神」、日本書紀では「次生木祖句句廼馳」と書かれていますが、「木々」とはどこにあるのでしょうか。 |
[472] アホクサふらつきにも“タブー”があった 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] | 2002/12/06(Fri) 20:23 [Reply] |
以下のカキコは、時代を区分する重大発言ですので、こころして対処願います。
…………………… 編纂当時、すでに意味が判らなくなっていた「ククノチ」の「クク」について、古 事記はこれに「木々」だとの注釈をしています。日本書記……推して知るべしです。 ゴキブリが一匹出た……ということは?? クク(木々)解釈が誤りである以上、紀記古文献に見られる意味不明な語彙につい て、これを日本語に残っている語彙の変化態などのなかで把握することが、如何に貧 困な、或いはまちがった解釈へしか導かないものであるか……の、論理的帰結を意味 しています。 古文献を巡ってのさまざまな思いでロマンを楽しむにしても、吾人は須らく少なく とも十種以上の外国語辞書を読むべきであって、「それを遂げていない個は、語彙に関 しての類推、推量を弄ぶ資格はない」のであります。ましてや、外国語を一言語すらみて いない者においておや……です。 また、古文献に見られる不整合性も、いい加減な編纂取組み基準が原因である以上、 当然にも出るべきものが露出したまでです。 こまかいところは、各自の判断に委ねます。 |
[471] Re[3697]: 具体的な対応の説明←神奈備から 玄松子 | 2002/12/06(Fri) 05:21 [Reply] |
神奈備書き込みに対するレス > 一つ一つ見るだけなら、偶然のようにも見えますが、その全体を評して偶然と言うことは、なかなか難しいと思われます。 知識と理解力がないせいか、僕には「コジツケ」としか見えないのが残念。 > その後に「コジツケ」かどうかを判断しても遅くはないと思います。なんと言っても、双方の内容を吟味しないことには始まりません。 二十七宿を念頭において、使えそうなものを探す行為は、「吟味」とは云えないのではないか、と思います。 |
[470] Re[462][459]: 越と猿田彦 習志野のてつ [Mail] | 2002/12/05(Thu) 18:05 [Reply] |
だいぶ時間が過ぎましたが > 三越なんてのは三回も山を越えないといけない場所の意(^^; これは「三井」が他を超える=越す の意味では?(^^! > 宮崎県の日向に五瀬川、五十鈴川、耳川が並んでます。 > 五ケ瀬川→神武の兄の五瀬命(^^; 上流は高千穂の峰から阿蘇高原へ抜ける。 > 五十鈴川→猿田彦の住まい。 > 猿田彦は高千穂で出迎えて日向への沢下りルートを道案内したと推定。 私も宮崎で耳川の名を聞いたときドキッとしました。しかし 猿田彦(五十鈴川)までは考えませんでした。すばらしい発想ですね。 > …須賀… 「須賀とは砂の丘を云う」との話、何かで読んで気に入ってます。 確かに海辺の砂地が多いと思うのですが、どうでしょう? |
[469] Re[468][466][465]: 新羅神社 神奈備 | 2002/12/05(Thu) 16:38 [Reply] |
> 同じ内容の出羽氏の新羅神社考 ありがとうございます。気が付きませんでした。五十猛命はなかなか登場しませんね。 > シラギとシンラを使い分ける 新羅は日本読みではシラギとは読めないと思います。新羅大明神の名を頂いたとしても、新羅と格からにはシンラとしか発音できないと単純に考えていました。 統一新羅はやはりシラギと読まれていたのでは。 |
[468] Re[466][465]: 新羅神社 かたばみ [Mail] [Url] | 2002/12/03(Tue) 18:45 [Reply] |
≫出羽弘明氏が全国の新羅神社の探訪のことが掲載されていました おそらく同じ内容の出羽氏の新羅神社考が連載されています。 http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/ なお、以下のような流れを推定しているので、新羅といっても実際には伽耶(伽耶系人物)を含むものと考えています。 出雲時代に伽耶と出雲は同体と推定(大年系の系譜のメインが伽耶にあったとみる)。 この時代の新羅(辰韓)は天孫とおおよそ同体で伽耶とは抗争。 (赫居世系(朴氏)〜脱解系(昔氏)でまだ弱小国) 出雲滅亡後も伽耶はしばらく自立していたが、応神以降で「倭国」に従属して後に任那日本府となる。 この頃の新羅は閼智系(金氏)となって国力増大して倭国と敵対、倭国は百済と連合。 新羅による半島統一後の記述はみな新羅と書くことになりますが、百済系や伽耶系(≒出雲系)であった人物も含まれるわけで、シラギとシンラを使い分けるのはそのあたりのこともある、と考えています。 |
[467] Re[466]: 新羅神社 玄松子 | 2002/12/02(Mon) 11:42 [Reply] |
> 『平成CD』に「しんらじんじゃ」のルビで、祭神を新羅大明神
新羅三郎源義光としている神社のことですね。 そうです。 新羅三郎源義光だけだと単純ですが、新羅大明神と併記されているのが気になりました。 |
[466] Re[465]: 新羅神社 神奈備 | 2002/12/02(Mon) 09:34 [Reply] |
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静岡浜松の新羅神社って、ご存知ですか。 『平成CD』に「しんらじんじゃ」のルビで、祭神を新羅大明神 新羅三郎源義光としている神社のことですね。 新羅神社を地域によっては「しらぎじんじゃ」と読む所もあります。 新羅神社という神社は半島の新羅系ー祭神としては素盞嗚尊、時として五十猛命のものと、源氏系ー祭神は新羅三郎源義光とありますね。 おそらく、園城寺三井寺の鎮守の新羅善神堂(新羅神社)が半島と源氏をの接点となったのでしょう。 また越前の白城神社「鵜草葺不合尊」や信露貴彦神社「邇邇藝命」、また能登の白比古神社「猿田彦大神」なども新羅神社だったのかも。 注:「祭神」は『平成CD』によった。 注:平成13年12月18日 日経新聞文化欄に出羽弘明氏が全国の新羅神社の探訪のことが掲載されていました。上記書き込みはこれも参考にしています。 |
[465] 新羅神社 玄松子 | 2002/12/02(Mon) 01:39 [Reply] |
静岡浜松の新羅神社って、ご存知ですか。 |
[464] Re[463]: 所造天下大神 神奈備 | 2002/12/01(Sun) 21:38 [Reply] |
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1カ所だけ八つ口の関係で単なる省略かもしれない「所造天下大神」だけの部分がでてくるの おっしゃる通りです。 [459] > 「所造天下大神大穴持命、越の八口を平けむとして」誤 > 「所造天下大神、越の八口を平けむとして」正 です。 > 怪しげではあってもいろいろの怪しげが阿蘇〜日向にあることに注目しています。 それぞれの時代の抵抗者達とは、大和へ赴いて権力を握った同族がクーデターなどで権力者でなくなったとたんに抵抗者と見なされるでしょね。筑紫の君の石井、雄略天皇の後胤?? 鳥見山傳称地私考(要旨)9 第三章 考古学上よりの考察 ○上代の神祇鎮祭の霊代としての磐座の存在 三、磐境と鳥見霊畤 大規模な磐境構築は神社祭神関係から見ると出雲氏族と離れることの出来ないものであると言はれ、大神神社は出雲氏族の大和地方に於ける総社であったと思はれる。しかし磐境・磐城は出雲民族の独創になる神祇祭の形式ではなく、同様の方法は『日本書紀』の天孫降臨の條に「高皇産尊、因に勅して曰く、吾は即ち天津神籬及び天津磐境を起こし樹て、吾孫のためwに齋ひ奉らん、汝天兒屋根命・太玉命宜しく天津神籬を持ちて葦原中国に降り亦吾孫のために齋ひ奉れる、及ち二神を使はして天忍穂耳尊に陪従へて降らしむ。」とあって、神籬と磐境は神鎮祭の唯一無二のもので天孫・出雲民族が葦原中津国を修理固成するに当たり神祇鎮祭の形式であったと推察申し上げるのである。 饒速日命(天火明命)の子孫が内つ物部として皇居を守護せしめられ、この神又はこの神裔を祭った社が延喜神名帳に全国四十一ヶ国に亘り、神武天皇が大和御平定に用ひ給うたと伝へられる布津御魂の神劔を宮中から石上神宮に移され給うた事は単に霊劔を移されたと解すべきではなく、鳥見霊畤の地と饒速日命の本拠地へ帰られたまうたと見るべきであり、これは饒速日命の後裔に当たる物部氏一族が石上神宮に奉仕せし事実から推論出来るのである。 |
[463] 所造天下大神 かたばみ [Mail] [Url] | 2002/11/30(Sat) 19:15 [Reply] |
スサノオ時代では日向〜豊前豊後〜宗像〜糸島とその後ろの背振山(大年神の子、曾富理ソフリ?)の吉野ケ里がその人々の活動地域、とみています。 スサノオの日本での故郷は北九州、この頃の中国地方はまだ半縄文の地(日本海側は大穴持神の在る所)。 後に大国主が豊前豊後を譲って引退した場所が島根出雲の杵築大社。 大国主以降の出雲神族は瀬戸内〜近畿に進出し、そして出雲が崩壊。 各地の出雲神話は島根出雲に集約されていった。 このあたりは記紀の意図の中枢のひとつ、そう考えています(風土記含む)。 風土記で「所造天下大神大穴持命」が何度もでてきますが、「所造天下大神」だけで大穴持命の名が書かれていない記述も多数登場します。 単なる省略なら名を書いたり書かなかったりはしないでしょう。 1カ所だけ八つ口の関係で単なる省略かもしれない「所造天下大神」だけの部分がでてくるのが、かえって意図のあることを感じてしまうのです。 大穴持命の名のある伝承が島根出雲本来の伝承であり、それ以外は他から移された伝承ではないかとみています。 抹殺されてしまった出雲神族系の伝承を残すために、あいまいな表現を使って移した。 移したのは中臣氏に対抗した忌部氏(出雲臣族)。 八岐大蛇伝承は古事記に記載されているので移す必要なし。 国引き伝承は記紀に載らなかったので移されている、といった具合です。 |