青草掲示板ログ平十五 二月
2003.1
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草掲示板

[704] 神奈備様への質問  李 南準 2003/03/01(Sat) 05:34 [Reply]
(684 ありがとうございます)

白日別と五十猛は同一神なのでしょうか。
白日別と五十猛が並んで祭られている神社はありませんか。
自分で調べても何だかよく分からないのです。

白日別と五十猛が親子ということは考えられませんか。

もし、二神が親子なら...
五十猛=倭武、とすると、勿論、厳密には「i」と「wi」では違いますが、
白日別=景行、ということになります。

景行の和風名は白日別に似ていませんか。

日本書紀の九州関係の記事(4世紀)は、3世紀というか、神代の匂いがします。

[703] Re[701][696][694] [695]  日雲 2003/03/01(Sat) 02:52 [Reply]
ただ今戻りました。真に失礼致しました。並びに、御返信ありがとうございます。

> 荒っぽい印象ですが、明るくキラキラした紀の国に天白信仰はあまり似合わないような気がしますね。
ふーむ……しかし、江戸末期まで、実際に伊勢でそう歌われ続けていたようなのです。
これは一体どういうことなのか……何かの痕跡くらいあっても良さそうなものですが。

>(2)北辰妙見神社 
>(3)丹生都比賣神社と竈神は密接です。
とりあえず、この辺りから徐々に探っていってみるしかない、のでしょうね。

>丹生都比売命は粉河郷の祖神として祭られているようです。
秩父の丹党中村氏の場合などは、当然ながら丹生神社を祀っておりましたため、長らくそれが彼らの氏神だったと信じられていたようですが、その末裔宅の屋敷神や、屋敷跡にある神社などを調べると、大概諏訪神社があったために、こっちが彼らの「いわゆる氏神」だったのではないか、という説を出した郷土史家さんなんかもおられました。
>この丹生都比賣は丹沙の産地に多く祭られている女神ですが、赤の呪術を持ち込んだ秦氏は丹沙から水銀を取り出す能力があったとされています。
これは要するに、丹沙を取って精製することを生業としていたから、丹生都比賣を祀っていた訳ですよね?
とすると、和歌山の丹生関係、彼ら本来の血族的な意味での祖は如何なる者達であったのか……?

>その秦氏が持ち込んだ神に竈神がいると云われます。精錬に要したのでしょう。
竈神、ルーツ的に一本化できるものなのでしょうか……?
それが出来る/出来ないを明確にする方法があるのかどうか……?

も、もう……ギブアップしたくなっちゃいますね(;==

[702] 無題  菅原眞道 2003/03/01(Sat) 00:53 [Reply]
わー鋭い質問です。玄松子さん
水については、何も考えていませんでした。すいません
必死になって探しました。
日子の島<山口県下関市彦島>彦島大橋と言う、ホームページに
(彦島あれこれ<富田義弘>)によると、このトンネルの出口には、かつては、泉があり、この水を利用して、清涼飲料水や豆腐の工場があったそうです
この、二つの工場は大量の水を使うのではないでしょうか
彦島は、水の豊かな島と言えるでは、
強制終了が怖ーい
水に関しては、これでゆるしてください

[701] Re[696][694] [695]  神奈備 2003/02/28(Fri) 22:29 [Reply]
> 高野・粉河界隈に「天白っぽいもの」、何かお心当たり御座いますでしょうか……?

「天白っぽいもの」、星っぽいとか、竈っぽいとか、瀬織津っぽい、風水っぽい、と云う事でしょうか。
要は怪しげで謎っぽい神様のお話。

(1)『山海経』第十七 大荒北経に胡不譽国が出てきます。以下、日本探検家協会の高橋さんの書かれたコメントから。
 超古代の地球規模の大洪水以前に「胡不譽国」という国が和泉葛城山の麓、和泉市父鬼(ふき)から和歌山県粉河町へ向かう中津川の丹生津比売神社の付近にあったそうです。
 この父鬼の地が高野山東の富貴の地に地名移転を行ったし、そこの丹生神社は中津川の丹生津比売神社が元社だという説です。
 また、高野山の名も、葛城山の古名の高陽山(高陽という王様がいた)の名から付けられたとしています。 以上は高橋さん。

 さて、和泉市には父鬼の他に九鬼の地名があります。高野山の東側には富貴と云う所があり、丹生都比賣神社のルーツともされます。また中津川には役行者の先駆けの前鬼後鬼の子孫が住み着いたとの伝承もあります。これは別にして、中津川の丹生津比売神社とは、那賀郡粉河町大字中津川の熊野神社が鎮座,祭神に丹生都比売命の名が見えるので、後裔社と思われます、丹生都比売命は粉河郷の祖神として祭られているようです。

(2)北辰妙見神社 伊都郡かつらぎ町滝 が鎮座、創建時期は不詳。白鳳時代の弥勒菩薩像が社宝としてあるようです。星辰信仰は秦氏と大きくかかわっているとも聞きます。

(3)丹生都比賣神社と竈神は密接です。丹生酒殿神社の本殿の裏にも木一本だけの竈神社。近所にもあります。この丹生都比賣は丹沙の産地に多く祭られている女神ですが、赤の呪術を持ち込んだ秦氏は丹沙から水銀を取り出す能力があったとされています。その秦氏が持ち込んだ神に竈神がいると云われます。精錬に要したのでしょう。
 
(4)瀬織津比女命は紀北では和歌山市、岩出町、橋本市の祭られています。それぞれ一社。

 荒っぽい印象ですが、明るくキラキラした紀の国に天白信仰はあまり似合わないような気がしますね。

[700] 身長  習志野のてつ [Mail] 2003/02/28(Fri) 08:25 [Reply]
「日本書紀」では日本武尊は身長一丈(約3m)とされる、大変な偉丈夫です。
ところが…
あの光圀が編纂を命じた「大日本記」を眺めていたら、景行天皇の身長は一丈二寸。
「なんだ父親よりも約6cm低いんだ。」と、少しガッカリ。

古事記で云う倭武命の九州遠征は、やはり無かったと思います。

[699] Re[698]: イツとイトでは大違い  玄松子 2003/02/28(Fri) 00:03 [Reply]
> 伊都(いつ)=(いつ)厳(げん)=(げん)彦
>       伊都=彦
> となり、伊都国の都(みやこ)は、関門海峡に浮かぶ、彦島に在ったのではないでしょうか。

彦島には水源となる川がありません。
当然、遺跡らしい遺跡もありません。
そういう場所に、都はありえません。

[698] イツとイトでは大違い  菅原眞道 2003/02/27(Thu) 23:43 [Reply]
伊都(いつ)=(いつ)厳(げん)=(げん)彦
      伊都=彦
となり、伊都国の都(みやこ)は、関門海峡に浮かぶ、彦島に在ったのではないでしょうか。

[697] 無題  菅原眞道 2003/02/26(Wed) 22:36 [Reply]
遅れてすみません、神奈備さん 
Expplorer eye の強制終了が2回も起きて、すべて無くなってしまいました。
これからは、短い文章しか送れません、お許しください。
魏志倭人伝の伊都国は、九州の糸島郡ではなく、伊都都彦(いつつひこ)が居た、
関門海峡の周囲に在ったと思います

[696] Re[694] [695]  日雲 2003/02/26(Wed) 19:46 [Reply]
玄松子様>『神道集』東洋文庫 です。
あ、やはり郷土資料の類ではなかったですか。
近所の図書館で見たものは、また借りればいいやあなどとコピーも取らずに返してしまって、瞬く間に「何だったっけ?」と(;==
どうも有り難う御座いました、近々当たり直してみます。

> この猟師は犬を連れていたとはありませんが、鉱山師であったのかも。
星と鉱山の関係もよく言われてるようですが、結局使われる神仏名は虚空蔵や妙見なので、
その区分けにかなり難儀しています。

> 吉備の中山神社も対になる神社として高野神社があるのが面白い。猿神と蛇神水神のようですね。
高野神社も合わせて調べてみようとも思ったのですが、中山神社ほど資料が豊富になく、
どうも今ひとつボンヤリとしていて良く解りませんでした……。

>現在の星座とはまったく違うもののようです。(菅原道真公の子孫談)
アトランダムな点をどう結んで見るか、ということですからね……西日本と東日本でも、この辺の見方は幾らか違っていたようです。
私が興味深く思っているのは、現在言う「かんむり座」を岡山界隈で「オニノカマ」と称していたことでしょうか。
その一方、住吉大社に『星神を祀っていた竈神社』がかなり古くからあったようですが、果たしてこういったものと関連があるのかどうか。
星馬鹿としては、「竈と星神」というと「阿蘇の火焚神事?」と想起し、「岡山でオニノカマ」というと「鳴釜神事?」と想起してしまうのですが……いずれ関西の竈神も当たってみないといけないのかなあ、と、かなり途方に暮れております。

> 所で、猟師が社寺建立に一働きする伝承は多いようですが、紀の国伊都郡の高野山の土地に空海を案内した猟師と犬の物語があります。狩場明神として墓と神社まであります。紀の国の高野山は元の神を丹生都比賣として水銀神や水神の要素がありそうです。猿はなさそうですが・・・。
ここは昨今、非常に気にかかってるところなんです。
某のりP掲示板の方でもチラと話題になったことがあったのですが、伊勢神楽歌の「てんはくの歌」に、
『高野、粉河に降りたもふ』
とありながら、どうもそこいらに天白っぽいっものが見当たらず、これはどういうことだったのかと……?
何か違う名称や形態に変わってしまったのか、それとも何らかの理由から廃絶してしまったのか……?
あと、こういう伝承に出てくる犬は大概二匹になっているという辺りも、何でなのか? 『彦星=犬飼星』の犬は二匹だったろうか? などと思いながらも、どうも解らず。

高野・粉河界隈に「天白っぽいもの」、何かお心当たり御座いますでしょうか……?

(と、話の流れ上、質問させていただいておきながら、明日から2〜3日仕事で出かけてしまいます……まことに申し訳御座いません)

[695] Re[691][689][688]: 自己レス  神奈備 2003/02/26(Wed) 13:54 [Reply]
> > また猟師とは中山の神の事で、金山彦神とされていますが、
> あ……これは「猿神退治」の犬を連れた猟師のことですね?

猟師違いでしたか。はやとちりの神奈備で・・・。

> 「猟師が石を神体として、水場で星の神(仏)を祀っていた」

この猟師は犬を連れていたとはありませんが、鉱山師であったのかも。
そうするとおそらくは乙麿もそうであったろうから、似たような存在と言う事ですね。

所で、猟師が社寺建立に一働きする伝承は多いようですが、紀の国伊都郡の高野山の土地に空海を案内した猟師と犬の物語があります。狩場明神として墓と神社まであります。紀の国の高野山は元の神を丹生都比賣として水銀神や水神の要素がありそうです。猿はなさそうですが・・・。
吉備の中山神社も対になる神社として高野神社があるのが面白い。猿神と蛇神水神のようですね。

星信仰についてはこの国には古くからあったようで、占いの基本になっていたと伝わっているようです。平安貴族にはそれぞれ個人の守り星が一つないし複数あったようです。星座のイメージで把握していたようですが、現在の星座とはまったく違うもののようです。(菅原道真公の子孫談)

[694] Re[693]: すいません。  玄松子 2003/02/26(Wed) 09:38 [Reply]
> あの……玄松子様、何という本で参照されましたでしょうか……?

『神道集』東洋文庫 です。

[693] すいません。  日雲 2003/02/26(Wed) 02:49 [Reply]
「オンサラマニョ」界隈について何か見落としはなかったものだろうかと、群馬の図書館でコピーしてきた分のファイルを引っくり返したのですが、
「オンサラマニョ」の言葉自体がどうしても見つかりません。私は一体何で見たのか(;==
あの……玄松子様、何という本で参照されましたでしょうか……?
(こんなのばっかりで、もう……)

[692] Re[690][688]: 自己レス  日雲 2003/02/25(Tue) 22:45 [Reply]
> 日光では各地の伝承が取り込まれている印象を受けます。
同感です。
最も日光独自な独自な感じをもたらすのは、『男体山の岩裂と女峰山の大蛇』という地主神の部分でしょうか。

> 赤城の大沼の神は、「オンサラマニョ」という名です。小野猿丸と似ています。
……気付かなかった……です(;w
「真言みたいな音」としか思わず、スッカリ脳裏から飛んでおりました。

赤城については、『諏訪から赤城にも人が渡った』というような伝承などもあるようですが、
何だか諸々が交錯していて、よく解りませんですね、この辺の関係具合は(;==

[691] Re[689][688]: 自己レス  日雲 2003/02/25(Tue) 22:33 [Reply]
> また猟師とは中山の神の事で、金山彦神とされていますが、
あ……これは「猿神退治」の犬を連れた猟師のことですね?
すいません、まぎらわしかったですね。黒澤山万福寺の創建由緒に出てくる猟師というのは、これとは違うのです。
万福寺の由緒をザッと書きますと、

「和銅元年正月十三日、黒澤山の『明星水』の付近に生えていたでっかいヒノキに、虚空蔵菩薩が降り立った。それを惣薪太夫という猟師が目撃、大感激して志を発して出家、堂宇を結んで虚空蔵菩薩の像を祀った。以来、正月と六月の十三日を会式とするようになり、僧俗男女貴賎群集をなして参詣するようになった。また、その後、惣薪太夫は地蔵菩薩出てくる霊夢を見たが、そこで地蔵菩薩の曰く、
『お前は殺生を生業とする罪深い男であるが、そうは言っても縁のあることでもあるので、ここで悪業から脱して、いよいよ善道に入りなさい。その時が来た』
――万福寺で地蔵も深く尊崇するのは、このためである」

これは後世に書かれたものであるので、かなり仏教的な価値観で糊塗されておりますが、それでも『猟師の創建』までは、どうやら無視し切れなかったようです。
で、縁起では惣薪太夫が仏像を安置したことになっておりますが、これは限りなく怪しいです。
というのは、先にも申しましたとおり、ここは江戸後期のいつぞやに火災で炎上するまでは本殿と拝殿の別れた神社様式の建築であって、現在、本尊としている「三十三年に一度御開帳」という秘仏の虚空蔵菩薩像は、往時には拝殿に置かれていたものでした。
現在は普通の仏教寺院になっておる訳ですが、その裏手には縁起にも出てきている「明星水」と呼ばれる池があり、かつてはこの真上に本殿があったらしく、その当時に本殿内で祀られていたのは、実見はしておりませんが、「石」だったそうです(その御神体石は今も現存しているとのこと)。
つまり、古くには、
「猟師が石を神体として、水場で星の神(仏)を祀っていた」
という状況があったようなのです。

尤も、この辺のことについて書いてある本は、恐らく一つもないのではないかと思います。
現在の住職様は三代前から世襲で勤めて来ていらっしゃる方のようですが、
「随分調べたつもりだったのですが、そんな話は何処にも載ってませんでした。これまで、昔の本殿に何が御神体として祀られていたか、を問題にされて、お話を伺いにこられた学者さんや郷土史家さんは何人ぐらいおられましたか?」
とお訊ねしてみたところ、「一人もおりません」とのこと――多分、一度も活字になっていないのではないかと思います。
とまあ、こうした寺社が中山神社の奥の院と位置づけられ、縁日より一日早い12日に、「中山神社の猿達」が参拝しに上がって来ていたという話などもあったりますから、ここは
「中山神社とは何ぞや?」
ということを考究する上でも、見逃せる存在ではないように私は思います。

で、中山神社につきましては、あまりに長くなりすぎますので、ポイントだけ箇条書き風にしてみますと――

★「今昔物語」の「猿神退治」では民話的な記述だが、それと同様の構造を持った中山神やシロゴロウの神の登場する由緒の方では、物部肩野乙麿など具体的な人名が出てくる。このギャップは何なのだろうか?
★シロゴロウの神にやられて反省し、人身御供をやめて鹿頭を奉納するようになったという乙麿は、以来、シロゴロウの神を崇敬するようになり、新たに開拓した土地でその神を祀るシロ神社を建てた、との記録がある(志呂神社は現在、コトシロヌシを祀ることになっている。シロつながりか?)――が、どうも跡付け臭い。普通に考えれば、乙麿は「かねてから信仰していた神」を持っていくものなのではないか?
説話上でも、地元の伝承でも、シロゴロウの神は『猿神退治』の犬の位置に相当するが、「シロゴロウの神=二匹の犬〜猿神退治譚(人身御供を止めて鹿頭を奉納するようになったという伝承)」は、これは元々、先住の乙麿の方が持っていたものではなかったか?
★つまり、「今昔物語」の「猿神退治」のような形が原型であったものが、その主役の座を、後にやってきた中山神奪われたということなのではないのか?
★ちなみに、シロゴロウの神の社はかつて中山神社境内にもあり、こちらの方でも、志呂神社の方でも鹿頭奉納が行われていたが、中山神社の方にそれを供えるのも、志呂神社の神人達=物部肩野乙麿の末裔達の仕事だった。中山神流入以前にこの地にあったのは、まず間違いなく狩猟祭祀であったと思われる。
★しかるに、その中山神社の奥の院とされた黒澤山万福寺は「猟師」の開基であり、ここに「毎月12日」、すなわち縁日に先行して「中山神社の猿達」が参拝にやってきたとの記録がある。由緒の伝承をそのまま受け取れば、「猿」とは物部肩野乙麿に仕えていた者達、という位置に認識されるのではないか。
★ところで、中山神社には『猿神社』があるが、これは元はシロゴロウ社である。シロゴロウ社が分かれて、猿神社と御先神社になった(理由は不明。ついでに記せば、猿神社は安産の神、御先神社は牛馬の守り神であり、農耕神である)。

――この辺をつなぎ合わせてみていただけますでしょうか。要素の書き漏らしもあるかも知れませんが、現段階での私の「限りなく結論に近いところ」としては、どうも前述のようなあたりに着地してしまいます。
ただ、残念ながら(?)、現在、志呂神社に星信仰は見当たりません。けれども、社家用の護符には、五茫星がメインにあしらわれております。が、その意味や理由は不明(一般論的な意
味ではなく、特にその謂れが伝わっていないということで)。

吉備津神社の本地仏が虚空蔵であるというのも気になりますが、この辺は省略します。
また、リロードしてみたら、ゾッとするほど長いのだろうか……すみません(;w

[690] Re[688]: 自己レス  玄松子 2003/02/25(Tue) 21:02 [Reply]
僕も別件レス
> (因みに、日光と赤城の神の戦いの伝説では、弓の名手「小野猿丸」が日光側に加担し、赤城を破ったとなっており、男体山の星宮神社には、その伝説を元にした弓矢の祭礼が伝わっています)。

赤城の大沼の神は、「オンサラマニョ」という名です。小野猿丸と似ています。

また日光神と赤城神の神戦では、日光神が蛇、赤城神がムカデで、俵藤太がムカデを退治する話が日光側に伝わっていますが、これは琵琶湖の龍神の話。

日光では各地の伝承が取り込まれている印象を受けます。

[689] Re[688]: 自己レス  神奈備 2003/02/25(Tue) 14:04 [Reply]
別件レス
> この猟師と物部肩野乙麿には、血族的な接点があったと見ざるを得ない――つまり、猟師も『先住』の筋のものであったことはほぼ疑いようがなく

先住の筋とは面白い表現です。
物部肩野乙麿の名前から交野物部を連想しますが、交野を離れた物部であったと考えますと、弓削守屋大連が交野の地を推古天皇(592年即位)に献上した以降、または大連が滅びた以降のような気がします。
また猟師とは中山の神の事で、金山彦神とされていますが、この神の構想は7世紀代ではないかと『古代の鉄と神々』真弓常忠著には出てきます。

小生は (1)先住の筋の者  (2)血族的接点を持つ  と言うあたりは疑いようがないとはとても言えないのですが・・・・

[688] 自己レス  日雲 2003/02/24(Mon) 22:04 [Reply]
>先に挙げた黒澤山万福寺は
あ……挙がってない……(;==
すいません、あまり長くなるのも何かと思ってカットした部分でした。
元はこんなことが書いてあったので御座います↓

日光男体山の方は二荒山神社の例祭において、諏訪前宮同様に鹿頭が奉納されますし、また勝道上人の仏教的開山の次第を記した伝承には、「男体山の星宮(磐裂)」が地主神として登場して来ますが、これは栃木に二百数十社犇く星宮信仰の源の一つとなっている社です(因みに、日光と赤城の神の戦いの伝説では、弓の名手「小野猿丸」が日光側に加担し、赤城を破ったとなっており、男体山の星宮神社には、その伝説を元にした弓矢の祭礼が伝わっています)。
一方、美作中山神社は、現在は廃絶しているものの、やはりかつては鹿頭を奉納する祭礼が執り行われており、これはいわゆる「中山神」が流入してくる以前、先住者であった物部肩野乙麿らが行っていた祭式のようで、同様の祭は乙麿が中山神に追放された先で創立したという志呂神社でも行われていました。
加えて、神仏分離までは中山神社の奥の院と称され、半ば一体化していた黒澤山万福寺、これは地元の「猟師」が星神の顕現を発見し、その顕現=石を神体として祀ったということから始まった、かつては神社建築様式だったのもので、詳しくは長くなるので控えますが、この猟師と物部肩野乙麿には、血族的な接点があったと見ざるを得ない――つまり、猟師も『先住』の筋のものであったことはほぼ疑いようがなく、すなわちこれはとりまとめると、やはり「狩猟祭祀と星信仰」の徒であったということになる。
で、言うまでもなく、諏訪前宮の守矢氏は鉄鐸を神宝とし、古くから北斗を信仰していたと伝承し、例祭には鹿の頭を奉納しておりました訳で。
これらを見る限り、諏訪と日光を結ぶ名は「小野」、諏訪と中山を結ぶ名は「物部」になっていますが――

ということでした。すみません。

[687] Re:姫路のみなさん  神奈備 2003/02/24(Mon) 16:05 [Reply]
> 今日は、始めての投稿です。
菅原眞道さん こんにちは。
神奈備掲示板から移動しました。
> そうなると、卑弥呼の卑は謙卑、自卑の卑であって、中国人が蔑んだ文字ではなく
自ら謙った文字では無いでしょうか。
国家間の公文書でそのような事例はあったのでしょうか。
後世には、いかにも尊大に構えています。尊大すぎて顰蹙をかっている程ですね。

> 伊都も、いと、では無く、姫路の地名である、いつ、と読むのではないでしょうか
全国一律の必要はありませんし、時代によって変わってもいいかと思いますが。『魏志倭人伝』の解読にどの程度の影響があるのでしょうか。
> 伊都族(スサノオウ)
いつ と読むので、スサノオウ でしょうか。いと と読めば 五十猛命でしょうか。

> だから、発見された,銅剣などに書かれた×は、魚吹神社の祭りの時に、
提灯に書かれている、×と同じで伊都族の印で、メ,目の意味ではないでしょうか

だから と言うのはそのつながりがもうひとつよく分かりませんが、銅鐸の×は謎ですね。
魚吹八幡神社の創建に紀角宿禰がからんでいるのですね。

[686] Re[685]: 一応思い付き  日雲 2003/02/23(Sun) 17:38 [Reply]
> かってに移ってます。
書いてから、空いてるし青草の方が良かったかなと思っておりましたので、どうもです。

> 解説の9番が、とても面白いです。
お借りすると、
(1)前記縁起書にある猿を海に投げたより起こった。
(2)山容が鐸ににているから。
(3)鐸を木の枝につけて祭祀を行った。
(4)大碓命薨去を悲しみ真歎山が猿投山となった、等の諸説があるが断定はし難い。
――ということですが、私もどうも気になりながら(まだ現地は行ってないのですが)、
ついつい(1)を脳内でそのまま「実写映像化」してしまって、笑っちゃいまして。

とは申せ、諏訪云々に加えて、私が青草丸出しながら気になるのは、「猿」であったり。
縁起書を見ると、この「猿」は何らかの人的存在か? とも思われてきて、
そうすると美作中山の「猿神退治」縁起や、「猿神社」がどうも気になってくる……?
先に挙げた黒澤山万福寺は毎月13日が本尊虚空蔵菩薩の御縁日で、お偉さん方をはじめ、結構な人出でにぎわっていたらしいのですが、
それに先行して、「中山の猿達」が毎月12日に参詣しに来ていたという記録がありまして。
諸々総合すると、これが中山の先住者達の異称だったことがあったのではないか、と思われるフシもあり……。
因みに、猿神社は「人身御供を止めた」と言われるシロゴロウの神を祀ったシロゴロウ社を、
後に猿神社と御先神社に分けて出来たものですが、この御先神の方は牛馬の神として信仰され、
そのお田植祭は本殿例祭をしのぐ規模で大賑わいを見せていたとか。
(このシロゴロウはいわゆる「しっぺい太郎」と同じものですね。見付天神なんかに祀られている)

あと猿投神社境内の広沢天神社(少彦名)と聞くと、美作の旧称・赤子(シャクシ)宮の少彦名神社が想起され、
また「棒の手」と聞くと、中山神社から追放された物部肩野乙麿が建てた志呂神社の棒術奉納が想起される、といった具合で、
まあ、棒術なんかは由緒を見る限りただの偶然でしょうが、猿投神社について読んでいると、どうもボンヤリと中山神社界隈のことを思い出すのですよね。
勿論、ただの連想に過ぎないかも知れないので、まださほど深く考えてもいないのですが。

いずれ、鐸でも出土してくれれば面白いのですけれどねぇ。

[685] 一応思い付き  習志野のてつ [Mail] 2003/02/23(Sun) 12:39 [Reply]
神奈備[3958] 一応、御報告  日雲 さん
かってに移ってます。

以前倭武命関連で調べたのです。例によって「神奈備神名帳」
三河の国、猿投神社  http://www.kamnavi.net/en/mikawa.htm
解説の9番が、とても面白いです。
「さなぎ」、「左鎌」と並ぶと諏訪大社との関連を考えざるを得ません。
献獣ならぬ献馬もあります。
そもそも神階「正一位」が何故与えられたのか等、興味が尽きません。

また景行天皇53年に投げられた猿が、日本武尊の東征(同40年)に
登場する「時間差攻撃?」、余りにすごい。
「猿投」ではなく「狭投」が元で、「さなぎ」が大元だったのでは?
オオウスが左利きとの話しも、単なる付会ではないか?
などと思い付き程度に考えています。

[684] Re[683]: >Re[681]刺国と照国  神奈備 2003/02/18(Tue) 21:16 [Reply]
> 百済「ぺくちぇ」について、何か面白いものはありませんか?
白兎 ハクト
船戸 フナト
深日 フケ
 ・・・もう一つですね・・・

[683] >Re[681]刺国と照国  南準(ののののがーる、改め) 2003/02/17(Mon) 21:33 [Reply]

日本書紀の編纂者なら、韓国を空国としたように、刺国を狭し国としたでしょう。
谷川健一氏なら、「おしてる」の「難波」に対して「しなてる」の「片」を白肩之津とするでしょう。
私は、刺国を幸国とし、「難波」を豊前の仲津郡か筑前の那珂郡(音は全然違うけれども、糟屋郡の方が良いかも)そして「肩」を宗像郡とします。
「おし」は、穂波郡(不弥国?)と強引に結び付けます。ここに縁の深い(?)大伴氏(忍日)や忍穂耳や穂日に対して「しな」は、建御名方を連想します。関係ないかもしれないけれども、更級の級。真っさらの白、信濃。

しなてる白肩の白? 新羅「しるら-しんら-しな(正確には、しんな)」に対する百済「ぺくちぇ」について、何か面白いものはありませんか?


[682] Re[681][680][677]刺國  神奈備 2003/02/17(Mon) 17:52 [Reply]
> 白国のルビにテルクニ
思い違い、白日でテルヒ。
主旨は変えずにすむかな。
> 刺國、照国、ともの新羅とも言えるのかも。
刺國、照国、ともに新羅とも言えるのかも。

[681] Re[680][677]刺國  神奈備 2003/02/16(Sun) 23:22 [Reply]
此の地は韓国に向かひ、笠紗の御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。

刺国、照国を筑紫とする読み方は多いようです。
刺国をソシモリとすると新羅の国のどこかになるわけですが、新羅かもしれない白国、白国のルビにテルクニと言うのがあったことを記憶しております。刺國、照国、ともの新羅とも言えるのかも。

[680] Re[677]  ののののがーる 2003/02/16(Sun) 10:06 [Reply]

>ハングルの読み方で似ているのでしょうか。もしくは意味が似通っているのかな。国とモリはありうるのかも。

ここに自分の関心がないので、何とも、もにょもにょ。有名な「牛頭天王的解明」ではなく、あくまで、刺国=筑前国の方が頭にあるから、例えば、「そしもり」と「ひなもり」の関係なんてところに気がいってしまいます。あっ、今、突然思い出した、魏志倭人伝の「倭の載斯烏越等」を忘れていました。そしあお? 時代的には「邇邇芸=刺国大神」も有り得る。あやふやですが、安本美典氏が、无耶志、武蔵が、どうの、こうのと...


[679] Re[674][673]懲りない面々  日雲 2003/02/16(Sun) 03:17 [Reply]
「擬似氏族」と仰られていた感じが、何とな〜くつかめて来た感じがします。
なるほど……そうでありながら、その中に「血縁」観が濃厚に形成されている、というのも、なかなか興味深い話かも知れぬ、という気もして来ました。
ちょっと時間をかけて発酵させて、脳内にある観念臭さを蒸発させてみますね。
ありがとうございました。お手間をおかけしました。

>大神神社の向かっている方角も三輪山頂ではなく、巻向山頂の方角に近いようです。
三輪山頂に向いていないとは聞いたことございましたが……以前に行った時は、
三輪山を見あげて、「あのちょっと下がった辺に何かあったのかな?」などと思ってみたりもしていましたが、
山の向こうのことは流石に全く念頭に……。

[678] 無題  Re[676]訂正と新登場人物、彦五瀬。 2003/02/16(Sun) 01:16 [Reply]

→「邇邇芸=穂穂出見」は「邇邇芸=刺国大神」に訂正。どうでも良い部分ですが。

葺不合と神武天皇が兄弟であると考えて、彦五瀬を葺不合と同一人物とみなすと、面白い。五十猛、あるところ、彦五瀬と葺不合、あり。

玉依姫が、葺不合の母である豊玉姫の後釜として(おい、託したのは、子供の方だぞ、なのに)穂穂出見の後妻となり、神武天皇を産む。その後、成人した葺不合の妻となると、葺不合と神武天皇の関係は、玉依姫から見て、父子の関係と兄弟の関係の2通りである。系図の伝承者が女性中心であるならば、実際、兄弟であっても、父子として残されることもある。葺不合の妻である玉依姫の子、神武天皇が葺不合の後を継いだ為、父子相続(葺不合と神武天皇)として後世に伝えられた。一方、(神武東遷のような、戦いなどの)説話の伝承者が男性中心であるならば、正しく兄弟(彦五瀬と神武天皇)として後世に伝えられる。応神・仁徳兄弟説も、このようなものと思われる。確か、安本美典氏が応神・仁徳兄弟説を主張していたような、いないような...


[677] Re[676][675]とんでもありません。いや、とんでるのかな。  神奈備 2003/02/15(Sat) 22:41 [Reply]
> 日本書紀の幾つかの一書にしか登場しない五十猛や、「そしもり」は、人気(!?)が高いことに嫉妬(!?)していました。そこで、敵地(!?)に乗り込み、刺国=筑前国、で一石を投じようと...

面白いものの見方ですね。

> 「そしもり」とは、刺国
寡聞ですが、この見解はいままで誰も言っていないと思います。すばらしい。
ハングルの読み方で似ているのでしょうか。もしくは意味が似通っているのかな。国とモリはありうるのかも。

[676] Re[675]申し訳ありません。  ののののがーる 2003/02/15(Sat) 19:48 [Reply]

>> 私に何をいっても無駄です、念の為。
>掲示板は対話の席、ブレーンストーミングの場と言う立場です。上記の言葉は意図する所がよくわかりません。

ごの箇所の前、コーラやハンバーガー、から、三韓征伐、邪馬台国の辺りは、余りにも下らないことなので(書いている本人は、気に入っているけれど)、習志野のてつさんのように、わざわざ、ご意見を下さるようなお手間を取らせたくなかったからです。ただし、その前の部分は、私の素朴な疑問です。


>>流して下さい。
>掲示板は対話の席、ブレーンストーミングの場と言う立場です。上記の言葉は意図する所がよくわかりません。

ちょっと長い言い訳。
以前、検索で、葺不合と五十猛をキーワードとして見つけたのが、このサイトでした。確か、筑紫神社についてのページだったと思います。葺不合と磯武良との名前の類似性にまで言及していたページがあったことを、ふと思い出し(ドメイン名が覚え易い)、最近、ここにお邪魔させていただくようになりました。前々から、五十猛=葺不合、ならば、素戔嗚=穂穂出見、ということになる、という考えをもっていました。それで、ここで、単純に「等式」で示して、神社や神について詳しい皆様の意見を、と。まっ、無視されて、もともと、という気持ちの表われです。後半部分(穂穂出見=刺国大神、刺国=筑前国)については、蛇足。
とはいうものの...
古事記に登場するこの大神、或るいは、刺国について、余りにも(私が知らないだけかも知れませんが)言及する人が少ないことに常々、不満を持っていた私としては、日本書紀の幾つかの一書にしか登場しない五十猛や、「そしもり」は、人気(!?)が高いことに嫉妬(!?)していました。そこで、敵地(!?)に乗り込み、刺国=筑前国、で一石を投じようと...
「穂穂出見=刺国大神。」は見なかったことに。(前者との繋がりで、勢いで書いてしまいました。邇邇芸=穂穂出見の方が良い。おいおい、どっちもどっち、だろう、と、突っ込まれる前に突っ込んでおきます)


>この辺りについては解説をお願いしたい所です。

「そしもり」とは、刺国(または、その一部)ではないか、そして、それは、筑前国ではないか。すみません、この程度のことです。


[675] Re[671]: 題名分で終わってしまう量。流して下さい。  神奈備 2003/02/15(Sat) 15:35 [Reply]
>  五十猛=葺不合。素戔嗚=穂穂出見。穂穂出見=刺国大神。刺国=筑前国。

> 私に何をいっても無駄です、念の為。
> 流して下さい。

掲示板は対話の席、ブレーンストーミングの場と言う立場です。上記の言葉は意図する所がよくわかりません。

> 五十猛=葺不合
ストレートな等号は同一の神と言うことですね。
HPにも書いていますが、葺不合を目一杯書けば「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」ですが、この中の「波限建」の部分が「名草猛」に通じるのかな、紀の国は名草郡の神としては五十猛命が代表格、この神を名草猛と表現して、神武papaの名前に取り込んだのかも知れないと思っています。
大和で王権を維持していくには紀の国の協力が不可欠、連合相手の神を取り込み顔を立てたとか。

> 穂穂出見=刺国大神。刺国=筑前国
 この辺りについては解説をお願いしたい所です。

[674] Re[673]懲りない面々  神奈備 2003/02/15(Sat) 12:31 [Reply]
> 『何故そうなるに至ったか』
 権力の源泉は暴力、財務と土木工事と機織、これだけでは秦氏の地位としては不足だったのかとの感覚。
 秦河勝が赤穂に行ったのは大化改新以後のようですね。その前に富士川の大生部多が広めた常世虫信仰を討っています。同族のようですね。大生部多は浮遊していた者。
 大辟神の神格として色々指摘されています。障礙神、宿神芸能、石神などなど。
 今来の渡来人が主力であった秦氏としては、古くからの在地豪族の支配する土地や民人には手をだせなかったので、その支配からはみ出した者ー追い払われた者、逃げ出した者ーを配下に組織していったのでしょう。それが結果的には最大の力となったのではと推測できます。地方から都へ産物や米を運ぶのに秦氏の協力は欠かせない所だったので、屯倉支配もやらしたのかも。

> 政治的な判断でそのようにした
 秦氏が経済を支えていたと思われる宇佐神宮にも大神氏が入っています。対立の構図もあるようですが、大半は協力して、結果として、日本の神々の先頭にたったのでは。
 
 余談ですが、兵主神の穴師山については現在の巻向山であったと、大和の穴師坐兵主神社の宮司さんは考えているようです。三輪山より丁度100m高く、登りますと見下ろす形になり、いささかおそれ多い所があります。大神神社の向かっている方角も三輪山頂ではなく、巻向山頂の方角に近いようです。三輪山への信仰を取り込むのは祭政的判断で不可欠だったのでは。

> 摩多羅神の牛祭りが始まるずっと前に分社された
 恵心僧都が約900年前に行った祈祷に端を発しているとか、1、100年頃。
 坂越の大辟神社は治暦四年(1068年)に正一位、それ以前の創祀とは言えるようですね。

[673] Re[670][669][663][661][658][652]咲耶この花  日雲 2003/02/14(Fri) 23:49 [Reply]
>そのような者達を秦氏はあるていど束ねていたのではないかと想定しています。
もし、こうした事実があったと仮定した場合、
『何故そうなるに至ったか』
と推理される原因というか、展開というかは何か御座いますでしょうか?

>またキングメーカーとしては国津神の雄、大物主の神とのつながりは不可欠だった・・・とか。
この場合は「政治的な判断でそのようにした」との想定ということでよろしいでしょうか?

>地名の佐古志(坂越)が石神が語源だったのかどうかは知りませんが、境に住みむはみ出し者としたら祀るのにはふさわしい神のように思われます。
どうもこの……以前から、金春禅竹の「明宿集」と、伊勢神楽の「さんぐうしのうた」の記述が似通っているような気がしてならないのですが……。

>赤山禅院(赤山明神、泰山府君を祀る)の建立時期と大辟神社での摩多羅神の牛祭り起源とは同じ様な頃だったとか。 
とは聞いたことはありましたが、とすると……河勝が赤穂に流れたというのが事実に類することであったとすれば、摩多羅神の牛祭りが始まるずっと前に分社されたということになりますよね?
赤穂の大避神社に牛祭があったとも、ついぞ聞きませんし……ふーむ。

>ここに牛祭りがありますが、これはモーゼが牛像を打ち壊したことでも分かるように秦氏はユダヤ教やキリスト教と関係がなかったことになるんですかね。
いやまあ、「いつまでも懲りない人達であったことよ」とも考えられますけども。

[671] 題名分で終わってしまう量。流して下さい。  ののののがーる 2003/02/14(Fri) 20:52 [Reply]

 五十猛=葺不合。素戔嗚=穂穂出見。穂穂出見=刺国大神。刺国=筑前国。


[670] Re[669][663][661][658][652]咲耶この花  神奈備 2003/02/14(Fri) 13:29 [Reply]
秦氏については分からない所が多い氏族ですね。

いつの世にも生業についていない者達がいて、騒動や紛争があればどっちかに荷担して飯の種にしていたとか(秦河勝は軍政人の別称を持つ。)、街道で追い剥ぎをやっていたとか、海賊をやっていたとか、芸能売春などで飯を食ったのか、そのような者達を秦氏はあるていど束ねていたのではないかと想定しています。村と村の境にたむろする無宿者で、宿、夙だったのかも。
 この事が一種のキングメーカーとしての秦氏の力、治水事業などの動員力の元でもあったのかと。またキングメーカーとしては国津神の雄、大物主の神とのつながりは不可欠だった・・・とか。

 地名の佐古志(坂越)が石神が語源だったのかどうかは知りませんが、境に住みむはみ出し者としたら祀るのにはふさわしい神のように思われます。
 秦河勝が坂越に退避したのは貴種流離譚の要素もあるのかも。また半島から渡来した秦氏は赤穂に本貫地を置いたとの見方もあります。上郡から坂越へのラインには黄金伝説が残っているとか。

> マダラ神と大辟神
 赤山禅院(赤山明神、泰山府君を祀る)の建立時期と大辟神社での摩多羅神の牛祭り起源とは同じ様な頃だったとか。 http://home10.highway.ne.jp/ikko/
 赤山明神もどうやら山東半島→新羅のコースにのっているようで秦氏との関係がありそうです。あかずきんですね。
 ここに牛祭りがありますが、これはモーゼが牛像を打ち壊したことでも分かるように秦氏はユダヤ教やキリスト教と関係がなかったことになるんですかね。

 牛からは、牛頭天王ー素盞嗚尊、牛取引の神ー五十猛命、秦氏と紀氏、連想が続きます。



[669] Re[663][661][658][652]咲耶この花  日雲 2003/02/14(Fri) 06:20 [Reply]
> 物部氏は饒速日尊への集約力が強いように思われますが、秦氏は本家もいない氏族で、各地の民を適宜組織して巨大氏族とされて来たようで「われらの父なる将軍様」如きやりかたではなかったのかも。
――なるほど。

> 強いて言えば松尾の神の勧請、稲荷の神の勧請、と言う具合にその頃の太秦公の祀っていた神を祀ったのか、自分たちの神をそのまま祀っていて、神々は神界で系譜につながっていたと理解したのか、見えにくい所です。
……あのー……私が良く解らないのは、赤穂の大避神社をシュクジの宮と呼び、
河勝を祖(またはシュクジンの顕現)としていた人達が、河勝の出生譚の舞台を大神神社として語っていますでしょう?
日吉での思い入れも、西か東か忘れましたが、どうも大物主側の方にあった風ですし。
常識的なアホみたいな問いかも知れませんが、これは何でなんでしょうか?
秦氏と大神(大物主)は、どういう関係にある……?
「意富多多泥古をもって祀らしめよ」で、
[659] >諸蕃から皇別や神別になりたかった秦氏は多氏にも入り込んだのかも。
という、何かこの辺りのことなんでしょうか……?
それとも、もっとストレートな解りやすい話があるのでしょうか?
どうにもこうにも、やっぱり基本的なことを存知ませんで、すみません。

>大酒神社については出典はともかく物部守屋建立説、秦川勝説などがあり、聖徳太子の頃すなわち神祇か仏教かとされていた頃ですから、寺院の守り神としての神であったのではと言えそうですね。
辟の字からすると、そう考えるのが自然……なんでしょうね……?
ただ、どうも解らないのが、じゃ、どうして大辟神社だけが赤穂に分祠(といっていいのでしょうか)されたのか? と。
何かメインになる寺社と共に赤穂に渡った、というのなら素直にそう思えるのですが、そういう話も聞きませんし。
あと、マダラ神と大辟神の関係もよく解りません……。
元々は別神で後に習合したのか、元々一体だったのか、大辟神からマダラ神が派生したのか。
マダラ神の額に飾られている北斗七星と、
赤穂大避神社別当寺の妙見寺の双方にある北辰信仰は、「彼らにとってのルーツ」的に同一なのか、とか。
マダラ神と大辟神の関係について、どう思われますでしょうか?

何だか質問コーナーみたいになってしまいましたが。

[668] Re[667][665]部分的確認  習志野のてつ [Mail] 2003/02/14(Fri) 00:14 [Reply]
神奈備さんにはいつもお世話になってます。恐れ入ります。

> …ソシモリ探しの第二段で行こうとも思っていましたが、ここは考え物ですね。
でもやはり、何らかの根拠があってこの地に作ったのではないでしょうか。
何と言っても、近いですから。お時間があれば一見の価値はあると思います。

五島列島に行ったとき、天気予報で済州島の天気を放送していました。
関東で天気予報を見るとき、九州や関西の天気を見るような感じでした。
対馬では、普通の食堂で「タバコある?」と聞いたら、韓国のタバコが出てきました。
距離の近さは、やはり大事な要素ではないでしょうか。

> …私は、逆ですが。なぜ、と聞かれても答えられません。…
 日本では否定された騎馬民族説、韓国では見直されています。日本列島からも人は
 行ったでしょうが、朝鮮半島からの流れのほうが圧倒的に多いとおもいますが。

[667] Re[665][664]部分的確認  神奈備 2003/02/13(Thu) 18:04 [Reply]
> 知る限りでは、1998年6月28日、韓国慶尚北道高霊邑、加耶大学校敷地内に、「高天原公園」は造られました。
> 建てたのは、李慶照・加耶大学学長、いわゆる「任那から日本に攻め込んだ」説をとなえておられるようです。
> 李慶照・加耶大学学長が、歴史読本2001年2月号に寄稿されているそうです。(未確認です)

習志野のてつさん、ありがとうございます。ソシモリ探しの第二段で行こうとも思っていましたが、ここは考え物ですね。


[666] Re[665][664]返信、ありがとうございます。  ののののがーる 2003/02/13(Thu) 02:54 [Reply]

> 「秦氏の関係なら慶尚道」とは秦氏は慶尚道からやってきたと言うことでしょうか。

以前、何かに、(資料をとっておいたり、メモをとったりしない主義なので何であったか覚えていませんが)新羅(慶尚道)の遺跡地で、パタンというところを秦氏と関係ありそうだとか書いてあった記憶があったので。

> 高天原

わが町が邪馬台国だ、高千穂だ! 日本でいう「村おこし」の一環ですかね。いかにも、記紀や伽耶本からとったという感じ。三国史記とか三国遺事とかにあるんですかね。


渡来してこなかった、多くの残った同系の人々には、降臨神話(有名なのでは、金首露)とかあるけど、渡来してきた人が祭ったのと同じ、普通の、民衆の(渡来)神はすたれてしまったのでしょうか。日本にはキリスト教会がいっぱいあるけれど、ヨーロッパではキリスト教会はすたれてしまいました! それとも、元国では相手にされなかった新興宗教だったのでしょうか。研究者が、渡来系の神とかいうときは、元国の何地の何神ですとか書いて欲しいものですよね。何か、分からないのは、みんな渡来系みたいですね。このままだと、コーラもハンバーガーも半島から渡来してきたといいだしかねないっす。金首露の子孫、金達寿は金太郎っす?金太郎もやっぱり渡来系。桃太郎伝説だけではなかった。

天日矛は半島からの渡来人、と「記紀」を信じている人が、その子孫の神功の三韓征伐の「記紀」を信じない。私は、逆ですが。なぜ、と聞かれても答えられません。忠清南道、全羅道、慶尚道は、邪馬台国の領域だと思っている私に何をいっても無駄です、念の為。

因みに、私のコリアン・ネームは、李南順です。


[665] Re[664]部分的確認  習志野のてつ [Mail] 2003/02/13(Thu) 01:05 [Reply]
> 決して幼稚な質問とは思えませんが。
  私も幼稚ではないと思います。

>  高霊と言う場所があるそうで、そこの大学の裏山の入り口に「高天原」の標識がある
> とか聞きました。いきさつは承知しておりません。従って秦氏との関係も承知していません。

知る限りでは、1998年6月28日、韓国慶尚北道高霊邑、加耶大学校敷地内に、「高天原公園」は造られました。
建てたのは、李慶照・加耶大学学長、いわゆる「任那から日本に攻め込んだ」説をとなえておられるようです。
李慶照・加耶大学学長が、歴史読本2001年2月号に寄稿されているそうです。(未確認です)

[664] Re[662]: 幼稚な質問ですみません。  神奈備 2003/02/12(Wed) 12:18 [Reply]
決して幼稚な質問とは思えませんが。

> 秦氏の関係なら慶尚道とかに、何かありますか。
「秦氏の関係なら慶尚道」とは秦氏は慶尚道からやってきたと言うことでしょうか。
 また韓国の地理が頭に入っていないのですが、今で言う慶州付近のことを言うのでしょうか。

 高霊と言う場所があるそうで、そこの大学の裏山の入り口に「高天原」の標識があるとか聞きました。いきさつは承知しておりません。従って秦氏との関係も承知していません。


[663] Re[661][658][652]咲耶この花  神奈備 2003/02/12(Wed) 12:17 [Reply]
秦氏の居住した痕跡が全国に散らばっている以上、もう少しくらい「先祖」を祀った社が方々にあっても良さそうなものではないか、

物部氏は饒速日尊への集約力が強いように思われますが、秦氏は本家もいない氏族で、各地の民を適宜組織して巨大氏族とされて来たようで「われらの父なる将軍様」如きやりかたではなかったのかも。
強いて言えば松尾の神の勧請、稲荷の神の勧請、と言う具合にその頃の太秦公の祀っていた神を祀ったのか、自分たちの神をそのまま祀っていて、神々は神界で系譜につながっていたと理解したのか、見えにくい所です。
 服部、兵主、日矛、弓月、始皇帝、大酒、八幡、稲荷なんでもありの状態ですね。おそらくは素盞嗚尊や五十猛命なども祀ったのではなかろうかと思われます。

 大酒神社については出典はともかく物部守屋建立説、秦川勝説などがあり、聖徳太子の頃すなわち神祇か仏教かとされていた頃ですから、寺院の守り神としての神であったのではと言えそうですね。

 敷地神社については神奈備で。

[662] 幼稚な質問ですみません。  ののののがーる 2003/02/12(Wed) 05:25 [Reply]
渡来系のひと、渡来系の神とか、いいますが、全員が渡来してきた訳ではないだろうから、おおくの残った人達の祭った神様って、日本でより、もっと、メジャーでしょう。例えば、秦氏の関係なら慶尚道とかに、何かありますか。素人の質問です。

[661] Re[658][652]咲耶この花  日雲 2003/02/12(Wed) 02:07 [Reply]
> 辟秦は「さくはた」のようです。
なるほど……わすれないよう、ガッチリ記憶しておきます。ありがとう御座います。
しかし、この大辟界隈のことについて疑問なのが、太秦のものと赤穂附近のもの、
この二ヶ所でしか存在を聞かないという……これは何故なのか、と……?
現在の由緒が正しければ、秦氏の居住した痕跡が全国に散らばっている以上、
もう少しくらい「先祖」を祀った社が方々にあっても良さそうなものではないか、
と思うのですが(そういうものでもないのだろうか?)。
といったこともあって、大辟⇒大酒になった時点を以って、「秦氏の祖」を祭るということになったのではないか、
つまり、「秦氏の祖を祀る社としての大酒神社」は比較的新しいものなのではないか、とも思ったのですが……。


> 京都の敷地神社
この名前は方々でポツポツ見ますが、社名の語源は何なのでしょう?
「敷地」という字地名にある敷地神社というのもありますが、この場合は勿論解りますし、
ミシャグジを敷地と書く例もチョイチョイありますから、この場合もそれっぽければ解る。
創建に「敷地」という名の人が関わったケースも、確かあった(高知だったろうか?)。
けど、このいずれにも適合しない敷地神社も、どこだったかにあった筈。
その時、どうも解らなかったのですよね。この「敷地」の意味は何だ? と。
何らかの「敷地」という一般名詞が、そのまま社名になるとも思えず……?

この京都の敷地神社の場合、社名の語源は何だと考えられましょう……?

[660] Re[659]: 「古事記」について  習志野のてつ [Mail] 2003/02/12(Wed) 00:12 [Reply]
>  『古事記』の作成に秦氏が絡んでいると大和岩雄『秦氏の研究』にありました。
 神奈備さん、いつもながらありがとうございます。早速『秦氏の研究』探してみます。

私説「古事記」の成立
あちこちの家に、その家についての「ふるきこと」の言い伝えがあった。それらが、書物になった。
*書物にしたため、言い伝えは忘れられ失われた。
  (最近の似たような例:パソコンのせいで漢字が書けなくなる)
天皇家は、自分の家以外の「ふるきこと」を書いた書物は取り上げた。
*各家の「ふるきこと」は、書物を失ったため、ほとんど失われた。
*天皇家の「ふるきこと」を書いた書物、つまり「古事記」だけは残った。
太安萬侶さんは、天皇家の「ふるきこと」の言い伝えの書物化に協力した人物。
*多人長さんは、序文を付けて、先祖自慢をした。
 (*印が仮説ですが、余り無理は無い。−青草の範囲ではですが−)
どこかに書いてありそうですね。
特に、序文だけ偽書説は、かなり出回っていますね。調べてみて判りました。

[659] Re[657]: 「古事記」について  神奈備 2003/02/11(Tue) 17:56 [Reply]
 『古事記』の作成に秦氏が絡んでいると大和岩雄『秦氏の研究』にありました。
その理由は『日本書紀』にない大年神の系譜がのっており、韓の神、曽富理の神、白日の神、聖の神、竈の神、や松尾大社の大山咋神などが記載されているからとの理由だったように記憶しています。
並べて見ますと、渡来系の神が多いように見えます。前の三神は半島、竈は大陸、秦氏の持ち込んだ神々かも。

> 多人長が、先祖の太安万侶が偉いと云って、自分を偉く見せようとした?

 太安万侶は多氏の系統で小子部とは同系。彼らは秦氏と大いに関連がありそうで、諸蕃から皇別や神別になりたかった秦氏は多氏にも入り込んだのかも。そうするとつじつまはあいそうですね。

[658] Re[652]咲耶この花  神奈備 2003/02/11(Tue) 17:52 [Reply]
>> 摂津国豊嶋郡に 辟秦諸上 なる写経師がいました。
> 何と読むのでしょうね?

遅くなりました。暖かくなりましたのでほっつき歩いておりました。
辟秦は「さくはた」のようです。複姓の秦の氏姓で、この辟が地名なのかどうかは不明。
なお、簀秦(すはた)と言う姓の秦氏は画師だそうです。

京都の敷地神社の由緒に、御祭主神は木華咲耶姫尊に坐し、太古山背国(山城国)葛野郡北山天神丘に降臨(現在京都市金閣寺の北西裏にして旧跡尚ほ存す)北山の神と称へ祀れり。とあり、この辺りは賀茂・秦両氏の勢力圏で、秦師との関連があるのかもしれません。

また『新選姓氏録:山城国諸蕃』秦忌寸の項に
雄略天皇の時、小子部雷を遣わし、大隅、阿太の隼人を率いて探して一括して集めた秦民九十二部18670人云々とあり、秦公酒に与えたとありますので、阿太の隼人の女神の神吾田津比賣すなわち木華咲耶姫とは無縁ではなかった。御祭神にしてしまうほどかどうかはいささか自信はありません。

 秦氏が大隅、阿太の隼人を部民に組み込んだと言うことはあったのかも。ハダをフランス風に読めばアダ。青草!

[657] 「古事記」について  習志野のてつ [Mail] 2003/02/11(Tue) 13:09 [Reply]
 「成人の日」 があり、 一応「建国記念日」なので、日本の史書について。

公式には「六国史」で、その後を『大日本史料』が継いで、現在も刊行中とか。

『大日本史料』は別として、「六国史」の編者は、親王、関白、大臣。皆とても偉い。
ところが「古事記」は、太安万侶:死去し、民部卿・従四位下に処せられた。
つまり生前は五位。三位以上が殿上人、偉い。昔の五位は偉いが、それ程偉くはない。
日本書紀の編者・舎人親王はなんと一品、これ以上ない偉さだ。

日本書紀全30巻と古事記全3巻、余りにも違う。古事記は他の公式歴史書とは違う。
ここまでは、客観的事実。では古事記はいったいなんだろう?

天皇家の私家本で、天皇の偉大さを自家で確認する為の本?
多人長(オオノ ヒトナガ)が、先祖の太安万侶が偉いと云って、自分を偉く見せようとした?

「『古事記は偽書か』鳥越憲三郎、昭和46年10月、朝日新聞社、¥680」を読んで、考えたことです。

[655] Re[654][653][652] 蛇犬  神奈備 2003/02/08(Sat) 20:19 [Reply]
犬と蛇のかかわる伝説は多く残っているようです。
物部の守屋が滅ぼされた後で従者だった捕鳥部万が八つ裂きにされる時に大雨が降っており、万の頭を飼い犬が守っています。大雨は蛇、この当たりでは犬と蛇はお互いをジャケンにはしていなかったようで、蛇神を祭る神社にも狛犬がいても何ら不思議ではありません。

[654] Re[653][652] 便乗で。  日雲 2003/02/07(Fri) 17:25 [Reply]
こんにちは。
> 多賀大社の奥宮ともいわれる大滝神社。ここに犬神神社があります。
あ、そんなものがありましたか……存じませんでした、有り難うございます。
多賀は、調宮神社までは、どうにか行ったんですが。

ここの場合は、「犬上」の地名が先か、「犬神神社」の伝承が先か、でしょうね。
後者が先であった場合は途方もない謎が隠されてそうなことになりますが、
前者が先であった場合にしろ、「犬上」の地名の語源とは何なんでしょうね、そういえば?

しかし、このシリーズはよく解らない……。
「猿神退治」パターンのように、
「こうして、この御祭は始まりました」
という、祭礼の由来譚として語られるか、純然たる御伽噺として語られるか、
どちらか、というのなら何か解るんですが、
「犬の頭」や「犬の霊」を祭ったというだけで、
別にそれっぽい祭礼がある訳でなく、単に御伽噺として語られることもあまり聞かず……?
(私が知らないだけで、単に御伽噺として語られることも沢山あるのでしょうかね?)

手近にあった「大阪の伝説」には、
犬鳴山七宝滝寺の犬霊大菩薩の墓碑のものと、
岬町多奈川の犬飼村の地名由来譚が載っていましたが、
(これは両方とも猟師とか庶民で、著名人じゃなかったですね。
 いきなり「偉い人」じゃなかった例が二つも……す、すいません)
或いは……これらは、単に「犬の墓」だったりするのでしょうか?
で、犬を弔うに際して、
「こいつは実に名犬じゃった」
という場合に定型句的に使われる美談が、あのケースとか……?
それとも、もっと何か深いものがあるのか……?
愛知でしたかね、「犬頭」と「犬尾」が離れて対になってるようなものも確かありましたが。
うーん……解らないです。

> 神社を建てたのが三代将軍家光と云うのが少しひっかかります。
これは再建した、ということのようですね。

[653] Re[652] 便乗で。  習志野のてつ [Mail] 2003/02/07(Fri) 09:22 [Reply]
> > 「寝てる時に飼犬が吠えて、うるさいから首を切ったら、大蛇が〜」
> これの類話の分布も一度調べてみたいのですけれども。

多賀大社の奥宮ともいわれる大滝神社。ここに犬神神社があります。
大神神社と文字が近いので、調べてことがあります。
ここは、かなりくわしい。
側を流れるのが犬上川
犬の名は小石丸
殺された大蛇は淵に沈み大蛇ヶ淵

主人公は「建部君稲依別命」倭武命の息子です。
年代的には一番古く、内容が詳しい。

ルーツかもしれない。付会かもしれない。
神社を建てたのが三代将軍家光と云うのが少しひっかかります。

[652] Re[650][649][648][647][646]:神奈備[3881] 便乗で質問させて下さいませ。  日雲 2003/02/06(Thu) 14:15 [Reply]
> 「寝てる時に飼犬が吠えて、うるさいから首を切ったら、大蛇が〜」
これの類話の分布も一度調べてみたいのですけれども。
大概、その土地土地で偉いとされている人が主役にされているのは何故なんだろう……?
ここの河勝のように、塚とか物理的な形を伴っているケースもまま見られますから、
ただのおとぎ話というのともちょっと違うようですし。
源流は何処で、誰が語り伝えて回ったものか、これはこれでちょっと気になります。

> 摂津国豊嶋郡に 辟秦諸上 なる写経師がいました。
何と読むのでしょうね?
大阪も調べなきゃと思いつつ、どこから手をつけたものか。
蘇我馬子創建と伝える妙見寺(でしたか?)の山号が「天白山」になっていることとか、
仏閣まで対象になってくると、もう。
しかし、天白が「月の輪クラに宿をめされる」と北辰妙見の図像の姿で詠われていることなど、やっぱり避けては通れず……。
押しなべて機内界隈は解りにくいですねえ、何かと変化が多かったからでしょうか?

[651] Re[633][632]: 番組紹介  神奈備 2003/02/06(Thu) 11:40 [Reply]
> > 推定最大スループット 5.48Mbps(685kB/s)
> > でした。カタログは50mbpsだったような。やはり1割が相場ですかね。
>
> ちょっと遅いような気がします。
> http://www.broadband-ana.com/ftth1.html

上記からダウンロードした editmtu を動かしてみましたら
推定最大スループット 18.9Mbps(2359kB/s)
別の計測で
down 19.16 mbps
up 1.68 mbps
となりました。まずまずの成績ですね。ありがとうございました。

[650] Re[649][648][647][646]:神奈備[3881] 便乗で質問させて下さいませ。  神奈備 2003/02/05(Wed) 19:54 [Reply]
> レスどうも有り難うございます。
こちらこそ。刺激になります。

>河勝の大蛇退治
これは「河勝が寝てる時に飼犬が吠えて、うるさいから首を切ったら、大蛇が〜」というものでしょうか? それ以外にも何か蛇がらみの……?
それです。神格化の作業でしょうね。

>コノハナサクヤヒメ
余談。なにはづに さくやこの花 冬ごもり いまははるべと さくやこの花
王仁の作と『古今集』にあるそうですが、奈良時代だとか。

>大辟神社
余談 摂津国豊嶋郡に 辟秦諸上 なる写経師がいました。後に秦勝の姓を賜りました。『池田市史』

[649] Re[648][647][646]:神奈備[3881] 便乗で質問させて下さいませ。  日雲 2003/02/04(Tue) 14:34 [Reply]
レスどうも有り難うございます。
>疑似氏族でしょうから総領は朝廷のおぼえめでたい者が就任と言うスタイルであって、本流がいなかったのでは。
この辺りの感覚が、どうもまだつかめないのですよね……。
どうも頭の中を整理しようとして、カテゴリー分けのようなことをしてしまいまして。
諸々が腑に落ちてない素人病のようなものだと、自戒しようとはしているのですが。

>『播磨風土記』に赤穂が残っていませんが、その頃までは「境」であって、異境だったのかも。
後にそのように形成されていったのかも知れませんが、今現在の岩裂系など星信仰系の神社の分布などを見る限りでは、「佐用川を上って美作へ」という方面とつながりが深そうに見えなくもないのですが……。

>河勝の大蛇退治
これは「河勝が寝てる時に飼犬が吠えて、うるさいから首を切ったら、大蛇が〜」というものでしょうか?
それ以外にも何か蛇がらみの……?

>大辟神社
これ、元は「おおさく」と読んでいた可能性なんてありえないでしょうかね?
赤穂の分社の中にコノハナサクヤヒメを祭神にしたのが一社ありますが、これが何でなのだか。
単に、その一社界隈でだけ訛ったのかも知れませんが(今はオオザケと言っていますが)、
もしかしたら、「オオサク」だったのかなあ? などとも。
いつからコノハナサクヤヒメなのかは確認出来ませんでしたが。
「凄く詳しかった」らしい土地の古老様もお亡くなりになられましたようで。

[648] Re[647][646]:神奈備[3881] 便乗で質問させて下さいませ。  神奈備 2003/02/04(Tue) 09:37 [Reply]
 広隆寺の近くの木島坐天照御魂神社は名前の通り天照御魂神を祭っているはずで、物部系であり、この鎮座地周辺は物部の支配地であったものと思われます。
 広隆寺が葛野郡九条河原里・同荒見社里が旧地だとか。荒見で思い出すのが郡が違いますが荒見神社で祭神は物部系。
 これから考えますと、秦河勝と物部との関連は、聖徳太子と物部や海部との関連と同じように十分考えられますね。
 さらに交野の領地を物部守屋が推古天皇に献上したとか、蘇我氏が物部の資産を簒奪したとか、ハゲタカのごとくだったのでしょう。
 秦河勝も当然、それに参画したのでしょう。物部の血が入っていたのかどうかは承知していませんが、名前の「勝」はその姓の者は秦人を管掌したそうで、ある程度秦氏の中では重鎮だったのかも。
 河川の運行や改修にかかわった秦氏の総領と言う存在かも。この辺りに物部との接点があるのかも。

> 河勝は秦氏としては、かなり傍流にあった人間であったということ。
 疑似氏族でしょうから総領は朝廷のおぼえめでたい者が就任と言うスタイルであって、本流が射なかったのでは。強いて言えば皇室が本流だったのかも。秦は外にいる執事?

 大辟神社は石神、これは古いのかも知れません。覆い被さったのかも。『播磨風土記』に赤穂が残っていませんが、その頃までは「境」であって、異境だったのかも。だから河勝の大蛇退治とかうつぼ船とか、神話のリバイバルが通用した地域だったのかも。

[647] Re[646]:神奈備[3881] 便乗で質問させて下さいませ。  日雲 2003/02/03(Mon) 22:26 [Reply]
>渡来人でなくても地方の農民が租庸調の目的で組織されて秦の一族にまとめられるとこがあったそうで
ああ、やっぱりそういうことがあったんですか……!?
>太秦の大酒神社は物部守屋の建立と読んだことがあります。
そうすると青草ついでに、例えばこういうことは考えられなくもなかったりしますでしょうか……?

守屋本人の建立であるかどうかはともかく、かつて大辟神社は物部系の神社であった。
そうして一方、秦河勝は名前こそ秦氏であるが、実は物部系の流れの濃い人間であった。
系図で父の名と祖父の名が「河ナントカ」「勝ナントカ」といった、
「ヤン坊マー坊天気予報」のような取って付けたような名前であるのは、
河勝が大メジャーになったために、いわゆる純粋な秦氏のスジの者達が、
始皇帝から河勝を直結させるために作り出した架空の名義であった。
つまり、河勝は秦氏としては、かなり傍流にあった人間であったということ。
歴史上メジャーであることと、その氏族の典型であることとは全く別問題なのである。
大辟神社が秦氏の管轄になり、大酒名義に変わったのは、この辺の事情からであって、
また、翻って言えば、河勝(本人かどうかはともかく)が赤穂に渡った際、
そこに松尾などの典型的な秦氏系の神社の分社ではなく、大辟神社の分社が出来たのは、
河勝が典型的な秦氏ではなかった=大辟神社を建立したスジの人間だったからこそである。

……あり得ないですかね?
これがあり得れば、赤穂大避神社が「シュクジの宮」であった理由もおぼろげながら見えて来なくもないのですが。
勿論、本当に物部系の神社だったのかとかいうあたりは調べねばなりませんけれども。

それ以前に、ど〜う考えてもここがおかしいぞ、これ! という部分はございますでしょうか?

[646] Re:神奈備[3881] 便乗で質問させて下さいませ。  神奈備 2003/02/03(Mon) 21:09 [Reply]
 内宮の天照大神の荒魂を瀬織津姫とする説があるそうですが、これをソウルの姫とする説は中島利一郎著『日本地名学研究』などに記載。要は半島の女神で神功皇后を思わせます。
 半島の女神を祀るのには半島出身者が適格でしょう。度会氏もワタ、秦氏はハタ、渡来系の近しい存在だったのかも。伎楽など芸能には特に秦氏の系統は強かったのではないでしょうか。
 また渡来人でなくても地方の農民が租庸調の目的で組織されて秦の一族にまとめられるとこがあったそうで、その辺は適当にやっていたのかも。

 太秦の大酒神社は物部守屋の建立と読んだことがあります。出典は忘却 m(__)m。従って記録も承知していません。

[645] Re[644][643] 素朴な疑問  神奈備 2003/02/03(Mon) 17:55 [Reply]
> > > 四阿がアズマ… 何故だろう?
> > 違うかもしれないけど、僕の理解。

「玄松子の記憶」で四国の神社だったか、アズマについて記されていたと記憶していまして探して見たのですが、どうもでません。
 崇神皇子達のお話は「青草」ですから「キ」にとめないで下さい。

 公園の休憩場所なんかの屋根模様ですね。
 お寺の六角堂を四角堂にすれば、そうなる感じですね。

[644] Re[643] 素朴な疑問  習志野のてつ [Mail] 2003/02/03(Mon) 16:15 [Reply]
> > 四阿がアズマ… 何故だろう?
> 違うかもしれないけど、僕の理解。
> …切妻ではなく寄棟=四方に庇=四阿。
広辞苑の解釈B、「阿」とは家の庇のこと。
> 阿は、隈と同じ意味で、影というニュアンスの文字だったような。
広辞苑の解釈@、まがりかど。隈(くま)
ずばり当たってますね。

> 東屋=東国風(田舎)の屋敷=切妻ではなく寄棟
でも、寄棟のほうが、切妻を作るより大変のような気がしますね。

[643] Re[635]: 素朴な疑問  玄松子 2003/02/03(Mon) 12:23 [Reply]
> 四阿がアズマ、六合がクニ。
> 何故だろう?

違うかもしれないけど、僕の理解。

東屋=東国風(田舎)の屋敷=切妻ではなく寄棟=四方に庇=四阿。
阿は、隈と同じ意味で、影というニュアンスの文字だったような。

[642] Re[636] [638]御礼  習志野のてつ [Mail] 2003/02/03(Mon) 10:57 [Reply]
ご丁寧な解説、有り難うございました。
正直、六合(クニ)も四阿(アズマ)も、まるで理解できなかったのですが、大分理解が進みました。
  (そんなキがします)
> …三輪山頂で、豊城命は東を向いて槍と刀を八度振り回し…
> …活目命は縄を四方に張って雀を追い払う夢追い払う夢…
> …活目命こそ四阿を作ったわけで、この二人がやったことで、四阿をして東であると言うことになったとさ。

倭武命が、「アズマハヤ」と発声したのも、どこかの峠(私の理解では二ヶ所)で東を向いてやっています。
「槍と刀を八度振り回し…」や「縄を四方に張って」祀りをしているかもしれませんね。
「遠征地が、今後従うことを確認するため祀りを行なった。」と考えることにします。m(__)m

[641] ありがとうございました(^^ゞ  勇者ロト [Mail] [Url] 2003/02/03(Mon) 00:50 [Reply]
直リンクの許可ありがとうございましたm(__)m

早速、本文内に直リンクをつけさせていただきました。

メッセンジャーかチャットでお会いするとき「関西販促行脚」を提案してみたいと思います(^^ゞ

[640] Re[639]: 静之窟  神奈備 2003/02/02(Sun) 16:25 [Reply]
> ご無沙汰しておりますm(__)m
勇者ロトさん ご無沙汰。写真の方へもありがとうございます。
アイヌの方が2冊目の販促で関西へこられると言うような話はお聞きされていませんか。

静の窟もほぼ出雲とすれば、紀の国と出雲とのペアにひとつ加わりました。
須佐、熊野、加太、早玉、伊達につづいて静の窟。
日前と日御崎もそうかも。

リンクの件了解いたしました。貴HPのますますのご発展を祈願いたします。

[639] 静之窟  勇者ロト [Mail] [Url] 2003/02/02(Sun) 11:23 [Reply]
ご無沙汰しておりますm(__)m

こちらに書き込みさせていただくのは初めてなのですが、ホームページの情報はよく利用させてもらっています(^^ゞ

今回、縁があって島根県大田市の静之窟にいきました。
それで「しずのいわや」を集めたページを作ってみました。下記アドレスです。

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/isinokami.shtml



本日、『静之窟』で検索しておりましたらこちらの掲示板の過去ログ和歌山の静之窟の話題がヒットしました。潮御崎神社のページも拝見させていただきました。潮御崎神社のページを直リンクもしくは、写真を利用させていただけないでしょうか?

あつかましいお願いをして申し訳ございませんm(__)m

[638] Re[635]: 素朴な疑問  神奈備 2003/02/02(Sun) 10:10 [Reply]
> 四阿がアズマ
> 何故だろう?

 丸に米の字のような紋、十種紋的なイメージに http://www.genbu.net/sinmon/hoko.htm のよう

な構造の紋は紀伊半島の印だそうで、この国の再生にの鍵(key)を握っているとか。丸の中に”木”

と言う字を上下に書いたら紀伊半島の印になりますが、伊太祁曽神社では丸の中にカタカナの”キ”

を描いた旗がありました。キ印ですね、これは。南方熊楠をキ印扱いした連中もいたわけで、キイワ

ードは”キ印”かも。
 凡印の神奈備には”環境にやさしい自然資源”、”人々の心の癒し”などのありきたりなイメージ

しか浮かばないので、やはりもっと歩かねば見えてこないことが多いと感じています。

 東南西北の四方角に”中”を加えて方位は五行説に取り込まれています。
 四阿は四隅すなわち四神だったのかも。藤原京建設に際して祀られた四神とは、東 伊勢大神、南 紀伊大神、西 住吉大神、北 大倭大神 だったそうです。
 余談ですが、伏見稲荷の四大神とは五十猛命、大屋姫、抓津姫、事八十神の四柱を指すようです。

 四阿にはどうやら紀伊の国の神々が関係していそうです。若山の田舎出身者の我田引水論理そのものですが、東国の木の国ー豊城命を思い起こしています。そうしますと活目命との夢占いが出てきます。三輪山頂で、豊城命は東を向いて槍と刀を八度振り回していますが、活目命は縄を四方に張って雀を追い払う夢となっています。活目命こそ四阿を作ったわけで、この二人がやったことで、四阿をして東であると言うことになったとさ。

[637] Re[636][635]: 素朴な疑問  習志野のてつ [Mail] 2003/02/01(Sat) 21:40 [Reply]
> 六合がクニから
> 天地東西南北の六合の説がありますが、これには”中”が抜けています。
> まず、葛城を王として他の六宿禰が力を合わせで、国と言う概念で当地を試み始めた
> とは『記紀』にはでていませんが、あっても不思議ではなさそう。…

中心もしくは主たるところに、六つを合わせる。合計は七ですね。
「本来別々の存在を統合する」これがクニの概念ですか。なるほど!イメージありますね。

[636] Re[635]: 素朴な疑問  神奈備 2003/01/31(Fri) 19:55 [Reply]
> 四阿がアズマ、六合がクニ。
> 何故だろう?

六合がクニから
天地東西南北の六合の説がありますが、これには”中”が抜けています。
今はやりの中抜きが古代にあったとは!

武内宿禰の男子は七姓の宿禰
波多の八代
許勢の小柄
蘇賀の石河
平群の都久
木の角
葛城の長江の曾都毘古
若子
まず、葛城を王として他の六宿禰が力を合わせで、国と言う概念で当地を試み始めたとは『記紀』にはでていませんが、あっても不思議ではなさそう。
応神天皇は葛城の代表者で、それまでは母制系とか。


[635] 素朴な疑問  習志野のてつ [Mail] 2003/01/31(Fri) 00:24 [Reply]
四阿がアズマ、六合がクニ。
何故だろう?

[634] Re[633][632]: 番組紹介  神奈備 2003/01/30(Thu) 18:53 [Reply]
> ちょっと遅いような気がします。
> ルータやLANカードが10Mにしか対応していないということでなければ、NTTに問い合わせてみるのが一番早いと思いますが。

NTTは個別の速度については各自でとのスタンスのようです。
パソコン内部の設定についてはバンザイですわ。

ところで「片目を失った大黒天」にゆかりの神社か寺を探しておられる方がいます。
片目になったのか、全盲になったのか、三つの目の内、一つを失ったのか、適当に解釈して一つ教えて下さいな。


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