青草談話室ログ平十六年 五月
2004.2
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[721] やまとの大和の源九郎さん  ZOU 2004/06/01(Tue) 00:39 [Reply]
神奈備さん、みなさん、こんにちは。
しゃしゃり出てまいりました。ちと脱線ということで。

平群の真鳥のお話は残念ながら知りませんでした。源九郎稲荷神社は確かに地元です。UPしたいんですが写真紛失(T_T) 仕方がないのでお話だけご紹介。

源九郎狐は、義経(または静御前)のボディーガードをしたことから、白狐源九郎と名乗るようになったそうです。この件は「義経千本桜」をご検索くださいますようにm(__)m

もひとつ。
菅田明神境内に小狐が住んでいました。菅田明神の近くに淵があり、そこに住んでいた大蛇が村人を苦しめるので、菅田の小狐は源九郎狐の加勢を得て大蛇を退治することができました。大蛇の尻尾を切り開くと一振りの宝剣が出てきたことから、村人はその剣を宝剣「小狐丸」と名づけ、石上神宮に奉納したそうです。
菅田明神の鍛治神と剣、石上神宮、キーワードが並んでますね。

では、「朝敵揃」、お続けください。

[720] Re[718][717][716][715]: 応神と仁徳  かたばみ [Mail] [Url] 2004/05/31(Mon) 22:57 [Reply]
本日エアコン初使用。

なぜそうなのか・・Aだからではないか・・なぜAなのか・・Bだからではないか・・これの連続だからなあ。
なぜ、福岡に仁徳があるのか、可能性の積み重ねをあえて断定で書けば、

筑紫太宰府の守護神として手力雄命や武甕槌は用いられず、八幡と応神の習合が用いられた。
応神採用に反発する者達は仁徳もその祭神に加えた。
2行(^^;


[719] 朝敵揃7  神奈備 2004/05/31(Mon) 18:16 [Reply]
 大伴の真鳥とは、大伴金村に滅ぼされた平群真鳥のこと。こんな略し方ありか?

 物部の娘に影媛がいました。かねてより平群真鳥の子の鮪(しび)と恋仲。そこへ割り込んで振られたのが皇子であった武列さん。大伴金村に命じて鮪を乃楽山で殺させてました。

これを悲しんだ影媛は乃楽山へ行きます。途中の櫟本で歌を歌います。
 山辺の道と都祁道との衝の和爾下神社に説明板があります。

 石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さえ盛り 玉もひに 水さへ盛り 泣き沾(そぼ)ち行くも 影媛あわれ

 平群真鳥は大王位を狙ったとして、鮪と同様に殺されてしましました。武烈天皇も後嗣がいなく、継体王朝に切り替わります。
 
 雄略から武烈まではワンセットの王朝かも知れません。
 雄略は大鷦鷯尊、武烈は小泊瀬稚鷦鷯。
 雄略は聖人、武烈は暴虐。
 『日本書紀』としては王朝交代説にのっているような所。

 また平群との関係が面白い。

 『日本書紀』仁徳元年紀に、仁徳天皇が生まれた日、木菟(ミミヅク)が産屋に入り、また同日武内宿禰にも男子が生まれ、鷦鷯(ミソサザイ)が飛び込んできた。 この吉兆を交換して皇子を大鷦鷯尊、武内の子を木菟と名付けたとの説話が載っています。木菟宿禰は平群氏の祖。まさに裏表の親密さ。
 しかし、前述したように、武烈天皇は大伴金村と共に、武内宿禰の孫の平群真鳥を討つのです。これ以降平群氏は衰亡していきますが、「鳥の王朝」と言われる雄略、武列王朝も途絶えてしまうのです。

 ここで青草話
 見え見えの偽書のような評価の『竹内文書』に絡むお話。

 神代文字で記された伝承を武烈天皇の勅命により平群真鳥が漢字カナ交じり文に訳したとされるのです。天皇は真鳥を殺させたとみせかけて密かに越中へ落ちのびさせて、その作業に当たらせたと『竹内文書』そのものに書いてあるそうです。

 竹内文書は皇祖皇太神宮に伝わったと言います。この神社は不明ですが、勧請社が残っています。
石川県羽咋郡押水町宝達 宝達神社

ZOUさんの地元ですが、「おとぼけた神社情報室」に出ていない神社。
奈良県大和郡山市洞泉寺町 源九郎稲荷神社
由緒 天智天皇の白鳳年間、平群の真鳥が反逆を企て帝位を奪おうとしたとき大伴金道麿が逆賊誅伐の勅命を承わり天地神明を念じ、特に寛平稲荷(当社祭神のはじめの御名)を祈って出陣した。明神はたちまち武人と化し数多の白狐を遣い、この大敵真鳥を討ち平らげたので天下は平静となった。
アップ期待。

[718] Re[717][716][715]: 応神と仁徳  玄松子 2004/05/30(Sun) 20:07 [Reply]
何度読んでも、仁徳と太宰府の関係がよく理解できないのは暑さのせいかもしれませんが。

> ≫この「太宰府関連」とは、具体的にどういうことでしょうか
> そういう場所には武神が祀られるはず。

そういう風に推察したということでしょうか。

[717] Re[716][715]: 応神と仁徳  かたばみ [Mail] [Url] 2004/05/30(Sun) 19:58 [Reply]
うー暑い、東京は31度、真夏じゃ。

≫この「太宰府関連」とは、具体的にどういうことでしょうか

太宰府にはたいした意味はないんですが、いろいろな方向からの推測の合成になります。
古来からここは要衝とみえます。
701頃に国防拠点として筑紫太宰府が整備されています。
そういう場所には武神が祀られるはず。

福岡には手力雄命が多いので、これが妥当そうに見えますが位置は分散していて特徴はみえません。
(東京の湯島神社、長野の戸隠神社などは雄略が対抗勢力のあるところに武神を祀ったとみています)

平成祭データによれば太宰府の社は天神さんと八幡さんを除くと事代主、天穂日、玉依姫、応神。


欽明朝539-571の性格と任那日本府、白村江で唐新羅に大敗663、唐と新羅の関係悪化と半島情勢混乱・・
蝦夷討伐709、隼人の反乱720・・
大和朝廷は祭祀政治からは脱却しておりいまさら手力雄命や武甕槌ではないでしょう。
有為の存在を必要としたのではなかろうか。

八幡神の登場にはいろいろ難題が錯綜していて棚上げですが、応神が半島奥深くまで進出したことはまず間違いないところ。
記紀以前の地元(北九州)には応神という名ではない人物の伝承あるいは地主神が存在したかもしれません。

記紀によって応神が登場すれば神功や仲哀もおまけつきで登場してくると思います。
(神功は実在を疑っていますけど)
国防の要衝にあるべきもの、その地で「具体的な実績のある人物」として記紀では応神が最適。
同時に八幡(の原形あるいは地主神)との習合が行われた(お上の意図による習合)。


記紀に福岡と仁徳の関連はなく、仁徳登場の理由は応神の子だから、しかありません。
仁徳が登場するのは若宮じゃなかろうか。

若宮信仰ってなにかがこれまたやっかいな問題ですが八幡と春日にあるようで、祟るという背景がありながら信仰されるという不可思議は、親と子というが実は敵同士であって、我らは子とされる方を祀るべきなのだという対抗意識が背景にあるからではないか。

この意識は根が深いとみていますが略。例えば藤原(天孫)、菅原道真(出雲)です。

記紀はある意識の立場からそれらの歴史を一本化しようとした。
しかし八幡と習合された応神は非近畿系の謀反人(^^; 仲哀の子等を抹殺もしている。
そこで近畿系の仁徳が非公式に登場したのではないか。
本音と建前の錯綜。

応神と仁徳の間に対立構造があるなら自然な流れになる。
当時では応神と仁徳の情報は少なからず残っていたと思います。
その意識が後の若宮の源流となり、御霊信仰へも変化していったのではないか。

神様といえど人の思惑で動かされる時代、やっかいしごくでまったくの空想ですけど。

若宮自体もどんどん変化すると思います。対立の構造は消えてしまうかもしれません。
天神さんにお参りするときそんなことは考えないのと同じように。


東北には仁徳を祀る社は少ないですが福島県には特異的に多い。これも八幡がらみか。
東北争乱で朝廷側の拠点となって八幡が運ばれ、伴って仁徳も運ばれたのだろうと思っています。


[716] Re[715]: 朝敵揃1  玄松子 2004/05/29(Sat) 11:34 [Reply]
> 福岡に仁徳を祀る社が多いのは太宰府関連と八幡関連で新しいとみえますが、

この「太宰府関連」とは、具体的にどういうことでしょうか。

[715] Re[713][712][685][684][683]: 朝敵揃1  かたばみ [Mail] [Url] 2004/05/28(Fri) 21:18 [Reply]

福岡に仁徳を祀る社が多いのは太宰府関連と八幡関連で新しいとみえますが、現場チェックは困難だなあ。

≫仁徳さんが仲哀にお系統と言う判断の根拠がよくわからない所

今のところ連想ゲームでしかないのですが、武内宿禰があれほど執拗に仲哀の子の忍熊王の死を確認しようとしているのは後の反乱の種を除くためだと思います。
しかし、景行には日本武尊を含めて無数といってよい子がいて、取り除ききれなかった(^^;

応神に対してクーデターを起こすならば意識としても仲哀の縁者である可能性が高いと思います。
(このあたり鳥を装飾に使った土器に注目しています)

景行の母は日葉酢姫、日本海系勢力の立場は微妙で中立か。
(これが後に継体登場と磐井の問題の伏線となります)

この頃では王朝体制はまだ確立しておらず、諸王の統率権をだれが持つかだと考えています。
(狭い日本、どの氏族もどこかでつながっていますけど)
矢田皇女の求婚拒絶の歌に繰り返し「二重」がでてくるのが面白い、二人を主とはできないの意とみています。


応神が近畿の王権を失ったのは百済支援で高句麗との戦で疲弊したのが原因じゃないかな(広開土王碑)。
民のカマドの煙がでなくなったのも海外派兵による疲弊かもしれません。
民心も離れてゆくと思います。
機をとらえて立ち上がったのが仁徳・・

高句麗との戦に深入りしたのは応神の失政といえるかもしれません。
しかし、中国あるいは西域系文化が大量に九州にはいり、全羅南道には多数の前方後円墳が登場する。
最新の中国文化を持つ倭系の百済人あるいは百済系の倭人(の祖)も誕生していたと思います。

応神紀では百済と緊密、しかし仁徳紀では百済との関係記事は百済を叱責する1件のみ。
逆に応神の敵であった高句麗と新羅の訪問や朝貢記事は複数、これがなにを意味するのか・・


これらはみな可能性の大小、確率とか統計学的手法が必要と思っていますが、まだまだ単なる空想の範疇です。


[714] 朝敵揃6 蘇我の入鹿  神奈備 2004/05/28(Fri) 18:12 [Reply]
入鹿の祖父は馬子、彼は安曇連と阿倍臣摩侶の二人を使い、推古天皇に「葛城県地は元、私

の本貫。その地を賜りたい。」と申し入れたと『日本書紀』にあります。

蘇我氏は武内宿禰を祖とし、葛城氏と同祖となっているので、上記の主張をしたとの解説が

もっぱら。これは本当のことでしょうか。

小生は蘇我氏は鴨族の血をひいており、その末裔であることを意識していたのではと思っています。明確な証拠はありません。状況証拠のみ。

1.物部氏、天皇家との対立の構図が見られること。まさに放逐された鴨族を彷彿。
2.馬子、蝦夷、入鹿の名は、先住民族を思わせること。(おくり名であっても同じ)
3.過去のことを先住の海人族の安曇連を使って進言させていること。
4.蘇我氏の拠点であった桙削寺を建立した大丹穂山付近には、複数の葛神社が鎮座、葛の民との有効な関係を示していること。
5.斉明天皇即位(655年)の記事が入鹿と鬼を示す物語となっています。
   夏、五月の庚午の朔に
  空中にして龍に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。
  青き油の笠を着て、葛城の嶺より、馳せて生駒の山に隠れぬ。
  
  『扶桑略記』には、この書紀記事を引用して、わざわざ「時の人言う、
   これ(蘇我)豊浦大臣の霊なり」と注釈しているように、当時か
   ら、そのような「噂」話しが宮廷内では流布していたと思われます。
   豊浦大臣とは入鹿のこと。

6.斉明天皇の葬儀の宵、朝倉山の上に鬼があらわれ、大笠を着て見ていたと言う。入鹿の化身か。”鬼”先住民族の姿ではあるまいか。鴨族が濃厚。
7.出雲の須佐神社の横を流れるのが素鵞川、出雲大社の奥宮的に素鵞社が鎮座、古い出雲の氏族をルーツとするように思われる雰囲気を持つこと。

我ながらほとんど説得力がない・・・。

蘇我入鹿は聖徳太子の子で大王の候補であった山背大兄皇子を襲撃して殺しています。この皇子の死に方は朝敵4の蘇我倉山田石川麻呂と似ているのも不思議。

乙巳の変(645年)では皇極天皇(後に斉明天皇として重祚)の前で、入鹿は中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足によって殺されてしまい、蘇我本家は滅びることになります。それ以降の政治改革を大化改新と言います。

明日香には蘇我の首塚とされる石塔がありますが、密談を行ったと言う談山神社と石舞台古墳との間の山中に気都和既神社が鎮座、社域は「もうこの森」と呼ばれており、中臣鎌足が暗殺した蘇我入鹿の首に追いかけられてここまで逃げて、「もう来ぬだろう」と言ったと言う。
中臣鎌足さんはこんな所に逃げている暇はなく、東漢の説得や蝦夷邸を包囲したり、忙しかったと思います。

入鹿を祀った神社

奈良県橿原市小綱町 入鹿神社 http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/soga.html
三重県度会郡大宮町大字野原 七保神社 http://homepage1.nifty.com/fumikikoba/kwakim1.html
奈良県吉野郡東吉野村平野 水分神社 http://urano.org/kankou/eyoshino/eyosi05.html

[713] Re[712][685][684][683]: 朝敵揃1  神奈備 2004/05/28(Fri) 08:42 [Reply]
> 仁徳は応神の子ではなく、日本武尊系の後裔のひとりとみています。

仁徳さん就任のお話はどう見ても不自然で、皇位簒奪劇があったと言う可能性には頷けます。この大王はどうも浪速に縁が深いように思えますが、念のため、仁徳さんと仲哀さんを祭る神社の数を調べて見ます。
平成データから
神社  仁徳  仲哀  景行
福岡 178  96   8
愛媛  40  85   0
岡山  26 229   0
島根  41 100   0
奈良   6   7   1
兵庫  40  81   0
大阪  16  18   0
愛知 119  29   5
静岡  82  22   2

祭神は後世に大きい変化を受けているのでしょうから、これでどうこう言うのは難しいことですが、仁徳さんが仲哀にお系統と言う判断の根拠がよくわからない所。
狗奴国(九州+東海)と邪馬台国(瀬戸内、近畿)と言うような二つの大勢力の交互の政権と言うことかも。

[712] Re[685][684][683]: 朝敵揃1  かたばみ [Mail] [Url] 2004/05/27(Thu) 19:54 [Reply]
≫皇位簒奪を図ったと言う意味で謀反人の仲間入りでしょうが、それにしては

大山守命の反逆の話があったので5月の青々草を。

応神が仲哀系譜を滅ぼして大王となってのち、仲哀系(日本武尊系)の仁徳が近畿で我こそ大王なりを宣言して内戦勃発・・
民のカマドに煙が立たないほど民が疲弊していたのなら失政か内戦のどちらかでしょう。
カマドに煙が立つのをみて喜んだとは仁徳の王権奪回を示す(ただし、近畿限定)。

仁徳は応神の子ではなく、日本武尊系の後裔のひとりとみています。
仲哀−応神、応神−仁徳、允恭−雄略(安康)・・政権交代は日常茶飯事。
記紀編纂者はこれらを1本化するために必死の作業(^^;

毎度ですが
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/daiou.png



大山守命はその内乱の姿を変えたもの。
菟道稚郎子と仁徳の王位の譲り合いのお話も内乱による空白期間を隠すための創作。

菟道稚郎子はすでに皇太子(継承者)を受諾しているわけで、後から辞退して譲り合いなどありえない。
美談どころか国会空白?は民にとって迷惑でしかない。
記紀の譲り合いと女帝登場には眉に唾をつけながら(^^;

近親婚でいとこや姪はぞろぞろありますが、仁徳が異母妹を妃にいれているのは別系をひとつにまとめたからではないか。
記紀系譜によって古代では近親婚が許容されていたとみるのは危険だと思っています。


[711] 朝敵5(太平記 平家物語にはない)長屋王  神奈備 2004/05/26(Wed) 11:50 [Reply]
長屋王は長屋に住んでいた訳ではありません。彼の邸宅は一万坪以上のようで、跡地には大宮駅前の奈良そごう。経営不振はタタリか。
長屋王は、壬申の乱では反近江側の将軍として活躍した高市皇子の子です。天武天皇の孫と言うこと、母方から見れば天智天皇の曾孫、貴種そのものの文化人宰相。

唐招提寺建立と言うか鑑真和上の来日のきっかけを作った人物とされています。

唐招提寺HPから引用
長屋王が中国の僧侶へ千両の袈裟を贈りました。その袈裟の端には『山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁』(国土は異なるが同じ仏弟子という立場で共に手を携えて進みましょう)と刺繍してあったといいます。引用終わり

これを見て鑑真和上さんがやって来たと言うお話。

天平元年(729)の「長屋王の変」とは、天皇になろうとして、聖武天皇を呪い殺しすまじないをやっていたとの疑惑だそうだ。大して身分の高くない漆部造君足と中臣宮処連東人が「長屋王が左道を学び国を傾けんとしている」と密告したとありますが、左道とは怪しげな呪いのことのようです。人形(ひとがた)を土中に埋めて呪うのでしょう。

この長屋王は藤原不比等の四人の子と対立関係にあったようで、藤原氏の権力確立にもう一歩と言う所にいた四兄弟の策謀のようで、『続日本紀』でも、天平十年(738)の記事で、「誣告」であったと明記しています。


この時代、徐々に鬼神、怨霊の跋扈しつつある時代に向かっているのでしょうが、長屋王を祭った神社は見あたりません。美濃国武儀郡に長屋神社「長屋大神」が鎮座、長屋王のことかどうかは承知していません。
長屋王の場合、仏教に帰依していたようで、彼の怨霊鎮魂ならお寺と言うことだったのかも知れません。よく解りません。

長屋王の変から8年後の天平九年(737)、藤原四兄弟が全員死亡します。天然痘のようです。

のち、大伴宿禰子虫と中臣宮処東人が碁を打っていての物語で、東人が長屋王を陥れるべく嘘の密告を行った(多分人形を土中にこっそり埋めておいたのでは)事を語り、大伴宿禰子虫に斬殺されています。大伴宿禰子虫は長屋王家に仕えていた忠臣だったのでしょう。

四兄弟の率いる軍に取り囲まれて長屋王は自害をしました。生駒に埋葬されたと伝わります。一度通りかかったことがあります。平群坐紀氏神社の南の方だったと思います。

また、仏教入門の書である『日本霊異記』では、長屋王の「屍骸」を、天皇は「城の外に捨てて、焼き末き、河に散らし海に擲」てさせるが、その王の骨が土左国に流れ着き、「その国の百姓多く死ぬ」という事態となったそうです。それで土佐の国の百姓の訴えによって骨を都に近い紀伊国の島に安置したと語っています。

紀伊の百姓は死んでもいいと言う意味ではなさそうで、大和でお祭りするので、近い紀伊に置いたとのこと。お祈りの効果は近い方がきくと言うことでしょう。

迷惑を受けた紀伊の国で探してみますと、現在の下津町の沖の島のようです。『紀伊続風土記』によりますと、海部郡濱中荘椒濱村の段に「周囲二十一町 島の名霊異記に始て著る 島中 篠と茅とにして樹木一株もなし」とあります。続けて長屋王墓とあり、関連記事が続きますが略。

[710] Re[709]: 朝敵揃4  玄松子 2004/05/25(Tue) 08:46 [Reply]
>  この印鑰神社の祭神に蘇我石川宿祢を迎える理由ですが、

香椎宮に参拝したときに、本社の横に武内宿禰が鎮座し、
境内の印鑰に、その子石川宿禰が鎮座していたので、
「なるほど」と納得した記憶があります。

ということで、朝敵揃、お続け下さい。
個人的には、安部貞任あたりが待ち遠しい。
ナガスネヒコの兄・安日からの系統らしいし。

[709] Re[708][707][706][705]: 朝敵揃4  神奈備 2004/05/25(Tue) 07:50 [Reply]
 肥後国八代郡の印鑰神社の祭神の説明に「蘇我氏の祖蘇我石川宿祢を迎えた。」とありますので、蘇我倉山田石川麻呂とは違うようで、おっしゃる通り誤植か勘違いと考えるべきでしょう。

 この印鑰神社の祭神に蘇我石川宿祢を迎える理由ですが、天皇家の補佐役の鑑としては、武内宿禰やその子が選ばれたのかも。

 この辺りの系図に出てくる祖先は韓子とか高麗など渡来系を思わせる名前もあり、遠祖を武内宿禰につなげるべく捏造されているとすれば、朝敵ならぬ忠臣の蘇我倉山田石川麻呂から名前を頂いたとか。
 神社本庁はそこまで解っていて同じ神としたとか。

[708] Re[707][706][705]: 朝敵揃4  玄松子 2004/05/24(Mon) 23:22 [Reply]
> 『平成データ』では、まとめて出ますね。よく解らない所。

CDと同梱の『全国神社祭祀祭礼総合調査 全国神社祭神一覧』では、
同じ神となっていますね。多分、誤植の類じゃないでしょうか。

系列ですが、どうやら、数代違うようですよ。
http://nekhet.ddo.jp/people/japan/soga.html
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/tishiki/ks00049.htm

[707] Re[706][705]: 朝敵揃4  神奈備 2004/05/24(Mon) 22:57 [Reply]
> >  香椎宮摂社印鑰神社 福岡県福岡市東区香椎4-16-1 (筑前国 糟屋郡)
> ここの祭神は、蘇我石川宿禰(武内宿禰の子)ではないでしょうか。
> 蘇我倉山田石川麻呂と同じ人?

『平成データ』では、まとめて出ますね。よく解らない所。

[706] Re[705]: 朝敵揃4  玄松子 2004/05/24(Mon) 22:20 [Reply]
>  蘇我倉山田石川麻呂を祀る神社。
>  香椎宮摂社印鑰神社 福岡県福岡市東区香椎4-16-1 (筑前国 糟屋郡)

ここの祭神は、蘇我石川宿禰(武内宿禰の子)ではないでしょうか。
蘇我倉山田石川麻呂と同じ人?

[705] 朝敵揃4  神奈備 2004/05/24(Mon) 17:47 [Reply]
山田の石河
大化の改新劇で、中臣鎌足や中大兄皇子ら反入鹿派勢力に参加した蘇我倉山田石川麻呂のことらしい。
 朝敵とされたのは、弟の蘇我日向の偽りの密告のために、中大兄皇子に攻められて自害したからとは思われますが、『日本書紀』には、「冤罪」「讒言」と説明してあり、後に皇子は山田石川麻の貞潔な心を知って後悔したと記しています。
 何故朝敵に名を連ねているのかよくわかりません。

 蘇我倉山田石川麻呂を祀る神社。
 加佐美神社 岐阜県各務原市蘇原古市場5丁目1番地(美濃国 各務郡)
     蘇我石川麿公は往古曽原の県主たりし時百姓を撫綏、
     勧励老少大懷、因而、薨去後神霊、崇敬、し祭祀奉る
     とあり、「蘇原」の地名は、蘇我氏の領有に由来する
     といわれており、この蘇原に在住この地域を治めました。
     後に大和朝廷の財務を握り、帰化人氏族を統治し(境内
     に阿弥陀堂)また今の西側駐車場に根本寺が有ったよう
     に、進んで仏教を取り入れるなど、当時の進歩的派の代
     表であり、大化改新後右大臣となり大化五(六四九)年没。
 蘇我神社 高知県吾川郡伊野町波川2062 (土佐国 高岡郡)
 香椎宮摂社印鑰神社 福岡県福岡市東区香椎4-16-1 (筑前国 糟屋郡)
 印鑰神社 熊本県八代郡鏡町鏡村1 (肥後国 八代郡)
     この地はもと八代郡倉あとで古代日本国確立後、奈良平安
     時代には八代近郷の粗米を集めていた。
     武家政治となり郡倉が廃止された為私たちの先祖は、その
     あとに郡倉の印と鑰(かぎ)をまつり、祭神として蘇我氏
     の祖蘇我石川宿祢を迎えた。

 また印鑰とは、「国のハンコと国庫の鍵を意味する言葉」と玄松子さんのHPにあります。
大御和神社 http://www.genbu.net/data/awa2/oomiwa_title.htm

 印とか鍵も依代か、それ以上の呪術的な物とされていたのでしょう。
 『将門記』将門は印鑰を領掌し、長官などを追い立てて・・
 『将門記』将門を再拝し、印鑰を捧げて・・
 と征服する場合も、服従する場合にも、印鑰が用いられています。国魂に匹敵と言うことでしょう。筑紫の五十跡が神功皇后を迎えて、三種の神器を榊に取り付けて捧げていますが、印鑰も同じ様なもの。

 志賀島から見つかった「漢倭奴国王」の金印は、隠匿されていたのか、志賀海神社の印鑰神社の御神体として祀られていたのか、定かではありませんが、ちゃんとした後継の王がいたのでしたら、印鑑は相続されて使われていくものでしょうが、卑弥呼さんが「親魏倭王」の印を貰ったようで、これは王朝交代の証と言えます。台与さんは貰っていないのです。

[704] Re[703][702]: 朝敵揃2  神奈備 2004/05/24(Mon) 08:14 [Reply]
天見はアマミ
天美丘に阿麻美許曽神社が鎮座しています。
大同年間(八〇六−八〇九)に創建せらでた古社で延喜式内社の郷社でもある。
http://www.kamnavi.net/mn/osaka/amamikoso.htm

[703] Re[702]: 朝敵揃2  恋川亭 2004/05/23(Sun) 21:52 [Reply]
> 松原市天美我堂に我堂八幡宮が鎮座。

我堂だったんですね。ありがとうございます。メモが目も、あてられない走り書きで。
「天美」は・・・アマミ!?

> 物部系の神社の意地でしょう。

当日お世話をされていらっしゃった方々の言葉の中に、『武門の棟梁たる物部のォ〜』という決り文句のようなセリフを何度か耳にしました。が、チョット違うンじゃないかナ?と内心、疑問に。「意地」はそうとうに維持されていらっしゃるようで。

> 節制と運動・・・

そうですね、基本・根本・大前提ですね。今年後半のテーマとして、節制にセッセと励むことにします。脱線、失礼致しました。本線復帰にどうぞ。

[702] Re[701][700]: 朝敵揃2  神奈備 2004/05/23(Sun) 08:42 [Reply]
松原市天美我堂に我堂八幡宮が鎮座。

物部守屋公の墓は大阪府神社庁の肝いりで整備されたようです。
面白いのは石切さんは大阪府神社庁未加入だったと思いますが、ここに名を連ねています。物部系の神社の意地でしょう。

最近、明治神宮が東京都の神社庁から離脱することを決めたそうで、理由は解りませんが、宮内庁や社会保険庁の問題と根は同じ所なのかも。

> 厄年過ぎれば
国際機関のWHOでも議論されているお話ですね。
節制と運動以外では、水晶の玉とか金のネックレスをするとか、、、、。

[701] Re[700]: 朝敵揃2  恋川亭 2004/05/22(Sat) 23:39 [Reply]
> 名簿を見ていますと、近くでは葛城古道沿い、摂津、紀北、勿論播州辺りの神社は名を連ねていませんね。

ま、このリストは現代のお付き合い範囲というか、しがらみというか、古代史とはまったく離れて見ないといけないでしょうね。でも、墓前祭ご参列の方々は、そうとう思い入れというか気合の入った皆さまでした。・・・チョットネェ〜、引いちゃいました。

〔私信〕ですが、今日の宵方から右手の親指・人差し指、中指の3指が痺れてタイプに難儀してます、原因が思いつかなくて・・・。しいて言えば、泡盛・寝不足・運動不足・ストレス。そう言えば最近、目が霞み瞼を開けていられなくなったり、話し声が聞き取り難くなったり、朝こむらがえりの激痛で叫んで起きたりします。厄年過ぎれば普通の症状なんですか???

[700] Re[699][688]: 朝敵揃2  神奈備 2004/05/22(Sat) 22:15 [Reply]
恋川亭さん ご苦労様。
大阪で○比古神社とは爲那都比古神社でしょう。
名簿を見ていますと、近くでは葛城古道沿い、摂津、紀北、勿論播州辺りの神社は名を連ねていませんね。

[699] Re[688]: 朝敵揃2  恋川亭 2004/05/22(Sat) 20:31 [Reply]
> 守屋公の墓が八尾市内に。http://www.kamnavi.net/mn/osaka/monoyao13.htm

守屋公のところから枝分かれ脱線、「ちなみに」ってことなので、これも数に入れないで下さいね。3年前の守屋公墓前祭のメモをやっと掘り返しました。当時は、一所懸命に書き取りましたでぇ〜。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

八尾市太子堂『物部守屋公墓所』周囲の瑞垣に刻まれている賛奉神社名

  ・神社名の横の宮司名など人名は省略した。(葉室センセなんか3ヵ所もあった)
  ・宮司と氏子の賛奉により2箇所でる神社名もある。
  ・個人、業者などは省略した。
  ・「宇宙ナントカ〜、世界ナントカ〜」等は省略した。

(1)正面・鳥居西側を左から
片山神社(吹田市)、賀茂別雷神社、生田神社、長田神社、大宰府天満宮、八坂神社(京都祇園)、熊野那智大社、平安神宮、多賀大社、富岡八幡宮(東京)、北海道神宮、日枝神社(東京)、大阪府神社庁。

(2)正面・鳥居東側を左から
神社本庁、青森県神社庁、神奈川県神社庁、埼玉県神社庁、伏見稲荷大社、福井県神社庁、石清水八幡宮、春日大社、近江神宮、賀茂御祖神社、石上神宮、京都北野天満宮、三箇・菅原神社。

(3)敷地西側を手前より
元・枚岡神社宮司、泉殿宮、物部神社(石見)、若江鏡神社、大鳥神社、天照大神高座神社、堺方違神社、天神社(上新田)、大阪府神社庁、都留彌神社、春日大社、波牟許曽神社(東大阪)、大阪府神社庁長、片埜神社、坐摩神社、少彦名神社、茨住吉神社、堀川戎神社、三社神社(大阪市港区)、豊崎宮、今宮戎神社、八阪神社、大阪天満宮、露天神社(曽根崎)、住吉大社、産土神社(此花)、大阪護国神社、野里住吉神社、守居神社、鶴見神社、生國魂神社、大宮神社(旭区)、菅原神社、櫻宮(都島)、岸戎神社(岸和田)、岸和田天満宮、八王子神社、春日神社、御幸森天神宮、石切劔箭神社、阿倍野神社、多治速比売神社、高崎神社、蹉詑(言扁でなく足扁)神社(枚方)、九州各県神社庁、大森神社(泉南熊取)、山阪神社、近畿日本鉄道、加賀屋天満宮、庄内神社、○○都比古神社(スンマセン読み損ねました)。

(4)敷地北側・奥を左から
茨木神社、意賀美神社(枚方)、道明寺天満宮、旭神社、菅原神社、辛國神社、彌榮神社(岸和田)、玉祖神社、山本八幡宮、天湯川田神社、池嶋神社(東大阪)、二宮神社、瓢箪山稲荷神社、金山彦神社(柏原青谷)、金山媛神社(柏原雁多尾畑)、弓削神社、太川神社、友井御劔神社、志紀長吉神社、黒田神社(藤井寺)、瓜破天神社、由義神社(八尾)、穴太神社、御劔神社(八尾刑部)、友井御劔神社、天照大神高座神社、中臣須牟地神社、徳庵神社・仲村神社・産土神社、矢作神社、我堂八幡宮(戎堂だったかも?)。

(5)敷地東側を手前より
四条畷神社、大阪天満宮、敷津松之宮、佐太神社、乃木神社、高砂神社(住之江)、御獄神社、宗像大社、諏訪大社、榛名神社、猿田彦神社、真清田神社(愛知県)、二見興玉神社、多度神社(三重県)、祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市古枝)、大神神社、東京大神宮、寒川神社(相模)、龍田大社、厳島神社(宮島)、枚岡神社、長野神社(河内長野)、八尾天満宮、建水分神社、恩智神社、美具久留御魂神社、巽神社、大津神社(河内大宮)、阿麻美許曽神社、壷井八幡宮、山本八幡宮、高向神社(河内長野)、渋川神社、誉田八幡宮、若江鏡神社、聖神社(和泉)、柴籬神社、春日神社(和泉三林)、布忍神社、感田神社、鐸比古鐸比売神社、夜疑神社、許麻神社、兵主神社、屯倉神社、開口神社。
 以上。なんか・・・役にたつでっしゃろか? ま、無用の用。

[698] Re[696]: 犬祖伝説  神奈備 2004/05/22(Sat) 08:19 [Reply]
隼人もイヌ人で、南方の苗族などからの伝承かも知れません。
また、ジンギスハーンを青き狼の子孫としたのは、トルコ系民族のだとか。
タタール。鉄と犬のつながりは西アジアにもありますね。
岩塩も。

[697] 白い犬  恋川亭 2004/05/22(Sat) 00:10 [Reply]
久々の青草。「白い犬・・・製塩かッ!?」なんちゃって〜。

[696] 犬祖伝説  玄松子 2004/05/21(Fri) 17:02 [Reply]
犬頭伝説と同様の伝説は各地にあるようです。通常は犬塚伝説と言います。
http://homepage2.nifty.com/kyougamine/inutuka.html


> 彼らのルーツは九州にあったのかも。ここは犬祖伝説の地ですから、犬に攻撃されることはおかしいですね。

犬祖伝説のオリジナルは、アジアの東南地方だと思います。
沖縄や南西諸島を北上し、日本全国にこの手の伝承は伝わっています。
犬が捨て身で恩返しをする「犬塚伝説」や、犬と女の婚姻である「犬婿入」など。
犬神(含む狼)信仰も各地に残っていますが、四国が有名じゃなかったかなぁ。
四国といえば弘法大師縁の地ですね。阿波にも多く犬婿入説話があるようです。

[695] Re[694][693][689]: 朝敵揃3  神奈備 2004/05/21(Fri) 15:56 [Reply]
> 杉・蛇・船のキーワードを持つ出雲系
巳の神杉と言えば三輪明神。ここは船との関わりはどうだろう。事代主でいいのかな。

> 足利
平氏にしてもまた足利氏にしましても、衰亡の危機に面すると九州へ逃げて立て直しを図ります。彼らのルーツは九州にあったのかも。ここは犬祖伝説の地ですから、犬に攻撃されることはおかしいですね。新田義貞の首の話がおかしいのか、犬頭の話がおかしいのか、多分両方おかしいのかも。

余談ですが、白い犬を祀るお話
青草話の大先輩格『山海経』南山経の最後の方。
山の神はみな竜神で人面、その祠にはみな一匹の白い狗を用い祈る。
とあります。

[694] Re[693][689]: 朝敵揃3  玄松子 2004/05/21(Fri) 12:53 [Reply]
> とすると、杉・蛇・船のキーワードを持つ出雲系を匂わせる敵は北朝?

筆の勢いで間違えました。書きたかったのは、足利?

[693] Re[689]: 朝敵揃3  玄松子 2004/05/21(Fri) 12:43 [Reply]
脱線路線継続中。

> 先の引用で、文石小麻呂が白い犬であったことが引っかかります。

白い犬といえば、神奈備掲示板に出た犬頭神社の由緒。
http://www.kamnavi.net/en/mikawa.htm
の糟目犬頭神社参照。

鷹狩の主人を助けようとして逆に首をはねられた白い犬。
主人を狙ったのは、「大杉」の上にいた「大蛇」で、後にその大杉は「船」になった。
そして、主人はその白い犬の頭を祭った。

実は、この頭は新田義貞の頭らしい。忠臣=忠犬?
とすると、杉・蛇・船のキーワードを持つ出雲系を匂わせる敵は北朝?

[692] Re[691][690]: 朝敵揃3  神奈備 2004/05/21(Fri) 08:06 [Reply]

> > 実は大石が本当の名だったりして。(赤穂の大石・・・)
>
大石良雄の遠祖は田原藤太秀郷とか。江州。
百足退治ですから、金属採取。
文石小麻呂が変身した白い犬は、例えば空海を高野山に案内した狩人が連れていたように、タタラに関係していそうです。金属資源の争いかも。

大石山丸と呼ばれたのは、山丸とは山城のことのようで、攻めてくる軍に上から大きい石を落として抵抗したのかも。

[691] Re[690]: 朝敵揃3  恋川亭 2004/05/20(Thu) 22:33 [Reply]
便乗して脱線します。(数に入れないで下さいネ)

> 実は大石が本当の名だったりして。(赤穂の大石・・・)

佐久奈度神社に参拝したとき、大石内蔵助のルーツがその地にあることを知りました。内蔵助さんのお爺さんが奉納した扁額があるとか。今でも付近の地名は大石です。

[690] Re[689]: 朝敵揃3  玄松子 2004/05/20(Thu) 22:11 [Reply]
>  播磨国の御井隈の人、文石小麻呂(あやしのおまろ)は、

「あやし」と読むんですね。気づきませんでした。
明石か、
漢氏か、
実は大石が本当の名だったりして。(赤穂の大石・・・)

[689] 朝敵揃3  神奈備 2004/05/19(Wed) 14:45 [Reply]
 朝敵の大石山丸を抜かして守屋さんにいってしまいました。戻ります。
大石山丸は、HP『鬼の消息』によりますと、「『日本書紀』雄略十三年八月に春日小野大樹に討たれたと見える文石小麻呂の誤りか。」とあるのが通説のようです。

講談社学術文庫『日本書紀』から
 播磨国の御井隈の人、文石小麻呂(あやしのおまろ)は、力持ちで気丈であるといわれていた。傍若無人の振る舞いがあった。道路の通行を妨げたり、物をかすめたりした。また商人の船を差し止めて、品物をすべて奪い取ったりした。国法に背いて税を納めなかった。天皇は春日小野臣大樹を遣わして、死を恐れぬ百人の兵士に、松火をもって家を囲んで焼かせた。そのとき炎の中から、白い犬がにわかに飛び出してきて、大樹臣にとびかかった。その大きさは馬ほどもあった。大樹臣は顔色も変えないで。刀を抜いてこれを斬った。するとそれが文石小麻呂になった。

播磨国の御井とはどこか、と言うことですが、岩波文庫『日本書紀』雄略紀の注と『古代播磨の地名は語る』を組み合わせて見ると、
讃容郡 御井村  不明 海に面していない。
赤石郡 廝御井  不明
赤石郡 駒手御井 明石市太寺付近
賀古郡 松原御井 加古川市尾上町
が候補地。先の引用で、文石小麻呂が白い犬であったことが引っかかります。

『播磨国風土記』賀古郡から
景行天皇が印南の別嬢を妻問いしようとした時、別嬢は南毘都麻の島に逃げたのですが、天皇は賀古の松原へ行って探した所、別嬢の白い犬が海に向かって吠えたので、行方が解ったと言う。

 松原の地名と白い犬が共通に現れる賀古郡の松原がそうらしいと思われます。恐らくこの時以来、白い犬の家系は國から徴税を免除されたりの優遇措置を受けていたのでしょうが、雄略天皇はそのようなことは認めなかったと言う説話と考えることがことがことができます。

 松原御井の比定地の神社と由緒から

加古川市尾上町養田 崎宮神社 大己貴命 須佐之男命 稻田姫命
 当社の縁起によれば、三十三代推古天皇の御代に、この辺りに雌雄の大蛇が棲んでいて、人々を苦しめたので、聖徳太子は須佐之男命が出雲の簸川で八岐大蛇を退治された故事にかんがみ、この地に鎮祭されたと言う。

 文石小麻呂が商人の船を差し止めて云々の話は、紀の国の須佐神社に伝わる話と似ています。須佐神社は船が見えない所に遷座さされています。「さきのみや」とは紀の宮のことだったのかも知れません。『風土記』による景行天皇と別嬢の婚儀の宮だったのかも。

加古川市尾上町長田 尾上神社 住吉大神 (配祀)姥女神
 播磨風土記に「昔大帯日子命、幸行別媛之處、道辺有長田、勅云、長田哉、故曰長田里」(長田は当神社の所在地)とみえ、古くから発達した土地で、「高砂」という地名は、むかし此の辺一帯の総称で、当社は所謂「高砂の尾上云々」とうたわれた名所である。

 白い犬を斬った春日小野臣大樹は彦姥津命の後であり、尾上神社の祭神に姥神の名が見えています。

[688] 朝敵揃2  神奈備 2004/05/18(Tue) 10:19 [Reply]
 物部守屋は謀反人なのかどうか、伝わる所では、どうやら皇位を狙ったと言う訳ではなさそうです。蘇我氏と皇族の連合軍と戦争したと言うことで、『平家物語』では朝敵。
 
 京都の弥勒菩薩像で有名な広隆寺の鎮守らしい大酒神社は「弓削守屋大連の社」とあるのですが、三柱鳥居で知られています木島坐天照御魂神社が元社だから物部氏の社とされたのかも。または、「守屋」とは、守るための建物の意、鎮守社のこと。これが、守屋さんの建立となってしまったこともあるのかも。

 崇仏戦争に敗れた物部守屋は河内國若江郡の渋川で戦死したとされていますが、死を惜しまれてでしょうか、逃亡して、名を隠して云々との伝承があるようです。

1.諏訪 守屋山頂に物部守屋祠があるとか。洩矢神社の神裔に守屋神、代々神官を勤めたと言う。これも神のお守り役の意か。
2.秩父 武甲山山頂の神社群を祀っていた宮司家の守屋家は物部守屋の末裔説。
3.近江国浅井郡 波久奴神社 高皇産靈神 配祀 物部守屋大連
  由緒 大臣は弟小阪伴従して其領内、即ちその当地に潜匿し大臣名を隠して萩生翁と自稱す、遺命に依て大臣を小谷東峡の巌窟に葬す。
4.日向国諸県郡 森神社 用明天皇
  由緒 滅亡したと伝えられた物部守屋は遂に一門一家を伴い身を遁れて大隅に亡命し原田の田原川流域の文化の非常に開け木花咲姫の神社や古墳のあることを知り、この原田を幽居の地と定めここに崇拝申し上げていた用明天皇を奉祀し物部氏は日参して天皇の御安泰を祈り奉り忠臣の誠意を表したのである。

物部守屋を祀る神社
守屋神社 福島県岩瀬郡岩瀬村大字守屋字守屋坂47,陸奥(岩代)国 岩瀬郡
守屋神社 福島県会津若松市湊町大字原字西山3269,陸奥(岩代)国 会津郡
守屋神社 福島県会津若松市湊町大字平潟字夏狼ケ獄乙1477,陸奥(岩代)国 会津郡
大輿神社 山梨県中巨摩郡田富町今福331,甲斐国 巨摩郡
守屋社  長野県上伊那郡高遠町大字藤沢字片倉7165,信濃国 伊那郡
錦山神社 岐阜県高山市江名子町368番地,飛騨国 大野郡
波久奴神社
村屋坐彌冨都比賣神社境内社市杵嶋姫神社 奈良県磯城郡田原本町蔵堂426,大和国 式下郡
弓削神社 愛媛県南宇和郡城辺町緑,伊予国 宇和郡

澪標住吉神社 大阪市此花区伝法 http://www.kamnavi.net/en/settu/miotukusi.htm
四天王寺 願成就宮(守屋祠) 天王寺区四天王寺 http://www.kamnavi.net/mn/osaka/sitenouji.htm
守屋公の墓が八尾市内に。http://www.kamnavi.net/mn/osaka/monoyao13.htm

[687] Re[686][685][684][683]: 朝敵揃1  神奈備 2004/05/16(Sun) 20:42 [Reply]
玄松子さん、ありがとうございます。
太平記にも朝敵揃があるんですね。平家物語に輪をかけた書きようですね。
平家 紀州名草郡、高雄村に一つの蜘蛛有り、身短く足手長くて・・
太平 名草郡に二丈余の蜘あり。
これらは史書と言うより軍記か講談のようなものでしょうが、後世になれば内容が詳しくなってくる史書は信用できないとする一つの証になります。

名草戸畔、葛城の土蜘蛛から大石山丸との間には、謀反人がそこそこいます。
崇神紀 武埴安彦、孝元天皇の皇子で妻の吾田姫は天香具山の土を採取
    出雲振根
垂仁紀 狭穂彦王
景行紀 各地の土蜘蛛などが退治されているが、皇軍の一方的侵略。
神功紀 カゴサカ王、忍熊王 どっちが謀反人か不明。勝てば官軍。
仁徳紀 飛騨国の宿儺
    住吉仲皇子
雄略紀 吉備下道前津屋
    大石山丸
    >『日本書紀』雄略十三年八月に春日小野大樹に討たれたと見える文石小麻呂の誤りか。
 のようです。国法に背いて租税を納めなかった。とはありますが、
>朝敵ではないようですが。
と言う玄松子さんに同感。

 飛騨国の宿儺は両面宿儺のことで、『日本書紀』では、「皇命に従わず、人民から収奪して栄華にふけっている。」とあります。
 所が地元の丹生川沿いでは人気があり、「両面様」と敬われているとか。行動に二面性があり、権力からは敵、地元では人気、素盞嗚尊を想起します。国津神の宿命でしょう。

 両面様は両面四本の手の異人で顔は夜叉似とか。モンゴルからやって来た相撲取りのがっぷり四つの姿ですね。宿儺が最後に籠もったのは丹生川村の日面にある岩窟で、両面窟と言うそうですが、一般には近づけない岩壁の上にあるそうです。
 
 日面をはじめ日影、旗鉾などには縄文遺跡が点在していますが、同時に伊太祁曽神社が鎮座しています。丹生川と言い、伊太祁曽神社と言い、紀の国に縁を感じる地域です。

旗鉾 http://www.kamnavi.net/it/hida/hdhata.htm
日面、日影 http://www.kamnavi.net/it/hida/hdhiyomo.htm

両面宿儺を祀る神社は見あたりませんが
岐阜県益田郡萩原町上呂 久津八幡宮(くづはちまんぐう)が鎮座、両面宿儺を退治した武振熊命が応神天皇を祀ったとされています。この「久津」、葛、国栖、九頭と一緒。

[686] Re[685][684][683]: 朝敵揃1  玄松子 2004/05/16(Sun) 14:09 [Reply]
> 謀反人
> 大石の山丸  目下探索中・・・知恵をお貸し下さい。

「鬼の消息」 http://www.e-net.or.jp/user/stako/NI/N02-02ta.html
「『日本書紀』雄略十三年八月に春日小野大樹に討たれたと見える文石小麻呂の誤りか。」

大石 と 文石
山丸 と 小丸(小麻呂)

文字の形は似ています。
が、『日本書紀』では、単なる悪党で犬の妖怪。朝敵ではないようですが。

[685] Re[684][683]: 朝敵揃1  神奈備 2004/05/16(Sun) 13:07 [Reply]
謀反人
大石の山丸  目下探索中・・・知恵をお貸し下さい。

次の大山王子

大山王子は応神天皇の皇子で大山守皇子のことのようで、『日本書紀』によれば

、皇位簒奪を図ったと言う意味で謀反人の仲間入りでしょうが、それにしては相

手の備えを調べずに出兵し、川を渡る際に船を転覆させらてたなど、どちらが謀反人なのか、疑えばきりがない記述が見えます。
 応神天皇は菟道稚郎子を後継に指名しているのにもかかわらず、結局大鷦鷯尊

(仁徳天皇)は皇位についています。勝てば官軍と言うことかも知れません。
 
 『新撰姓氏録』摂津国皇別 榛原公 大山守命の後裔
摂津国川辺郡 小戸神社 http://www.kamnavi.net/en/settu/ohobe.htm

同書 右京皇別下
日置朝臣 大山守王之後也

これに関する神社は日置神社が各地に鎮座。当たり前のことですが、祭神に謀反人の名は見えません。

尾張国愛智郡 日置神社 http://akon.cool.ne.jp/jinja/hioki.html 
若狭国大飯郡 日置神社
越中国新川郡 日置神社 http://www.genbu.net/data/ecyu/hioki1_title.htm

この「日置」は「ヒキ」でもあり、蟾蜍のヒキとすれば、土蜘蛛の匂い。皇別ならぬ蜘蛛別かも。だから、大和から伊勢への山中に日置の痕跡が並んでいたのかも。

[684] Re[683]: 朝敵揃1  神奈備 2004/05/14(Fri) 20:36 [Reply]
平家物語の「朝敵」を出したのは、謀反人を祀る神社探しのつもりでしたが、すっかり忘れていました。

 謀反人の血を受け継いでいる神奈備としては、先輩謀反人の祀られている神社を探して参詣するのは義務のように思えてきます。

 名草戸畔を祀る神社は紀の国の名草山(西国三十三寺の二番目の紀三井寺がある)付近に多いようだ。
宇賀部神社、杉尾神社、千種神社の三社が著名。
http://www.kamnavi.net/ki/city/nagusa.htm

葛城の土蜘蛛は高天彦神社の社前の森にある蜘蛛塚や一言主神社境内の蜘蛛塚が思い起こされます。
高天彦神社 http://www.kamnavi.net/as/katuragi/takamahi.htm
一言主神社 http://www.kamnavi.net/jm/k22.htm
など。

[683] 朝敵揃1  神奈備 2004/05/14(Fri) 17:07 [Reply]
『平家物語』の巻五にZ氏好みの「朝敵揃」と言う節があります。

夫れ我朝に朝敵の始めを尋ぬれば日本磐余彦尊の御宇四年、
 紀州名草郡、高雄村に一つの蜘蛛有り、身短く足手長くて、力人に勝れたり。人民多く損害せしかば、官軍發向して、宣旨を讀かけ、葛の網を結で、終に是を掩ひ殺す。
 其より以降野心を狹んで、朝威を滅んとする輩、
大石の山丸、
大山王子、
守屋の大臣、
山田の石河、
蘇我の入鹿、
大友の眞鳥、
文屋の宮田、
橘の逸勢、
氷上の川繼、
伊豫の親王、
太宰少貳藤原の廣嗣、
惠美の押勝、
早良の太子、
井上の皇后、
藤原仲成、
平將門、
藤原純友、
安倍貞任、
對馬守源義親、
惡佐府、
惡衞門督
に至る迄、すべて廿餘人。され共一人として、素懷を遂ぐる者なし。尸を山野に曝し、頭を獄門に懸らる。

名誉なことに筆頭は紀州名草郡です。徳富蘇峰曰わく「紀州は蜜柑と謀反人の本場」とか。

で、紀州名草郡の高雄村をさんざん探したのですが、田辺に高雄山と言うのはあるのですが、名草には見えません。以下の文章を見ますと、神武紀の葛城での土蜘蛛退治の話が入って来ています。高尾張邑を高雄とやっているようです。名草戸畔と葛城の土蜘蛛の混乱のようです。
 最初の朝敵は長髄彦ではと思うのですが、筆頭に名草郡が登場しているのは、最初に誅した謀反人だからかも。神武紀で最後に殺戮したのは葛城の土蜘蛛、最初と最後を纏めて「名草郡、高雄村の蜘蛛」としたのかも。

[682] Re[681]: 土蜘蛛  私のラバさん  神奈備 2004/05/12(Wed) 18:58 [Reply]
QUBOさん こんにちは。

 最近まで南洋の人を土人(ドジン)とよんだり、江戸時代の記録には地元に人を土俗としています。何となく蔑視の雰囲気のように思います。

> 手足が長く、毛深く、土の中に住み、狩猟生活をする。で「土蜘蛛」

 毛はないのですが蝦蟇蛙にも例えたいものです。

 『魏志倭人伝』には侏儒国が紹介されていますし、葛城の高尾張邑の土蜘蛛を
侏儒と似ているとしています。
 「シュジュ」でやはり地主似の発音。
 「ヒキヒト」とも訓まれているようで、これは蟇人か。

 『先代旧事本紀』には葛城土神剣根の名が出てきます。神武天皇によって葛城国造に任命されています。この「土神」は「ヒキカミ」と訓。

 土、蜘蛛、蟇、侏儒、小人、ありとあらゆる呼称がありそうです。

 現在の政府要人も、古代と同じく、一般庶民を蜘蛛のようにしか思っていないとしか思えない状況。
 甕星とアテルイと将門が復活してくるのかも。

[681] 土蜘蛛  QUBO 2004/05/12(Wed) 10:16 [Reply]
「土地主を土蜘蛛と呼んだ」とする神奈備さんの説、魅力的ですね。
土蜘蛛の方が先住民であった事は間違い無いでしょう。

対抗するわけではないのですが、個人的に通説だと思っている説をご紹介。
縄文人の特徴(弥生人と比べて)
@身長が低いA手足は体の割に長いB毛深いC住居が土の中
D生活の糧のかなりの部分を狩猟採取に依存する(栽培は主たる業ではない)
Cは、竪穴式住居について、少なくとも屋根部分は「土に覆われていた」可能性が高い
(ロードオブザリングでも、ホビットの棲家は土を被せていました。)
縄文タイプの人間を、弥生タイプの人間が蔑称
手足が長く、毛深く、土の中に住み、狩猟生活をする。で「土蜘蛛」

ついでに
「八槻郷」とは現在の「八溝山」です。
それぞれの「溝」に、縄張りを持っていた八人の土蜘蛛の首領が、
ヤマトタケルに抵抗したが、応援の味耜高彦根命一族に滅ぼされた。
この手柄により、
味耜高彦根命一族は、この地から北方陸奥の国を任された。
その最初の根拠地、都都古別神社は、陸奥の国一の宮とされた。

[680] 土蜘蛛は土地主  神奈備 2004/05/10(Mon) 20:59 [Reply]
 八岐大蛇の骨が百足になるそうな。
 そうして、二匹の百足は二十五匹の蜘蛛が出来るのは算数。
 蜘蛛は中国語の発音では、チチュウ、チュウチュウだそうで、朝鮮語も似ているとのこと。で、地主もチチュウに似ている発音。
 先住民を地主と認識しておきながら殺戮を行い、土地を奪って、土地主を土蜘蛛と呼んだのでした。

奈良県では
吉野郡上北山村小橡 北山宮の境内神社地主社 大地主神
吉野郡十津川村那知合 加茂神社 別雷神 鳴雷神 大地主神 劔神
大阪では
大阪市東住吉区山坂 山阪神社摂社の荒川稲荷神社 湯津志可由布比賣命 (配祀)地主神

[679] 鴨と市、最古の王権 34 常陸国と陸奥  神奈備 2004/05/05(Wed) 16:28 [Reply]
 これが最終回。いささか冗長気味の上に「市」については実に中途半端。
 「市」には、神社につかえる巫女の意味があり、これは上方でも常陸でもそう言う。柳田国男『巫女考』にそう」書いています。常陸では大市、小市と、市子などと言うようです。卑弥呼がねむるかも知れない箸墓は大市と言う場所にあります。大巫女王に相応しい地名。

 天日矛を詰問に行った大友主と長尾市ですが、長尾市は大和大国魂神を祀り、また子孫は出石神社の宮司家をやっています。これも「市」、巫女だったのかも知れません。

 余談はさておき、『日本書紀』(神代下)
 一書(第二)にいう。天神が経津主神、武甕槌神を遣わされて、葦原中国を平定させられた。ときに二柱の神がいわれるのに、「天に悪い神がいます。名を天津甕星といいます。またの名を天香香背男です。どうかまずこの神を除いて、それから降って、葦原中国を平らげて頂きたい。」と。倭文神建葉槌命を遣わして征服させたとのこと。 倭文は布、これは魂をつつむと言う。

 日立市大みか町に大甕神社が鎮座、武葉槌命を祀ります。『大甕倭文神宮縁起』(志田諄一氏は江戸時代作と見る。)では、甕星香香背男が巨岩に依っていたのを討ったと言います。巨岩は戦前に軍が道路を通すべく砕いてしまったようです。依っていたのが甕星でなく、天津神なら軍も迂回したのかも。
 倭文神が蹴っ飛ばして巨岩がバラバラになり吹っ飛んで、各地に落ちたと言う話もあります。
 大甕神社 http://www.yominet.ne.jp/hitachi/city/mukashi.html

 大甕山の戦い検証 http://f26.aaacafe.ne.jp/~hiroji/kakaseo19.html
 を紹介しておきます。このHPに「香々背男のことをカウラザメと言う。」とあるのは面白い。甲羅鮫?夷かな。

 大和の葛下郡の当麻に葛木倭文坐天羽雷命神社が鎮座、当地は二上山の北側にあたり、河内と大和との境でもあり、要衝です。ここに倭文神が鎮座しているのは、まさに葛城の鴨族を北側から圧迫するのに相応しい場所。倭文神は大和で鴨氏を追い払い、また常陸国でも打撃を与えたのです。
 葛木倭文坐天羽雷命神社 http://www.kamnavi.net/as/katuragi/kzkamori.htm

 倭文神ですが、伯耆の国の一の宮である倭文神社には建葉槌命と下照姫等の鴨の神々が祀られています。川村郡は下照姫に縁のある地です。やはり甕星退治の一環として倭文神が現れたのかも知れません。
 当地が甕星の支配地だったとしますと、下照姫又の名を高照姫は、やはり宵の明星又の名を明けの明星とする青草説が成り立つのかもしれません。神奈備山には金星は似合うものです。
 倭文神社 http://www.genbu.net/data/houki/sitori2_title.htm

 『常陸国風土記』では逆らう土蜘蛛は全滅させられたように書いていますが、どっこい蜘蛛の子を散らすように陸奥に逃げて行きました。『陸奥国風土記逸文』の八槻郷に八人の土蜘蛛が日本武尊に退治されたお話が残っています。黒鷲、神衣姫(かむみぞひめ)、草野灰(かやのはい)、保々吉灰(ほほきはい)、阿邪爾那姫(あざになひめ)、栲猪(たくい)、神石萱(かむいしかや)、狭礒名(さしな)と言う名だそうです。八人の土蜘蛛の首領に当たった矢から槻の木が生えたので、八槻の郷と言うとあります。
 草野灰、焼き畑の灰のように多くの民がいたのかも知れません。
 狭磯名、事代主神社の鎮座する阿波国長邑の人で、深い海に潜って絶命した漁夫の狭磯を思い出します。安曇氏の一人でしょう。
 神衣姫と神石萱の子孫は生きながらえたそうです。彼らが祖先の味耜高彦根命を都々古別神社に祀ったのでしょう。この神社はかっては陸奥国の一の宮です。福島県東白川郡棚倉町大字八槻や大字棚倉に鎮座しています。
 馬場 都都古別神社 http://www.genbu.net/data/mutu/tutuko2_title.htm
 八槻 都都古別神社 http://www.genbu.net/data/mutu/tutuko_title.htm

 土蜘蛛の子、都都古別、星の王子様、味耜高彦根命の物語。完

[678] 鴨と市、最古の王権 33 常陸国  神奈備 2004/05/04(Tue) 11:45 [Reply]
 『常陸国風土記』によると、所謂まつろわぬ民である土蜘蛛がしばしば登場してきます。
 茨城の郡 国巣(土蜘蛛、八束脛)で、山の佐伯、野の佐伯が穴倉に住んでいた。穴居生活者。狼の性と梟の情を持つと形容される。茨蕀(うばら)を穴に入れておいて追い込み、退治されてしまった。茨城の語源で、土蜘蛛を一網打尽にした葛城と説話と似ています。

 行方の郡 郡役所の西北に提賀の里がある。昔、手鹿(てが)と呼ぶ佐伯が住んでいた。
 ここから北は曽尼の邑で、疏祢毘古と言う佐伯がいた。

 郡役所の南七里の男高の里に佐伯の小高というものが住んでいた。

 夜刀の神が登場します。箭括氏の麻多智が葦原を開拓しようとしたが夜刀の神がさまざまな妨害をした。そこれ山に追い払い、標の杖を境界に立てて、上は神の土地、地は人の田、と宣言、そうして神を祀ったとある。後の世になって再度現れ、追い払われている。やはり土蜘蛛だろう。

 板来の村に建借間命が留まっていた時、安婆の島の東に国栖の夜尺斯、夜筑斯(やさかし、やつくし)という二人の指導者に率いられていた。杵島ぶりの歌舞音曲で誘い出して皆殺しにしたと言う。肥前国の杵島の歌垣での民謡を「杵島ぶり」と言うようですが、九州の言葉から考えると、サカシは抜け目ない、ツクシはつつき回す、と言うことで、やはり土蜘蛛の形容の言葉。何故、杵島が登場するのか、筑斯が出てくるのかですが、筑波が紀の国であったり、安曇の末裔であろう安是の嬢子が登場したり、人々の流れは東へ向かっていたのでしょう。

 もう一つは国栖のいた安婆の島ですが、船が安心できる港の島と言う説がありますが、青草的には金星の鞍馬を思わずにはいられません。

 行方の郡当麻の里に鳥日子という佐伯がいた。

 芸都の里に寸津毘古、寸津毘女と名乗る二人の国栖がいた。彼らは従順でした。

 久慈の郡 静織りの里がある。太田里の北の薩都の里に昔土雲と名のる国栖がいた。薩都神社と言う式内社が鎮座、この奥宮は御岩山とされ、その巨石の林立する様は圧巻だとか。
 薩都神社 http://www.genbu.net/data/hitati/sato_title.htm
 御岩山 http://www5f.biglobe.ne.jp/~h987/yamatabi/yamatabi_7.htm

 このように行方の郡は土蜘蛛、佐伯の巣である。

 さらに『常陸国風土記』行方の郡
 無梶河(かじなしかわ)から郡の辺境まで行き着いた時、鴨が飛んでいるのが見えた。倭武天皇が射ると弦の響きに応じて地に落ちた。その地を鴨野と言う。現在の行方郡玉造町だそうだ。鴨の宮と言うのが鎮座、祭神は日本武尊。
 鴨の宮 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Cosmos/4774/page107.html
 この伝承は何だろう。日本武尊は鳥を射るのが趣味だったのか。他の国の風土記に出てくるのだろうか。
 白鳥と鴨とは仲が悪いのか?醜いアヒルの子の物語を思い出すよ。

 要するに、行方の郡は土蜘蛛が多く住んでいました。これらを統率していたのが、鴨族の残党、それを大和の王権の兵士がうち破ったと言うこと。

 鴨の宮から距離はあるが、西茨城郡岩瀬町に鴨神社(鴨大神御子神主玉神社)が鎮座しています。
 玄松子さん http://www.genbu.net/data/hitati/kamoookami_title.htm 大田田根子命を祀る神社。鴨の種類でミコアイサ、神子秋沙と言う白黒のパンダもどきがいますが、連想する神社名。

 大和でもそうだったですが、鴨族は土蜘蛛、国栖の統率者。鴨族の出自がそうだったと言うこと。

[677] 鴨と市、最古の王権 32 鴨族の移りゆく場と時 2  神奈備 2004/05/03(Mon) 09:26 [Reply]
 濃尾平野の狗奴国に合流した鴨族、尾張氏、伊福部氏達は邪馬台国と覇権を争いましたが、結局敗北したようで、山間、沿岸奥地や東国へ落ち延びたのでした。

 美濃国の星神・香香背男命を祭る神社四座は全て加茂郡に鎮座しています。加茂郡には加茂神社も多く鎮座していますが、阿遲志貴高日子根命を祭神としている神社は見受けられません。山城の賀茂の系統か加茂県主の祖としての彦坐命を祀っているのです。加茂郡で迦毛の大御神は星神香香背男命の名で祀られていると言うことでしょう。

 美濃国で阿遲志貴高日子根命を祀る神社は四座あり、全て武儀郡に鎮座しています。長良川沿いの武儀郡は木曽川沿いの加茂郡の西側と言うことになります。武儀郡は牟義都君氏(牟毛津氏)の拠点で、『岐阜県史』によりますと、牟毛津氏と美濃の東部に多い伊福部氏とは同族だとしています。

 『記紀』によりますと、阿遲志貴高日子根命は死んだ天若彦命と間違われて、怒って喪屋をぶっ飛ばした先が美濃の喪山で、武儀郡藍見山(美濃市)とされています。物語は神話ですが、鴨族が当地へ移動したことがベースになって語り継がれたのかも。

 牟毛津氏は、後世に『丹生祝氏籍記』に登場します。品太天皇が丹生都比賣神社に、犬甘として、蔵吉人と、三野の国の牟毛津と言う人の子で、犬黒人と言う人を寄進された。と出てくるのです。犬甘の足跡は奈良県五條市に見えます。五條市に犬飼町があり、犬飼山転法輪寺の鎮守に丹生明神が祀られています。当地は金剛山の南麓で、少し北には高鴨神社(高鴨阿治須岐託彦根命神社)が鎮座、当地からこの神を奉戴して美濃に行った部族の末裔は犬飼として再びたちあらわれたとでしょう。

 葛城の地を本拠としようとしますと、記の川の運行を押さえねばなりません。河口の名草を支配するのか、支配者との祭祀同盟が必要だったのでしょう。

 大田田根子命の子が大御気持命、その子が直接の大和の鴨氏の祖となる大鴨積命です。この大御気持命ですが、紀氏の系図で御気持命の子孫が名草戸畔、その後裔は紀氏の祖とされる天道根命です。御気持命が唯一の存在とすれば、鴨氏と紀氏とも何も素盞嗚尊にまで遡らずに親戚だったと言えます。同族的な意識があったと言うことは頷ける所です。
 大田田根子命系図 http://homepage1.nifty.com/moritaya/kamokeifu.html
 紀氏の系図 http://www.kamnavi.net/kinokuni/historykisi.htm

[676] 鴨と市、最古の王権 31 鴨族の移りゆく場と時  神奈備 2004/05/02(Sun) 20:52 [Reply]
 大己貴神を奉じるヤマトの人々の支配者は葛城に拠点を置く鴨氏、磯城の三輪氏などが中心となっていました。この鴨族からの派生親族として、葛城氏(鴨氏と渡来人)、尾張氏・伊福部氏(鴨氏と物部氏)、分家の宇陀の建角身神(八咫烏)を奉ずる賀茂氏などが大和の各地に点在していたのです。天孫族の侵略軍に対しての対応はそれぞれであったことは記紀などに記載されています。
 賀茂氏は、後に山城の賀茂郷と出雲郷を得ることになります。
 旧ヤマトの勢力は濃尾平野の狗奴国に合流、邪馬台国に戦いを挑んだのですが、敗れ去り狗奴国の残党は東国に落ち延び、常陸国等で味耜高彦根神の名を憚って天津甕星神と崇めて王国を作ったのです。
 伊福部氏は各地で銅鐸などを造っていましたが、これが邪馬台国の支配国では禁止されたので、周辺国に展開するも銅鐸は急速に衰亡していきました。しかし金属精錬鋳造の技術者集団として各地で重宝されました。
 葛城氏は鴨本家を上回る勢力となり、後世の王朝変遷に多大な影響を与えてました。

 鴨本家は、縄文からの原住民である土蜘蛛、葛、国津の民を保護していました。彼らに慕われていたので、後の大和王権からもその懐柔策もあり、鄭重に扱われ、この国での最古の王族として、祖神の味耜高彦根神は迦毛の大御神と大御神の称号で呼ばれたのです。また事代主神は宮廷内で御巫等祭神八座の一として鄭重に祀られました。夷への配慮もあるようです。

 鴨−葛城−蘇我と血脈は続いていました。蘇我馬子−蝦夷−入鹿と権力をほしいままにし、その間に物部本家を討伐しています。馬に始まり鹿に終わった蘇我をバカにしてはいけません。 ”蘇”と言う牛乳を煮て固めたチーズ風の食べ物があります。コンデンスミルクのような味。出所を忘れましたが、その栄養食品である「”蘇”は我のもの」、と言うのが蘇我氏の意味だとか。

 蘇我氏は紀氏などと同じく武内宿禰を祖とする氏族と言うことですが、紀氏の秘密系図によりますと、祖先に素盞嗚尊の名があるのです。蘇我氏も同じと思っていいのは、出雲の須佐神社の横を素鵞川が流れており、出雲大社の本殿の真後ろにーあたかも奥宮のごとくー素鵞社が鎮座、素鵞川も流れています。国津神の大祖先となる素盞嗚尊を祭っているのは蘇我氏なのです。仏教を守護したのも事実でしょうが、日本の神々をも大切にしています。

[675] 鴨と市、最古の王権 30 邪馬台国以前 6 浪速2  神奈備 2004/05/01(Sat) 09:31 [Reply]
 式内社で言えば阿遅須伎高比古根神の御子神の塩冶比古能命は出雲国神門郡鹽冶神社、多伎都比古命は出雲国楯縫郡の多久神社、阿遅速雄神を祭る神社は摂津国東成郡(大阪市鶴見区放出)の高台に鎮座しています。出雲国神門郡は出雲神門臣の拠点でしたが、三輪の神主となった大田田根子は出雲神門臣の娘である美気姫を妻としています。これは『旧事紀』記載の記事です。崇神帝の周辺では神を祀っていたのは百襲姫などの女性でした。従って大田田根子を女性とする説があります。「根子」は女帝の元明天皇が日本根子ですので男とは限らないこと、また『神代紀』に大物主の子として、甘茂君等、大三輪君等、又姫タタラ五十鈴姫命と並べて表示しており、甘茂君等、大三輪君等の祖は大田田根子のことのようですので、いかにも女性を並べたように感じています。しかし『旧事紀』では妻を迎えるとあり、男か女かよくわからない所。
 姫タタラ五十鈴姫命は神武天皇の后となっています。二代目天皇の兄である多(意富)氏の祖の神八井耳命の母、この多氏の流れが大田田根子の大に残っている可能性もありそうです。また河内でも最古とされる藤井寺の国府付近の統治者は多氏の末裔。

 浪速は鴨族の支配する国で、早期に水田稲作が営まれていました。なだらかな斜面を切り開いての広くない水田だったのでしょうが、それでも鉄の鋤や木材を加工する鉄器がなくては水田を耕すことはできなかったでしょうし、水路の板材も作れなかったのです。素晴らしい鋤を入手できる貴い御方としての神名が阿遅須伎高比古根神の一つの要素です。鴨族は筑紫の宗像海人を利用してか、または出雲経由だったのでしょうか、海の彼方からの板状鉄斧の入手を行っていたのです。

 浪速は瀬戸内海の突き当たりで、河内湖から大和国中への水路もありましたが、この場合、途中の津で川船に乗り換えることもありました。そこは港町として、自ずから市場が形成されました。遠い国からの海の商人との接点でありました。当然のことながら、大陸や半島の商人達をはじめ、筑紫などからもやって来ました。また大和、山城などからも商品と情報を求めて商人達が集ったのです。藤井寺の国府付近の橘の木が生えていた餌我の市はその一つ。

 『魏志倭人伝』に「国国有市。交易有無。使大倭監之」とあります。大倭を女王の派遣官吏として身分の高い倭人との説がありますが、そうだとすれば王権は関税を徴収していたのでしょう。
 交易品としては、浪速や大和でほしい物は、鉄、稲作技術、貝の腕輪、銅、ヒスイ、諸国の情報、逆にやって来た商人達がほしがったものは、砂金、丹沙、穀類、干物、ヒスイ、女、生口、また九州などの商人は黒曜石、サヌカイト、毛皮、塩、布などもほしがったのでしょう。
 鴨の商人は東国や信濃の同族や親しい氏族を訪ねていき、物資を入手して、海外の商人と交換したのです。砂金は遥か蝦夷の商人との交易で買い付けていたのかも。


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