青草談話室ログ平十六年 六月
2004.2
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[786] Re[785][761]:十三湊 六ヶ敷ク是レ有リ候  大三元 2004/06/30(Wed) 09:49 [Reply]

>  イニシキノミコトなどのとき、五十と書いてイソでなくイだけの読みに悩んでいたのです。ソはどこに行ったんだと。

やはり、イソニシキと読むべきであって、だからこそ、崇神イソニウェ、垂仁の系統の話にはイソキ(磯城)とかイソノカミ(石上)とか出てくる。

五瀬はやはりイセで良い、これはアイヌ語の兎(ise-po)に繋がり兎砥川と絡んでくる。

五十はイソ、五はイ、が本来であろう、、、ってな具合に考えております。

また、ミソサザイを三十三才とも書きますね。ミサンザイ、ニサンザイなんかはこれに列なるものかと。


>  あるときに、イツセノミコトの例などで、五だけだとイでなくイツと読んでいることに気づきました。五に十を添えて、イツでなくイと読ませる理由になるのでしょうか。
>  『二十三もニソ、では三はどうなったのでしょうか』今夜も眠れない。zzzzz
> > しつこいおまけ:『美骨』は『ちゅらぼに』と訓みます。「清らかな骨」の意味です。仲松弥秀先生の御著書を参考。

[785] Re[761]:十三湊 六ヶ敷ク是レ有リ候  恋川亭 2004/06/30(Wed) 01:17 [Reply]
 指のリハビリにと挑んだのですが・・・愚脳の破壊が進んだせいか、推論をきちんと展開したり、筋の通った叙述ができなくなりました。当てずっぽうの感覚でしかモノが言えません。恍惚への第一歩でしょうか、オヨヨ。さて、

> Re[761]:十三湊
> 青草問題:イソは五十、ニソは二十、二十三もニソ、では三はどうなったのでしょうか。

 イソは以前から気にしていました。五十六のイソロクって、一種の湯桶読みですよね。訓読みでしたらイソムツかな(笑)。また、中学古文の授業では、十の位と一の位を分けて読んでいたような気が、二十三だと二十アマリ三とか。
 イニシキノミコトなどのとき、五十と書いてイソでなくイだけの読みに悩んでいたのです。ソはどこに行ったんだと。
 あるときに、イツセノミコトの例などで、五だけだとイでなくイツと読んでいることに気づきました。五に十を添えて、イツでなくイと読ませる理由になるのでしょうか。
 『二十三もニソ、では三はどうなったのでしょうか』今夜も眠れない。zzzzz

しつこいおまけ:『美骨』は『ちゅらぼに』と訓みます。「清らかな骨」の意味です。仲松弥秀先生の御著書を参考。

[784] Re[779]: 桜ヶ丘(6) 『美骨』  神奈備 2004/06/29(Tue) 16:34 [Reply]
恋川亭さん、実に詩的なお話、ありがとうございます。

> たしかに古来からの祭祀は終焉するでしょう
> 私は、ここに『ひとつの神社の始り』を見た思いです。

「守成は創生より難し」と云いますように、神社の存続、祭祀の継続への懸命の努力が各地で行われています。これからも、見守り、応援し、出来るだけお祭りに参加していきたいものです。

> ちゃっかりシタタカニ、稼ぎのいい旦那を羽交い締めにして、

御陰はミホト、やはり半殺しは女神の仕業かも。詩的とはほど遠い神奈備でした。

[783] ありがとうございます  三重子 2004/06/28(Mon) 11:35 [Reply]
神奈備さん、玄松子さん、さっそく回答くださりありがとうございました。

神奈備さんから教えていただいた場所にできたら納めたいと思いますが、無理なよ

うでしたら玄松子さんのおっしゃるようにしたいと思います。

 父によると、お札だけでなく大きなお社があるそうで、どこにでも・・・という
 
わけにいかず、悩んでいるようです。できれば香川で神社の人が常にいるようなと

ころを探して納めたいようです。

[782] Re[780]: 無題  玄松子 2004/06/28(Mon) 10:42 [Reply]
> 父は神社にお返ししたいらしいのですが、場所が全くわからなくて困ってます。

古いお札を授与してくださったお宮へ、感謝をこめて納めるのは良いことだと思います。

ですが、中には「古札納所」と書かれたゴミ箱にしか見えない箱が置いてあるだけのお宮もありますから、わざわざ遠方から足を運んで空しい気持ちになる場合もあるかもしれません。

古いお札は、授与されたお宮とは別のお宮であっても納めることは問題はありません。
http://www.jinja.or.jp/faq/answer/07-08.html

要するに納める方のお礼の気持ちが大事なので、ゴミ箱のような古札納所であっても、近くのお宮であっても差し支えはないと思います。

[781] Re[780]: 木里神社  神奈備 2004/06/28(Mon) 08:10 [Reply]
香川県に住んでいたので、多分書かれてる木里神社だと思うのですが、詳しく住所などわかれば教えていただけたら有難いです。

香川県に二座。
香川県高松市郷東町761木里神社「屋船句句廼馳神、屋船稻蒼魂神、草野姫神」
香川県丸亀市御供所町2ー2ー14木里神社「草野姫命」

[780] 無題  三重子 2004/06/27(Sun) 23:59 [Reply]
はじめまして。過去ログからここにたどり着きました。
その内容は2003年1月に神奈備さんが書かれてる620番の中にある、木里神社です。私の曽祖父がその木里神社の御札を昔もらって、祀ってたらしいのですがが、亡くなってからも長い間そのままなので、父は神社にお返ししたいらしいのですが、場所が全くわからなくて困ってます。香川県に住んでいたので、多分書かれてる木里神社だと思うのですが、詳しく住所などわかれば教えていただけたら有難いです。

[779] 桜ヶ丘(6) 『美骨』  恋川亭 2004/06/27(Sun) 23:15 [Reply]
六甲南麓からしばし離れて南島へ。
 沖縄の離島での経験。その島は本島開闢の神が、初めて降臨された聖なる地として、島全体が神域の扱いを受けてきた所でした。琉球王家による国家的な庇護のもと、伝統的祭祀を存続してきて、明治の琉球処分・沖縄県化、太平洋戦争も乗り越えたのです。
 しかし、近年の生活の変化には叶わず、住民の高齢化・過疎化により、伝統的祭祀の縮小は余儀なくされ、12年に1度の最重要な祭りも2期連続中止されました。おそらく再開されることはないでしょう。
 それは、その祭祀を担う者達を新たに加えるための儀礼が、その祭りだったからです。新規加入がないまま、祭祀者は高齢化・減少していきます。復活は絶望的と言われています。なぜなら、その島の祭祀を行なう者の条件が厳しく決まっているからです。それは、その島で生まれ育ち、その島の男性と結婚して家庭を持った主婦、という条件です。今の時代では、条件に該当する人が極端に減ってしまいました。

 その島の聖地(沖縄最高の聖地とされる)には、その女性祭祀者達(加入儀礼を経た者のみ)しか入れない禁足地です。島外の者はもちろん、島の男性や子供も不可です。
 まったく身内の者達だけで、代々守り続けられてきた聖地ですが、民俗学の今までの研究と考証によると、島の草分けとされる宗家の『先祖達が最初期に生活していた場』であり、かつては『美骨』と呼ばれる霊骨(たぶん最初の神女のもの)が、祀られていた空間ではないか、とされています(近年まで風葬の島でした)。この『美骨』、あまりに無残に島を荒らす外来者が増加した為、危機感を抱いた神女達が厳重に秘してしまったとか。

 加入儀礼が行われないまま時が過ぎて、祭祀を行なう神女達がどんどん減っていき、地縁血縁で継続されてきた祭祀が、やがて終わりを迎えたとき。ひとつの聖地の祭祀・信仰が終わるのでしょうか。
 たしかに古来からの祭祀は終焉するでしょう、『ひとつの神社の終わり』と言えます。口伝によった貴重な神歌や神名は消えていくと思います。

 しかし私が、その島でみた風景は、神女資格のない人でも、現神女を補助している様子。聖地や信仰・月々の祭りを大切にしている様子でした。
 また、聖域に入れなくても、その入口で参拝する、島外から来た大勢の巡礼者たちです。村の祭殿には、そうした島外の巡礼者たちの為の大きな香炉まで備えてありました。参拝者が増えたからだそうです。私は、ここに『ひとつの神社の始り』を見た思いです。

 親切にも案内して下さった美しい白髪の老神女は、『島の人は、百代先のそのまた百代先までの子孫の幸せを祈るのです。それだけ先の子孫ということは、結局、世界中の人達のことですワ〜。』と、笑っていました。(この人のチャンプルーが最高に美味!)
********

 この経験の後、銅鐸について振り返ってみました。弥生の一時代に広がっていた、銅鐸が関係する信仰は、何らかの社会の変化・変遷で終焉を迎えたのでしょう。しかし、人々の心にあった敬神の気持ちは、形態を変えても脈々と継がれてきたことと思いたいです。
 桜ヶ丘で、偶然の出土に驚いた(考古学に無関係とも思える)人達も、貴重な神器との直感があったのでしょう。

桜ヶ丘は『ひきやまのいぼり』かもしれません。
〔神奈備先生はじめ皆様、長々と失礼致しました。〕

[778] 桜ヶ丘(5) 『古拙風』  恋川亭 2004/06/27(Sun) 21:43 [Reply]
前回はラッキー7が揃っていたのですね。しかし内容が、かなり冗長過ぎたので反省して以後は端折ります。

・銅鐸のデザイン
 博物館にスケッチブックを持参して、現物を前に書き写そうとしたことがありますが、定規やコンパスを用いても、かなり大変(降参しました)。本物はとても精密に描かれています。鋳型の曲面に沿って正確な直線が引けるような、特殊な定規を使っていたのだろうと思います。銅鐸の各部分に従い曲率も変化しているにもかかわらず!!相当な技術者(職人さん)が製作に従事したのでしょうね。

 区画の中に描かれている人やトンボ・カマキリ等の絵ですが、一見して稚拙で単純なようですが、そのデフォルメの形は洗練されていることがわかります。
 どうも、わざと古い時代のもののように描いたような気がします。「古拙風」に意識しているのでは、ということです。私には、このデザインは、銅鐸の製造当時にして、古くから伝わっていた伝統的な絵柄だったのかも?と思えるのです。

 桜ヶ丘の銅鐸には、稲や田圃らしき絵はないですねぇ。もし稲作農耕に関係する特定の祭器なら、稲穂ぐらいあってもいいのに。

・祭祀の方向(彷徨)
 アマチュア研究家の井上香都羅氏が全国の銅鐸出土地を巡った成果を出版されています。素晴らしいお仕事と敬服します。そして、銅鐸出土地には神山(神奈備山)があること、銅鐸は祖霊祭器であることを主張されています。私には面と向って反論するほどの力量も度量もありませんが、読んでいて浮かんだ疑問がありました。
 ひとつは、銅鐸出土地にかぎらず、日本の殆どは神山ではないかと(最近)思うようになってきました(笑)。また、井上氏は祖霊祭器であって農耕祭器ではない、としきりに主張され、学説を批判されているのですが、私は祖霊に豊作を祈願するのも時代を越えて普遍的な心情じゃないかなと思うのです。何も狭く狭く限定せずとも、祭祀というのはもっと心豊かな行いでしょう。現代の神社だって、得意な分野があるものの、大抵の祈願は引きうけて下さってますじゃあ〜りませんか。
 次回は最終回として、神社の終わりと始りに及びたく思います。

[777] 桜ヶ丘(4) 『神の宿りし』  恋川亭 2004/06/27(Sun) 17:49 [Reply]
 科学技術は、古代からの累積を元にしながら、近代に入って急速に発展した分野です。しかし、精神世界の分野・宗教や芸術などは、古代においても高度に発達していましたし、その後の継承発展を加えても、現代人の方が進歩しているとは、おこがましくて、チョット言えないですね。オリエントやインド・中国などの代表的古代文明圏では、現代に続く宗教・哲学が、2〜5千年前に出ています。
 日本が海により隔絶された田舎だったので、祭祀の習俗も文明世界より遅れていたと考えるのはどうでしょうか?縄文1万年の遺物の写真を見ると、豊穣な精神世界があっただろうと思えてきます。
 また、アニミズムやシャーマニズムと呼ばれている精霊信仰を原始的で未発達なものと蔑んでいる傾向が一般的ですが、これも本当にそうでしょうか?その中身をきちんと覗いてみると、かなり精緻で奥の深い、あるいは格調の高い信仰だったりします。理屈と用語を捏ね繰りまわして信者を煙に巻く宗教のほうが、立派なものというのは疑問です。
 卑弥呼の『鬼道』について、太平道や五斗米道のような道教系の宗教に近いものと指摘する研究者もいます。太平道や五斗米道というと、あの諸氏百家の国の民衆を席捲し、革命を目指した宗教です。それに近いならば、『鬼道』も、かなりしっかりとした宗教ですよね。
 しかしながら、卑弥呼の『鬼道』を、狂信的な老婆がご幣と髪を振り乱しながらご託宣をわめくような、漫画的イメージで思いだす人も多いのではないでしょうか。タンキーやムーダン、あるいはユタやイタコの印象で。これは、漫画やTVの影響としてリセットすべきイメージでしょう。
 ここまでで言いたいことは、『古代の信仰が、原始的・単純・未発達とは限らない。むしろ現代人では窺い知れない奥の深さ、広がり、高みがあったかもしれない、という謙虚さが必要ではないか。』ということです。

 次に、日本の伝統的な習俗を通して思うことですが、朝日や夕陽を拝んだり、海上はるか彼方や、秀麗な山や峰々、巨岩、滝、巨樹など、あるがままの自然を尊重して礼拝してきました。それと一方で、鏡や剣などの人工物、のちには神像も礼拝される対象となりました。
 ここで確認なのですが。たとえば磐座ならば、その岩そのものが神というわけではありません。岩に目や口が生えてモノ申すオトギ話ではないのです。
 神の力(影響力)がその岩に宿り、神とリンク(交流)できる状態になっているということで、岩を礼拝する行為が始るのでしょう。いくつもある岩から、そのような聖別された磐座を探し当てるのは、神官の仕事。
 人工物である鏡や剣なども、神の方から気に入って先に降臨しない限り、そのままでは単なる器物です。神官がしかるべき手続きを踏まえ、神に奉納祈願して神の影響力(みたまのふゆ)が宿り、神器になったことと考えられます。仏像でもそうですね、開眼供養して「魂入れ」をしないかぎり、単なる像ですから。
 よく見かける表現、『銅鐸は神として礼拝の対象だったに違いない』という意味の文章は、『銅鐸は神の力が宿る神器として』を略しているのでしょう。

 正しく造られた銅鐸のレプリカを叩いてみれば判りますが、とても良い音が鳴り響きます。銅鐸の音が良くない、というのは、表面の模様だけ似せて、分厚い厚みで作成した偽物の方です。現代の鋳造技術でも、本物の銅鐸の(薄い)厚みで造るのは、手間がかかり簡単ではないそうです。
 私が神戸の埋文であった銅鐸展の精巧なレプリカを叩いたとき(周囲に誰も居なかったので)、カンンッーン〜ン〜ン〜〜〜と、澄んだ高い音の後、余韻のある響きが続きました。これは、連続してカンカン叩くものではないですね。例えば、鼓や拍子木のように節々でタイミングよく鳴らすものだと思いました。
何の?・・・そう、神想観。観想のときの楽器として。で、ここからが私の妄想。電波です。

 潔斎を修めた神官が沐浴の後、高倉に登り白木の床に座し瞑目。導きの師が様子を見計らって銅鐸を一叩。澄んだ音に神官の雑念は消えて、呼気が銅鐸の残響に合さっていく。
 数回の深い呼吸の後、二叩目の響き。瞑目しているはずの神官の目には、村の家々、川、田畑、森、山の稜線、浜の白波・・・。意識だけが、高倉の屋根をつき抜けて鳥のように周囲の景色が展開する。
 日常の思いから自由になった神官の意識は、銅鐸の三叩目の響きより、神奈備山の頂上の磐座へと引き寄せられていく・・・ってな、伝奇SFです。(笑)
(現代でも、優れた絵画を観ると心の中で音楽がなり始めるし、優れた音楽を聴くと情景が次々に湧いてくるでしょ?こない・・・私だけ?変人)

 古代史の本に『マツリの鐘』とかで、粗末な村の広場に銅鐸を置いて、ヒゲ面の男達と貫頭衣の女達が輪になって踊っている絵がありますが、「あれはどーにかなりませんかねぇ」(笑)。工芸品としての銅鐸のレベルの高さと人々の様子がミスマッチです。
 銅鐸が製造されてから地中に埋納されるまで、どれだけの年数に渡り祭られていたのか知りませんが、当初は神器というより、祭器として実用されていたのではないでしょうか?盆踊りや阿波踊りモドキの中心点にされるような「お祭り」ではなくて、神事に必要な重要な楽器として。
 そしてだんだんと、神官にマジカルパワーをもたらす、神の力が宿っている!という認識になり(それだけ効果があったのでしょうね)、やがて神器として礼拝対象になっていったと想像しています。

 『神社のハシリ』なんて、銅鐸よりも、もっともっと古代に遡るでしょう。銅鐸は、この国で何度もあった祭祀の変遷の途中のひとつ、と思います。『神社のハシリ』は、処によって神に感応しやすい場「聖地」があると、人々が気づきはじめた時代(いつだろう?)としたいです。
 西日本を中心とした広い範囲に、たくさん出土している銅鐸があるということは、祭祀の形態・組織が確立していたということでしょう。そうとう高度な祭祀方法ですよね。これにより、連合体であれ同盟体であれ、広範な国の存在が想像できます。この銅鐸を祭祀した「弥生の王国」に、邪馬台国や大和朝廷や他の豪族を関係づけるのは、私にはまだちょっと早いようです。

[776] Re[775][772]: 御年神=奇稲田姫?  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/06/27(Sun) 09:39 [Reply]
ZOUさま、御歳神社へ参拝くださり、ありがとうございます。
もしかして、夕方、遠くから会釈させて頂いた方でしょうか?
もしそうなら、本当に残念なことをしました。
出かけるところで、つい後ろ髪をひかれながら、そのままになりました。
やはりおそばへ行ってご挨拶申し上げるべきだったと反省しています。

字は面白いですね。歳と穢れと気枯れ―奥が深いですね。
また色々教えてください。

[775] Re[772]: 御年神=奇稲田姫?  ZOU 2004/06/27(Sun) 02:00 [Reply]
神奈備さん、結果として拙サイトのアドレス変更を紹介してくださったようで、どうもありがとうございましたm(__)m

さて、大和神社の由緒書きでは、祭神の日本大国魂大神を大地主(オオトコヌシ)大神と表現してます。となると大地主神と御歳神、異母兄弟となりますがどっちが偉いんでしょうね。

ケガレ感で解釈すると面白い説話かもしれません。
☆大地主神は肉食による“穢れ”を田に持ち込んだ。
☆何故?か怒ってしまった御歳神も“気枯れ”を操って農作物を枯らしてしまった。

以下はある本からの知識。
“気”は生命力というように解釈されていますが、もとは“氣”だったそうで、穀物の生命力という意味があるそうです。また、稲穂を表す“禾(のぎへん)”に“歳”を合わせると「穢(ケガレ)」となるとか。

爺さんはハラハラしていたかも。

本日(26日)、ひさびさに葛木御歳神社を参拝しました。
森の中、静かに静かにたたずんでいました。

[774] Re[773]:  恋川亭 2004/06/26(Sat) 23:43 [Reply]
> Re[768]: > その御影の山の手に、ちょっと面白いサロンがあります。

 あの近辺を歩いていると・・・
『いゃ〜ん、お久しぶりや〜ん、どないしとぉ〜ん。お茶せぇ〜へん〜。』
と、子供もだいぶ大きくなった昔のマドンナ達につかまってしまう所です。みんな、ちゃっかりシタタカニ、稼ぎのいい旦那を羽交い締めにして、今では優雅に有閑(勇敢?)マダムですな。こちらは憂患。(生殺しの神)

> Re[773]: 神奈備先生
> 近江の御上神社の祭神「天之御影神」と付近からの銅鐸の出土のつながりのことですが・・・

 野洲近辺もそこそこの数という「印象」だったのですが・・・。銅鐸から『はるか後代』の、神功皇后伝説も六甲周辺と繋がるような気もしましたので。
 しかし『半殺しの神』の話しもときどき出ますが、解くのが難しい神話ですね。半殺しなどと言わず、いっそヒト思いに・・・。それにしても『御影』の神さまって???『出雲の御陰の大神』なんて『大神』ですものね。この影・陰は光の方の意味でしょうか?まだ幽世の意味ではないですよね???
 六甲南麓と明石海峡は、東側は西摂津の広大な沃野、西側は東播磨の広大な沃野、この両平野をつなぐ瓢箪のくびれのような天然の関所となっています。いつの時代も激戦地でした。

> Re[769]:高地性??跡 
> QUBOさま > 田和山遺跡

 開発に反対して保存運動が広がっていた遺跡ではなかったですか?
その後、どうなったのでしょうか?史蹟公園になっていればいいですが。写真を見たことがあります、誰が見ても砦目的のような印象をもってしまいますね(報道の仕方によるのかな?)。まるで西部劇みたいに、否、古代版7人の侍が指揮したりして。

 その後『神器・祭器・御神体』について考えているのですが、なかなか表現がまとまりません。書いてまた消すカキコの便りも5稿目を越えました。(TT)

[773] Re[767]: 桜ヶ丘(3)『君影・面影』-2  神奈備 2004/06/26(Sat) 13:35 [Reply]
> 御影神の方に意外な繋がりができるかな・・・→銅鐸?

近江の御上神社の祭神「天之御影神」と付近からの銅鐸の出土のつながりのことですが、『播磨風土記』揖保郡広山の里の意此川の項に出雲の御陰の大神が枚方の神尾山におられて通る人の半分を殺すと云うお話があります。

御影の神、神である銅鐸を埋めた所はちょっと目立たない所?
また神聖な所、やたら通るではない、半殺し神話を流布する。

と云うことが出ないかなと思って調べていましたが、どうやら伝承も、発掘事例も不足。

半殺しの神 荒ぶる神・資料
http://www.dai3gen.net/arajin2.htm

銅鐸出土
http://homepage1.nifty.com/moritaya/syutudo.html
住所が古代風ならもっと便利。

[772] 御年神=奇稲田姫?  神奈備 2004/06/25(Fri) 12:33 [Reply]
延喜式 大和国山邊郡 大和坐大國魂神社三座
現在の大和神社[おおやまと]のことで、祭神は「日本大國魂大神、八千戈大神、御年大神」の三座。三神のうち、大國魂大神と御年大神とは『古事記』の大年神の子神として出てきます。ついでですが、大年神の系譜には日吉大社や松尾大社の大山咋神もいます。
多氏や秦氏の伝承が混ざり合っているのかも知れません。

系譜の親子関係を無視しますと、御歳神は歳徳神ともされ、頗梨釆女と呼ばれて、櫛稲田姫と云うことになります。素盞嗚尊の妃神。

そう云えば大和神社の周辺に素盞嗚尊を祭る神社が点在しています。
http://www1.kcn.ne.jp/~ganes-z/image/ooyamato2.html
のZOUさんの「★大和神社のとりまき神社★」を参照下さい。これによりますと、スサノウさんの孫が祭られている神社で爺さんが守っている?ようにも見えるとかありますが、実は御年大神とは奇稲田姫だけが祭られて夫の素盞嗚尊は置いてきぼり、心配で見に来ているとか、ないか。

牛の肉を食う、牛頭天王の妻としての、御歳神としては、許し難い行為、これは『古語拾遺』のお話。後で蝗退治に牛の肉を祭るのは、蝗退治に素盞嗚尊が活躍した?とは苦しい所、なんでだろうね。

[771] Re[770]: 日本の音  玄松子 2004/06/25(Fri) 07:09 [Reply]
> (ところで、玄松子さん。上田市の方でしたか。

今は上田市ですが、まだ、此処へ来て2年で、上田城にも行ったことがありません。
地元になると、あまりウロウロしなくなりますね。


> ところで、その猿楽。史実に出て来る有名な場所が、2箇所あるのですが、その2箇所共、どちらかというと、古代からいわゆる「まつろわぬ民」例えばサンカの民等が、定住して創られたのではないかと、思われる土地なのです。

河原者のことでしょうか。サンカというより、差別民の部落だと思います。
平安時代の河原は、伝染病による死者の放置場所で、そこにしか住めない身分制度の外にいた人々。
牛馬の皮を剥ぎ、なめして武具などの革製品を製造していた人々であり、日常的に死と関係した穢れた人々です。
この人々が土木作業に狩り出され、一部は現場責任者となり、その芸術性から寺院の枯山水などを作成する作庭家へとなるものや、諸国を放浪して見世物や売春をするものの中から、芸能の基礎を築くものが現われたそうです。
昔の申楽は、見世物の演目の一つ。歌舞伎の阿国も裸踊り(ストリップ)がオリジナルだそうですからね。異形の人々ということでしょう。異形であるからこそ神に近い存在でもあるのだと思います。

[770] 日本の音  ひふみ 2004/06/25(Fri) 00:08 [Reply]
お久しぶりです。
先日、地元で開催された「吉野楽講座」に行ってきました。
その中での、能楽師の方の話の中に、日本の音に関するお話が出てきました。
 
神社で良く聞かれる雅楽のルーツは、中国の宮廷音楽だそうですね。
シルクロードとかの流れでしょうか。
だから、笙とか篳篥等は、中国の音階になるそうです。

日本独自といえる音は、鎌倉・室町あたりから表に出てきたようで、能楽の音がそれにあたります。
ルーツは、猿楽の様ですね。
ところで、その猿楽。史実に出て来る有名な場所が、2箇所あるのですが、その2箇所共、どちらかというと、古代からいわゆる「まつろわぬ民」例えばサンカの民等が、定住して創られたのではないかと、思われる土地なのです。
そういえば、昔から通行手形等が無くとも、日本全国を廻れた存在に、山伏と楽座がありますよね。
田楽と一緒にされる猿楽ですが、もしかしたら、日本固有の音のルーツは、隠された民の中にあるかもと、思うのでした。

久々の青草でした。

(ところで、玄松子さん。上田市の方でしたか。父方の実家が上田駅の近所でした。今は取り壊されてありませんが、おじさんが、上田市に住んでいます。ちなみに、高校の歴史の先生でした。上田城には、良く遊びに行きました。)

[769] 高地性??跡  QUBO 2004/06/24(Thu) 10:57 [Reply]
[767] 恋川亭さんの
>「高地性集落跡」の「高地」といっても、そんなに高地じゃないのです。
に触発されて、不思議な「高地性??跡」田和山遺跡
『遺跡は、最高所の標高約46mの小高い丘』
本殿での銅鐸にも時期的にはいささか関係してます。
既にご存知かもしれませんが、私は昨年はじめて知りました。

弥生時代の三重の環壕に囲まれた、生活臭の全く無い遺跡です。
なぜなら住居は環壕の外にあったから。

松山市のHPから、田和山遺跡の想像図
http://www.city.matsue.shimane.jp/office/kyouiku/bunkazai/tawayama/06b.htm

[768] Re[762]: 桜ヶ丘(1) 『神の岡』  神奈備 2004/06/24(Thu) 08:09 [Reply]
>  桜ヶ丘は南に大阪湾を見下ろせるとても景色の良い場所なのですが、出土地点つまり埋納地点は山襞の内側の山麓や平坦地から隠れる位置でした。『見下ろせるけど隠されている』おおっぴらじゃないのですね。

物陰にひっそりと鎮座している神々のおかげで、日々の暮らしがたっており、大した病気もせず、足腰もそこそこ動き・・と感謝の気持ち、それがお陰様。御影の語源?。

その御影の山の手に、ちょっと面白いサロンがあります。サロンアマート。
http://www.gallery-agapeart.com/index.htm
どうぞ。

[767] 桜ヶ丘(3)『君影・面影』  恋川亭 2004/06/24(Thu) 01:09 [Reply]
> Re:[765] 玄松子さん
> こちらは懲りずにどうぞ。

ありがとうございます。相変わらずのノホホ〜ンです。

> 当時も高地だったのだろうか。
> そこしか住めなかったということはないだろうか。

 「高地性集落跡」の「高地」といっても、そんなに高地じゃないのです。元気な若者ならサッサと駆け上がれるくらいの岡なんです。〔コーチ!岡!走れッ・・・なんて昔のテニス漫画ですが〕
 時代の重なりをよく知りませんが、周辺の低地にも遺跡がたくさん広がっています。海退・海進の汀線は判明していて、十分な平地はあったようです。

 「高地性集落」の方が一時的なのでしょうけど、不思議ですね。一時的であれ『そこしか住めなかった』という必然的理由があったのでしょうね。
 今、私が指摘できるのは『見渡しの良さ』ぐらいです。それ以上の高さだと、より遠くはみえるけど、低地の人や家々・船の動きは、小さくなり過ぎて様子が判りにくいのです。ミニ国見の高さでしょうか。難しい設問ですが、懐中に温めておきたい問題です。

???????????????????

> Re:[766] 神奈備先生

 『神岡』には民家はありませんが、周辺ではUHF放送が受信しにくいので有線TVを引いていたりします。しかし、大阪・神戸の放送が入りにくい代りに、はるか対岸の和歌山放送が見れるのです。那智・熊野を紹介するご当地番組に変な気分。(笑)
 さて、高羽丹生神社は『神岡』からも、すぐ膝元でよく見えます。当然、『神岡』の位置を知っている人なら、神社側からも判ります。特別高圧線のルートに沿って立つ、あるひとつ鉄塔が目印になりますので。
 『神岡』南東側には、弓弦羽神社を通して本住吉神社が見えます。反対の西側には鶴甲団地を越えて大土神社があるのですが、確認できませんでした。
 それ以上に気になったのが『神岡』の南側は「御影」の地です。この「御影」は、聖徳太子のママが拝んだ阿弥陀如来の「御影」とか、住吉神の「御影」であるとか、という伝説になっています。しかし、他の地にも「御影」神さまの伝承がありましたね。御影神の方に意外な繋がりができるかな・・・→銅鐸?

> 「ユブネ」「カナホリ山」などの地名

スミマセン。まだ判りませんです。
 ただ滝ノ奥といえば、ずばり『神岡』周辺になってくるのですが。その山中に祀っていたとすると・・・???(尾根道に上がるまでの石屋川上流沿い〜滝ノ奥は、ある意味でミニ秘境の趣きがあったりして・・・街中なんですけどね)

??????????????????
ひとまず、シリーズは持ち越しに。m(__)m

[766] Re[764]: 桜ヶ丘(2) 『神の岡』  神奈備 2004/06/23(Wed) 18:23 [Reply]
少し南側に高羽丹生神社が鎮座しています。
http://www.kamnavi.net/ny/takahene.htm
「ユブネ」「カナホリ山」などの地名があるそうです。どこだろう。

[765] Re[764]: 桜ヶ丘(2) 『神の岡』  玄松子 2004/06/23(Wed) 08:37 [Reply]
ちょっとした疑問。

>  「高地性集落跡」の多くは生活の遺跡だそうですね。祭祀の遺跡ではないらしく、生活臭さが濃厚に見てとれるとか。

当時も高地だったのだろうか。
そこしか住めなかったということはないだろうか。


> 懲りずに電波です・・・。

本殿のデンパは席亭の一喝で消えたようですね。こちらは懲りずにどうぞ。

[764] 桜ヶ丘(2) 『神の岡』  恋川亭 2004/06/23(Wed) 01:03 [Reply]
懲りずに電波です・・・。
 桜ヶ丘の銅鐸出土地点は少しだけ山襞に隠れているので、そこから見晴らしのきく尾根道に出ると、関西電力の高圧鉄塔がそびえています。その鉄塔の基礎は、普通の何倍ものコンクリートで固めてありました。脆い地盤に倒れないようにと。そこから周囲を見渡してみます。
 桜ヶ丘の足許には十善寺古墳群(古墳時代)、滝ノ奥遺跡(旧石器・弥生・平安時代)、申新田遺跡(縄文時代)。
 東の麓には、渦ヶ森の銅鐸出土地と赤塚山・荒神山遺跡(弥生)、その向こうに保久良神社(弥生)と金鳥山遺跡(弥生)。保久良神社の麓には生駒銅鐸出土地(奈良の生駒ではない)。見えないけど金鳥山のさらに裏には森銅鐸出土地。
 南の海岸線に目を移すと東求女塚古墳・処女塚古墳・西求女塚古墳。西にも伯母野山遺跡・篠原遺跡(縄文〜弥生)などなど。
 北を振りかえると、細い山道が坊主山、油コブシ山と上っていきます(滑りやすそう)。六甲山は懐に入りすぎて見えません。
 冬には六甲颪にさらされる阪神間ですが、縄文から弥生・古墳時代とそれ以降の遺跡が沢山あって、人々の暮らしが途切れることなく連綿と続いてきた土地でした。
 ※ 桜ヶ丘周辺は弥生時代でも田舎ではなかったのです。

 桜ヶ丘は、ほんの小高い所。保久良神社をご存知の方は、あのくらいの高さをイメージして頂ければよいでしょう。道さえ良ければ、街中から往復1時間程度で散歩できる距離です。今でも六甲南麓に育った者達は、この手頃な高さの丘になじんで暮しています。遠くの景色も見晴らしが良く、近くの様子も手頃見える絶好の高さ。ちょうど「高地性集落跡」などと呼ばれる遺跡の高さです。
 元の生田神社とされる布引丸山遺跡もそんな小高い程度の丘で、新幹線「新神戸駅」のすぐ隣りです(私有地につき訪問不可)。

 「高地性集落跡」の多くは生活の遺跡だそうですね。祭祀の遺跡ではないらしく、生活臭さが濃厚に見てとれるとか。
 六甲南麓には低地だけでなく、見晴らしの良いポイントごとに「高地性集落跡」や小高い丘の遺跡があります。大阪湾を行き交う船が見えるし、烽火もつなぎやすい。監視や連絡のネットワークがあったかもしれません。銅鐸が神器とされる以前には、「鐘」としての実用的な時代があったかも?

 次ぎは、銅鐸に限らず、神器・祭器・御神体について考えてみます。

[763] Re[762]: 桜ヶ丘(1) 『神の岡』  ペギラ 2004/06/22(Tue) 20:59 [Reply]
> 桜ヶ丘(2)『神の岡』

自宅謹慎と思ったのですが、思わず。

続きが・・・・

[762] 桜ヶ丘(1) 『神の岡』  恋川亭 2004/06/22(Tue) 01:22 [Reply]
本殿での「銅鐸関係は一旦棚上げ!」かと思っていたのですが、まだくすぶっているようですね。熾き火・埋み火に油を注ぐ気はないのですが、ひとつのケリとしてお邪魔します。でも、実証できない妄想的観想なのでこちら青草板に。m(__)m
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆

桜ヶ丘(1)『神の岡』

桜ヶ丘の銅鐸出土地点に行ったことがあります。
 東西に横たわる六甲山系を背骨とすると、肋骨のように阪神間の市街地におりてくる尾根筋があります。そのひとつ、神戸大学の東隣り、石屋川に削り取られた尾根の途中にあるテラス状の処。標高200mもないような丘。
 よく『通称「神岡」と呼ばれる』という記述をみかけますが、どの程度(範囲)の地の人達が、そう呼んできたのか?詳しく知りたいものだと思っています。(なんだか、その説のみ一人歩きしてないかな?と)

 さて、その尾根のさらに東側の麓に関西電力の変電所があり、そこから高圧電線が山へ向い、鉄塔がポツンポツンと続きます。麓の周囲は、土地の管理を委託されている業者によって、ぐるりと厳重なフェンスが張り巡らされていて入れません。
 危険な高圧の変電設備があることと、この近辺の山は、地中深くまで浸食の進んだ古い花崗岩のために、表土がボロボロと崩れ、落石や崩落、登山者の滑落事故が起きやすい危険性があるからです。私の場合は、『まったく知らずに偶然迷い込んで』しまったのです。後ほど麓で、『危険地区の為、立入禁止。誤まって事故に遭遇しても責任を負えません、云々』という警告看板をみかけました(フェンスから外に出るのも苦労しましたが)。

 この警告の内容は大袈裟でなく事実でした。尾根筋ぐらいしか登るルートは無いのですが、これがまた、ボロボロと崩れて危ないのです。丈夫な登山靴にストック(杖)、手袋が必要。すべり落ちたら大怪我をしそうな処です。手近な半端な木にすがりついても、木とともに崩落?実はそんなボロボロの崩れ山が、桜ヶ丘だったのです。
 ここで出土した銅鐸は、壁土の材料になるザラメのような花崗岩の粒?の採取中に見つかったそうです。出土といっても、一般的な柔らかそうな土や砂の中から出たわけではないようです。

 ボロボロに崩れ易い岩山だからといっても、黒土や赤土ではありません。大昔にはどうのように掘って埋めたのでしょうか? たとえスコップがあってそれで掘っても、かなり難儀しそうな印象でした。非常な厳しさと熱意を持って行った作業だったことでしょう。簡単に掘って埋め戻せる場所ではないのです。
(出土した当時の採取にはツルハシで打ち込みながらの作業だったそうで、銅鐸にはツルハシの跡のあるものもあるとか。)

 桜ヶ丘は南に大阪湾を見下ろせるとても景色の良い場所なのですが、出土地点つまり埋納地点は山襞の内側の山麓や平坦地から隠れる位置でした。『見下ろせるけど隠されている』おおっぴらじゃないのですね。
 現地に立った印象は、眺めもいい所なのになぜか寂寥感。神社の地の『気』ではないようです。ここ桜ヶ丘での銅鐸は、『埋葬』に近いイメージを受けました。
 その神器には、丁寧にそっと眠りについて戴いたのです。謹んで慎んで、かしこみかしこみ斎行された埋納。伝統のあった信仰祭祀の納め、ひと続きの時代の終焉。銅鐸に象徴されるある文化の神社の終わり、もしくは永遠化。
 「神の岡」では、そんなことが思い浮かびました。明るい空の下なのに、微妙に切なくなって下山したものです。

少なくともここ桜ヶ丘では「神社のはしり」や「山上の元社」ではないようです。
いったい何があったのか。思いつきではなく、心を凝らして考えるべきテーマなのでしょう。考古学者でもない私にとって、身近な手掛かりは神社です。「神に思いを馳せる人」に思いを馳せて、ゆっくり見てみます。

[761] Re[753][752][751]: 十三湊  神奈備 2004/06/19(Sat) 16:02 [Reply]
谷川健一著『日本の神々』岩波新書、p13に、ニソは霜月二十三夜の祭りの異称であるニジュウソウの訛のようである。とありますね。
これも三がソウのようで、左右はサユウですが、ソウとかサウともなり、文体にもよるのかも。

青草問題:イソは五十、ニソは二十、二十三もニソ、では三はどうなったのでしょうか。

> 朝敵揃は最終コーナーあたりでしょうか。
アラパキの神まで行きました。ひとつのゴールですので完了します。

[760] Re[755]: こりゃあ駄目だね  神奈備 2004/06/19(Sat) 14:44 [Reply]
> うふふ。

邪馬台国はどこだ さん、こちらへの書き込みも禁止です。
メールも出せないように、自らを明らかにせずに適当に書いている、卑怯者には書き込んで頂きたくありません。

> 弱っちい掲示板だのう。
マナーの悪い者には、おっしゃる通りの掲示板です。

[756] 閉鎖ですか  玄松子 2004/06/19(Sat) 09:44 [Reply]
掲示板を運営していれば、こんなのも、あんなのも沸いて出てきますからね。

文章の整合性がなく、どうやら、他者の書き込みを理解できないようですから、
相手にしなければよいだけだと思いますよ。
度が過ぎれば、削除すればよいし。

[754] 神奈備掲示板  神奈備 2004/06/19(Sat) 08:37 [Reply]
>邪馬台国はどこださん 残念ながら貴殿はこの掲示板には向いていないようですね。
>これ以上書き込みをされたいのでしたら、一度席亭にメールを頂けませんか?

これが守られず、書き込んでいましたので、しばらく閉鎖します。

[753] Re[752][751]: 十三湊  玄松子 2004/06/19(Sat) 01:02 [Reply]
> 土佐、都佐坐神社の味鋤高彦根神の連想、これは気が付きませんでした。なるほど、ありがとうございます。

「とさ」ってアイヌ語や古代の日本語では、どういう意味なんでしょうね。

>  大阪では十三はジュウソウ(のネーチャン)。

「じゅうそう」という読みは福井にもあるようですが、三を「そう」と読む文化は半島にあるのでしょうか。
http://www.gsi.go.jp/WNEW/LATEST/special00-01/13-chi.htm

横道に逸れましたが、朝敵揃は最終コーナーあたりでしょうか。

[752] Re[751]: 十三湊  神奈備 2004/06/18(Fri) 20:28 [Reply]
>「十三湊」は、「とさみなと」

土佐、都佐坐神社の味鋤高彦根神の連想、これは気が付きませんでした。なるほど、ありがとうございます。

 貞任と遺児の高星(タカアキ)の後裔がこの湊を根拠地に栄えたそうで、居城のあった山王坊には、日吉神社と十三宗寺と云う大規模な寺院があったとか。ジュウサンシュウジの訓。

 十三はトミ、長髄彦がらみの登彌、等弥もあるのかも。

 大阪では十三はジュウソウ(のネーチャン)。

[751] 十三湊  玄松子 2004/06/18(Fri) 18:47 [Reply]
「十三湊」は、「とさみなと」って読むんですよね。
東北に何故か味鋤高彦根神を祀った神社が点在しているのと関連があるのかないのか。(東北と言っても福島ですから、ちと遠い)

十三湊にある山王坊跡に、変わった山王鳥居のお宮があります。マニア垂涎。
http://www12.plala.or.jp/irodori-daici/sannoubo.htm

[750] 朝敵揃11 安倍貞任 2  神奈備 2004/06/18(Fri) 17:18 [Reply]
安倍貞任を輩出した奥州安倍氏の末裔に安東氏や秋田氏がいまして、江戸時代に『
東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)と云う資料集を記述し、これが『市浦
村史資料編』に取り入れられて発行された。昭和五〇年のこと。

この市浦村は十三湊の北側の村で、には薬師さまと呼ばれる洗磯崎神社が鎮座、安
倍、安東氏の祖神である荒吐神を祀った神社であるといわれています。

 十三湊は中世には港湾都市として大いに栄えたそうで、平安末期にも安倍氏など
が渤海や大陸との通商を行っていた湊です。おとぎ話では『御曹子島渡り』という
物語があり、源義経が北国や高麗へ見聞を広めるべく十三湊から出帆、大いなる遍
歴の後に帰国したと云います。

『東日流外三郡誌』の中に「天は人の上に人を造らず・・」と福沢諭吉の有名な一
句が記載されており、従って偽書だとされています。江戸時代のこの国の文献に「
天は人の上に人」と云う考え方は少ないのかも知れませんが、諭吉さんが『東日流
外三郡誌』と同じ資料を見ていた可能性は否定できません。これで偽書とは断定で
きません。

但し、筆跡鑑定によりますと、発見者の方が自らが記述されたようで、やっぱり偽
書のようですね。しかしながらその才能は凄いもので、石器を埋めると云う陰湿な
インチキに比べれば、実に知的で陽性のお話で、青草屋さんの目標としたい人物。

荒吐神とは天神と地母神の御子神だそうで、先の洗磯崎神社は港と航海を守護する神のような存在で、海神。
斉明天皇五年、阿倍臣比羅夫は船一艘と五色に染め分けた絹を捧げて、その土地の神を祀ったと『日本書紀』にあり、海神ゆえに船を捧げたとしています。
http://www.kamnavi.net/it/higasi/akikuma.htm
また、大きい神社の門神や客人としても鎮座、門客人神社。地主神の性格があります。砥鹿神社の荒羽々気神社 http://www.kamnavi.net/en/mikawa/togano.htm
蝦夷の地の征服の為の多賀城の入り口付近とされる場所にも荒脛神社が鎮座。 http://www.kamnavi.net/jm/tagaaraha.htm

誰が荒羽々気神をこの名で呼んだのだろうか。蝦夷の神として彼らはその名をつける必要はなかったのかも知れないが、この奥州は列島の吹き溜まりとして中央の敗残者や謀反人の片割れが駆け込んできたアジールでもあったようで、彼らとしては己らの祖神と区分するために蝦夷の神への敬称をつけたのかもしれません。
朝敵の蝦夷、荒蝦夷の神。ここで大三元さんのフィルターを通します。
http://www.dai3gen.net/arahabaki.htm
蝦夷はエビ、エビはpaki、アラパキの神。\(^O^)/


[749] Re[748][747]  玄松子 2004/06/17(Thu) 10:22 [Reply]
> 生島足島神社の公式HP http://www7.ocn.ne.jp/~ikushima/
> 表紙というかHOMEに「信濃國二之宮 旧國幣中社」とあります。

公式サイトに書かれていたんですね。気づきませんでした。
一般の資料には、信濃二宮は小野・矢彦宮となっているんですが、
時代によって変化したのかもしれませんね。

[748] Re[747]  QUBO 2004/06/16(Wed) 06:52 [Reply]
> 上田市民からの質問。
  玄松子さんは 上田市民でしたか…
> > 後世は信濃ノ国二宮。信州上田、生島足島神社に伝わる御由緒には
> この「二宮」。出典を教えてください。

えーっと、{741}でも載せました。リクエストなので再度。
生島足島神社の公式HP http://www7.ocn.ne.jp/~ikushima/
表紙というかHOMEに「信濃國二之宮 旧國幣中社」とあります。

流れとしては、ここの社伝によれば、建御名方命は諏訪に鎮座する
前に、しばしこの地に留まった→上田を経由して諏訪に行った。
このことが、書きこみのテーマです。

生島足島神社と、その境内摂社である諏訪社は、相対し向かい合って
配置されています。普通は同一方向あるいは横向き。
相対し向かい合う摂社の配置は、かなり珍しいと思う。
建御名方命が生島足島神ご奉仕する為の配置に思えました。

[747] Re[741]: 建御名方命がご奉仕  玄松子 2004/06/16(Wed) 01:23 [Reply]
上田市民からの質問。

> 後世は信濃ノ国二宮。信州上田、生島足島神社に伝わる御由緒には

この「二宮」。出典を教えてください。

[746] Re[743]: アマチュア古代史研究家  恋川亭 2004/06/16(Wed) 00:40 [Reply]
(いけないことなんだろうけど)ピエロにからかわれていることに本人だけが気づかないパターンも共通していたりして(ごめんなさい)。

[745] Re[744][743]: アマチュア古代史研究家  ペギラ 2004/06/15(Tue) 23:14 [Reply]
禁欲的、禁欲的。

毎日呪文のように。

[744] Re[743]: アマチュア古代史研究家  国士無双 2004/06/15(Tue) 08:06 [Reply]
うん、私の主観に照らすと「見苦しい」ね。

> 僕もその「一部」に見えているのかもしれないと自戒。

全く全く。剣呑剣呑。

[743] アマチュア古代史研究家  玄松子 2004/06/15(Tue) 00:15 [Reply]
アマチュア古代史研究家の一部に多々見られることですが、
どうして他人の意見に耳を傾けず、
自説を他人に理解してもらう努力をせず、
理由や推論の過程を省略して、独断を連呼するのだろうか、
不思議で仕方が無いですね。

あるいは、他の方々から見ると、
僕もその「一部」に見えているのかもしれないと自戒。

[742] 中臣と物部  玄松子 2004/06/14(Mon) 22:34 [Reply]
中臣(藤原)が物部の勢力を引き継いだという説があったような気がしますが、
これが正しければ、物部(=中臣)と忌部と諏訪(建御名方)が、吉野川流域に集中してるような神社配置が、ちょっと興味深い今日この頃。

建布都=市場町、吉野川北岸
忌部=山川町、吉野川南岸で建布都の対岸
多祁御奈刀弥=石井町、吉野川南岸で忌部の東10Km
(大麻=大麻町、吉野川北岸で、建布都の東15Km)

建布都−−−−−−−大麻

忌部−−−−−多祁御奈刀弥

歪な四角形だけど。

[741] 建御名方命がご奉仕  QUBO 2004/06/14(Mon) 22:21 [Reply]
後世は信濃ノ国二宮。信州上田、生島足島神社に伝わる御由緒には
「神代の昔、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)が諏訪の地に
下降する途すがら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥
を煮て献ぜられてたと伝えられ」と有ります。
これを信じるとすると、上田方面から諏訪湖に入ってことになります。
神奈備神名帳にもこの御由緒は記載されています。

生島足島神社の公式HP http://www7.ocn.ne.jp/~ikushima/

[740] Re[739][737]: 神奈備:[5214] 建御名方  神奈備 2004/06/14(Mon) 20:46 [Reply]
> 私の青草感覚では、中臣(藤原)に追い払われる忌部なんですがね。
> くどいか。(-o-;)

忌部氏と言えば阿波や讃岐に祖神が跋扈。その阿波に多祁御奈刀弥神社が鎮座。最近玄松子さんがアップされました。
http://ucgi.genbu.net/cgi-bin/update.cgi?index=7&target=awa2/minatomi_title.htm
これによりますと、元社であるとの伝承が残っていたのかも。
諏訪へは意外と遅く入っているのは意外と真説。

> 建御名方命の諏訪へのルートは日本海側、糸魚川遡航じゃないかな。

九頭龍川から丹生川経由はいかがでしょうか。
福井県今立郡池田町稲荷の足次川沿いに須波阿須疑神社が鎮座、建御名方命、味鋤高彦根命、大野手媛命が祭神。
九頭龍川から高山乗鞍ルートで信濃に入ったのかも知れません。大和に九頭神社が幾つか鎮座、何故か祭神を建御名方命としているのは案外こんなところに答えがあったのかも。

> 鎌足2代目にとって、敵は、中臣内部を想定してた頃じゃないだろうか。

その後の中臣氏はおとなしくお祭りに精を出しているような感じですね。元々、そういった祭祀氏族で、鎌足や不比等(天智天皇の御落胤説も)の才能とは違うような気がしますね。
新参者の藤原氏、敵はやはり古くからの豪族達だったのでは。

[739] Re[737]: 神奈備:[5214] 建御名方  玄松子 2004/06/11(Fri) 14:18 [Reply]
> > 建御名方冨命神って、中臣の神じゃないの?
> という発想は、全く思いつかなかったのである面驚きです。(^^;)

あくまでも青草として。

古事記に捏造・挿入された可能性があるなら、
古事記成立は、不比等の時代だから、不比等の意向。
鎌足2代目にとって、敵は、中臣内部を想定してた頃じゃないだろうか。
藤原と中臣が、区別される分岐点の頃でしょ。

[738] Re[737][735][734][733]: 神奈備:[5214] 建御名方  ペギラ 2004/06/11(Fri) 12:14 [Reply]
> 私の青草感覚では、中臣(藤原)に追い払われる忌部なんですがね。
> くどいか。(-o-;)
>

この発想の源は藤森さんの「銅鐸」にあった。
まるで自分だけの大発見かと思っていたが、受け売りだったのね。ガクッ。
本殿のかたばみさんの本の紹介で、どこに載ってたのか?と見ていたら、
これを見つけてしまった。(笑)
10・「鐸の国」と「邪馬台国」と「大王の国」と
の中に記述されています。

[737] Re[735][734][733]: 神奈備:[5214] 建御名方  ペギラ 2004/06/11(Fri) 11:56 [Reply]
玄松子さんの
> 建御名方冨命神って、中臣の神じゃないの?
という発想は、全く思いつかなかったのである面驚きです。(^^;)

中臣の祖なら天児屋命。牧岡。
建甕槌と経津主など、中臣に関わるのか?
関わるのは藤原からでしょうね。
春日大社まで、建甕槌と経津主は鹿島・下総ですからね。
なるほど、だから藤原に追い払われる中臣なのか。ふむふむ。

私の青草感覚では、中臣(藤原)に追い払われる忌部なんですがね。
くどいか。(-o-;)

[736] 湖蹴破りと八風  QUBO 2004/06/11(Fri) 11:18 [Reply]
元ネタは神奈備掲示板です
[5220] 湖蹴破り伝承(^^;  かたばみ
[5221] 諏訪と伊勢津彦  邪馬台国はどこだ

> かつて大きな湖だった・・・処が干上がって
> 肥沃な大地が現れた・・・
奈良盆地も巨大な湖だったはず。類似した伝説は、ないでしょうか?
私は寡聞にして、聞いたことはありません。

伊勢津彦
八風を起こして飛び去りますが、着いた地は八風山。
(を通り過ぎ、日光までたどり着いたかもしれない)
いま八風山トンネル(上信越自動車道)によって、
ドテッパラに風穴をあけられ…
http://www.jhnet.go.jp/tokyo/topics/topics/jyoshinetsudo/4syasenka/sankou.htm

[735] Re[734][733]: 神奈備:[5214] 建御名方  玄松子 2004/06/11(Fri) 08:46 [Reply]

> 建御名方冨命の中に、神と人との橋渡し役としての中臣があるとすれば、諏訪の先住神を祀る神としての建御名方がありえますね。

建御名方神の伝説の中に、近親憎悪的なものを感じたんですよねぇ。
御甕槌神(藤原祖神)と似た神でありながら、追い払われた中臣の神だったら、
古事記に捏造・挿入される意味はあるかも。

あるいは、掛け言葉、隠し言葉として神名が使われているのかもしれません。
天津甕星も、御甕槌神の近親氏族(の奉祭する神)であったというのも青草としては面白い。

[734] Re[733]: 神奈備:[5214] 建御名方  神奈備 2004/06/11(Fri) 08:36 [Reply]
> 建御名方冨命神って、中臣の神じゃないの?

○○富命、○○刀賣命
このトミは戸邊、例えば名草戸邊のように一般に云う女家長のイメージもありますが、巫女的女王の要素もあるようですね。

紀の国には中言神社が幾つかあり、名草比売を祭神としています。

建御名方冨命の中に、神と人との橋渡し役としての中臣があるとすれば、諏訪の先住神を祀る神としての建御名方がありえますね。

[733] 神奈備:[5214] 建御名方  玄松子 2004/06/10(Thu) 15:14 [Reply]
建御名方冨命神って、中臣の神じゃないの?

[732] Re[731][730][729][728][727]: いぬ アイヌ 狗  大三元 2004/06/09(Wed) 22:47 [Reply]
神奈備さん

神奈備さん、

> > http://www.dai3gen.net/akafsma.htm

関心を持ってます、とは我ながら上手く逃げていますねぇ。
その後9年間も気にはしているのですが(これ本当)どうにも進歩がありませんです。

> 伊努神社の鎮座と云い、先住民に関係しそうな神名としてイヌが現れているように見えます。
> 蝦夷を指していると思っても良いのでは・・。

↑のように思いたいのですが、まだ、思えません。

[731] Re[730][729][728][727]: いぬ アイヌ 狗  神奈備 2004/06/09(Wed) 22:34 [Reply]
> ところで、ざっと気の付く範囲で見てみたのですが平安時代の蝦夷の記録では「・(ア)イン」「・イヌ」という名前は全然出てきませんね。

そうなんです。気にかかっていたのは「アイヌ」、「イヌ」がいつ頃から使われていたかなんです。妄想界のお話しでも最低のチェックは要るんです。

そこに救いの神のように下記が見えたのでした。
> http://www.dai3gen.net/akafsma.htm
> 伊農/イヌ/狗/委奴(漢委奴国)/アイヌ/伊那
> などの語群に関心をもっています。

神話の世界、大年神が伊怒比売に生ませた子に大国御魂神。次に韓神云々。
伊努神社の鎮座と云い、先住民に関係しそうな神名としてイヌが現れているように見えます。
蝦夷を指していると思っても良いのでは・・。

[730] Re[729][728][727]: いぬ アイヌ 狗  大三元 2004/06/09(Wed) 21:26 [Reply]
神奈備さん

> > アヒルは古語でなくともいいのです。
> 1.飛べない鴨であればいいのです。不具の鴨がアヒルであって、古語でヒルだったと想定しています。

そうでしたか。妄想界のお話しのようで失礼しました。

> 2.アイヌの「ア」が消えて「イヌ」になるような事例は他にもあるのでは・・思いつきませんが。

コシャマインなんかも kosham ayn(u) なのか、koshama in(u) なのか、koshama ayn(u) で二つの a が一つに重合したのか、判りませんから、お探しの例に入るのではありませんか?

ところで、ざっと気の付く範囲で見てみたのですが平安時代の蝦夷の記録では「・(ア)イン」「・イヌ」という名前は全然出てきませんね。また、江戸末期以降にも思い当たりません。中世から使われるようで、1669のシャクシャインが最後、、、かも。

[729] Re[728][727]: いぬ アイヌ 狗  神奈備 2004/06/09(Wed) 20:54 [Reply]
大三元さん ありがとうございます。

> アヒルという日本古語は少なくとも『時代別国語大辞典上代編』には出てないので、青草だから笑って放っておくのがオトナというものでしょうが、ついでに一言。

アヒルは古語でなくともいいのです。
1.飛べない鴨であればいいのです。不具の鴨がアヒルであって、古語でヒルだったと想定しています。
2.アイヌの「ア」が消えて「イヌ」になるような事例は他にもあるのでは・・思いつきませんが。

[728] Re[727]: いぬ アイヌ 狗  大三元 2004/06/09(Wed) 20:21 [Reply]
神奈備さん

>アイヌと云う呼び方の初見は『諏訪大明神絵詞』(延文元年 1356)に、松前のアイヌを万当字満伊犬(マトウマイイヌ)としていることだそうです。
>アイヌよりはイイヌのようで

写本により色々あるようですが「万堂宇満伊犬」も「今堂宇満伊犬」が正しいようで、いずれにしても「今堂宇満伊」までを「松前」と解釈されています。引き算すると「犬」を「アイヌ」の音に宛てた字であると考えられます。

あと「波志多犬(ハシタイン)」、「知コモ多犬(チコモタイン)」、コシャマイン、シャクシャインなどの例を見ても「イイン」を抽出するのはヨクナインではないかと思います。aynu の最後の母音が弱かったのか、日本人の差別感が如実に出ている宛字なのか、と想像します。

> >  アヒルをヒルと云い、これを蛭児としますと、

アヒルという日本古語は少なくとも『時代別国語大辞典上代編』には出てないので、青草だから笑って放っておくのがオトナというものでしょうが、ついでに一言。これが多すぎるのかも。

[727] いぬ アイヌ 狗  神奈備 2004/06/09(Wed) 19:16 [Reply]
大阪の交野私市の住吉神社
http://www.kamnavi.net/mn/osaka/katanosumi.htm
の摂社に乾神社「蛭子大神」が鎮座、ここは平城京から乾の方角、またここから乾の方角は出雲となります。
乾(イヌイ)と蛭子、どう関係するのかいな。

 アヒルをヒルと云い、これを蛭児としますと、
1.「ア」が消えている
2.「コ」がくっつく。
と云うことが生じていますが、現にあり、またありそうなこと。

で、アイヌとはアイヌ語で「人間」のことと云うそうです。アイヌと云う呼び方の初見は『諏訪大明神絵詞』(延文元年 1356)に、松前のアイヌを万当字満伊犬(マトウマイイヌ)としていることだそうです。(平山裕人著『アイヌ史を見つめて』にあると、鈴木健著『常陸国風土記と古代地名』にあります。曾孫引き)

アイヌよりはイイヌのようで、アイヌはイヌと呼ばれていたと考えていいのでしょう。アイヌ語と云えば大三元さんですが、流石にこと辺りについて述べておられます。
http://www.dai3gen.net/akafsma.htm
伊農/イヌ/狗/委奴(漢委奴国)/アイヌ/伊那
などの語群に関心をもっています。

「漢委奴国」の「委奴」を「いぬ」と読んで、それは「いぬ」族の国だったのではないか、との視点を捨て切れません。
(以上:大三元さん)

 金印の漢委奴国王のよみ方ですが、教科書に出てくる漢の委の奴の国王は、漢が与えた印は、他は漢の○の国王のようで、漢の属国の属国の表現はないそうです。そうしますと委奴はこれで一つの国を指す言葉、「イド」なら伊都、「イヌ」ならアイヌの建国した国かも知れません。蝦夷の国。

北九州でイヌがつく神社
宗像大社摂社に犬王丸神社「彦星命」

星神であるのが興味津々。先の住吉神社の指し示す乾は出雲、ここに伊努神社が鎮座、祭神は赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命と天之甕津日女命の夫婦神、赤衾さんは天津甕星神の可能性があります。星神です。

南九州の狗とは隼人、これまた先住民で夷、即ち蛭児。

[726] Re[725][724]: 朝敵揃10 安倍貞任 1  神奈備 2004/06/08(Tue) 16:57 [Reply]
> 言語に興味も知識もない玄松子です。
更に加えてその能力もない神奈備です。

言語に強いのは、宇宙旅行で云えばワ−プをしているように見えることがあり、日本語で云えば一足飛びと云うことでしょうか。
カンナリを頼りに鴨を探すよりは科学的雰囲気ですね。

秋田系図によりますと、「先祖は摂津国安倍野伊駒に住し云々」とあり、また安倍氏の裔の安東氏の頭領は日下将軍と名のっているようで、長髄彦の生駒や草香への強い執着を持っています。

そう云う意味で「安日」に、天照御魂のイメージを見る玄松子さんは慧眼。

慧眼と云えば、遮光器土偶は字の如く日の光に関係しているのかな。
荒羽々岐神の神像かな。安日彦が祀ったと云う。

[725] Re[724]: 朝敵揃10 安倍貞任 1  玄松子 2004/06/08(Tue) 10:08 [Reply]
言語に興味も知識もない玄松子です。

> 安日彦=火の彦=蛭児は成り立つのかも。

「日」という文字は、「テル」とは読めないかな?
「安日」は「アンテル」=天照。皇祖女神の方ではなく、男神の方の天照。

安倍氏の系譜に、アテルイが入ってるのを見た記憶があります。
高丸とも呼ばれるアテルイですが、高照に通じないかな。

[724] 朝敵揃10 安倍貞任 1  神奈備 2004/06/07(Mon) 20:31 [Reply]
 奥州の王、安倍氏の王子、中央から陸奥守として派遣された源頼義との間で11
世紀央に前九年の役を起こし、源頼義・義家の父子が奥羽の清原氏の支援を得て安
倍氏は平定された。
源頼義・義家の父子はこれにより東国源氏の基盤をつくった。

この安倍氏については、谷川健一著『白鳥伝説』に紹介されており、若干、紹介い
たします。

「奥州安倍氏の流れをひくと称する安東氏や秋田氏に伝えられた系図である。喜田
貞吉は要約次のような説明を加えている。
「安東氏はみずから安倍貞任の後と称し、その遠祖を長髄彦の兄安日なるのもに擬
しているのである。これは万治年間(1658〜1661)秋田実季編纂の「秋田
系図」の有力に主張するところではあるが、その説の由来はすこぶる古く、すでに
津軽館越北畠家の日記、永禄十年(1567)の条に、岩木山祠官家の系図をひい
て、その説を録しているのである。
(中略)
世の多くの地方土着の豪族が、系図を皇裔神胤に仮託し、強いてその祖先の出自を
韜晦する事のみに汲々たる中にあって、ひとり秋田氏が、どこまでも先住土着人の
後裔たる系図を標榜しておられるということは、なんという尊むべき事実でありま
しょう。私共が我が日本民族の成立を論ずる上において、忌憚なくその真相を発表
し得る所以のものが、この秋田氏の主張に負うところ甚だ少なからぬのであります
。」

谷川氏はこれを受けて、秋田氏の胸中には{縄文の意識の嵐}が吹いていたに違い
ないと推測されています。

さて長髄彦の兄に安日彦がいたと云う話は津軽の方にあるようですが、大和近辺に
は残っていないようです。

土蜘蛛の頭領安日彦、すなわちアヒル、従って蛭児と云う連想はあってもよさそう
です。記紀では安日彦を無視できず、先住民の頭領を蛭児として葦船に乗せて流し
てしまう物語ができたのかも知れません。
アイヌ語のアペは火だとか。長髄彦の兄が安日彦で、それが火に関係しなければなない理由は不明ですが、安日彦=火の彦=蛭児は成り立つのかも。

もう一つ気にかかるのは北畠家が津軽にいたことです。北畠家は摂津の阿倍野に縁があり、北畠顕家の墓が比定されています。安日彦がでっち上げられたとすれば、南北朝以降となるのかも知れません。

[723] 朝敵揃9 氷上川継  神奈備 2004/06/04(Fri) 21:46 [Reply]
系譜 氷上川継は天武帝の曾孫。

天武天皇−新田部親王−塩焼王
            ||−−−志計志麻呂 
      聖武天皇−不破内親王−氷上川継
       〃  −井上内親王

氷上川継の周辺は謀反人だらけ。
父の塩焼王は天平宝字八年(764)藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の際、次期天皇に擁立されていたので、乱後、処刑。何故か、信州上田の神社に祭られています。不思議。
長野県上田市大字新町字王子 王子神社「健御名方命、月讀命 合祀 氷上鹽燒王」

母の不破内親王と兄の志計志麻呂は、神護景雲三年(769)巫蠱の罪を着せられて土佐に配流、後に誣告であったことが判明し、復帰するが、志計志麻呂の消息は不明。氷上川継と同一人の説もあるようです。
志計志麻呂は神社の祭神としては見えません。

叔母の井上内親王は宝亀三年(772)巫蠱の罪で皇后を廃され、五條に幽閉された。
神社は奈良県五條市を中心に多く鎮座しています。
ななかまど  http://www.7kamado.net/goryo-index.html

このように氷上川継は天智系天武系の皇位争いで揺れ動いてきた時代の中で、多くの怨念が染みついた死霊を背後に、生き抜いてきた生霊タチの天武系最後の皇位継承の望みを一身に受けていた。彼の運命は見えていたのである。旧勢力の大伴氏らも連座したクーデターが、延暦元年(782)に企てられた。計画は直前に発覚、川継は逃亡を図ったのです。

川継は大和国葛上郡で捉えられました。何故、葛上郡方面に逃げたのだろうか。葛上郡が最終目的地ではあるまい。吉野へ行く、巨勢で捕らえられたのだろう。吉野、大海人皇子(天武天皇)旗揚げの地、謀反人のアジールと思われていたのでしょう。

ちょうど光仁上皇の服喪中で、死罪を免じられて妻の藤原法壱ともども伊豆諸島に配流されたと言う。その後の消息はない。

川継を祀る神社は見あたりません。

[722] 朝敵揃8 文屋宮田と橘の逸勢  神奈備 2004/06/02(Wed) 15:52 [Reply]
文屋宮田麿は、筑前守の地位にある時、新羅とむすんで国家に叛乱を企てたとの疑いで伊豆に流されたと言います。筑紫君石井をヒントにして謀反人にでっちあげ。

この文屋宮田麿は蝦夷征伐に大きい働きをしているようで、蝦夷人をみな殺しにしたので、その怨霊のために天変地変が生じていたと言う。863年頃。怨霊鎮めのために、国中の神社仏閣に祈願をさせた。特に陸奥国岩代の石背国の諸寺、長光寺原に衆集して読経を修めたので、天変地変は止んだとか。

蝦夷平定の証のような神社。
福島県岩瀬郡長沼町大字桙衝字亀居山 桙衝神社「日本武尊、建御雷命」

http://www.ne.jp/asahi/asamasa/shako/fukusima/hokotuki.html
http://www.db.fks.ed.jp/txt/10020.003/html/00063.html


橘逸勢は日本三筆の一(空海と嵯峨天皇)。空海や最澄とともに入遣した秀才。藤原氏との権力闘争(承和の変)に関わり、流罪、842年。伊豆へ配流の途上、遠江にて死去。

静岡県引佐郡三ケ日町本坂544 八幡神社摂社橘神社に祀られています。
この本坂峠は愛知県嵩山宿から静岡県三ヶ日宿への姫街道最大の峠越えの難所。

不思議なことに泉南の孝子峠(キョウシ)に橘逸勢の墓が伝わっています。娘が出家して妙沖と名のり、この地に祀ったと言います。この地との関わりは伝わっていません。
孝子峠は紀州街道にあり、現在は南海電車が通っています。熊野古道より海よりの道です。

伊豆への配流と孝子峠、この二つから連想されるのが役小角。
孝子観音は葛城二十八宿の一。http://www.saturn.dti.ne.jp/~sippou/fudo/28.html

役小角は賀茂役君で葛城の祭祀に関連する家系の出のようです。伊豆に流されたのは葛城の一言主の大神は天皇を倒そうと企んでいると告訴しました。後に役小角は一言主の大神を呪縛し、今になっても縛を解いて脱することができないと『日本霊異記』に記しています。
で、本日、平成一六年葉月初旬では縛は解かれているのでしょうか、心配しております。

[721] やまとの大和の源九郎さん  ZOU 2004/06/01(Tue) 00:39 [Reply]
神奈備さん、みなさん、こんにちは。
しゃしゃり出てまいりました。ちと脱線ということで。

平群の真鳥のお話は残念ながら知りませんでした。源九郎稲荷神社は確かに地元です。UPしたいんですが写真紛失(T_T) 仕方がないのでお話だけご紹介。

源九郎狐は、義経(または静御前)のボディーガードをしたことから、白狐源九郎と名乗るようになったそうです。この件は「義経千本桜」をご検索くださいますようにm(__)m

もひとつ。
菅田明神境内に小狐が住んでいました。菅田明神の近くに淵があり、そこに住んでいた大蛇が村人を苦しめるので、菅田の小狐は源九郎狐の加勢を得て大蛇を退治することができました。大蛇の尻尾を切り開くと一振りの宝剣が出てきたことから、村人はその剣を宝剣「小狐丸」と名づけ、石上神宮に奉納したそうです。
菅田明神の鍛治神と剣、石上神宮、キーワードが並んでますね。

では、「朝敵揃」、お続けください。


神奈備掲示板、写真掲示板、過去ログ集




神奈備ホームに戻る