青草談話室ログ平十六年 七月
2004.2
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[818] Re[817]: 「託」の字の乇(タク)について  神奈備 2004/07/31(Sat) 20:05 [Reply]
> 女神 母なる大地
対偶神の男神は天父神と云われます。女神に抱きついていて離すのに苦労するのがランギとパパとハワイの神々。
日本では諾冉二神ですね。
> 男性神がわかりません、お教えください。
まさかこんなことではないですよね。

[817] 「託」の字の乇(タク)について  わーぷ 2004/07/29(Thu) 18:37 [Reply]
 
「託」の字の乇(タク)はノ(ヘツ)数字の「七」から成ります。「ノ」(ヘツ)は神が宿るを表わし、
「七」は北斗七星を表わします。(北極星は、「主」)
古代人は夜空の星々に時の流れ知り、哲学し幾何学を学びました。
古代文明の地では「神託」神のお告げは、星占いだったようです。

山ノ神は女性神 母なる大地=山の噴火(火や鉱物)山林(木・泉・薬草・動物)
男性神がわかりません、お教えください。

[816] Re[815]: 日抱神社  神奈備 2004/07/29(Thu) 07:43 [Reply]
飛騨のご紹介ありがとうございます。『破られた2000年の魔法』と云う冊子を読んだ事があります。三輪山や出雲大社の祭神を五十猛命としており、同時に食人の風習を持っており、出雲国造の遺体を池に鎮めるのはそれを隠匿する為だったのがはじめだったとか、大胆な仮説で構成されていました。
 飛騨も参詣すべき神社を残しており、また行かなくてはと思っています。


[815] 日抱神社  言蛇 [Mail] [Url] 2004/07/29(Thu) 00:51 [Reply]
こんばんわ、御無沙汰をしていますがいつも楽しく拝見させていただいています。

乗鞍岳へ旅行した時、「日本のルーツ飛騨(福来出版/¥1000)(*1)という興味深い本を地元で購入したので青草を貢ぎにきました。飛騨・美濃の五十猛命(*3)ページに福来出版の名がみられるので神奈備様はこの本の存在をしっていられると思いますが岐阜県大野郡丹生川村の日抱神社と乗鞍岳丹生の池を日本のルーツと主張している本です。高野山にまつわる空海の借用書改竄(*2)で高野山の居心地が悪い場合、丹生都姫の起原を飛騨側から考えて借用書を再度書き替えるよう祝詞しようと思う人がいればちょっとした夢が描けると思います。

本自体は偽書だろうと思いますが、(日本海)神通川←→(大平洋)飛騨・長良川のラインを交通線とする部族移動の記憶として洗い直すのがこの地方にとって一番良さそう。

(*1)http://www.fukurai.net/j-index.html
(*2)http://www.kamnavi.net/ny/nyutu.htm
(*3)http://www.kamnavi.net/it/hida/index.htm

[814] Re[813][812]: ヘブライ語  神奈備 2004/07/28(Wed) 19:35 [Reply]
> サクラ・・・「隠れた」という意味と書いてありました。
> http://www.naritacity.com/journal_iroha_020815.htm

金平糖さん ありがとうございます。
「さくら」に隠れたと云う意味があるのはイミシンのような気がします。
佐倉市に麻賀多神社が鎮座、その摂社に天之日津久神社、この神社は後に大本教と関係する岡本天明さんがまさに隠れた神の声を聞き、「日月神示」の発端とした所とか。

[813] Re[812]: ヘブライ語  金平糖 2004/07/28(Wed) 17:15 [Reply]
サクラ・・・「隠れた」という意味と書いてありました。
http://www.naritacity.com/journal_iroha_020815.htm

[812] ヘブライ語  神奈備 2004/07/27(Tue) 21:09 [Reply]
ギリシャ語でサクラは、桜の意味だそうです。日本から苗木を持っていったのかも。
所で、ヘブライ語でサクラと云う発音の語彙があるそうですが、この意味をご存じの方、教えて下さい。

[811] Re[810]: 「さいた桜」  神奈備 2004/07/27(Tue) 16:40 [Reply]
> 咲いたさくら 花見てもどる
> 吉野はさくら 龍田(たつた)はもみじ
> 唐崎(からさき)の松 常磐(ときわ)常磐 深みどり。

サクラサクラの1番2番は最近では
1番を昭和16年の童謡の歌詞
2番目を明治時代の古謡
としています。
そうしますと3番目は江戸時代の古謡となります。しかしこれが江戸時代の1番ですから、江戸時代の2番と云う歌詞があったのかも知れません。

で、呪術的な歌詞と云うのは、江戸2番を見ずには言えない所ですが、憶測をしますと、

1.桜の色は血の色。サクラサクラと咲いた桜とは流れ出したおびただしい血、大量殺戮の暗示と云うこと。

2.佐倉宗五郎さんは一揆を起こして、結果として神様として祀られています。
『平成データ』から
萩野神社「櫻宗五郎」 北海道白老郡白老町字萩野36番地
龍田神社摂社佐倉神社「佐倉宗吾」福島県双葉郡楢葉町大字井出字上岡38
津神神社摂社宗五郎社「佐倉宗五郎」新潟県両津市大字白瀬502番地
五社神社「佐倉宗吾」長野県伊那市大字伊那字船久保6957
神明社摂社佐倉神社「佐倉宗吾郎」長野県飯田市大字竜江宮ノ平7335

要は、サクラサクラで宗五郎さんの霊魂を呼び戻して一揆に突っ走ろうとする呪文だったとか。

[810] 「さいた桜」  神奈備 2004/07/24(Sat) 20:38 [Reply]
江戸時代の原詞

咲いたさくら 花見てもどる
吉野はさくら 龍田(たつた)はもみじ
唐崎(からさき)の松 常磐(ときわ)常磐 深みどり。

箏曲の古謡

さくら さくら
弥生の 空は 見渡すかぎり
かすみか雲か 匂いぞ いずる
いざや いざや 見にゆかん

昭和16年

さくら さくら
野山も里も 見わたす限り
かすみか雲か 朝日ににおう
さくら さくら 花ざかり


「さいた桜」の2番目、3番目の歌詞をご存じの方、
ひとつ教えて下さいな。
霊的な歌詞だとか。

[809] Re[806][803]: 石上神宮と天叢雲剣  かたばみ [Mail] [Url] 2004/07/20(Tue) 12:21 [Reply]

≫『上文』の意図が見えませんね

その意図の見えないところが気に入っています。
書紀、古事記、先代旧事本紀・・偽書は多々ありますが、目的を持たない偽書というのは考えにくいのです。

ウエツフミは九州系海人の伝承を始発として全国に展開したその後裔が収集した伝承を、記紀に準じて羅列編纂した「覚え書き」で資料価値が高いと考えています。

その元伝承の質が問題ですが、鎌倉時代あたりの「なんらかの組織内の識者」の編纂、それがウエツフミの原典じゃないかなあ。
(現在のそれはその後の書き加えや修正が含まれるでしょうけれど)
(ちなみにホツマは有力な学者の「その思想による著作」とみています)


余談
はひー38度かよー(室内31℃、エアコン使うのは熱帯夜のときだけ)。
屋根に散水(一部できるようにしてある(^^))・・熱湯が落ちてくる(これは誇張)
雨水タンクに貯まる(^^)・・トイレのロータンクに送る・・トイレから湯気が出る(これは偽(^^;)


[808] Re[807]: 猿といえば  神奈備 2004/07/19(Mon) 16:44 [Reply]
讃留霊王は建貝兒王とも記され、日本武尊と吉備大吉備の建比売との御子と『古事記』にあります。
建貝兒王を祀る神社は讃岐の他に壱岐と三河との鎮座。
志々岐神社「武加比古王」長崎県壱岐郡石田町南触
宮道天神社「建貝兒王」愛知県宝飯郡音羽町大字赤坂
建貝兒王の行動範囲も当時としては西の端から東の端までカバーしているようです。
そう云う意味では
> 吉備勢力の讃岐方面への進出の痕跡?
を拡張して
大和の王権の讃岐への進出ともとらえることができるのかも。

讃留霊王神社の鎮座している飯山町下法軍寺西尾には地図によりますと鳥居が三つ集まっています。『平成CD』では
八幡神社 飯山町下法軍寺1410
八坂神社 飯山町下法軍寺1528
があり、八幡神社の摂社には木村神社「五十猛命」なども見えます。

讃留霊王と猿とは桃太郎伝説の楽楽森(ササモリ)彦ではとか、楽楽森は孝霊天皇を祀るとかこれは高麗也となり、壱岐島に讃留霊王を祀る神社があるのも渡来の祈念碑的存在なのかも。

[807] 猿といえば  QUBO 2004/07/18(Sun) 12:26 [Reply]
本殿から勝手に移ります。「猿といえば」
香川の伝説・猿霊王(サルレオウ)
猿の中の霊力のある王様、すごい名前です。
本当は讃岐に留まった霊王で、讃留霊王(サルレオウ)
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/3467/hanzan/sarureo1.html

ヤマトタケルの息子とされます。
吉備勢力の讃岐方面への進出の痕跡?
さすがに本殿では大声で話せませんね〜

[806] Re[803]: 石上神宮と天叢雲剣  神奈備 2004/07/15(Thu) 21:12 [Reply]
> ウエツフミ(5綴り5章)

『上文』天照大神の発言のようですね。
吾 が 岩 屋 に 籠 り し 時 心 迫 こ に 美 濃 淡 海 の 伊 吹 に 落 と し し 太 刀 な り と 告 り た ま イ

> 示唆に富む話だと思います。

「太 刀 美 濃 淡 海 伊 吹」と来れば、日本武尊の草薙剣のお話が思い起こされますが、どうもあわてて太刀を落とす、というのは頂けませんね。何だろうね。
偽書なら偽書らしく、天照大神も立派な神様で太刀を落とす必要もなく、日本武尊バレバレのお話をごっちゃにしているようで、『上文』の意図が見えませんね。

[805] Re[804]: 神奈備 Re[5404]  神奈備 2004/07/14(Wed) 19:48 [Reply]
青草ネタでしたね。


葛木倭文坐天羽雷命神社の元社は当麻町太田の棚機神社とされています。かっては鴨氏が跋扈した葛城の地のこと、従って大和の倭文神については、玄松子さんご指摘のように下照姫神であるのかも。
他の式内社の倭文神社。
甲斐国巨摩郡 倭文神社「天羽槌雄命、天棚機姫命」
伯耆国久米郡 倭文神社「建葉槌命、下照姫命」
と、二柱を並べた神社も見えます。

> 下照は天照の対極の女神という発想から、ウズメが出て来ないかなぁ。
天津甕星神は三日星だからこれは金星、下照姫も金星か織女星あたりか、鴨氏の太陽を齋祀る女神なのか、迦毛の大御神を齋祀る巫女と云う所でしょうか。
天若日子が葬られましたが、本来、側にいるべき下照姫は不在、裏切り者に死を与える女神の要素もありか。

ウズメさん、巫女に違いない、しかし猿田彦がヒラブ貝に噛まれて死ぬ際、やはり側にいたら助けるものを、見過ごしたというか、ウズメが貝なのかも。国津の神々への裏切り者に死を与えるという女神。
ナマコ、まつろわぬ土蜘蛛の海人の象徴のようだ。

[804] 神奈備 Re[5404]  玄松子 2004/07/14(Wed) 15:02 [Reply]
> そうしますと、天宇受賈命と倭文神とは似てほしい所です。織姫と云うような共通項があるんだろうか。

下照姫を祀る倭文神社があります。
倭文=しとり=したとり=したてり なのかとも想像を巡らしております。

で、下照は天照の対極の女神という発想から、ウズメが出て来ないかなぁ。
下(しも)が照る(輝いている)女神ではあるのだが。

[803] 石上神宮と天叢雲剣  かたばみ [Mail] [Url] 2004/07/11(Sun) 22:59 [Reply]

石上神宮の縁起由来はおおよそ正確な伝承が伝わっているとみています。
ただし、登場する人物の年代と場所、それをどう解釈するかが問題です。
キーは神武がいつの時代の人物だと考えるのか、になります。

−−持論:神武は九州統一のみ、AD50頃−−
「縁起:神武の即位元年、宮中にありき。御祭神は布都御魂大神、宇摩志麻治命に祀らせる」
神武時代の「旧石上神宮」はAD50頃の九州某所にあった。
宇摩志麻治命も神武時代で九州ということになります。

−−持論:開化が大和の出雲を制圧、崇神が大和入城、AD250頃−−
「縁起:崇神天皇7年に宮中より現地、石上布留高庭に移し鎮め祀られる」
布都御魂大神も九州某所から大和の石上に移転し、大和へはいった宇摩志麻治命の後裔である伊香色雄命が祀った。

自然神でも祖先神でもなく、武器の神を祀ったのだと思います。
地形によっては石上の布留の場所には古来から出雲系の水神などの自然神が祀られていたかもしれません。
自然神が他の神に置き換えられたり習合するのはよくあることで、当時でも起きただろうと思います。


素盞鳴尊が天叢雲剣を天照大神に献上する話をウエツフミ(5綴り5章)では、イワソモの美しい銅でマウラの神に造らせた剣とあり、岩戸隠れに至る途中であわてていて落とした剣だ、と天照大神がいっています。
示唆に富む話だと思います。

さて、物語でございます(^^;

天照大神がどこかで戦っているとき、素盞鳴尊が攻めてきたのであわてて「岩戸砦」にもどる途中で剣を落とした。

その剣をどこかの部族が拾って持っていた(それが八岐大蛇部族、アシナヅチ族の敵対者)。
素盞鳴尊はこの部族を倒してその剣を得て、後に天照大神に恭順したときその剣を返還した。
この剣は神剣として「岩戸」に保管されていて、噂を聞いた神武は宮中に置いて布都御魂として宇摩志麻治命に祀らせた。

荒唐無稽・・どころかおおいにありえると思っています。

当時、大きく分けて3つの勢力があった。
アマテラス族(天之忍穂耳系文化や水稲を持つ先住者)とスサノオ族(箕子朝鮮系渡来者)、両者は抗争していた。
この間にあったのが縄文系の先住者で猿田彦族、アシナヅチ族、八岐大蛇族・・などいろいろ。
(後に土蜘蛛と称される人々もその部族のひとつ)

猿田彦はアマテラスに味方した部族のオサ(赤ら顔の血筋か)。
アシナヅチはスサノオに味方した部族のオサ(手足が長い→土蜘蛛系か)。


その剣が倭国争乱で失われずにすんだなら、崇神以降の石上神宮に残されている可能性は十分ありそう。
草薙剣が天叢雲剣と同じかどうかはおくとして、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が同型の剣を濃尾に運んでいる可能性も少なからず。
それが熱田の草薙剣ではないか。

玉籤集(江戸時代の神道書)に神官4,5人が密かに草薙剣をみたという記録があるんですね(^^;
長さ五尺ほどの木箱に赤土を詰めてその中に石の箱があり、そのなかの楠木の丸太をくりぬいた箱のなかに草薙剣が収められていた。
長さ二尺七、八寸、刃先は菖蒲の葉、元の六寸ほどは筋だって魚の背骨のごとくで色は白。

楠木を使っているので鉄剣ではないのが明らか(鉄は樟脳で錆びてしまう)。白銅剣ですね。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/09/mikumo04.gif
こんな剣だったのかも。

天叢雲剣も白銅なら海にポッチャンでない限り、どこかに存在しているのかも(^^)

続く(石上神宮と物部氏)


[802] Re[801][797][796]: 五十イソと彦ヒコ  神奈備 2004/07/11(Sun) 11:38 [Reply]
平成祭礼データの神社名の読みから
Ik 五十嵐神社(いがらしじんじゃ)
I  南五十沢神社(みなみいさわじんじゃ)
I  五十君神社(いぎみじんじゃ)
Ika 北五十里神社(きたいかりじんじゃ)
I  五十橿神社(いかしじんじゃ)
Igi 五十洲神社(いぎすじんじゃ)
I  五十鈴神社(いすずじんじゃ)
Ira 五十子神社(いらこじんじゃ)
Iso 五十猛神社(いそたけるじんじゃ)
I  五十猛神社(いたけるじんじゃ)

下記の玄松子さんの伊加奈志神社の参詣サイト
http://www.genbu.net/data/iyo/ikanasi_title.htm
によりますと、「五十嵐は、アイヌ語のインカラウシュが日本語化したものだといい、
その意味は、見晴らしのきく場所。」とのこと。

> 五十をイカと読む地名
どちらかと云えば、「イ■」●●との発音があって、このイ■に五十を宛てたと云う程度のことかも。

[801] Re[797][796]: 五十イソと彦ヒコ  かたばみ [Mail] [Url] 2004/07/10(Sat) 07:31 [Reply]

≫五十さんが忍坂に納めるとか、イソノカミ神宮へ納めるとか

発音記号ではなさそうな漢字は、事象の絞り込みに重要と思います。
翻訳者のもつ情報量と感性(心理分析(^^;)がどうであったかの問題がからんできますけれど。

例えば猿田彦。
猿、古事記では「ケモノヘン+爰」(伊勢本は猿)で、佐留でも左流でもないですから古事記は最初から動物のサルの意で猿の文字を用いていると思います。
(字訓によれば猿は山の神の使者)
ならば、猿はサルであって他の「似ている発音」とは無関係となるでしょう。


北陸新潟には五十をイカと読む地名が少なからずありますが、五十日足彦命を祀る社が散見されるのでその関連かもしれない。
五十嵐さんも同様、イカタラシ、イカラシ、イガラシ(^^;

これらの地名がいつ登場したかがありますが、書紀の「五十」を例えば800年頃では「イ」とだけ読んでいた可能性がみえます。
だとすると、イをなぜ「五十」と2文字化したのか、その理由はなにか・・そうなります。



「彦」、毘古、日子などいろいろありますが、彦は顔に文身する意なんですね。
顔に文身した絵のある土器もでてるし、だれそれ彦というのはそういう人物を意味するのかも。
http://www.katch.ne.jp/~anjomuse/tenji/jinmenmon/jinmen.htm
出雲神族中にもヒコが少なからずありますが、氏族混合が進んだための登場かもしれない。
(書紀がヒコを彦以外にしている例はたぶんない)

そして、彦も五十と同様に応神以降でぱったり消えます。
応神以降で支配者の文化が変化したためにこれらが使われなくなったのではなかろうか。
(倭姫系の名も短くなって景行以降で消えてしまう)


顔に入れ墨するのは縄文と呉に引っ越した周の呉太白の文身鯨面。
海人系の入れ墨は腰とか足のはずでちょい違う。
魏志韓伝に鯨面はでてこない。

大屋彦など伊弉諾伊弉冉神から生まれたとされる中にヒコがいますが、このあたりは縄文流かなあ。
(猿田彦も縄文流だろうな)
五男神のなかに天津日子根命と活津日子根命がいますが、五男神グループは数百年ほどの幅での渡来人を取り込んでいて、天之忍穂耳や天穂日はその最新版とみています。

で、天之忍穂耳はミミでヒコじゃない。
耳あるいは彌、見、ミ、のグループは大綿津見神、大山津見神、迦具土神などのグループにぞろぞろ。
これも源は相当に古そうで、春秋時代の呉越付近からいろいろ大勢がやってきていたのではないかなあ。

耳が大きいということだけではなく大きな耳飾りをぶらさげていたから、の論がありますが賛同。
先の鯨面の土器絵でも耳飾りをつけているとみえます。
縄文系の耳飾りは弥生では出土していないようですが、福岡県春日市の土壙墓から胸と頭の左右に相当する部分に200個ほどのガラス玉があったそうです。

磐余彦火火出見尊、神武さんはヒコとミが両方ある。
いろんな飾りをぶらさげてペインティングしたたロックグループのひとりといった風体か(^^;

で、神武の子の綏靖、安寧ではヒコがなくミミだけ。
しかし安寧の子、懿徳等で再びヒコが登場し孝昭以降ではヒコだらけ(^^;
文字の使い分けが正しいのなら、支配者の意識あるいは人脈が反映されていると思っています。


[800] Re[799][798]: 母音+S+母音  大三元 2004/07/07(Wed) 21:37 [Reply]
> これに、タ行もからむ。発音の差、聞き取りの差、地域の差ですね。

ですねぇ。発音が揺れていた。それを漢字に写し取るのに漢字音の理解も揺れていた。などと考えると、シロートの(学者がやることも多いが)語呂合わせも出発点としては大事なんだろう、と思います。それを如何に説得力あるものに仕立てるが、これが勝負

[799] Re[798]: 母音+S+母音  神奈備 2004/07/07(Wed) 20:29 [Reply]
これに、タ行もからむ。発音の差、聞き取りの差、地域の差ですね。

既出かと思いますが、母音+タ+K+母音の神社名。
愛宕神社(あたごじんじゃ)京都市
伊太祁神社(いだけじんじゃ)愛媛県宇摩郡土居町土居273
うたき 沖縄
エ!?
意多伎神社(おたきじんじゃ)島根県安来市飯生町679

[798] 母音+S+母音  大三元 2004/07/07(Wed) 10:03 [Reply]
あさ あし あす あせ あそ
いさ いし いす いせ いそ
うさ うし うす うせ うそ
えさ えし えす えせ えそ
おさ おし おす おせ おそ

かなりの数のものが有意義で、かつ何となく関わり合ってるようです
気のせいか

[797] Re[796]: 五十イソ  神奈備 2004/07/06(Tue) 14:35 [Reply]
> 孝霊紀、十市の縣主の五十坂彦とその娘の五十坂媛

孝安紀ですね。整理しますと:−

    娘の父親    娘=孝安の皇后
本文 天足国押人命?    押媛   ?は孝霊紀による
一云 磯城県主葉江     長媛
一云 十市県主五十坂彦   五十坂媛

『古代倭王朝論』(畑井弘著)では、これから、押媛=五十坂媛を抽出し、五十のハングルがo-sipだそうで、これが”押”になっていると説いています。長媛はどうなったの?

> 垂仁紀、活目入彦五十狹茅尊、その子の五十瓊敷入彦命(景行の兄)、五十日足彦命
五十瓊敷入彦命は茅渟の菟砥の川上で剣一千口を作ります。
本文 石上神宮に蔵む。
一云 忍坂邑へ蔵む。後に石上神宮へ遷す。

 五十さんが忍坂に納めるとか、イソノカミ神宮へ納めるとか、五十、押、忍、イソの流れは何となくあるのかも。

[796] Re[795][793][791]: 五十イソ  かたばみ [Mail] [Url] 2004/07/06(Tue) 00:04 [Reply]

書紀での五十をもつ人名と地名です。
単純数字とみえるのは除きます。

五十猛命、媛踏鞴五十鈴媛
 少彦名と大己貴命が出会う出雲国の五十狭狭の浜
 武甕槌命と大己貴命の出会う出雲国の五十田狭の浜
 猿田彦の五十鈴川

孝霊紀、十市の縣主の五十坂彦とその娘の五十坂媛
孝元紀、孝元の子の彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)(同列に倭迹々日百襲姫がいる)

崇神紀、御間木入彦五十瓊殖尊、その子の彦五十狹茅命、五十日鶴彦命
垂仁紀、活目入彦五十狹茅尊、その子の五十瓊敷入彦命(景行の兄)、五十日足彦命
景行紀、その子の五十狹城入彦命、五十河媛
仲哀紀、筑紫の伊覩イトの縣主の五十迹手
神功紀、忍熊王の家臣?の五十狹茅宿禰
 難波を目指す途中で祭祀を行う海上五十狹茅
 伊勢國の度縣の拆鈴の「五十鈴の宮」(撞賢木嚴御魂天疎向津媛命が坐す)

孝徳紀、犬養五十君
天武紀、近江の武将の犬養連五十君

人名に五十を用いるのは、出雲系と孝霊孝元、崇神〜景行(仲哀)、だけといってもよく、応神以降ではぱったりと消えて、例外的に犬養氏がはるか後に再登場。
(犬養氏は度会氏等と同系の神魂尊流か海神系の安曇氏流のどちらかとみえる)


古事記でこれを「イ」としていたとするならば、「なにかの事象」を「イ」と称していたためで、書紀はその原義を知った上で「五十に翻訳」した、とみるのが妥当じゃなかろうか。

その原義、それが麻ソであり、さらに踏み込むとそこに五イ(巫)があるのではなかろうか。


≫五瀬と伊勢については、拙著『古代史料に見る縄文伝承』P18にても指摘した。

著作を拝見していませんが・・私の発想のベースは以下です。

神武の兄とされる五瀬命の五瀬は日向の五ケ瀬川(昔も五ケ瀬川ではないと思う)からの名とみています。
神武の妃の媛踏鞴五十鈴媛の五十鈴も日向の五十鈴川に由来するとみています。
五瀬命が神武時代の日向の主で、末っ子?の神武は霧島山麓の狭野にあった・・

これらが表の方に書いた天孫降臨と猿田彦と重なります。
そういった状況があったとすると、
高千穂(≒天)と日向(地)をつなぐ五ケ瀬川→五瀬→伊勢
これが私の発想です。


[795] Re[793][791]: 五十イソ  かたばみ [Mail] [Url] 2004/07/04(Sun) 21:30 [Reply]
≫漢字の意味に引きずられているように思います。

着目点は・・中国文化どっぷりの時代で、明治時代と似たような状態が起きている、これを逆用できるのではないか、です。

漢字のもつ奥深さに気づく時代でもあろうし、渡来系の学者も参与しているかも知れない。
その一流の学者が編纂するとき、漢字本来の意を重視して「漢字に翻訳」される可能性が大きいとみるのです。
(学者の自己満足的行動を含む(^^;)

書紀は未熟かもしれないが表意文字の文章であって、重要なのは漢字の意味のほうではないか。
(本当は当時に主流であった辞書をチェックすべきなんだけど)

表意だとどうしてもアナログ系の解釈をせざるを得ませんが、ツボにはまれば深く掘り下げることも可能と考えています。
ただし、学術的文献と民の文化は別ですから、民の文化ではその影響は少ない、そうも考えています。
中央であっても書紀内容と直接関係のない地名などへの影響も少ないかもしれません。

アンチ唐文化であろう菅原道真の著作などとの比較も面白そうなのですが・・なかなか(^^;


古事記との関係はむずかしいですが、遣唐使に持たせていませんから力を注いではいないでしょうね。
原形があるなら原形から「漢字への翻訳」が行われていないのが古事記なのかもしれない。

書記の内容に合わせた修正が必要でしょうから、書紀が推古紀を完成させるより早く完成することはありえない。
公開されるのも書紀完成と大差ない時期になると思います。
これは出雲国風土記や豊前豊後など書紀内容と直結する地域の風土記でも同じと思っています。



高句麗文化の影響だと、最古は八千矛神が馬に乗る記述かなあ。
これが事実なら、出雲のある時代(持論がらみになる(^^;)にそれが生じている可能性ありとみています。
あとは高句麗滅亡以降の避難民ですね。
人の住んでいなかった場所へ渡来人が住む、そういう場合はその周辺に高句麗系の地名やいいまわしが登場し、それが広まることは少なからずあると思います。


春秋左伝にとりかかろうかと思って準備中です。
(弥生初期文化へ影響大であったろう春秋時代のいろいろを記す)

稲、古呉越語でineなのだそうです。
呉の稲を左伝は「依緩」と音表記しているらしい。(北方系の言葉とのロゼッタストーン)
同様に塩シホ、肉シシなどがあるようで、そのつもりでチェックすればもっとあるんじゃないかと思っています。


[794] Re[792][791]: 五十イソ  かたばみ [Mail] [Url] 2004/07/04(Sun) 21:23 [Reply]
≫マヤクとされている「大麻」については、実際にはとても有用だそうで

そこです、本命は(^^)

五イはなにかというと、五のもともとは数字ではないんですね。
上下二本線の間に×をいれた文字、それが五。
なにかが交差するの意。類似は「互」のようです。

平面的にみた場合は道の交差かなあ、交易所ができそう。
立体的に見た場合は天地の交差点、巫を示すか。(巫の文字もその意)
大麻の効果を知らないシャーマンがいるはずもない(麻は世界中普遍)。

これが数字の5の意になるのは、指折り数えて5で折り返す(交差)するからといった論や算木とか易からというのがありますが・・ややうさんくさい気もする(^^;
指折りのほうが無難かな。
まあ、4までは棒4本でいいけど5以上は工夫が必要で五の文字が使われた。

交差する場所に麻がある、がイ・ソの原形とみることができそうです。
「五十」の源は巫者を意味する可能性もあり。


書紀など大量の五十がでてきますが、これをイソと読むのは年齢だけで、他はみなイとしていますがなぜ??
数だとしてもイだけでは十が無意味になってしまう。


まるっきり別の話
高地性集落の話があったので以下に年代別のその推移の分布図
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/iseki_ks.png

1:大事件勃発、瀬戸内に警戒警報発令。
2:瀬戸内防衛線が突破されて、防衛線は大和周辺に後退、東海にも防衛線。
3:大和陥落で残存勢力は日本海沿岸など各地に散った・・


[793] Re[791]: 五十イソ  大三元 2004/07/04(Sun) 10:55 [Reply]
かたばみさん

10が「ソ」とか「ト」とかになるのは、背景的には和語の「t」や「s」の一部は「ts」に遡るのではないか、という論説が参考になると思います。イタサとイササ;國のトコタチとソコタチなどが実例で、これらはtsからtになったりsになったりしたもの、という考え方になります。つまり「ソ」と「ト」は共に「ツォ」みたいな音に遡る同源の語か、ということになる。

> 10で一区切り、ひとまとめの意をもってソ。
> 十の文字には束ねて紐でくくるといった意味があるようです。

漢字の成り立ちとしてはそういうことのようだけど、漢字が入る前から日本列島の少なくとも一部では「ソ」が10の意味だったと考えます。(つまり、十という字を記紀などに見て、それに「まとめる」という意味付けをする「必要」がないだろう、という意見です。)

> そこで・・一百をモモ・ソとし、それを百襲と表記するのが倭迹迹日百襲姫だと思います。

『日本書紀』の「襲」に相当するところは『古事記』では「曽」、この「曽」は乙類。「十」が「ソ」の甲類。襲=曽=乙類なら、これは「十」を意味しない。(実は『日本書紀』の「百」が『古事記』で「母母」となっている。100は「モモ(甲類)」だから「毛毛」とならねばならない。『古事記』の甲乙弁別が信用できるのか疑わしいと思ってる。)拙著『古代史料にみる縄文伝承』P176〜

> 山田五十鈴(^^;とか五十鈴川は本来はイソなのだが語呂が悪いのでイだけになっているだけではないかな。

これも、イソスス(ミ)あたりが原型だろうと思ってる。(参考:ミホススミ)
> 単純にたくさんの鈴の意とみます(なんの鈴かが問題ですけど→小銅鐸(^^;)。
ススミなら烽の意味だそうだ。烽はトブヒとも呼ばれる。

「五十鈴依姫」を「イソ鈴ヨリ姫」と理解すると「糸織姫」と同語・類語(「鈴」は抜けてるけど)になることは拙著『初期天皇后妃の謎』P52〜に論じた。

「迹迹日」「飛羽」あたりに引かれてここに「烽トブヒ」と見ようとするのは「日」が甲類、「火」が乙類であることが妨げになる。

> なお、伊勢=五瀬イセの可能性大とみています。

五瀬と伊勢については、拙著『古代史料に見る縄文伝承』P18にても指摘した。

> 日向の五十鈴川と五瀬川、ペアで揃い踏み。
> > なお、石や磯は全く別物の「イソ」とみています。

石や磯 と 十 は別物、ということでしょうか。そりゃそうだ、と同意しますが、五十 を意味するのに石や磯の字を使うことはあり得ると思ってます。

> 青草です。
> イ・ソにはもっと深い意味があるかもしれないと思っています。
> 崇神:御真木入日子印恵命(古事記)→御間木入彦五十瓊植尊(書紀)

「植」は「殖」ですね。それはともかく

> 瓊植、宝を植えるに注目しています。植える??

漢字の意味に引きずられているように思います。
私説はアイヌ語 iso が「幸(さち)、獲物→海の幸、山の幸」を表すことをベースに「五十瓊殖」を iso nuwe と解いて 海山の幸が・豊富 という概念に結びつけています。同様に垂仁の「五十狭茅」はイソサチで iso-iso つまり、「幸・幸」と解することになります。イソニシキさんの兎砥川のことを先代旧事本紀では「幸河」としているのも力強い傍証。ここらの一連は『縄文伝承』p14〜と『初期天皇后妃の謎』P145〜ご参照。

> 書紀はなぜイソであろう五十の文字を使うのか。
> これをイと読むのは古事記がイだからにすぎないのでは。

そう思います。古事記と日本書紀を整合させて読もうとでもしたからでしょうか。

もともと「イソ」と読んでいたのだが、後に「イ」だけになった、『古事記』はそれを反映している、という見方が出来ます。(脱線しますが、このことや、上に書いた「百」に相当するところに「母母」とあるのが仮名違いになっていることから、『古事記』は『日本書紀』より後のものか、とまで考え始めています。)

> 書紀編纂者はイ・ソのつもりで使っているのではなかろうか。
> (ホツマツタエではヰソニヱですが・・根拠が不明なのでパス)

五に相当するのが「ヰ」ですか。それは面白い。今、高句麗語地名から抽出された高句麗語が和語と対応する例、というのを照査しています。高句麗語の 于次 (カナで書けば、ウツとかウチあたりか)が5の意味で、これが和語の「イツ」に対応している、というのです。「于」は中国では Hui(Hは「h」の左側の縦棒が上へ伸びて「~」のようなものがついている発音記号)であり、この音は和語では「ワ行」に対応しているようです。つまり、高句麗語 于次 と和語「イツ」が対応するよりも「ヰツ」という語を想定するのが原型(高句麗語)に近いように思えるからです。(『高句麗語の研究の勉強』は http://www.dai3gen.net/kg0.htm  )より。

[792] Re[791]: 五十イソ  神奈備 2004/07/04(Sun) 08:48 [Reply]
 ソを麻とされる観点は興味津々。それにしても、初期の大王の名前にまで登場する麻とは何だろうか。マヤクとされている「大麻」については、実際にはとても有用だそうで、それ故かどうかですが、神宮大麻のお札も売られています。

 おなじみの谷川健一著『青銅の神の足跡』には、麻と金属採取のお話が出てきます。小学館文庫p184のあたり。神が降臨の際、麻で目を傷つけたとか、麻苧で金屋子神が転んだとか、サやソには砂鉄の意味がありそうだとあます。

 初期の大王の名前は麻を植えた牧歌的なものより、武器や土木器具の材料となる鉄の確保が権力の源泉だったはず。そう言う目で、かたばみさんの論考は興味津々。

 五十猛命の鎮座する紀の国の枕詞は「アサモヨシ」で、朝餉の準備をするとか、いろんな良い物がとれるが麻もよろしいとか、麻にからんでいます。この五十猛の猛はタケと読むようで、島根県大田市五十猛町の氏神さんは五十猛神社で、イソタケと読みます。岡山、大分もイソタケ。福岡市西区はイタケルと読みます。五十の訓のイソを古型とする場合、猛はタケがよろしいかと。
 戦前、日本武尊はヤマトタケノミコトだったとか。

[791] 五十イソ  かたばみ [Mail] [Url] 2004/07/03(Sat) 23:06 [Reply]

五十はイ・ソが本来ではなかろうか。八十ヤソも同じ。
10で一区切り、ひとまとめの意をもってソ。
十の文字には束ねて紐でくくるといった意味があるようです。

十河ソゴウという人名、十郷ソゴウという地名が香川県にあります。
数の10ではなく、ひとまとめにするといった意だと思います。

十市トオ・チ、の場合は10という数なのでソではないのでしょう。
古事記では十二道をトオ・マリ・フタ・ミチと読んでる(なぜそう読むとされているのかは不明)。
十余りの二でしょう。これは区切りじゃなくて10という数。

あるいは一百六十八歳をモモチ・アマリ・ム・ソ・ヤツ、ここでのムソは10の束が六つだからソ。
そこで・・一百をモモ・ソとし、それを百襲と表記するのが倭迹迹日百襲姫だと思います。
百襲は100ではなくて、なんらかのうんとたくさんの束ないし区切りの意。

山田五十鈴(^^;とか五十鈴川は本来はイソなのだが語呂が悪いのでイだけになっているだけではないかな。
単純にたくさんの鈴の意とみます(なんの鈴かが問題ですけど→小銅鐸(^^;)。

なお、伊勢=五瀬イセの可能性大とみています。
日向の五十鈴川と五瀬川、ペアで揃い踏み。

五十猛命、イタケル、イソタケル、二通りあるようですからイタケルはイ・ソ・タケルの省略型。

なお、石や磯は全く別物の「イソ」とみています。


青草です。
イ・ソにはもっと深い意味があるかもしれないと思っています。

崇神:御真木入日子印恵命(古事記)→御間木入彦五十瓊植尊(書紀)
瓊植、宝を植えるに注目しています。植える??
書紀はなぜイソであろう五十の文字を使うのか。

これをイと読むのは古事記がイだからにすぎないのでは。
書紀編纂者はイ・ソのつもりで使っているのではなかろうか。
(ホツマツタエではヰソニヱですが・・根拠が不明なのでパス)

書紀編纂者はイソであるべきを知っていたから五十としたのではなかろうか。

万葉157
神山之 山邊真蘇木綿 短木綿 如此耳故尓 長等思伎
三輪山の山辺真麻木綿短か木綿かくのみからに長くと思ひき

三輪山の山麓には麻がたくさん栽培されていた可能性がみえます。
本来はイ・ソ・ニエで、たくさんの麻を植えた、ではないのか。
(類似に孝昭/観松彦香植稲尊があります、香米を植えたの意とみています)

垂仁:伊久米伊理毘古伊左知命(古事記)、活目入彦五十狭茅尊(書紀)
同じくです。茅の原を麻畑にした。

五十猛命、イ・ソ・タケル
麻は中央アジア周辺が原産のようで素盞鳴尊グループがお得意にしていておかしくないです。
これが後に大屋彦命の温暖系植物を植える伝承と混じり合って五十猛命の植樹伝承が生じた可能性あり。

「ソ」は、ソ(麻、大麻、苧麻カラムシ・・)、アカソ(アンギン織りなど)、コウゾ(木綿ユフ、タク布の原料)で縄文からの重要植物。
衣食住、どれが欠けても不可です。

ソは数を表すのではなく麻を栽培し束ねる意だったのではないか。
これと束ねるの意の十の文字が重ねられたものが十=ソの源ではないか。
(穀類ではありません、当時の穀類は穂だけを刈り取っています)

ちなみに山本五十六の出身は新潟県長岡市。
今は米ですが明治までは麻の産地・・麻の畑が六つ・・まこれは冗談。


[790] ocnからつながりますか?  神奈備 2004/07/03(Sat) 19:52 [Reply]
小生の尊敬する友人がHPを立ち上げました。
関空近くにお住まいです。

http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkcwx505/index.html

西宮のocnを使っておられる方がどうしてもつながらないそうです。単純ミスではなさそうです。
皆様、いかがでしょうか?

[789] Re[786][785][761]:十三湊 六ヶ敷ク是レ有リ候  神奈備 2004/07/02(Fri) 09:55 [Reply]
> 五瀬はやはりイセで良い、これはアイヌ語の兎(ise-po)に繋がり兎砥川と絡んでくる。

兎砥川と云うと、宇土墓にねむるとされる五十瓊敷入彦命の名とともに裸伴の剣1000本が思い起こされます。

http://www.dai3gen.net/akahada.htm
http://www.kamnavi.net/en/izumi/fuke.htm

そうすると、五十瓊敷入彦命の五十はイソであってほしい所、しかしこの命は『古事記』では印色の入日子命であり、同じように垂仁天皇は『日本書紀』では五十狭茅の部分が『古事記』では伊佐知。記紀の編纂局のメンバーには、「五十」は「イ」と理解されていたと言えるのかも。

その頃でも、伝承は縄文語で語られていて、それが採録されていて、つじつまがちょっとあいにくいところがあったのでしょう。五瀬さんは男里にからにますし、男里には兎砥川が流れていますが、これとは五十瓊敷入彦命も大いにつながっています。

[787] Re[786]:デマかせ、ですが  恋川亭 2004/07/02(Fri) 01:10 [Reply]
> 五十はイソ、五はイ、が本来であろう、、、ってな具合に考えております。

あ、心強いお言葉。普通に仮名って、イヤ、叶ってますもんね。
調子に乗って、でまかせの脱線をひとつ。
古語で星を示す言葉「ツツ」は、夕星「ゆふづつ」程度で、あまり見かけない。という話しを聞いたことがあります。ならば・・・と、愚考。
「ひツツ」「ふツツ」「みツツ」「よツツ」「いツツ」「むツツ」「やツツ」
一番星からはじめる夕空数え唄。八つを越える頃には多くなりすぎて「ココノツ・トォーッ」(本人も意味不明)・・・イヤハヤ青草以前でした。<(__)>


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