青草談話室ログ平十六年 十一月
2004.8.13
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[1006] 無題  QUBO 2004/11/29(Mon) 07:20 [Reply]
Re[1004] 神奈備 様
金光坊の渡海失敗以降は、亡くなった住職を舟に乗せ
流したようです。金光坊島とか名が残るんだから、
周りの人々にとっても強烈な印象だったのでしょう
Re[1005] かたばみ 様
しまった!失礼しました。
以前の993、978、何故か見逃してました
青草な話ですが、ライオンと豹は交接、子を産むことは
可能(確か生まれた子がレオポン)だったですよね
ガラパゴス島にも、海イグアナと陸イグアナの間に
新種のイグアナが生まれてる。
そんな意味ではホモ・フローレシエンシスの遺伝子
今に残っていてもおかしくは無いと思うんです

[1005] Re[1001]: 小人伝説  かたばみ [Mail] [Url] 2004/11/26(Fri) 19:40 [Reply]
ホモ・フローレシエンシス、以前の993、978にも登場ですね。
当初は突然変異の可能性ありとみていましたが、7体分のようで突然変異ではなさそうです。
地元の伝承に、小さい人々が洞窟に住んでいて、(一般住民が)ひょうたんに食べ物をいれて置いておいた、というのがあるらしい。
http://hotwired.goo.ne.jp/news/print/20041028302.html

ヨーロッパにもアジアにもアフリカにも小人伝説や巨人伝説があるわけで、雪男などの伝承になんらかの根拠がある可能性が高まりそうです。


縄文人が小柄というけれど・・
江戸東京博物館によると、江戸時代の男性の平均身長は155cm〜158cm、女性で143cm〜146cmなのだそうです。
縄文人と同じ、確かに甲冑などをみてもずいぶん小さいと感じます。

徳川将軍代々の場合は
http://www5f.biglobe.ne.jp/~simarisuko/hone.html
こちらもほぼ同じ結果で脳味噌容積にずいぶんばらつきがある。
脳味噌は中身の濃さが問題なのかな(^^;

鎌倉時代の方がわずかに身長が大きいようで、肉食の関係か??

それがたかだか300年で現在の男性170cm、女性158cmの巨人になった。
顔つきも明治あたりから見るとずいぶんと細面になっているそうですね。
みかけだけで種族が違うとみるのはいささか危険かもしれないです。


http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/joumon_youshi.png
一昔前の縄文人のイメージとは別物(縄文学への道/小山修三より拝借)。
目鼻立ちくっきりが強調されすぎともみえますが、服装や髪型には根拠があるそうです。
図は大型の生地(皮)に切り込みを横にいれる貫頭衣型(ポートネック)。
縦に切り込みをいれるとVネック、胸元で重ね合わせれば和服型。


[1004] Re[1003]: Re[1002]  神奈備 2004/11/26(Fri) 17:18 [Reply]
> 出入り口は全て釘で打ちつけ封鎖、30日分の水と食料を持って船出したようです。

 五来重氏の著書で読んだような気がするんですが、殆どは既に死んでいた坊さんを船に乗せて送り出したとか。要は生きていると仮定すれば成り立つお話。
だから、本当に生きている坊さんはジタバタかも。

[1003] Re[1002]  QUBO 2004/11/25(Thu) 15:47 [Reply]
四方が鳥居ですね。判りやすいのは下記HP
http://www.town.nachikatsuura.wakayama.jp/kanko/fudaraku.html
「屋形の四方に赤い鳥居と、神社のような斎垣(いみがき)をめぐらせていた」
補陀落(ふだらく)渡海舟、復元されたものが補陀落山寺に。
http://osaka.yomiuri.co.jp/katati/2004/040126.htm
出入り口は全て釘で打ちつけ封鎖、30日分の水と食料を
持って船出したようです。中には信念を持てなかった人もいて、
金光坊さんは脱出を図って近くの島に流れ着いたようです。
で、それを見咎めた人達に無理やり海中に入れられ殺されてます。
金光坊 渡海できずに 名を残し

[1002] Re[1000][999]: 科野と信濃  かたばみ [Mail] [Url] 2004/11/25(Thu) 00:09 [Reply]

≫熊野から捕陀洛渡海する船や神輿がそうです

四方が鳥居ですか、結界か何かのシンボルかなあ。熊野もまた時代ごとの変化がむずかしそう。
記憶のは3方が壁で1方に鳥居だったです。

≫三名の役人を信濃に派遣して行宮を作らしています

書紀天武天皇14年、天武天皇在位最後の年。
信州は太平洋戦争末期の大本営の避難場所(^^;

仁科濫觴記の「天武天皇白鳳2年」の神社創建に関する伊勢からの神人来訪、という記事に相応しそう。
白鳳、逸年号ですね。研究者の資料になりそうです。

当時に複数の年号が存在したことを示す記事のひとつで、その他の逸年号資料から見て白鳳は天武673-685が用いた年号であった可能性が高いと思います。
だとすると書紀はなぜこれを無視するのか・・

そして孝霊、孝元、開化で使われた「倭根子」の尊称が天智の娘の元明707-714から再登場(日本根子)。
書紀はその時代に編纂されている、さあて面白いところであります(^^)


≫別の天皇だったとの推測をしています。当否はともかく、示唆に富む面白い本でした

女帝の登場には裏がありそうですね、系譜もあっちこっち飛んでわかりにくくてしょうがない。
中丸薫氏・・さてなあ、「闇の権力」にみんなつながってしまうとなあ・・(^^;
読んでみようかみまいか。


[1001] 小人伝説  QUBO 2004/11/24(Wed) 11:17 [Reply]
ホモフロレシエンシス
今年10月28日、ネイチャー誌に発表
インドネシア・フローレス島・リアンブア洞窟発見される
発見された洞窟の地層から38000〜18000年前の新種人類化石。
このフローレス人と名づけられた固体は、
成人でも身長1m。脳容積は380立方センチ程度。
ここまで真実

ここから青草
この人々仲間は海に進出、黒潮に乗って日本に漂着
成人の身長が1mならば、子供が50cmでも不思議はない

原住民と競争すれば殺される。
比較的原住民の住んでいない所に暮す・・・
コロボックル、ざしきわらし等の伝説が残った

[1000] Re[999]: 科野と信濃  神奈備 2004/11/21(Sun) 13:41 [Reply]
> 四方を囲んで鳥居があるのを見たのですが
熊野から捕陀洛渡海する船や神輿がそうです。動くご神体は四方鳥居と云うことか。

> 信濃
天武天皇十四年冬十月 紀
三名の役人を信濃に派遣して行宮を作らしています。束間の温泉に行こうと思ったのかと編者は推測しています。
神仙境と見なして遷都を考えたとの話があるとか。


> (斉明天皇、いろいろ要注意の人物とみてます(^^;)

明治天皇の孫に当たる中丸薫さんの『古代天皇家と日本正史』にも、皇極天皇紀に大化の改新の事件が書かれているので、「私は知らない。何事なのか」と中大兄に聞いた天皇を皇極天皇と思いこんでいるが、母親天皇が息子の皇太子の前から逃げ出すはずもなく、別の天皇だったとの推測をしています。当否はともかく、示唆に富む面白い本でした。

[999] 科野と信濃  かたばみ [Mail] [Url] 2004/11/20(Sat) 01:01 [Reply]

古事記での最古は建御名方命が逃げた国として科野国が登場。
ついで神八井耳命の後裔として「科野国造」が登場(小子部も神八井耳命の後裔としている)。
ついで日本武尊の「信州征討」で登場。

神八井耳命の後裔→多臣族オホは「表舞台」には登場しませんが、神武系と出雲神族系の合体氏族とみています。

書紀で景行紀から持統記まで国名として信濃が何度も登場します。
科野は欽明紀で半島系人物の名に登場し、斉明紀で科野国が登場します、しかしそれだけです。
(斉明天皇、いろいろ要注意の人物とみてます(^^;)

科野を用いるのは出雲系(半島系含む)、信濃を用いるのは天孫系とみえるのです。
(欽明539-571から斉明655-660での信州でなにかあった可能性あり)

シナは坂とか上下を意味するようで品、科、階が同義らしい。
科野=そういう野原・・無難な解釈かもしれない。
しかし、古事記が使う文字を意味でとらえるだけでよいのかいささか疑問があります。

書紀が信濃と科野を使い分けているのはなぜか。
シナノの国名ひとつにも記紀には書かれていない流れを見分けるキーワードが潜んでいると考えています。

仁科濫觴記の編者(あるいは写本者)が記紀を読んでいないはずがない。
地元の人でも源がわからず、これではどうじゃ、が「指南奴農の国」なのかも(^^;


[998] Re[996]: 仁科濫觴記  かたばみ [Mail] [Url] 2004/11/20(Sat) 00:49 [Reply]

仁科氏族の出自などを含めると、桓武平氏や清和源氏の後裔が安曇あたりに根拠を構えた時代に原形ができた可能性が高いとみています。
平安末期〜鎌倉初期あたりか。
しかし、何度も「現代語訳」の写本がなされているでしょうね。

なお、「仁品王」はニホムオウ(呉音)で日本と聞こえるので、遠慮して後に仁科と書かれるようになったと仁科氏は書いています。

≫> 九頭子に河泊司を命じ
≫九頭はここでも水を司るようです。

卵が先か鶏が先か、むずかしいところ。
「河泊」の役職名が当時にあったかどうか知りませんが、文字は「河伯」であっただろうと仁科氏は書いていますが、私もそう思います。

河伯は中国神話に登場する黄河の神、禹が治水をおこなうとき「河図」を献じたとされます。
白竜に変じて悪さもして、婦女の人身御供を毎年要求したそうです。

河伯転じて日本では河童か、「童」に置き換わるのが日本独自なのかもしれない。
カッパのイメージの定着、黄桜のおねーちゃんは大柄だけど。


≫丹生、信濃は中央構造線が通っていますが、丹生が登場するのは解読が難儀。

やはり卵と鶏がありますが、丹生子も九頭子も同じ用法だろうなあ。
九頭子が治水の者、丹生子が水銀(採掘)の者の意味とみれば、小子部の栖軽のごとき背景が重なってきそう。
葛城氏時代と秦氏時代の特殊技能者、出雲系の人々の組み込まれ方も含めて容易ではなくなりそうです。

赤という色であるなら酸化鉄ベンガラで十分、どこにでもある。
白なら胡粉、高級品なら鉛白か。

水銀の主用途は仙丹と金メッキ(金箔)でしょう。
仙丹は不老長寿など秦漢文化の到来に始まって平安でピークに達したのではないか。
飲み過ぎでおかしくなった貴族が少なからずいただろうと思います。

金メッキは金銅仏や装飾品、平安の仏教興隆が重なって需要が急増しただろうと思います。
どちらも貴族階級のものですね。
したがって記録に残りやすく神社への影響も大きかったのではなかろうか。


≫養老元年に僧侶が葬式を司った記事が見えますが

持統天皇の火葬(702)などの火葬儀礼登場に関連するものと思います。
20年ほどで安曇にもその慣習が広まってきたことを示すものでしょう。

「門をたてて四方に垣をめぐらす」、火葬の状況の日本の図会で四方を囲んで鳥居があるのを見たのですが、どこだったかみつからない(鳥居のあることに注目)。
火葬の広まりが葬儀と寺と墓が連結してゆく源かもしれないです。

BC600頃、中央アジアのサカ文化圏(烏孫)の古墳に東西南北を壁で囲い、埋葬時に火が放たれているものがあります。
ヒンズーやインド仏教の火葬儀礼の源流にはゾロアスター教があるとみています。


≫指南奴農の国は信濃国
≫実に素朴な地名起源の説話でほほえましいですね

後世の学者が一生懸命解釈しても、もともとからそんな程度の呼称でアホらしなんてのけっこうあるかも。
素朴でないところを別項にて少々。


[997] 小子部チイサコベの栖軽スガル  かたばみ [Mail] [Url] 2004/11/18(Thu) 00:35 [Reply]

雄略紀や書紀に登場するスガル(書紀では虫果+羸の羊が虫の字)とはいかなる人物なのでしょうか。

雄略6年春3月、「蚕」を集めてこいと命じられたスガルは聞き間違って「嬰児」を集めてしまった。
雄略大王は笑って(原文:咲く、みまらぐ)その嬰児を養育せよとスガルに命じ、スガルを小子部連とした。
(岩波注:礼記に春に桑あるいは蚕の農業神事ありとしている)

普通なら罰せられるはずですが罰せられてはいません。
また、親のある子なら返すはずですが養育を命じているのは嬰児が孤児であったことをうかがわせます。

翌年に雄略大王は三諸山(三輪山)の大物主の神の姿がみたいといってスガルに捉えてこいと命じています。
スガルが捉えたのは光を放ち目を赤く輝かす大蛇で、畏れた雄略大王は殿中に逃げて三諸山に放してくるように命じ、後にスガルは小子部の雷の名をもらいます。


辞書にはスガルとはジガバチのこととあります。
万葉1979では春の野原のスガル、3791ではその腰が細いことを特徴とみています。
1738ではセクシーな女(遊女?)をスガルの娘子といっています。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/musi_ta.html
(高橋虫麻呂、上総の周淮の珠名娘子を詠む歌)

スガルの娘子、肌もあらわな当時のボディコン娘と推定。
http://www.iz2.or.jp/index.htm
こちらの日本服飾史はほとんどが貴族の服装、現代において礼服や背広だけみても民間のファッションは想像つかないですね。


日本霊異記での登場シーンが愉快です。
雄略大王が妃と寝所でねんごろの最中に寝所に入ってきた栖軽スガル。
大王は驚いてねんごろを中止(^^; バッサリ無礼討ちになって当然のところですが、お咎めなしで雷を捕まえてこいと命じられています。
雄略紀7年の記述の拡張版とみえますが、寝所に無断で入れるような人物が普通の家臣であろうはずがありません。

身分は低い、だが大王のプライバシーにも接することのできる人物。
身体能力に優れ、大王のけったいな命令も実行する。
スガルは大王直属の御庭番(^^; (スガル娘もひょっとして女忍者(^^;)

雄略大王がスガルに嬰児の養育をさせたこと、単なる孤児院設立ではないだろうことがみえてきます。
身体能力や特殊技能に秀でる者の養成を目的とするもの。

高所作業や土木技術もそのひとつ、現代なら鳶職といったところ。
薬の技も同じく、戦になれば衛生兵ともなる。
治療にからんで祈祷とか呪法に秀でる者もいたんじゃないか(後の阿倍清明等の祖先含む(^^;)。

それらの配下にはさらに様々な人々がいたはず(多くは人目につかぬ行動か)。
まだ子供なのに人を驚かす特技を持っていたりすれば、これらから怪力とか空飛ぶ童といったイメージが生じる可能性少なからず。

このあたり180種の勝スグリを率いることになる秦酒公ともからんできそう。
スグリとは特殊技能の持ち主のことだと思います。

珍、ウズでもあるでしょう、応神時代以降での最新文化(技術)の持ち主。
後の秦河勝を河の勝スグリとみれば、治水技術に優れていたゆえの名か。
雄略時代までこれらの人々を統括していたのが葛城氏、雄略に葛城氏が滅ぼされて新たな統括者となるのが秦酒公。


[996] 仁科濫觴記  神奈備 2004/11/17(Wed) 21:25 [Reply]
> 狭い地域での風土記といったところで、信用できると直感しています。

江戸時代かそれ以降に古文献をまとめたような言葉使いですね。
全体に素朴さが漂っていますね。

> 九頭子に河泊司を命じ
九頭はここでも水を司るようです。

> 布を織ることを指南し
指南奴農の国は信濃国
実に素朴な地名起源の説話でほほえましいですね。

> 丹生子の舎地は難期
丹生、信濃は中央構造線が通っていますが、丹生が登場するのは解読が難儀。

> 山頭に月残りて東雲紅して夜はほのぼのと明け渡る
唐詩選にあるような・・・

坊主と葬式
養老元年に僧侶が葬式を司った記事が見えますが、仏教の方はよくわかりませんが、その頃には葬式仏教だったのかな。

平安時代になると鬼退治が出てくるのは、治安の乱れと対応策、武士の登場を意味しているようですね。

> 天地九天ノ龍王等暴雨令降給エ
> テンチ キュウテンノ リウヲフ タチ ボウウ フラセタマエ

> 天ヂク テンノ リウ タツ ボウウ 降らせ給ヘナ

霊験は一緒。

[995] Re[992][989][987][985][981]:  九頭、九頭龍  かたばみ [Mail] [Url] 2004/11/14(Sun) 21:13 [Reply]

≫仁科濫觴記ニシナランショウキって、漫画的ですね。面白い
・・・
≫九頭龍として水神と繋がったのは修験道の影響もあるようですね。

興味のある方は少ないと思いますが、仁科濫觴記が誤解される書き方をしてしまった。
仁科氏の「安曇の古代」は仁科濫觴記に神社縁起や考古学やその他伝承を加えて安曇の古代を検証するものですが、九頭龍クズタツの話や仁科王はその検証に登場するもので、仁科濫觴記には書かれていません。

九頭龍(九頭太都)などはおっしゃるとおり修験や密教系からで、日本霊異記が登場するのと似た状況下のものだと思います。
(平凡百科によると九頭竜は密教の法具だそうです)


仁科濫觴記の出だしは、
「仁科の開祖をたずぬるに崇神天皇の末子の太子に仁品王あり、垂仁天皇の弟王子なり」
「その長臣に保高見熱躬と武内山雄のふたりがあり、多くの臣下をつれて降臨した・・」

その臣下のひとりに河伯の役職の「九頭子」なるものがいて干拓を行います。
この九頭子が他の伝承では九頭太都であり九頭龍にもなって登場するようです(それらの元伝承は知りません)。
建御名方命の干拓という伝承があるのも昔から治水に苦労していた地域だったからだ思います。

少日子建猪心命=仁科王の説(伝承?)は戸隠神社縁起などからのものなのでしょう。
(これらは手力雄命などとの混同とみえますけど)
系図綱要/太田亮によれば少日子建猪心命は開化や彦太忍信命の兄の位置に書かれています。


仁科濫觴記の弘仁2年(811)に雨乞い神事を行った記事があります。
童が現れて北へ飛び去ったうんぬん、「天地九天の龍王等暴雨令降たまへ」の祈祷・・雨降って村民喜ぶ。
「童」と「九天の龍王」の登場、811頃には修験あるいは密教の影響大となっているとみえます。
(これらを九頭子と関連づけてはいません)

また、日本武尊の「東夷」征討に呼応して軍を待機させた記事があり、勝利を神に謝して騎射を行い、これが野分射馬(流鏑馬?)のはじまりとしているのも面白い。

地名由来のひとつに越後の浜から塩を運んでいた千手足長なる人物が南方刀美命(建御名方命)の末裔で諏訪明神社を勧請した、なんて記事があります。千手足長・・ふーむ。


垂仁の兄の豊城入彦命は東国へ進出した最初の開化崇神系の王族であり、垂仁の子の五十日足彦命も新潟〜北陸に痕跡がありますね。
同時代に信州へも同族のだれかが進出していておかしくないです。
狭い地域での風土記といったところで、信用できると直感しています。


安曇氏が関連すれば海神の龍や金毘羅さん、あるいは水→弁財天の方向からも容易にジョイントしそうです。
本来は「人の技」(治水技術)からの登場で雨など自然神系ではなかったものが、あっちこっちからのなんだかんだで(^^; なにがなんだかわからなくなっていったのが九頭龍神じゃないかなあ。
地域によっては元からクラオカミなど水神系(たぶん自然神)があってこれに重なっていることもあるかもしれない。

九頭クズ、九頭子とはクシの者、クシの子ではないか。
漢方など薬草を集めて薬を作っていたのも「クシの者」じゃないか。
クス師は学者系かなあ、実技の職人だと知識の学者より地位はずっと低くみられるでしょうね。

葛クズは代表的な薬草、さて葛クズの語源は?
これらは少彦名命に代表されるクシの神(最新文化を司る、奇≒霊)に源がある・・まんざらヨタでもないと思ってます。


[992] Re[989][987][985][981]:  九頭、九頭龍  神奈備 2004/11/12(Fri) 11:56 [Reply]
> 九頭太都は水を司る九頭龍クヅタツとして戸隠に合祀
仁科濫觴記ニシナランショウキって、漫画的ですね。面白い。

> 少日子建猪心命
『日本書紀』では、屋主忍男武雄心命、そうすると、少日子=屋主忍男 ?
太陽の下で大地を開拓する大国主に対して、家を守りつつ、治療や酒りをする少名彦、陽と陰の対比。

葛の民、吉野の国巣は神武さん天武さんの時に出てきます。クズと云う場合、王権との争いはしていません。
所が土蜘蛛の場合、景行紀の神夏磯媛などを除いて、殺されてしまう存在です。まつろわぬ民を土蜘蛛、これは長随彦、兄猾、荒蝦夷。
まつろう民は葛と云うこと。久米部、弟猾、柔蝦夷。

陸奥国には久須志神社が鎮座、祭神は少名彦命、どうも九頭よりは薬師に近いのかも。
九頭龍として水神と繋がったのは修験道の影響もあるようですね。
http://www.kamnavi.net/jm/kuzukami.htm

[991] Re[990]: 少名彦命  かたばみ [Mail] [Url] 2004/11/11(Thu) 20:55 [Reply]

こちらの「奈良の昔話」の76(01年08月号 傳香寺その3)に小子部のすがるの話が書かれています。
http://www.mynara.co.jp/index.html
異伝もあるだろうとは思いますけれど。

平安あたりになるといろいろな尾ひれがついてくるようです。
日本霊異記は
http://www.geocities.jp/kyoketu/6603.html

http://www.norichan.jp/jinja/kenkou/hattoriten.htm
これは楽しみのひとつと思います。
元情報からなにを読みとって楽しむか、ですね。

なお京都の五條天神社については、若干を私のHPに書いています。
秦氏との関連が濃厚と推定もしています(楽しみのひとつです(^^;)。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/gojou/index.html

[989] Re[987][985][981]:  九頭、九頭龍  かたばみ [Mail] [Url] 2004/11/10(Wed) 20:23 [Reply]

九頭、クズ、クスでそのまま幸魂奇魂にフィットしそう(^^;
新文化をもたらした人々(祖先神)、九頭竜大神はそういう意かもしれない。

安曇の古代/仁科宗一郎にある仁科濫觴記ニシナランショウキ(崇神朝からAD820頃までを記したの地元の地誌)の記述から。

神八井耳命の後裔の五百建命が崇神時代までの国造であったが絶えたので、国人の安曇(穂高見命後裔)と九頭太都クヅタツ(手力雄命後裔)が崇神の孫の仁科王を請うて国の主とした。
仁科王は九頭太都に命じて「安曇湖」を干拓した。

九頭太都は手力雄命を戸隠に祀り、後に九頭太都は水を司る九頭龍クヅタツとして戸隠に合祀されます。
仁科宗一郎氏は戸隠神社縁起に孝元時代に九頭龍神を勧請す、とあるのがこれだろうといっています。
縁起の年代観がかみあっているかどうかが問題ですが、孝元天皇の子の少日子建猪心命が仁科王であるの論もあるようです。
(少日子建猪心命は小柄だったのだろうか(^^;)

出雲の崩壊は諏訪にも影響するはずで、国造が神八井耳命の系譜から孝元ないし崇神系の仁科王に変わるのがそれだろうとみています。

安曇の古代によれば、「安曇湖」の干拓を行った説(伝承?)の最古は綿津見神の子の宇津志金析命(安曇氏の祖)の説、次いで建御名方命とその子の建水別命の説があり、次が先の穂高見命(これも安曇氏の祖とされる)後裔の説なのだそうです。

仁科濫觴記にみえる九頭太都は孝元〜崇神時代での天孫系譜の土木技術者ではなかろうか。
当時の最新文化の持ち主。
クスの太都、九頭太都であり、治水の功から太都が龍に置き換えられて祀られたのではなかろうか。
(1人ではなく土木技術をもつ系譜がクスの太都なのかもしれない)

平成祭りデータによれば、九頭龍神を祀る社は長野から京都奈良から和歌山ですね。
それより西にはみあたりません。
この流れだと少彦名命ご本人との関係はみえず、クスという新文化が共通項ということになります。

九頭龍神社に建御名方命が祀られるのは安曇の伝承のひとつが表にでたものか。
安曇伝承の本家と見える戸隠神社では建御名方命を祀っていないのはその伝承にあらずとみてのことか。
豊玉姫など海神を祀るのは安曇氏の綿津見神からのもので、これに安曇干拓の九頭龍が海神の龍とジョイントしたものか。


なお、葛クズは薬草であり食糧であり、縄や繊維にもなるたぶん縄文からの重要植物。
葛をクズというのはクスからである可能性もありそうです。

だとすると薬草の方向から少彦名命がここにからんでくる可能性はありそう。
土蜘蛛とつながるかどうかはわかりませんが、葛など薬草を集める人々は山の民ということになるでしょうから、そのあたりに接触点があるかなあ。

葛の民がいかなる人々を示すのかわかりませんが、そういう人々であれば士農工商的格付けからは低く見られるかもしれないですね。
(サンカの祖は物部の支配下にあった手工業や山の民で、縄文系譜を少なからず含んでいたとみています)


葛カズラとする場合はツル草の総称のようですから、薬品とか食糧からは離れるのではなかろうか。
葛城、葛木はツル草の城といったところで文字は同じでも直結はしないんじゃないかと感じます。
賀茂は水神を介して九頭龍とつながるかどうかといったところかなあ。
賀茂さんはいまのところ手つかずですが、最新文化の伝達者であった可能性は高いとみています。


訂正のps
ヒコを先頭に使う名が神武以降にはないと書きましたが、いやいやたくさんある(^^; 崇神以降に訂正です。


[988] Re[986][984]: ヒコなどについて  かたばみ [Mail] [Url] 2004/11/08(Mon) 18:00 [Reply]

ヒコにはいろいろありそうですね。

字訓/白川静によれば
説文解字(AD100頃)の「美士、文あり。人の言う所なり」という説を記した上で、生まれたときに額に文身(彩色)を施す通過儀礼としての意を源とするとあります(産サンといい、文は死者に施す場合らしい)。

漢字生成が中国各地で異なるし、説文解字がすべてでもないですからこれらは専門家に頼るのみです。

また、国語ではアヤといい、生まれた子の額につける場合を「アヤツコ」というそうです。
彩アヤの子コだろうなあ。あやとりのアヤと同義じゃないか、紐や糸。
縄文土偶などにみえるうねうね紋様は衣服に紐を縫いつけるブレード装飾である可能性があるようです。
(民族衣装では普遍的な装飾らしい)

アヤはヒに対応するのだそうで、霊妙の意とあります。
アヤツコがいつ頃からのものかわかりませんが、置き換えればそのままヒコになる。
最近はあまりみないですが、お祭りで子供の鼻筋に白粉をいれるのはこのあたりかも。

また、ヒコを上につけるか下につけるかは時代によって異なるようで、上につけるのが古いようだとあります。
たしかに神武以降でヒコが上にくることはないようにみえます、神大市比賣などの「神」も同様です。
このあたりは言葉の根幹にかかわるものが変化している可能性を示しているのかもしれません。

書紀の彦は説文解字の「美士」の意もくんでいると思います、よい意味と解せますから。
(ただし、よい男に拡張解釈できるかどうかは?)
しかし、それだけだとすると、応神以降で「ヒコ」の呼称が消えるのはなぜか、になるわけです。
慣習(文化)の異なる系譜のためにヒコを使わなかったのではないか・・意味とは無関係にこのことだけでも興味しんしん。


[987] Re[985][981]:  神々が息づいているんですね。  神奈備 2004/11/07(Sun) 17:48 [Reply]
> 魏志倭人伝での侏儒国は紀州とみています
九州説なら当たりかも。
紀州の入り口の加太には淡島神社、シッポの潮岬には潮御崎神社、ともに少彦名神を祭神としています。紀州の神とされる由縁です。

紀ノ川沿いには九頭神社がいくつか鎮座しており、九頭は吉野から大和高原、伊賀にまで及んでおり、紀ノ川は葛の民が上陸してきたルートにも見えます。葛城に見るようにおそらくは土蜘蛛と同類だったのでしょう。
紀州の名草戸畔も土蜘蛛とされています。

大和伊賀紀伊を中心に九頭神社が多く鎮座しているのですが、祭神に少名彦命がなく、陸奥の久須志神社、吉野の久斯神社などがかろうじて少名彦命、これは九頭の民は人格神を祀らなかったこと、後に支配者側が九頭の民の鎮魂のために九頭神社を創建したのかも知れません。

[986] Re[984]: ヒコなどについて  クラリン 2004/11/07(Sun) 07:30 [Reply]
>
> なぜ小男彦 オグナヒコとしなかったのだろうか。

グナ=コですから、オグナヒコでは「子」がダブってしまうからではないでしょうか。
> スクナヒコに修飾のナが追加さているのなら省略があっても自然だと思います。

日本語では修飾語は前置される必要があります。

> 彦の文字は顔に彡(入れ墨)の意、呉音漢音ともゲン、なぜ書紀は彦をもってヒコの文字に当てたのか。

廣漢和辞典によれば、説文等に「才徳の優れた男子」、また「男子の美称」とあります。文は、文身とあるように刺青の意、彡は色彩の意とありました。綺麗な刺青をした男=いい男となったようです。

[985] Re[981]:  神々が息づいているんですね。  かたばみ [Mail] [Url] 2004/11/05(Fri) 20:22 [Reply]

大正時代?での論や考え方がうかがえて面白いですね。
本居宣長や平田篤胤等の「大人」の説を批判しているのも大正デモクラシーの流れかなあ(^^;


大己貴命がこれからどうすればいいのだろうと悩んでいるとき、「神しき光海を照らして」現れるのが幸魂奇魂サキミタマクシミタマ。
少彦名命のクシは単純にこのクシでよいのではないでしょうか。

書紀1書
「然からば汝は是誰ぞ」
「吾は是汝が幸魂奇魂なり」
「汝は是吾が幸魂奇魂なり、今何処か住まふと欲ふ」
「我は日本国の三諸山に住まむと欲ふ」

大己貴命が自分自身の幸魂奇魂と自問自答している状況だと考えています。
細かく観察すると(^^; 三諸山に住むことを望むものは、「吾」ではなく「我」になっています。
我になっているのは幸魂奇魂の吾と大己貴命自身の吾の複合を示すのではないか。

幸魂奇魂とは、幸いとめずらしいもの、すなわち「最新の文化」を示す。
神でも人でもないもの、カノープスの方角からやってくるもの(^^;

大己貴命の決意、東進して三諸山(奈良三輪山)に新たな国造をはじめる決意、その重要な場面だと思うのです。
素盞鳴尊時代から出雲時代への変化、クシをもってそれを幸サキとする、出雲の「主」の登場へ。

少彦名命をクシの神とするのはめずらしいもの(酒や薬などなど)をもたらしたから。
酒の神でもあるけれど、酒に限定されるものではないと思います。
(奇→珍、後の珍彦も少彦名命と類系じゃなかろうか)

弥生時代にその文化が東北まで達したとき、その人々の子孫(混合)が後に「蝦夷」とされた・・後に俘囚となった蝦夷は三輪山に誓いを立てています。
自分たちのもう一方の祖に誓いをたてたのだと考えています。

書紀が「日本国の三諸山」と書いているのは九州からみて日の本、東の国の意でしょう。
後に近畿に大和朝廷ができるころにはそれがもっと東へシフトして関東や東北に日の本のイメージがシフトすることにもなるわけです。


≫『伊呂波字類抄』には加伊は東夷なりとの注がある。
≫『釈日本紀』には蝦夷にカイの傍訓があると云うこと。

カイなら漢字の読みとして自然ですね。蝦夷をエミシとするのはいつごろからなのか。
中国から見て東夷は半島や九州、大和朝廷も関東や東北の住人を東夷とみなしていたんだと思います。


魏志倭人伝での侏儒国は紀州とみています(持論:女王国=日向〜宮崎)。
帯方郡から北九州ないし半島南岸までの距離が7千余里ですから、女王国から4千余里ならぴたり。
倭種の国々とは瀬戸内から奈良盆地でむろん出雲の国々、その南に侏儒国、これもぴたり。
縄文系の小柄な人々が住んでいたのだと思います(土蜘蛛ともされる人々)。


[984] ヒコなどについて  かたばみ [Mail] [Url] 2004/11/05(Fri) 20:07 [Reply]

書紀1書の少彦名命登場のところで「小男」であるとあり、岩波ではオグナと読ませています。
その直後にこれを少彦名命というとあります。
なぜ小男彦オグナヒコとしなかったのだろうか。

万葉では355と963に2首あって「小彦名」と書いています。どう読むかは解読者によるのでしょうけれど、4106では「須久奈比古奈」とあります。
「大汝」(大己貴命)とペアの登場なので、歌心から大小の韻?をふんで「小」を使っているのではないかと思っています。

平成祭りデータCDによれば「小彦名命」の神名で祀る社はありません。
大小だと少彦名命と大己貴命に格差があるようにみえるのを避けて、少としたのではないかと考えています。

平成祭りデータでは「スクナヒコ」の神名で祀る社が少なからずあります。
記紀にはスクナヒコナと明記されるのになぜナのない神名を用いるのか。
スクナヒコに修飾のナが追加さているのなら省略があっても自然だと思います。

スクナとヒコナという対比による名ではないかという考えもちょこっとあるのですけれど。
帰り来る神、のイメージのようななんらかの対比です。


王族の名でしかわかりませんがヒメが後世まで使われるのに対して、ヒコは応神以降ぴたりと消えてしまう(允恭の子?にふたりいるのみ)。
彦の文字は顔に彡(入れ墨)の意、呉音漢音ともゲン、なぜ書紀は彦をもってヒコの文字に当てたのか。

ヒコはある流れにある者への尊称であり、入れ墨がその特徴だったのだと考えています。
具体的には中国南方系、春秋戦国の呉越など。ただしこれは弥生においてです。

女性ならヒメ。日本の場合巫者はまず女性でこれは後々まで続く。
ただし出雲を除いておきます。
ヒコの尊称の源が「霊力+コ」であった可能性は十分あると思います。

クエビコ、縄文後期あたりでの農耕開始を源にするのではないか。
ヒコとして縄文とも共通するもの、それが入れ墨ではないか。


媛踏鞴五十鈴媛が神武の求婚の使者を迎えたとき、使者の入れ墨をみて「その変な模様はなによ」といっていますが、出雲系は入れ墨風習を持たなかったことがうかがえます。
(使者は久米氏族、少彦名命と同じく神産巣日神系譜とされる)

大己貴命は婿入りですから出自は不明。出雲といっても大勢のヒコ系譜がはいっていると考えています。
例えば味耜高彦根命です。、天之稚彦とよく似た友人ということから神産巣日神系(呉越系)であろうと考えています。

大国主命の子ともされるのは大己貴命と大国主命を同一とする考え方があったからじゃないか。
年代的に味耜高彦根命は大己貴命の後裔とみたいところです。
このあたりは出雲系譜の年代観を仮定しないとどうにもならないです、架空の物語じゃないとみるならばですが。


なお、「ヒコなになに」も尊称の用法のひとつとみています。
神武と媛踏鞴五十鈴媛の間の子が日子八井命、神八井耳命、神淳名河耳尊。
(日子八井命は神八井耳命の子ともされる)

[983] Re[979]: スクナヒコとスクナヒコナ  かたばみ [Mail] [Url] 2004/11/05(Fri) 19:43 [Reply]
≫このkunaの交替形はkinaで、翁は「老いたキナ」、oy-kina>okinaと考えられます。ヲウナはヲミナ(女)の音便系ですが、オミナはオキナ同様、oy-minaで、このminaは*min(女)に遡るでしょう。

少彦名命と書いた場合に、ヒコ・ナではなく、ヒ・コナと分解してそれぞれの変化であるという考え方ですね。

ちょっと気になることがあります。
言葉には変化があり、変化に法則性もあると思うのですが、大きな川とその支流があったとき、大きな川の源流をどうやって探すのか、です。
どの支流からでも、下るならば必ず本流に入って海に出るけれど支流は他にもたくさんある。
最奥の源流に遡航したいとき、他の支流を選択してしまうことをどう防ぐのか、そのあたりなのです。


[982] RE[978] 山田の案山子(クエビコ)が知っていることをヒキガエルが教えた、なぜ蛙なのか。  わーぷ 2004/11/04(Thu) 02:24 [Reply]
今晩は、
「蚕  少彦名」にて 検索してみてください。(古代の雷神信仰と蛇と養蚕との関係=「くわばら桑原(京都の桑)」(雷除けの呪言 秦氏?) 小子部雷スガルは養蚕とも関係が小子(オコ様=蚕の方言・胡の国の人?)
言葉の杜
http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/word/word_YAGYOU_LABEL.html
都留市
http://www.uemon.com/tsuru/tsuru.html
少彦名の語義
http://www.dai3gen.net/sukunahikona.htm
一宮町中尾1331
http://www.kainojinjya.com/toh8/ichimiya/20/20.html
継体天王の進撃 2
http://members.jcom.home.ne.jp/3366537101/sub9-2.htm

他にもあります。小虫神社(祭神・少彦名命)

龍VS牡牛
http://act9.jp/fan/report/ai/ryuh/ryuhvs.htm

「山田」(山の神+田の神=水神・龍や蛇・地脈・鉱脈の神)地名?・山の地図?「案山」(カカ=蛇=夏華カカ)山の案内?の子(クエビコ)=役小角(エンノオズヌ・山伏・「山城の賀茂建角身命(たけつのみのみこと)の娘の玉依毘売(たまよりひめ)が瀬見の小川(賀茂川の異称)のほとりに遊ぶとき丹塗矢(にぬりや)が川上より流れ下り、これを取って床の辺に挿し置くうちについにはらんで男子を産んだ。」の子の妄想デス)?が知っていることをヒキガエル(月神 ジョカ 呪術師)が教えた。
 
おやすみなさい。

[981]  神々が息づいているんですね。  神奈備 2004/11/03(Wed) 10:08 [Reply]
かたばみさん ありがとうございます。
> 氏がアイヌと少彦名命とジョイントしている部分に関しては根拠が語呂合わせ以外にはみあたらないので、パスです(^^;

少彦名命の一名をクシの神と云うこと。
クシの神とは蝦夷(カイ)の神の義である。何故なら、『伊呂波字類抄』には加伊は東夷なりとの注がある。『釈日本紀』には蝦夷にカイの傍訓があると云うこと。
カイを蝦夷の本当の読みとしても、クシにまでひっぱるのが、酒がはいった論理かも。そう云う意味では語呂合わせと云われてもやもう得ませんね。

『魏志倭人伝』を見ていますと、倭の国々には市がたち、租税を徴収しているようで、国のかたちが出来つつあるようですね。
ここに、「人の性は、酒をたしなむ。」とあり、醸造の神秘(乙女が噛む?)が認められるのかも。

また、『魏志倭人伝』には「「女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。また侏儒(こびと)の国が、その南に在する。人の長は三・四尺。女王を去ること四千余里である。」とあり、ある所から東または南に小人の国があるとの伝承があるんですね。

 神々が息づいているんですね。


クラリンさん こんにちは。
小童の須佐神社の紹介、ありがとうございます。↓にも詳しく。
http://www.fuchu.or.jp/~tkhr/hichi/yuisyo.htm
三代実録の天照真良建雄神だそうですね。素盞嗚尊の別名が天照真良建雄神と云うことなのかな。

 神々が息づいているんですね。

[980] Re[979]: スクナヒコとスクナヒコナ  クラリン 2004/11/03(Wed) 07:35 [Reply]
甲奴が「子(こな)」の訛りというのは、もう少し裏づけが必要かも知れません。
ところで、「ヒコ」の意味を統一的に理解できないか、いろいろ試みてきましたが、
どうやら霊童以外の意味を持つ「ヒコ」もあるようです。

天津日高日子番能邇邇芸(あまつひこひこほのににぎの)命のように「ヒコヒコ」と
ある場合の日子番能邇邇芸、すなわち神名の冒頭に付くヒコはミカハヤヒなどと言う場合のミカの唇音同士の交替形(mika>fika>fiko)で「優れた」と言う意味かもしれません。

[979] スクナヒコとスクナヒコナ  クラリン 2004/11/02(Tue) 21:56 [Reply]
ヲグナは男子(小男)であるところからkuna(連濁でguna)で「子」を意味するというのが通説です。

琉球ではkuwaとn/w交替しています。このn/w交替は本土でも同様で、kuwa>kwaからkoへとなります。koはo/i交替でkiになります(o/i交替の原因は省略します)。
邇邇芸のgiは連濁の結果で、イザナギのgiと同じです。連濁しなければkiとなるでしょう。イザナミのmiは日本語内部でi/e交替して女(め)となります。

このkunaの交替形はkinaで、翁は「老いたキナ」、oy-kina>okinaと考えられます。ヲウナはヲミナ(女)の音便系ですが、オミナはオキナ同様、oy-minaで、このminaは*min(女)に遡るでしょう。

以上を元に「ヒコ」と「ヒコナ」を考察しますと、ヒコのkoとヒコナのkonaは同じ意味であることが分かります。konaが古形ということになります。
「ヒ」は「霊」であり、従って、ヒコは霊童、ヒコナも霊童という意味となります。

子という意味のkiはのちにt∫iとも交替したと思われ、広島県甲奴郡甲奴町大字小童にある小童須佐神社というのがありますが、この「小童」は「ひち」と読みます。これもやはり霊童という意味でしょう。

甲奴郡甲奴町の「甲奴」も「こうぬ」であり、これはヒコナのコナの訛りと思われます。彦根はまさに霊童そのものと考えられます。

[978] Re[977][974][968]:縄文とアイヌの関係  かたばみ [Mail] [Url] 2004/10/31(Sun) 13:36 [Reply]

喜田貞吉博士の少彦名命の研究、一読いたしました。
総じて感じたのは「古いな」でした(^^; 大正時代の記述とみえるので当然かもしれませんけれど。
記紀などの文献からの解釈が大半ですね。

少彦名命の「少」を小さい男としそれに彦の尊称とみるのは間違いないと思います。
問題はスクナヒコ「ナ」のナ。
大己貴命や大穴持神(大名持神)のナとつなげる説の引用がいくつかありますが、これは氏が批判している通り単に「ナ」があるだけの語呂合わせと感じます。

では、大己貴命や大穴持神には彦、毘古、日子がないのはなぜか。
彦は「あること」を示す尊称だったのが一般尊称に変化したものだからだと考えています。
大己貴命や大穴持神は少彦名命とは異なる性格をもつ、というわけです。

スクナヒコ、ここで名としては段落のはず。
ナはなにかを示して明確にしようとする言葉だと思います。
氏は播磨風土記に少比古根命、神前群條(どんな本か知らず)に少比古尼命とあるのを引いて、天津日子根命と同様に「根」を加えたものと解釈しています。

これはおおいに賛同です。
ただし、「根」を敬語とみていることには異ありです。

活津や天津をどう解釈するかはおいて、根はある人々の祖先(源、故郷)であることを示すと考えています。
素盞鳴尊の根の国も同じです。地底や黄泉の国ではなく、故郷の意。
孝霊〜開化での倭根子の尊称も同じ、「倭を祖先とする子」の意。
倭根子(日本根子)は元明天皇(707)〜桓武天皇(781)でぞろぞろ再登場しているのが興味深い。

少彦根命、小柄な人々の祖先。
縄文のイメージをふくめたもの。

余談:身長1mのホモサピエンスがジャワ島で見つかった、ホモ・フローレシエンシス。
わずか1万8千年前の女性の骨で、脳容積はチンパンジー並。
ジャワ原人の子孫とも新聞には書かれていますがこれはちとオーバーランか?
もう1体みつかれば突然変異じゃない可能性が高まりそうです。

氏がアイヌと少彦名命とジョイントしている部分に関しては根拠が語呂合わせ以外にはみあたらないので、パスです(^^;

常世の国、支配した土地あるいは既知の場所に異世界は存在できないですね。
時代によって南から北へ(東へ)シフトしているんじゃないか。
当初は九州より東にそれがあった(場合によっては南海に→竜宮城、沖縄からはニライカナイに)。
既知の場所が広がるにしたがって異世界はその外側にシフトしてゆく。
本州での最後が北海道というわけでそのイメージがロマンとともに近世まで続いていたのではないかな。


山田の案山子(クエビコ)が知っていることをヒキガエルが教えた、なぜ蛙なのか。
縄文土器に人面とヒキガエル?を描いているものがあります、なぜ??
人面と蛙と蛇が関連していることが推定できますが今のところ不明。
(銅鐸にも亀や蛙やトンボなどが描かれる、共通項は水がなければ生きられない)

クエビコは村の物知りの長老といったイメージでとらえています。
足腰が弱って動けなくなった老人が見張り役になったいたなんてのが案山子の源(^^;



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