青草談話室ログ平十七年 三月
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[1157] Re[1150]: 海の道・傍証  かたばみ [Mail] [Url] 2005/03/29(Tue) 23:52 [Reply]

≫持統帝(持統上皇=太上天皇)の三河行幸(御幸)
≫死の直前に行われましたが、船で行ったのでは?説

このあたりはあまり考えていませんが、古事記の記事によれば日本武尊の出発と帰郷(死去)は以下の如くとみえます。
http://www.woodsorrel.sakura.ne.jp/data/yamatotakeru01.png
水色は扇状地(満潮時は遠浅の海)であったろう地域(現在の海抜0〜2m地域)。

出発は伊勢、帰郷は桑名。豊橋あたりへの海路だと思います(熱田は無関係の地とみえる)。
木曽川とその扇状地、ここは近畿側と河内側を遮る大きな障害になっていたと思うのです。
扇状地を避けて北を回るにしても木曽川とその支流を渡るのは難儀じゃないかな。
ならば船で伊勢湾を渡る方が得策と思えます。

持統時代に伊勢湾の状況がどうだったかわかりませんが大差なかったのではないかなあ。
(このときは桑名から熱田への船だと思うけど)
草薙剣は日本武尊時代では伊勢ないし桑名にあったはずで、熱田社に移ったのはいつか、その理由は?
(持統天皇と草薙剣のごたごた以前にそういうことがあったのかどうか、です)


遺跡が扇状地部分には存在しません。
朝日遺跡が強力な環壕をもちながら戦死者あるいは戦闘の痕跡がみえないことの理由が木曽川という要害の存在だろうと思っています。
畿内と三河をつないでいたのは平和時でも戦闘時でも海人であって、その動向が要を握っていたのではないでしょうか。

≫菊池展明著「エミシの国の女神」

ぜひお読みください。


[1156] Re[1137]: 舟の帆  素人 2005/03/29(Tue) 20:24 [Reply]
> HPによれば、サンタン舟の帆は、鮭の皮(約300枚)製です
場違いな書き込みすみません。
アイヌの帆に似た古墳壁画がありました。
御存知と思いますが古墳の壁画に帆らしきものがある写真を見つけました。
両舷に棒を立てて間に帆を張る固定式の帆はミクロネシアや江戸期のアイヌの船に使われているそうです。簡便ですが、効率は悪いようです。同じ絵に鳥が止まっていますが水先案内人でしょうか。船で飼っていてたまに飛ばして飛行の方角で陸地・島の方位を知るのに使ったのでしょう。とんでもない思い付きです。
珍敷塚古墳石室(めずらいづか)壁画がある。
左には舳先に鳥がとまっている船と漕ぎ手、二本の柱が有り間に莚帆を張っていたと思われる。
http://www.asahi-net.or.jp/~qd2h-tkmt/archeol/mezurasi.gif
掲載ページ
http://www.asahi-net.or.jp/~qd2h-tkmt/archeol/archeol.htm


[1155] Re[1154][1148][1147] 海人と物部氏  神奈備 2005/03/29(Tue) 08:42 [Reply]
> 物部氏はすでに衰退していたために記紀では饒速日尊の名のみが登場するだけになった。

それでも、饒速日尊は天孫と同系統とされ、隠然とした勢力の大豪族だった。

出雲系とは、宗像・鴨の連合艦隊。

他に、紀氏の海運、海軍も相当なもの。

前に、底筒男神とは饒速日尊と『河内高貴寺縁起』にありますが、この住吉三神とはそのような海運海軍者を総括しているのかも知れない。ベースは勿論安曇氏の海神ですが、例えば三神をカラスキに例えるように、味鋤とされる鴨大神とその母神で中筒男神、また武内宿禰と紀氏で上筒男、これらの海運海軍が王権をささえ、古代日本の建国に貢献したと思われます。

[1154] Re[1148][1147] 海人と物部氏  かたばみ [Mail] [Url] 2005/03/26(Sat) 14:17 [Reply]

≫北総に数社ある鳥見(とみ)神社の関係者?と思っていました

それは全然考えてなかった(^^;
意富族オホ(多臣族)の富を好字として姓にしたのだろうと考えています。

現在の「千葉さん」は千葉の桓武平氏系の千葉氏さんなのだろうなあ。
江戸名所図会は1834ですから、千葉さんに代わったとすれば明治維新以降じゃないでしょうか。
信じるかどうかは別にして江戸名所図会の記事は貴重だと思います。

雄略時代の稲荷山鉄剣にある祖先名の「意富比」これも武渟川別命(大彦命→意富彦)か五百城入彦命イホキイリヒコに関連があると考えています。
五十イソではなく五百イホの城に入ったというのがただ者じゃないところ(^^;


≫かたばみさんのHPで恐縮
≫ http://ktan.fc2web.com/frame.html  

それ私のHP(遊ぼ)じゃないです、stanさんのHP(あそぼ)の一部です。
(ときおり混同される方がいらっしゃいます(^^;)
私は神社探索はあまりやっておらず、東京の下町付近程度です。

それはおいて饒速日尊について若干。

出雲時代(AD250以前)でも海運者は関東にやってきているはずですが、この頃の海運者は各地の海人系氏族が全国ネットでつながる集合体であったと考えています。
物部氏はそのなかから頭角を現して最強氏族になった海運者。

物部系譜でゆけば物部連姓を賜った「大新河」の父の伊香色雄とその周辺の氏族が勢力を得た(開化や崇神の母となる)。
すなわち、出雲崩壊時(AD250頃)の天孫系を支援した海運者、これが物部氏として台頭したと考えています。

それ以前の海運者は「出雲系海運者を含めて」各地の海人のネットワーク組織であって、それぞれの祖先はまちまちかつあいまいでもあったとみております。
それらの様々な海人氏族を後に「饒速日尊という頂点」を設けて天火明命や宇摩志麻治命につないだのが、現在に伝わる物部系譜だと考えています。

そういう系譜の原形が「作られた」のは物部守屋あたりではなかろうか。
帝紀や旧辞の編纂がはじまった頃です。
(これらが焼失したとき、国記は焼失を免れて中大兄皇子が保持したとされる)

記紀の内容はそれらの影響下にあるはずですが、物部氏はすでに衰退していたために記紀では饒速日尊の名のみが登場するだけになった。

先代旧事本紀は記紀以前の伝承(残片)を含んで平安〜鎌倉時代あたりに再構成されたもので、針の先程度としても「聖徳太子と蘇我馬子の編纂」はまるっきりの嘘っぱちではないと考えています。

その物部系譜には、ある時代以前の出雲系海運者も含まれているわけで、その頂点に置かれる「饒速日尊」の範囲は出雲とも重なって全土に広がることになります。
(宇摩志麻治命は個人として実在した人物とみています、ただし九州にて)


「大新河」の弟?が十市根、十市根系譜が後の物部目大連につながりますから、この系譜がこの頃から海から離れて陸上生活になり、最強氏族としての物部氏の主流になったのでしょう。

大新河の妻は紀伊中日女あるいは紀伊荒河戸邊の娘。
伊勢志摩から紀伊半島沿岸を根拠にしていた本来の海運者としての物部氏が大新河系譜とみています。
(その後裔のひとりが瀬戸内水軍の越智氏の祖)

豊城入彦命や垂仁五大夫の大鹿島、日本武尊や五百城入彦命を関東に運んだ海運者は大新河系譜だと思います。
大新河系譜は太平洋岸の海人として活動していたが、この系譜の後裔は表に出ることはなく文献に残ることも少なかったのでしょう。

それらの記録の残っていない「物部系氏族」は後に先代旧事本紀などを参考にして祖先とすることになるだろうと思います。
そのなかには出雲系海人系譜であった氏族も含まれているはずで(特に日本海沿岸では)、それが「饒速日尊」をさらに拡大して混乱に拍車をかけることにもなりそうです。


[1153] Re[1152]: へたな大工  神奈備 2005/03/26(Sat) 12:34 [Reply]
> 私のカキコが多すぎ
とんでもないことです。歓迎しております。次から次へのアイデア、感心して読んでいました。

> 雄略、おまえは偉そうな事言って何てざまだ!と
> 猪名部を処刑=殺そうとします。
> ひどい天皇もいたもんですね。

ひどいことはひどいですが、男の本質(単純なところ)を見抜いているわけで、流石為政者でもありますね。

墨縄とは、大工さんがよく使う木材に直線をひく方法で、現在でも使われていつのでしょうね。最近そのような現場を通りかかりませんので、長く見ていない気がします。それとも赤いレーザー光線ででもやっているのかな。

> 戸田(ヘタ)
周防灘を持つ山口県の町名にあります。

> 天然の良港で、造船にも適した地である
山口県のそこには、桜八幡の摂社に舟山神社があり、素盞嗚尊、五十猛尊、大屋津姫尊が祀られています。こちらの系統の造船技術者集団がいたのでしょう。
紀氏にとっても、戸田はなじみ深い場所であったのでしょう。

[1152] 采女のふんどし  QUBO 2005/03/26(Sat) 07:24 [Reply]
ふと読み直すと私のカキコが多すぎ。しばらく休みます。失礼しました。
最後にオマケ・イナベについて

雄略紀
「あたらしき 伊名部の工匠 懸けし墨縄 其が無けば 誰か懸けむよ あたら墨縄」

(私の現代語からの意訳)
雄略天皇が猪名部真根(いなべのまね)を見かけました。
石を台にして斧で木材を削っていました。
下が石なのに、斧の刃をぶつけ、石でつぶすことはありませんでした。
そこで雄略は問いました。
まちがって刃をつぶすことはないのか?
猪名部真根は(職人らしくえらそうに)
「決してありません」と答えました。

何をえらそうに!と考えた雄略さん。ある策を考えました。
猪名部の横で、采女をふんどし姿にして、相撲を取らせました。
横目でこれを見た猪名部、これには堪りません。つい手元が狂って
斧の刃を石にぶつけ、刃をかいてしまいます。

雄略、おまえは偉そうな事言って何てざまだ!と
猪名部を処刑=殺そうとします。
ひどい天皇もいたもんですね。
そのとき猪名部の技量の優れていることを知る同僚が、
助命嘆願のために歌を読みます。

それが最初の歌です。これで命が助かったイナベさん
反省して地道に船造りに励んだのでした。 チャンチャン♪

[1151] 船造りの若干  QUBO 2005/03/26(Sat) 06:56 [Reply]
西伊豆、戸田(へた)について、更に傍証
戸田は天然の良港で、造船にも適した地である。

前提
一定の大きさの船は、どこでも造れるわけではありません。
また海上もどこでも水路になるわけでもありません。
港は、外洋の波浪を防ぎ回頭余地のある水深と水域が必要です。
またその技術者集団が存在し、資材が容易に集められることも。

たとえば敦賀は天然の良港です。
ツヌガアラシトも利用し、明治以降も軍港として重用されました。

戸田も天然の良港です。また造船業の発達した土地でした。

幕末、安政元年11月4日(1854年12月23日)、
大地震と大津波が起きます。この津波で、
伊豆下田にあった、ロシア船ディアーナ号が大破します。
この船は戸田に曳航されて、沈没します。
そこでロシア人乗組員の帰国の為、急遽洋式船の造船が
行なわれました。わずか3ヶ月で完成した船は、プチャーチン
によって戸田号と名付けられました。
戦国時代には存在し、江戸時代に一度失われた
外洋航海船製造技術の復活でした。

ここから青草
物部系造船技術者・猪名部造は、伊豆にもいて、
枯野船を造っていた。いわばその同族
穂積臣にとっても戸田はなじみ深い場所であった。

[1150] 海の道・傍証  QUBO 2005/03/25(Fri) 14:51 [Reply]
更なる傍証です。神奈備神名帖によります。
大神乃御船神社[オホカミノミフネ]
  三重県多気郡多気町大字地羽
皇大神宮摂社の御船神社[みふね]「大神御蔭川神」倭姫上陸の地と伝わる。

どこからスタートしたかは別として、船で上陸しています。
伊勢神宮を遷宮するときも、船に頼って移動しています。

又もあやしい傍証
持統帝(持統上皇=太上天皇)の三河行幸(御幸)
死の直前に行われましたが、船で行ったのでは?説
これも海路を行って陸路を戻ったのでは?だそうです。
豊川地域史 研究会のHPにある
菊池展明著「エミシの国の女神」の解説
私自身は未だこの本は読んでおりません。
http://www.sala.or.jp/~mmasa/honokunimassyou.html

[1149] 海の道4  QUBO 2005/03/25(Fri) 14:01 [Reply]
またまた傍証です。
東海道が伊勢から海を渡るなら、伊勢に船があるはずです。
その船を造ることで有名な一族が住んでいた痕跡が有ります。

以下神奈備神名帖によります。
三重県に猪名部(ヰナベ)神社2論社が有ります。
猪名部神社[いなべ]「伊香我色男命」 三重県員弁郡藤原町大字長尾244 
猪名部神社[いなべ]「伊香我色男之命」三重県員弁郡東員町大字北大社797 

員弁(いなべ)郡は、猪名部から付けた名前、あるいは逆か?
他にも「いなべ市」もあります。

猪名部氏は伊香我色男を先祖として祀る、物部系氏族です。
尚且つ、船造りの一族として有名です。
彼らがいた地域は、船を作っていた→船は伊勢で造った

同じ三重四日市に穂積神社があります 
   三重県四日市市広永町1553番地
   祭神は饒速日命 配 伊迦賀色許男命
忍山神社(おしやま)神社
   三重県亀山市野村町4-4-65 
そして弟橘媛は穂積忍山の娘です。
穂積一族も物部系で、伊迦賀色許男の子孫です。

[1148] Re[1147] 海の道  QUBO 2005/03/24(Thu) 11:20 [Reply]
> 御代川はもとは澪川だそうで、澪ミオは水の深いことの意。
今も「三代川」姓は旧海岸に沿う道(今の国道14号)に濃厚です。

> ・・・五百城入彦命が当地に渡来して意富比神社(意富日)の宮司富氏の祖となった・・・
 うぅ〜むッ!
 「意富比神社(意富日)の宮司富氏」知られていないんですよ。
 これにもビックリしました。今の宮司さんは千葉姓なんです。

徳川家康が、船橋に来たときは、宮司はまだ「富」氏でした。
これは家康の御殿についての話に出てきました。で一度電話帳で
「富」姓が無いか調べましたが、船橋には見当たりませんでした。

私は「富」氏について
北総に数社ある鳥見(とみ)神社の関係者?と思っていました
鳥見神社の祭神はニギハタヒやウマシマジなんです。
 かたばみさんのHPで恐縮
  http://ktan.fc2web.com/frame.html  
 景行天皇は鳥見の丘に登って国見をしています。
登美の長脛彦と神武天皇の話を考えていました。

ヤマトタケルに援軍がいたなんて・・・と絶句
しかも五百城入彦命ですかぁ・・・考えもしなかった。

[1147] Re[1145][1144]海の道1  かたばみ [Mail] [Url] 2005/03/23(Wed) 20:50 [Reply]
≫入日神社は地元船橋の人もほとんど知らないローカル神社です。

江戸名所図会の最後に船橋付近の情報がありまして、そこに登場?しているんです。

日本武尊が海神村ワタツミに至ったとき、海上に1面の神鏡を得てその地に神鏡を祀った。
ひでりが続いて官軍(日本武尊軍)は疲弊したが大雨が降って官軍は勢いを盛り返した。
付近が洪水となって神鏡を祀る場所にゆけなくなったが船を連ねて橋としたのが船橋の地名由来とあります。

下図は安藤広重、越後の船橋の部分。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/fune_funabashi.jpg

海神村に御代川某なる者がいて日本武尊が海上で八咫鏡を得たとき、今の意富日の社の旧地に案内し、今もその子孫がいる、とあります。
御代川はもとは澪川だそうで、澪ミオは水の深いことの意。
ご紹介の船橋市立海神中学のHPにもあるように、御代川某が大型船の通れる水路の案内をしたのだと思います。

日本武尊は千葉県船橋市の海神村付近に上陸し、後に日本武尊の同母弟の五百城入彦命が当地に渡来して意富比神社(意富日)の宮司富氏の祖となったとあります。
また、伊勢太神宮を朝日の宮とあがめ意富比神社を夕日の宮と称したとあります。

夕日の宮、これが現在の入日神社で、平成祭りデータの由来書にある「意富比神社の元宮」は正しいとみております。

江戸名所図会の意富比神社の項に、日本武尊が伊勢太神宮に凶徒調伏の祈願をしたとき、海上に光が現れその船の神幣を添えた弱木に神鏡が懸かっており、これを得て「夏見郷」に宮を建てて祀った、とあります。

江戸名所図会の「夏見の厨」の項に、海神村の北にあって昔は伊勢御神の神領で、意富比神社の神主が管理したとあります(厨クリヤ→食糧倉庫=米倉の意でよいと思います)。
現在の海神町にあるのが入日神社ですね。


日本武尊が鏡を海に得たというのは、五百城入彦命の到着を意味していると考えています。
支援部隊ですね。
そして、五百城入彦命の子孫が意富比神社の宮司になった、自然な流れだと思います。

五百城入彦命は日本武尊と同様の活躍をしていたが、日本武尊伝承に重なって包含されているのではないかと考えています(景行大王は日本武尊ひとりをいじめていたわけじゃない(^^;)。
五百城入彦命の孫娘が仁徳の母、仲哀〜応神〜仁徳での重要な働きをした系譜とみています。


また、日本武尊自身が奉じていた神は伊勢太神宮の神ということになります。
むろん天照大神ではありまっせん(^^;
それ以前の原形です、例えばオオヒルメ命に近いかなあ(このオオは意富と同義じゃないかと思ってます)。

日本武尊と伊勢志摩の海人は東征時の沿岸地にオオヒルメ命系の痕跡を残しているのではないかとみています。
東海では出雲系と重なるでしょうし、これらの名で残るかどうかはわかりませんけど。
(例えば延喜式クラスの古社、沼津市下香貫の大朝神社の大日霎命)


余談
日本武尊の関東北部への北上は江戸川(古利根川の一部)を遡航したと推定。
高崎あたりまでゆけたのではないかなあ。ここから碓氷峠を越えて諏訪へ。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/tone/map1.png
隅田川を越えて武蔵方面では複雑な河口と浅瀬を船では横断できず歩いて渡ったと推定、それが先の図です。


日本武尊に先立つ関東への大和朝廷系譜の最初の関連は大彦命の子の武渟川別命かな。
ただし、こちらは秋田上陸で東北を南下したとみています。
阿倍氏の祖ともされますから、「もうひとつの蝦夷」誕生にかかわっていて、関東北部で祀られる武渟川別命はこの系列と考えています。
(もうひとつの蝦夷誕生ははるかに古く、出雲系譜とかかわる蝦夷)

次いで垂仁の異母兄の豊城入彦命(毛野氏族の祖)。
やはり千葉に痕跡がみえず、茨城、埼玉、群馬に祀る社が多い。
中臣氏の祖の垂仁朝五大夫の大鹿島がこれに随行していたとみるなら、こちらの上陸地点は鹿島で、利根川(古では常陸川)から鬼怒川を遡って北関東に進出したのではないかと考えています。


[1146] 海の道3  QUBO 2005/03/23(Wed) 09:52 [Reply]
古東海道は、相模国から上総国へと海を渡りました。
(武蔵国は8世紀に東山道から東海道に付け替え)

ヤマトタケルが船団で浦賀水道を渡った逆説傍証の青草

地元の伝承では、走水(はしりみず)神社あたりから船出をしました。
この時ヤマトタケルは、地元の人々に冠を授けています。
http://enjoymiura.sub.jp/miru/temple/t8.html

ここからは青草です。
つまり冠を与えてないと協力しなかった。何故か?
対岸の上総には「亜久留王」が居て、仲が良く
協調して生きていた。争いたくないし、海の状況も悪い。
それを無理やり働かせるには、よほどの対価が必要だった。

イヤイヤ協力する姿勢を示したが、インチキな水先案内。
案内役は小舟なので、荒波も簡単に脱出したが、タケル
たちの乗っている大船は立ち往生してしまう。やがて
干満の潮の流も替わり、やっとの思いで、対岸に着いた。

この時タケルと同行した姫に、蘇我の媛もいました。
弟橘媛命と同じ時、海に身を投じた五人の姫の一人です。
式内社蘇我
http://kamnavi.jp/en/simofusa.htm
しかし生き返っても怒ってタケルの後は追わず
都に帰ってしまいます。・・・何故か・・・海が荒れて
船が沈みそうなので、不要なものとして捨てられたから。
「もぅ〜っ!あんな人大ッ嫌い!」(青々草です)

[1145] Re[1144]海の道1  QUBO 2005/03/22(Tue) 11:44 [Reply]
かたばみ 様
≫日本武尊の関東へのルートは船であろうこと、賛成です。
いやぁー嬉しいですね。強い味方を得た気分です。
木更津以降の内陸ルートを具体的に明示してある図も初めて見ました。
どこかに「船越」地名が残っていないか調べようかと思ってました。

≫尾張→船橋(入日神社)の旅程
ドキッ!
入日神社は地元船橋の人もほとんど知らないローカル神社です。
私も近くを毎日通勤で通っていますが、一度参拝しただけです。
船橋大神宮=意富比(オオヒ・おおい)神社までは有名ですけれど。

JRの駅名は  西船橋ー船橋ー東船橋 です。    つまらん。
京成電鉄の駅名 西船ー海神ー船橋ー大神宮下ー競馬場  面白い。
車内放送で「次は競馬場、競馬場」はとてもローカルです。

地元伝説、伝承では、力のある意富比神社に神宝の鏡を奪われた
ことになっています。この「鏡」見たことは無いのですが、
製塩用の浅い鉄鍋の可能性が強いのでは無いかと思っています。
しかし『入日神社』良くご存知で、本当に感心しました。

船橋市立海神中学のHP
http://www.kaijin-j.funabashi.ed.jp/index10-siryo/gakku.htm

[1144] Re[1142]: 海の道1  かたばみ [Mail] [Url] 2005/03/21(Mon) 21:02 [Reply]

≫濃尾平野や関東平野を横切る場合、船を乗り換えて
≫渡っていくのは無理で、最初からの船で乗り換えせず

日本武尊の関東へのルートは船であろうこと、賛成です。
敵対者に火を放たれて草薙剣でこれを防いだ話しなどはどこかに上陸して休憩中でのことじゃないかな。

総勢千人あたりかなあ。これでも当時では大軍団だと思う。
大半が水夫兼任の兵士で軍船30隻あたり。
夕方には上陸して食糧はそこで調達、翌朝出航。
水夫の交代要員はいないはず、歩くよりは速い程度の船足とみて1日20キロ程度か。

伊豆以降でも同様とみて三浦半島〜木更津〜市原〜千葉市〜船橋が寄港地。
尾張→船橋(入日神社)の旅程は1〜2ヶ月あたりか。

ただし、船橋以降の西進ルートは鳥越神社伝承や利根川水系の東京湾への流路から以下のように考えています。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/sumida/index.html
(江戸以前の隅田川東部推定図参照)

利根川(現在の江戸川、中川、隅田川)の内陸部の渡河は困難で、海も遠浅で大型軍船では座礁してしまうために沿岸部の浅瀬を渡渉したと推定しています。


[1143] 海の道2  QUBO 2005/03/20(Sun) 12:56 [Reply]
伊豆半島の西、戸田(へた)村には、式内社が三社もある
井田神社 静岡県田方郡戸田村井田1
部田神社 静岡県田方郡戸田村宮脇1585
諸口神社 静岡県田方郡戸田村戸田2710
この中の諸口神社は、祭神は女神で、弟橘姫命ではないかと言われている

西伊豆は、昭和30年代まで「陸の孤島」といわれ、街へ出るには
船を利用していた。ましてや1500年も前であれば、交通は陸路
ではなく、海路だったのではないでしょうか。

弟橘姫のゆかりの人々がこの地に住み祭神として祀った。つまり
ヤマトタケルは船で東征、戸田を中継地とした。(まだまだ青草です)

[1142] 海の道1  QUBO 2005/03/20(Sun) 09:23 [Reply]
畿内七道に、三海道が有ります。西海道、南海道、東海道です。

西海道は筑前から始まります。
@山陽道か山陰道から海を渡る。またはA畿内(難波津)から直接瀬戸内海を渡る

南海道は紀伊から始まります。
今でも和歌山港から南海汽船で阿波小松島へフェリーが出ています。
だから紀伊の国から阿波の国へ紀伊水道を渡る

さて、古代東海道は伊勢から始まります。
江戸時代の東海道は、桑名宿と宮宿の間、海路7里の渡船でした。
律令時代以前の東海道は?
やはり伊勢の国から船で知多半島方面に海を渡ったのではないでしょうか
相模走水から安房金谷あたりへ、浦賀水道を渡っただけではなく。

小さな舟は別にして、
日本書紀にある、日本武尊が鏡を載せたような軍船は
どの地域でも造れたわけでは無いと思うのです。
だとすれば、大きな川が何本も流れる地域、つまり
濃尾平野や関東平野を横切る場合、船を乗り換えて
渡っていくのは無理で、最初からの船で乗り換えせず、
目的地まで行ったのではないでしょうか。

[1141] Re[1135]: 舟と神−3    かたばみ [Mail] [Url] 2005/03/20(Sun) 00:46 [Reply]
≫確かに動物の皮を袋状にして、筏を組む話も有りますね

メソポタミアに羊かなにかの皮の浮きを抱いて海?を泳ぐ?の最古の絵があります。
腰にひょうたんをつけて浮かぶ場合でも中国では腰舟というそうです。
筏だったら文句なしに「舟」だと思います。

≫美保神社の諸手舟神事の二隻の舟は、この分かれたものではないか

私も双胴船だったのではないかと思っていたのですが・・
三国遺事の駕洛国記(現在の金海付近)に祖先(金官国首露王、AD42頃)を偲んで、二手に別れた若者が二艘の船で競争する行事があったことが書かれており、首露王への伝令故事によるものとあります。

美保神社の神事と駕洛の行事が同じ源とみるなら、諸手とは二手に別れて情報伝達を確実におこなう意、ではないかという気もしています。
熊野速玉大社の諸手船神事も「競争」を伴っていますし。


≫目無堅間(マナシカタマ)について、カタマラン(双胴船)のことで

模型ですが例えばこれで板張りなら目無の堅い間がある舟と呼ぶかも知れないですね。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/fune_soudou.jpg

≫通説は、竹で編んだ籠のような舟、とされていますが

この説だと堅間の意味が消えちゃう(隙間があったらはなから舟にはなりっこない)。
皮を張った可搬型の舟はありますが、たいていは柳の枝など柔軟材で作りますから、これに「堅い間」という表現はでてこないと思います。

したがって「間に隙間のない堅い物がある2艘の舟」、双胴船と解するのがいいのではないかなあ。


[1139] Re[1138][1128][1126]: 船の若干1  神奈備 2005/03/16(Wed) 22:25 [Reply]
泥の木ですか、面白い。ありがとうございます。
素盞嗚尊は舟をつくるのに杉と楠がよろしいとご託宣ですが、舌の根も乾かぬ内に泥の木とはこれ如何ですね。表皮は楠に似ていない訳ではなさそうで、半島中部付近ではこの木を楠と云っていたような話があればいいのですが...。楠の北限は半島の南の一部ですから。

[1138] Re[1128][1126]: 船の若干1  素人 2005/03/16(Wed) 21:32 [Reply]
> 史実のお話に神話を混ぜ込むのはいささかなのですが、『日本書紀』神代一書第四
>で、韓郷に降った素盞嗚尊は土で舟を造り、出雲にやって来ています。
原文を調べますと「埴土」となっていますので関係ないかもしれませんが、木の種類に「泥の木」と言うのがありました。これの解説に「泥の木は北海道ではドロ柳と呼んでいます。日本での分布は、兵庫県及び静岡県以北の本州と北海道です。北方系の樹木なので朝鮮半島からウスリー、アムール方面に広く生育しています。<中略>反面弾力性が強いので丸木舟や船縁に使われます。」朝鮮半島に生育して、丸木舟に使用されるとの記述があり興味を持ちました。
泥の木の写真
http://prowd.mboso.ne.jp/1201-369doronoki.htm
掲載ページ
http://prowd.mboso.ne.jp/1200-369doronoki.htm
少し無理がありそうです。

[1137] 舟の帆  QUBO 2005/03/15(Tue) 15:33 [Reply]
世界地図に唯一名を残す日本人 間宮林蔵
彼が書いた本の現代語訳が出ています。

東韃紀行 間宮林蔵原著 大谷恒彦訳 教育社
約200年前の事です。

これによれば、アイヌの舟は脆弱で、外洋航海には耐えないそうです
それで林蔵は、より丈夫なサンタン舟で、海峡を渡っています。
http://www.asahi-net.or.jp/~XC8M-MMY/kaiky100.htm

また大陸に着いてから川をさかのぼり、舟を引いて別の川まで
陸路を取っています。いわゆる「船越」をやっています。
http://www.asahi-net.or.jp/~XC8M-MMY/data11.gif

HPによれば、サンタン舟の帆は、鮭の皮(約300枚)製です

[1136] Re[1133][1132][1128][1126]: 船の若干1  かたばみ [Mail] [Url] 2005/03/15(Tue) 06:54 [Reply]

≫御座船 18年ぶり新調(厳島神社(広島県宮島町))
http://www.geocities.jp/kiemon5/gozabune3seki.html
これのビデオがこちらにあります
http://www.miyajima.or.jp/gyouji/kanngennsai/kangensai.htm

瓊々杵尊ないし天火明命の降臨(まずは九州のどこかへ)はこれとよく似た光景だったのではないかと思っています。
天橋船、船と船の間を橋でつないだ船。双胴船(カタマラン)。

大型船が得にくい時代では牛馬や物資輸送などで船を結合して使うことは普通にあったのではないかと思っています。
河川など水深の浅いところでも有効かもしれない。

下図はHPで使ってる天之忍穂耳上陸時の御座船・・天孫の親の強襲揚陸艦(^^;
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/hashifune.jpg
素盞鳴尊は陸の民でこういう船は持っていなかった・・


[1135] 舟と神−3    QUBO 2005/03/15(Tue) 06:35 [Reply]
[1132]かたばみ 様
 「壺筏や甕筏」:天の磐船説 面白いですねぇ〜
 確かに動物の皮を袋状にして、筏を組む話も有りますね。
 皮と比べれば、壺や甕は岩のように硬いですね。
[1133]素人 様
 「平安座船」(ひあんじゃ):あぁ!日本にもあった!
 ありがとうございました。
 最近調べていなかったのですが、以前こうしたものを探していました。
「日本丸木舟の研究」、川崎晃稔著 さっそく探して読んでみます。

中国には舫(モヤイではなく「ホウ」)と言う間の空いていない
小型の双胴船が有りました。

美保神社の諸手舟神事の二隻の舟は、この分かれたものではないか?
と考えています。(ここまでくると青草ですが)

何年か前にもカキコみましたが、私の好きな説。
茂在寅男さんが、「古代日本の航海術」小学館ライブラリーで
マナシカタマ小舟論 を展開しています。
目無堅間(マナシカタマ)について、カタマラン(双胴船)のことで
尚且つ二つの舟の間が空いていないもの。との説です。
通説は、竹で編んだ籠のような舟、とされていますが。

[1134] Re[1130]: 舟と神  素人 2005/03/14(Mon) 02:20 [Reply]
> 何か誤解があるようなので再度〔1120〕カキコの部分
> 「帆走は、私も子供の時、池に筏を組んで、帆を利用して遊んだ
> 思い出があります。まあ帆とは言ってもベニヤ板二枚でしたが。」
> つまり「帆走は自然発生的」、を言いたかっただけです。
> 実用性を考えての話ではありません。
私の文章の表現力のなさから御不快をおかけしてすみません。
私も古代の稲作地帯では農作業などで莚は普通に使用されており、竿などにかけておけば風で飛ばされることから風力を感じ丸木舟などに乗って追い風で莚を両手で広げれば櫂を漕がなくても進むことから自然に帆走を理解したと考えております。
私も「帆走は自然発生的」と書かれたと理解しております。


[1133] Re[1132][1128][1126]: 船の若干1  素人 2005/03/14(Mon) 01:57 [Reply]
> ≫『日本書紀』神代一書第四で、韓郷に降った素盞嗚尊は土で舟を造り、出雲にやって来ています
>
> 北朝鮮鴨緑江では大型の甕を並べて縄で結び、これに木台を乗せて筏として鴨緑江を下り、河口近くの町に到着すると分解して甕を売りに出していたのだそうです。
> インド各地にも壺や甕を用いた筏があり、直径1mのお椀状の陶器舟もあるそうです。
ぜんぜん違いますが、一つの考えとして、刳り舟関係の本では古来から筏の変形として、小型の刳り舟を筏状に組んで帆を仕立て、櫂を舵として外洋を航海して到着するとばらして、個別に活動していたのではと考えられているようです。
 沖縄では伊計島や平安座島付近のニーザギブネや沖永良部島から那覇への物資輸送の組舟(平安座船)などは筏のように、刳り舟を組んで帆を立て舵取りと走行用に櫓を使用していた。これは渡海用に古くから用いられていたとされている。
専門書の引用文で、沖縄の有名な歴史家伊波普猷が大正十年に沖永良部から沖縄まで乗った舟を紹介した以下の文章があります。
「長さ四間、幅半間の独木船を四隻組み合わせ、舟と舟との間には、竹を束ねたものをはさんで、その弾力で相互に軋み合うのを防ぎ船べりには、一寸五分くらいの波除をつけ、帆柱が二本用意して有ります。杉舟でしかも生粋が浅いので、浅瀬でも大洋でもすべるように走りますが、どんな時化にあっても沈没する気遣いはなく、全部浸水することがあっても筏のようにじっと浮かんでいるとのことです。私が乗った平安座船は、子牛12頭、豚20頭を積んでいましたが、便乗が私のほかに一人あって、船員は七人で操縦していました。」「日本丸木舟の研究」、川崎晃稔著

大幅に違いますが、古来の形が残ったものかもしれません。台船に帆をつければ走るかもしれません。?
御座船 18年ぶり新調(厳島神社(広島県宮島町))
http://www.geocities.jp/kiemon5/gozabune3seki.html
話題から浮いた書き込みですみません。


[1132] Re[1128][1126]: 船の若干1  かたばみ [Mail] [Url] 2005/03/13(Sun) 21:19 [Reply]
≫『日本書紀』神代一書第四で、韓郷に降った素盞嗚尊は土で舟を造り、出雲にやって来ています

北朝鮮鴨緑江では大型の甕を並べて縄で結び、これに木台を乗せて筏として鴨緑江を下り、河口近くの町に到着すると分解して甕を売りに出していたのだそうです。
インド各地にも壺や甕を用いた筏があり、直径1mのお椀状の陶器舟もあるそうです。
(日本古代文化の探求・船/大林太良)

箕子朝鮮滅亡時に王族が甕筏で川を下って西の海に脱出して南下したとすると、土器で作った筏が埴土で作った舟の伝承となって残る可能性ありあり。

天の磐船も同じくかもかも。
物部氏の祖が海運者であり、壺筏や甕筏で上流から河口に物資を運んでいたならば。
磐を「丈夫な」と解するか「岩」と解するかですが、巨石信仰が背景にあれば後には「岩」一本槍になるかもしれないですね。

[1131] 舟と神−2  QUBO 2005/03/13(Sun) 17:29 [Reply]
書紀では、日本武尊は「日高見」の国、竹水門(たけのみなと)に
船で向かいます。この船はいったい何処から乗ったのか?

「・・・島津(しまつ)神、国津(くにつ)神たちが、竹水門に屯(たむろ)して
防ごうとしたが、王船を遙かに見てその威勢に恐れ、勝てないと判断・・・」
この王船とは、かなりの大きさの準構造船でしょう。
これを造れる技術は、常陸の国に有っただろうか?
無かったと思いたい。船の「見たことも無い大きさ」も
畏怖させるものだったのではないだろうか?

もし無いとしたら何処で造り、どこから船に乗ったのか?

東征の帰路、尾張の「建稲種(たけいなだね)命」は
日本武尊と別れた後、駿河の海で命を落とす。
『熱田大神宮縁起』、式内社「内内神社(愛知県春日井市)」の由緒書
つまり船に乗って尾張に帰ろうとする。

では、船そのものも、尾張から出発したのではないだろうか?
出発地は、尾張式内社成海[なるみ]神社:名古屋市緑区鳴海町
の辺りではないか?

私説ヤマトタケル(まだ青草)
日本武尊の東征は、船で行なわれた
水軍は尾張と、知多半島を治めていた物部系穂積一族
この穂積の忍山の娘があの弟橘姫。知多半島「入海神社」には
穂積忍山が船で凱旋した話と、弟橘姫の髪が辿り着いた話があります。

[1130] 舟と神  QUBO 2005/03/13(Sun) 11:32 [Reply]
『手置帆負(たおきほおい)命』は現在でも最も身近な神の
一柱です。『彦狭知(ひこさしり)命』と共に、家を建てる時、
上棟祭(じょうとうさい)には、祀られています。
今はあまり行なわれませんが、
立柱祭(りっちゅうさい)、釿始祭(ちょうなはじめさい)
でも祀られるかみは、手置帆負命と彦狭知命の二柱です。
地鎮祭には声が掛からない所を見ると、明らかに木工の神々です。
神武天皇の橿原宮の製作にも登場します。
 http://www.kamnavi.net/kinokuni/minwa/kami1.htm
大国主を祀るにも、作笠者(かさつくり)、作盾者(たてつくり)
として登場しました。

現実に木製の笠も発掘されています。これはかなり大きい。
さらに松阪市の宝塚古墳から発掘された舟の埴輪には、はっきりと笠が
乗っているのが判ります。「蓋」(きぬがさ)とかかれています。
 http://www.city.matsusaka.mie.jp/bunka/S05/funegata/
またこの舟の部分(下の円筒を除く)には赤色の塗料が塗られます。
埴輪の舟なので、実際の舟に塗られたとは言えないのですが、
丹や弁柄ならば「素盞嗚尊は土で舟を造り」のことかと思います。
防腐剤としての実用と、聖なるもの=権力の象徴でしょうか。

ヤマトタケルが日高身の蝦夷を平定した時の船にも赤色塗料が
塗られていて、輝く鏡と共に、遠方からよく見えた(青草)

ところで日常では帆を背に負うことはありえない。つまり
追い風を受け、帆走している状態の神の名前だと思います。

何か誤解があるようなので再度〔1120〕カキコの部分
「帆走は、私も子供の時、池に筏を組んで、帆を利用して遊んだ
思い出があります。まあ帆とは言ってもベニヤ板二枚でしたが。」
つまり「帆走は自然発生的」、を言いたかっただけです。
実用性を考えての話ではありません。

アスファルト使用は、帆船海時代のイギリスの帆船の話です。
防水材としての使用で、接合材としての使用ではありません。
また、古代人が石槍を作る時は、接合材として使用例がある。
ですから私も[1128]の、神奈備様の解釈
「・・・漏れてこないように土で密閉・・・」と同様に考えています。
現代でも屋根などの防水に使用しています
「全日アスファルト防水事業協同組合」HP
 http://www.zennichiasu.jp/

[1129] Re[1127][1126]: 船の若干2  素人 2005/03/12(Sat) 20:50 [Reply]
>> 後の和船の基本形になる船です。
> 断面はパターン分類図のBXかCXあたりかなあ。
> 船底は刳舟で船首側からオモテ瓦、胴瓦、艫瓦と称する3つの材を接合しています。
 断面のパターン分類図は出口先生のだと思いますが読んだ事があります。
丸木舟は最近まで作られていて詳細な作成記録がたくさん残っており驚きました。
 同じ資料で瓦が樟だよりであった事を知りました。
はじめにお詫びしますが、引用が多すぎてすみません。
樟の木で出来た船底材。
木を刳り抜いて(くりぬいて)造った船が刳船です。構造船では半円筒状の胴部材は、屋根瓦(やねがわら)を思わせるところから、船瓦(ふながわら)もしくは瓦(かわら)と呼ばれました。(鎌倉時代(かまくらじだい)の大型海船より)
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00033/images/058_03.jpg
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00033/contents/029.htm
道真座乗の船の解説に舟の瓦材が樟であること大きさが樟材の大きさで決まることが書かれています。
「船底部は刳船部材から構成されるクスの複材刳船で、その寸法を仮定すると、全長は86尺(26メートル)、幅は8尺(2.4メートル)という長大なものとなるが、これとほぼ同じ大きさのクスの複材刳船(全長24メートル、幅2.1メートル)はかつて出土した例があるから、現実性のある数字である。それどころか、クスの巨材が豊富だった当時では、全長30メートル程度のものすら比較的容易に造り得たに違いない。」
『北野天神縁起絵巻』による13世紀初期の大型海船復元推定図(日本財団図書館より)
 http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1996/00726/contents/028.htm
樟材から多様な木材への移行。(樟は後の時代にも航に使われていますいい材料だったのでしょうか。)
「遅くとも15世紀には、準構造船の船底部の刳船部材を板材に置き換えた棚板造りの船が出現します。棚板造りとは、航(かわら)と呼ぶ船底材に数枚の棚板を重ね継ぎして、多数の船梁(ふなばり)で補強した船体構造のことです。<中略>
 棚板造りの船が準構造船と大きく異なるのは、船底材の形状だけですが、大型船では中棚を二段にした四階造りも使われました。しかし、刳船部材と違って板の航(かわら)はクスという特定の材を必要としないため、船材の選択範囲が広がり、造船が容易になったはずです。これは重要な進歩と言っていいでしょう。
 18世紀前期に棚板造りが船の大小を問わず全国に普及した結果、和船と言えば誰しもこの船体構造を思い浮かべることになります。」
遣明船(けんみんせん)(日本財団図書館より)
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00033/contents/030.htm
樟(大樹の森になると横に広がらず真っ直ぐに伸びるようです。例外はあるようです。)
クスノキ(泉大津市泉穴師(いずあなし)神社)
http://www.ne.jp/asahi/osaka/100ju/kusunoki.htm
五所神社のクス
http://fps01.plala.or.jp/~fotoat01/kana/kana10.html
ホームページ読ませていただいています大変ためになります。


[1129] Re[1127][1126]: 船の若干2  素人 2005/03/12(Sat) 20:50 [Reply]
>> 後の和船の基本形になる船です。
> 断面はパターン分類図のBXかCXあたりかなあ。
> 船底は刳舟で船首側からオモテ瓦、胴瓦、艫瓦と称する3つの材を接合しています。
 断面のパターン分類図は出口先生のだと思いますが読んだ事があります。
丸木舟は最近まで作られていて詳細な作成記録がたくさん残っており驚きました。
 同じ資料で瓦が樟だよりであった事を知りました。
はじめにお詫びしますが、引用が多すぎてすみません。
樟の木で出来た船底材。
木を刳り抜いて(くりぬいて)造った船が刳船です。構造船では半円筒状の胴部材は、屋根瓦(やねがわら)を思わせるところから、船瓦(ふながわら)もしくは瓦(かわら)と呼ばれました。(鎌倉時代(かまくらじだい)の大型海船より)
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00033/images/058_03.jpg
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00033/contents/029.htm
道真座乗の船の解説に舟の瓦材が樟であること大きさが樟材の大きさで決まることが書かれています。
「船底部は刳船部材から構成されるクスの複材刳船で、その寸法を仮定すると、全長は86尺(26メートル)、幅は8尺(2.4メートル)という長大なものとなるが、これとほぼ同じ大きさのクスの複材刳船(全長24メートル、幅2.1メートル)はかつて出土した例があるから、現実性のある数字である。それどころか、クスの巨材が豊富だった当時では、全長30メートル程度のものすら比較的容易に造り得たに違いない。」
『北野天神縁起絵巻』による13世紀初期の大型海船復元推定図(日本財団図書館より)
 http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1996/00726/contents/028.htm
樟材から多様な木材への移行。(樟は後の時代にも航に使われていますいい材料だったのでしょうか。)
「遅くとも15世紀には、準構造船の船底部の刳船部材を板材に置き換えた棚板造りの船が出現します。棚板造りとは、航(かわら)と呼ぶ船底材に数枚の棚板を重ね継ぎして、多数の船梁(ふなばり)で補強した船体構造のことです。<中略>
 棚板造りの船が準構造船と大きく異なるのは、船底材の形状だけですが、大型船では中棚を二段にした四階造りも使われました。しかし、刳船部材と違って板の航(かわら)はクスという特定の材を必要としないため、船材の選択範囲が広がり、造船が容易になったはずです。これは重要な進歩と言っていいでしょう。
 18世紀前期に棚板造りが船の大小を問わず全国に普及した結果、和船と言えば誰しもこの船体構造を思い浮かべることになります。」
遣明船(けんみんせん)(日本財団図書館より)
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00033/contents/030.htm
樟(大樹の森になると横に広がらず真っ直ぐに伸びるようです。例外はあるようです。)
クスノキ(泉大津市泉穴師(いずあなし)神社)
http://www.ne.jp/asahi/osaka/100ju/kusunoki.htm
五所神社のクス
http://fps01.plala.or.jp/~fotoat01/kana/kana10.html
ホームページ読ませていただいています大変ためになります。


[1128] Re[1126]: 船の若干1  神奈備 2005/03/12(Sat) 20:48 [Reply]
>
> アスファルト接合は聞いたことがありませんが、接着の場合には膨潤や温度による伸縮率が木材と異なると問題が起きるかも知れない。
> アスファルトを使う場合はやわらかいアスファルトでないとだめでしょうね。
>
> 木工ではニカワを使うことがまだまだあります。ある程度の柔軟性があり加熱すればはがれるので修理できるのが特徴。

史実のお話に神話を混ぜ込むのはいささかなのですが、『日本書紀』神代一書第四で、韓郷に降った素盞嗚尊は土で舟を造り、出雲にやって来ています。

また第五では、舟をつくるのに杉と樟としています。全体的には杉でつくり、漏れてこないように土で密閉したのでしょうが、アスファルトなら土と云う表現が当たりそうですね。

[1127] Re[1126]: 船の若干2  かたばみ [Mail] [Url] 2005/03/12(Sat) 11:29 [Reply]

鎌倉時代の船
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/fune_kamakura.jpg
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/fune_kamakura_kaisen.png

後の和船の基本形になる船です。
断面はパターン分類図のBXかCXあたりかなあ。
船底は刳舟で船首側からオモテ瓦、胴瓦、艫瓦と称する3つの材を接合しています。

吾妻鏡に源実朝(1203)が宋人に船を造らせ宋に渡ろうとしたとあります。
しかし完成した船を海へ進水させることができず、砂浜に鎮座したままとなったそうです(^^;
外洋型のV字船底で喫水が深かったために遠浅の由比ヶ浜では満潮になっても着底したままだったからだ、という説があります。

これらから、日本の造船は遣唐使以降でも宋(北宋〜南宋)の構造船技術を導入していなかったことがうかがえます。
遣唐使廃止以降に大型船による外洋航海がなくなり、AD759に大量生産した形式の船が必要十分として一般に定着したためだろうと考えています。



今のところ最古の丸木船は福井県鳥浜貝塚(BC3500頃)で材は杉、次いで千葉県鴨遺跡出土で材は椋ムク。
次いで関東地方で多数出土する丸木船の材は榧カヤ。
どれも加工しやすい木で、カヤは水にも強い。

アイヌの丸木船もカツラなど軽い材を使っていて重い材は嫌われたようです。
(カツラで寿命20年ほど、これらがない場合はドロノキなどで作ったらしいけれど寿命は半分らしい)
石斧を使ってアイヌの丸木船を作る実証映画をみましたが、柔らかい生木のうちに大急ぎで削ってゆきます。

のんびりやっているとヒビがはいってしまいます。
ときおり焼き焦がして掘るといった記述を見ますが・・そんなことできないと思う(^^;
(仕上げで表面をなめらかにする場合は別)

弥生では現物出土が少ないようですが、樟材が登場。
樟は水に強い木ではありませんが、成長が早くて杉と同様に巨木が得やすかったからではなかろうか。
(槙やカヤは水に強い)

広葉樹は木目が複雑ですからクサビで割るのは困難だと思います。
鉄器がほしいところで縄文では使いにくかったために樟の巨木がたくさん残り、弥生での鉄器登場とともに船材に使われるようになったのではないかと思っています。
(大阪いたち川出土の3材接合の丸木船の材は樟、古墳時代とみられるが不詳)


≫耐水性の大きい樹皮のついた部分であることが

刳舟(丸木船)で樹皮を残して使うことがあるのかなあ。
樹木の外周部分は成長中の柔らかい部分でシラタと称して腐りやすい部分です。
樹皮付きでは水の抵抗が増えるはずですし、これについては疑問があります。

絵図で黒っぽく書かれていることに理由があるなら耐食性を増すために、墨や柿渋を塗っているためであろうと推測します(黒板塀に同様)。

丸木船では最も強度があって腐りにくい芯材をほとんど削り取って捨てるわけで、材の利用としては損ですね。


[1126] 船の若干1  かたばみ [Mail] [Url] 2005/03/12(Sat) 11:20 [Reply]

丸木船から構造船へのパターン分類
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/fune_maruki_kouzou.png

弁財船の断面
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/fune_benzai_kouzou.png
上図の船底は出っ張っていますが、初期の形式ではフラットで後に安定性を増すために竜骨風になったそうです。

はぎ目は接合部を叩きつぶして接合します(一般木工では「木殺し」といいます)。
水に浸かると叩いた部分が膨張して水密になります。

摺り合わせ部分は摺鋸という特殊鋸で接合部を加工して、接合する面の形状を一致させるのだそうです。
しかしはぎ目のように完全水密にはできないので「槙皮マキハダ」を打ち込んで防水します。
これらは日本独特の技術で、いろいろな秘伝書が残っているようです。

−−−−−−−−−−−−−−
アイヌのイタオマチブでは縄で舷側材を縫い合わせるようにして接合し防水材には水苔を詰めています。
水苔なら水に強いのは間違いなしか。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/09/ainu02.gif

縫い合わせでの接合は分解して補修できるようにするためという論があります。
現在でも小口径の鋳鉄製排水管の接合部には麻(ジュート)の繊維を打ち込んで水封しています。

アスファルト接合は聞いたことがありませんが、接着の場合には膨潤や温度による伸縮率が木材と異なると問題が起きるかも知れない。
アスファルトを使う場合はやわらかいアスファルトでないとだめでしょうね。

木工ではニカワを使うことがまだまだあります。ある程度の柔軟性があり加熱すればはがれるので修理できるのが特徴。
木工ボンドは柔軟性はあるけれどはがせない。
古代での強固な接着なら漆もよさそうですが接着がいいかどうかはむずかしいところ。
−−−−−−−−−−−−−−

肋骨(竜骨)はありませんがはぎ目で作った厚板(現代でいう集成材)を使うので頑丈さでひけをとることはなく、小さい船から大きい船まで同じ技法で造ることができ、経済性も優れているようです。

しかし、ある規模以上の巨船化はできなかった。
甲殻類が脊椎動物のように巨大化できなかったのと同じだと思います。

和船の甲板は水密ではなく大波を受けると浸水するのが欠点ですが、沿岸航海専用で青空天井による荷積みの制約がないことを優先したのでしょう。


宋の出土船(AD1000〜AD1200頃)
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/fune_sou_senshyu.jpg
水密壁で船内が区画されていますが、この手法は世界最古です。

遣唐使船
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/fune_kentoushi01.jpg
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/fune_kentoushi02.jpg

遣唐使船の形状は資料が乏しく推定にならざるを得ません。
「入唐求法巡礼行記」や続日本紀、続続日本紀に書かれる構造部材の呼称の判断と、円仁が座礁難破したときの記述に船が左右に何度も傾いたということから断面が外洋形のV字断面だったことが推定できるようです。

上図の遣唐使船はそれらや宋船に基づく復元と思われます。
船首がちと納得できない形状なのは、情報がないので復元していないのかもしれない。
帆はジャンク形の帆になっています。
遣唐使船は以降の和船の状況からみて輸入した船だとみています。
(難破が多いのは船員が外洋航海に未熟だったからだと推定)

AD759に大和王朝は新羅攻撃用の船500隻を北陸と西日本各地に作らせますが、新羅攻撃は中止となります。
500隻もの船がいらなくなった・・民間に払い下げになり、以降の和船の原形になったのではないかと考えています。

これが百済系の造船だったとしても百済が必要な船は黄海を横断できればよいもので外洋船ではないと思う。
百済といっても王族が扶余系(内陸系)だというだけで、船は古来からの朝鮮半島南西岸の船で倭の船と大差ないものだったと思います。
対馬海峡を横断できれば十分の船でもあります。

なお、和船の1枚帆(横帆)でも風に立って進むことが可能ですが、1枚帆だと操縦性が悪いようです。
船体が平底で直進性が悪いと風や潮流に流されやすくもなります。
遣唐使船や遣明船など外洋用では2枚帆、船体もV字断面が必要でしょう。


ベニア板じゃないけど最古の帆であろうものを現代でも使ってる人がおります。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/fune_pfilippine_kataba.jpg

これが発達すると
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/fune_indonesia.jpg
といったところか。
以下は帆の代表的な形式
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/ho03.gif

ピローグ→ラティン→ジャンクへの発達は外洋航海のできる帆。
逆風でも目的地に向かわないと水がなくなる(^^;
こちらは操縦性重視かなあ。

エジプトの帆と同様の和船の横帆、どちらも沿岸航海。
横帆は面積が大きく取れそうですから順風での効率がよさそう。
風向きが良くなければ何日でも湊でのんびり。




[1125] Re [1124]鎧  QUBO 2005/03/11(Fri) 09:55 [Reply]
槇肌(マキハダ、マイハダ)
http://prowd.mboso.ne.jp/1100-236koyamaki.htm
この「マイハダ」という表現が舟に使う通常の言葉では?
イギリスの帆船では、マニラ麻のロープをほぐし、楔を使って
隙間に埋め込んでましたが「マイハダ」と訳してましたね。
「アスファルトの使用」もイギリスの戦艦での話でして、
日本では槍の穂先に石を結び付け、アスファルトで強化してます。
おっしゃる通り、舟に使っている例は存じません

桧肌(ヒハダ=ヒワダ)では、通常屋根を葺いてますね
http://www5f.biglobe.ne.jp/~yaneko320/page003.html

『莚帆』は安いから通常使用、但し風が抜ける。そこで
本格的に帆走するときは、布製の帆を張りました。
戦闘とか、逃走のときですね。高いですから特別な時用です。
微風でも帆走しなければならない時には、風が抜けにくいように、
帆に水をかけたりもしてます。

ところで神名『手置帆負命(たおきほひのみこと)』は、
帆船を造った人が神格化した名前だと思うのですが。
櫓を漕がずに、手を置いている、と言うことでね。
舟つくりが、家つくりを兼ねる例は、東南アジアでは有ります。

[1124] Re[1121][1120]鎧継ぎ  素人 2005/03/10(Thu) 22:56 [Reply]
> 弥生・古墳時代ごろからの大型化のための2本継ぎや複材刳り舟では部材を継いでいますから当時、流通していたアスファルトを使ったかも知れません。他のパッキング材には桧肌(ヒワダ)なんかも使ったのでしょうか。
 すみません、「桧肌」は間違いでマキハダでした。
素人が、又間違えました。
「マキハダ」はマキもしくはヒノキといった樹皮をほぐし、柔らかくして縄状に加工したもので最近はヒノキが主流です。
マキハダと製法 木江ふれあい郷土資料館(大崎島船の資料館)
http://www.pref.hiroshima.jp/soumu/closeup/200309/sep2003c.html
発掘された資料では接合部が大変に良く残っていますのでアスファルトの使用も考えられますが、確認はされていないようです。マキハダは使用されていました。
古墳時代と推定されている樟の大型複材刳舟。(両方とも戦災で失われました。)
文献より抜粋。
大阪市鼬(いたち)川-明治十一年発掘 
長さ11.6m×幅1.2m×深さ0.55m、樟材の三材刳り舟と推定されており全長15m。
継ぎは1.7mの長い印籠継ぎで固定は閂技法。金釘を用いない強い継ぎである。
本などには写真、図が残っている。防水はマキハダで行っている。
「鼬(いたち)川くり船発掘の地」の碑
http://www.city.osaka.jp/naniwa/spot/monument/itachi.html
大阪市今福鯰江川-大正六年発掘
長さ13.46m×幅1.89m×深さ0.81m。樟の複材刳舟。
はめ込み式で一方に凸部を刻み、他方に凹を刻んではめ込んでマキハダで防水した後に
鉄釘を交互に打ち込んで接合している。
三郷橋の丸木舟と祠
今福交番の北側には、発掘当時に建てられた鳥居のある社が祀られています。
http://www.city.osaka.jp/joto/history/meisyo_14.html

 ベニヤの帆が出ていましたが、古くから日本は稲作地域ですから稲から取れる藁を安で作る筵(むしろ)が作られていました。これに横木の棒を上に取り付けて真ん中辺を長い棒に縛り付けて立てると帆らしいものになります。
巻かれた筵帆が描かれています。樟の準構造船と思われます。
一遍聖絵 1299年頃 朝日新聞 週間日本の歴史 船尾よりに屋形、4人の漕ぎ手 通行許可証を掲げている 帆柱中央1本で莚帆が降ろされている。舵は船尾中央
http://www3.kcn.ne.jp/~yurusu/ship2%20ippen.jpg
筵帆での帆走を見ることが出来ます。
山中常盤絵巻 朝日新聞 週間日本の歴史
一本の帆柱、舵は船尾中央莚帆
http://www3.kcn.ne.jp/~yurusu/ship2%20yamanakatokiwa.jpg


[1123] 無題  サン・グリーン [Mail] [Url] 2005/03/10(Thu) 13:02 [Reply]
神奈備さま、みなさまへ
本日(10日)のNHK「ご近所の底力」で貴志川線廃線問題に取り組んでいる
その後の沿線の方々の活動報告が放映されるそうです。
伊太祁曽神社の奥宮司さんも出られるとの事。
なんとか存続してもらわないと、車のない私たちは困るのです。


[1121] Re[1120]鎧継ぎ  素人 2005/03/09(Wed) 02:28 [Reply]
> 船を造るときに、この板の間を、秋田や新潟でとれた
> アスファルトを埋めていたのかなあ?などと思っています。
張り合わせの件、素人が不正確な情報ですみません。
こちらの方は大変に詳しいので驚いています。
弥生・古墳時代ごろからの大型化のための2本継ぎや複材刳り舟では部材を継いでいますから当時、流通していたアスファルトを使ったかも知れません。他のパッキング材には桧肌(ヒワダ)なんかも使ったのでしょうか。
三材刳り船(帆船ではない。)
弥生以後の大型化の基本構造そうですから調べてみました。
日本の古い船を理解するのによい「法然上人絵伝」 1300年頃の絵が有ります。
法然上人絵伝 1300年頃 朝日新聞 週間日本の歴史
船首・胴・船尾の三材刳り船であることがはっきりと分かる
http://www3.kcn.ne.jp/~yurusu/ship2%20hounensyounin2.jpg
船首・胴・船尾を真っ直ぐで枝の無い樟の巨木の丸太を切り出し、楔を打って半分に割って凸凹の無い半割を両端のサンを残して薄い半円筒として胴を作り、残りの半分から胴に会うように適当な部分を切り出して船首・船尾を作成して胴体に接合して三材刳り舟を作成している。丸木の刳り材ですから水に接する外側(黒い部分)は耐水性の大きい樹皮のついた部分であることが、細密画の樹皮のはがれ部分からも確認できます。その上、木材に長期にわたって防虫作用のある樟脳が含まれるのでさらに耐久性が向上していると推測されます。ほぼ一体構造で耐久性・耐水性・防虫性の高い刳り舟は実用的には優れた船であったと考えられます。問題はクスノキの直径で船の幅が決まってしまうことで、大型船が困難であったことぐらいでしょうか。
刳りぬいた中に水を入れて焼き石を入れたり、加熱したりして柔らかくして上部を広げたりは縄文期からしていたようです。樟でははっきりしませんが技術はあったようです。
三材刳り舟から古代の埴輪船にも先祖戻り出来ますし、胴の部分をもう一本継いで上部の脇に板を張れば鎌倉時代の大型帆船が完成します。古代から15世紀までの船の基礎のように思えます。意外に薄く軽量な船体で丸木舟と言うよりFRP船と言う感じです。
古代から17世紀まで樹皮付の良質樟巨材は日本の造船においてなくてはならない物であったようです。(後期は小型船)良質材料の枯渇で消えた船かもしれません。

[1120] Re鎧継ぎ  QUBO 2005/03/08(Tue) 13:47 [Reply]
素人 様
いろいろな解説有難うございました。
『・・・左が平張り、右が鎧張り・・・』
で判りました。通常は『鎧張り』ですね。『鎧継ぎ』
と書かれたので理解できませんでしたが、良く判りました。

船を造るときに、この板の間を、秋田や新潟でとれた
アスファルトを埋めていたのかなあ?などと思っています。
インドの漁民は、今でも平張りで造った船で、
結構外洋に出ていますよ。もちろん帆も張ってね。

帆走は、私も子供の時、池に筏を組んで、帆を利用して遊んだ
思い出があります。まあ帆とは言ってもベニヤ板二枚でしたが。
風が一方向なので、一度風を利用すると元の位置まで筏を戻さ
なければならず、その手間はけっこう大変でした。

[1119] Re[1117][1116]: 質問 Re[1115]鎧継ぎ  素人 2005/03/07(Mon) 00:23 [Reply]
こちらでは古代船などの議論がいろいろされており恐縮ですが樟との関連で書かせていただきます。
> その通りですが、帆船に付き物の古代の舵、櫓舵(複舵)などの描かれた土器などは出ているのですが、帆走しているはっきりとした絵などが出ていないからのようです。
御存知のことと思いますが舵の変遷について書かせていただきます。
 帆船での櫂舵(副舵、櫓舵、三割柁(さんぷくだ))から10世紀頃に東アジアでは真ん中に付く正舵への切り替え期で宋時代に共存した後に正舵へと変化したようです。

地中海地域での櫂舵(副舵、櫓舵)
エジプトの商船の復元模型(前1500年頃)(大きい櫂舵が帆船の船尾左右に有る。)
出所:H.ホッジス、平田寛訳『技術の誕生』、p.169、平凡社、1975(原著1970)。
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi1/img009.jpg
前500年頃のギリシア商船の復元図(帆船の船尾に櫂舵が描かれている。)
出所:前同、p.215。
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi1/img011.jpg
ローマ(オスティア)の帆走商船のモザイク 出所:前同、p.247。
操舵具は、エジプト時代はもとよりギリシア時代に入っても、船尾や舷側に縛り付けられた、1本または2本の大型の櫂舵であった。
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi1/img012.jpg
掲載ページ
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi1/page013.html

日本古代
櫂が7本、櫓らしきものも見え真ん中には帆が張られているのが見える。(帆ではなく旗という説もあり、別資料の実測図をみるとなるほど旗として描いてある。しかし私は簡単な帆の原型のようなものであろうと考える。) 櫂舵の使用が見られる。
http://inoues.net/science/funetubo2.jpg
http://inoues.net/science/war.html
宋時代
舵は、宋の外洋船では船尾中央の正柁と船尾両側の三割柁(さんぷくだ)とがあることになっているが、三割柁は『吉備大臣入唐絵詞』の船の左舷に明瞭に描いてあって、これもまた史料と絵画とがよく符合する例となっている。(宋時代は櫂舵から通常の正舵への過渡期)(日本財団Web)
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1996/00726/contents/026.htm
吉備大臣入唐絵巻 集英社 日本の歴史
遣唐使船、三つの屋形 帆柱は二本 船尾左舷に三割柁(艪舵、櫂舵)
http://www3.kcn.ne.jp/~yurusu/ship2%20kentousisenkibi%20.jpg



[1118] Re[1094]: 鳥は、異界間のトラベラー  かたばみ [Mail] [Url] 2005/03/06(Sun) 18:36 [Reply]

≫本来鳥居は柱に鳥像を捧げて、神(あるいは王)の表徴(守護神)としたり、神域や部族 地の境界の界標

鳥居とはなにかについては各論ありますね。
私は「門」だったもののひとつで、日本でいろいろが複合した結果が現代の鳥居だと考えています。

以下はタイのアカ族の門(現在ではほとんど失われている)
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/bunka_torii.jpg
横木が3段になっているようにみえますが、実際には前後に3つの門が並んでいて毎年新たに作るのだそうです。

門の右にみえるセックス系の木偶はラポマといって、木の鳥に乗って「空の海」からやってくる神を見ているのだ、という古老の話があるそうです(日本民族文化体系・稲と鉄/小学館)。
「鳥に乗ってやってくる神」、ここにも河姆渡や良渚の太陽を運ぶ鳥の名残があるとみております。

それが稲作や豊饒(男女の性器など)にもつながってゆく。
日本では道祖神、村の入り口を見張ることが浮かび上がり、さらにある地域への出入りを監視するように専門化するなら塞神か。

三角紋様は銅鐸などでいう鋸歯紋キョシモン、蛇の象徴化だとみています。
これは「鳥に乗ってやってくる神」より前からあったもので縄文の蛇と共通じゃないかなあ。
日本では注連縄に特化か。


済州島では竹竿のてっぺんに同様の鳥をつけて村の入り口に立てていたそうで、朝鮮半島の蘇塗もおそらくは同系か。
こちらは魏志韓伝にある樹木に鈴や太鼓を取り付ける祭祀(北方系シャーマニズムらしい)が混じり込んでいるかもしれない。

蘇塗に縄を巻き付けるのは蛇だとみます。
生命樹の概念も混じっていそう。

日本で出土する鳥の木彫がどちらの形で使われたかはいまのところ不明。
両方あったのかもしれない。
どこのなにが伝播した、なんて単純なものではなく、いろいろがそれぞれに共通項を持ちながらその地域で複合して現在に至っているのだと思います。

鳥居の様々論に追加する持論(^^;
鳥のサンクチュアリになっていただろう古墳、その入り口の門にたくさんの鳥がとまるのをみて、神域の門=鳥の居る門の呼称が定着した。


≫『春秋左氏伝』の魯王昭公(在位BC541-510)伝・十七年の条の一節より

これらはショウコウという氏族の名に鳥を用いる由来の話。
ショウコウが即位(部族の王?)するとき鳳凰が飛んできたので以降鳥の名を用いるようになった。
いわんとしていることは、この段の最後に書かれる「天子のもとで古代の制度が失われても、遠方の小国にはそれが保存される」ですね。

これは現代でも通用すると思います。
どこかの町の合併でお上から町名にカタカナ名が使われたが住民はこれを拒否した、とか(^^;


[1117] Re[1116]: 質問 Re[1115]鎧継ぎ  素人 2005/03/06(Sun) 01:17 [Reply]
> 船の板継ぎに『鎧継ぎ』と言う特殊な接合法を用いていたようです。
> 大変に興味があります
> 『鎧継ぎ』とは、何時の時代の、何処の話でしょうか?
> また具体的にどんな接合方法でしょうか?教えてください。
幅の狭い材料を重ねて継ぎ合わせる方法のようです。
参考画像(左が平張り、右が鎧張り(重ね張りの方がいいかもしれません。)
http://www9.plala.or.jp/NUMBER12/town/yoroibari.jpg
バイキング船を見ると良くわかります。(バイキング船以降と思われます。)
http://www.interq.or.jp/shikoku/toru/hokuou31.htm
日本では船底部は一体構造の刳り舟で15世紀まで板継ぎは存在しません。(今風で言えばFRP一体構造のようなもので丈夫だったかもしれません。巨船には超巨木が必要だったようです。)準構造船です。

> 帆走技術
> 何を指しているのでしょうか?帆を揚げるのは自然発生だと思いますが。
> たとえば夏に手漕ぎボートで風を体感すれば、自然に利用しようと考えますから。
その通りですが、帆船に付き物の古代の舵、櫓舵(複舵)などの描かれた土器などは出ているのですが、帆走しているはっきりとした絵などが出ていないからのようです。
現在いろいろ調べているのですが、船である程度わかるのは鎌倉期ごろまでのようです。この時期の船の運用から日本では帆柱は停泊中や櫓での走行中、風待ちの時は帆を倒しており、帆走時のみ帆柱を立てて帆走したとのことです。港への入港時や停泊中は帆が倒してあったために描かれていないのかもしれません。
確証が無いと当時の日本は後進地で帆走は無かったのではなどとなりそうです。
はっきりしたことは解かりません。
ただ樟材と日本の海船との関係は古来から17世紀頃まで切っても切れないものだったことは解かってきました。まっすぐ伸びた枝の無い良質の樟の巨木は消費され続けたようです。その為か樟材として良質な巨木は少ないようです。とても優れた素材だったようです。素人ですからこの程度で。

[1116] 質問 Re[1115]鎧継ぎ  QUBO 2005/03/05(Sat) 10:51 [Reply]
> 船の板継ぎに『鎧継ぎ』と言う特殊な接合法を用いていたようです。
大変に興味があります
『鎧継ぎ』とは、何時の時代の、何処の話でしょうか?
また具体的にどんな接合方法でしょうか?教えてください。

> 帆走技術
何を指しているのでしょうか?帆を揚げるのは自然発生だと思いますが。
たとえば夏に手漕ぎボートで風を体感すれば、自然に利用しようと考えますから。

[1115] Re[1090]: 樟  素人 2005/03/03(Thu) 21:18 [Reply]
>材料の大きさから帆船でないと外洋での航海は困難と思いますが、地中海では古代から帆船は有るようですが、東アジアでは残念ながらはっきりしないようです。
追加情報ですが、外洋航行の必要条件、帆走の歴史を調べてみました。
地中海地域では早くから帆走していたようです。
古代の船の技術史(エジプトでは紀元前3000年期の初期にはエジプトの先王朝時代の非常にまずい絵からは、初期のいくつかの[アシ製の]小舟は帆走していたことが示唆される。)
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi1/page013.html
Ships and Boats(古代エジプト、帆船の図)
The archaeological evidence
http://nefertiti.iwebland.com/timelines/topics/navigation.htm
Ancient Ships: The Ships of Antiquity(ローマ、ガレー船にも帆が有った。)
Roman Galleons
http://www.artsales.com/Ancient%20Ships/mRomanGalleons.htm
アジア地域(帆船の技術は先進地、地中海地域から順次、伝播したと考えられる。)
古代アジアにおける海上交易(古代に東アジアでは、大型帆船は南より来たようです。)
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi2/page004.html
200年代〜400年ごろ 古墳時代、帆船の登場(論拠不明)
古墳時代(200年代〜400年代)には、すでに簡単な帆があらわれていたようです
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse028.html
東アジアでの帆走の歴史ははっきりしないようです。ただ難破船の後進地域への漂着などでの修理協力等で造船技術、帆走技術が後進漂着地域に伝播され伝承されることによる高度技術の獲得の可能性は船では有ると思います。
7世紀頃から登場するバイキングは25m位の薄べったい船による、四角い帆での帆走で大西洋まで航行しています。外洋横断は地中海の船では無理なようで、大変に興味があります。船の板継ぎに鎧継ぎと言う特殊な接合法を用いていたようです。


[1114] Re[1112][1106]: お尋ねします。  サン・グリーン [Mail] [Url] 2005/03/03(Thu) 10:41 [Reply]
> ども、お邪魔いたします。
> 位置関係からしても候補になるか分かりませんので、無関係でしたら申し訳ありませんm(__)m
>
> 月ヶ瀬村 大神神社

さすが、神奈備一族!古代やまとの守り人ZOUさんならではの情報、心よりお礼申し上げます。それにしても月ヶ瀬に「月夜見命」をお祭りする神社があるとは知りませんでした。
ZOUさん、ありがとうございます。
さっそく尋ねてきた知人にお伝えしますね。
ちなみにその方は、天の香具山の前のプレハブで「香具山の案内人」をされていました。今は体調を壊してお休みしておられるのですが、どなたにでもお茶をご馳走して香具山だけでなく大和を案内していた「香具山の翁」なので、もしかしてご存知の方がいるかも?
きっと、喜ばれると思います。

[1112] Re[1106]: お尋ねします。  ZOU [Mail] [Url] 2005/03/01(Tue) 23:56 [Reply]
ども、お邪魔いたします。
位置関係からしても候補になるか分かりませんので、無関係でしたら申し訳ありませんm(__)m

月ヶ瀬村 大神神社
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=250000&el=136%2F01%2F36.652&pnf=1&size=500%2C500&nl=34%2F41%2F58.264
写真をUPされている方がいらっしゃいました。
http://album.nikon-image.com/nk/NAlbumPage.asp?key=505417&un=68743&id=51&m=2&s=0

三輪からの勧請だそうですが(奈良県史5)、摂末の関係は分かりません。
失礼いたしました。

[1111] 鳥いろいろ  かたばみ [Mail] [Url] 2005/03/01(Tue) 23:54 [Reply]

1101
≫白鳥が飛び去った後に種を播く、収穫が出来る、また白鳥が飛んでくる
1102
≫私ヤマトタケル稲作農業指導普及委員では?説、いまだに少し信じてます

ハクチョウは草食で刈り取った後の田圃が大事な餌場になっていますから、稲とジョイントしてゆくと思います。
ねぐらは流れのない水面、田圃と安全な湖沼のある場所が絶好のペア。

サギは魚など肉食ですから稲とは関係なさそう(ねぐらは林)。
ツルは雑食ですから稲(籾)を食べることもあるかもしれない(ねぐらは田圃など)。

1099
≫弓の上にとまった金鵄とはガルーダのことらしい

ガルダの体は人間で金色、顔その他は鷲、顔は白で翼は赤、ブラフマー神の子だそうです。
蛇族と賭をした鳥族は賭に負けて蛇族の支配下にあったけれど、なんだかんだを略しまして、ヴィシュヌ神がガルダに高位を与えて自分の乗り物にした(インド神話伝説辞典/東京堂出版)。

伎楽面のカルラはガルーダだと思いますが、日本での登場は西域文化ないし仏教渡来以降になると思います。


ハシブトガラスは人里近くで生活するのを得意とする鳥のようです。
人間側もゴミをきれいにしてくれたりネズミを獲ったりで歓迎していたのではないか。
カラスがいることは人里が近いことを示すのではないか。
これが神武東征の八咫ガラスの道案内の伝承につながったもので、源には事実があるとみています。


[1110] 鳥の青草話メモ  神奈備 2005/03/01(Tue) 20:30 [Reply]
素盞嗚尊、五十猛命は新羅の国から樹種を持って出雲の鳥上峰に下りました。

 伊豆半島の南端の河津桜で有名な河津町に杉鉾別命神社が鎮座、ここに神が酒に酔っぱらって野原の枯れ草の中で眠ってしまった。その時野火が起こり、命はすっかり取り囲まれて絶対絶命の状態になった。するとどこからともなく小鳥の大群がやってきて、濡れている羽から水滴をたらしていった。いくどもいくども繰り返された。さしもの野火も消え、命は危うく一命をとりとめることができた。
との伝承があり、氏子達は12月17日から24日までの間酒を断ち小鳥を捕らないそうです。

 ここの神は小鳥をあやつる神、鳥の王の神です。五十猛命は全国各地に樹種を播き、この国を青山となした有功の神です。離れ小島に樹種を播くのは鳥です。五十猛命は鳥の王の神なのです。だかた天降った場所を、鳥上峰といいます。

[1109] 反省!  サン・グリーン [Url] 2005/03/01(Tue) 10:38 [Reply]
神奈備さま・コイカワてぃ様、みなさまへ
本当に「茫漠」とした質問をしてしまって申し訳ありませんでした。
実は、「鳥と古代、または鳥と神々」を語る会で神奈備さまに直接お尋ねしようと思ったのですが、議論が弾んで個人的にお声を掛けれなかったので、ついついこの青草に書き込んでしまいました。こんな無茶な質問でも「神奈備一族」のどなたかならひょっとしてご存知かも? なんてちょっと無茶でしたね。反省!
質問を撤収いたしまぁ〜す。

[1108] Re[1106]: んなッ、無茶な〜  濃い側てぃ 2005/03/01(Tue) 00:56 [Reply]
サン・グリーンさんならば、この設問(条件)が、かなり『茫漠』なことを自覚された上でのご投稿だとは思うのですが・・・、何かのご託宣だったのでしょうか?

> 「大神神社の末社で、奈良県と三重県の境にあり、今は無人かも知れないが、昔、三輪さんという方が神主をしていた神社」を探している方がいます。どなたかご存知でしたら教えていただけないでしょうか?

 どんな規模の神社(小祠だけなら大変だ)なのか、どれくらいの『昔』なのか、etc., etc.,もっともっと引き出してくだされまし〜。これだけの情報では、ゴロゴ13でもミッションを遂行できまへん。

[1107] Re[1106]: お尋ねします。  神奈備 2005/02/28(Mon) 20:13 [Reply]
奈良と三重の県境とは
山添村、都祁村、室生村、曽爾村、御杖村、東吉野村、川上村、上北山村、下北山村
ですね。
『神奈備・大神・三輪明神』もしくは玄松子さんhttp://www.genbu.net/data/yamato/oomiwa_title.htm
の全摂社末社表を見ても、桜井市と奈良市以外には見当たりません。ましてや三重県側にも。

> 大神神社の末社
これは現在でもそうなのか、昔のことなのか、はたまた勧請社の勘違いではなかろうか、など疑問がでてきます。



[1106] お尋ねします。  サン・グリーン [Url] 2005/02/28(Mon) 17:08 [Reply]
神奈備さま、みなさまへ
突然の質問お許しください。
「大神神社の末社で、奈良県と三重県の境にあり、今は無人かも知れないが、昔、三輪さんという方が神主をしていた神社」を探している方がいます。どなたかご存知でしたら教えていただけないでしょうか?
よろしくおねがいいたします。




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