青草談話室ログ平十七年 四月
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[1177] 月神のお話−6(最終回)  神奈備 2005/04/29(Fri) 17:36 [Reply]
 神功皇后の征韓の舟の先導神は月神であり、高良玉垂神社の祭神となっているとのこと。日神を先導する月神。夜明け前の左弦の月はあたかも日神を先導しているように見えます。『記紀』には住吉大神が先導とあります。この住吉大神と安曇の大神とは塩土翁神を根底に持っていることから、これらの神々は古層の神々が新しい姿をとっったものと言えるでしょう。他に先導した神として、諏訪大神、安曇磯良神、『播磨国風土記』に登場する御舟前韓国伊太テ神なども古層の神を背負った月神の片鱗があるのでしょう。
 
 応神の皇子達は応神天皇からそれぞれの役割を与えられました。

古事記  大山守( 海山 )   大雀命(食国の補佐)   和紀郎子(天日継)
日本書紀 大山守(山川林野)   大雀命(太子の補佐)   和紀郎子(後継)

 三貴子もそれぞれ分担があります。
古事記  素盞嗚尊( 海原 )   月読神(夜の食国)   天照大神(高天原)
紀一書六 素盞嗚尊(天の下 )   月読神(滄海原 )   天照大神(高天原)
紀一書七 素盞嗚尊(滄海原 )   月読神(天の下 )   天照大神(高天原)

 大雀命と月読神、大山守と素盞嗚尊、和紀郎子は天照大神と対比されて描かれています。大山守は川で溺れ死ぬのですが、これは素盞嗚尊が雨の中を高天原を追われて降りてくるのに当たるのでしょう。和紀郎子は天上界へ旅立ちます。

 人皇第一代かも知れない大雀命(仁徳天皇)は月神の後裔だったのです。大雀命は黒比売をおいかけて吉備に行きます。吉備から分銅形の土製品が出土、これは銀杏葉形で眉月があり、死と再生が語られている縄文土器であり、月神の国であったのです。大雀命の皇后は葛城の石の比売であり、葛城と吉備の勢力をも見方につけた河内王朝の祖だったのでしょう。後の神としての石の比売、シャクジがここでも働いています。

 名前の交換のお話があります。武内宿禰の子が生まれる際、ミソサザイが産屋に飛び込み、大雀命が誕生の際にはミミズクが飛び込むのです。同じ日です。鳥の名前を交換して名をつけるのですが、元々は大雀命は木莵命とでも名乗るところだったのでしょう。ツク、月の命そのものです。
<終わり>

[1176] 月神のお話−5  神奈備 2005/04/28(Thu) 08:18 [Reply]
 大山祇神の娘に石長姫と木華咲耶姫がいました。石長姫とサクヤ姫、古層の神々を彷彿とさせる神名ではありませんか。木華は後から飾ったもので、物語として面白くしたものでしょう。サクヤ姫とカグヤ姫もまたどっかでつながっているのでしょう。塩土翁が目無籠を作りましたが、何となく、竹取の翁を連想させます。籠耶姫。

 隼人の入れ墨の風習は大伴氏にも残っており、信濃国佐久郡に大伴神社が鎮座しており、ここの祭神は月読神です。この辺りには古層の神々が集約されていそうです。

 『肥前国風土記』松浦の郡の条に値嘉の郷のことが記されています。
 海の中に島があって烟が沢山たなびいていた。阿曇連百足が見に行くと、島が八十余りもあって、二つの島に人がいた。近島と名付けた。土蜘蛛は降伏した。その島の白水郎は容貌が隼人に似ている。

 『筑前国風土記逸文』にも、近島が出てきます。志賀島のことです。安曇の本拠地で志賀海神社が鎮座。安曇磯良は安曇の祖。福岡県大川市の風浪神社に安曇磯良の木像があり、手には潮満玉、潮涸玉を持っています。安曇には白水郎、入れ墨と隼人系の伝承が色濃く残っており、南方系の人々だったのでしょう。
 
 山城国葛野郡の月読神社は壱岐島から勧請されてきのですが、壱岐の月神はやはり南から持ち込まれたもののようです。対馬は月神信仰よりはお天道さまの日神信仰が色濃い島であり、ここから壱岐に月神が持ち込まれたのではなさそうです。

[1175] 月神のお話−4  神奈備 2005/04/27(Wed) 08:28 [Reply]
 『日本書紀』(一書 第十一)に月夜見尊が保食神を殺す話がのっています。
 葦原中国の保食神のもとに行った月夜見尊は保食神が口から、米の飯、大小の魚、毛皮の動物を出したのを見て、汚らわしいことだと、保食神を撃ち殺した。
遺骸の頭は牛と馬、額は栗、眉は蚕、眼には稗、腹には稲、陰には麦、大豆、小豆が生じた。

 このお話は、南洋にある月娘ハイヌウエレの根茎栽培神話の焼き直しのようです。
ココ椰子から生まれた少女を祭りの日に殺して埋める。これを掘り起こしバラバラにして埋めると、体の各部はイモとなった。

 『古事記』では、素盞嗚尊が殺す役割を負うのですが、『日本書紀』では月夜見尊。月夜見尊の方が古い伝承のようですが、いずれも古層の神の仕業として記述されているのでしょう。素盞嗚尊も荒神としてはシャクジの神の流れを受け継いでいるのでしょう。

 南洋から薩摩の国に伝わり、オツキサー、オツキドンと月神を祀る石の祠があるそうです。話は後世に飛びますが、山城綴喜郡に月読神社が鎮座、大住と云う場所で、大住隼人が移住して勧請したとされています。

 山幸彦が竜宮の海神を訪ねて行き、潮満玉、潮涸玉を貰って帰るのですが、この二つの玉は月の機能そのものを発露させるもので、海神とは月神であったと言えます。日嗣ぎの御子が月神の娘を娶り、皇室の祖先となっているのです。
 薩摩には鹿児島神宮が鎮座、その元社は石体宮とされています。シャグジであるのか、月神であるのか、いずれにしても根源の神は古い縄文の息吹がながれているようです。

[1174] 月神のお話−3  神奈備 2005/04/26(Tue) 16:11 [Reply]
 縄文中期の中部高地と云えば、御射口神、シャクジ神の信仰が既にあったのでしょう。縄文の塞の神で、時として石神の形で表現されていたのです。石神をしてシャクジンと訓めるのですが、シャクジであってジンではないのです。石神の音読ではないと、『石神問答』の中で、柳田国男翁も強調しているのです。
 縄文時代にその萌芽のあった月神信仰、月神の降臨はやはり石であったのでしょう。それが後の山城は大住の月読神社の神は神南備山頂の石に降りているようです。話は飛躍しますが、鹿児島神宮は石体宮を元社としているようで、根源にシャクジないしは月神への信仰があったのかも知れません。
 シャクジの神は宿神、左宮司、左久神、作神、社口、佐軍、三狐などと表記されます。ルールはS+K(G)と云うことです。顔面把手付深鉢は酒造り用の鉢だそうで、酒は古語ではササ、クシであり、サケと云う言葉があったのかどうかですが、神に捧げる酒、また海や川からの神の贈り物は鮭であり、これもSK、神々のたむろする所、境、坂、崎、宿、関、底、これらはいずれもS+K、縄文時代からの信仰、古層の信仰のキイワードがS+Kなのです。

[1173] Re[1172]: 月神のお話−2  かたばみ [Mail] [Url] 2005/04/25(Mon) 20:58 [Reply]

≫顔面把手付深鉢や有孔鍔付土器の中には、蛙が壷にしがみついて

しばらく間があきましたが赤の文化、これと関連しそうでたいへん興味深い蛙であります。
http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri/ido005.html

なお上記HPには「月と蛙と女性の複合からなる太陰的思想は、新石器農耕文化に特徴的な世界観であったと解釈される」とありますが・・
これは縄文土器の時代に農耕があったことを説明する必要があってちと疑問、後述。

中国での赤の葬礼をみつけました。
ひとつはBC1000頃の山東半島での殷ないし周の貴族の墓。
もうひとつは黄河中流域のBC2000頃の二里頭文化圏の陶寺遺跡の大型墓で木棺の底に「朱砂」が敷き詰められています。
これらは赤の文化で書きます。

二里頭文化は殷(商)の前身でもあり、仰韶文化と長江系文化の合体ともされ、史記に書かれる「夏」であることがほぼ確実になっています。

赤の文化は旧石器文化(北方系、狩猟)にあったことは列島の状況から確実。
仰韶文化は北方系(狩猟系)が濃い。
縄文土器の蛙も北方系文化の痕跡を示すのではないか(蛇は南方系だと思う)。

蛙(月)は北方系狩猟文化のものであって、列島では縄文土器や月弓神として残り、中国では「月には蟾蜍というヒキガエルが住む」という伝承に残った。
そう考えたいところです。

そうすると、赤の文化も同様であり、山東半島の赤はずばりの位置と年代になるのであります(^^)
源を同じにするふたつの流れと混合が中国と列島で独自に生じ、結果として類似の事象を生み出した・・単純伝播じゃない。

海洋あるいは農耕の流れが太陽です(3本足のカラスにもつながるもの)。
縄文文化は月と太陽のドッキング。


[1172] 月神のお話−2  神奈備 2005/04/25(Mon) 08:45 [Reply]
 狩猟、漁猟、木の実などの栽培・採取で生計をたてていたであろう縄文時代は、生活のリズムはおそらくは大きく月の影響下にあったものと思われます。

雨が降るのも月の機能と思われていたのでしょう。
 縄文中期の土器で中部高地(長野、山梨付近)から出土している顔面把手付深鉢や有孔鍔付土器の中には、蛙が壷にしがみついて、その蛙の背中から赤子が顔を出しているという出産のシーンが描かれているものがあります。この壷は月を表しているものと思われます。と、いうのは、月と蛙の組み合わせの民話は東南アジア、大陸などの多く残っており、その影響が残っていたと想像されるからです。
 蛙と月、どちらも三度変身するのです。卵、おたまじゃくし、蛙、こちらは新月、半月、満月。

 月と蛙のお話を簡単に。
 太陽と月は嫁を娶ろうと思っていました。月は人間の女を望み、太陽は人間の女は目を細めて自分を眺める。水中の蛙は円い目で自分を見る、だから蛙にしたいとなり、それぞれ天上へ連れてきました。所が蛙はまともなことは何もできません。ピョンピョンはねているだけでした。これを見ていた月は蛙をとことん馬鹿にしていました。怒った蛙は離れてやらないと月にしがみついてしまいました。

http://sutama.ed.jp/museum/doki/doki_iseki/shusandoki.html
http://www.kisoji.com/kisokoiki/tokusyu/tokusyu10.html
http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/museum/kouko/ko50-06.htm

[1171] 月神のお話−1  神奈備 2005/04/23(Sat) 17:04 [Reply]
 地球と月の距離は38万qで、光は1秒で届く距離です。月は徐々に地球から遠ざかっており、10p/一ヶ月だそうです。
 人類が類人猿から分離したのが500万年前、月と地球の距離は今より近く98.4%で、たいして変わりはなさそうです。月が少し大きいので、日食も金環食は起こらなかったのかも。
 いずれにしろ人類が宇宙を目指そうと言う今日、多分人類の最盛期に、月と太陽の視野角が同じと言うことは大偶然でしょう。
 また惑星の衛星としての月は巨大すぎるのです。二連星にはならないのですが、あまりにも大きい。半径は25%、質量は1.25%。自然に出来たものか、火星と木星の間にあった惑星が壊れて小惑星帯になっていますが、その中の塊が太陽に落ちる最中に地球に補足されたのかも知れません。

 月の働きは地球に、人類に多くの影響を与えて来ました。
漁猟  月の潮汐、三日月は舟の形。
狩猟  弓張月
不死  満ち欠け
生まれ変わり 乳房と経血
雨   月に叢雲
霜   放射冷却

[1170] Re[1169][1168][1167][1166][1164][1161][1155][1154][1148][1147] 古代の帆  素人 2005/04/22(Fri) 01:19 [Reply]
>日本へは偏西風(9月〜12月)を利用して数日でほとんど日本に到達しています。
誤) 数日でほとんど日本に到達しています。
正) 短期間でほとんど日本に到達しています。
間違えました。

[1169] Re[1168][1167][1166][1164][1161][1155][1154][1148][1147] 古代の帆  素人 2005/04/22(Fri) 01:14 [Reply]
> 対馬の風は北西風が多く冬では特に強い北西風が吹く。
調べて見ますと、対馬海峡は夏の季節7月から9月は南西風が多くて穏やかなそうです。半島に渡るのに適しているようです。9月には「蒼北」(あおきた)と呼ばれる北または北東の強風の晴天が数日吹くことがあるようで、半島から渡るのには最適なようです。季節風の吹き始めの10月も半島からの航海は可能だったようです。
 渤海使は727年以来34回日本に来ています。日本海を横断する800km以上の航海ですが日本へは偏西風(9月〜12月)を利用して数日でほとんど日本に到達しています。日本沿岸で度々船を破損していますが、日本側で船を仕立てており、送り返して無事に帰国しています。日本からは4月〜6月に出港しており日本海が穏やかな時期でした。意外なほど海難は少ないようです。これに比べ東シナ海は台風、低気圧の影響が大きいのか季節風を使っても航海は困難なようです。季節風を利用しての中国から奄美大島方面への航海での海難が多いようです。(南島ルート)
夢のない青草の内容ですみません。

[1168] Re[1167][1166][1164][1161][1155][1154][1148][1147] 古代の帆  かたばみ [Mail] [Url] 2005/04/16(Sat) 12:24 [Reply]

≫遣唐使船のころには櫓と莚の立派な帆は有ったとされているようですから帆走も考慮しなくてはならないと思います

古事記神武天皇の槁根津彦で「釣しつつ打ち羽振り来る人」とあります。
打ち羽振りとは小舟の帆を操る様だとみています。
http://www.woodsorrel.sakura.ne.jp/data/ho_keishiki.png
これのピローグ型(東南アジアの小舟に多い)ならそう見えるんじゃないかなあ。

http://www.woodsorrel.sakura.ne.jp/data/fune_e_palau.jpg
パラウ諸島の現代の集会所の壁に書かれた伝統的な絵。
これはラティーン型の帆でもっと大型(世界的に使われる優秀な帆です)。
頭にひらひらをつけていますが日本の古代船の絵にもこれに類似がありますね。

東南アジア〜ハワイに梶の木の仲間から作るタパという布があります。
日常生活ではほとんど裸ですから、タパ布の重要な用途は帆だったと考えています。

日本では太布、タク布あるいは木綿(ユフ)です。
沖縄などの芭蕉布もこの仲間だと思います。
弥生中期あたりでの帆を使う漁労民は布の帆を使っていたのではないかと考えています。
「釣しつつ打ち羽振り来る人」、帆の軽快な操作性を表現しているとみえます。

網代でも操作しやすい帆、その工夫がジャンク型じゃないか。
しなやかさのない欠点を、折り畳みの多段式で対応したわけです。
(ジャンク型は優秀なのだそうです)
これなら大型の帆も得やすく、中国ではこの形式が発達したのではないか。

日本では南西諸島の漁労民以外は外洋航海をしなくなり、沿岸専用の形式が一般化した。
帆もムシロの横帆の順風待ちで事足りており(補助手段)、それが定番となったのではなかろうか。

弥生〜古墳で帆が描かれる絵がほとんどないのは、帆への印象が薄かった証拠だと思っています。
(技術は環境が自然淘汰する、進歩するとは限らない)
商業の発達でタパ布やユフは麻布より高級な貴重品とされ、交易用に廻されたのではなかろうか。


神功紀の三韓攻撃に順風とか帆の記述がでてきます。
AD300頃には対馬海峡を渡るのに帆を使っていたとみえ、冬10月とあります。

書紀では春は1月〜3月、夏は4月〜6月、秋は7月〜9月、冬は10月〜12月です。
この暦がいかなるものかわかりませんが、おおよそ現在の月と季節と同じか、プラス1ヶ月が現在の月に相当するとみてよいと思います(秋9月に穀物の収穫ないし収蔵をおこなっている)。

対馬の風は北西風が多く冬では特に強い北西風が吹く。
神功紀の冬10月は北西風が強くなる季節であり、そういう季節に大船団を動かすことは考えにくい。
2月に仲哀が「死去」し、12月に応神が生まれたとする懐妊期間十月十日の間に「いろいろ」を詰め込んだためにそうなってしまったのだと考えています。
(神功紀には強い疑念を持っています(^^;)

神功紀に書かれる「帆」は事実かもしれませんが「順風」は?
先の7丁櫓船での横断決行は6月です。
新羅本紀でも364の夏4月に倭兵が大挙押し寄せた、とあります。
風を利用しやすい季節、あるいは風が危険でない季節を選んでいるのだろうと思います。


≫見島は奈良時代初期より、大陸との交易で栄えた文化の先進地でした

その論は微妙な表現ですね(見島から大陸へ渡った、とはいっていない)。
地勢からみれば、ここは若狭〜島根〜福岡の沿岸航路の中継地だと思えます。
陸人が干渉できない安全な場所という意味での根拠地です。

古墳群は奈良時代あたりですから、「日本海系の有力海人氏族」がここを墓域ともしていた、それが200基にも及ぶ古墳群だと考えます。


[1167] Re[1166][1164][1161][1155][1154][1148][1147] 海人と物部氏  素人 2005/04/14(Thu) 00:36 [Reply]
(かたばみ様のホームページ)
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/tushima_kouro.png
帆走でなくて、櫓で朝鮮半島から日本に渡れるとは驚きです。軍装や兵員、貨物などを満載して大型船でも渡れたとすれば画期的なことと思います。櫂や櫓であれば、直線走行はあまり関係ありませんが単純な帆の場合追い風しか走れませんから安定した季節風などを使用した帆走では直線走行は必須のものとなりこれ無くして高速渡航はありえません。横風、向かい風は大幅に時間を食ってその間に気象が変化してしまい、良好な気象条件を逃してさらに時間を食ってしまいます。帆走による航法の発達に伴って直線航行が重要になってきたのではと思います。遣唐使船のころには櫓と莚の立派な帆は有ったとされているようですから帆走も考慮しなくてはならないと思います。遣唐使船も700年頃までは旧来の半島沿岸経由みたいです。

宗像沖ノ島の地形
東西1km、南北500m余の島で南側が切り立った崖で北側はなだらかな斜面となっている。
東西に伸びた稜線には2個の大きいピークがあり独特の景観を持っている。このように独特な島の景観と非対称性から遠くからでも宗像沖ノ島の方位が推定でき、島の大きさから距離を推定すれば海上のどこにいるか推定できた。大変に優れたコンパスでもあったと思います。
関連したゴミ情報。
出雲への中継地と思われる場所、ここから東北東170kmの萩市見島が先の地図に載っています。宗像沖ノ島から見島ですと対馬海流でも使えるのでしょう。
見島を解説していただけると期待しておりましたが、お粗末ですが自分で調べて見ました。
「見島は奈良時代初期より、大陸との交易で栄えた文化の先進地でした。今もその面影が島の至るところにあります。国指定史跡ジーコンボ古墳群や国指定天然記念物の見島牛など数々の史跡や観光資源に恵まれ、日本でも有数の渡り鳥の飛来地としても知られています。見島沖の八里ケ瀬は、対馬海流とリマン海峡が行き交い、マグロやタイなどの魚の宝庫となっています。」
http://www.ntt-west.co.jp/yamaguchi/seminar/big/misima_01.htm
見島神社、住吉神社
見島八幡宮は貞観元年(859)宇佐から勧請したと伝えられ、現在は客幡宮と合祀されて見島神社になっています。
http://www.ntt-west.co.jp/yamaguchi/seminar/big/misima_10.htm
和船競漕
http://www.hagi.or.jp/filmart/5th/cinemajk/shiprace.html
地形「見島は周囲約24.3kmの小さな島です。南北に約4.6km、東西に約2.5kmで形はほぼ二等辺三角形ですが、長尾の鼻(北灯台)を鼻に見立てると、全体が牛の形をしていることに気づくはずです。 」
http://hagi.or.jp/mishima/nature/
見島ジーコンボ古墳群
http://www.hagi.or.jp/mishima/
蛇足、古代船が雲の上になどの話しが有るようですが、まんざら樟で出来た河川・近海兼用船では刳り舟の船体の厚みを極限まで薄くして、軽量化による高速化をはかっていたようですから船を山の上まで担ぎ上げて山越えすることも不可能でないと思われます。古い絵の中に樟の船材と思われる半筒形の非常に厚みの薄い木材が橋として描かれているものなどがあります。薄く山にかかった雲の中を担がれた船が移動してくれば雲の中を船が走っているように見えたかもしれません。外航船ではもっと厚くとても重いと思います。
とんでもない、夢のない青草の思い付きです。

[1166] Re[1164][1161][1155][1154][1148][1147] 海人と物部氏  かたばみ [Mail] [Url] 2005/04/11(Mon) 12:58 [Reply]
≫対馬と朝鮮半島が見えるので沿岸航法で安全に行くことが出来ることとなります

壱岐〜対馬航路では常に目的地(出発地)がみえますから、これ以上の目標はないと思います。
沖ノ島はその航路から流されてしまったたときに目標になっただろうと思います。

沖ノ島には縄文前期に遡る遺跡があってアシカの骨がでており、沿岸漁労民の拠点になっていたようです。
しかし、祭祀遺跡が登場するのは4世紀にはいってからです。

「航路」としての祭祀は新しく、「大和朝廷」の祭祀であり崇神〜景行あたりにはじまったのでしょう。
しかし、それ以前から半島と北九州は密につながっているわけで、「弥生航路」では重要な位置ではなかったために弥生系の祭祀がないのだ、と考えています。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/tushima_kouro.png

なぜ大和朝廷はここで祭祀を行ったのか。
半島へ渡るショートカット航路としての重要性が生じたのだと考えています。
関門海峡から対馬北端を結ぶ直線の中間にあるのが沖ノ島。
壱岐〜対馬航路とは別系で、瀬戸内あるいは近畿から半島へ向かう最短航路の要衝として沖ノ島が浮上した。

話が飛びますが伊勢湾の出入り口にある神島。
ここにも祭祀遺跡がありますが、やはり古墳時代からのようです。
国家としての海運路が確立されて公式祭祀が始まったのが古墳時代なのだろうと考えています。


単純な交易なら安全確実が優先すると思います。
沖ノ島は古墳時代の大和朝廷専用の「軍港」であり半日でも早く半島へ渡るための航路拠点だったのではなかろうか。
見られちゃ困るわけで、ここで見たことは口外してはならない、ですね。

生活拠点であれば秘密にする必要はないはずです。
祭祀痕跡が800年頃にぱったりと途絶えますが、これも民間の拠点であればそうはならないと思います。

細形銅剣が出土しているそうで、秘密基地の源流(^^;は「国譲りによって九州を失った出雲」が周防あたりから半島へ渡るための拠点だったことではないかなあ。
(国譲りとはなにか、がありますが略)


古墳時代の第1世代の出土品には、内向花紋鏡〜三角縁神獣鏡など、蕨手刀や鉄剣、鏃など武器も多数出土。
奈良飛鳥以降の第2世代の出土品では海獣葡萄鏡、唐三彩、機織のミニチュアや金製品、ペルシャ系カットグラスの破片などが出土していて様相が変わります。

唐文化の導入、新羅が半島を統一(AD670頃)して大和朝廷との交流がはじまる時代で、沖ノ島の軍事的意味がなくなり朝廷御用達の交易拠点に変化した祭祀なのだと思っています。

そして平安時代となってその祭祀も廃れていった。
遣唐使が廃止され対外交流が途絶、AD900頃の新羅の内紛崩壊などに重なっています。


記紀は天照大神と素盞鳴尊の誓約から宗像三女神が生まれたとします。
大年神系譜も素盞鳴尊の子として扱っていますが、これらは以下のごとくで素尊の子ではないと思います。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/kami_ootoshi.png
山陰の穀物伝承であるサヒメも同系の女神かもしれないなあ。

弥生の宗像は沿岸の漁労と遠賀川流域の農耕(大年神)であり、宗像三女神の本来は大年神系譜に属する女神であったと考えています。
これに漁労民の神が加わり、古墳時代に秘密基地となり(^^;、記紀時代に海路の神とされるようになったのだろうと考えています。


[1165] Re[1163][1161] 海人と物部氏  かたばみ [Mail] [Url] 2005/04/11(Mon) 12:30 [Reply]

下図は記紀の神代〜継体までを年代でプロットした図で、現在の私の歴史観のベースです。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/shindai01.pdf
以前にもだしましたが、崇神以降の大王系譜の図も併せてどうぞ。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/daiou.png

それでは海人関係はどうなるか。周辺状況を含めて冗長になります。

海運ルートは陸路ともジョイントするはずで、日本海と太平洋あるいは瀬戸内をショートカットしてつながるルートなら最良。
若狭〜琵琶湖〜奈良あるいは河内〜伊勢志摩の陸路が登場。

奈良は農耕適地だけでなく陸路の中枢にもなる場所だった。
「国譲り以後の出雲」の中枢がここに移るのも必然。
このルート上では海人だけでなく陸人?も交錯するはずで、その結果はなんでもありになると思います(^^;

弥生中期の唐古・鍵遺跡は列島全体の会議場になっていたかもしれません。
(神在月ないし神無月、諏訪の建御名方命および天孫族を除く)
出雲崩壊後の崇神朝にとっても同じくで、地理的に他の場所に都を置くわけにはゆかず、旧出雲勢力のまっただなかで新王朝を経営することになった。

若狭〜琵琶湖〜奈良、奈良から河内ないし伊勢志摩、このライン上での氏族の錯綜は極に達したと思います。
そこに痕跡を残す氏族の源流をつきとめるのは記紀時代ならいざしらず、今となってはほとんど不可能じゃないかなあ。

この一帯に崇神王朝とともに登場した海人グループ、それが物部氏の具体的な祖だと考えています。
伊香色謎、伊香色雄といったところです。

物部系譜に出雲醜大臣命という人物がいますが、この人物は名の如くに出雲系なんじゃないかなあ。
その子には「宿禰」の尊称もありますし。
宿禰の尊称は出雲系譜とつながることを示すとみています(律令以降での宿禰姓は別です)。


話が飛びます、日本武尊の関連。
日本武尊は熱田神宮縁起によれば海路をとっています。
銅鐸の出土している朝日遺跡、この周辺を避けているのは旧出雲勢力の強い地域でもあったからだと思うのです。

日本武尊の妃のひとりである桑名の美夜受比賣(宮酢比賣)は建稲種命の妹。
建稲種命は尾張氏の祖、「天火明命」の後裔。
(饒速日尊の後裔ではありません(^^; 天孫である天火明命の後裔です)

景行大王は建稲種命に尾張の征圧を命じ、日本武尊には関東の征圧を命じた。
日本武尊は海路をもって尾張をパスして東海から関東に向かった、分業ですね。
尾張を鎮圧した建稲種命が熱田神宮の源流であり、妹の美夜受比賣の元に残された草薙剣が桑名から熱田へ移ることにつながるのだと思います。

それらを支援したのが先代旧事本紀での「天火明命」の伊勢志摩付近への上陸(BC100頃と見る)に従った海人の後裔と、開化崇神の大和入城(AD250頃)に参加した九州系の海人。
(この系譜を後に「だれか」が饒速日尊という呼称をもって天火明命に重ねて統合して格上げした・・)


以前に剣の名を持つ社に関連して素盞鳴尊を祀る社が岐阜に多いと書きました。
この素盞鳴尊は諏訪の建御名方命系で、諏訪出雲が塩尻から木曽川下り(後の中山道)で濃尾へ南下したのではないか。
岐阜県の素盞鳴尊はそのためとみれば納得できる。

建御名方命は諏訪から出ないと約束しています。
それを破ったわけで、弥生後期からの寒冷化による食糧不足が理由と考えています。
全国的にこれは同様で、北九州でも飢饉をもたらして倭国争乱の主因になり、さらには出雲領土への天孫族の侵攻になったと考えています。

諏訪出雲のもうひつの南下が伊那谷から天竜川で東海への南下。
日本武尊に焼津で火をかけて攻めたのはこのグループかな。
三遠式と呼ばれる近畿とはちょい違う銅鐸が尾張〜浜松にあるのも諏訪系出雲がここにあったからだと考えます。

加えてもうひとつの南下が碓氷峠を越えて関東へ、利根川経由です。
これが氷川神社などに関与していると推定(さらには近津社や第六天社にも)。
八坂社や牛頭社とは異なるはるかに古い素盞鳴尊の関東登場の源流。

弥生後期、天孫でも出雲でも激動の時代だったと考えています。
各地の海人はこの時代にどう動いていたのか。


[1164] Re[1161][1155][1154][1148][1147] 海人と物部氏  素人 2005/04/08(Fri) 00:52 [Reply]
>宗像と対馬の中間にある沖ノ島が出雲の秘密基地になっていたかも(^^;
>糸島〜壱岐〜対馬航路ではあまり意味のある位置ではないと思うのです、漂流した場合>は命綱になりそうですけれど。
素人が口を挟むのもなんですが、宗像沖ノ島の存在は下のホームページの地図からも解りますが対馬・壱岐・福岡・山口は宗像沖ノ島を中心に約70Kmの半径の円に入ります。それぞれの中間点での円の半径35km上付近では宗像沖ノ島と出発地の島・陸地が見えます。宗像沖ノ島の一ノ岳という最高峰は243mでかなりはっきり確認できます。宗像沖ノ島を中心に約70Kmの半径の円内では常に陸地または島を見ながら沿岸航法で安全に航行できることになります。対馬から朝鮮半島も中間点から対馬と朝鮮半島が見えるので沿岸航法で安全に行くことが出来ることとなります。当たり前ですが宗像沖ノ島は簡易な航法で多方面から半島に渡るための必須の目標であったようです。現在は灯台も有るようです。

「博多津から77km、対馬から75km、韓国本土まで145kmと近い。この島を経由して日本へ文化が入ってきた。古代から海上交通の要衝であった。島全体が遺跡である。」
http://www.h5.dion.ne.jp/~ytakata/kyushu/hakata/munakata.htm
沖ノ島灯台(空撮)
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/fukuoka/okinosima3/okinosima_2.htm
「東西一キロ、南北五百メートル余の島を原始林が覆っている。海に面した岩肌は、対馬海峡の波と風に洗われ、少しずつ崩落を続ける。晴れた日は、無人の灯台から対馬や壱岐が望める、という。」(雲が上空に湧いており島の視認性が向上する。)
北側からの写真(緩やかな斜面と海に落ちる崖。)
http://kyushu.yomiuri.co.jp/pre-spe/sfuruten/sfu9808/fu9808171.jpg
掲載ページ
http://kyushu.yomiuri.co.jp/pre-spe/sfuruten/sfu9808/fu980817.htm
沖ノ島祭祀遺跡
http://inoues.net/ruins/okinosima.html
玄海未来熟主催の奉仕活動(宗像沖ノ島清掃)
http://www.munakatajc.com/2004/report/repport_0421.html
http://www.munakatajc.com/2004/report/repport_0421_2.html
青草以下ですみません。

[1163] Re[1161] 海人と物部氏  神奈備 2005/04/05(Tue) 17:32 [Reply]
 住吉の神々で、海の種類で考えると
1.仲哀天皇のルート 瀬戸内
2.神功皇后のルート 日本海
3.神功皇后の渡韓の先導神 

(1)のルートは安曇海人が担当したが、結果的に仲哀天皇は滅ぼされたので

、安曇の神を進化させた住吉の神を登場させたと見ています。これは三神のベ

ース。

(2)日本海では先ず籠神社の海部、すなわち、物部が浮かび上がって来ます

ね。天火明命と饒速日命の近さ、宗像を祀ったのは物部珂是古(『肥前国風土

記』)。

 やっかいなのは出雲と宗像、これは鴨の大神の阿遅須枳高日子命の親神の筋

。事代主神も一応出雲として、鴨も避けられない。

 出石の天之日矛、神功皇后の祖先でもあり、無視できない所。これも日本海

側。で、天日矛と天日方奇日方との祀られている地域がどうも重複しているよ

うで、加えて比売許曽神と下照比売の混同が見られます。福岡は小郡の媛社神

社では、媛社神は別名を饒速日命とする伝承もあります。

> 先代旧事本紀の天日方奇日方命と宇摩志麻治命が「神武王朝」の大臣として

食国を治めたという話は事実とみておきます。

 この辺りの氏族の動きはデジタルの世界のようにゼロでなければイチ、イチ

でなければゼロと云う二進法では割り切れない混ざり合いがあるのでしょう。

そう言う意味でも三輪・鴨と物部とは、後世にでも対蘇我氏と仏教とで手を握

ったように、いわば天皇になれなかったこの国屈指の名族だったと云うこと。

 当初の王権を支えた力は時の表である日本海側にあったと云うことでしょう



(3)神功皇后紀などでの住吉の神々の登場は、攻めるのは熊襲ではなく、新

羅を攻めよとの託宣、仲哀天皇の命を奪ったこと、神功皇后の渡韓の先導神を

努めたこと、です。
 成功したプロジェクトには「俺がやった。」と云う連中が多いのは企業の中

だけではなく、某神が先導神を努めたとの話がいくつか語られているようです

。月神、高良玉垂神、韓国伊太テ神など。もっとあるのかも知れません。諏訪

大神もそうだったかも。文献や神社由緒に出ていなくても、仲哀紀に名の出て

くる武内宿禰、中臣、大三輪大友主、物部胆咋、大伴連などの祖神も候補にな

るのでしょう。


今日、図書館で発見した書籍『神功皇后伝説の誕生』前田晴人著 大和書房

初代天皇から応神天皇までを神々に対応させた表がありました。これは神々が先に存在していて(神社に祀られているの意)、それに天皇を割り当ててでっち上げたとのお話。

神武    ← 神倭伊波礼毘古
綏靖〜開化 ← 宮中八神
崇神    ← 大三輪大物主大神
垂仁    ← 石上布都大神
景行、成務、仲哀 ← 住吉大神 帯系三代
応神    ← 御子

若干の説明 崇神と三輪、崇神記などで大物主神が語られていること
      垂仁と石上 垂仁紀などで語られること
帯系三代 住吉大神は元来夫婦神であり、フルコトフミには帯日子、帯日売と書かれていたとの推測である。

うまくまとめていますが、青草の一と思うが・・・


[1162] Re[1159][1158][1156][1137]: 舟の帆  素人 2005/04/04(Mon) 21:26 [Reply]
>  これは実に新鮮な視点です。私には思いもよらなかった視点です。昔読んだ『複雑系』を思い出しました。北京で蝶が飛ぶとアメリカにタイフーンが上陸すると云う。
>  森羅万象、まさにこの視点が要りますね。ありがとうございました。

「晴天の日の昼に上昇気流を舞い上がらせる岩・小山・斜面の森などは見かけ上、高い空に雲を沸かせ、鳥をあっという間に雲まで押し上げる物凄いパワーを持っているように見えます。」この記述はスカイスポーツでは常識でして、地表に蓄積された太陽エネルギーで温められた空気が、風下側のトリガー(岩・小山・斜面の森)から地表を離れて加速しながら上昇してはるか上空(1000m以上の時も有ります。)で雲となります。トリガー上で上昇風(サーマル)を捕らえてはるか雲底までノズリはやトンビと上昇することは珍しくないようです。とてもリアルなお話です。専門でありませんのでそれなりの話ですが。
 現実離れした夢想をしますと前方後円墳(石葺きなら最高)と言うのがありますが前方墳周辺で加熱された空気が後円墳でトリガーされはるか上方に雲を作る上昇風製造機などととんでもない空想も出来ます。上昇風が出た時にトンビでも放せば死者がトンビに変わって天上に上っていくことになり演出効果は最高ではないかと思います。
いつもながら、夢のない青草以下の駄文です。

[1161] Re[1155][1154][1148][1147] 海人と物部氏  かたばみ [Mail] [Url] 2005/04/03(Sun) 20:21 [Reply]

≫底筒男神とは饒速日尊と『河内高貴寺縁起』にありますが、この住吉三神とはそのような海運海軍者を総括しているのかも知れない

表青草の5668ですね。
表筒之男神、底筒之男神、中筒之男神、は海面、海中、海底を意味するのではなく海人の活躍した太平洋、瀬戸内、日本海を示し、海人が祀った星神が源流だというのが持論です。
(オリオンの三つ星でもあったかも(^^;)

縄文〜弥生での海路は日本海沿岸がメイン。
饒速日尊が底であるの文献(鎌倉あたり?)があるなら、日本海が表となってうまいです。

「表」が縄文からの貝の道〜日本海沿岸〜東北、その後裔の代表は安曇氏。
豊玉比賣、玉依毘賣といった海神族でもあって、祖は南方系の大綿津見神。
弥生初期では太平洋側との分化はまだなく、大屋彦命等を紀伊半島あたりに運んでいたかもしれない。

日本海航路は縄文時代からのもので、弥生にはいっても出雲と東北をつないでいたと考えています。
これが後に出雲系東北縄文=蝦夷の登場になったとみております。


「中」は瀬戸内で出雲系がメインだろうなあ。
味耜高彦根命が代表かな(BC150頃、宗像〜周防灘)。
ただし、その祖がだれであるかはやっかい(記紀のいう出雲系譜はなあ・・(^^;)。
大己貴命とともに東シナ海系の海人を祖とするとみております。

「底」は最新版で祖は宇摩志麻治命。AD50頃。太平洋岸の九州〜伊勢志摩。
先代旧事本紀の天日方奇日方命と宇摩志麻治命が「神武王朝」の大臣として食国を治めたという話は事実とみておきます。
食国とは王朝の中枢になる国、神武時代であれば奴国(伊都国含む)+豊前豊後(国譲り以前の出雲の旧地とみる)と推定。

そこを出雲系と共同統治していたわけで、この頃に海運者に地域性が生まれ、政治体制とは別に海での連繋の意識をもつ海運組織ができていったと考えています、住吉三神の原形。
(ただし、沿岸航海に重きが移って大海原を航海するための技は失われていったかもしれない)


宇摩志麻治命自身は「天孫の親」が渡来した頃に随伴していた東シナ海系の海人に具体的な祖をもつ実在人物とみています。
大陸系の最新技術をもつ鏡造りや布造りなどの職人の渡来とともに手工業や商業の発達に関与していた。
(後に登場する十市根は十の市の祖先の意でしょう)
天日方奇日方命は鴨氏の祖、こちらも出雲における同様の具体的な祖だろうと考えています。


余談
持論での神武時代とは志賀島の金印の時代(AD57)です。
金印は神武王朝御用達の輸送品の封泥ないし御朱印として使われていた。
特に後漢との交易で。
http://www.woodsorrel.sakura.ne.jp/data/fuudei.jpg


出雲は後漢との交易では次第に蚊帳の外にされていったのではないかなあ。
宗像と対馬の中間にある沖ノ島が出雲の秘密基地になっていたかも(^^;
糸島〜壱岐〜対馬航路ではあまり意味のある位置ではないと思うのです、漂流した場合は命綱になりそうですけれど。

沖ノ島が宗像の奥の宮・・たぶん。
島で見聞きしたことは口外してはならないとされて謎だった沖ノ島。
(HPのタイトル画像に使用(^^;)

しかし、宗像を産土とする出光興産の創業者(海運ですね)が昭和29年に調査を開始。
出土品は10万点を越えて海の正倉院とも称されるようです。
http://www.genkai.com/moyoosimono/moyo04.html


[1160] 月読命と仁徳天皇  神奈備 2005/04/03(Sun) 17:39 [Reply]
 応神天皇の御子は多いのですが、そのうち3人の子の分担を決めています。

御子    分担      角川文庫古事記の注
大山守命  山海の政をせよ。海はつけたし、山林を支配せよの意。
大雀の命  食国の政。 天下の政治を行うこと。
宇遅の和紀郎子  天つ日継知らせ。 天皇の位につくこと。

これは『古事記』の三貴子の分担に一致。

建速須佐の男命 海原  → 大山守命
月読命     夜の食国 → 大雀の命
天照大神には  高天原 → 宇遅の和紀郎子

で、大山守命は帝位を奪おうとして失敗、川に落ちて矢を射かけられて死ぬのです。須佐の男が雨の中を追放されるに似ていないでもありません。
次に、宇遅の和紀郎子は大雀の命と天下を譲り合っている内に死にます。
結局、生き残るのは大雀の命(仁徳天皇)です。神話で云えば、月読命となります。
神代編では月読神は何も目立ったとこはしていませんが、実は古代天皇家の祖神は月読神だったとならんかいな。

[1159] Re[1158][1156][1137]: 舟の帆  神奈備 2005/04/03(Sun) 08:54 [Reply]
>  晴天の日の昼に上昇気流を舞い上がらせる岩・小山・斜面の森などは見かけ上、高い空に雲を沸かせ、鳥をあっという間に雲まで押し上げる物凄いパワーを持っているように見えますので、古代では神聖な力を持っていると考えたかもしれないと夢想します。

 これは実に新鮮な視点です。私には思いもよらなかった視点です。昔読んだ『複雑系』を思い出しました。北京で蝶が飛ぶとアメリカにタイフーンが上陸すると云う。
 森羅万象、まさにこの視点が要りますね。ありがとうございました。

[1158] Re[1156][1137]: 舟の帆  素人 2005/04/02(Sat) 19:37 [Reply]
>同じ絵に鳥が止まっていますが水先案内人でしょうか。船で飼っていてたまに飛ばして飛行の方角で陸地・島の方位を知るのに使ったのでしょう。とんでもない思い付きです。
 御存知だったと思いますが追加情報です、思いつきの鳥・水先案内人は本当のようです。下のホームページに載っており代表は鳩とカラスでした。
 話は変わりますが鳥で思い出すのは鳥の巣で、巣の木の近くを風の道が通っている場合が多く見られます。上昇風に乗れば簡単に空高く舞い上がることが出来るからです。平地の小山、窪地の奥の斜面、大きな岩だったりして天気のいい昼間には、はるか上空に雲が沸いたり消えたりしていることもあります。これら鳥の動きから風の道を知ることが出来ます。安定した上昇風の吹く斜面には、古い時代のタタラや焼物の釜の址が見られるかもしれません。焼畑にも役立つたかもしれません、これもとんでもない思い付きです。
 晴天の日の昼に上昇気流を舞い上がらせる岩・小山・斜面の森などは見かけ上、高い空に雲を沸かせ、鳥をあっという間に雲まで押し上げる物凄いパワーを持っているように見えますので、古代では神聖な力を持っていると考えたかもしれないと夢想します。
関係のない内容ですみません。
鳥は古代の航海用レーダー(抜粋)
「さらにこうした航法技術を補うユニークな手段が鳥の利用だった。ハトやカラスなどの陸鳥を船に乗せておき、陸地や島が近づいたと判断される地点で船上から放す。鳥は、陸地を見つければその方向に飛んでゆくから、その行く手に陸地が存在することがわかる。もし陸地が近くになければ、鳥は船に戻ってくる。」
http://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_247.html


[1157] Re[1150]: 海の道・傍証  かたばみ [Mail] [Url] 2005/03/29(Tue) 23:52 [Reply]

≫持統帝(持統上皇=太上天皇)の三河行幸(御幸)
≫死の直前に行われましたが、船で行ったのでは?説

このあたりはあまり考えていませんが、古事記の記事によれば日本武尊の出発と帰郷(死去)は以下の如くとみえます。
http://www.woodsorrel.sakura.ne.jp/data/yamatotakeru01.png
水色は扇状地(満潮時は遠浅の海)であったろう地域(現在の海抜0〜2m地域)。

出発は伊勢、帰郷は桑名。豊橋あたりへの海路だと思います(熱田は無関係の地とみえる)。
木曽川とその扇状地、ここは近畿側と河内側を遮る大きな障害になっていたと思うのです。
扇状地を避けて北を回るにしても木曽川とその支流を渡るのは難儀じゃないかな。
ならば船で伊勢湾を渡る方が得策と思えます。

持統時代に伊勢湾の状況がどうだったかわかりませんが大差なかったのではないかなあ。
(このときは桑名から熱田への船だと思うけど)
草薙剣は日本武尊時代では伊勢ないし桑名にあったはずで、熱田社に移ったのはいつか、その理由は?
(持統天皇と草薙剣のごたごた以前にそういうことがあったのかどうか、です)


遺跡が扇状地部分には存在しません。
朝日遺跡が強力な環壕をもちながら戦死者あるいは戦闘の痕跡がみえないことの理由が木曽川という要害の存在だろうと思っています。
畿内と三河をつないでいたのは平和時でも戦闘時でも海人であって、その動向が要を握っていたのではないでしょうか。

≫菊池展明著「エミシの国の女神」

ぜひお読みください。



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