青草談話室ログ平十七年 五月
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[1257] Re[1256][1255][1250]: 松田さんの地中水銀濃度のデータの数値  神奈備 2005/05/30(Mon) 18:15 [Reply]
> この水銀濃度を見て、私は硫化水銀とPPMレベルの水銀濃度が色濃く繋がるのか?
と思いました。
> 金属物質とPPMレベルの水銀濃度の繋がりは確かにあると思います。

金属とのアマルガムの形で水銀が存在しているとの理解でいいのでしょうね。この場合には硫黄との結合ではないということ。

[1256] Re[1255][1250]: 松田さんの地中水銀濃度のデータの数値  ペギラ 2005/05/29(Sun) 15:37 [Reply]
>  水銀濃度は矢嶋澄策氏(野村鉱業)が測定させたようです。
>
> 紀伊上丹生谷で 0.0087%  87PPM
> 近江伊香郡   0.0015%  15PPM

矢嶋澄策氏の「日本水銀鉱床の史的考察」に
他の鉱床の水銀含有量の分析データが記載されている。

山形県 月山(昭和鉱業) 雑鉱   13PPM
栃木県 足尾銅山    粘土■   51PPM
栃木県 足尾銅山    石英脈   29PPM
栃木県 足尾銅山    亜鉛鉱   89PPM
栃木県 足尾銅山  河鹿亜鉛鉱   36PPM
栃木県 新玉生鉱山    銀鉱   15〜46PPM

この水銀濃度を見て、私は硫化水銀とPPMレベルの水銀濃度が色濃く繋がるのか?
と思いました。

金属物質とPPMレベルの水銀濃度の繋がりは確かにあると思います。

[1255] Re[1250]: 松田さんの地中水銀濃度のデータの数値  神奈備 2005/05/29(Sun) 09:51 [Reply]
 水銀濃度は矢嶋澄策氏(野村鉱業)が測定させたようです。

紀伊上丹生谷で 0.0087%  87PPM
近江伊香郡   0.0015%  15PPM

 ペギラさんが氏の掲示板にメモされている文献によれば、「土壌中の水銀含有量は0.03〜0.3ppm 」とのこと。
http://www.dojindo.co.jp/glocal/explanation-3.html

 松田博士が採取した土壌の低い方の15PPMでも平均の50〜500倍が検出されています。優位差はあると思われます。
 また土壌中の水銀の存在の仕方は純粋な水銀と硫化水銀で、純粋水銀は希なケースでしょうから、土壌中の水銀濃度は概ね硫化水銀(朱砂)の濃度と相関関係が認められるでしょう。

 そういう意味では
> 硫化水銀(朱砂)を太い基軸に持ってこないと、

太いかどうかはともかく、松田博士の研究は、それゆえに評価できます。

[1254] Re[1251][1248]: 赤の古代史2  素人 2005/05/29(Sun) 03:15 [Reply]
> 奈良の大仏さんは、金メッキされていました。そのとき
> 気化した水銀で、日本最初の公害中毒の記録が残りました。
> 「アマルガム精錬法」は、この技術の応用です。
> 精錬にも使えますが、あくまでもメッキのための使用ですね。

度々、的外れを書き込みますが、これに使われたのが伊勢水銀、三重県多気郡勢和村丹生の丹生鉱山の水銀です。こちらの辰砂は縄文後期からこの周辺で精製されていたようです。
丹生鉱山(昭和48年11月30日閉山)
http://www6.airnet.ne.jp/~mura/mine/kinki/nyu/index.html
丹生神社・丹生大師(多気郡勢和村大字丹生)お決まりの丹生。
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/niudaisi.html
大和水銀鉱山(1971(昭和46)年水銀の採掘、製錬事業から撤退。古代は不明)
http://www6.airnet.ne.jp/~mura/mine/kinki/yamato/
自然水銀 Mercury(見事な硫化水銀です。)奈良県宇陀郡大和水銀鉱山
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mineral/suigin.htm
いつもながらの若草です。

[1253] Re[1252]: 赤の古代史2  恋川亭 2005/05/29(Sun) 00:12 [Reply]
> 松田壽男さんの「古代の朱」P20−P21での話
> 「まっかなトンネルを、どこまでも…」とあり、

私はこの本の↑の箇所を読んだときに、何年も前にあった装飾古墳展(全国数ヵ所の博物館でリレー展示してましたネ)で、精巧なレプリカの中に入ったときの印象を思いだしました。
玄室の中の岩が真っ赤にしてありました。当時はノンカミの頃で・・・パンフレットを買わず、メモもしてないので詳しく判りません。どなたか行かれた方、いらっしゃいませんか?

[1252] Re: 赤の古代史2  QUBO 2005/05/28(Sat) 23:35 [Reply]
松田壽男さんの「古代の朱」P20−P21での話
「奈良県宇陀郡菟田野町は、町内に数ヶ所も水銀鉱山をもつ。…
 大和水銀鉱山は…本邦第二位の生産を示し…」とあって、
 この鉱山に入っていく場面になります。
「まっかなトンネルを、どこまでも…」とあり、
周りすべてが赤い岩、朱砂(辰砂とは書いていないが同じ)の鉱石で、
この世のものとも思えぬほど美しいそうです。

>> 松田さんの誘導  
誘導先は、川ではなく、この赤い鉱山だったりして。 (^。^)V ?

[1251] Re[1248]: 赤の古代史2  QUBO 2005/05/28(Sat) 22:51 [Reply]
奈良の大仏さんは、金メッキされていました。そのとき
気化した水銀で、日本最初の公害中毒の記録が残りました。
「アマルガム精錬法」は、この技術の応用です。
精錬にも使えますが、あくまでもメッキのための使用ですね。
最近使いませんが、昔歯医者さんが使った詰め物です。

『真金吹く』は、辰砂を熱すると割りと簡単に水銀が摂れることだと思います。
>  辰砂の赤色顔料・塗料としての存在
>  辰砂から精製される水銀の存在
ペギラさんご指摘のように、キッチリ区別する必要がありますね。

以下は余談かも知れませんが、私の考えている事。
水銀   Hg  水銀そのもの、原子です。またその集合体。
         水銀は金属です。鉄ならFe。金Au、銀Ag、銅Cu。
硫化水銀 HgS 水銀と硫黄の化合物(分子です。原子の比率は1:1)
辰砂       ほとんど硫化水銀だが、不純物も混じる(自然に有るから)
         不純物が多いと低品位(つまり硫化水銀が少ない)になり、
         見た目での色は色々(つまり正確には硫化水銀=×=辰砂)
少し違いますが酸素で言うと
酸素  O(酸素の原子) O2(酸素の分子) O3(オゾン)
純水  H2O (水素2原子と酸素1原子の化合物)
重水  H2O2(水素2原子と酸素2原子の化合物、水みたいだが水より重い)
水       ほとんど H2O だが、不純物も混じる(水=×=純水)
ちなみに純水は電気を通さないのです。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/wanatra/4purew.htm 

[1250] 松田さんの地中水銀濃度のデータの数値  かまど 2005/05/28(Sat) 22:49 [Reply]
こんばんは。

松田教授の水銀濃度のデータって確かどこかの鉱山関係会社が測定したんじゃなかったでしたっけ?
そこがどう判定してるかだと思うのですが。どうでしたっけ?


[1249] Re[1248]: 赤の古代史2  ペギラ 2005/05/28(Sat) 13:01 [Reply]
古代の鉱山での金属選鉱段階で灰吹き法とか、アマルガム法とかは、無いでしょうね。

アマルガム(水銀合金)による鍍金された装飾品は、
日本でも古墳時代から存在する。輸入品だろうけれど。

参考資料として金アマルガム法による作業工程
「科学が解き明かす古代の歴史」沢田正昭編 平成16年9月
「古代の金銀」より
1・金アマルガムの作製
      水銀に金を溶かしこむ
2・被塗布材(銅、青銅)の表面の清浄
      油分を取り除く
3・被塗布材表面の活性化
      金アマルガムの塗りをよくする
4・被塗布材表面への金アマルガムの塗布
      できるだけ均一にならす
5・加熱による水銀の除去
      水銀を気化させる
6・表面の研ぎ出し・ヘラ磨き
      表面を鏡面のように均一化する

辰砂の赤色顔料・塗料としての存在と
辰砂から精製される水銀の存在とを、ごっちゃにして考えて良いのか?

硫化水銀の防腐作用は、水銀化合物であるから少しはあるだろうが、
その硫化水銀の水銀純度によって、色々と違いがあるだろうし、
同量の水銀と硫化水銀とを比較したら、防腐作用の効力は桁違いだろう。

金属物質あるところに微量水銀は存在するのです。
とくに菅子の時代から言われていますが、金とは強い相関関係はありそうですが。

ですから、私個人としては、松田さんの地中水銀濃度のデータの数値が高いから
どうのこうの。。。というのは疑問です。

丹生地名収集など大きな功績は揺るぎませんが、
地中水銀濃度には、何度も言いますが、疑問。

硫化水銀のイオウ同位体比がどうのこうの。。とか、
硫化水銀の水銀濃度がどうのこうの。。とか、
硫化水銀の赤の色素の違いがどうのこうの。。とか、

硫化水銀(朱砂)を太い基軸に持ってこないと、なんでもありになります。
古代の朱を考えるならば。



[1249] Re[1248]: 赤の古代史2  ペギラ 2005/05/28(Sat) 13:01 [Reply]
古代の鉱山での金属選鉱段階で灰吹き法とか、アマルガム法とかは、無いでしょうね。

アマルガム(水銀合金)による鍍金された装飾品は、
日本でも古墳時代から存在する。輸入品だろうけれど。

参考資料として金アマルガム法による作業工程
「科学が解き明かす古代の歴史」沢田正昭編 平成16年9月
「古代の金銀」より
1・金アマルガムの作製
      水銀に金を溶かしこむ
2・被塗布材(銅、青銅)の表面の清浄
      油分を取り除く
3・被塗布材表面の活性化
      金アマルガムの塗りをよくする
4・被塗布材表面への金アマルガムの塗布
      できるだけ均一にならす
5・加熱による水銀の除去
      水銀を気化させる
6・表面の研ぎ出し・ヘラ磨き
      表面を鏡面のように均一化する

辰砂の赤色顔料・塗料としての存在と
辰砂から精製される水銀の存在とを、ごっちゃにして考えて良いのか?

硫化水銀の防腐作用は、水銀化合物であるから少しはあるだろうが、
その硫化水銀の水銀純度によって、色々と違いがあるだろうし、
同量の水銀と硫化水銀とを比較したら、防腐作用の効力は桁違いだろう。

金属物質あるところに微量水銀は存在するのです。
とくに菅子の時代から言われていますが、金とは強い相関関係はありそうですが。

ですから、私個人としては、松田さんの地中水銀濃度のデータの数値が高いから
どうのこうの。。。というのは疑問です。

丹生地名収集など大きな功績は揺るぎませんが、
地中水銀濃度には、何度も言いますが、疑問。

硫化水銀のイオウ同位体比がどうのこうの。。とか、
硫化水銀の水銀濃度がどうのこうの。。とか、
硫化水銀の赤の色素の違いがどうのこうの。。とか、

硫化水銀(朱砂)を太い基軸に持ってこないと、なんでもありになります。
古代の朱を考えるならば。



[1248] 赤の古代史2  神奈備 2005/05/27(Fri) 21:01 [Reply]
 3560 真金吹く丹生の真朱の色に出ていはなくのみぞ吾が恋ふらくは
 
「真金吹く丹生の真朱の」の松田寿男氏の解釈は「金を練る丹生の丹砂のように」であり、どうやらこれは辰砂に含まれる水銀がつくるアマルガムに着目した解釈であって、アマルガム精錬法が行われていたとするものです。

>> 松田さんの誘導だと思う。----何処へ誘導するのかなぁ?
> 朱い川です。(爆)

 アマルガム精錬法は1557年、メキシコの鉱山技師が発明し、日本では慶長年間(1600年前後)に佐渡で行われていたそうな。『万葉集の考古学』から。
 従って、松田先生の解釈は万葉時代に、日本にアマルガム精錬法があることとしたもので、すこしオーバーな誘導があるのかも知れません。

 少々オーバーであっても、各地の地中の水銀濃度と丹生の地名など、大きい功績は揺るぎません。

[1247] Re[1246]: 水銀防腐作用  QUBO 2005/05/27(Fri) 09:47 [Reply]
>  兵馬傭を見そこないました。残念!!
 確かにせっかくの機会、もったいなかったですね
>  例えば遺体を水銀の風呂に浸けてミイラ化しようとすれば・・・
 無理でしょう。「直腸注入」いわゆる「浣腸」
 死体だから「浣腸」されても下痢しないんでしょう?失礼m(__)m

>  硫化水銀は空気中ではどうなるのかな?
 塗料として使える程度には安定しているんでしょう。

現代でも使われた 水銀防腐剤・チメロサール
http://homepage2.nifty.com/takada-kodomo/memo/vaccin-timero.html

Re:[1245] 古代の兵器  素人 様
以下うろ覚えです。
だいぶ以前「弩」が、天の羽羽弓、「弩」に使う「矢」が、天の羽羽矢
では無いのか?と考えたことがあります。

始皇帝軍の弩は、ほんとうに強力で、当時の通常の盾は役に立たず、
対抗する為に重量のある盾が作り出された・・・

おまけ 考古学上「弓矢は武器か?」
弓矢それだけでは、武器ではないんです。
ちょうど包丁や鎌が生活用品で武器ではないように。
考古学では、武器として認められるには防御装置が必要
と言うことで隼人の盾は、弓矢が武器である事の証明になります。

日本は宇宙に衛星を打ち上げるミサイルを持っています。
しかし大陸間弾道ミサイルは持っていません。転用は簡単ですが。

[1246] 始皇帝の墓  神奈備 2005/05/26(Thu) 21:00 [Reply]
 在職中に西安にも行く予定で、まず北京に出張したのだが、その頃のあちらの国では飛行機の事故はないのだ、すなわち落ちてもニュウスにはならないといわれていて、いささかおっかない旅になる予定だった。ところが、多分親切心もあったのか西安からわざわざ要人が北京に出てきてくれて、おかげで兵馬傭を見そこないました。残念!!
 始皇帝の墓には水銀で河川や池をつくってあったと『史記』に記載されており、どうやらそのように造られていたようです。しかし発掘された際には勿論一滴も残っていなかった。蒸発してしまったのです。例えば遺体を水銀の風呂に浸けてミイラ化しようとすれば、なかなか沈まずに力が要ったでしょうし、置いておけば水銀は蒸発してしまう。

 硫化水銀は空気中ではどうなるのかな?

[1245] 古代の兵器  素人 2005/05/26(Thu) 02:40 [Reply]
私が書くのもおこがましいのですが、こちらの掲示板で物騒な兵器が登場しているようですが、古代の最強兵器といえば弩(おおゆみ)だと思います。
官兵以外持っていなかった秘密兵器のはずで、弩師などと言うものがあったように記憶しています。
当時の丸木弓などお呼びも付かない強力な兵器であったように思います。
弩と弓
http://kodaman-empire.kir.jp/san/sweapon.html
青草の思い付きです。

[1244] Re[1243][1239]: 赤の古代史  ペギラ 2005/05/25(Wed) 18:11 [Reply]

> > 毎日、蛇の寝茣蓙を食べる?
> はて? 『蛇の寝茣蓙』って水銀含有量が多いんですか?

普通の植物よりは、重金属を蓄えるから。。と軽く使ってしまいました。
カドミウムと銅なら間違いないが、水銀を蓄積できるかどうかは?
誰か知りませんかね。(笑)

>
> > 松田さんの誘導だと思う。----何処へ誘導するのかなぁ?

朱い川です。(爆)

> 防腐剤である水銀を直腸に注入、ミイラ化する話は有りますよね

水銀などで防腐する作業は、もちろんできますし存在しますが、
それこそ鍍金するぐらい量的に必要かと。

平泉藤原家のミイラは内臓がないぞう。です。レントゲンの結果。

松田さんの説を、ペギラ風に解釈するならば、
平泉のミイラは水銀朱に一度浸けて、皮膚内に浸透させたのち、
納棺の時に表面をふき取って納めた。

調査団が棺内の集めたゴミを銅板試験した結果は、水銀含有はゴミの中には無かった。
一欠片も残さずきれいにふき取ったと言うのか?

しかし、古代・中世、水銀で人間のミイラを作ったという話はあるのだろうか?
即身仏の話などに使われる本当かどうかわからない話以外に。



[1243] Re[1239]: 赤の古代史  QUBO 2005/05/25(Wed) 15:15 [Reply]
ペギラ 様
> あくまでも松田さんの推測であり、ほぼ根拠になるデータはない。
> これを大量というのか?超微量というのか?

0.045% = 450PPM
0.001% =  10PPM  こう書くとどうですか?
ちなみに日本基準食べてはいけない魚介類は
 総水銀 0.4mg/kg つまり 0.4PPMです。
いずれにしても、
多い少ない、遠い近い、高い低い・・・客観的では無いですね。

> 毎日、蛇の寝茣蓙を食べる?
はて? 『蛇の寝茣蓙』って水銀含有量が多いんですか?

> 松田さんの誘導だと思う。----何処へ誘導するのかなぁ?
防腐剤である水銀を直腸に注入、ミイラ化する話は有りますよね

松田氏の本むろん絶対だとは思いません。
P123に記載の、千葉県習志野市谷津の丹生神社、
「調査中」と書いていますが、水銀とは全く無関係です。
丹生族と言うより、漁労関係者です。これも以前書き込み済。

素人 様
 確かに水銀と鉛、似てますね。
 でも今回は水銀朱に絞りませんか

[1242] Re[1239]: 赤の古代史  素人 2005/05/24(Tue) 23:58 [Reply]
>縄文から古墳時代にかけて呪術意味を持っていた色は赤色だけらしい。『万葉集の考古学』(安田博幸)の「赤色と古代人」の節で書いています。祭祀遺跡の出土状況で明らかになったそうです。それも真朱(硫化水銀)は霊魂に関係する場所や物に、赤土(ベンガラ酸化鉄)は祭祀器物の彩色に用いられたらしいと言う。
 
 素人が口出しするのも何なんですが、古来より神社仏閣に塗られてきた丹塗りの丹は
鉛丹(Pb3O4)で色は黄丹(おうに)で黄丹は“おうたん”とも読まれるようです。7世紀頃には日本に有ったようですから古代は無理としても古い時代では考慮すべきと思います。
ベンガラだと安っぽいですし、鉛丹ですと古くからのサビ止めですし、見栄えもいいのではと考えられます。
「丹色(にいろ):丹色は酸化鉛の鉛丹という無機顔料から作られる色のことでもあるのですが、この丹は紀元前から古代エジプトでも使用されてきました。」
http://www.forumkaya.co.jp/chishiki/
鉛丹色(えんたんいろ) #f3715c
http://www.colordic.org/w/src/f3715c.html
鉛丹は中国道教に関係有るようです。中国の戦国時代の本に「黒鉛の錯(蝋[ろう])は黄丹に変化し、丹はさらに水粉に変化する」とあり道教では大事な化合物のようです。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/longhu/longhu1-1.htm
皆様には当たり前の青草でした。
神奈備様のホームページで真朱についてのページがあり、大変勉強になりました。

[1241] Re[1240][1239]: 赤の古代史  ペギラ 2005/05/24(Tue) 13:25 [Reply]
> 以前も書きましたー「古代の朱」松田壽男ーによると
> 平泉のミイラも水銀で作られたのではないか?とのこと。

あくまでも松田さんの推測であり、ほぼ根拠になるデータはない。

> 水銀含有量の多い土地で採れる木の実を食べた木喰行者は、
> 体内に水銀が蓄積されて、腐敗せずミイラ化できたとか。
>  ミイラを食べたと思われるネズミの死骸(これもミイラ化)
>  から大量の水銀が発見されたことから。

個人的な感覚の違いだろうが、大量の水銀など発見されていない。
ミイラのネズミの一欠片から、0.045%と0.001%の
2つの検体?からのデータ
これを大量というのか?超微量というのか?

まず、水銀含有量が多い所では、ほぼ植物は育たない。
これも含有量をどう見るかという個人差がありますが。

少量の水銀含有植物ならば、一生食べても人間の体が腐敗しないほど蓄積しない。
毎日、蛇の寝茣蓙を食べる?
見つけるだけでも大変だよ。きっと。

松田さんの誘導だと思う。

[1240] Re[1239]: 赤の古代史  QUBO 2005/05/24(Tue) 10:02 [Reply]
>  縄文から古墳時代にかけて呪術意味を持っていた色は赤色だけらしい  
以前も書きましたー「古代の朱」松田壽男ーによると
平泉のミイラも水銀で作られたのではないか?とのこと。
水銀含有量の多い土地で採れる木の実を食べた木喰行者は、
体内に水銀が蓄積されて、腐敗せずミイラ化できたとか。
 ミイラを食べたと思われるネズミの死骸(これもミイラ化)
 から大量の水銀が発見されたことから。
人類が最初に扱った金属は水銀ではないかとも。

[1239] 赤の古代史  神奈備 2005/05/22(Sun) 19:23 [Reply]
 縄文から古墳時代にかけて呪術意味を持っていた色は赤色だけらしい。『万葉集の考古学』(安田博幸)の「赤色と古代人」の節で書いています。祭祀遺跡の出土状況で明らかになったそうです。それも真朱(硫化水銀)は霊魂に関係する場所や物に、赤土(ベンガラ酸化鉄)は祭祀器物の彩色に用いられたらしいと言う。

 公園などで夜にライトアップされている木々の緑は目に鮮やかに写ります。これはどうやら人類の先祖が樹上生活の猿だったから、緑に特に反応する遺伝子が残っていると言われます。
 ところが、祭祀は赤色だけとはどういうことは、生理的になにかあえるのだろうか。赤は緑の補色であるので残像に赤が写るのが印象として残ったとか、血の色は赤いと言う単純なことなのか、はたまた顔料としての赤は入手しやすい鉱物だったとか、そう言うのが総合された結果なのかも。

[1237] Re[1235][1233]: 市町村合併??  nick [Url] 2005/05/21(Sat) 19:21 [Reply]
こんばんわ。
今日史跡探訪にマウンテンバイクで出かけましたが、
何と持病が出て救急車で点滴でした。
国分市内でよかったです。これが権現修験道の山だったらと考えると。
今はよく効いたとみえて平穏です。
> 合併の嵐が過ぎないと、住所変更など、だらだらやるのも面倒なものですね。
そちらはリンクが多数だから大変ですね。
独自ドメインにして頂ければ助かるのですが。。
> 話は違いますが、隼人が朝廷に使えて犬の鳴き声をを真似た声を出すといわれますが、そちらの地方では隼人の犬祖伝説は何らかの形で残っているのでしょうか?
現在でも隼人系の神社では神事でこの所作があります。
だから逆にこれを聞くと「あー隼人系かと」。
流石に霧島神宮では聞きませんが。
> または haya という言葉に 犬 の意味があるのでしょうか。
> 南方の海人系のような隼人と北方のモンゴルの狼祖伝説とはつながりにくいし・・。
これに関しては即答は出来ませんが、ちょっと専門の先生にお尋ねして
また後日。
今年の春は延岡の弘法大師祭りと高千穂神社のお浜下り見物でした。
いろいろな史資料を頂きました。

[1236] Re[1234]: 伊吹山  神奈備 2005/05/21(Sat) 10:48 [Reply]
> ヤマトタケルも苦労したわけですね。
『古事記』によりますと、大氷雨に苦しんだようです。猫と犬の雨ですね。これは雪のシーズンではなかった季節のようです。
いずれにしろ、日本海でたっぷり湿気を含んだ風がやって来て、もろに吹き付けたのでしょう。

[1235] Re[1233]: 市町村合併??  神奈備 2005/05/21(Sat) 10:47 [Reply]
nickさん、こんにちは。

合併の嵐が過ぎないと、住所変更など、だらだらやるのも面倒なものですね。
話は違いますが、隼人が朝廷に使えて犬の鳴き声をを真似た声を出すといわれますが、そちらの地方では隼人の犬祖伝説は何らかの形で残っているのでしょうか?
または haya という言葉に 犬 の意味があるのでしょうか。
南方の海人系のような隼人と北方のモンゴルの狼祖伝説とはつながりにくいし・・。

[1234] 伊吹山  QUBO 2005/05/21(Sat) 07:34 [Reply]
ネットで見ただけで書物で確認したわけではないんですが。
日本一の積雪記録は、『伊吹山』で記録されています。
 
世界二の積雪記録は、カルフォルニア州
1158cm 多分ロッキー山脈辺り。

では世界一の積雪記録は、1182cm
「積雪記録 1182cm 」での検索で1000件近く出ます。

実はこれは、『伊吹山』の記録です
ヤマトタケルも苦労したわけですね。

[1233] 市町村合併??  nick [Url] 2005/05/20(Fri) 23:06 [Reply]
当地鹿児島の国分隼人地方もこの11月合併となり新しく「霧島市」誕生です。
町境の訪れる人もない石碑群に脚光が当たり保存へと進むと嬉しいのですが。。
過去所轄の譲り合いで平安中後期の磨崖仏や馬頭観音が気泡に。。
只、地名がどうなるのだろうか。。
益々探訪が困難になるような。。
今も他地方の「田の神」や「大神楽」の村が行方不明で、、
この数日リンク更新に追われています。

[1232] 予告編  神奈備 2005/05/20(Fri) 20:13 [Reply]
来月に入ったら、飲み会をやろうと思っています。
6日の月曜日あたり、天王寺で。
詳細は追って。

[1231] Re[1228][1225][1224][1223]: 間違い箇所訂正  サン・グリーン [Url] 2005/05/19(Thu) 15:33 [Reply]
うろ覚えだったもので… 和気広虫姫が「浅虫」でしたね。お手数をかけました。

玄松子さま、恋川亭さま、QUBO様、よく判りました、もう深入りは止めますね。
ありがとうございます。

[1230] Re[1226]: ああ西都原  恋川亭 2005/05/18(Wed) 18:21 [Reply]
> Re:[1226] ああ西都原  QUBOさん
> 築造は3世紀中ごろ!!!!!

3世紀中ごろは、西暦250年辺り?
魏の正始9年が西暦248年で、卑弥呼が逝去した年でしたか。

この春は南九州でも遅霜の影響で、農作物のペースが乱れました。
西都原の従妹から、新筍が送ってこなかった(残念)。

[1229] Re[1222]: 寄り道・捨て目/『神捨て』  恋川亭 2005/05/18(Wed) 18:17 [Reply]
> Re:[1222] 寄り道・捨て目/『神捨て』 神奈備先生
> 淫祠とは真言立川流などか。淫祠邪教集団

 現実の淫祠邪教集団が大量に跋扈している現代では、真言立川流に申し訳ないくらいですね。立川流の教義そのものは、タントラヨガやチベット仏教などの資料と比較できる今となっては、それほど淫祠邪教ではないように思えますが、修法次第の隠喩が理解できない(つまり正師の口伝を受けない)昔の知識人が読めばハレンチな内容だったのでしょう。

> 神捨ては大量に合祀して、それを廃社にしてしまうような方法だったようです。

 少し田舎の大きな神社にいくと、境内の片隅に古びた石造りの小祠が積まれているのを目にしますね。山中や辻、川合、古樹の根元などに祀られていた神々が、「大量に合祀」にともない「神捨て」されたものでしょう。

> 捨てられた神様はどんな気分なんだろう。多分、気にしていないのでは。

 『非礼は受け付けず』ということですから、神サマの方でサッサと・・・(笑)。
祀られていた神サマは神上げして抜いてあっても、石そのものに元から宿っていた『こころ』を感じるのが日本の伝統なのでしょう。破壊も破棄もされずに神社の片隅に集められています。人が加工した形状と、かつて祭祀された名残が、そこはかとなく「あはれ」を漂わせていました。(←うらぶれた不気味さを上品に言い換えただけですけど。)
 そういえば、数年前に流行した漫画映画の1場面にも、大木の根元に集めて打ち捨てられた石の小祠が描かれていました。「目にしている人もいるもんだ」と感心しましたが、子供達に理解できたことやら?
 同じ石材でも天然の磐座とはエライ違いですねぇ。

> Re:[1225] サン・グリーンさん
> まさか、本気で「淫祠」を拾いに行くと思われたのでは???(~_~;)

> Re:[1228] 玄松子さん
> 祀り方がわからない神を相手にする行為は、覚悟と決意が必要なのでは、ということです。

 皆さんが判っていらっしゃるところが、(それはそれで)不気味なんですが・・・。
「夜鷹」に喩えたのはそういうところもありまして(笑)。
拾っても元の(祭祀されていた)神様ではないし〜(怖)。
へたに拾うと自分一人の命では済まないかも(覚悟と決意といっても親戚縁者一族分になる場合もあるし〜)。(ナメラスジじゃないけど)舐めちゃいけない精霊たち、『住む世界が違う』ということでしょうね。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
さて、立読みですが、個人的にはとても面白かったです。

『祀りを乞う神々』田中宣一著、吉川弘文館

 実際的な祭祀考察のヒントに。そういえば記紀でも、重要な祭祀の場面では多神を対象ですもんね。日本の八百万の神々というのは、アニミズムの発展形ではなく、当時あるいはその前の古代社会の反映と見たいナと思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 神奈備先生が般若湯で紹介されていた『精霊の王』、私はあの著者が嫌いなので手にも取りませんでしたが、この本↓の著者と何か関係があるのかないのか?

『石にやどるもの―甲斐の石神と石仏』中沢厚著、平凡社(絶版)
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また、横道に逸れました。すみません、本筋へ復帰してください。m(__)m

[1228] Re[1225][1224][1223]: 間違い箇所訂正  玄松子 2005/05/18(Wed) 14:27 [Reply]
> まさか、本気で「淫祠」を拾いに行くと思われたのでは???(~_~;)

まさか、違いますよ。

恋川亭さん> でもね、捨てられても神サマだ。深入りは危ねえだろうナァ。

ということです。

祀り方がわからない神を相手にする行為は、覚悟と決意が必要なのでは、ということです。

[1228] Re[1225][1224][1223]: 間違い箇所訂正  玄松子 2005/05/18(Wed) 14:27 [Reply]
> まさか、本気で「淫祠」を拾いに行くと思われたのでは???(~_~;)

まさか、違いますよ。

恋川亭さん> でもね、捨てられても神サマだ。深入りは危ねえだろうナァ。

ということです。

祀り方がわからない神を相手にする行為は、覚悟と決意が必要なのでは、ということです。

[1227] Re[1225] 間違い?  QUBO 2005/05/18(Wed) 13:59 [Reply]
> それにしても、和気清麻呂もキタナまろ、姉の浅虫もキタナ虫(?)とか言う汚名・・・
和気広虫姫が「浅虫」と名付けられたのでは?

宇佐八幡宮の参道への途中に、「和気清麻呂の船を繋ぎ止めた石」が
祀られていました。あの頃陸路も十分整備されていたと思うので、
船は大阪難波からでは無く、柳井辺りから出たのかもしれない。
今も航路がありますので。

[1226] ああ西都原  QUBO 2005/05/18(Wed) 13:45 [Reply]
西都原古墳群の81号墳  築造は3世紀中ごろ!!!!!
本日の新聞で、
弥生時代と古墳時代の過渡期にあたる土器が出土、と記載。
今年一番の考古学上のニュースかなと思います。

前から思っていたけれど、文献が無く2000年も経てば、
1800年代後半に、鹿児島から出兵した軍隊が、はるか
東北、北海道まで制圧した。なんてことは、考古学的には
判らないと思いますよ。
しかもわずか10年後、逆に鹿児島が攻められたなんて。
双方6000人を越すししゃが発生したなんて。

神武天皇の例で
宮崎から出た軍が、奈良を制覇したとしても、考古学的に
ほとんど何も出てこないだろう。また大王家が、逆に
南九州へ攻め込んでおかしいことも無いでしょう。

[1225] Re[1224][1223]: 間違い箇所訂正  サン・グリーン [Url] 2005/05/18(Wed) 13:38 [Reply]

> 「(^^♪」という文字が、個人的には不適切だと思いますが、
> 拾って、どうなさるんですか?

私のいつもの軽いのりが、個人的に玄松子さまのお気にさわったようで、すみません。
「(^^♪」は一種のてれ隠しのつもりだったのですが…
まさか、本気で「淫祠」を拾いに行くと思われたのでは???(~_~;)

しかし、捨てられた丹生都比売さまの汚名を回復する妙案があれば… まじめに拾いに行ってもいいかもしれませんね。拾ってどうするかは… 岡山神社庁にでも相談??

それにしても、和気清麻呂もキタナまろ、姉の浅虫もキタナ虫(?)とか言う汚名を付けられて大隈に流され、のちに名誉回復されていますので因縁の土地柄でしょうか?
神奈備さまの資料を拝見しましたら、岡山ではかなりの神社や祠が神捨てされたようですね。

[1224] Re[1223]: 間違い箇所訂正  玄松子 2005/05/18(Wed) 12:42 [Reply]
> 大多羅寄宮跡に捨てられた神さまを拾いに行きたくなりましたぁ〜(^^♪

「(^^♪」という文字が、個人的には不適切だと思いますが、
拾って、どうなさるんですか?

[1223] 間違い箇所訂正  サン・グリーン [Url] 2005/05/18(Wed) 12:06 [Reply]
すみません、「1220」の私の書き込みに間違い箇所発見しました。
越前長船→備前長船
地形的には金剛川と吉井川の合流地で下流には越前長船→備前長船もあり、鉄との因縁も深いものがあります。
よろしくお願いいたします。

神奈備さま
大多羅寄宮跡に捨てられた神さまを拾いに行きたくなりましたぁ〜(^^♪

[1222] Re[1221]: 寄り道・捨て目/『神捨て』  神奈備 2005/05/18(Wed) 08:54 [Reply]
> 不祥の淫祠

淫祠とは真言立川流などか。淫祠邪教集団
不祥とは祭神などがわからないこと。

神捨ては大量に合祀して、それを廃社にしてしまうような方法だったようです。

HP:「史跡大多羅寄宮跡」参照
http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/okayama-history/04oodarayorimiya-ato.htm

明治期の神社合祀も廃社にはしていませんが、合祀した神社の祭神が全て現在の神社の祭神の中に残っている訳ではありませんので、無意識に神捨てを行っているのかも知れません。

捨てられた神様はどんな気分なんだろう。多分、気にしていないのでは。

[1221] 寄り道・捨て目/『神捨て』  恋川亭 2005/05/17(Tue) 20:25 [Reply]
> 正徳二年(1712年)に不祥の淫祠として神捨てられている。

『不祥の淫祠』・・・、
何回読み直しても蠱惑的な表現ですナァ。
堤の柳にしなだれかかって佇む夜鷹のネーチャンの流し目を受けた感じでぃ。
問わず語りの身上話を背中で聞いてみたい気がするのも、伝奇屋のサガでござんしょうか。
でもね、捨てられても神サマだ。深入りは危ねえだろうナァ。

[1220] Re[1219][1218][1207][1205]: 「真金」  サン・グリーン [Url] 2005/05/17(Tue) 09:35 [Reply]
神奈備さま、みなさま、「木の話」に割り込んでしまってすみません。

ぺギラ様へ

すごく詳しい資料ありがとうございました。
改めて自分の産土さまの風土を再検討したくなりました。
和気という土地柄は和気清麻呂を輩出したところでもあり、付近にはすさのおの墓ではという謎の熊山遺跡{出雲系の方墳)や日本最古の学校「閑谷学校」があります。地形的には金剛川と吉井川の合流地で下流には越前長船もあり、鉄との因縁も深いものがあります。
また、辰砂については不老長寿や神がかりなど…解明されていない謎の鉱石で大和朝廷や神武は辰砂を求めて大和にきたのでは?という説も聞いたことがあります。江戸時代には辰砂はご禁制の石で、手にすれば打ち首だったと伺ったこともあるので、その辰砂や水銀が和気で産出していたとすれば…???江戸時代(1712年)に丹生都姫神社が邪祠として神捨てにあった理由も?????もしかして????
と想像を逞しくしています。
非常に個人的な興味とかかわりで皆さまの掲示板を拝借してしまって恐縮しております。
席亭さま、ぺギラさまありがとうございました。

> 鉱石は主に自然水銀
> 品位は最高0.37%Hg
>
> http://www3.ocn.ne.jp/~mine-chu/fpage708.html
> 詳しい地図も。。
>
>

[1219] Re[1218][1207][1205]: 「真金」  ペギラ 2005/05/16(Mon) 12:09 [Reply]
http://www.gsj.jp/Pub/Bull/vol_46/46-05_04.pdf
引用

地質調査所研究資料集 NO.2231

岡山県和気水銀鉱床調査報告

調査は1955年−1956年
位置は岡山県和気郡和気町藤野、山陽本線和気駅と吉永駅の中間点の北方500m
鉱床は酸性噴出岩類中の断層破砕帯にある蝋石鉱床に伴って産出
規模は延長5−6m、深さ10m、幅0.5−3m
鉱石は主に自然水銀
品位は最高0.37%Hg

http://www3.ocn.ne.jp/~mine-chu/fpage708.html
詳しい地図も。。


[1218] Re[1207][1205]: 「真金」  サン・グリーン [Url] 2005/05/16(Mon) 10:20 [Reply]
> > しかし岡山でも水銀の産出があったのか?
>
> ※「岡山県和気郡和気町藤野」
> この部落の北山の裾に藤野鉱山あり、水銀産出。
>
> >神奈備本家の「丹生都比売神を祀る神社一覧」
>
> 岡山県 和気郡 和気町 日笠下
> 丹生神社  祭神 丹生都姫命 神捨てにあい現存していない。
> 日笠下27には長田神社「事代主命ほか13神」が鎮座
> 日笠下村にあった丹生神社が
> 正徳二年(1712年)に不祥の淫祠として神捨てられている。
> >
>
> 場所的にはほぼ同一ですね。

遅いレスですみませんが…
実は、私は岡山県和気郡和気町駅前で生まれたのです!
七歳まで住んでいました。母(88歳)に聞いたのですが、戦後しばらくは和気の奥の佐伯という部落あたりからなにかの鉱石を運び出していたようだと話しています。
それを海まで運ぶために「片上鉄道(廃線)」があったそうです。
佐伯には今も温泉がでるので佐伯町が町おこしをしています。
何の鉱山だったのかは母はよく判らないようですが、和気駅前には円錐型の美しい神奈備山(通称和気冨士)があり、山頂にはイワクラもあります。今はロッククライマーの基地にもなっています。水銀が算出されていたというのは初耳なので、とても興味が沸きました。
何かのご参考になればと思い遅ればせながら書き込ませて頂きました。

[1217] Re[1212][1210][1209] 木の話 雑感6+α +β  素人 2005/05/16(Mon) 01:53 [Reply]
>>  恋川亭の目と鼻の先に、竹中工務店の「竹中大工道具博物館」があって、そこでの展示で学びました。
「竹中大工道具館ホームページ」Webがありインターネットでも拝見させていただけるようです。前の書き込みのノミの解説はこちらのホームページのものでした。
大変に勉強になるホームページです。
大工道具様々
http://dougukan.jp/dougu/B3.html
竹中大工道具館ホームページ
http://dougukan.jp/

[1216] Re[1215][1198][1196][1194][1193]: 鳥居への試論4  玄松子 2005/05/16(Mon) 00:33 [Reply]
>  神域が登場すると境界が必要で、ここに門が出来た。その前は二本の木がある向こう側をを神域としていて、自然の門を形成していたのでしょう。これが鳥居となって来た。

僕の個人的妄想。
鳥居は、産道入口のようなもの。
あるいは黄泉への出入り口、神界への出入り口。洞窟入口のようなもの。
とすれば、柱にも横木にも意味があって、古代に技術的に可能ならば、アーチが理想だったのではないだろうか。
二本の木は、樹上の枝によって自然のアーチが構築されており、人口の柱を用いるなら横木が必要となった。

参道に一の鳥居・二の鳥居と並ぶのも、稲荷鳥居が並ぶのも、産道(チューブ形状)のイメージの残滓なのではないだろうか。(だから赤いというのは青草)

[1215] Re[1198][1196][1194][1193]: 鳥居への試論4  神奈備 2005/05/15(Sun) 21:32 [Reply]
> それらの神殿?に門があったとして、伊勢の瑞垣や玉垣あるいは事代主命の青柴垣といった呼称が残るところから、境界の意識は垣のほうにあって、出入り口はそれを支える柱程度だったのではなかろうか。

 境界と言う意識の発生は神祭りのそこそこ進んだ段階であって、神域などの概念が出てきたのでは。
 神域が登場すると境界が必要で、ここに門が出来た。その前は二本の木がある向こう側をを神域としていて、自然の門を形成していたのでしょう。これが鳥居となって来た。多気郡宮川村大杉神社に残っているような気がします。
http://kamnavi.jp/it/kinki/mieosugi.htm

 また、精霊としての木と二本の門木と言う組み合わせが得にくくなって、二本の木の替わりに二本の柱、または精霊の降臨する柱が考案されて神社へと進んだのかも。その段階で、境界が意識され、瑞垣や玉垣が考案されたと言う発展はゝなのでしょうかね。無論青草。

[1214] Re[1211][1210]木の話 雑感6+α +β  素人 2005/05/15(Sun) 01:54 [Reply]
> > 裂いても? 裂いて大きな板をつくるのでは。木の三枚おろし。
> 表現が悪かったですか?
> 「裂いて」とは、楔(くさび)で割り裂いて、の意味です。
蛇足ですが、製材には楔だけでなくノミも使用されていたようです。
現在ノミはホゾ穴などを開けるものですが、製材鋸のないころにはノミは材木を打ち割る道具として使用されたようです。ノミには刃の形に2種類あり、両面刃は、一つ側に刃を形成する場合に、両面を傾斜させたもので、片面刃は一方の面だけを傾斜させたものです。現在のノミが片面刃で昔の材木を割るのには両面刃が使用されていました。
以下のWebに詳しく解説されています。
姫路城(兵庫)で発見された江戸初期の両面刃のノミ。
http://dougukan.jp/dougu/dogu1-5/d-nomi.jpg
掲載ページ(ノミの解説)
http://dougukan.jp/dougu/dogu1-5/03nomi.html
どうしても青草になってしまいます。

[1213] Re[1212] 木の話 論外  恋川亭 2005/05/15(Sun) 01:30 [Reply]
裂きやすそうな木を考えてみたのですが。

(1)裂きやすそう&柾目がきれい
    スギ、ヒノキ、イチイ、サクラ、カツラ、サワラ、タケ
(2)裂きにくそう
    ケヤキ、クス、クリ、カエデ、カシ、ナラ、マツ、クヌギ、クワ、エンジュ、カバ、タモ、ツゲ、ツバキ
(3)裂きやすそうでも、柔らかすぎるかな?
    トチ、ホオ、ブナ、ネズコ、キリ、シナ

 実際に楔で試したわけではなく、個人的なイメージですので、体験上のご意見には逆らいません。スギ(曲げわっぱ)、サワラ(桶)、タケ(竹細工)などは、今でも裂いて板にして工芸品を作っていますね。

[1212] Re[1210][1209] 木の話 雑感6+α +β  恋川亭 2005/05/15(Sun) 00:57 [Reply]
> 裂いても? 裂いて大きな板をつくるのでは。木の三枚おろし。

 横から失礼します。昔は実際そのような造り方だったようですヨ。ヒノキだと特に「三枚おろし」にしやすいでしょうね。
 恋川亭の目と鼻の先に、竹中工務店の「竹中大工道具博物館」があって、そこでの展示で学びました。[1211] でQUBOさんのご説明にある通りです。大鋸(おおが)を引いて板を作るのはかなり後の時代(古代はオガクズ大鋸屑は無かった?)。表面仕上げはヤリガンナやチョウナですが、鉄器の無かった時代は石製?
 そういう意味で、「真木さく」も「岩さく」も一般的な状況だったのでしょう。花の「咲く」も、つぼみが「割く・裂く」ということだと思います。・・・すると「サクナダリニタギオツ」って???(佐久奈度神社が「裂く等」でありませんよう。笑)

[1211] Re[1210]木の話 雑感6+α +β  QUBO 2005/05/14(Sat) 22:57 [Reply]
> 裂いても? 裂いて大きな板をつくるのでは。木の三枚おろし。
表現が悪かったですか?
「裂いて」とは、楔(くさび)で割り裂いて、の意味です。
「裂いた」から板(バン)をヤマト言葉で「いた」と言う(←ウソです)

最近でも石を割るのには楔を使っていますよね。同じように、
木も割って厚みを整えるわけです。当然柾目の木でなければ
いけません。鋸の使用は、主に長さの調節の為。
木の繊維に沿わず、繊維を切る為のみに使用されました。
縄文時代ならば、鋸ではなく石斧でそれを行なったのでしょうね。

[1210] Re[1209] 木の話 雑感6+α +β  神奈備 2005/05/14(Sat) 11:17 [Reply]
> 2、裂いても大きな板が取れるような 真っ直ぐな大きな木
>   ほとんど同じですが、2番が青草っぽくて好きですね。

裂いても? 裂いて大きな板をつくるのでは。木の三枚おろし。

[1209] Re 木の話 雑感6+α  QUBO 2005/05/14(Sat) 08:52 [Reply]
神奈備大人、おはようございます。

> 衣手の 田上(たなかみ)山の 真木さく 檜(ひ)のつまてを
> 真木(マキ)さく 桧(ヒ)の御門(ミカド)

「真木さく」は通説ではヒノキにかかる枕詞となっています。
が、青草判「真木」?
1、裂いても大きな板が取れるような 立派な木(真は美称)
2、裂いても大きな板が取れるような 真っ直ぐな大きな木
  ほとんど同じですが、2番が青草っぽくて好きですね。

ペギラ様、かまど様 ヒントを色々ありがとうございました。
自分でももう少し調べます。

[1208] QUBO様  かまど 2005/05/13(Fri) 23:59 [Reply]
こんばんは。
大学の時の授業で確か(うろおぼえ)、岡山北部?では水銀あり、そこに住んでいる人の頭髪中の水銀量と水俣の水銀中毒の人の頭髪中の水銀量と同じかそれ以上であるが、岡山では中毒などなく普通で、水俣市では中毒の訴訟が起こっているとの話がありました。
恐らくは岡山の水銀は無機の水銀で、水俣は有機物とくっついた有機水銀。有機水銀は人間や動物も有機物でできているので人体に蓄積しやすいため有害となります。

[1207] Re[1205]: 「真金」  ペギラ 2005/05/13(Fri) 11:30 [Reply]
> しかし岡山でも水銀の産出があったのか?

※「岡山県和気郡和気町藤野」
この部落の北山の裾に藤野鉱山あり、水銀産出。

>神奈備本家の「丹生都比売神を祀る神社一覧」

岡山県 和気郡 和気町 日笠下
丹生神社  祭神 丹生都姫命 神捨てにあい現存していない。
日笠下27には長田神社「事代主命ほか13神」が鎮座
日笠下村にあった丹生神社が
正徳二年(1712年)に不祥の淫祠として神捨てられている。
>

場所的にはほぼ同一ですね。

[1206] Re[1205]: 「真金」 木の話 雑感6  神奈備 2005/05/12(Thu) 18:46 [Reply]
QUBOさん、こんばんは。
ちくま学芸文庫に「古代の朱」松田壽男著が入っているのでね。

「真金吹く丹生」にヒントを得て、「真木さく」について、うけうりですが、出所忘却。

 従来、真木さくは真木栄くと解されて、立派な真木の板戸をつけている家は栄えている家なのだ、と言うことのようです。
 真木の板戸とは、太い木を一枚板に作った板を以て戸としていると言う意味で、現在でも一枚板と床の間と言えば、豪華な建築の家でなければ、なかなかお目にかからないもので、それがノコギリを使用していなかった大昔ですと、木を裂いて板に作るのですから、これはまた栄えている家の板戸に相応しいもの。
 で、「真木さく」とは「真木栄く」ではなくて「真木裂く」のことだと言うことです。
 
 順序が後先になりましたが、「真木さく」が使われている謡

万葉集 五十
藤原の宮営(つく)りに役(た)てる民のよめる歌
0050 やすみしし 我が大王 高ひかる 日の皇子
   荒布(あらたへ)の 藤原が上に 食(を)す国を 見(め)したまはむと
   都宮(おほみや)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなべに
   天地(あめつち)も 依りてあれこそ 石走る 淡海(あふみ)の国の
   衣手の 田上(たなかみ)山の 真木さく 檜(ひ)のつまてを
   物部(もののふ)の 八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 以下略

古事記 雄略天皇 天語歌
纒向(マキムク)の 日代(ヒシロ)の宮は 朝日(アサヒ)の 日照(ヒデ)る宮
 夕日(ユフヒ)の 日がける宮 竹(タケ)の根の 根垂(ネダル)宮 木(コ)
の根の 根ばふ宮 八百土(ヤホニ)よし い築(キヅ)きの宮
真木(マキ)さく 桧(ヒ)の御門(ミカド)新嘗屋(ニヒナヘヤ)に 生(オ)ひ
立(ダ)てる 百足(モモダ)る 槻(ツキ)が枝(エ)は 上(ホ)つ枝(エ)は
 天(アメ)を覆(オ)へり 以下略

真木とはどのような種類の木なのかは不明ですが、建築材料で板にできる太い木ですから、杉あたりが有力なのでしょう。

[1205] 「真金」  QUBO 2005/05/12(Thu) 10:09 [Reply]
「真金吹く」=真金を精錬すること
では「真金」とは?
江戸時代に、僧契沖が「真金吹く吉備」から
「真金」とは鉄である、とした。しかし誤りである。
「真金」の別名は「まほそ」「みずがね」つまり水銀のこと。

「真金吹く丹生」と丹生にもかかるのだそうです。
仁丹、宝丹など薬につかう丹は、丸いものを意味するのでは
無く朱砂によるコーティングを意味しており、明治時代になり
水銀の薬用使用が禁止されて現在の色になったそうです。

「古代の朱」松田壽男著ちくま学芸文庫2005年1月から抜粋

しかし岡山でも水銀の産出があったのか?
神奈備本家の「丹生都比売神を祀る神社一覧」
http://kamnavi.jp/ny/nyuiti.htmを見ても
中央構造線は走っていないし、採れるのはベンガラで
水銀ではないのだが?・・・・
以前にも朱や水銀、ベンガラの話が有ったと思います。
忘れました。かぶっていたらごめんなさい。

[1203] 加門七海  神奈備 2005/05/11(Wed) 19:13 [Reply]
 カタバミさんお江戸名所図会と神社のページを見ていまして、加門七海さんの『大江戸魔法陣』を思い出して探して見ましたが、それはみつからず『東京魔法陣』(河出文庫)が出てきて、パラパラとめくっていましたら、紀州の東照宮や熊野、日前宮、伊太祁曽神社まで登場。つい最近、和歌浦の東照宮に寄ってきたばかりで、何かを書こうと思っていた所なので、ヒントにできそうです。
 加門さんは『うわさの神仏』1,2(集英社文庫)も著作されており、軽妙で面白い読み物ですね。この本は確か玄松子さんの一覧にも載っていましたね。彼のページのどっかに反映しているのかなと興味深い所です。

[1202] 木の話 雑感5  神奈備 2005/05/10(Tue) 20:04 [Reply]
 タイ北部と雲南辺りにハニ族なる人々が住んでいるらしい。昔は焼き畑農耕だったので、集落は何年かには移動をしていたと云う。焼き尽くすと云うこと。

 彼らが移動する先は、東西に山がある、出来れば四方に山がある所で、村の中央に相応しい所辺りに高木があればそれを聖樹として村を形成していった。その村の入り口らしき所に二本の木が生えていれば、そこは村への聖なる入り口となり、他の集落の者が通る際、そこでの儀礼を行わなければ制裁を受けたと云う。


 鳥居とか鳥杆の場合には疫神防ぎが主たる目的であったが、ハニの二本の木も同じ様なルーツだったものと思われます。どうやら、ユーラシアは一つの文明として考えておかないと、東西の幅とか南船北馬として区分できないのかもしれません。脱北者ですらタイの大使館に駆け込むのですから。

[1201] Re[1198][1196][1194][1193]: 鳥居への試論4  玄松子 2005/05/10(Tue) 09:12 [Reply]
> 紹介された事象と各論はおおいに参考になりましたが、論に論拠がないんですね(^^;

まるで、どなたかの書き込みのようですね。
石も玉も混在で、まとめて各論を「羅列」されても、読者は困ります。
一つ一つ整理しながら、投稿すべきでしょう。

[1200] Re[1197]: 木の話 雑感4  素人 2005/05/10(Tue) 01:28 [Reply]
>要は、二本の木が生えており、多分高さや太さがよく似ている二本の木は神聖な結界を現していたのだろう。あたかも、鳥居のように。
 現在は逆に、鳥居の両側に同じ様な木を植えている場合が多く、同時に植えられているので、その木の形はよく似ている。どちらかと言うと相似形が目立つ気がする。

下らない事ばかり書いております。神社の縁日などで買ったヒヨコが大ききなったものや飼えなくなったペットのニワトリなどが神社に捨てられて、住み着き樹木の上を小屋として神社を闊歩して住み着いているようです。これこそニワトリ(鳥)の住む所で鳥居だと冗談を言っている人もあるようです。鳥小屋や屋根付きの止まり木などが出来る前は木で飼っていたかもしれません。こちらでも何度か話題になっているようですが、暇つぶしに調べて見ました。
熱田神宮
「神宮のジョナサン」樹上のニワトリ等。
http://homepage2.nifty.com/KYoshida/clip_image002172.jpg
http://homepage2.nifty.com/KYoshida/clip_image002161.jpg
http://homepage2.nifty.com/KYoshida/clip_image002181.jpg
掲載ページ
http://homepage2.nifty.com/KYoshida/toukaido9.htm
国立市にある谷保天神
木で休むニワトリ(チャボかも知れません。)
http://www.bigme.jp/000-000-03-06/03-06-16/2003-06-16-ki-ue-niwatori.gif
掲載ページ
http://www.bigme.jp/000-000-03-06/03-06-16/03-06-16.htm
宮崎神宮
A)「野良ニワトリ。野生化した鳥を語るとき(どんなときだ。)外せないのが、宮崎神宮の野良ニワトリです。」(だりさWeb)
B)「森の入口のニワトリは消えていた。はて?どこに消えた?と思ったら皆さん木に登っているではありませんか。ニワトリって木に登れたんだなあ・・・って、単に木の上まで飛んだだけに過ぎないんだろうけどニワトリって木の上ですごせるんだなあとふと思う。」
宮崎神宮のニワトリは凄そうですが、残念ながら樹上の写真は有りませんでした。
http://member.cyberstation.ne.jp/mmb/MBWLVPET/JR3191130399/IBCDATA0026.HTM
あまり本気にしないでください。
クスノキも巨木ではありませんがクスノキ純林や黒松との混成林などが有るようですから、有用材の取得の手法など勉強中です。


[1199] Re[1198][1196][1194][1193]: 鳥居への試論4  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/09(Mon) 22:33 [Reply]

現代の宮大工の仕事、で訂正
流れ造りのサンプルはこっちです(その他いろいろあり)
http://www.miyadaiku.co.jp/job/job_yashiro_Y.html

[1198] Re[1196][1194][1193]: 鳥居への試論4  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/09(Mon) 22:12 [Reply]

もちろん青草でございます。
整理はそのうちに。

古本屋の親父にこれ以上はないよといわれて根岸栄隆の鳥居の研究を購入したのはもう10年くらい前かな。
当初はなるほどなるほどでしたが、今は多くの部分で疑問を持っています。
紹介された事象と各論はおおいに参考になりましたが、論に論拠がないんですね(^^;

正しいことが証明されていなくても、記紀などに書かれる場合にそれを論拠とみなすとしても、鳥居にはそれすらない。
ずっと後世の推論があるのみ。
もともと情報がないからやむを得ないのだと思います。

それでは次善の策として着眼点を変えるとどうなのか、例えば鳥居には2本の横棒があるという事実からの発想です。
それぞれはあいまい情報であって、単独では論拠にはなりにくいのだけれど・・
複数の可能性を重ね合わせると、鳥居の研究での論とは違うパターンがあり得ることが見えてくる。


以下は現代の宮大工の仕事ですが、
http://www.miyadaiku.co.jp/job/job_yashiro10.html
これは流れ造りと思いますが建物の入り口部分、その屋根(ひさしというべきか)を含めたイメージを簡略化すると明神型。
流れ造りや春日造り等の場合の神殿?の門がいかなるものであったかは不明ですが。

部分名称を法隆寺建築から借りれば、茅負カヤオイと垂木、これを略すると島木といったところでしょう。
なお法隆寺では柱に食い込ませたり貫通する貫はありません、柱の上に乗せる頭貫カシラヌキだけで、技術としては発達過程であることもうかがえます。

それらより古い形式を「継承しているかもしれない」神明造り、大社造り等には鳥居につながりそうな部分がありません。
それらの神殿?に門があったとして、伊勢の瑞垣や玉垣あるいは事代主命の青柴垣といった呼称が残るところから、境界の意識は垣のほうにあって、出入り口はそれを支える柱程度だったのではなかろうか。

伊勢神宮の建築様式に関する興味深い論が以下にあります。
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/~shigeru/KENKYU/GYOSEKI.HTM
学術論文の略式のようですが、日本建築の原型―伊勢神宮の建築について、を参照。

現在見える建築様式は古いものではなく、桓武天皇あたりで古式が再現されたもの、などあり。
高床式と土間式が混在した可能性もあるようで、これは神々の系列に関連するかもしれず興味深い。


[1197] 木の話 雑感4  神奈備 2005/05/09(Mon) 08:56 [Reply]
 鳥居のお話に熱が入っていますが、横から。

 用明天皇の宮を磐余池辺双槻宮といいます。イワレノイケベノナミツキノミヤが訓。要するに磐余池の側にあって、二本の槻をシンボルにしている宮殿。槻は欅(ケヤキ)のこと。
 二本の槻では『日本書紀』多武峰の頂上にある並び槻の傍に観(高殿)をたてて、両槻宮とか天宮と称した。
 多武峰の高殿については道教寺院ではとの説がある。『風土記の考古学』辰巳和弘著から

 要は、二本の木が生えており、多分高さや太さがよく似ている二本の木は神聖な結界を現していたのだろう。あたかも、鳥居のように。
 現在は逆に、鳥居の両側に同じ様な木を植えている場合が多く、同時に植えられているので、その木の形はよく似ている。どちらかと言うと相似形が目立つ気がする。

http://kamnavi.jp/it/kinki/kasiwabara.htm
http://kamnavi.jp/it/izu/hatuma.htm

万葉歌 巻十一の二六五六
天飛ぶや 軽の社の斎槻 幾世まであらむ こもり妻ぞも

 軽の社とは、軽樹村坐神社のようで、境内に槻が多く生えていたそうです。
http://www.genbu.net/data/yamato/karukomura_title.htm

 軽と槻がつながっているのか偶然なのか、よく分かりませんが、軽のついた宮があります。
 応神天皇の軽島明宮、懿徳天皇の軽曲峡、孝元天皇の軽境宮など、この宮にも槻が生えていたのかも知れません。
 速く走れる軽野船の材料は何だったのだろうか。

[1196] Re[1194][1193]: 鳥居への試論4  玄松子 2005/05/07(Sat) 22:22 [Reply]
結局、何が言いたいのか、よく理解できませんが。(整理して欲しいですね)

> その答えが、笠木は楼門などの屋根の象徴化であり、貫は門としての横棒である、です。

笠木は、「笠」ですから、笠・屋根と同様の機能であるこことは明らか。
「楼門などの屋根」に間違いはないと思いますが、
> 当初から楼門などの高級な屋根付き門を模して簡略化
とする根拠はまだ記されてないようです。

たとえば、「島木は、楼門のXXにあたるもの」。「島木という言葉は、楼門のXXから来ている」なんてのが出されると期待していましたが残念。

さらに、
> 楼門の彩色からも、祭祀用として赤を塗ったのではなかろうか。
に関しては、なにも。元は、楼門が鳥居の朱の理由だとしていたはず。


> 鳥居の研究では、あらゆる形式の鳥居はみなこの黒木鳥居を原始形として出発したもので、文化を超越して云々とありますけれど・・ちょっとまて(^^;
> 鳥居は楼門の簡略化であって、その工夫のうちのうまくまとまった形が模倣され、神々の系列と併せて定型化していったのだと考えています。

残念ながら、その論拠もどこにも書かれていないようです。
(青草だから主観表明だけで、理由は不要? ならば仕方ありませんね。)

[1195] 木の話 雑感3  神奈備 2005/05/07(Sat) 21:17 [Reply]
 西郷信綱氏の著作になかに、「木は大地の毛である。」との趣旨のことが書かれていた。発音としても木も毛も乙類だそうだ。多分家もそうなんだろう。

 木と毛から素盞嗚尊のことに思いを巡らされた方は相当な神話通と言えるでしょう。
 即ち、『日本書紀』(一書(第五))の伝えに、素盞嗚尊(須佐之男の命)が言われるの に、韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう。と。そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。 用途として杉と樟は船、檜は宮、槙は寝棺を造るのに良いされ、そのために木種を播こうと申され、その子の五十猛神,大屋都比売,都麻都比売 の三柱の神がよく木種を播いた。

 木の誕生譚であり、それは素盞嗚尊の体毛の化身であると言うお話、だから木=毛。関東地方北部は毛の国(けのくに)と呼ばれていて、これは木の国。

 『出雲国風土記』(飯石郡)に出てくる神須佐能袁命は「この国は小さい国だが、国(としては住むにはいい)所だ。だから私の名前を木や石には著けるべきではない。」と仰せられて、大須佐田、小須佐田を定め給うた。だから須佐と言う。

 『風土記』の「私の名前を木や石につける」とはどういうことなのだろう。木につける、木の神となる、と言うことだろうか、石につける、石の神??、要は自然神から人格神への進化と途上がここにあるように見える。
 須佐能袁命には、石神であり木神であるのだが、それらは自分のルーツとしての古層の神としておき、表面に人格神をだして来た説話。

[1194] Re[1193]: 鳥居への試論4  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/07(Sat) 21:12 [Reply]

門だけなら横棒2本の必要はない、2本であるのはなぜか。
加えて、笠木が柱より大きく横へ突き出されているのはなぜか、なんてのもあります。
(貫の場合は、突き出す方がクサビの効果が発揮できると思います)

その答えが、笠木は楼門などの屋根の象徴化であり、貫は門としての横棒である、です。
門としての貫は必須、しかし笠木は屋根を模しただけですから、どう作るかは作り手の自由。
(転じて笠木は鳥居としての象徴、となります)

そう考えた場合、島木やら笠木の曲線といったことは、形式区分にからむだけの問題となります。
楼門の屋根をどうやって簡易に表現するか、作者の感覚と表現に任せられた結果に過ぎないということです。

鳥居の研究では島木は太い材が得にくいので2段に重ねたのだ、としていますが、なんで上下で太さを変えるのか。
楼門の屋根とその下部の複雑な凸凹を段差をつけることで表現したから。
もっと屋根に近づけたいのなら屋根のカーブの印象を模して笠木の端部を反り上げたり、全体を曲線構成にするわけです。


伊勢型は好きな形式です(例えば宇治橋の鳥居)。
平安時代も末期、ひょっとしたら鎌倉あたりじゃないか、だれがデザインしたのか知りませんが傑作だと思っています。

社殿の木製欄干などの水平材の上面は水はけのためにわずかに屋根型の断面に加工されています。
(安づくりの場合はいざ知らず)
水平角材で笠木を作るなら、この断面も同様の処理がなされて自然に将棋の駒形になります。
屋根の形状を模すことも加わればより強調するかもしれません。

で、笠木の木口(端部)をわずかに斜めに切り落として屋根のイメージを演出する。
(これを鳥居の研究では屋根型への過程の形としています)

なお、コンクリート製の伊勢型?では笠木断面がかまぼこ型のもあるけど、これは見上げたときに笠木のエッジがねぼけて切れ味が悪いと感じます。似て非なるものと思います。

昭和18年当時の鹿島神宮の笠木は先と本で太さの異なる丸太ですが、写真で見る限り笠木端部を斜めに切り落としています(貫は角材です)。


黒木型は素朴な門に鳥居として最低限の象徴として丸太の笠木を乗せたもの。
現物どころか写真すらみたことがありませんが、大嘗祭で黒木型が使われると聞きます。

そうであるならこれはその儀式を作りだした人々の感覚によるものと思います。
古い古い神代の素朴なイメージで鳥居としての形態を作ったもの。
やはり平安時代じゃないかなあ。

結果として、村の衆がちょいちょいと作った鳥居と同じになって・・おお、宮中でもそういうのを作るのか。
これでいいじゃないか(^^;
宮中との関係はなくてもこれが定型化したりもすると思います。
加えて、神代の植樹伝承といったことがあれば、皮付きの丸太だけで作ることも自然に生じると思います。

鳥居の研究では、あらゆる形式の鳥居はみなこの黒木鳥居を原始形として出発したもので、文化を超越して云々とありますけれど・・ちょっとまて(^^;

鳥居は楼門の簡略化であって、その工夫のうちのうまくまとまった形が模倣され、神々の系列と併せて定型化していったのだと考えています。


[1193] 鳥居への試論3  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/07(Sat) 21:09 [Reply]

さてと、いくつか関連コメントをいただきましたので追加です。

鳥居の形式分類とはなにかがありますが、鳥居の研究/根岸栄隆に準じておきます。
そこから引用すると
一番簡単なのは神明系と明神系のふたつに分類する方法だがおおざっぱすぎる、とあります。
試論ではおおざっぱで片づくので細かいことはなしです(^^;

神明型は伊勢の流れに乗るものとみています。
後世では単に著名神社の形式を真似しただけで無関係の場合もあるようですけれど。

次ぎに、笠木が1本の材のものと、笠木の下に島木と称する横木を重ねる形で区分し、さらに笠木が水平であるものと曲線であるものに分け、これらの組み合わせ方で4種の形式に分類しています。
それ以降では部分詳細の差に至るので多数の形式に分岐します。


鳥居の研究では貫が重要であるという論を引用していますが、これを否定して柱が重要であるとしています。
和漢三才図会の鳥居の記述も引用していますが、柱に注目したことだけは取り上げられるが云々・・と書いています。

私は柱重視には賛成でもあり反対でもあります。
普通の門なら柱が2本立ってるだけでもいいのですが、この場合は通り抜けであって平面での境界のみの感覚とみます。
鳥居には平面だけでなく立体的な空間への出入りのイメージを要するとみるからです。
(ある方がドラエモンのどこでもドアとみなされたですが、いいえて妙と思います)

1本柱などの場合は、それ自体が目標になるのだと思います。降臨するならそこへ。
これは柱でも岩でもなんでもいいです。
2本の場合は・・どっちへ降りればいいんじゃい(^^; 人間の平面的な通り抜けの標識。

3本は・・ま、平面的な小さな範囲を指定できそう。
4本は・・ま、東西南北といった方角の意識が加わって小さい範囲を指定する場合かな。

横棒は竹竿1本だっていいのですが、あんまり細いとくぐり抜けるの感覚から遠くなりそうです。
柱2本に注連縄を張るだけの場合、ここまでくると鳥居といえるのかどうかわかりませんが、見る側がどう感じるかだと思います。

私の場合は、門を守る蛇を意識しつつ、ちょいと「首をすくめながら」通り抜ける、鳥居をくぐるのとはちょっと違う感覚になってきます。

しかし、作った側が鳥居なのだと考えているならそれでもよいと思います。
形式化による象徴とは違うものを用いるなら、独自の考え方があるはずです。
鳥居の概念の発祥の問題がからみますが、これについてはわずかな情報しかないので、流動的です。

こんなのもあるんですね。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway/2034/jinja/hirota/000225.html
近代デザインによるものと思いますが、やはり私は鳥居の感覚にはならないです。
(通りがかりにみたら、なんで工場の入り口に注連縄があるの?と思っちゃう(^^;;;)


鳥居の研究では、笠木について鳥の糞で貫が汚れるのを防ぐなんて論も引用していますが、さすがに賛同はしていません。
強度を高める工夫であり、関東大震災では倒壊した50基の鳥居のうち横方向に倒れた鳥居は13基だけで、笠木の存在によるものであろうとしています(貫の存在に触れていません)。

37基は前後方向に倒れたわけで、これは当然でしょう。
笠木を加えて四角形を作っても平行四辺形にひしゃげるだけです。
(笠木はホゾ組で柱の上に落とし込んであるだけだと思います)
強度を考えるなら筋交いを入れねばなりません。

柱と貫の結合部にクサビを打ち込む。
これによって柱と貫の密結度が高くなって、小さいですがここに筋交いと同じ効果が生じます。
コンクリート製でも飾りのクサビがあったりするのは鳥居のクサビが特徴的だからだと思います。

ただし、これだけでは鳥居の前後方向の倒壊とねじれには無力です。
現場写真らしきをどうぞ(^^;
http://www.woodsorrel.sakura.ne.jp/data/nedu_00.jpg

前後方向を強化するには柱の根本を補強する他はありません(これを実行しているのが両部型)。
しかし柱が立っていられるなら、そこまでする必要はない、というのがほとんどなのだろうと思います。
すなわち、前後に倒れないならば横方向を補強する必要などない、ということです。

ちょい余談
ほとんどの鳥居の柱は内側に傾いています(ころびと称する)。
遠近法の応用だろうと思っています。より高く大きくみせるため。
風景の中に鳥居がある場合でも、真四角であるより風景の遠近感の中に溶け込みやすいと感じます。
だれがはじめたのか知りませんがうまい工夫だと思います。

先の広田神社の鳥居、たぶん柱は垂直。これをわずかに傾けたら・・
ま感覚の問題ではありますけれど。


[1192] 木の話 雑感2  神奈備 2005/05/06(Fri) 11:41 [Reply]
 殷代から戦国期にかけての大陸では、東方の呼称は「析(せき)」。破木なり。析と言う。木の開けている状態で、拍子木の意味もあったそうです。
 析と言う字は卜辞では、○の上下に川がついているイメージ。
http://www.kamnavi.jp/en/higasi.gif
と言う形だそうな。

 この形は木の幹に穴が開いている状態を示しており、日の昇る様、風の吹き抜ける様とか。
 大屋毘古神が大穴牟遅神を根の堅洲国に逃がしてやる、木の俣とはやはりこの世と黄泉の国と境であるセキだったのです。
  (自然の神々 清田圭一著 を参考にしました。)

 析の卜辞の○の中に天気図の雪のマークをいれると東の意味になる。日本は扶桑の巨木が生えている東の国と認識されており、上記の大屋毘古神と大穴牟遅神の神話の木の俣とは扶桑の木だったのでしょう。
 日本の根源は大樹の析であった。析(セキ)とは石神でもあるので、石神と木神が造り守る国がこの国だったのでしょう。
 皇室の祖先に高木神が出てくるのもむべなるかなですね。

[1189] Re[1187][1186]: 鳥居  神奈備 2005/05/02(Mon) 17:55 [Reply]
> 神事には詳しくないので、僕が答えてよいかどうかわかりませんが。
上に同じく。
>
> > たとえば神事の時に2本の榊あるいは木をさして、境をくぎるのも鳥居といえますか?あるいは鳥居の代わり・役目をするものなのかも知れませんが。

例えば、大神神社や檜原神社の柱2本に注連縄をかけたもの、鳥居と言ってもよさそうですね。
http://www.genbu.net/data/yamato/oomiwa_title.htm
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/hibara.htm

[1188] Re[1181]: 鳥居への試論2  玄松子 2005/05/02(Mon) 17:52 [Reply]
これも、もっと整理して欲しいところ。

結局、鳥居の横木は寺院の楼門から発生した、とおっしゃっているのでしょうか。

その根拠は、一般的な「補強」ならば、足元を補強するべきだからということでしょうか。
上部の補強は、ありえないということでしょうか。

門の字形を見ても分かるとおり、門には横木があるのが普通じゃないかなぁ。
一般建築でも、上の横木が鴨居で、下の木が敷居と呼ぶでしょ。


> 鳥居の形の原形が門であったとするなら、なぜ横棒が2本あるのでしょうか。
> 門であるなら2本棒は不要、構造的に重くなるだけで不利、作るのも面倒(^^;
> 笠木の存在に納得のゆく説明が得られない、これが一般論への最大の疑問なのです。

二本あることが疑問なら、笠木よりも貫の存在を問うべきではないでしょうか。



> 神名系鳥居など丸太系(直線構成)の鳥居は、平安以降の日本文化特有の簡素化による結果の形であって、これを古い形式とみなすのはちょっと待て(^^;

この一文の意味もわからない。
神明系と明神系の一番の違いは、島木です。丸太かどうかは関係有りません。
伊勢神宮の伊勢鳥居の笠木は、五角形ですよ。

[1187] Re[1186]: 鳥居  玄松子 2005/05/02(Mon) 17:04 [Reply]
神事には詳しくないので、僕が答えてよいかどうかわかりませんが。

> たとえば神事の時に2本の榊あるいは木をさして、境をくぎるのも鳥居といえますか?あるいは鳥居の代わり・役目をするものなのかも知れませんが。

「境」の意味としては、鳥居的用途もあるでしょうが、
古事記・天岩戸の段で登場する真賢木(マサカキ)の意味でもあるでしょう。
玉や鏡などを飾る祭器ですね。

[1186] 鳥居  かまど 2005/05/02(Mon) 14:38 [Reply]
横からすいません。
教えて下さい。たとえば神事の時に2本の榊あるいは木をさして、境をくぎるのも鳥居といえますか?あるいは鳥居の代わり・役目をするものなのかも知れませんが。

[1185] Re[1184][1183]: 和漢三才図会の鳥居  神奈備 2005/05/02(Mon) 08:35 [Reply]
  万葉集の中だったと思いますが、調べてみても発見できません。万葉集と云うのが記憶違いかも。
 内容は、「春日の杜に入った。多分入り口のシルシはあったのでしょう。所があまりに広すぎて、祠の所がどこか分からない。」と云う歌でした。
 奈良時代でしょう。シルシはあったようです。鳥居か二本の木なのかは不明。

[1184] Re[1183]: 和漢三才図会の鳥居  玄松子 2005/05/01(Sun) 13:55 [Reply]
> 表(するし)として二本の木を並べて立てたものを桓といい、

(しるし)です。

[1183] 和漢三才図会の鳥居  玄松子 2005/05/01(Sun) 13:55 [Reply]
江戸時代の百科事典、和漢三才図会における鳥居を抜粋要約。

とりい(桓 華表 鶏栖 鳥居)
表(するし)として二本の木を並べて立てたものを桓といい、
中国古代、尭の頃の「誹謗の木」が由来。

後、華の形にしたものを、華表(とりい)と呼ぶ。
日本では神代の名無雉(天稚彦に射られた鳥、天探女が「奇鳥来居杜抄」と云った)から名前が取られた。

--- ここまで
「誹謗の木」や「名無雉」の故事には境界の意味しかないような感じ。

[1182] Re[1180]: 鳥居への試論1  玄松子 2005/05/01(Sun) 13:38 [Reply]

> 一般的な論を否定する考え方を提示しておきます(^^;

どこが一般論を否定しているのかわかりませんから、
まず、否定している一般論を記して欲しいところ。

[1181] 鳥居への試論2  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/01(Sun) 13:31 [Reply]

鳥居の研究によれば、皮をはいだだけの丸太の鳥居は関東に多いそうです。
鹿島神宮や浅草の榊神社(第六天社)などががそうで、昭和18年頃の写真が載っています。
加工されていない丸太ですから先と元では太さが違っています。
(皮もはがないものを黒木鳥居と称する)

一般にはこの形式を古形としますが、そう推定しているだけです。
黒木鳥居や神明系鳥居など丸太系鳥居が、現存する石鳥居や銅鳥居より古くからあった物証も文献もありません。

現存する最古の鳥居は平安時代の石鳥居であってその形は明神型に属します。
(雨ざらしの木製では長持ちはしないでしょう、昭和18年当時の木製最古は山梨県吉田村の富士浅間神社で1480年製)


鳥居の基本形は2本の柱に笠木(上段の横棒)と貫(下段の横棒)です。
鳥居の形の原形が門であったとするなら、なぜ横棒が2本あるのでしょうか。
門であるなら2本棒は不要、構造的に重くなるだけで不利、作るのも面倒(^^;

鳥居の研究では笠木の存在理由について強度を増すためとしていますが・・
堅固とするには柱の根本を補強する方が確実かつ簡単です(例えば両部型鳥居)。

再度タイのアカ族の門
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/bunka_torii.jpg
横棒が何本もあるようにみえますが、1年ごとに作り直した門が重なって見えているためです。

笠木の存在に納得のゆく説明が得られない、これが一般論への最大の疑問なのです。
しかし、屋根の表現をシンプル化あるいは簡素化したものが笠木である・・そう考えれば納得できる。

門に屋根をつける、これは中国の楼門といった建築様式でもあって自然です。
土器絵が示すように弥生時代には類似の建物が存在していますから、はるか昔にこれを模した門があった可能性はありますが、証拠がない。
(その場合は「宮殿の立派な門」であって赤く塗られていただろうなあ)

鳥居の形式は結界の概念登場の当初から楼門などの高級な屋根付き門を模して簡略化したもの。
楼門の彩色からも、祭祀用として赤を塗ったのではなかろうか。


神名系鳥居など丸太系(直線構成)の鳥居は、平安以降の日本文化特有の簡素化による結果の形であって、これを古い形式とみなすのはちょっと待て(^^;

鳥居の研究に京都嵯峨野の野の宮の黒木鳥居の写真があります。
都名所図会の野宮に黒木鳥居と小柴垣は古の遺風なりとあります。
祠があるだけの小さな社で鳥居も丸太だけですが・・額らしきがついてるなあ。
(鳥居の研究では額束も補強のためだとしています(^^;)

垣根と丸太の普通の門だったものに、鳥居の形態を取り込んだ形式だとみます。
(あるいは宮廷儀式での形がそうであり、それを模倣した形式)
宮廷儀式は貞観儀式(871)、延喜式(927)と順次定型化してゆくようで、この時代に建物形式や「鳥居」も中国色(唐)を廃した「日本独自」の意識が加わったものになっていったと考えています。


そう考える場合の鳥居の系統図です。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/bunka_torii.png
赤塗りの明神型、これが最初に登場した「鳥居」とみるわけです。

鳥居の研究によれば、最古の鳥居は佐賀県東松浦郡湊村湊の八坂神社の石鳥居で延暦3?年(784)としています。
(佐賀県唐津市湊町の湊疫神社ではないかと思われますが、地元の方の調査を期待)
次が奈良県の金峰神社の銅鳥居で伝承としては昌泰年間(898〜900)。
次が山梨県北巨摩郡更科村の勝手神社の石鳥居で天禄元年(970)。
(韮崎市韮崎町岩下の勝手神社と思われます、石鳥居が現存するようですが詳細不明、やはり地元の方に期待)
次が佐賀県東松浦郡呼子町加部島の田島神社の石鳥居で伝天元年間(978〜984)(現在のは再建と思いますが不明)
等々・・

その他山形県にも古い石鳥居があります。
http://suzuki-t.hp.infoseek.co.jp/mogami-1.htm
現存する古い鳥居とみえるものは平安時代になってからのもので、地方に多いのが面白い。
(おそらくは中央では再建されるか消えたのではないか)


伊勢神宮の白木造りと20年で作り直す慣習、まだ使えるのに作り直す。
いわゆる日本文化での樹木の使い方に反する(^^;
千年の木は千年を生かして使う、日本建築の感覚とは違う。
(ただし、草葺きとか庵などではそうでもなさそう)

遷座は皇太神宮儀式帳(804)に制として書かれているようですが、それ以前ではどうなのか不明。
(興味深い慣習ですから古来からそれがあったなら記紀が書くと思う)
南方系の素材が豊富である背景と高温多湿環境での建築手法、その復活じゃなかろうか(北緯35度以南のシロアリは強烈らしい(^^;)。

記紀以降のなんらかの意識がそれを復活させたのではなかろうか。
持統686-696〜仁明天皇833-850に登場する「倭根子」の尊称復活にからむとみています。
古墳時代後期では赤の葬礼が消えてゆく、これにもつながるかも知れない。
(徳川幕府の将軍の埋葬では朱を墓に納めています、赤の葬礼の復活とみえますが、どこから?なぜ?)


対して千年の寿命を持たせる、こちらは樹木を使い捨てにできるほど豊富とはいえない地域での感覚なのだと思います。
寿命のために塗装が有効ならどんどん塗った。祭祀が加わるならますます。

三内丸山遺跡資料
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/k-jda1/
ここの漆器復元品(八戸是川遺跡では朱漆も使用、北海道産のHgSかな)
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/k-jda1/k-jcp1/k-jsp1/k-jpa9.jpg
(黒漆を下地にして赤漆を塗る場合があるので赤が上位にあるとみえます)

この赤は祭祀のための赤である可能性が大きい(特別に漆が塗ってあったから残った)。
一般木製品では塗ってないだろうと思いますが、縄文の感覚についてはなんともいえず。

白木や杢目に美しさを感じるのは塗装をしない木を使っていた感覚が潜在意識に残る結果じゃないか(南の感覚)。
千年の利用は北の感覚、このふたつの感覚あるいは矛盾を融合させて登場するのが、中国文化を脱した後の日本文化での木の用法ではないかと考えています。

神明系の鳥居(丸太ないし直線構成、無塗装)は、伊勢の遷宮と白木の感覚の側に準じた手法、平安以降での形式であろうと考えています。


[1180] 鳥居への試論1  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/01(Sun) 13:13 [Reply]

一般的な論を否定する考え方を提示しておきます(^^;

文献として最初の「鳥居」の文言の登場は「鳥居の研究/根岸栄隆」によれば、宝亀2年(771)2月の太政官符となっています(この太政官符は偽書であるともされるらしいけど(^^;)。
呼称の始まりはおくとして、単なる門ではない意識はいつごろ生じたのでしょうか。

記紀、風土記、万葉には鳥居をうかがわせる記述はありません。
形象埴輪とか土器絵などにもそれらしきはありません。
文献も物証も存在しない、記紀以前には存在しなかった、まずはそう考えるべきと思います。

門があるということは遮断された領域があるということ。
「最初の遮断」は伊弉諾伊弉冉尊の黄泉の国からの脱出かな。
ここでは遮るものは川であり巨石です。
当初は神と人の間に境界はなかった、このあたりで神の領域と人の領域を分離する意識が登場している可能性があるかもしれません。


古墳に円筒埴輪が並べられています。
これの用法には各論あると思いますが、冊のごとく囲うか人を誘導するためのものと思います。
もしそこに門があったとしても、当時にそれを鳥居であるという意識はなかったとみます。
鳥居らしき形象埴輪もありませんし。
(塞神の意識はあったかもしれない→境界部分への甕の埋設)

大阪藤井寺のはさみ山遺跡では円筒埴輪を飛鳥時代の井戸の枠として使っています。
http://pit.zero-city.com/hasamiyama/hasamiyama.html
どっかの古墳の円筒埴輪を失敬してきたのでしょう、神罰が下るとは考えていなかった(^^;


火葬が登場するのは仏教の登場によるものと思いますが、このとき「鳥居」を造ったようです。
鳥居の研究に倭訓栞ワクンノシホリという江戸時代の百科辞書からの引用があります。
(興味深いのですが読んでいません)
−−−−−−−−−
大和国は死人を焼くところに必ず鳥居立ちたり。伊勢神宮長官の墓所に鳥居建てたり。東寺にある慧果(唐、青龍寺、空海の師)の廟所に鳥居あり。紀州の墓所にはみな鳥居あり。
−−−−−−−−−−−−
(明治維新前後での祭祀に関するどたばたと破壊、それ以後からそれ以前を見る場合は要注意)


鳥居とは神域なり仏域?なりの祭祀の場への出入り口。
仏教(密教)、道教などの祭祀、あるいはそれらの複合から生まれた概念とみておきます。
すなわち祭祀の場への結界、結界への「人の出入りのために作られた門」、これを鳥居と呼ぶようになった。

その広まりの中核は密教、神仏習合の流れに一致するものと考えます。
当初は神仏習合で神社から寺へと考えていましたが、現在は逆だと考えています。

古来からの神、人と区分されるものではないはずですが、人の領域が拡大を続けていった結果、古来からの神の領域が限定され、そこに「人が出入りする場合」に鳥居が置かれるようになった。
(まだ「神道」といった概念は登場していません)

常陸の国風土記行方郡に夜刀神と麻多知という民が争う話があります。
結局山に夜刀神が住み、谷?に麻多知が住むのですが、その境界の堀に「杖」を置いて目印としています。
この話は継体大王の時代とされています。

鳥居に張られる注連縄も結界を明示するものと思います。
何処だったか忘れましたが2本の柱だけで、その間に注連縄を張った神社がありました。

密教や道教の修法、結界の概念、それを明示するのが鳥居であり、神仏習合の流れに乗って鳥居の概念が広まっていった。寺にも神社にも(道教にも)。

密教や道教での結界の概念が薄れていった場合でも「神域」の概念は薄れることはなかった。
太古から自然界を介して神と人は密着していたから。
すなわち、「鳥居は神社」のイメージの定着にもなっていったのではないか。

情報がとぼしく流動的ではありますが、鳥居の意味はこのように考えています。



[1179] 神立ち祭  神奈備 2005/05/01(Sun) 12:44 [Reply]

 昨日、姫路の大塩の天満神社へ行った。地図には岩神社とあり、その横に日笠山と云う山があったから。これを見過ごす訳にはいかない、神社愛好者の名折れだと、特急電車を降りたって、参詣した次第。

 神社は日笠山の近くに鎮座していましたが、方角から見ても無関係な感じ、おまけに境内に入ると天満神社の説明板、菅公が流される途中、ここの石に腰をかけたとの伝承があるとか。従って腰掛け岩天満宮と称するとありました。

 帰宅後、調べて見ますと、やはり天満宮には違いない、ただ面白いのは神立祭(出雲行き)がありました。菅原道真が出雲の神々の集合に出かけた、伊勢の大神は行かないようですが、菅公は行っても不思議ではありませんね。やはり八百万の一柱か。

 ちなみに、天満神社では全国で5社ほどに神立ち祭があるようです。


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