青草談話室ログ平十七年 十二月
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[1718] Re[1716][1715][1714][1713][1712][1711][1710]: えびすの神  玄松子 2005/12/30(Fri) 17:37 [Reply]
>  神(人)は、本来的には海からやって来ますし、垂直的な観念は比較的新しいわけですよね?


垂直的な観点がどれほど新しいか存じませんが、沖縄の民間伝承よりは古いかもしれません。

また、

>  神(人)は、本来的には海からやって来ます

というのであれば、海から来る神々が、すべて関連すると判断するのは、
正しくありませんよね。みんな海から来るなら、無関係な神も海から来るわけです。


>  また、「あま(天など)」の原型は、やはり海ではないかと考えますね。


どうしてそのように考えるのですか。
同音だからですか?


総じて、琉球松さんの書き込みは、理由や根拠があまり書かれていないので、混乱してしまいます。丁寧に、ゆっくりと書き込んでくれればありがたいのですが。

[1717] Re[1713][1712][1711][1710]: えびすの神  玄松子 2005/12/30(Fri) 17:33 [Reply]
> おっしゃる通りだと思います。ただ、少名彦神にはいささかのわけありのようです。

エビスと少名彦神は関連がありそうですが、

>  "海の彼方から幸をもたらす神"。。。常世へ帰っていった「スクナヒコナ」とも関係あると考えますね。


これは、ミルクと少名彦神が関係すると言っているようです。
で、海という共通点があるからといって、無闇に関係すると言うのは行過ぎだと思いますよ。

[1716] Re[1715][1714][1713][1712][1711][1710]: えびすの神  琉球松 2005/12/30(Fri) 12:22 [Reply]
 神奈備さん、皆さん、今年もお騒がせしましたが、多くの収穫を得た事に感謝したいと思います。
 
 神(人)は、本来的には海からやって来ますし、垂直的な観念は比較的新しいわけですよね?
 琉球方言で言う「てん(天など)」は、港(島の入り口)をも意味します。
 また、「あま(天など)」の原型は、やはり海ではないかと考えますね。

 正月には、朝一番の「スデ水(孵水)」で再生を祈願したいと思います(本来は旧暦なのですが)。。。(笑)。

 どうもありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

[1715] Re[1714][1713][1712][1711][1710]: えびすの神  神奈備 2005/12/29(Thu) 14:19 [Reply]
> 今年も残り僅かです。
> お世話になりました。
> 皆様よいお年をお迎え下さい。

nickさん、ご無沙汰です。こちらこそお世話になりました。

> 鹿児島の新生「霧島市」の隼人町木の房にも「蛭子神社(ひるこ)」があります。
> 写真は「寺社探訪」に掲載。
> 丹後地方と同系列とは思いますが如何でしょうか。

奈気木(なげき)の杜との別名があるのですね。丹後には奈具や哭木神社が鎮座、尤も、祭神は天女、由緒も違うので、この意味ではない丹後地方をお考えだと思いますが、よく分かりません。
nickさん http://prosv1.tok2.com/~hayato/jisya/hiruko.html

ついでによく分からない事がありますので、お尋ねいたします。
大和岩雄著『秦氏の研究』に、「韓国宇豆峯神社のご神体が曽乃峯である」との記述があるようですが、曽乃峯とは付近の山の名だとは思いますが、よく分かりません。貴サイトの『三国名勝図會』の宇豆峯と言うことなのでしょうか。心当たりがございましたら、ご指導下さい。
nickさん http://prosv1.tok2.com/~hayato/jisya/uzumine.html
秦氏の研究 http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/C-IL-Oouji.html

[1714] Re[1713][1712][1711][1710]: えびすの神  nick [Url] 2005/12/29(Thu) 11:50 [Reply]
鹿児島の新生「霧島市」の隼人町木の房にも「蛭子神社(ひるこ)」があります。
一応神話伝承によりますが定かな由緒は不明。「蛭子」一神です。
昭和天皇もご参拝されています。
写真は「寺社探訪」に掲載。
丹後地方と同系列とは思いますが如何でしょうか。

今年も残り僅かです。
お世話になりました。
皆様よいお年をお迎え下さい。

[1713] Re[1712][1711][1710]: えびすの神  神奈備 2005/12/28(Wed) 17:45 [Reply]
> 日本は島国ですから、神は、空か海から来ます。
> 天降る神々がさまざまであるのに、海から来る神々がすべて関連するというのは安易な判断じゃないですか。

おっしゃる通りだと思います。ただ、少名彦神にはいささかのわけありのようです。

えびす神社(恵比須神社、蛭子神社、胡子神社、夷神社 など)の祭神のベスト4は以下の通り。

事代主神  全国的  925
大国主神  全国的  190
蛭子神   全国的  165
少彦名神  西日本   18

数字は『平成データ』で検出した神社摂社数、配祀の数も勘定しているので、大国主神がつられて勘定されているのも混ざっています。大国主神のみのえびす神社もあります。

海にかかわりがあっても、住吉三神や安曇磯良神などはなさそうです。また素盞嗚尊や五十猛命も見えませんでした。

[1712] Re[1711][1710]: 琉球の神々  玄松子 2005/12/27(Tue) 08:47 [Reply]
>  "海の彼方から幸をもたらす神"。。。常世へ帰っていった「スクナヒコナ」とも関係あると考えますね。

日本は島国ですから、神は、空か海から来ます。
天降る神々がさまざまであるのに、海から来る神々がすべて関連するというのは安易な判断じゃないですか。

[1711] Re[1710]: 琉球の神々  琉球松 2005/12/26(Mon) 18:22 [Reply]
神奈備さんへ

 さすがですね、琉球圏の民俗や神話は『古事記』など、古代と繋がるのは確実だと思います。
 "海の彼方から幸をもたらす神"。。。常世へ帰っていった「スクナヒコナ」とも関係あると考えますね。

 先日のローカルTVではミルクサンタが登場!
。。こう言うわけのわからない事を平気でする島々ですが、古代史解明のヒントがあちこちにころがっているはずです(笑)。。

[1710] 琉球の神々  神奈備 2005/12/23(Fri) 15:07 [Reply]
 琉球は八重山地方に来訪する神にアカマタ、クロマタがいます。このコンビで思い出すのは、大和の東西の境とおぼしき宇陀と大坂の神のお話が『古事記』に出てきます。
 宇陀の墨坂のの神に赤色の楯矛を、 大坂の神に黒色の楯矛を祭ったとあります。
 参考HPによりますと、アカマタ、クロマタの神は「小刻みにからだをふるわせながら厳粛」に顕れるそうです。まるで、物部の神を迎えるしぐさのようです。
 琉球には祭祀の古形が残っているようですね。

参考HP http://www.h6.dion.ne.jp/~asano/gisiki.htm

 所で、豊穣をもたらすミルク(弥勒)とサーカ(釈迦)との争いの話が、残っているそうです。『日本神話と琉球』(遠藤庄治氏)に、弥勒の治める村の繁栄をねたんでサーカ(釈迦)が村人を困らそうとして、火を隠すと、動物達から火のありかを聞き出し、石と木に隠したことを知って、木の中から火を取りだして人々に与えたと云うお話です。

> 女性であることの不思議さについて言及しています。

 ミルク神は豊穣繁栄の神とされていますので、やはり子を生む女性のイメージを得たのか、処女懐胎などの話もあるようで、その地の祭祀の主役は神女と云うことで、男神より女神の方が相応しそう。

>  恵比寿信仰との関わりもあると思います。
 海の彼方から幸をもたらす神、その共通性はありそうですね。

[1709] Re[1708][1706][1705]: 異端と正統2  玄松子 2005/12/23(Fri) 00:33 [Reply]
>  恵比寿信仰との関わりもあると思います。

女性であることの不思議さについて言及しています。

そこまでは・・・

[1708] Re[1706][1705]: 異端と正統2  琉球松 2005/12/22(Thu) 23:19 [Reply]
 恵比寿信仰との関わりもあると思います。

 また、ミルク(弥勒)を歓待する歌には「大黒」が出てきますが、これは「大国主命」の可能性もあるかも。。。

[1706] Re[1705]: 異端と正統2  玄松子 2005/12/21(Wed) 09:56 [Reply]
>  とても女性には見えないんですが、

http://www.kt.rim.or.jp/~yami/hateruma/miruku.html
おたふくのような女性なんですね。
おたふくは、お亀とも呼ばれますから、海からやってくる神の流れの一つで、
弥勒(布袋)と習合したものがミルクなのかもしれません。

[1705] Re[1704][1703][1702][1701][1700][1698][1695]: 異端と正統2  琉球松 2005/12/19(Mon) 23:59 [Reply]
 そういう事になると思います。

 とても女性には見えないんですが、宮古島では「弥勒は釈迦との大喧嘩に負けて、中国で神様になった」との伝承もあります。

[1704] Re[1703][1702][1701][1700][1698][1695]: 異端と正統2  玄松子 2005/12/19(Mon) 20:47 [Reply]
>  見ためが布袋であるとか、弥勒の面そのものがあとからくっついたのではないかと考えています。


沖縄の弥勒は、見た目が「布袋」である、真っ白な女性 ということですか?

[1703] Re[1702][1701][1700][1698][1695]: 異端と正統2  琉球松 2005/12/19(Mon) 16:49 [Reply]
 玄松子さんへ

 見ためが布袋であるとか、弥勒の面そのものがあとからくっついたのではないかと考えています。
 これは大雑把ですが、唐の時代すでに「元昔あった事・アマミ世にしたように」という神歌からすると、琉球圏の弥勒信仰は「女神アマミキヨ」信仰のアップデート版のような感じがします。

 邪馬台国崩壊後、沖縄にも女神達はやって来なくなった。。。その代わりの弥勒ではないかと。。。

[1702] Re[1701][1700][1698][1695]: 異端と正統2  玄松子 2005/12/19(Mon) 14:23 [Reply]
>  琉球圏の弥勒信仰の特徴は、幼女に手を引かれて布袋の様相でやって来ることでしょうか。
>  しかも、釈迦(日本の初期仏教?)と対立する真っ白な女性としての来島です。

布袋=真っ白な女性 ということですか?

[1701] Re[1700][1698][1695]: 異端と正統2  琉球松 2005/12/19(Mon) 12:14 [Reply]
 琉球圏の弥勒信仰の特徴は、幼女に手を引かれて布袋の様相でやって来ることでしょうか。
 しかも、釈迦(日本の初期仏教?)と対立する真っ白な女性としての来島です。
 彼女の同志は「マヨ=ネコ(猫)・イン(犬)」ですね。

 沖縄島北部に伝わる「ウムイ(神歌)」からは、中国の反体制派らが持ち込んだのではないかと解釈できますが、政権中央に反旗をひるがえすという意味での弥勒信仰は、本土では東国だけではないでしょうか?

 ウムイガキ『やんばるの祭りと神歌/名護市教育委員会』より
  むとんかし あたるくと(元昔あった事)
  あまみきよにひちやるごとい(アマミ世にしたように)
 (中略)
  とうはもろくしま(唐は弥勒の島) やまとかみがしま(大和は神の島)
  よろんうきしま(与論は沖島) ゐらぶはへしま(沖永良部は延え島)
  いへややっちいしま (伊平屋は兄島)

[1700] Re[1698][1695]: 異端と正統2  神奈備 2005/12/18(Sun) 11:05 [Reply]
 日本の初期仏教は仏教とミトラ教・ゾロアスター教が一緒くただったと、松本清張さんがどっかに書いてあるそうです。そういうことで法興寺、法隆寺は弥勒信仰の寺として建立されているとのこと。弥勒はミトラですので、関東琉球でなくとも弥勒信仰が流布していたのでしょう。

 渡辺豊和著『扶桑国王蘇我一族の真実』によりますと、ゾロアスター教の聖方位とは真北から西に20度傾斜している方向で、若草伽藍跡や斑鳩宮の町造りがその角度でなされていたそうな。
 建築物や聖徳太子が飛鳥に通った道も20度傾斜のラインにのっているようで、この頃は大和国中は湖ではなかったのです。
 神社では鹿島神宮や飯豊山神社の中心線は西に20度傾斜しているようです。

 何故、20度か? 新しい年が来るとき、聖方向の「後の正面」にシリウスが見えるそうです。旧暦なのかシリウス暦なのかよく判りません。新暦でないことは事実です。

[1699] Re[1696]  倭亞府 2005/12/18(Sun) 09:34 [Reply]
ネコ=軍兵の記述 見つけました。
伊都国(王都)―爾支、泄謨觚、柄渠觚
伊都王亡き後も、その郡国が魏に知らされたものです。
「イト」は「入り口」を意味する「イトン」を充てたもので、「伊都国」は「入口の国」の意味です。
九州の北端にあって、文字通り大倭列島への入り口の役割りを果たした郡国といえるでしょう。(修正更新3.26.)
爾支は、「ネキ」に充てられたもので、「私のネコ(軍兵)」を意味しているので、王直属の軍兵を指すと見られます
 魏志倭人伝」に見る大ユダの官職名  
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/mokuji.htm

[1698] Re[1695]: 異端と正統2  琉球松 2005/12/16(Fri) 00:45 [Reply]
 神奈備さんへ、参考までに。。。

 "関東地方"・"ペルシャ" とくれば、「弥勒(マイトレーヤ ≒ ミトラ)じゃないでしょうか?
 メシア思想としての弥勒信仰は東国と琉球圏で盛んですが、こちらのミルク(弥勒)は仏教とはほとんど関係がなく、しかも女性であるという認識ですね。

[1697] 青蓮院  神奈備 2005/12/15(Thu) 19:34 [Reply]
京都の知恩院の北側にひっそりとたたずむ青蓮院という古寺があります。御本尊を熾盛光如来といい、曼陀羅が始めて御開帳されています。これは現在の世があまりにも乱れてきており、糺して行く契機となさんがためだそうです。
http://kyoto-lab.com/90C298408940/
明日16日(金)は満月だそうで、その日護摩を焚いた後の15時から奉納コンサートがあります。石笛、オカリナなど。
何かミトラとか拝火教の雰囲気もありそうで、絶大な霊験がありそう。

[1696] Re[1693] 「本」=大」+「十」・「大和」の「大」=「ヤ」  倭亞府 2005/12/15(Thu) 18:21 [Reply]
「本」=大」+「十」・「大和」の「大」=「ヤ」
日本や冨本銭の「本」=大」+「十」と書かれています。
「大」と「太」の古文字はほとんど変りはありませんがしいて言えば「大」は又(足)を大きく広げているかな?
「太」の古い字形の中に「大」の又(足)の間に「=」が在り 2 乙 月(北アラビアの砂漠の神で、月神の神格) などを想像させる。

「大」=「ヤ」だとしたら 大田(太田(多田))は「ヤタ」となり「大烏(カラス)」はヤタガラス(八咫烏)となります。
(八十を「ヤソ」・・・「耶 蘇」はラテン語の中国音訳で「キリスト」です。(耶馬台国・蘇我氏?)
参考HP
YHWHとは、神の名のこと。
母音がないため、誰も読めない
http://www.nurs.or.jp/~academy/rpg/hint/f18a.htm

YHWHも造られた神では?
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1113216130/l100
鳩摩羅什:2005/11/07(月) 22:08:53 ID:yNBf83yo
鳩摩羅什 クマラジュウ・・・・三蔵の経典を翻訳・・・はと(平和のシンボル) 什(人・十字架の)・・・・景教徒?

第3番目の戒めに「汝の神ヤーウェの名をみだりに口にしてはならない」
元々は北アラビアの砂漠の神で、月神の神格だったという。またはカナーン神話の最高神エルと同格の神であったとも思われる。
http://www.jiten.info/dic/yhwh.html

「ヤ」は神の名の省略形
http://biblia.milkcafe.to/thesis002.html

「ヤ」の付くネコ

日本足彦国押人尊
(やまとたらしひこくにおしひとのみこと) 日本
→孝安天皇(こうあんてんのう)
日本根子皇統弥照尊
(やまとねこあまつひつぎいやてらすみこと) 日本
→桓武天皇(かんむてんのう)
日本根子天津御代豊国成姫天皇
(やまとねこあまつみしろとよくになりひめてんのう) 日本
→元明天皇(げんめいてんのう)
日本根子天推国高彦尊
(やまとねこあめおしくにたかひこのみこと) 日本
→平城天皇(へいぜいてんのう)
日本根子天璽豊聡慧尊
(やまとねこあめしるしとよさとのみこと) 日本
→仁明(にんみょうてんのう)
日本根子天高譲弥遠尊
(やまとねこあめたかゆずるいやとおのみこと) 日本
→淳和天皇(じゅんなてんのう)
日本根子高瑞浄足姫天皇
(やまとねこたかみずきよたらしひめてんのう) 日本
→元正天皇(げんしょうてんのう)
倭根子豊大祖天皇(やまとねことよおほぢてんのう) 日本
→文武天皇(もんむてんのう)
大和山大神(ヤマトヤマオオカミ) 松緑神道

大和山
 松緑神道大和山で祀られている神。宇宙の権威であり、万物の創造主。

[1695] 異端と正統2  神奈備 2005/12/14(Wed) 15:57 [Reply]
 渡辺豊和著『扶桑国王蘇我一族の真実』を読んでいます。
 大陸ではイランからもたらされるものには「胡」がつけられており、胡服、胡帳、胡笛、胡舞など。天神も胡天神と区別したそうです。
 また、埼玉県の吉見百穴は古代ペルシャの磨崖横穴群集墓に酷似しているそうです。このような群集墓は関東平野に多いとのこと。
 吉見百穴は↓参照。
http://www.arajo.ktr.mlit.go.jp/map/02/h_matu_c/068yosim.htm

 で、「胡」のつく神社は胡四王神社、大胡神社(近戸大明神)、胡録神社、胡子神社などが見いだせます。この内、胡録神社・胡禄社は埼玉県2社、千葉9社、東京1社、長崎3社です。関東が多いと言っても千葉県に集中しており、どうこう言えるのかですが、胡録神社の祭神は面足命、惶根命と言う正体不明の神々で、仏教、特に修験道で信奉された天界最高位である第六の魔王・第六天に擬せられているそうです。
 面足命、惶根命は第六天神社にも多く祭られています。この神社も埼玉、千葉、茨城、東京、神奈川と関東にほぼ集中しており、静岡に6社。

 これはペルシャ人が関東にそこそこ来ていたと言うことを物語っているのかな、と想像しております。

[1694] 異端と正統  神奈備 2005/12/13(Tue) 19:50 [Reply]
 栗本慎一郎著『シリウスの都飛鳥』\2,000 は面白い本でした。蘇我氏が所謂サカ族の出てあるとか、縄文のネットワーク(夏至線・冬至線:例えば三内丸山遺跡の柱跡の方向が東北東を向いている)と、三輪山の台地を中心とする同じ角度のネットワークがあり、後者が前者を吸収したのであるとか、バイカル湖を経由して秋田県あたりに上陸した蘇我氏が常陸を経由して大和へ乗り込んだのだとか、素盞嗚尊の神名の中に蘇我が隠されているなど、小生にとっては奇想天外なお話が続く書物でした。
 しかし、前に門脇禎二著『出雲の古代史』の中に、蘇我氏の出雲進出に佐田の須佐神社を経由していったことが指摘されており、その傍証として、須佐神社の西を流れる川を素鵞川と言い、出雲大社の後戸に素鵞社が鎮座、また八雲山から神楽殿方面へ素鵞川が流れていることをあげていたことを思い出しました。とんでも説と保守的かどうか知りませんが歴史学者の説が合わさったように思えて興味津々の所です。

[1693] 本殿 Re[6850] 隼人の犬吠え    倭亞府 2005/12/11(Sun) 17:36 [Reply]


神主さんが「オー ー」「ゥオ」「オウー」「多」・・・・・魚ウオ(双魚紋)はキリスト教のシンボルでした。
隼人の犬吠え「やー」「いえー」「ヤエー」「YHWH」・・・渡来人を探求して行きますとこの辺にも辿り着きます。(修験道の㊙ 「やほー」もYHWH   です。)


『古代隼人が国防に従事していたこと』 から 番犬 (隼=トリ+クロス)隠語「とり・酉」は西方より東方へ(エデンの東へ)

(心の隅に置いて頂ければ幸いです。)

[1692] Re[1691][1690][1680]: ヒルと鴨  琉球松 2005/12/10(Sat) 20:56 [Reply]
 神奈備さん、ありがとうございます。
 ニンニクと白い光を嫌うのは、ドラキュラさんも同じですね(笑)。。

 日本本土では「ヒル」を使わなくなってしまってますが、このあたりは沖縄の歴史解明に重要ですので、もう少し考察を進めようと思います。
 

[1691] Re[1690][1680]: ヒルと鴨  神奈備 2005/12/10(Sat) 20:28 [Reply]
 沖縄での祭祀については、ほとんど判っていないので、うかつには言えないのですが、与那国島には不具廃疾者などの弱者を殺す風習があったとうで、人頭税に結びつけて語られるそうですが、厳しい自然風土から言えば、弱者を殺す風習はもっと古くからの伝えだったのかも知れません。
 ビーラーを船に乗せて流してしまう、蛭子を船に乗せて流す、同じ様なお話で、弱者を殺すに通じますね。

 ヒルにニンニクの意味があるのは偶然かも。白い故に魔除けと言うよりは、その強烈な臭いが魔を近づけないと言うことではないでしょうか。

> 銅鐸神、邪馬台勢力
 このあたりのことについては、よく判らないところです。

[1690] Re[1680]: ヒルと鴨  琉球松 2005/12/10(Sat) 13:24 [Reply]
神奈備さんへ

現在の琉球方言でも「ビーラー」は病弱者を言いますが、「ヒル」は同時にニンニクをも意味しますね。
僕の実家では、未だにニンニクを軒下に吊るして鬼を威嚇するわけで、これは "白い" ことが鬼にとって脅威であるとの観念だと思います。
沖縄諸島での鬼(銅鐸神?)は、妹(邪馬台勢力?)に退治される存在であり、「蛭子」は色白で病弱、そして「うつぼ舟」で讃岐に追放された幼女期の「"初代"倭迹迹日百襲姫」ではないかと考えます。
彼女こそ、出雲圏の平和主義者達?に共立され、猿田彦によって日向、大隅、薩摩に案内された「皇孫」であり、奄美大島の神女達が語り継ぐ「ちまびるさぬゆなはし(爪よわき者の世直し)」の象徴であると思いますね。

しかし。。。「蛭子・ニンニク・アヒル鴨」は、どこかで繋がっているのでしょうか?
その鴨も "白い鳥" だと嬉しいのですが。(笑)。

[1689] Re[1687][1684][1683] [1682]: 鴨=おう    神奈備 2005/12/09(Fri) 18:25 [Reply]

> 現人神などでは
> http://fuku41.hp.infoseek.co.jp/
> これらの中のどれかだろうと思います。

こんばんは。
上記サイトのどこを見れば現人神の諸説が出るのでしょうか。
Google 検索になってしまいます。


[1681]
青草談話室の平成14年9月にかたばみさんが[253] でお示ししてくれましたが、残っていないようです。残念! ↓
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/C199.jpg
上記地図の時代はどうだったか忘れましたが、法隆寺と藤原京の間は湖だったような気がします。

お願いがあります。
もし、地図が残っておれば、同じ場所に暫く置いていただけませんでしょうか。

[1688] 三彦山  神奈備 2005/12/07(Wed) 21:27 [Reply]
越後の弥彦山、豊前の英彦山、播磨の雪彦山を言います。修験の山としても知られているようです。前二の山には登ったので、明日8日には雪彦山に挑戦して来ます。
日本人は三つ揃えるのが好きな国民性を持っているようです。三題噺、三筆など。

[1687] Re[1684][1683] [1682]: 鴨=おう    かたばみ [Mail] [Url] 2005/12/04(Sun) 14:07 [Reply]

≫銅鐸は田の字形測量ポイント(予定では、)だったが
≫北極星の位置の北との角度が45度になるポインに銅鐸を埋めたつもりだったが
≫四角形の四隅のポイントは合致しなかった

これらがどなたの考えかは知りませんが、そう推定した過程がある程度は示されないと、なんでもありのひとつをいうだけであってそれ以上にはならないと思います。

ある時代においてなんのためにどのような地図が必要であるのか、スタートはこのあたりからでしょう。
結論が先にあっては危険すぎると思います。


現人神などでは
http://fuku41.hp.infoseek.co.jp/
これらの中のどれかだろうと思います。

各種の論やデータを「部分的に引用」してそれを合成する、情報操作でよく使われる手法です。
鹿は四足、馬も四足、ゆえに馬は鹿である・・になりかねません。
源義経は四足という部分だけを提示して家臣を暗示にかけているわけです。
自分自身を暗示にかけていた可能性も大(^^;

難しい言葉を羅列している場合、これも要注意と思っています(専門家同士の場合は別です)。
内容を本当に理解しているならやさしい言葉に置き換えることができるはずですから。

古来からの祭祀、仏教伝来と道教の伝来、壬申の乱、天武や持統の思想背景、興味深いところです。
原本や元データを確認できない場合はどう判断するかやっかいですけれど、「道教と古代日本」などなら原本を読む(全体を見る)のは難しくないと思います。

[1686] 「大」が「太(多)」に通じる・・・・!  倭亞府 2005/12/03(Sat) 18:15 [Reply]
参考HP
「万葉集は、古代史の秘密を伝える暗号を秘めているに違いない。」

「また、「大」が「太(多)」に通じるので、旅人の父の大伴安麻呂という名から
「太(多)安麻呂」を意識し、古事記は偽書に違いないという気持ちを一段と強くしました」

http://www.geocities.jp/yasuko8787/6-ninigi.htm

[1685] [1684] での訂正です。  倭亞府 2005/12/01(Thu) 23:26 [Reply]
訂正
<(上記の流れから1613年までに修験者による 「改正日本興地路程全図」の完成に必要なデータ収集が終った事を物語る。)

必要なデータ収集が終った事を物語る。ではなく「 徳川幕府により更なるデータの収集が加速された。」に訂正です。

江戸時代(1600〜1867)になりますと幕府は,慶長十八年(1613)に修験道法度を定
め,諸国の修験者を聖護院を本山とする本山派と,醍醐三宝院が統轄した当山十二正大
先達衆(正大先達寺が12に減少)を中核とする当山派の両派に分属させました。尤も吉
野修験や羽黒修験など霊山の修験には天台宗に属する者も多かった。本山派においては,
各地の主要な修験者に年行事の職を与え,霞と呼ばれる一定地域での活動を公認しまし
た。一方醍醐三宝院においては,在来の当山十二正大先達が各自の輩下の修験を直接掌
握する袈裟筋支配の他に,新たに江戸鳳閣寺を諸国総袈裟頭に任じて,直属の修験者を
作って行きました。修験者は地域社会に定住して鎮守や小祠の別当,霊山登拝の先達,
卜占,加持祈祷,符術などの活動をしました。江戸時代中期以降になりますと大峰,出
羽三山,英彦山,富士山,木曽御岳などにおいては,庶民の登拝講が輩出し,中でも富
士講や御岳講が盛行しました。
 明治政府は慶応四年(1866)に神仏分離令を発し,明治五年(1872)に修験道を禁止
しました。その結果熊野,羽黒,白山,立山,英彦山などの修験霊山は神社化し,在地
の修験者は還俗したり,氏神鎮守の神職となりました。尤も修験道禁止令においては,
修験者を本寺所轄のまま本山派は天台宗,当山派は真言宗に所属させました。また富士
講は扶桑教・実行教,御岳講は御岳教と云うように教派神道として公認されました。明
治末から昭和にかけては霊山登拝が盛んになったこともあって,修験道は天台・真言の
仏教教団内で重視され,勢力を盛り返して行きました。。また修験道の影響を受けた新
宗教も出現しました。
 第二次世界大戦終了後には,旧本山派の本山修験宗・修験道,当山派の真言宗醍醐派,
金峯山修験本宗,羽黒山修験本宗,石槌本教など数多くの修験道教団が独立しました。
更に真如苑,解脱会など修験系の新宗教も成立しました。また出羽三山神社,英彦大神
宮など修験霊山の神社においては峰入などの修験道的な行事を行っています。
 

[1684] Re[1683] [1682]: 鴨=おう    倭亞府 2005/12/01(Thu) 23:05 [Reply]
「太」は道教系 「大」は仏教系

現人神は仏教思想〉     「諸神の習合・修行考」より
 神と人との関係を中心ににした日本の古代信仰を考える場合,縦軸の方向は暫く措く
として,横軸の方向においてこの問題を考えて行きますと,「神」の思想と信仰は大き
く分けて二つの系列に整理できるように思います。道教的な「神人」の思想信仰の方向
と,インド仏教的な「現人神アラヒトガミ」の思想信仰の方向とです。「現人神」の「現」と
いう漢字の用法を中国の古典で調べてみますと,仏教の入る以前には「現」という字を
「神」とか「人」とかを結び付けて熟語とした中国語の使い方は殆ど見当たりません。
つまり「人」として現れた神,即ち「現人神」の言葉と思想的信仰は仏教系漢語乃至仏
教系列の思想信仰ということになります。
 ところで,『日本書紀』や『続日本紀』など漢文で書かれた日本の古代文献を観ます
と,「明神御宇日本天皇(『日本書紀』孝徳紀)」,「明神御宇日本倭根子天皇アキツミカミ
トアメノシタシラスヤマトネコノスメラミコト(同前),「明神大八州所知倭根子天皇(『続日本紀』天平宝字
元年)などのように,「天皇」と結合して「明神」の語が用いられていますが,この「
明神アキツカミ」というのは,中国の道教系の「神」即ち「神人」の系列に属する「神」であ
ると観られます。即ち明々の威徳を道教的な神である天皇,例えば天武天皇のように最
終的には神仙世界である「瀛州」の「真人」とも成り得る道教的な神,『万葉集』に「
大君は神にしあれば」と歌われている「神」としての天皇を意味します。
 これに対して『日本書紀(雄略紀)』において,葛城の神が狩猟をしている雄略天皇
のところに現れて,
 わたしは「現人アラヒト之神」即ち「人の姿を借りて現れた神である」
と云われますが,この場合の「現人」ははっきりと仏教系漢語です。また同じく『日本
書紀(孝徳紀)』の「現為明神御八嶋国天皇」即ち「現れて明神と為り八嶋国ヤシマクニを御
シロシめす天皇」の「現」の字や,『続日本紀(文武元年)』の「現御神止大八島国所知天
皇」即ち「御神と現れて大八島国をば知ろしめす天皇」の「現」の字も同様です。
 なお,前記において引用した雄略天皇と問答をしている「現人之神」としての葛城の
神について,この神は『日本書紀』の漢文に拠りますと,「長人」即ち「一事主神ヒトコト
ヌシノカミ」とも呼ばれている「仙(神仙)」の如き「人」として示現しており,「現人」の
「人」が同じく先に引用しました孝徳紀の「現れて明神と為る」に相当します。そして,
これによっても「明神」という言葉が本来,仏教の「現人神」とは異なる道教系の漢語
であり,従って「現為明神」の天皇即ち「現れて明神となる」若しくは「明神として示
現し」,この大八嶋国を治めている天皇という言い方は,「明神」の天皇よりも後次的
であるということになります。
 以上,日本古代の天武持統期における「神」の観念乃至思想信仰を,主として『日本
書紀』の天武紀・持統紀の宗教関係の記述と『万葉集』の「大君は神にしませば」など
の歌を中心に,筆者は検討を加えてみました。
 結論として日本古代における「神」の思想信仰に関しては,「神人(「明神」)」の
語によって代表される道教系のそれと,「現人神」の語によって代表される仏教系のそ
れとの,二つの流れがあり,天武持統期における「神」の観念乃至思想信仰には,道教
系のそれが顕著に優勢である,と考えられるのです。

http://fuku41.hp.infoseek.co.jp/1509231.htm


江戸時代(1600〜1867)になりますと幕府は,慶長十八年(1613)に修験道法度を定
め,諸国の修験者を聖護院を本山とする本山派と,醍醐三宝院が統轄した当山十二正大
先達衆(正大先達寺が12に減少)を中核とする当山派の両派に分属させました。
 1613年 : 修験道法度を定める。
 1779年 :多くの資料だけで、経緯線も記入されている地図を水戸藩の「大日本史」の地理志編纂に関係した儒者 長久保赤水の「改正日本興地路程全図」が完成。
 1799年 : 役行者に神変大菩薩の諡号が授けられ、聖護院に勅書が下賜された。
(上記の流れから1613年までに修験者による 「改正日本興地路程全図」の完成に必要なデータ収集が終った事を物語る。)

奈良湖推定図からの銅鐸の位置
銅鐸は田の字形測量ポイント(予定では、)だったが、北極星(太一)を真北する古代中国の思想と地球の歳差運動でお誤差(約28度)と東西に異なる測量ポイントでの誤差と球体の地球での測量データを平面に写す場合に生ずる誤差が入り混じり田の字形測量は失敗した。
以前より銅鐸〜古墳(仮のポイントには奇岩など)〜寺社へと発展した。(辻・橋・峠・滝・人工的な石や岩・温泉場の?山頂や岬など)
奈良湖推定図からの銅鐸の位置はまわりの山々と北極星の位置の北との角度が45度になるポインに銅鐸を埋めたつもりだったが四角形の四隅のポイントは合致しなかった。
 蘇我の馬子の墓と言われる石舞台古墳の位置はまわりの山々から30度や45度のポイントと考えられ、田の字(方形)形の測量と30・60・90・180度の三角測量の分岐点では?と考えられます。
 蘇我の馬子が先住渡来測量士(出雲系)の頭だったとすると□vs▲(アシヤドウマンvsアベノセイメイ)中臣・藤原との測量での争いも想像されます。
古墳造りから寺社での測量ポイントの作成には以前より山々を測量していた出雲系(鴨おう・烏オ・ウ)の役小角(エンノオズヌ)のデータは、中臣・藤原氏にとって咽喉から手の出るほどに欲しかったのでしょう・・・・役小角の母を人質にしてまでも。
1799年 役行者に神変大菩薩の諡号が授けられ、聖護院に勅書が下賜された。(その二十年前の安永8年 多くの資料だけで、経緯線も記入されている地図を水戸藩の「大日本史」の地理志編纂に関係した儒者 長久保赤水の「改正日本興地路程全図」が出来ている。
これにより、1300年以前より日本の地図造りは山伏や僧侶などの手により密かに作られていた事を裏付ける。(世界地図は2世紀ごろプトレマイオスの世界図が存在している。)

[1683] Re[1682]: 鴨=おう  神奈備 2005/12/01(Thu) 09:32 [Reply]
> 鴨=おう   
音読みですが、呉音なのでしょうか。何故、音読みで説明されるのでしょうか。迦毛の大神との表現があり、鴨の場合、本当に漢字に意味があったのでしょうか。

それなら、「鴨は鳥甲でトリカブトの毒薬を操る氏族でした。」と言えますね。

大田田根子の姓と名とはどこで区切るのかとはよく言われるテーマの一つです。
タタラ製鉄の技術者の頭領とみなして、タタに焦点をあて、姓は大、名は田田、根子は敬称とするのが一般的です。

所が、出身地と言うか発見された場所は、『日本書紀』では、「茅渟県の陶邑」、『古事記』では「意富多多泥古を河内の美努の村に見得て」となっています。
堺市に陶荒田神社が鎮座、この近くに見野山があり、摂社に太田神社があり、祭神は太田々弥古命です。太田が出てきました。これはどう説明するのでしょう。

余談ですが三輪山から葛城山と二上山の間の低い場所を通して陶荒田神社が直撃できます。三輪山の神の(朱塗りの矢)光線が陶荒田神社付近に居た活玉依姫命を照らした(突き刺さった)ので懐妊したなどのお話が残っていたら面白いですね。

> 「多太神社、【多田/ただ】村にありて、荘神といふ。【蓋/けだし】大物主の裔、大田田根子命を祀る」とあり、これらからも、「大田田根子」は「大の田田根子」と本来は読むべきである。

1682] は「である」と「ですます」の混在ですね。
上記の説明は本末転倒のお話で、神社名だけが残っていて、祭神を大田田根子にあてはめたと見るべきではないでしょうか。

小生は大田田根子を大田・田根子と主張しているわけではありません。大と大田とが揺らいでいるのかも知れません。

[1682] 鴨=おう  倭亞府 2005/11/30(Wed) 22:50 [Reply]
鴨=おう   
意富多多泥古は、本来は「大田」ではなく、姓は「大」で、名は「多多泥古」のはずである。「先代旧事本紀」に大田田禰古の子孫として「田田彦命という名が出てくる。この田田彦は【神部直/みわべあたひ】の祖とされる。また、「神祇志料」に「多太神社、【多田/ただ】村にありて、荘神といふ。【蓋/けだし】大物主の裔、大田田根子命を祀る」とあり、これらからも、「大田田根子」は「大の田田根子」と本来は読むべきである。
鴨=おう

加茂氏は多氏
鴨=甲(物事の一番すぐれたもの。)+鳥(測量士の隠語)
烏=からす・オ・ウ   オ・ウ=鴨=おう
ヤタガラス=加茂氏(鴨氏)=多氏
ウ=禹(ウは足が萎えていた)
「ヒル子は、日本書紀に”三年経っても足が立たなかった”とあるから、手足の萎えた不具の児であったろう。」
ヒ・ル (甲骨文字のヒ・ル(ム)・・・などは禹(私=ノ木へん+ム)をあらわします。

[1681] Re[1677]: 大田 と當麻  神奈備 2005/11/30(Wed) 22:04 [Reply]
> 大和湖は樋口隆康先生が著書、逆日本史で大和川が大和湖に入るところにツバ市があり隋の特使もそこで歓待したと書かれていたので気になっていました。

随の使者は来た頃とは聖徳太子の頃です。都は飛鳥にににあり、聖徳太子は法隆寺の近くに居住していました。河内から大和川を遡って大和に入る近くと言えます。
太子は馬に乗って飛鳥に通ったようです。太子が通った道は太子道と言い、奈良盆地を斜めに横切る珍しい道筋です。奈良湖があったとしてもツバ市の付近まで奈良湖であるとすれば、太子道は水没していたのではと思います。
舟でかよったのかも知れませんね。

青草談話室の平成14年9月にかたばみさんが[253] でお示ししてくれましたが、残っていないようです。残念! ↓
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/C199.jpg
上記地図の時代はどうだったか忘れましたが、法隆寺と藤原京の間は湖だったような気がします。


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