青草談話室ログ平十八年 一月 2006.1 |
[1742] Re[1741]: 森に棲む神々 神奈備 | 2006/01/31(Tue) 18:21 [Reply] |
『大和に眠る太陽の都』(渡辺豊和著)から。 今や、田園の中に残る木立の場所は、神社か寺院の境内ということになってしまった。特に神社は鎮守の森と言う。これこそ平地がかって樹海であったことの裏返しの記憶であろう。かっての神社は樹海の一部を伐り開いた所に造られ云々、とあります。 そう言えば、富山平野の昔の樹木相を調べるのに神社の木々を調べて全体像をつかんだと読んだ記憶があります。 鎮守の森は同じ様な木々が枯れては育って来たのでしょう。 上記の本のこのあたりはまともな話なのです。所が、東大寺のお水取りの儀式のゆわれとなっている若狭と奈良の間の地下水路は本当に造られたと思っているようで、砂漠のカナートと言う地下水路と同じように見ている。長年の渇水が日本にあり、大和湖が干上がっていた証拠だとしている。 気象のことはよく判りませんが、大和には長年雨が降らず、若狭には潤沢な水がある状況というのがこの日本で考えられるのだろうか。 長年の渇水とその対策がどうであったか判りませんが、それならば巨木の樹海があったことと矛盾はしないのだろうか、などと考えてしまう。 |
[1741] 森に棲む神々 神奈備 | 2006/01/28(Sat) 11:04 [Reply] |
神道国際学会 第十回神道セミナー 森に棲む神々 −講話と映画と歌曲でつづる自然との共生の道 平成18年 3月19日(日曜日)午前10時〜16時半 京都会館会議場(平安神宮の南西傍) 入場無料 申込はメールで可 3月10日まで 申込先 event@shinto.org 内容はHPを参照して下さい。 http://www.shinto.org/ |
[1740] 参考?HPです。 倭亞府 | 2006/01/26(Thu) 20:12 [Reply] |
今晩は、突然ですが古代史の解明に参考と成るHPと思はれます。 http://kaze.world.coocan.jp/2fuusetu.htm 皆様のご参考となれば幸いです。 |
[1738] 薬草 琉球松 | 2006/01/23(Mon) 12:21 [Reply] |
神奈備さんへ ナンテンやマンリョウは目の治療に有効だそうですから、赤外線で片目を痛めた鍛冶屋さんのための薬草ではないでしょうか? あるいは、アルカロイド成分による労働強化かもしれませんし、これらの医療技術は除福等が持ち込んだんじゃないでしょうかね。 また、「一つ目」として語られる鬼は、金属製武器製造ゼネコンに対する恐怖の表現ではないでしょうか? |
[1737] Re[1736][1735]: 相生樹と磐座 神奈備 | 2006/01/21(Sat) 10:03 [Reply] |
> こんばんわ。興味深い記事ですね。 ありがとうございます。 お一人でも関心を示して頂ければ、書いてよかったと言う気になります。 巻向山の頂上の奥不動からダンノダイラの磐座に行く途中、冬苺を踏みつけなければならない道があります。 冬苺はルビーの輝きと言われる深い色の実で、味もよく、昔は伊太祁曽神社の向かいの山にもあり、食べた記憶があります。このように冬に赤い実をつける植物、ナンテン、マンリョウなどがやはり神社の境内などに多いように思われます。御歳神社の参道にもありました。 正月には歳神を迎えるのですが、その依り代は鏡餅です。この鏡はミラーではなく、蛇の意味があるようで、とぐろを巻いた蛇のイメージなのです。蛇の目の色は赤と相場が決まっていて、その為に冬に赤い実をつけるナンテンなどが神社などには必要だった名残とか。後に干し柿がそのかわりをするようになったそうです。 |
[1736] Re[1735]: 相生樹と磐座 nick [Url] | 2006/01/20(Fri) 18:05 [Reply] |
こんばんわ。興味深い記事ですね。いつも修験道や聖と「鉱物資源」の関連付けを注意しながら探訪しています。史資料にはなかなか出てきませんが、現地を訪れそのような痕跡を発見したりすると小躍りします。笑。 当地にも「熊野権現・聖」関連の寺社跡が多々散見されますので今年はこれを ちょっと探索をと。。いいアイデアを頂きました。感謝。 串木野市の徐福の第一人者三善さんのご好意で著書を掲載します。 今月末迄に1本が目標です。 |
[1735] 相生樹と磐座 神奈備 | 2006/01/20(Fri) 17:27 [Reply] |
神社境内の木で相生樹(Y字型)になっているのを夫婦和合の木として崇めたりします。金剛山の葛木神社の参道にありました。 また根が違うのに、樹木がつながってしまっている連理木と言うのもあります。貴船神社参道で見ました。 『真言密教と古代金属文化』の中で、柚木伸一氏が面白い話を書いています。山中で相生樹が偏在している場所を調べてみると、どうやら古い神社の痕跡があることを確認する確率が高いそうだ。 氏はもう一つ面白いことを書いています。神社の裏手などにはマムシグサ、ウラシマソウ、ハンゲショウなどが意図的に植えられているのではないか。精錬跡で変な金属イオンが出ている場所を浄化する働きがある植物ではなかろうか、と書いています。 神社参詣時に、きぎはには目がいきますが、なかなか裏手の小さい植物などにも目をとどめてみることもいるんですね。 また、山中に磐座などいかにも祭祀の跡らしいところがあれば、周辺の木々で連理や相生の木があれば、その磐座は古代から祀られていた証になるのかも。 |
[1734] Re[1733][1732]: 「七隈」は徐福と関連? nick [Url] | 2006/01/15(Sun) 01:32 [Reply] |
>
徐福とは相当年代は違いますが、渡来系の七姓と言うのがあります。 早速のレスありがとうございます。 探訪を再開した10年前はこのような氏姓にはさっぱりでしたが、 寺社探訪を始めて「氏神」から派生した神社も多々あることを知り 神奈備さんのサイトをいつも参考にさせて頂いています。 これからもご教示宜しくお願い致します。 |
[1733] Re[1732]: 「七隈」は徐福と関連? 神奈備 | 2006/01/13(Fri) 20:53 [Reply] |
徐福とは相当年代は違いますが、渡来系の七姓と言うのがあります。 阿智王に従がって来た七姓の氏族です。それぞれ一癖も二癖もありそうですね。 段姓 高向氏、評氏、郡氏、民氏 李姓 刑部氏 皀郭姓 坂合部氏、佐太氏 朱姓 小市氏、佐奈宜氏、佐名木氏、佐奈木氏 多姓 桧前氏 皀姓 佐波多氏、長幡部氏 高姓 桧前氏 多氏と同祖とされる坂合部氏、また伊勢の船木氏の拠点であった佐奈宜の名が見えます。桧前氏も飛鳥と紀の国に関係があるのかも知れません。長幡部氏は美濃から常陸へ移った氏族で、機織りの伝承があるようです。 紀の国には阿備の七原と言われる地名があります。紀三井寺のある名草山の東側周辺の湿地帯であったところです。 安原、広原、吉原、松原、内原、柏原、境原。 葦茅薦の水辺の植物が生い茂り、この根元に鈴が成り、それを使った原始的な製鉄が行われていたと言う。真弓常忠氏:『古代の製鉄と神々』から。 |
[1732] 「七隈」は徐福と関連? nick [Url] | 2006/01/13(Fri) 15:40 [Reply] |
しばらく頓挫していた「地名今昔」ですが また気分新たに再調査を開始しました。 今年こそは、ちょっと徐福さんを本腰で調査しようと 思い立ったからですが。 当地、鹿児島の隼人地方には 熊襲の七隈 という地名があります。 http://hayato.com/f_mado.html No 地名 旧 現 摘要 1 笑隈 内村 隼人町内村、現在の蛭子神社の北東付近 2 獅子隈 内山田村 隼人町内山田(隼人町役場の西側付近) 以前、獅子丘有り 3 隈崎 上小川村 国分市上小川久満崎神社付近 4 平隈 新町村 国分市新町公民館(北山神社)付近 隼人町松永にも現在平隈地名。山城跡あり 5 富隈 住吉村 隼人町富隈付近 6 恋隈 上井村 国分市上井宇豆峰矢岳の麓西牟田付近 「恋隈」の字 7 星隈 上井村 国分市上井付近 いでん山付近とも -------------------------------------------------------------------------------- 徐福の里佐賀には こだわり佐賀情報局 佐賀に伝わる「徐福の伝説」 川久保の七隈 http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/xufu/xufu4.htm 古い発音 当て字 @ ほのくま 日の隈 A わさぐま 早稲隈 B さきぐま 茶臼隈 C こぐま 弧隈 D なかぐま 天童山? E おおくま 帯隈 F すすくま 鈴隈 他の地方にも似たようなものがあったらお知らせ 頂ければと思います。 関連付けが勧めが。。 |
[1731] Re[1730][1728]: えびすの神 琉球松 | 2006/01/11(Wed) 12:17 [Reply] |
玄松子さんのおっしゃるとおりですね。引用ならなんとかできますから、頑張ってみます。 説明になっているかどうか自信はないのですが。。。 『邪馬台国総合説赤椀の世直し/名護博(ゆい出版)2001』より 沖縄本島とその周辺の島々には、神祭りの時に神女達が唱える神歌が数多く伝承されており、その主題の一つが「ヤマトから下りたる赤椀の世直し」などの定型的なフレーズを持った「世直し」である。 (中略)私はこれらの神歌が、弥生時代、特に『魏志』倭人伝が伝える卑弥呼の時代からのものであると考えている。 従って一行目の「アマンコの時代」とは「卑弥呼の時代」と解釈してよいだろう。 *以下は神歌の一つ「サーシウムイ」 あまん代から始またる (アマンコの時代から始まった) 赤椀ぬゆーぬし (赤椀の世直し) 中むらし端むらし (中を盛り、端を盛り) 我んにうたびみそーり (私にたまわりませ) 島ぬ親にうさぎら (島の親に差し上げましょう) 国ぬ親にわんしひるぎやびら (国の親に私が披露しましょう) (中略)沖縄の神歌の一つに「私達が信奉する神は、ヤマトの中心のお生まれである」という句があったが、神歌を謡う神女達の信奉する神はアマンコ(アマミコ・アマミキヨ)であり、アマンコは倭迹迹日百襲姫にほかならないと考えている。 母親(オオヤマトクニアレヒメ・・ヤマト国をあらしめた姫という名の大きさに注意)が淡路出身であり、従って百襲姫は淡路生まれの「海民(海人)の子」と推定されるので、沖縄ではアマミコと呼ばれたのであろうか。 あるいは「天子」からアマンコと呼んだ可能性もある。また「天孫(アマミコ)」からとする説もある。 (中略)柳田国男は、「諸国の霊山の開基といふ異人に、満行といふ名が伝えられている例が多い」と指摘しており、このマンコーはアマンコのアが脱落した形ではないであろうか。 柳田はさらに、「オマン・マン・マンコ」などの著名な女人の名が地方に伝わっていると述べているが、これらもやはりアマンコの変形であろう。 これらはいつしか女陰の名称に変化していき、人々の口から消えていった。 「マンコー・マンコ」は、もともとは日本国家の始祖、あるいは祖神とも仰がれた女性の「お名前」であった。 |
[1730] Re[1728]: えびすの神 玄松子 | 2006/01/11(Wed) 07:01 [Reply] |
> "海からやって来る神(人)がすべて関連する"
とまでは言えないにしても、ほとんど一人の女性から始まったのではと見たいわけなんで。。。 ですから、なぜ、そのように見るのか、説明して欲しいのです。 > テキスト化された膨大な数の神歌群から抽出して論理的に立証する力量もありませんので、青草談話ということでかんべんを。。。 学術的に解説して欲しいとは思いませんが、青草的にでも理由が示されなければ、談話にすらなりません。 検証された正しい説でなくても、なんらかの理由(トンデモであっても可)を示すことが青草でしょ。 |
[1729] Re[1726][1725]三国名勝図會 nick [Url] | 2006/01/11(Wed) 01:23 [Reply] |
> > と云うのは、これにより「曽の国」もしくは「熊襲の国」の所在が明らかにされるからです。 > > また「天孫降臨神話」でも襲の高千穂の峯に降り立ったとあります。 > > 現在では「霧島の頂き」を指すようですが仔細は判りません。 > > 観光的には、現在の高千穂の峰です。 > > ありがとうございます。降臨場所から「韓国に向かい」ともあり、諸説紛々といった所ですね。 私も専門では無いので詳細は知りませんが。。 比定地を巡っては、宮崎の神楽の里「高千穂地方」と当地霧島連山の辺りと 抗争があったようで。結局のところ明治政府のご裁可で現在地なのでしょうか。 それと韓国岳ですが、江戸時代の大噴火で山頂部1/3が飛んでいますから 由来の「昔は韓の国が望めた」と云うのはまんざらでも。(現在1700m,昔は3000m位か) > > Hayatoさんの韓国宇豆峯神社サイト↓ > http://prosv1.tok2.com/~hayato/jisya/uzumine.html > の中の写真と『三国名勝図會』とはよく一致していますね。 そうです。推察すると中央辺りが「宇豆峯」でしょうか。? ちかじか、中央から左へ渡ってみようと思います。 > > カシミールと云うソフトで、霧島市国分川内から北を眺めた絵を写真掲示板 > http://res9.7777.net/bbs/kamnavi/ > に掲載してみました。やはりよく一致していました。 カシミールはよく登山で利用します。 昔歩いた全国各地の縦走路を眺めています。 パソコンやサイトの環境が整えば、山城や神社を3Dで掲載したい希望はあります。 |
[1728] Re[1723][1721][1718][1716][1715][1714][1713][1712][1711][1710]: えびすの神 琉球松 | 2006/01/10(Tue) 12:05 [Reply] |
玄松子さんへ "海からやって来る神(人)がすべて関連する" とまでは言えないにしても、ほとんど一人の女性から始まったのではと見たいわけなんで。。。 まあ、こちら琉球圏の文字文献はせいぜい千年程しか遡れないので証拠立てることは難しいわけですが、少なくとも沖縄諸島の神歌からは "一人の女性(アマミキヨ ≒ 百襲姫?)から始まった" と言えると思います。 弥勒や観音、それから祖先神さえもです。 テキスト化された膨大な数の神歌群から抽出して論理的に立証する力量もありませんので、青草談話ということでかんべんを。。。 |
[1727] なんまいだぶの代わり おだりょう | 2006/01/10(Tue) 01:05 [Reply] |
はじめまして 突然ですが、ヤマトンチュー(日本本土の人)が怖い時に『なんまいだぶ』などといますが、沖縄でこれに代わる経文というのは何でしょう? ノロの場合どのように言うのか、とか聞きたいのですが、どこで教えてもらえるのでしょうか? 変な質問ですみません。どなたか手がかりを教えてください。 |
[1726] Re[1725]三国名勝図會 神奈備 | 2006/01/09(Mon) 09:55 [Reply] |
> と云うのは、これにより「曽の国」もしくは「熊襲の国」の所在が明らかにされるからです。 > また「天孫降臨神話」でも襲の高千穂の峯に降り立ったとあります。 > 現在では「霧島の頂き」を指すようですが仔細は判りません。 > 観光的には、現在の高千穂の峰です。 ありがとうございます。降臨場所から「韓国に向かい」ともあり、諸説紛々といった所ですね。 Hayatoさんの韓国宇豆峯神社サイト↓ http://prosv1.tok2.com/~hayato/jisya/uzumine.html の中の写真と『三国名勝図會』とはよく一致していますね。 カシミールと云うソフトで、霧島市国分川内から北を眺めた絵を写真掲示板 http://res9.7777.net/bbs/kamnavi/ に掲載してみました。やはりよく一致していました。 |
[1725] Re[1715][1714][1713][1712][1711][1710]: えびすの神 nick [Url] | 2006/01/08(Sun) 22:15 [Reply] |
明けましておめでとうございます。 今年もつつがなく元気で迎えられ感謝しています。 早速ですが、お尋ねの「韓国宇豆峯神社」の 古祉は、もうかなり昔になりますが、ご教示頂いて 「宇豆峰」を求めあの三国名勝図会を基にして 探しました。 2001年2月9日でした。 地元の方も30年以上も登った事が無いとのことで 昔の参拝道は荒廃し、尾根筋では崩落で難儀しました。 写真の中央辺りの山頂に辿り付き息を呑みました。 (寺社探訪の韓国宇豆峯神社をどうぞ) 目の前には、火を噴く櫻島が迫り、覗きの絶壁が切り立っています。 山頂は僅か一間程の円形の頂で、孟宗竹が群生して足の踏み場も ありませんでした。 掲載の遠望写真の左端しの熊崎神社(旧上井城址)への渡りは崩落して ザイルでも無いと縦走出来ない状態でしたので 暖かくなる前に再度トライしようと思います。 熊崎神社の上の山頂からは南前方に火の島櫻島が泰然と控え、眼下には 波打つ錦江湾が望めたのでは無いかと想いを巡らしています。 現在は、樹林が立ちはだかり櫻島も木立の間から微かに望めるだけです。 昔の古今和歌集辺りに読まれた当地の名勝は 奈気木(なげき)の杜 「気色の杜」 <a href="http://hayato.com/mado/koganomori.html target="?top">「こがの杜」別名「かぜの杜」</a> 等があります。 曽の峯には、諸説あります。 と云うのは、これにより「曽の国」もしくは「熊襲の国」の所在が明らかにされるからです。 また「天孫降臨神話」でも襲の高千穂の峯に降り立ったとあります。 現在では「霧島の頂き」を指すようですが仔細は判りません。 観光的には、現在の高千穂の峰です。 勤皇の志士「坂本竜馬」も新婚旅行で山頂を踏んでいます。絵手紙が残っています。 一応、三国名勝図会に散見される「霧島」関連を。 「霧島東嶽」:犬飼滝から遠望・ここからは高千穂の峰が望めます。寺社探訪/和気神社 カラクニ:栗野三日月池 霧島:末吉・柄基(サカモト) 霧島:神造島眺望 から察すると、江戸時代は既に、霧島の個々の峯と霧島連山は 使い分けをしているようですが、古文書で記載される「霧島山」の噴火等については 果たしてどの峯なのか判明しない箇所もあります。 正月早々、的を得ない回答で恐縮です。 今年は「徐福」も掘り下げて調査をと考えていますが。 |
[1724] とんど祭と(たぶん)日本一の屋台達 神奈備 | 2006/01/07(Sat) 09:42 [Reply] |
仁徳天皇を祀っている高津宮と云う神社が大阪市中央区高津1-1-29に鎮座、地下鉄で云えば、谷町9丁目近鉄では上本町が近いようです。千日前通りを挟んで南側には生国魂神社が鎮座しています。 高津宮 http://kamnavi.jp/kumano/osk/koudu.htm この神社は本殿の真後ろに地主神の比売古曾神の祠が鎮座、所謂後戸の神の典型的なスタイルです。 后戸の神 http://kamnavi.jp/ym/hiboko/kouzuaka.htm 仁徳天皇は大雀命ですが、スズメではなくササギとよみます。ミササギを御陵と書くように大きい墓の大王で、大山古墳の主と云うこと。栗本慎一郎氏の『シリウスの都飛鳥』には、近江の佐々木氏とは造墓の氏族であるとしています。 オオササギとは多氏の佐々木氏ともあり、仁徳天皇は多氏の出と云う仮説もなりたつのかも。 1月7日の日経新聞から 1月9日(休日)に高津神社境内で、「とんど祭と(たぶん)日本一の屋台達」と銘打ったイベントが行われます。 ホテルニューオオタニの仏料理店「サクラ」 焼き肉「遊山」 など、関西有名16店が屋台を出すそうです。 |
[1723] Re[1721][1718][1716][1715][1714][1713][1712][1711][1710]: えびすの神 玄松子 | 2006/01/07(Sat) 00:33 [Reply] |
> それから、「天」の原型ですけども。。。 > 例えば、猿田彦とアメノウズメの対話に出てくる「天の分かれ道」の場合の「天」は明らかに海でしょうし、「奄美」の語義と考えられる「海部」や「海見『日本書記』」なども根拠になるでしょうか。 それは、海から来た神の存在を示しますが、すべてがそうである根拠になるでしょうか。 > 本土側の文献や民俗を見渡してみると、どうもある時期(崇神以降だと思いますが)に、水平から垂直に置き換えるというか、改ざんというか、そんな印象を持ちますがどうでしょうか? なぜ、崇神以降に改竄されたと判断したのでしょうか。 論点がずれてしまいましたが、もともとの質問は 海から来た神、海に由来する神、海の向こうから来た神が、すべて「関連する」と云う理由をお聞きしています。 |
[1722] Re[1721] 倭亞府 | 2006/01/06(Fri) 23:51 [Reply] |
突然におじゃまします。 > 猿田彦とアメノウズメの対話に出てくる「天の分かれ道」の場合の「天」は明らかに海でしょうし、「奄美」の語義と考えられる「海部」や「海見『日本書記』」なども根拠になるでしょうか >「天の分かれ道」の場合の「天」は明らかに海でしょうし、・・・・・・ いき:境の意 いき[黒+弋]:黒・点の意 「點」テン:二線が交わるところ。(×) 【壱岐】いきに「分かれ道」分岐点の意味があります。 |
[1721] Re[1718][1716][1715][1714][1713][1712][1711][1710]: えびすの神 琉球松 | 2006/01/06(Fri) 21:15 [Reply] |
玄松子さん、いつもの癖で申し訳ない! 沖縄諸島の民俗や神歌から判断するかぎり、ほとんどの観念は海から来る神々と関連すると言っていいと思います。 島々村々の祭祀で謡われる神歌では、神々は奄美経由で南下して来ますし、「神のお生まれはヤマトのヘソ(中心)」と断言していますね。 また、垂直思想はせいぜい琉球王国始動期前後あたりからで、しかも太陽を拝むことはほとんどありませんから、日本本土のものがよほど古いと言えそうです。 それから、「天」の原型ですけども。。。 例えば、猿田彦とアメノウズメの対話に出てくる「天の分かれ道」の場合の「天」は明らかに海でしょうし、「奄美」の語義と考えられる「海部」や「海見『日本書記』」なども根拠になるでしょうか。 本土側の文献や民俗を見渡してみると、どうもある時期(崇神以降だと思いますが)に、水平から垂直に置き換えるというか、改ざんというか、そんな印象を持ちますがどうでしょうか? |
[1720] とんでもない人間二人 神奈備 | 2006/01/04(Wed) 20:40 [Reply] |
正月早々、HP発信者でとんでもない人間二人に行き当たりました。 ひとりは、よくあるコピペ人間です。 http://tokyo.atso-net.jp/pukiwikip/?%B5%AA%BB%E1 武内宿禰の出生地の件で小生の主張である「母親とされる山下影日売は福岡県にのみ神社が残っている。」ゆえに、九州ではと、故郷に背を向けてまで主張した内容「紀の国の古代史 紀の国の氏族の活躍」の一部分が丸写しなのです。 http://kamnavi.jp/kinokuni/historykisi.htm こういうことは、よくあることなので、”名誉”と思うしかないのですが、この人、「忌部と紀氏」では、昔の掲示板のログのアドレスを書いているのですがね。 つっこめば、「忘れていました。」と来るんでしょうね。 ふたりめは省略。 |
[1719] 多氏のにおい 神奈備 | 2006/01/02(Mon) 20:17 [Reply] |
ヲケ、オケと言う二皇子が播磨の国で発見されて皇位につくのですが、この母の名はハエ(草冠に夷)媛、父親は市辺押磐皇子。 発見された播磨の国の家は忍海部造細目の家で、風土記では伊等尾(イトミ)の家。 ハエと言う比売の後裔に細とか目とかの名を持つのが、蝿伊呂泥(ハエイロネ)の子であるトトビヒメの別名の倭迹速浅茅原目妙姫、この妙は細としていいらしい。 多氏と皇位との関係はあまり見えてきませんが、ヲケ、オケ皇子はかの忍海郡の飯豊青皇女の姉弟であり、多氏のにおいがする皇子、ひょっとしたら、蝿伊呂泥とかトトビヒメに多氏のにおいがあるのかも。 |