青草談話室ログ平十八年 二月 2006.2
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草掲示板

[1839] Re[1838][1837]: ジムナ  大三元 2006/02/28(Tue) 23:20 [Reply]
> ジムナが尊称とすると、キジムナはキ様、キ彦となりますね。

キの神
http://www.eps4.comlink.ne.jp/~kumagai/kasugai/oka/oka.htm
でいうキの神、これの大陸での軌跡、というか伝承の広がりから何か出てこないものか、とは思っているのですが。紀もこれの流れにはいるのかも、とか。
越語には、おそらく漢語からの借用で、san-sau 山棲 あたりがある。
やますみ:山住み:やまつみ:山祇 などに通底しそうでいて、確信・核心に至れないでいるところです。

> そうすると、尊称は八島とか加茂のような何か具体的なものにつくのが自然。
> キは木などであって、怪とはならないということ。??

いずれも、私はそうは(まだ)言っておりません、はい、あしからず。

[1838] Re[1837]: ジムナ  神奈備 2006/02/28(Tue) 18:15 [Reply]
大三元さん、こんにちは。
> http://www.dai3gen.net/jinumi.htm
拝見いたしました。

ジムナが尊称とすると、キジムナはキ様、キ彦となりますね。
そうすると、尊称は八島とか加茂のような何か具体的なものにつくのが自然。
キは木などであって、怪とはならないということ。??

[1837] ジムナ  大三元 [Url] 2006/02/28(Tue) 15:12 [Reply]
関係あるのか無いのか:
シヌミ 八島士奴美神(スサノヲとクシナダの子)[記]
チヌミ 速甕多気佐波夜遅奴美神 [記]:美は「ミ甲」
ツヌミ 加茂建角身命[山城風土記]:身は「ミ乙」
http://www.dai3gen.net/jinumi.htm

[1836] Re[1832][1829]: 貝の道  nick [Url] 2006/02/27(Mon) 21:45 [Reply]
話題が膨らんだのに便乗して教えて下さい。

沖縄のキジムナは「妖精」だと聞いていますが、どんなものですか。
またこの妖精は「ガジュマル」だけに住み着くのでしょうか。
「ガジュマロ」の林だと他の植生は育たないと聞いていますが。。

当地で大樹と云うとやはり「楠木」でしょうか。
蒲生の八幡様には日本一の大楠があります。

http://www.kpfes.ecnet.jp/index.htm

昔は部落の入り口の目印になる大木に鶏冠を吊るしていたそうです。、
魔除けでは無くてその逆と聞いていますが。
母がいつも庭の入り口辺りに竹を立てそれに下げてましたよ。
お祝いがあると鶏をつぶす(料理)してましたっけ。
50年位前はやってたな。
最近はそんな慣習も無くなった。

[1835] Re[1833][1832][1829]: 貝の道  玄松子 2006/02/27(Mon) 19:05 [Reply]
玄 > これは、「キ=木」と固定した発想ですよね。

「キ=木」に固執した場合、「キジムナ」の「ジ」は「の」ではなく(ややこしい)、
木樹の人、木上の人の「ジュ」「ジョウ」の変化と見られないだろうか。

キジムナは赤いらしいが、赤い猿と云えば、インドネシアのオラウータン。
マレー語で「森の人」、中国では「猩猩」。

「オラウータン(森の人)」の日本語訳(琉球語訳?)が「キジムナ」だと考えるのは青臭いけど科学的?

[1834] Re[1832][1829]: 貝の道  nick [Url] 2006/02/27(Mon) 17:28 [Reply]
>  ですから、木に住むとされる妖怪「キジムナー(沖縄)・ケンムン(奄美)」の語義は「木のモノ・紀のモノ」であると言えると思います。
>  そうすると、「ケンムン」の語義が「怪のモノ」とする奄美の方の解釈は、沖縄など琉球圏全体を見なかったための誤解であると言えそうです。

奄美の「ケンモン」の風体は、「南島雑話の世界」によると
当地の「河童」と同類でしょうか。
そうすると「木に宿っていたのか」ちょっと疑問が。。

また同じく、「ノロの樹上葬」と云うのをやっていたようですが、
子供たちに「神聖なもので悪戯をしないように」との戒めで
「魔物が住む怖い所」の例えで近ずけないようにしたのかもしれません。。

当地の隠れ念仏の洞窟(ボラ・がま)も類似の戒めがありました。
マムシが多く出るからとか。。祟りがあるとか。。
また伝染病や風土病で、洞窟らに隔離された場合、やはりそのような
風説を流して寄せ付けないようにしていたようです。

ま、あくまでも私的見解ですが。

[1833] Re[1832][1829]: 貝の道  玄松子 2006/02/27(Mon) 16:52 [Reply]
忙しくて時々しか読めませんが。

>  ですから、木に住むとされる妖怪「キジムナー(沖縄)・ケンムン(奄美)」の語義は「木のモノ・紀のモノ」であると言えると思います。

これは、「キ=木」と固定した発想ですよね。

「怪=ケ→キ」という発想も可能でしょう。もちろん「木=キ→ケ」という発想も可能ですが、「ジ=の」だからどちらかに特定できるものでもないと思います。

そもそも、沖縄では神霊や妖怪が宿りそうな樹を「・・・のキ」と呼ぶのでしょうか。
ガジュマルの呼び名は何処から来てるのでしょうか。

[1832] Re[1829]: 貝の道  琉球松 2006/02/27(Mon) 12:52 [Reply]
 とみたさん、ありがとうございます。 はやり再放送してほしいものですね。

 「石敢當」は、琉球圏の家屋の数ほどあるのではと言われるくらい多いですね。
 島に生活する者の印象としては、これは魔物を退治するというよりも「どうか避けて通過して下さい」って感じで、よほど恐ろしい敵が襲来した時代(イリ王朝?or 初期仏教?)を想起しますが、表面的にはけっこう新しいものでしょうね。
 ただ、そのエッセンスに九州の影響があるとすれば、それは「徐福伝説」の焼き直しのような感じもします?

 ところで、その魔除けの対象「マジムン」の語義は「マのモノ(魔物)」ですから、「ジ」は「の」の転化であることが沖縄方言の多くの例からして間違いないと考えます。
 ですから、木に住むとされる妖怪「キジムナー(沖縄)・ケンムン(奄美)」の語義は「木のモノ・紀のモノ」であると言えると思います。
 そうすると、「ケンムン」の語義が「怪のモノ」とする奄美の方の解釈は、沖縄など琉球圏全体を見なかったための誤解であると言えそうです。

[1832] Re[1829]: 貝の道  琉球松 2006/02/27(Mon) 12:52 [Reply]
 とみたさん、ありがとうございます。 はやり再放送してほしいものですね。

 「石敢當」は、琉球圏の家屋の数ほどあるのではと言われるくらい多いですね。
 島に生活する者の印象としては、これは魔物を退治するというよりも「どうか避けて通過して下さい」って感じで、よほど恐ろしい敵が襲来した時代(イリ王朝?or 初期仏教?)を想起しますが、表面的にはけっこう新しいものでしょうね。
 ただ、そのエッセンスに九州の影響があるとすれば、それは「徐福伝説」の焼き直しのような感じもします?

 ところで、その魔除けの対象「マジムン」の語義は「マのモノ(魔物)」ですから、「ジ」は「の」の転化であることが沖縄方言の多くの例からして間違いないと考えます。
 ですから、木に住むとされる妖怪「キジムナー(沖縄)・ケンムン(奄美)」の語義は「木のモノ・紀のモノ」であると言えると思います。
 そうすると、「ケンムン」の語義が「怪のモノ」とする奄美の方の解釈は、沖縄など琉球圏全体を見なかったための誤解であると言えそうです。

[1831] Re[1829]: 貝の道  nick [Url] 2006/02/27(Mon) 11:00 [Reply]
>本州では見かけませんがどこかにあるのでしょうか。
案外、南九州止りかも。情報があれば嬉しいですね。

> 土曜フォーラム”伝統と文化”、たまたまテレビをつけたら見ることができました。

詳細な内容ありがとうございます。
私も15分過ぎ頃から、、、慌てて録画しましたが、、
再放映をと。放送大学のセミナーでも結構ありますよね。
確か今のシーズンだが。

[1830] Re[1828][1827][1825][1824][1822][1820][1818]: 貝の道  nick [Url] 2006/02/27(Mon) 10:56 [Reply]
>  ところで、琉球圏の我々にもなじみ深い「石敢當」は、中国の武将の名であるというのが沖縄諸島での通説ですが、そちらではどうでしょうか?

あ、そうなんですか。当地の市町村史には由来は不明で、伝承のみ。
幼き頃は気にも留めませんでしたし、名前も知りませんでしたよ。
よく、野球の的にして塀めがけボール投げてると怒って追いかえられたのを懐かしく。
帰郷して初めて知ったのですよ。笑。中国や、琉球から伝播したのだけは判りますが。写真ちょっと整理して掲載しようかと。

[1829] 貝の道  とみた 2006/02/27(Mon) 10:45 [Reply]
石敢當(イシガントウ)は宮古島ではじめてみて、今年は沖縄南部でみました。

ついでに石敢當のお守り(除災招福)まで買ってしまいましたよ。中国は福建省から伝わったのでしょうか。魔物は曲がるのが苦手でまっすぐ家の中に飛び込んでくるという言い伝えから交差点や家の角に石敢當を建てておけば、それに魔物は激突して消滅する。本州では見かけませんがどこかにあるのでしょうか。

土曜フォーラム”伝統と文化”、たまたまテレビをつけたら見ることができました。
パネリストは佐々木高明、小島美子の民博の大家と、東北芸術工科大の赤坂憲一?さん、鹿児島国際大の山下欣一さん、富山の博物館の方でした。

出雲神楽の実演は迫力がありました。シャーマンの神懸りの託宣。

東北青森の環状列石。出雲の巨大御柱。

弥生時代の終わりから古墳時代にかけての日本海沿岸と出雲と東北の飛鳥の交易・交流の文化圏について論じていました。

山下さんは、沖縄・奄美の文化は通過する(動く)民の文化と定住する民の文化と両方が考えられると主張されていました。
屋久島から海流が二つに別れ日本海のコースで、沖縄糸満の海への素もぐりの民が日本海まで行っている。

ゴホウラ、イモ貝は北九州から日本海、北海道まで行っている。

8世紀以降遣唐使船の往来は数が減って、渤海国と交流が増え渤海国と日本は日本海を横切って船で35回も往復しています。日本海の出雲、能登、秋田の港に発着していた。

大陸ー日本海ー日本を囲む東アジア内海の世界が見えると考察していました。
いわば地中海みたいな文化交流圏です。

もちろん大陸から見れば沖縄もその日本群島に属するでしょう。

そんな内容でした。





[1828] Re[1827][1825][1824][1822][1820][1818]: 貝の道  琉球松 2006/02/27(Mon) 09:39 [Reply]
 nickさんへ

 「道祖神」がどういうものかよくわかりませんでした。申し訳ない!
 しかし、道案内の神様がアスファルトに埋没。。。これは罰あたりですな〜(笑)。

 ところで、琉球圏の我々にもなじみ深い「石敢當」は、中国の武将の名であるというのが沖縄諸島での通説ですが、そちらではどうでしょうか?

[1827] Re[1825][1824][1822][1820][1818]: 貝の道  nick [Url] 2006/02/26(Sun) 23:42 [Reply]
>  「大黒・えびす・道祖神」など、徐福の匂いがしますね〜。

「道祖神」に関しては当地ではとんとお目にかかれません。
「道祖神」の代わりなのか「みっがんさ〜(道神さま)」をたまに見かけます。
天孫降臨の「猿田彦」ですね。高さは大体30cm位、本州の「道祖神」は1m位はざらですが、小さすぎてご存知無いのか、可愛そうに道路工事で路面のアスファルトの埋没しているのも散見され電話しますが。苦笑。

また、各個の入り口付近には「石敢當」が多々見受けられます。これは数が多い。
一種の『魔よけ・招福』です。


[1826] たんかんさ〜は  nick [Url] 2006/02/26(Sun) 16:40 [Reply]
愚作ページをご覧下さい。
来月からまた動画を掲載しようと思ってます。

[1825] Re[1824][1822][1820][1818]: 貝の道  琉球松 2006/02/26(Sun) 13:03 [Reply]
 「たんかんさ〜」って面白いですね。
 この祭りの舞は、神への奉納でしょうか? それとも、田の神自身が舞うのでしょうか?

 「大黒・えびす・道祖神」など、徐福の匂いがしますね〜。

[1824] Re[1822][1820][1818]: 貝の道  nick [Url] 2006/02/26(Sun) 11:24 [Reply]
それと「邪馬台国」も。。
もっと遺跡が出現すれば、記述通りだったと。。
そうなると大変ですね。

今日は午後から「たんかんさ〜」祭。。何とか雨も揚がって。。
喜んで出かけます。笑。

[1823] Re[1821][1819][1818]: 貝の道  nick [Url] 2006/02/26(Sun) 11:20 [Reply]
> 徐福と吉川英治、どのようにつながるのでしょうか?
吉川英治著「三国志」三巻があります。
当時の歴史的背景を。。参考に成ればと読み返しています。

[1822] Re[1820][1818]: 貝の道  琉球松 2006/02/26(Sun) 10:58 [Reply]
 nickさん、『土曜フォーラム』の情報ありがとうございます。
 見逃してしまいましたが、再放送に期待です。

 隼人経由で普及し東征?する沖縄諸島産「ゴホウラ貝輪」が "神武の家系" と繋がるのはほぼ確実だと思いますね。
 「山幸彦」が行った "薩摩半島から一日かかる海の国" や、浦島伝説に出る "蓬莱山海若神都(とこよのくにわだつみのみやこ)"。。。
 また、後世の熊野権現僧が目指した「補陀落」も、原初的には沖縄島であったとの解釈も捨てきれないんです。

[1821] Re[1819][1818]: 貝の道  神奈備 2006/02/26(Sun) 10:23 [Reply]
> 私も今「徐福」関連で昔の吉川英治全集を読み直しています。

徐福と吉川英治、どのようにつながるのでしょうか?

[1820] Re[1818]: 貝の道  nick [Url] 2006/02/26(Sun) 00:32 [Reply]
今、久々に土曜フォーラムを見ています。
ちょうどこの伝播をやってます。
眠たい目をこすりこすり見てます。

[1819] Re[1818]: 貝の道  nick [Url] 2006/02/25(Sat) 15:19 [Reply]
こんにちわ。とみたさん。
私の親友にも「富田」が居まして今大阪在住です。
思い出して何か田舎の物でも送ろうかなと。笑。

> 話題にあった、大隈半島の吾平町の吾平山の御陵を昨年訪ねました。

あの辺りに訪れたいと願望はしているのですが、足が無いものでなかなか。
暖かくなったら、父と出かけたいなと。。
調査されると新発見があるのかそれとも。。。

> 弥生時代は、炭素14の歴博の新測定法で、始まりが500年も遡りました。
> 紀元前450年→紀元前950年と遡ることになって、議論が混乱しています。
> 縄文時代は大分、文明が進んでいた気がしますね。

多種多様の精密機器や測定装置の進歩には驚きます。
体内もロボットカメラがそれも薬のカプセルと同じサイズと云うから驚き。
科学が進歩すれば、昔あやふやだった箇所も。。
長生きの賜物。。笑。

> 岡田英弘先生の本などは参考になりますね。先生は中国の古代史に明るい方ですので、春秋戦国時代から秦漢さらに三国志などの先生の詳説から中国と朝鮮と倭を見ております。

私も今「徐福」関連で昔の吉川英治全集を読み直しています。
当時はタイムリーでテレビでもシリーズ化されよく見てました。
例の楊枝の紋次郎さん主演でしたが。。

> そんな中で、海の民隼人の動きを把握したいものです。

案外、当地隼人地方の熊襲は「山の民」サンカに同化したのかも。。なんて。
そうだと嬉しいような。

1998年頃から、古文書のルート(主に修験道)を走破していますが、
いや〜大変です。古道の多くが廃道や崩落して寸断され難儀しますが
ふと上を見上げると供養塚や磨崖仏があったりして、、
な〜るほどと納得します。
昔の人は偉かった。。頑丈だったなと。改めて。。

[1818] 貝の道  とみた 2006/02/25(Sat) 12:20 [Reply]
nickさん 琉球松さん とみたです。

琉球の具の道につきお付き合いいただき感謝します。

話題にあった、大隈半島の吾平町の吾平山の御陵を昨年訪ねました。

自然林の中を流れる清冽な姶良川の源流にあって、皇陵に相応しい森厳な聖域です。まるで伊勢の五十鈴川見たいな感じでした。山峡の岩屋洞窟内に天照大神の末子・鵜不合尊と妃の玉依姫の遺骸が安置されている石棺があるとか。宮内庁は吾平山稜は吾平町のものを本来のものとし、
日南の鵜戸神社にある陵は参考地としているそうですね。

弥生時代は、炭素14の歴博の新測定法で、始まりが500年も遡りました。

紀元前450年→紀元前950年と遡ることになって、議論が混乱しています。

縄文時代は大分、文明が進んでいた気がしますね。

ご承知のように百家争鳴の古代史。いろいろな本を読み漁っていますが、読み手も軸が定まらず、振り回されています。考古学的な発見が多く出土しているのが救いです。

岡田英弘先生の本などは参考になりますね。先生は中国の古代史に明るい方ですので、春秋戦国時代から秦漢さらに三国志などの先生の詳説から中国と朝鮮と倭を見ております。

呉越戦争、楚とのかかわりあい、燕と秦と前漢・後漢などの朝鮮への進出を見ると紀元前の意外と古い時代に倭の国と交易していた気がします。

そんな中で、海の民隼人の動きを把握したいものです。

よろしくお願いします。









[1817] 紀ノ川(吉野川)の古代  9 有間皇子  神奈備 2006/02/25(Sat) 10:34 [Reply]

 牟婁郡の有馬に花の窟神社が鎮座、二月と十月に花や白扇を吊した縄旗170mを結び、魂結びと称して、御綱渡しの神事がもよおされる。『天皇と鍛冶王の伝承』(畑井弘著)によると、朝鮮語で「花が美しい」を「アリムダプタ」と言うそうです。氏によれば、孝徳天皇は軽皇子と呼ばれ、「軽」は加羅と同義であり、有間皇子にも半島のにおいが仄かにただよっています。

 有間皇子は有力な皇位継承者でした。後の天智天皇(中大兄皇子)の有力なライバルでした。

当時は大きい影響力を持っていた韓人勢力のスターだったのでしょう。それだけに、有間皇子は狂気をよそおい、身におよぶであろう禍を避けていたのでしょう。

 『日本書紀』(斉明紀三年九月)紀国の牟婁の湯(たぶん白浜、湯の峰の説もあるが・・)に行って、「ただその場所を見ただけで、病気は自然に治ってしまいます。」と帰ってから斉明天皇に報告しています。天皇はそれを聞いて、自分も行ってみたいと思うようになりました。とあります。

 四年十月、斉明天皇や中大兄皇子は紀の湯に行幸されました。一書に、有間皇子は、「まず大宮を焼いて、五百人で一日二夜、牟婁津(田辺湾)に迎え撃ち、急ぎ舟軍で淡路国を遮り、囲んでしまえば、計画は成就しやすい。」と言ったとあります。

 蘇我赤兄が斉明天皇の三つの失政について有間皇子に語り、有間皇子は計画の実行を決意しますが、床几が壊れて不吉な前兆として中止をしました。その夜、蘇我赤兄と物部鮪に捕らえられて、牟婁に送られます。海南市の藤白で首を縊られて殺されました。

 だまされたふりをした中大兄皇子の圧勝と言うことでしょう。有間皇子側についていた守君大石、坂合部連薬、塩屋連コノシロらが捕らえられました。守君大石は遣唐使だった人。坂合部連薬は宇智郡の坂合に関連する人でしょう。ここを押さえれば大和の軍が、紀の湯に行き着くのに時間がかかるでしょう。塩屋連は今の御坊市の塩屋を本拠とする豪族だったのでしょう。舟軍を担当する予定だったのかも。

 五百人の牟婁津を押さえる軍はどこから呼ぶ予定だったのでしょうか。『天皇と鍛冶王の伝承』には、有間皇子の本貫の地が熊野の有馬であろうから、ここから中辺路を通って牟婁津に出現させようと推定しています。まさに有間皇子の面目躍如と言うことです。

花窟神社
http://kamnavi.jp/ym/miehana.htm

塩屋王子神社
http://kamnavi.jp/ki/nanki/sioya.htm

有馬皇子神社
http://kamnavi.jp/kumano/kii/fujisiro.htm

[1816] Re[1815][1814][1797][1796][1793]: 紀ノ川(吉野川)の古代  7 畿内近辺の隼人  nick [Url] 2006/02/25(Sat) 00:47 [Reply]
>  まさか、現在の神武天皇陵が正解なんてとても信用できませんよね?

ま、明治政府のご裁可でしょうから。。
溝辺の高屋山之上陵には以前神社があったとか聞いていますよ。
現在は下のたんぼの方へ鎮座されてます。(鷹屋神社)
その由来については仔細は知りませんが。
当地には、他に吾平と可愛(えの)山陵があります。
明治の廃仏毀釈で寺院の古文書が焼失(壊滅)しているだけに
何か手がかりがほしいですね。江戸時代より古い物が。

>  それから、先の投稿はゴホウラ貝とイモ貝、そして弥生時代の区分などの混同がありました。。。とりあえず撤回しておきたいと思います。

当地の吹上浜辺りの遺跡からは結構出土するようです。
そこでは貝類(南島産)の加工場跡も発見されたようです。
今、昔のセミナーの資料探しているのですが、、
どうも遅刻して大盛況で満杯でしたから、資料が不足して貰っていなかったかも。
ノートはあるのですが。
メモには弥生前期〜と記載してました。
当地にも幾つかの縄文遺跡はありますが、そのような装飾品は?

[1815] Re[1814][1797][1796][1793]: 紀ノ川(吉野川)の古代  7 畿内近辺の隼人  琉球松 2006/02/25(Sat) 00:00 [Reply]
 nickさんへ

 宮内庁の体質を改めればいいと思います。
 天皇陵などは国民の財産ですしね、皇室の方々の許可を得て発掘作業を始めたらいいんじゃないでしょうか。
 まさか、現在の神武天皇陵が正解なんてとても信用できませんよね?

 それから、先の投稿はゴホウラ貝とイモ貝、そして弥生時代の区分などの混同がありました。。。とりあえず撤回しておきたいと思います。

[1814] Re[1797][1796][1793]: 紀ノ川(吉野川)の古代  7 畿内近辺の隼人  nick [Url] 2006/02/24(Fri) 21:32 [Reply]
海幸彦・山幸彦に登場する
「豊玉姫」が琉球辺りのお姫様なら
俄然面白いのですが、、
なんせ古墳時代の墓が無い。骨が無い。。
これではDNAの鑑定も。。

私としては「徐福」辺りとの繋がりをと
調査しているのですが、、
こちらも史資料が皆無。伝承も無い。
途方にくれてます。
願うはまた工事現場から遺跡でも。。と。
まさか皇室の墓を暴くのは。。。

[1813] Re[1810]: 琉球の古代への興味  琉球松 2006/02/24(Fri) 21:21 [Reply]
 とみたさん、どうもです

 沖縄諸島産ゴホウラ貝が、隼人経由で九州に伝わりはじめるのが弥生時代前期中頃ですね。
 この貝を加工した「ゴホウラ貝輪」は後に東に拡大(東限は兵庫県夢野遺跡)し、近畿あたりでは材質を石などに変え、銅鏡と対をなすほどに普及します。
 この現象の始まりは2600年前とされる神武即位の時代と重なっていて、まあ偶然かもしれませんが。。。
 この頃って、「倭国大乱」を終わらせようとする運動が、沖縄を起点に始まったのではと考えるわけです。

[1812] Re[1809][1807][1804]: 紀ノ川(吉野川)の古代  8 豪族など  かまど 2006/02/23(Thu) 23:22 [Reply]
神奈備様

>  豪族の存在の内、坂上重方は10世紀の人です。出典は手を抜いて『和歌山県史』原始古代編です。
私も以前何かの本を見ていて、坂上氏が伊都郡に入ってきたのは10世紀中葉と言うのを記憶しているのですが、その論の根拠となる文書が坂上氏の古文書にあった記憶があるんです。ただ、その文書がどこにあったか思い出せないんですよね。たしか、坂上氏自身が9○○年にこの地に来たと書かれていたと思うのですが。また、見つけたらメールしますね。


> > C文忌寸は伊都郡のどのあたりで活躍していたかわかりますでしょうか?その文献があれば調べてみたいのですが、参考になる古文書あれば教えて下さい
>  『日本霊異記』に、「聖武天皇の頃に桑原之狭屋寺」のある里に、文忌寸と名乗る人物がいた。とあるようです。10世紀にはいると、伊都郡の主要ポストを文忌寸と六人部連とで独占していたようです。

伊都郡かつらぎ町の紀ノ川北部の佐野廃寺だと思うのですが。
今の所丹生氏の名前が出てこないと言うよりも伊都郡南部は古文書には出てきていないと思うんです。だから、本当にないのか調べてるんですけど。
誰かこちらの掲示板で「畿内とは紀ノ川より北」って書かれてませんでしたっけ。南海道も紀ノ川北部ですよね。もしかしたら紀ノ川南部に関する古文書って空海が来てからじゃないのかと思い始めています。まだ調べないと分からないですけど。


丹生氏の事調べてますが、前回書いた某所ですけど、もう私の手の届く範囲の所ではありませんでして、大学みたいな公的機関でないと古文書は見せてもらえないのかも知れません。名前言えないのでもどかしいのですが、天皇家関係の所だから、一般人の私は無理でした。これ以上調べるのは限界を感じ始めています。東大であれば、10年後ぐらいにはインターネットで見れる可能性があるのですが、とりあえずはそれを期待して待ってます。気の長い話ですが。

[1811] Re[1810]: 琉球の古代への興味  nick [Url] 2006/02/23(Thu) 14:05 [Reply]
@貝の道が気になっております。隼人との関係。特産のイモ貝は弥生時代の北部九州の女性の腕輪の材料として珍重されたようです。青銅器が朝鮮から入ると貝輪の需要は減りますね。

実は私も「森 浩一」先生著の「日本神話の考古学」なる書籍で「ゴホウラ貝」の
ルートを知りました。
暫くして当地の黎明館でこのテーマのセミナーが開催され聴講しました。
阿多隼人は海洋民族で熊野辺りまで黒潮に乗って頻繁に。。
当然。南西諸島や琉球・中国へも。。
夢は広がります。

[1810] 琉球の古代への興味  とみた 2006/02/23(Thu) 12:25 [Reply]
琉球松さん はじめまして とみたと申します。熊野の話でお声をかけていただいてこれ幸いと便乗させていただきます。

実は私、3年連続して沖縄へ避寒をかねて行っております。石垣,宮古に続いて本年は本島の那覇と糸満を訪れ港川近くも通りました。
琉球の謎を一杯溜め込んでおりますのでよろしくお願いします。まだ十分勉強しておらず素人の域を出ません。沖縄の歴史に明るい方と接点を持ちこの掲示板で語り合い教えていただければ幸いです。

まだ古代史はかけだしですが、時間にゆとりのあるシニアですので、去年は沖縄をはじめ、南九州、中国・シルクロード、飛鳥、北関東の遺跡を巡りました。広い視野で古代史を捉えたいと思っております。

沖縄は、ポリネシアなど南方系との接点、ニライカナイの来訪神ミルク神は弥勒かどうか、魔よけのシーサーはインド生まれ?。中国の福建省や道教との接点、亀甲墓と破風墓の石棺。ゴホウラ貝・イモ貝の貝の道。ヤマト人の漂着。・・・・などなど。旅の道中でアイヌ人と琉球人は顔かたちが似ているし、言葉が日本の東北人と似ているとか話していました。蝦夷と関係があるのでしょうか。日本語の古代語のルーツはポリネシア語という説もあります。

14-5世紀の琉球王朝の成立とか、17世紀の島津藩の侵攻はあまり興味がありません。それ以前の琉球と日本のかかわりを知りたいものです。

@貝の道が気になっております。隼人との関係。特産のイモ貝は弥生時代の北部九州の女性の腕輪の材料として珍重されたようです。青銅器が朝鮮から入ると貝輪の需要は減りますね。

6世紀になると各地の馬具にもイモ貝の飾りをつけてそれが古墳から発見されている。このイモ貝は沖縄産とのこと。それを運んだのが隼人ではないか。これは考古学の森浩一先生の説です。

早稲田大の古賀登名誉教授は隼人は長江の民だと、鵜飼と鳥(烏)信仰の類似性から唱えています。

中国古代の殷に明るい白川静先生は殷の文化は入墨と貝文化だと言われています。

隼人と海人族の安曇族これは入墨している。貝は殷では貨幣として扱っている。宮古島産の子安貝と殷の甲骨文字に描かれた貝との関係を唱えた
民俗学の柳田国男先生の説は否定されたのでしょうか。殷の文化と縄文人の関係が面白い。沖縄の舞台はゴホウラ貝、イモ貝、子安貝と隼人の関係があり、中国朝鮮ともつながっていそうです。

Aスサノオのことも気になっております。スサノオはニライカライのポリネシアから紀州に来たというのが、日本の神々の著者の松前健さんの考え方。

スサノオは高句麗や新羅との関係で北方由来を仄めかせておられるのが森浩一先生です。

B司馬遼太郎のの街道を行く、種子島で砂鉄がとれタタラ製鉄がいたるところでやっていた。

熊野神社があり、紀州根来衆が鉄砲を紀州から普及した。

これは室町末の16世紀中ごろの鉄砲伝来の話でしょうが、

熊野と南の島をつなげる何かを示唆しているような気がするのですが

ちょっと怪しげな話に脱線しましたが、青草につき許してください。


[1809] Re[1807][1804]: 紀ノ川(吉野川)の古代  8 豪族など  神奈備 2006/02/23(Thu) 09:25 [Reply]
 かまどさん、おはようございます。

 古代で面白いのは『記紀』とそれ以前の時代ですが、『続日本紀』までの時代としますと、9世紀までですが、『延喜式』に頼りたい所がありますので、10世紀までのイメージでしょうか。
 豪族の存在の内、坂上重方は10世紀の人です。出典は手を抜いて『和歌山県史』原始古代編です。

> B坂上氏は橋本市の紀ノ川北部と言うイメージがあるんですが、8〜9世紀南部で活躍した文献ってありますか?

 坂上氏は奈良盆地南部に勢力を持っていた関係で、伊都郡にも人的影響を与えたようです。坂上氏については、上横手雅敬「武士団成立史の一齣」が参考文献。

 
> C文忌寸は伊都郡のどのあたりで活躍していたかわかりますでしょうか?その文献があれば調べてみたいのですが、参考になる古文書あれば教えて下さい

 『日本霊異記』に、「聖武天皇の頃に桑原之狭屋寺」のある里に、文忌寸と名乗る人物がいた。とあるようです。10世紀にはいると、伊都郡の主要ポストを文忌寸と六人部連とで独占していたようです。

[1808] Re[1806][1805]: 吉野/紀州の謎  琉球松 2006/02/23(Thu) 00:26 [Reply]
 神奈備さん、とみたさんへ

 琉球圏の社のほとんどは真言宗系の権現ですね。
 "縁起のよい3本足ヤタカラス" は、島ではあまり馴染みがありませんが "3つの霊石" はほとんど常識的な感じがします。
 また、『おもろさうし』や奄美の神歌に出る天上界「ヲボツ・カグラ」と熊野の関係はどのあたりまで遡るでしょうか?

 『熊野権現の島/崎間敏勝(琉球文化歴史研究所)1988 』より
*** それは新宮市の速玉神社の傍にある「神蔵山(カミクラやま)」と新宮市の北東十数キロばかりにある「烏帽子(ヱボシやま)」である。(略)神蔵山は険阻な岩山で山頂近くに「ごとびき岩」という大石の神座がある。神武天皇が大和に入る時この山に登ったという古い伝承があり、源頼朝が寄進した急な石段がついている。この山は地元では「カミクラ」と明瞭に発音されているが、これが「カグラ」ともいえることは明らかである。(略)烏帽子は元来中国の帽子であり、黒紗を用いるところから烏帽子とよばれたが(略)中国音の原音は「ウモツ」であるのでこの原音がまだ熊野で通用していた頃沖縄に来たと考えてもよい。***

[1807] Re[1804]: 紀ノ川(吉野川)の古代  8 豪族など  かまど 2006/02/22(Wed) 21:27 [Reply]
神奈備様こんばんは。

教えて下さい。
@古代って何年〜何年までのことですか?(すいません基本的な事なんですが今まで考えた事なかったもので(^^;)

>  伊都郡には文忌寸、坂上重方など。8世紀から10世紀の間には丹生氏の名は出てこないようです。
A坂上氏は橋本市が根拠で、伊都郡に進出してきたのは9世紀後半でしたっけ?覚鑁上人は坂上氏は(天野)の土豪ではないと書かれているみたいなので、多分空海が来てから進出してきたんでしょうね。

B坂上氏は橋本市の紀ノ川北部と言うイメージがあるんですが、8〜9世紀南部で活躍した文献ってありますか?

C文忌寸は伊都郡のどのあたりで活躍していたかわかりますでしょうか?その文献があれば調べてみたいのですが、参考になる古文書あれば教えて下さい。


丹生氏についてはないと思います。朝廷が書いた古文書に出るほど活躍したり、地位が高かったとは思えないからです。

それと、丹生氏はただの神主ですから、9世紀以降については天野近辺の政治的な面には多分関わっていないと思います(発言権はあったかも知れませんが決定権はないと思います)。理由は空海以後、この地を領地したのは仁和寺だからです。空海以前誰が天野を領地したかを表す古文書は今のところ出てきてないと思います。誰も領地してなかったのかも知れませんが。

今までの丹生氏については、
@火災で古文書が焼けて、あまり残っていない。
Aだいたい多くの人が参考にしているのは丹生祝氏本系帳であるが、偽作の可能性もある。
B丹生総神主家についてはほとんど調べられていない。と言うか今までは散在した古文書、関連した古文書を探そうとした人がいなかったみたいですね。その他の理由もあったようですが。

と言う事もあって、どうしても推測が多くなってしまう。丹生氏の家系図見ずして家系図を作って本屋で売っている人もいますね。インターネットでも良く見かけます。今は東大の史料編纂所のHPで見れるので、これからは変ってくるかも知れませんね。

今某所を東大?が数年かけて古文書を整理しているようなので、もしかしたら丹生氏に関する古文書が出てくるかも知れないと期待しているのですが、何年先のことか。確かすでに6年ぐらいかかっているようですが、まだまだかかるだろうとの話でした。この話を聞いたとき、以外と古文書って、今表に出ているのはほんの一部なのではと思ってしまいました。

まあ、それだけ古文書が出てきてないのだから、いろいろ推測できて、おもしろいからいいのかも知れませんね。高野山には丹生氏っているの?って言うお坊さんもおられますし。実際いなかったりして・・・。笑 

[1806] Re[1805]: 吉野/紀州の謎  神奈備 2006/02/22(Wed) 20:51 [Reply]
とみたさん、サジェッションありがとうございます。

> ここは南九州の阿多隼人の入植した地と思いますが。

そうでしょうね。阿陀比賣神社の鎮座がそれを物語っているようです。


> 縁起のよい3本足。これがヤタカラスです。

ヤタガラスが三本の足を持っていたとは『記紀』のどこにも書いていないようです。
このことは、神奈備掲示板[2098] H13.11.4 で、玄松子さんが指摘されています。
熊野の烏(サッカーの標し)とヤタガラスが熊野方面に現れた話との混乱の仕業です。

> 武内宿禰も東征軍を案内しているようですが、武内宿禰は葛城氏、平群、巨勢、蘇我、木(紀)氏の祖でもあり、天孫族を笠沙でたすけ、東征軍を案内した塩土老爺。

 イメージとしては似合いますが、塩土老爺は東に良い土地があるよと教えたのであって、案内はしていないようです。

> 沢山のシナリオやストーリーが吉野川や紀の国には詰まっているようです。

おっしゃる通りです。全部掘り起こせればいいんですが・・・


[1805] 吉野/紀州の謎  とみた 2006/02/22(Wed) 11:16 [Reply]
早大名誉教授の古賀登先生の四川と長江文明、日本文化研究センターの安田喜憲先生の太陽の文明を読んで得た情報からの類推です。

五条市の南の吉野川の辺に西吾多と東吾多という地名がありますね。

ここは南九州の阿多隼人の入植した地と思いますが。

ヤタカラスは神武東征軍を案内しますね。また東征軍が大和宇陀(今の榛原)で大和入りするとき吉野の鵜飼に応援を求めます(古事記)。これも阿多隼人でしょうか。

別の資料によると、東征軍の案内役は葛城建角身命です。この人が大和朝廷が山城に勢力を伸ばすときに従って京都の賀茂神社/鴨神社で祀られますね。

阿多の隼人は海幸でしょうが、もともとは長江の中上流域巴蜀の地から出てきた民族というのです。鵜飼は巴蜀で始まる。

長江を下れば江南に出る。そこからは南九州へ直接来ることも或いは五島列島を経由することも考えられます。

長江文明は、稲の文明です。稲作には太陽が不可欠、太陽を運ぶ鳥信仰。縁起のよい3本足。

これがヤタカラスです。

熊野神社の使いは烏で聖鳥です。

・・・・・

ここから記紀との話とどうつながっているのかがわかりません。何かヒントはいただけませんか。武内宿禰がよくわかりません。

武内宿禰も東征軍を案内しているようですが、武内宿禰は葛城氏、平群、巨勢、蘇我、木(紀)氏の祖でもあり、天孫族を笠沙でたすけ、東征軍を案内した塩土老爺

とのつながりもあり、神功皇后との関係やら、やたらと謎めいています。

300歳近い長寿で一人何役も果たしているので、宿根は一人でなく集団だと思いま

す。大和朝廷に貢献したいくつかの集団がいてその役回りを架空の一人に見立て

た。

スサノオも紀州と深いつながりがある。

沢山のシナリオやストーリーが吉野川や紀の国には詰まっているようです。







[1804] 紀ノ川(吉野川)の古代  8 豪族など  神奈備 2006/02/21(Tue) 21:52 [Reply]
 下流の名草郡には紀氏が盤踞していました。紀氏と云っても二系統があり、一つは地元の紀直で、これは天道根命の末裔で所謂神別氏族です。どちらかと云えば紀ノ川の南側にいました。もう一つは皇別氏族で、紀朝臣と云い、武内宿禰の子孫となっています。中央で活躍したのですが、その前には紀ノ川の北側にもいたようです。

 紀朝臣のルーツとしては大和の平群郡、ここには平群坐紀氏神社が鎮座、もう一つは山城国紀伊郡ですが、やはり九州から紀の国へ、それから大和や山城に出稼ぎに行って定着したものと思われます。何故九州か、これは武内宿禰の母親は木の国の造の祖の妹の山下影日売とされていますが、彼女を祭神とする神社は紀の国には一社もありません。福岡県三社、佐賀県一社なのです。彼女を娶った男も景行天皇の弟です。景行天皇も九州の匂いの強い大王です。

 名草郡や那賀郡には大伴氏もおりました。紀両氏とは地域も近く親しい関係にあったようです。『雄略紀』八年夏五月、半島で病死した紀小弓宿禰の墓の場所を大伴室屋大連が天皇に訴えたところ、「大伴郷は紀郷と同じ国の近い隣でつきあいも長い。」と言われて淡輪邑に葬ったとあります。

 伊都郡には文忌寸、坂上重方など。8世紀から10世紀の間には丹生氏の名は出てこないようです。

 大化の改新の詔で紀ノ川に関係するのは畿内の規定です。畿内の南の境界として「紀伊の兄山」です。背山とも書きます。
http://kamnavi.jp/ki/itonaga/funaoka.htm
この山と対となる妹山とは万葉集にも多く唱われています。
阿閉皇女 これやこの 大和にしては 我が恋ふる 紀路にありとふ 名に負う背の山

 妹山と背山、ひとつには妹背の道へのあこがれと言うか、妹背のの道とは、女と男の関係のことでもあり、陽光きらめく紀の国に遊べば、粋な女や男がいたのでしょう。紀ノ川を下って妹背の道を越えていきたい、蒸し暑く冬は底冷えの大和の陰湿な空気から陽光の中へ伸びやかに羽ばたきたい万葉歌人の想いを満たす紀の国だったのです。

 今の背山、妹山はミカン山で、頂上には送電線が通り、身も蓋もない状態です。昔の妹山に面白い話が伝わっています。結婚に自信のない男、女に自信がない男、と言う意味ですが、その男に妹山を見せてやれば、女に自信がつくと言われていました。試しに小生も妹山をぐるぐるとよく見たのですが、全く何のことやら。さっぱり自信がないままですわ。
 

[1803] Re[1802][1800]: PCは重傷  神奈備 2006/02/21(Tue) 21:51 [Reply]
琉球松さん   nick さん
アドバイス、ありがとうございます。
真摯に検討実行いたします。

[1802] Re[1800]: PCは重傷  nick [Url] 2006/02/21(Tue) 09:11 [Reply]
>   PCは重傷、XPの再インストールも駄目。
>  しからば98を入れてからXPにあげようととして、
これは、ファイルフォーマットが全然異なるから意味がありませんので、当初からXPで。マシンのシステムが弱体なら98システムでも。

いずれにせよ。早急の復旧を。
ま、今は4万円で格安パソコンがありますからネット専用に1台どうぞ。
DVD編集付きでも5万円かかりませんよ。ご検討を。

昔は50MB_HDDが6万円もして仕方なく並行輸入に頼ってましたが
今は安くなったもので。一時期流行った「398000」もあったら高機能のマシンが
入手できますよね。長生きをして好かった。笑。

歴史も同じく時が経てば解決してくれることも多々。
40年振りに帰郷して。何と「縄文遺跡」の多さに目を奪われた。
バブル期の高速道路や建設ラッシュで発見されたのだと云う。
中学校の頃は「遺跡」すらお目にかかれなかったが。。
南九州の歴史が塗り替えられる日も近い。

議論を沸騰させるのは大いに結構だが、、「気まずく」なるのはちょっと寂しい。
所詮「お釈迦様の手の内」です。

[1801] Re[1800]: PCは重傷  琉球松 2006/02/20(Mon) 16:52 [Reply]
 神奈備さん、めげないで下さいよ〜。
 データは、意外なほど残っているものだそうですよ。
 まあ、だめならだめで、また構築すればいいんじゃないでしょうか。

[1800] PCは重傷  神奈備 2006/02/20(Mon) 16:30 [Reply]
  PCは重傷、XPの再インストールも駄目。
 しからば98を入れてからXPにあげようととして、システムFDDでフォーマットから始めたものの、最後にシステムエラーが出て動かず。目下、2000のインストールを画策中。早くて木曜日。

 DISKの中身は消えてしまった。惜しいのは「紀ノ川」の原稿。しばらく休止。動かなくなった直後なら、DISKを取り出して、別のPCの外付けと見なしてデータを引き抜いておくことが出来たそうだ。神奈備藤四郎の最悪の処置で、全部パーとは情けない。

[1799] Re[1797][1796][1793]: 紀ノ川(吉野川)の古代  7 畿内近辺の隼人  nick [Url] 2006/02/20(Mon) 12:51 [Reply]
こんにちわ。
まだ取り掛かったところと言うか、資料集めに奔走しているところです。
ま、難しいことは省いて判る範囲でマイページに掲載して行こうかと。
その前に近畿詣でを。もちろん熊野も含めてですが。

現在も諸古記片手に現場へ出かけていますので、ページも更新も
ままなりませんが。

[1798] Re[1795]: パソコンが壊れた。  nick [Url] 2006/02/20(Mon) 12:45 [Reply]
実は、「一年の計は元旦にあり」で正月早々HDDのお掃除を。
パーティションきり直してOSを再インストールして。。
それが何としたことか中旬にはうんともすんとも。。IDEを認識しなくなって
いろいろ取り替えてみましたが結局だめで。
運良くHDD200GBの1本は、保証期間限度で事なきを得ましたが、他の2本は没。
HDD購入しようか迷った挙句、「すご録」にしました。笑。
実はハイビジョンの録画をしたかったのです。
今までは、パソコンにデコーダー入れて編集していました。
多分その溜め込んだ録画のダビングをこの正月休みパソコンでやっていたので
ダウンしたものと思われます。。

HDDは豆にバックアップしなさいという警鐘のようで。
今はこまめにやってますが何時まで続くかです。笑。

お互いパソコンは「お友達」ですから、、労わってあげましょう。

[1797] Re[1796][1793]: 紀ノ川(吉野川)の古代  7 畿内近辺の隼人  琉球松 2006/02/20(Mon) 12:30 [Reply]
 nickさんへ

 (神武やその親族が人である)と仮定すると、彼のDNAの1/4は隼人であるとみていいんでしょうか?
 これは、近畿地方などの「被差別部落問題」とも繋がると考えますが、nickさんの考えはどうでしょう。

[1796] Re[1793]: 紀ノ川(吉野川)の古代  7 畿内近辺の隼人  nick [Url] 2006/02/20(Mon) 10:45 [Reply]
私が「隼人の畿内移住」を知ったのは
次の書籍によるものでした。

新訂隼人の研究 中村明蔵

日本神話の考古学 森浩一

それ等によると

■山城
■大和
■河内
■摂津
■和泉
■近江
■丹波
■紀伊
■伊勢

また、続日本記・巻6の2に
和銅6年(713)4月乙未条
日向国肝胚・曽於・大隅・姶羅の四郡を割きて、はじめて大隅国を置く

これ以降の「隼人」は狭義的な呼称の「阿多・大隅」等が散見される
ようになります。

ま、在野の物好きな者が入手できる出典史資料には限度がありますから
入手可能な「古事記・日本書記・続日本書記」等に依存せざるを
得ません。図書館に煮日参して研鑽し、
何時の日かそれらの地を訪れてみたいと願望しています。

[1795] パソコンが壊れた。  神奈備 2006/02/19(Sun) 21:48 [Reply]
Windowsが正しく開始できませんでした。
   ・
   ・
セーフモード
  ・
  ・
正常起動

どれかを選んで再起動して下さい。


で、何をやってもその画面に戻ってしまう。トホホ。

で、昔のPCでモデムで接続。

先ほどまでにメールを頂いた方々、応答出来ませんのであしからず。

[1794] Re[1793]: 紀ノ川(吉野川)の古代  7 畿内近辺の隼人  nick [Url] 2006/02/19(Sun) 08:31 [Reply]
おはようございます。
管理人さん、涙が零れ落ちました。感謝。
さっき「初午祭」開催の花火が揚がりました。
父の髭剃り・体を拭いて準備を済ませ待機中。
どんよりした曇り空、何とかもってくれれば。。
今日は「隼人舞」の神事はありませんが。。
楽しみな「鈴懸け馬踊り」です。
帰宅したら改めて。。
では出かけてまいります。

[1793] 紀ノ川(吉野川)の古代  7 畿内近辺の隼人  神奈備 2006/02/18(Sat) 08:54 [Reply]
 延喜式第二十八巻隼人司の条
 「およそ番上の隼人は二十人、欠くることあらば五畿内および近江、丹波、紀伊などの国の隼人の幹了者を取り、省に申して之を補え。」
 とあり、五畿内を含めて八ヶ国に隼人がいたことになります。

 摂津国では、新大阪に近い所に大隅神社が鎮座、この辺りは近畿の隼人の要のような土地、九州の隼人の中継地のような所ではとの見解があります。ここには牧が置かれました。淀川を上る船を牽引するために牛や馬を飼い慣らしたのです。これは隼人の得意な仕事だったようです。『肥前国風土記』には、五島列島の値嘉島の人達は顔つきや言葉が隼人に似て、騎射がうまい、とあります。

 畿内最大の居住地は山城の綴喜郡の大住付近です。月読神社が鎮座、隼人舞の伝承地とされています。

 紀ノ川沿いでは先ず、大和国宇智郡の阿陀比賣神社が想起されます。阿陀隼人が居て、鵜飼などを伝えています。

 紀ノ川下流の名草の地に井辺八幡山古墳があり、ここから顔に入れ墨をした力士像の埴輪が出土しています。『古代史津々浦々』(森浩一著)におよりますと、ふんどしだけを着用し、髪型は頭頂を剃り、後頭部に束髪をたれさげるなど特長が多いようです。『日本書紀』(天武十一年)では、大隅隼人と阿多隼人が朝廷で相撲をとったりしています。井辺八幡山古墳の民衆埴輪にかなりの割合の力士がいるのは隼人系と見て間違いのない所。

 また紀ノ川も船を牽引させるための牛や馬が飼われていたはず。『日本書紀』欽明紀七年、飛鳥の近所の檜隈に住んでいた川原民直宮と云う人が、母馬の背をピョンピョン子供馬が飛び越えているのを目撃、その子馬を手に入れて育てたらたいへんな名馬となったと云う。紀伊の海部が塩や干し魚を運ばせていた馬。この海人を一概に隼人とは出来ないが、その可能性も大きそうです。


[1792] Re[1791]: オリハルコンの輝き  恋川亭 2006/02/16(Thu) 22:15 [Reply]
> 河童の体が青いのは青銅製だからで・・・

えっ?エッ?ゑ〜???
 磨かれた鉄の輝きが清々凛冽たる寒月の白光だとすれば、磨かれた青銅は燦燦たる陽光の輝きでしたよ。まさに太陽の神器にふさわしい素材。
 黄金とも違って、和らぎや落ち着き、温もりまでも感じれます。(安っぽいという評価もあるだろうけど、それはいろんな材料が溢れる現代からの眼)
 緑青だらけの出土品とは、ぜ〜んぜんイメージが違いました・・・けど。

[1791] Re[1782]: 河童の系統  琉球松 2006/02/16(Thu) 19:32 [Reply]
 河童の原型はやっぱり銅鐸のような気がしますね。
 時代が進むにつれて、いろいろと習合して枝葉が増えたんじゃないでしょうか?
 河童の体が青いのは青銅製だからで、尻子玉(内臓)を抜いたりするのも、銅鐸が空洞だからなのかもしれません。。。内蔵の無い魚(人の場合もある)の話も同系かも。
 これは、銅鐸が "ヒレ" を上下にして等高線に沿って埋められているのと関係があると思いますね。
 環濠集落の外堀を泳ぐワニ(鮫 ≒ グァーパ&クンピーラ)。。。そういう観念が、その姿が忘れられた時代に河童になったのではと推測したいわけなんです。

[1790] 紀ノ川(吉野川)の古代  6 神功皇后の足跡U  神奈備 2006/02/16(Thu) 10:04 [Reply]
 皇后が日高に行ったとある日高とは、今の日高郡のことでしょう。梅の産地の南部、竜神温泉、道成寺のある御坊市など。

 どうも、神武東征譚でも南紀に回ることになっていますが、南紀には霊力をつける山々の力、海の力、太陽の力が満ちているということでしょう。この気分は行くたびに感じますし、元気になる器かも。


産湯八幡神社 日高郡日高町産湯313
 社伝によれば、「神功皇后、三韓ご征討から帰らせ給ひ、浪華より転じて当地に立ち寄られ、皇子をご分娩、武内宿祢これを守護し奉りて暫く駐まる。

衣奈八幡神社 日高郡由良町衣奈669
 創建鎮座の由来は衣奈八幡宮縁起に、譽田別命の行宮跡とされ、衣奈の地名は命の(胎胞(エナ))を納めた故という。

 日高の地で、応神天皇を出産したと伝承が拡大しています。


潮崎本之宮神社 西牟婁郡串本町串本517
 神功皇后帰還のおり大和で忍坂王の反乱を知り、皇后は武内大臣に皇子を守護し紀伊に赴いた際、南に漂流し当地に着き、住吉大神を祀ったという。


 ここまで来てしまいました。さて、戻らなくては。

貴志川八幡宮 那賀郡貴志川町岸宮1124
 神功皇后筑紫より御凱旋の時、皇子とともに柏原(現安原)に上陸し、小竹の宮に赴く途中、当地に立ち寄ったとの伝承がある。


小竹八幡神社 御坊市薗642
 神功皇后の小竹宮跡とする伝承がある。


志野神社 那賀郡粉河町北志野557
 神功皇后の三韓征伐の行幸地の小竹の宮にも比定される。


隅田八幡神社 橋本市隅田
神功皇后が外征後、筑前国から紀伊の衣奈浦を経て大和の都に御還幸の途次、この地に滞留なさせ給いし旧蹟。


波寶神社 五條市(西吉野村) 夜中
 口碑によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、この山に休んでいると、白昼がにわかに暗闇になったので、ここの神に祈ったところ、再び日が照り、明るくなった。


 吉野郡の郷は平安時代の地名一覧の『和名抄』には、加美、那珂、資母、與之努と分かれています。『天河への招待』大山源吾著から
加美 カミ 高見、龍門、上市
那珂 ナカ 国樔から川上村
資母 シモ 大淀、下市、秋野
與之努 ヨシヌ 丹生、賀名生、黒滝

 大山源吾氏は小竹の宮(シノノミヤ)の小竹を與之努のシヌとし、夜のように暗くなったことが夜中の地名に残ったと云う。銀峯山の波寶神社こそ小竹の宮と云う主張である。
 同じ墓に入った天野祝を丹生津比売神社の祝とすれば、粉河の志野神社か波寶神社が似合う、御坊は遠い。

 なお、天野祝と小竹祝が同じ墓に入った程度で世の中が暗くなるだろうか、と云う事から大山源吾氏は銀峯山の天ツ神である朱の大神(天野祝)と国ツ神の神蔵大明神(磐裂姫、小竹祝)を併祀した不合理さからであるとされています。面白い見解だと思います。

[1789] Re[1788][1775][1773][1770][1769]: 「丹」と鉄は関係有りますか?  神奈備 2006/02/15(Wed) 19:40 [Reply]
> 丹は中央構造線沿いですが別の集団が関係していたと考えてよいのでしょうか。

 丹は中央構造線以外にも若狭や肥前辺りからも鉱床があったようです。
 「別の集団」とは出雲に関係していない集団と云う意味かと思いますが、中央構造線沿いには所謂丹生氏、秦氏などが関係していたものと考えています。

[1788] Re[1775][1773][1770][1769]: 「丹」と鉄は関係有りますか?  素人 2006/02/15(Wed) 02:26 [Reply]
>  印肉に使われる辰沙は、片手か両手一盛りで、約百万円と云います。空海が大陸から多くの経典を持ち帰ることができたのは、このおかげだとか。
>  そう云う意味では、素人 さんのおっしゃる通り、効率の良い交換価値だったようですね。ヒスイ、日清戦争の和議の際、清国からもらっていたようですね。

早速のご指導有難う御座いました。
交易品としての丹の価値は高かった事が解りました。ヒスイも有りますし交易での鋳鉄輸入の可能性が解りました。韓国の方の文書では交易品は倭には何も無いので生口で、その為に伽耶地方に倭人の痕跡が多いなどとあり疑問に思っていました。これは少し後の伽耶から鉄を輸入していた頃と思われますが。
追加での更なる疑問にご回答いただけないでしょうか。
前にご紹介したホームページでヒスイは非常に古いもので、出雲が関係していたように有りますが、丹は中央構造線沿いですが別の集団が関係していたと考えてよいのでしょうか。
青草ですがご指導ください。

[1787] Re[1783][1758]: 仁なる王  神奈備 2006/02/14(Tue) 19:51 [Reply]
> 建国記念日にもお仕事でした。生口はつらいヨ。
> 仏教もまた、ええなぁ。

まだまだ忙しそうですね。お呼びがかかるのは誠に結構、「おぅ」と答えるのが男の子。
 神社も呼んでいますよ。

 最近、黒岩重吾の『役小角仙道剣』なる小説を読みました。法相宗の唯識などが出てきて、いささかこちらの関係の勉強もしなくては・・など、殊勝に。

[1786] 紀ノ川(吉野川)の古代  5 神功皇后の足跡  神奈備 2006/02/14(Tue) 19:27 [Reply]
紀ノ川沿いには神功皇后の足跡の伝承が、『日本書紀』や「各神社由緒」などで語られています。

『日本書紀』には、仲哀天皇が南海道を巡幸されて、紀伊国の徳勒津宮(ところつのみや)に居られた。その時熊襲が背いた云々と知らせがはいり、ここから九州へ出発したとあります。新在家に得津(トクツ)という字があったようで、この付近と見られています。太田黒田遺跡の近くです。

 続いて、『日本書紀』の記事。 帰還後、皇后は紀伊国においでになって、太子(後の応神天)と日高でお会いになった。群臣とはかって忍熊王を攻めようとして、更に小竹宮に移られた。この時、ちょうど夜のような暗さになって、何日も経った。時の人は「常夜行く」といったそうだ。皇后は紀直の先祖、豊耳に問われて、「この変事は何のせいだろう」と。一人の翁が云うのに、「聞くところでは、阿豆那比の罪というそうです。」。「二人の祝者を一緒に葬ってあるからでしょう。」村人がいうのに、「小竹の祝と天野の祝は、仲の良い友人であって、小竹の祝が死ぬと、天野の祝は「仲の良い友人であった。どうして死後穴を同じくすることが避けられようか。」と屍のそばで死んだ。それで合葬したが、思うにこれだろうか。」と穴を開いて、棺を改めて別の所に埋めた。すると日の光が輝いて、昼と夜の区別が出来た。

「神社由緒」から

淡島神社 和歌山市加太116
 遠い昔、神功皇后が三韓出兵からお帰りの折、激しい嵐に出合い、神のお告げの通り船を進めて辿り着いたのが友ケ島であった。


射箭頭八幡神社
息長足姫尊が三韓より帰国され加太浦に御着船の際、御弓を携えかぶら矢を射られ紀水門飽浦の下地尾の崎に止まった。


木本八幡宮
神功皇后が三韓から凱旋された時、大臣武内宿禰が幼帝応神天皇をお守りして、この海口(日本書紀にいわゆる紀伊水門の地)に泊り、この地に上陸して頓宮(仮の宮)を造り、暫く留まられた。


安原八幡神社
神功皇后三韓より御凱旋の際、忍熊王の難をさけ、難波から紀水門(安原付近)に御到着、御子誉田別命(応神天皇)を武内宿称に護らせ、皇后みづからは更に日高郡衣奈まで迂回をして、再び安原の津田浦(小学校付近)に御上陸、頓宮を造られ御滞在なされた跡が当社である。

また、武内宿禰の誕生の地とか産湯の井戸などの跡も、和歌山市安原にあり、武内神社も鎮座しています。


[1785] あ閑話休題0214  恋川亭 2006/02/14(Tue) 00:10 [Reply]
 最近、眼がかなり霞んで見えにくくなってきました(涙も出ないドライアイ)。
小難しく、じれったい本をやめてマンガに走ってます。
 琉球松さん、『まんが首里城ものがたり(上下巻)』は僕のネタ本だったのに、正月に来た娘に持って行かれました。沖縄の歴史を一発でマスターできる名作なのに、数が少なく出まわっていないので残念。(モモトフミアガリのファンです)
 今は『イリヤッド』をまとめて買ってきました〜楽しくて、オリエント博物館に通った若き4年間を思いだしました。マンガ屋では諸星大二郎の新作も出ていた、久々!伝記屋としては、とても嬉しい!!
 しかし、なんですな。さすが世界に冠たる日本の文化。今までン十年、本屋の店員に依頼したことのない僕が・・・『ちょっとキミ、イリヤッドを探しておくれ』と頼みました。ご年配の方々、ぜひマンガ屋へ尋ねてみなはれ!あきれるやら感心するやら!!

[1784] Re[1782]: 河童の系統  恋川亭 2006/02/13(Mon) 23:41 [Reply]
> 河童の系統は一つではありません。複数の要素が、「怪」という坩堝の中で混ぜ合わさって各地に存在します。

『複数の要素が、「怪」という坩堝の中で混ぜ合わさって』・・・名表現!!

> 一つのものとして纏めて考えると、枝葉の部分で論旨が破綻します。たぶん。

伝承の「取扱方法」についての大切なアドバイスだと思います。活かして進めたいですね。

> その他、産鉄民などの一般には様子のわからない人々の容姿や印象が付加される場合もあります。

いろいろな本の中で、異端的・少数派的印象をまとって語られてきた人々。例えば、この「産鉄民など」と紹介される人々を僕なりに想像したとき、いつもイメージの隔たりが起きて困惑するのでした。それは・・・、
 ○ (カンナ流しなど)砂鉄の採集や金属精錬に従事する専門集団は、自ら食料を生産しないがために、農漁業者達との頻繁な交流がなければ生活が成り立たないのではないか?
 ○ 農民や漁民が集落外と取引を必要とする回数よりも、「産鉄民など」の方がはるかに交易を必要としていたのではないか?
・・・という素朴な大疑問です。日々の食べ物、買わなきゃならないでしょ、この人達。
それは「朱」を採集、精錬する人達も同様ですね。
でも、なぜかフォークロアでは、謎の神秘の集団的イメージをかぶせたがる(笑)。
農漁業も、鉱工業も、おたがい大変な長時間重労働なので、従事者が直接交易している時間はないですね。炭坑山への口入れ屋ではないけれど、農漁業者と鉱工業者との間に食物や生産材を流通させていた者達を考慮したいナ。
すると、「もののけ」的イメージを作りだした張本人は・・・?

[1783] Re[1758]: 仁なる王  恋川亭 2006/02/13(Mon) 23:01 [Reply]
建国記念日にもお仕事でした。生口はつらいヨ。

> 仁王門が南にある理由は、聖徳太子がまだ悟りをえていないので、極楽浄土ではなく、補陀落山へ通わなければならない。その為、異世界への通い道である仁王は浄土に面した西ではなく、補陀落山に面した南に立っているのです。

補陀落→ポータラカ(ポタラ)→蓬莱!
聖徳太子さまは、蓬莱の豚饅を求めに行かれたのか!四天王寺から難波551へは、南門よりも西門の方が向きが合っているのにナ〜?と悩んでいたら・・・「そりゃ、551の天王寺駅店に行きはったんやで。」とアドバイスが。なるほど南門やな、仁王さまは聖徳太子さまが豚饅買って帰るのを待ってはるんかいな!
「仁」は思いやりの心。仁王さまは門番ではなく。仏教に縁をつないだ人々を待ちきれず、山門まで迎えに出向いた仏様。『よう来なさったな、待ってたで。』『大変やったのに、頑張ったな。』坐せずにずっと立ち待ちで熱烈歓迎。強くて優しい純心が人々の参詣を見守っています。仏教もまた、ええなぁ。

[1782] 河童の系統  玄松子 2006/02/13(Mon) 20:27 [Reply]
話が地名から逸れていますが。

河童の系統は一つではありません。複数の要素が、「怪」という坩堝の中で混ぜ合わさって各地に存在します。

大きく、
亀甲羅を持つ系統(玄武の派生、水神)。
猿に似た容姿・赤毛(木や森の守護神)。
その他、産鉄民などの一般には様子のわからない人々の容姿や印象が付加される場合もあります。

一つのものとして纏めて考えると、枝葉の部分で論旨が破綻します。たぶん。

[1781] Re[1780][1779][1778][1777][1774][1772][1771]: 紀ノ川(吉野川)の古代  4 難読地名  琉球松 2006/02/13(Mon) 17:47 [Reply]
 鮫は「ワニ」とも言いますから、「ワニ氏」との関係はないでしょうかね?

[1780] Re[1779][1778][1777][1774][1772][1771]: 紀ノ川(吉野川)の古代  4 難読地名  琉球松 2006/02/13(Mon) 17:32 [Reply]
 徳之島では「ボージガミ( "兵主神" をあてる)」とも言いますよ。

 これらの妖怪が「 紀ノ川」周辺の地名とどう繋がるか楽しみですが、中国の「グァーパ」やインドの「クンピーラ」の原型が鮫である事からすると、銅鐸との関係性は捨てなくていいと思いますね。

[1779] Re[1778][1777][1774][1772][1771]: 紀ノ川(吉野川)の古代  4 難読地名  神奈備 2006/02/13(Mon) 16:17 [Reply]
玄松子さん、こんにちは。ご多忙の中、ありがとうございます。

琉球松さん、金久正さんが「ケンモン奄美大島」(『河童』小松和彦編 河で書房新社 に収録)では「ケ」は「怪」のこととしています


河童のことをヒョウスベとも云い、兵揃村に由縁するとか、兵主神の零落した姿とか云う。そう云えば、何となく蚩尤に似ている気がします。
蚩尤 ↓
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/anasi.htm

河童は全国的に人を見ると角力(相撲)を取りたがるようです。力自慢はまさに蚩尤。
山辺の道に少し外れて穴師坐兵主神社があり、その手前に相撲発祥の地とされている相撲神社が鎮座、兵主と河童との関連を語っているようです。

[1778] Re[1777][1774][1772][1771]: 紀ノ川(吉野川)の古代  4 難読地名  琉球松 2006/02/13(Mon) 13:38 [Reply]
 玄松子さん、久しぶりです。

 奄美大島の「ケンムン」や徳之島の「ケムン」は沖縄諸島の「キジムナー」とほとんど同じモノで、その語義は音韻的にみて「木のモノ」である事はほぼ間違いないと思います。
 ただ、意味的には玄松子さん指摘のとおり「モノノケ」ですね。
 これら琉球圏の妖怪は「日本本土の河童と系統を同じくするモノ」であるとする説もまた間違いないように思えます。

[1777] Re[1774][1772][1771]: 紀ノ川(吉野川)の古代  4 難読地名  玄松子 2006/02/13(Mon) 11:35 [Reply]
久しぶりに書き込み。

> 『日本書紀』(推古27年秋7月)
> 摂津国のある漁夫が、堀江に網をはっていた。何かの物が網にかかった。その形は赤子のようでもあり、魚でもなく人間でもなく、何とも名づけらればかった。

名づけられないものは、「モノ」と呼ばれます。モノノケもその一種。

ところで、奄美の河童に似た妖怪は、ケンムンと呼ばれています。
これは、「怪のもの」の訛りだという説があります。モノノケと同じことです。

で、ケンムンとカムロー。
奄美と沖縄の、河童に似たモノノケです。
カムローも「怪のもの」の変化とみる方が自然です。

  怪のもの−ケンムン−カムロー

[1776] Re[1774][1772][1771]: 紀ノ川(吉野川)の古代  4 難読地名  琉球松 2006/02/13(Mon) 11:18 [Reply]
 神奈備さん、どうもです。

 河童は、中国揚子江あたりの水神「グァーパ」が原型だと思いますし、「金比羅」の起源と考えられるインドガンギス川の水神「クンピーラ」と共に、水中や土中に埋葬?された銅鐸の思い出(怨念?)と集合していったとも考えられます。

 また、カムロによく似た沖縄の妖怪「キジムナー(木のモノ)」は、なぜか魚の "左目" が好物で、これは、「一つ目の鬼」に関わる金属神や銅鐸などと繋がるかもしれません。

[1775] Re[1773][1770][1769]: 「丹」と鉄は関係有りますか?  神奈備 2006/02/13(Mon) 10:23 [Reply]
 印肉に使われる辰沙は、片手か両手一盛りで、約百万円と云います。空海が大陸から多くの経典を持ち帰ることができたのは、このおかげだとか。
 そう云う意味では、素人 さんのおっしゃる通り、効率の良い交換価値だったようですね。ヒスイ、日清戦争の和議の際、清国からもらっていたようですね。

[1774] Re[1772][1771]: 紀ノ川(吉野川)の古代  4 難読地名  神奈備 2006/02/13(Mon) 10:07 [Reply]
琉球松さん、こんにちは。

> この妖怪を沖縄では「カムラーグァー」という所もあるようだ

 面白いお話、ありがとうございます。

『日本書紀』(推古27年秋7月)
摂津国のある漁夫が、堀江に網をはっていた。何かの物が網にかかった。その形は赤子のようでもあり、魚でもなく人間でもなく、何とも名づけらればかった。

 この記事が日本の河童の初出かも。名をつけることが出来ないと云うことはそれまで存在が確認されていないと云うことでしょう。
 上海蟹見たいなもので、渡来人が多くやって来た船の底にでもくっついてこの国にやって来たのかも。
 高野山付近の実力者は坂上氏でこれまた渡来系の人です。

> 銅鐸の「水の神」の部分

 ペギラさんによりますと堤防のような場所からの出土例があるそうです。 しかし、弥生前期の銅鐸と河童とを関連させるのは、いかがなものでしょうか。水神は多くの神々がその役割をを果たしていたのではないでしょうか。


[1773] Re[1770][1769]: 「丹」と鉄は関係有りますか?  素人 2006/02/13(Mon) 02:46 [Reply]
>  墓の中に入れられたようです。防腐剤ですから遺体の保存にきき、復活への呪術的な目的で使われたのでしょう。だから必死で探したのかも。

その通りと思いますが、当時後進国の日本で輸出できるものは1次産品ではと思ったからです。
遠いところですから、あまり嵩張らなくてお金になりそうなものと考えた次第です。
1世紀から3世紀で石器から鉄器に切り替わっていますので莫大な鋳鉄が輸入されており、代金は何で支払ったか興味を持っています。丹が載った資料もあることは有ります。
『魏志・倭人伝』に正始四年(神功四十三年)は西暦243年
「倭王、また使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青ケン、緜衣、帛布、丹、木 、短弓矢を上献す。」と有りますので丹も貴重な交易品ではないかと考えた次第です。
他に思いつきで縄文時代(5000年前)から流通していた硬玉(ヒスイ)など中国人は好きそうなので交易品になると思います。しかし奈良時代以降利用されなくなり、産地も忘れられていたようですが、石ですから鉄材を積んでくる船のバラスト代わりに積んで行き鉄材を積んでくるなど利用できたのではないかと考えています。
ヒスイ産地:糸魚川地域(青海・朝日・小谷・白馬を含む)が最大の産地とされています。
ヒスイ文化発祥の地 糸魚川_奴奈川姫伝説とヒスイのおはなし
http://www.pref.niigata.jp/chiikishinko/itoigawa/seibi/hime.html
富山県朝日町Web 約3,9トンのヒスイ
http://www.town.asahi.toyama.jp/site/hisui/matino.shtml
http://www.town.asahi.toyama.jp/site/hisui/index.shtml
相変わらず青草ですが、何かご存知でしたらご指導ください。

[1772] Re[1771]: 紀ノ川(吉野川)の古代  4 難読地名  琉球松 2006/02/12(Sun) 23:30 [Reply]
 学文路 元は禿(カムロ)。。。

 この辺りは河童さんがいっぱい居たんじゃないでしょうかね(笑)。
 「禿」は、ハゲ頭やオカッパ頭をも言うようですし、「コイノボリ」や「シャチホコ」と同じく銅鐸の「水の神」の部分が進化(あるいは零落)したモノではないでしょうか?

 『沖縄・奄美の説話と伝承/東喜望(おうふう社)1999 』より
*** この妖怪を沖縄では「カムラーグァー」という所もあるようだが、その語源は「カムロ(禿)」であろう。沖縄では一般にカムロを河童と意識したらしく、柳田国男に「琉球ニテハ河童ヲ『カムロー』ト云フ。水陸両棲ノ動物ニイテ形三、四歳ノ童子ノ如ク、面ハ虎ニ似テ鱗甲アリト云フ」との指摘がある ***

[1771] 紀ノ川(吉野川)の古代  4 難読地名  神奈備 2006/02/12(Sun) 09:55 [Reply]
 紀ノ川沿いの和語らしくない地名

 橋本市
 隅田 スダ 亦打山 夕越え行きて 廬前の 隅田河原に ひとりかも寝む 3−298 隅田八幡神社には最古の金石文とされる人物画像の銅鏡が保管されていた。「男弟王在意柴沙加宮時」の文言があり、允恭天皇か継体天皇との係わりが議論されています。
 学文路 元は禿 カムロ 天神さんを勧請すれば繁昌するかも。
 神野々 コノノ 阿知使主の子都如使主が住み、豊内丸、田村麻呂の祖となった。天野明神の最高の役人として、地域の実権を握り、寺院建立の実権をも握っていたと云う。高野山以前には神野野寺が栄えていた。
 河瀬 コウゼ
 向副 ムカソイ
 胡麻生 ゴモウ 住吉大社神代記に記されている丹生川上に天手力男意気続々流住吉大神を鎮めたとある社の後裔とされる相賀八幡神社が鎮座。

 大我野 オオガノ 大和には 聞こえも行くか 大我野の 竹葉刈り敷き 廬りせりとは 9−1677
 
 かつらぎ町
 兄井 アニイ 丹生酒殿神社の本殿後の鎌八幡宮の元社が鎮座。

 御所 ゴセ
 中飯降、西飯降 イブリ 御所市にもあった。樋野坂村と飯降村を合併させて、樋野村としたが、樋野を「イブリ」と読むことにした。('.';)
 笠田中、笠田東 カセダ
 佐野 サヤ 佐野廃寺 奈良時代に法起寺式。
 
 九度山町
 九度山 クドやま クドは竈のこと。
 丹生川、入郷 ニュウ

 高野口町
 名古曽 ナコソ 名古曽廃寺、奈良時代に法起寺式の伽藍。

 応其 オウゴ 16世紀の人、高野山中興の祖・応其(おうご)上人に由来すると云う。

 粉河町
 東毛 トウゲ 東家もある。 粉河寺の北

 那賀町
 麻生津中 オウツなか 九頭神社


 岩出町
 野上野 ノジョノ 丹波ではノコノ 根来寺の南
 波分 ハブ 根来寺の南西

[1770] Re[1769]: 「丹」と鉄は関係有りますか?  神奈備 2006/02/12(Sun) 09:53 [Reply]
 こんにちは。
 墓の中に入れられたようです。防腐剤ですから遺体の保存にきき、復活への呪術的な目的で使われたのでしょう。だから必死で探したのかも。

[1769] 「丹」と鉄は関係有りますか?  素人 2006/02/12(Sun) 02:59 [Reply]
>  丹生一族は当然のことですが、水銀鉱床の豊富な中央構造線を発見、豊後から四国に渡り、紀の国へやってきたのでしょう。

時々覗かせていただいておりました。
宍粟の山の中で迷ってしまいすみませんでした。古代史は鉄の争奪戦と考えて色々調べては居ます。
1世紀から3世紀ごろに、今の朝鮮にあった中国の楽浪郡から溶鉱炉で作った銑鉄を鋳造して表面を脱炭素した材料や加工品が輸入され日本国内に行き渡ったようです。輸入するためには輸出品がいると思うのですが、「丹」などは輸出品にはならないでしょうか。化粧用や塗装用でしたら必死に探査したりしないと思うのですが鉄の輸入となれば重要な産物となるように思うのですがいかがでしょうか。
こちらで「丹」が度々登場しますので、どうして「丹」が古代から重視されたのか考えたうえの思い付きです。青草ですがご指導ください。

[1768] 紀ノ川(吉野川)の古代  3 中央構造線U  神奈備 2006/02/11(Sat) 11:12 [Reply]
 筑紫からの移住と云うことでは、昨年逝去された丹生良広氏はその著書『丹生神社と丹生氏』で、丹生一族の第一歩は筑前の伊都の地とされています。この地は邪馬台国の伊都国ですがここには水銀鉱床は出ていません。紀の国の主な水銀産地は伊都郡内であり、筑紫伊都国から丹生一族と共に地名が運ばれたとの想定されています。

 丹生一族は当然のことですが、水銀鉱床の豊富な中央構造線を発見、豊後から四国に渡り、紀の国へやってきたのでしょう。

 神武東征譚に南紀に回って丹敷戸畔を討つ話が出てきます。この丹敷はニシキと読まれていますが、一部にはニフと読み、紀ノ川を遡ったのではと推測されています。『古事記』では、神武軍は先ず吉野川の河尻に着き、阿陀の鵜飼の祖に出会います。五條市であり、一応つじつまは合いそうです。

 紀の国魂である五十猛神は、やはり築後の荒穂神社の神奈備山である基山から植樹を始められたとの伝承があり、九州から紀の国へやって来たと考えられます。肥前国基肄郡となるのですが、この基肄の名も元々は基であり、これが紀氏の紀となり、地名が遷された可能性もあるのかも。

 逆に言えば、紀氏や丹生氏の紀の川沿いへの登場と言うことでしょう。

 丹生一族は伊都郡から更に大和へ入り、吉野、宇陀、伊勢と鉱床を求めて展開していったのでしょう。紀の国にも各地に散らばっています。「丹生」の名を持つ神社が多く残されています。

 鉄製の馬冑が、紀ノ川尻の大谷古墳から出土しています。また五條市の北部の猫塚古墳からは蒙古鉢形冑などの鉄製の武器が出土しており、神武軍なり紀氏なりの紀の川沿いでの移動の跡を偲ばせています。

[1767] Re[1766]: 今日は国栖奏  神奈備 2006/02/11(Sat) 09:02 [Reply]
> 祠、わかりましたでしょうか。素晴らしいフットワークですね。

フットワークはいいのですが、勘が悪く、かつ方向音痴なもんで・・
片埜神社の境外に鎮座の朝原神社と瘡神社は当然見つけたのですが、名残の祠は判りませんでした。丁度、元府営住宅の跡(近所のおばさん)を発掘調査しているようで、九頭廃寺の跡なのかなと見てきました。
朝原神社と瘡神社の写真は片埜神社に追加しておきました。

[1766] 今日は国栖奏  なむ [Url] 2006/02/11(Sat) 01:31 [Reply]
祠、わかりましたでしょうか。素晴らしいフットワークですね。

>データは神社本庁から2万円で

そうでしたね^^;お金が貯まるまでこちらを利用させていただきます。
ありがとうございました。

[1765] 紀ノ川(吉野川)の古代  2 中央構造線 T  神奈備 2006/02/10(Fri) 07:58 [Reply]
 根来寺が丁度中央構造線の真上に建っているそうです。紀ノ川の北側です。中央構造線は遥か東シナ海から信州経由関東に延びていますが、近畿では和歌山市から伊勢市につながっています。吉野山や吉野川の北に接する妹背の山麓に鎮座している大名持神社が畿内陸地の中央にあたります。和歌山市の日前国縣神宮、伊勢市の皇太神宮の中央に大名持神社が鎮座しているのも面白いことです。

 さて、紀ノ川下流域の南側は和歌山市の市街地ですが、名草平野と呼ばれており、古代各年代の遺跡が点在しています。JR和歌山駅の南側に太田黒田遺跡があり、銅鐸の欠片が出土、また祭祀跡と思われる場所も見つかっています。丹沙を幾層にも重ねて突き固めた場所があったのです。ここで祭祀を司っていたのは名草戸畔と呼ばれた女王だったのでしょう。この名は『紀』の神武東征譚に出てくる名で賊として誅(ころ)されているのです。
 
 『紀』の話は神話に近いのでしょうが、名草平野では、紀元3世紀の後半にこの太田黒田遺跡の住人の姿がぷっつり途絶えているのです。しかしながら名草郡全体の住人数は徐々に増えているそうです。洪水の跡もないようです。

 この時期は邪馬台国では台与の消息が途絶えた頃ですし、朝鮮半島からの移住者は「牛のよだれのごとく」と形容される大変動のあった時期にあたります。また大和では箸墓古墳が築かれます。『記紀』では三輪山の麓に展開した崇神天皇の頃に当たります。

 紀ノ川を遡って行くと、昔の郡の名で言いますと、海部郡、名草郡、那賀郡、伊都郡と続きます。それから大和国になり、宇智郡、吉野郡と続きます。海部郡は後に設けられたのです。名草の名は『神功皇后紀』に、磯鹿海人名草と言う人物の名に出てくるのですが、筑紫の安曇系の人がやって来ている郡なのかも知れません。
 次ぎに那賀郡があります。根来寺や粉河寺のある郡です。筑紫の川に那珂川と言うのがありました。更に伊都郡は『魏志倭人伝』にも登場する伊都国と同じ名です。筑紫辺りからの移住があったのかも知れません。

[1764] Re[1763]: ウロボロス  神奈備 2006/02/10(Fri) 07:57 [Reply]
> 玄松子さんのHPにはたびたびお伺いしていたのに、リンクまで見ていませんでした。これは助かります、早速DLしてみます。

 検索・表示ののソフトです。データは神社本庁から2万円で。

> となりの牧野には「葛上」の小字名があり(九頭神廃寺のあるところ)、そばに「クサガミさん」と呼ばれる瘡神社があります。また(廃)寺の名残といわれる「クズガミさん」の祠が遺跡から少し離れたところにあります。

 いい天気のようですので、見に行ってみます。

[1763] ウロボロス  なむ [Url] 2006/02/10(Fri) 01:22 [Reply]
丁寧に教えていただき、ありがとうございます!
Yahoo掲示板には書いたことがないと思うので別の方かもしれません。でも古代史関連のHPのボードやブログなどにたまに書くことがあるので、どこかでお目にふれていたのかもしれませんね、光栄です!

玄松子さんのHPにはたびたびお伺いしていたのに、リンクまで見ていませんでした。これは助かります、早速DLしてみます。

>継体天皇の出身地の九頭竜川の九頭を枚方に持ち込んだのも十分考えられますね。

そう力説なさる方もいらっしゃいます。ではなぜ福井の川が「クズリュウ」になったのかと考えるとすっきりしないのです。「暴れ川が九頭の竜に見えたから」という理由も見かけますが、音が先・漢字は後のはず。まして継体天皇の時代に漢字の意味を取り上げるのは無理。「くずるる(崩るる)川」が転じたという由来は信憑性がありそうです。が、それなら全国にもっと同じ名の川があってもよさそう。九頭竜川を考えていると越(古志)から来るヤマタノオロチまで含めて、さらに深みにはまってしまうのです。

>久須志神社については薬に関係するもので、クズとは違う可能性もあります。

そうなのですか。葛は薬にもなることや、酒の醸造技術をもっていることから薬・薬師とクズは繋がるのだと思っていました。

>神社の場合、祭神よりも神社名のほうが原形をとどめやすいのではないか

なるほど、確かに合祀を繰り返していると「原形」というのは祭神からは見え辛いかもしれません。

「クズを祀る神社」に
>若狭 遠敷 久須夜神社「大己貴命」小浜市堅海
     己乃須美神社 九頭龍権現と言う

とありますね。遠敷といえば東大寺のお水取の源ですね。

とりとめのない内容ですみません。

[1762] Re[1761]: 「クズを祀る神社」について  神奈備 2006/02/09(Thu) 08:44 [Reply]
> 初めまして。古代史、郷土史の調べ物の際にはいつも大変お世話になっています。
なむさんのお名前は、YAHOO掲示板で拝見した記憶があります。前々からご関心をもたれておられたようですね。継体天皇の出身地の九頭竜川の九頭を枚方に持ち込んだのも十分考えられますね。

> CDはどうすれば手に入るでしょうか
神社本庁に申し込みますと¥20,000円で入手できます。これは今は懐かしいNECのMS-DOS上しか動きません。しかし、玄松子さんのリンク集から『平成祭データCD検索プログラム WINDOWS版 』を無料で(感謝)ダウンロ−ドできます。
http://www.genbu.net

> CDに掲載されているのでしょうか
地域別に神社名、祭神、由緒(未記入社も多い)、祭礼日、内容などがデータとしてあるだけです。従ってそれぞれで検索できます。

> 東北のクスシ神社
久須志神社については薬に関係するもので、クズとは違う可能性もあります。大和吉野に久須斯神社がありますが、地域としましては中部地方にも見当たらず、孤立していたことでクズの仲間と見なしました。
 この神社をクズの仲間とした関係で、東北のクスシ神社も採録しておきました。

> 逆に「この二神がセットで祀られている」ことをもって「クズを祀っている」ことにはならないのでしょうか

 大己貴命、少名彦神の神々はクズの民に奉斎されていたのかも知れませんので、そのような考え方もありうるでしょうが、神社の場合、祭神よりも神社名のほうが原形をとどめやすいのではないかと考え、有名な二神の場合などには気をつけないと混乱を大きくするかも。

[1761] 「クズを祀る神社」について  なむ 2006/02/09(Thu) 01:31 [Reply]
初めまして。古代史、郷土史の調べ物の際にはいつも大変お世話になっています。
大阪府枚方市「くずは」の地名が国栖と関係はないのだろうか、と調べています。
記紀の「糞袴」は施政者の意図が濃く反映された話のように思えます。
となりの牧野には「葛上」の小字名があり(九頭神廃寺のあるところ)、そばに「クサガミさん」と呼ばれる瘡神社があります。また(廃)寺の名残といわれる「クズガミさん」の祠が遺跡から少し離れたところにあります。
何か繋がりがあるように思えるのです。

そこでいくつか教えていただきたいのですが・・・・
こちらの「クズの神を祀る神社」は「神社本庁 平成祭りデータCD」を参考になさったとのことですが、CDはどうすれば手に入るでしょうか。どこか(図書館など)で見ることができるのでしょうか。
また「クズの神を祀る神社」という括りでCDに掲載されているのでしょうか、それとも神奈備さまが何らかの基準でピックアップなさったのでしょうか。
東北のクスシ神社では「大己貴命、少名彦神」がセットで祀られているところが多いようですが、逆に「この二神がセットで祀られている」ことをもって「クズを祀っている」ことにはならないのでしょうか
(クスシ神社以外でもこの二神を祀っている神社はたくさんあるようです)。

教えていただけると嬉しいです、よろしくお願いいたします。

[1760] 紀ノ川(吉野川)の古代  1 九頭  神奈備 2006/02/08(Wed) 18:09 [Reply]
 国栖奏は宮中に奉納されていました。吉野に隠れた大海人皇子(天武天皇)に当地の民人が支援を行った縁があったからでしょう。
 神話的には応神天皇が吉野の宮(宮滝)に来られたとき、国栖の人びとが来て一夜酒をつくり、歌舞を見せたのが、今に伝わる国栖奏の初まりとされています。
 さらに古くは神武天皇が熊野から吉野へ入った際現れた国津神である贅持の子(阿陀の鵜飼の祖)、井氷鹿(吉野首の祖)、石押分の子(吉野国巣の祖)が現れて迎えています。
 国巣は国栖、葛、九頭、屑、国津、国主などの書き方があります。縄文的雰囲気の山と川を生活基盤とする民人なのでしょう。

 さて、彼らはどのようにして、吉野の山中にやって来たのか?
 吉野川の下流に阿陀の鵜飼、かれらは隼人で、南九州からやって来たのです。紀ノ川から上って来たのでしょう。和歌山ではすこし南の有田川には鵜飼があります。
 
 国巣の民はそのルーツは判りませんが、クズの神を祀る九頭明神が紀ノ川沿いに点々とあるのです。

 紀ノ川の南側
 海南市多田 国主神社
 和歌山市内 刺田比古神社(式内社) 九頭明神とも呼ばれた。
 和歌山市内 志摩神社(式内社) 九頭明神とも呼ばれた。
 和歌山市内 朝椋神社(式内社) 九頭明神とも呼ばれた。
 紀の川市貴志川町 国主神社
 紀ノ川市粉河町 九頭神社
 紀ノ川市粉河町 九頭東屋神社
 紀ノ川市那賀町 九頭神社
 
 吉野川の北側
 吉野郡大淀町鉾立 葛神社
 吉野郡大淀町岩壺 葛上神社
 吉野町千股 葛上白石神社
 吉野町志賀 久斯神社
 吉野町入野 上宮神社・國樔神社
 吉野町南大野 國樔八坂神社
 吉野町窪垣内 御靈神社
 下市町阿知賀 國栖神社
 宇陀や天理市などの続いています。

 縄文時代の民の流れをくんでいるとしますと、人口分布から見ますと、北から東から大和や紀の国にやって来たのかも知れません。いずれにしても、川の浅瀬などを通って人々は移動したのでしょう。


[1758] Re[1757][1756][1755][1754]: 青草賛歌(参加)  神奈備 2006/02/06(Mon) 09:31 [Reply]
> ?その3:仁王門がなくなり、代りに鳥居があるのならば、仁王門→鳥居と変化した気もしますが、南側に移ってしまってはルーツになりにくい気も(また)しちゃったりして?

引用を省略しましたので若干追加しておきます。
仁王門が南にある理由は、聖徳太子がまだ悟りをえていないので、極楽浄土ではなく、補陀落山へ通わなければならない。その為、異世界への通い道である仁王は浄土に面した西ではなく、補陀落山に面した南に立っているのです。

ということで、判ったような判らないようなお話。

♪通りゃんせ通りゃんせ♪
向かい合った子供が手を出し合って鳥居をつくるのです。何故なら、天神様への細道だから。これ仁王も同じ。


[1757] Re[1756][1755][1754]: 青草賛歌(参加)  琉球松 2006/02/06(Mon) 00:43 [Reply]
 恋川亭さん、サイコ〜!!
 しかし、この鳥居って〜のはさっぱりわかりませんね。
 難シ〜サ〜(笑)。

[1756] Re[1755][1754]: 青草賛歌(参加)  恋川亭 2006/02/05(Sun) 23:03 [Reply]
 ほんとは、早く幕末近代の歴史に行きたいのですけど、まだ縄文弥生でウロウロしてます。聖徳太子まで戻れるかな?(笑)

> 13世紀の真言宗の覚什(かくじゅう)は書いたとされる『太子傳記』と言う文献

 青草板なので一人称は「私」をやめて、これから「僕」に切り替えますね。青々とした少年の心でぇ〜(考古学の某大家も一般向け著作は「僕」だもんね)。
 僕の感覚では、13世紀の人が6世紀末〜7世紀初の聖徳太子伝記を著わすことは・・・13−7=6・・・つまり当時から600年前の人の伝記を書いたンだな、と読みます。それで、無茶な対比だとは思いつつ、今21世紀から600年前だと、西暦で1500年頃・・・室町幕府後半のドタバタの頃、戦国時代のちょっと前あたりを想像する年代差になるのかー!イメージに自信無いなー?などと茫漠感に溺れるのです。それなのに伝記が書けるのは、ネタを一杯集めることができたんだナ、太子の口伝はたくさんあるもんナー、と感心するのです。
 応仁の乱を「このあいだのイクサ」と表現する京都人も手ごわいけど、「ウチの庭先で聖徳太子さん、当時はウマヤドノミコさんでっか、休憩されていかれたと聞いてます。ほんでウチの者がお水を献上しまして、ホレそこに、その井戸がまだ涸れんと湧いてます。」と淡々と語る奈良人もいて・・・おそろしや。畿内の者、なめてかかれまへんで、しかし。(笑)
 さて、天王寺の七不思議の六番目・・・

> 石の鳥居は西の門であり、極楽浄土の東門の中心にあたるため、本来仁王門は西門に立たれるべきなのですが、、天王寺では南門に立たれていること。

?その1:「西方極楽浄土」の観念が、すでに天王寺再建に関わった人達にあったのか?
?その2:『真言宗』の覚什が、「西方極楽浄土」の理由付けに納得していたのか?

それから、少し僕なりに確認しますと、
『西門というのは、天王寺では西の門であるが、西方にある極楽浄土からみれば東の門である。だからこそ、極楽浄土へ通じる門として仁王さまが立たれるのが本来の姿』。しかし、それなのに『天王寺の仁王門は南にあり、西には石の鳥居がある』。これは、まさしく『鳥居のルーツは仁王門である』と覚什坊さんは示唆している・・・、
と受けとってよいのでしょうか?

?その3:仁王門がなくなり、代りに鳥居があるのならば、仁王門→鳥居と変化した気もしますが、南側に移ってしまってはルーツになりにくい気も(また)しちゃったりして?
?その4:天王寺って国内では、かなり初期の寺院と思っていたのですが、『本来』というところの本来とは、中国での様式のこと?それとも、西域?インド?
?その5:仁王の阿吽(あうん、オーム、α−ω)、西門というのは西方極楽浄土よりもオリエントに意味を持たせたいナ。神社の狛犬こそは、インド−ペルシャ−バビロニア−エジプトと連なる守護獅子の系統(とシーサーが言っていた)。汎世界的な文化のひとつですね。

鳥居も、何々のルーツというより、オリエントやインドなどの石の文明内にあるアーチ門と同様に、木の文明内でのアーチ門のひとつと見れないかナぁ???

> 仁王門には当然仁王さんが両側に立って、寺院を守るというのか、邪悪なものの侵入を防いでいるのですが、神社ではそのかわりに鳥居が建つと言うことでしょう。

厳粛な神社では、鳥居のところに『お守りさん』が勤めていらっしゃって、生身を持たない者は、足止めされるとかナントカ。だから生身を持つ者が、ちゃんと口上を述べて、一緒に参拝させて頂くようお願いせないかんトカナントカ。・・・どこで読んだか聞いたか忘れました。
久々に長くなってしまいました。また次の休日に <(__)>

[1755] Re[1754]: 青草賛歌(参加)  神奈備 2006/02/05(Sun) 10:12 [Reply]
恋川亭さん、ご無沙汰です。11月は弓月君や秦氏の頃でしたね。

 13世紀の真言宗の覚什(かくじゅう)は書いたとされる『太子傳記』と言う文献があるそうだ。これは『小説聖徳太子』(山上智著 徳間書店)からの引用ですから、虚構かも知れません。念為。

 この中に、太子は摂津国難波の港、玉造の岸から南に三十余町のところにあった天王寺を壊して、荒陵の東に新たに建立しなおしたとあります。つづいて天王寺の七不思議をリストアップしています。
 その六番目
 石の鳥居は西の門であり、極楽浄土の東門の中心にあたるため、本来仁王門は西門に立たれるべきなのですが、、天王寺では南門に立たれていること。
 この謎から、「本来は仁王門は西門に建つのだが、天王寺では南に建っている」そのかわりに西門に鳥居が建っているということです。すなわち、鳥居のルーツは仁王門であると言うことを示唆しています。
 仁王門には当然仁王さんが両側に立って、寺院を守るというのか、邪悪なものの侵入を防いでいるのですが、神社ではそのかわりに鳥居が建つと言うことでしょう。

[1754] 青草賛歌(参加)  恋川亭 2006/02/05(Sun) 01:51 [Reply]
 突然の割り込みですが・・・、昨年の11月に『今度の土日に(投稿)』と書き込んだまま、長くご無沙汰いたしまして失礼しました。<(__)>
 急遽の多忙と、そのツケによる寝込みで参加できませんでした。まずは、不義理のお詫びです。

 当、青草掲示板の主旨は、この板頭に掲げられています。
『多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。復草木咸によく言語有り。素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!』

 青草、青人草。大勢の一般庶民のことですね。権威でも大家・名家でもありませんが、踏まれても引っこ抜かれても、根強く粘り強く、盛り返して増えていく「無名で平気」の民草。歴代の天皇が「うつくしき青草」と愛した国の宝。

そんな青草たちが語りあうこと。素人・門外漢だからこそ見えること、思うこと。何よりも「実生活」で培ってきた数々の視点があります。当板は、「青臭い(未熟)説」とは自認すれども、卑下や遠慮をせずに主張できる掲示板だと思います。

また、主張を本当に伝えるには「説明」と「対話」が不可欠ですが、掲示板はそれが可能なものです。なかなか時間が取れずに間が空いてしまいますが、長い目で眺めあうお付き合いをお願いしたいところです。

不肖ながら私も一青草として・・・、今年も、面白いことは「面白い!」と、素晴らしいことは「素晴らしい!」と、おかしいことは「オカシイ?」と投稿させて頂きたく思います。再起しますので、これからも、よろしくお願いいたします。m(__)m

[1753] Re[1752][1743]: 一度参詣したい水尾神社  神奈備 2006/02/04(Sat) 16:35 [Reply]
> ホツマツタエが納められていたのは、こっちの三尾神社ではないでしょうか?
> ↓
> http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/mio.html

ありがとうございます。
 ホツマの三尾神社は田中神社の摂社の安田神社になっているそうです。
白水社『日本の神々』には、水尾神社の由来や伝承はにはホツマを参照したと思われる『三尾大明神本土記』によって流布したと言うことのようです。

 『猿田彦と秦市の謎』では、水尾神社が独自に保持し、伝えてきたホツマとの表現があり、どうやら著者の勘違いのよううですね。

 磐座 ↓
http://www.town.yasutomi.hyogo.jp/shikatsubo/nature/index.html

さて、勘違いの著者が書いているサルタヒコの「われが死ねば銅鐸がなりひびくであろう」のセリフもデッチアゲかも知れませんね。

宮司さんがおられると思われる日に参詣してみよう。

[1752] Re[1743]: 一度参詣したい水尾神社  MURY [Url] 2006/02/04(Sat) 15:37 [Reply]
> さて、高島の鴨川の南側に鎮座の水尾神社は継体天皇の御母君振姫命を祀ると言われていますが、元々は猿田彦神と天鈿女命が祀られていたとの見方があります。ご承知のことですが、この神社に「ホツマツタエ」なる古伝が伝わって来ています。

ホツマツタエが納められていたのは、こっちの三尾神社ではないでしょうか?

http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/mio.html

それよりも水尾神社に磐座があるなんて知りませんでした。行っとけばよかった・・・。

[1751] 無題  琉球松 2006/02/03(Fri) 22:38 [Reply]
 神奈備さん、ありがとうございます。

 邪馬台国の領土?は福島の会津あたりから沖縄諸島までではと考えています。
 人それぞれの歴史観。。。ある程度の脈絡があればどんどん出していいと思いますね。

[1750] Re[1748]: クナ国(臣)の巻き返し  神奈備 2006/02/03(Fri) 20:37 [Reply]
> 銅鐸が消えたのは邪馬台国側の勝利の結果なんでしょうね。

 邪馬台国のことを記した魏志倭人伝には銅鐸祭祀の記事はありません。そういう意味では「銅鐸が消えたのは邪馬台国側の勝利」と言えるのかも知れません。邪馬台国は九州だけではなく、西日本を相当の範囲で支配していたのかも。

> 沖縄からはそう見えるわけなんです。

 人それぞれの歴史観でしょう。

[1749] 訂正  琉球松 2006/02/03(Fri) 13:28 [Reply]
 「弥生時代中期」は「古墳時代中期」に訂正します。

[1748] クナ国(臣)の巻き返し  琉球松 2006/02/03(Fri) 13:07 [Reply]
 神奈備さんへ

 「われが死ねば銅鐸がなりひびくであろう」。。。との表現は、眠っていた「荒ぶる神(出雲右派?)」の復活であり、邪馬台国(出雲左派?)の敗北宣言に聞こえます。
 邪馬台国の闘争方針は、変質した銅鐸信仰の "荒ぶる" 部分を排除して、元の豊穣の神(水の神・土の神・火の神)に再生しようというものではなかったでしょうか。
 それは、銅鐸を原料化して銅鏡信仰(誰も所有できない太陽という意味で)に精製し直す事のように思えますし、銅鐸が消えたのは邪馬台国側の勝利の結果なんでしょうね。
 ですから、水尾神社が銅鐸への鎮魂施設であった可能性は大いにありますし「猿田彦・天鈿女命」もまた「大国主命」などと同じように "左派" の出身であると思いますがどうでしょうか?
 
 崇神に始まるイリ王朝は「銅鏡・前方後円墳」など邪馬台国の祭祀システムを引き継いると思いますが、かつての「卑弥呼・男弟」の関係を逆転し、男性主導の体制に変えてしまったはずです。
 また、"火" から生まれた垂仁の子「ホムチワケ」は、乱暴者「スサノオ」が帰ってきたって感じですし、「倭建命」もまたイリ王朝時代の暴れん坊ですね(笑)。
 ただ、銅鐸そのものが再び祭具に返り咲いたというような証拠はなかなか見当たりません。
 それから、銅鐸の埋葬や破壊が邪馬台国の勝利を語っている?のと似た現象が弥生時代中期に起きていますね。
 これは、多くの方々が装飾品程度とされている「鍬型石(沖縄諸島産ゴホウラ貝輪を模したもの)・車輪石(奄美沖縄諸島産オオツタノハ貝輪を模したもの)・石釧(トカラ列島〜沖縄諸島産イモ貝製貝輪を模したもの)・巴形銅器(琉球列島産スイジ貝製貝輪を模したもの?)」がこつ然と姿を消すってやつで、巻貝(女性のホト)の権威が崇神によって没落していったと考えたいのですが。。。

 う〜ん、なかなかうまく答えきれないのですが、沖縄からはそう見えるわけなんです。
 琉球圏に今も根強い「オナリ神信仰(姉妹は兄弟の危機を霊的に守護し、兄弟は物質的に姉妹を助ける)」は、邪馬台国の宗教システムだっただろうし、内乱の沈静化を女性の霊力に頼った琉球王国の伝統でもあるわけですね。
 ですから、天皇制に批判的な方でさえ「天皇は男性である」と言う現在の日本の初代天皇は崇神であるとしていいと思いますが、沖縄からすれば「大君は女性でなければならない!」んです。

[1747] Re[1746]: クナ国の復活  神奈備 2006/02/02(Thu) 17:42 [Reply]
琉球松さん、こんにちは。

> 猿田彦が「われが死ねば銅鐸がなりひびくであろう」。。。

猿田彦の鎮魂ではなく、銅鐸祭祀氏族の圧迫者で邪馬台国の代表とのお考えですね。

> 崇神天皇の登場は・・クナ国の復活
崇神時代の記紀の記事にも銅鐸らしいものは登場していないようです。崇神さんこそ邪馬台国の後裔の王では。

崇神さんをどうとらえておられるのでしょうか?

[1746] クナ国の復活  琉球松 2006/02/02(Thu) 09:45 [Reply]
 神奈備さんへ

 猿田彦が「われが死ねば銅鐸がなりひびくであろう」。。。これは興味深いですね。
 僕の想像では、丁寧に埋葬?された銅鐸思想が、邪馬台国の崩壊によって復活するとの表現に思えます。
 近江などは、旧出雲圏強硬派(クナ国?)の拠点になっていたのではないでしょうか?
 彼ら強硬派にとっての「大国主命」は、邪馬台国側に国譲り(転向?)した裏切り者であり、崇神天皇の登場は、猿田彦、アマテラス、神武などと敵対していたクナ国の復活のように見えますがどうでしょうか?

[1745] Re[1744][1743]: 一度参詣したい水尾神社  神奈備 2006/02/01(Wed) 18:30 [Reply]
> こんにちは。
ペギラさん こんばんは。

 天理市檪本町から銅鐸が出土したと伝わっているそうです。また近くには
和爾坐赤阪比古神社(論社)が鎮座しています。和爾も鴨の祖にあたります。
『猿田彦と秦氏の謎』によりますと、「弓削道鏡の頃に大加茂臣赤坂彦さんが子孫に「ホツマ」を渡して、近江に逃がしたとあります。」このことと銅鐸とは関係はないでしょうが、加茂と銅鐸とのつながりの一助になるのかも。
 近江の志賀町は高島の南に接する町ですが、小野神社があり、小野族の拠点です。猿田彦と天鈿女命を祖先とする猿女君と小野族とは結合したようです。小野族は鍛冶氏族といわれます。神社の近くにタタラ谷や金糞の小字が残っているとか。確かに鉄までには近づいた感じですね。

http://homepage1.nifty.com/moritaya/oumi.html
を拝読いたしました。

> 拝戸の山が超怪しい。。
ここから出土した場合、水への祭祀となるのか、地形を見てみたいものです。雨乞いでは、祠を山上から池に投げ落とす祭りが奈良県の高取町丹生谷に残っていました。
http://kamnavi.jp/ny/takatori.htm

[1744] Re[1743]: 一度参詣したい水尾神社  ペギラ 2006/02/01(Wed) 16:48 [Reply]
こんにちは。

饗庭野あたり変に匂う!(笑)
鉄のあることは間違いないが、
http://www.shiga-bunkazai.jp/retro/2002/pdf/retro15.pdf

水尾神社!私も行きたい!!
磐座もあり、鴨もあり。船木あり、太田あり。
拝戸の山が超怪しい。。

怪しい怪しい ブツブツ佛。

[1743] 一度参詣したい水尾神社  神奈備 2006/02/01(Wed) 11:51 [Reply]
 琵琶湖の西岸の北部、高島市あたりからは未だ銅鐸が出土していないようです。(ぺぎらさんのHP)高島には船木、太田と興味深い地名が並んでいます。
 さて、高島の鴨川の南側に鎮座の水尾神社は継体天皇の御母君振姫命を祀ると言われていますが、元々は猿田彦神と天鈿女命が祀られていたとの見方があります。ご承知のことですが、この神社に「ホツマツタエ」なる古伝が伝わって来ています。
 ホツマではないのですが、水尾神社につたわる神社縁起書に、猿田彦が「われが死ねば銅鐸がなりひびくであろう」との遺言をしたとあります。(『猿田彦と秦氏の謎』清川理一郎著(採流社)から。)

 上記遺言の真否は判りませんが、猿田彦神は古い神のようで、本邦の地主神であり、形としては銅鐸、銅鐸祭祀の頃に信仰されていたのかも。



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