青草掲示板ログ平十八年 七月 2006.7
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草掲示板

[2349] Re[2348][2335]: 天道根とか紀豊耳はどこから  神奈備 2006/07/30(Sun) 17:01 [Reply]
> 隅田八幡宮 蔵 
> 国宝
> 人物画像鏡
>   金石文

 この鏡の銘文の読み方はいくつかあるようですが、『大王のひつぎ海をゆく』読売西部本社 の中の、山尾幸久氏の「大王のひつぎ時代のヤマト王権」にその一つが紹介されています。

癸未の年(503年)八月 曰十(をし)大王の年、孚第王(フト王=彦太尊=継体天皇)意紫沙加(押坂)の宮に在す時、斯麻(百済斯麻王、長く奉えんと念い、■中費直・穢人の今州利、二人の尊(重臣)を遣わして白(もう)す所なり。銅二百旱を上(すす)め此の鏡を■(作る)所なり。

顕宗天皇の頃、即位以前の継体天皇は大和の押坂の地に迎えられていたそうな。ここは近江息長氏のゆかりの地。

ここからは青草話ですが、倭国の継体・欽明時代、百済の武寧王・聖明王の時代は両国間で、最も緊密な時代だったそうです。継体天皇も武寧王も血統上での正統な後継者だったかどうか疑問、武寧王の墓に倭国産と思われる高野槙の棺が遣われていることなど、その親密さはブッシュ・小泉以上のものがあります。

ひょっとしたら兄弟ではないだろうか、実質倭国の領土であった大加羅王の支配する倭国への航路に当たる地域を百済に与えているのです。鉄資源が必要な倭国の生命線でもある重要な港を百済に与えているのです。これが大加羅をして新羅に向かせ、最後は百済もほろび、倭国は半島での利権を失うことになります。

継体天皇が百済とやりとりを行っている間、また筑紫君磐井の反乱にさいしても紀氏の名は全く出てきません。一体何をしていたのでしょうか。安閑天皇の頃、フセ屯倉、河辺屯倉が置かれています。ジワーと紀氏に圧力をかけているような位置です。


[2348] Re[2335]: 天道根とか紀豊耳はどこから            MADOKA 2006/07/30(Sun) 05:58 [Reply]
隅田八幡宮 蔵 
国宝
人物画像鏡
  金石文

の埋蔵場所の 一説に陵山古墳

隅田八幡宮 神功皇后伝説
人物画像鏡は祇園祭りの占出山の飾り模様に。。神体 神功皇后

これ結構 うれしいわ!!
森氏の発言にもキットこのあたりのことはでてますね!?

わくわく神奈備さんの『天道根とか紀豊耳はどこから来たのか?』
語りに期待!

[2347] Re[2335]: 天道根とか紀豊耳はどこから来たのか?            MADOKA 2006/07/30(Sun) 04:33 [Reply]
神奈備さんへ
>  中公文庫の『日本の渡来文化』の中の考古学者の森氏の発言から>

興味ぶかく読みました
直接関係はないのですが。。。。。

橋本駅前の 古佐田丘(丸山?)
私の先祖の墓地があるところで、橋本市指定第一号の陵山古墳があるところですが、あのあたり(紀の川沿い)でひときわめだつぽっコリとした丘なんで古代海洋民にとって絶好のポイントでは?とふとおもい、初めて丘の上周辺を歩いて見ました。ビックリしたわ!かなり建物が建てこんで視界が悪くなっていますが、あの場所は間違いなく紀の川流域360度全方位見渡せる場所ですわ!!橋本高校の屋上が一番いいんだろうなあ。。ちょうど裏に弁天宗の建物があってこの本殿回廊がグルりだいたい見える(おしむらくは。4.5階だてなら完ぺきに見えるんですが。。。)あの場所に古墳があるのは頷ける。やはり海洋民系の古墳らしい。橋本氏郷土資料館に発掘資料はある。紀の川流域を抑えるのにあの場所は外せない場所だとおもいましたね。橋本ていうのはこのあいだの松原右樹説の辻(クロス)に神は宿るを適用すると橋と川で辻。橋は近世ですが古代でもかなり紀の川流域で最重要な場所では?

紀の川流域の海洋民の話が出たので イッチョカミ!

私ノ情報ヨリ。もっと神奈備さんの元ネタの件の話が聞きたいんですが
\(*0*)/ お願いします!


[2346] nick様  Y・O 2006/07/29(Sat) 18:54 [Reply]
以前(3年程前ですか)、私の祖先探しに関して
神奈備様にも御迷惑をお掛けしたんですが(天児屋根命は無理があります)。

聖徳太子の時代に伊勢地方に大鹿首という地方豪族がいたとか。
そして、かなり調べたんですが歴史上には
平安時代初期まで記録が残っているそうです。

新撰姓氏録(815年編纂だったと思います)の「京都右京」に記載。
これがどうやら最後みたいなんです。

日本の歴史は、どうも藤原不比等が総責任者となって
藤原氏中心の歴史になっているのではないか。。。
その中で、抹殺された氏族も多数にのぼるのではないかと考えています。

私の祖先は、菩提寺住職(香川県)の返答によりますと600年程まで遡れるらしい。

大鹿首が本州から四国に渡った形跡を捜し求めたんですが。。。
そこでぶち当たったのが、中央構造線(鉱物資源とは別でしょうか?)でした。

弘法大師(讃岐出身)が世に登場したのと、大鹿首(京都から行方不明)が
歴史から姿を消す時期がほぼ一致すのではないか。
弘法大師も水銀だか、鉱山だかの有りかを知っていたらしいとの記述もあります。
大鹿首が伊勢から紀伊半島、更には四国に至る「ライン」を把握していたら。。。

何の脈絡も無く、全くの想像ですが、弘法大師が大人物となって
故郷に凱旋(例えば満濃池補修の大工事)したとき、
大鹿首一族もボディガードのように「お供」していたのではないか。
そして四国に住みついた。。。

こんな何の根拠も無い夢とロマンを膨らませております。
私的な文章で失礼致しました。

[2345] Re[2341]: 和亜布さん、有難うございます。  nick [Url] 2006/07/29(Sat) 16:38 [Reply]
Y.Oさんは讃岐ですか。

> 弘法大師・密教と鉱物資源についてですが、
>
> http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/
> http://www.geocities.jp/tyuou59/index2.html

ご紹介ありがとうございます。

若い頃、石鎚山に四季を通して登りました。
当初、成就社 って面白い名前だな位で
小さな鎖場が多数あって、、何の山だろうと。。

また、夏場、休みが取れなくて前線が来ると云うのに
剣山へ出かけました。
仕事が終わってからバスで出かけたので、登山口では
豪雨も然ることながらたっぷりとばりも落ちて
途中まで登りましたがヘトヘトで適当な場所を見つけテントを張りました。

台風並みの強風で飛ばされそうでした。
ちょっとウトウトしていたら
白い影が浮かび何やら手招きを。。。
恐る恐る覗いたら、、
立派な白髭をたくわえた修験者の方が
この風ではたいへんだろうから私の祠へと。
伺うとどうも修行の洞窟らしい。
ま、風は強いが何とかなりそうなので
丁重にお断りをした。

翌朝は快晴となった。
昨日の修験者の方に伺ったら、何度も心配してお見えに
なったとのこと。

かなり後になって
石鎚山や剣岳が「弘法大師」修験の場であったことを
知りました。
歴史には興味はありましたが、まさか「弘法大師」の故郷
だったとは。。
当時、面河渓谷に縄文遺跡が発見されたとかで出かけた記憶が
あります。

また、善通寺辺りの田んぼの中に「手打ちうどん」の店が
あってよく通いました。
一玉5円の頃です。500円もあれば満腹でした。

四国は懐かしい場所です。
一段落したら、ぜひ四国遍路をと念じています。

[2343] Re[2342][2339]: 行者山(宝塚)      神奈備 2006/07/29(Sat) 12:27 [Reply]
> >「役小角の開山と解釈しても良いのでしょうか?
> だったら嬉しいのですが。」
>  
> 「嬉しいのですが」(役小角の開山と解釈)→「喜んでください。(^.^) 」・・・
> では、マズかったのですね・・・すみませんでした、早とちりですね?

何がどうマズかったのですか。
何をどう早とちりされたのですか?

まったく理解できません。ここは貴殿の落書き帳ではありません。

>  せっかくですので書き込みます。

再度申し上げます。ここは貴殿のメモ用紙ではありません。

[2342] Re[2339]: 行者山(宝塚)      和亜布 2006/07/29(Sat) 11:38 [Reply]
>「役小角の開山と解釈しても良いのでしょうか?
だったら嬉しいのですが。」
 
「嬉しいのですが」(役小角の開山と解釈)→「喜んでください。(^.^) 」・・・
では、マズかったのですね・・・すみませんでした、早とちりですね?

 せっかくですので書き込みます。 
『夏越』からの妄想。
ネゴシエーション(商談・交渉)が・・・・(ユダヤ商人・ 「越境」 を妄想) 
「西王母が、東王父あるいは地上の王者と『交渉』や交流をするという伝説が、中国にはずっと流れていた・・・・」を検索から。

「西王母と一対とされる東王父は、天の西王母に対するに地の王者の力のシンボルとしての意味をもっていた。そうだとすれば牽牛は、実は『禹や武帝』でもあったのである。」
「水無月祓: 室の津(兵庫)の遊女が誓いを交わした男と『夏越祓の祭』で再会する。」 
「紀元前2277年 夏の禹王の時代(伝説)?
黄河流域で最初に治水工事をしたといわれる人物が禹です。13年に渡る治水事業を完遂して五帝最後の舜さんから天子の位を引き継いだといわれています。後天八卦(洛書)を発見した人でもあります。また最初の風水師であるといわれている青烏子さんが、この頃登場します。この青烏子さんの名前を取って風水は「青烏之術」と呼ばれました」
「夏王朝の始祖、禹に発すると言う。 諸葛孔明(181-234)が戦中に北斗のカタチを踏む禹歩をしたという ... もの、突出し部分を向拝と呼ぶ。 夏越の祓(なごしのはらえ):普通6月晦日に …」
能のたまごまっぷ
http://www.h6.dion.ne.jp/~asano/tamago.htm

なにかの参考になれば幸いです。


[2341] 和亜布さん、有難うございます。  Y・O 2006/07/29(Sat) 11:19 [Reply]
私の素朴かつ稚拙な質問に返答頂きありがとうございます。
ただ、神奈備様も仰るように、
ご紹介のサイトと、「行者山開山」との関連私も未だ見つけられずに
おります。

nick様。
弘法大師・密教と鉱物資源についてですが、

http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/
http://www.geocities.jp/tyuou59/index2.html

こんなサイトを見つけました。仰る事柄と一致しますかどうか。。。

ちなみに、この村は私の苗字と同じです。
また空海は讃岐出身ですが、私の両親も香川県出身で先祖との絡みで
大変興味が有ります。

[2340] Re[2337][2336]: 行者山(宝塚)  nick [Url] 2006/07/29(Sat) 10:08 [Reply]
「役行者」や「弘法大師」の伝承が当地にも散見されます。
「弘法大師の井戸」や「熊野神社」の命名等は、いずれも「聖」の足跡のようにみられます

この「密教」と「鉱物資源」「山師」関連を少し勉強したいとは考えています。


梅雨が揚がって急激な気温上昇で、この連日ままちゃりであちこちほっついて
いますが、、、歳には勝てない。
ポカリスエット等が離せません。

[2339] Re[2338][2337] Re[2336]: 行者山(宝塚)    神奈備 2006/07/29(Sat) 08:22 [Reply]
> 喜んでください。(^.^) 
何をどう喜べばいいのですか。

> 闇の日本史写真集
足込地区のお話と行者山との関連は如何?

> その他の引用サイト
行者山との関連は如何?

和亜布さんが何を言おうとなされているのか不明なのです。

[2338] Re[2337] Re[2336]: 行者山(宝塚)    和亜布 2006/07/29(Sat) 00:42 [Reply]
参考HP
みなさん Y・Oさん こんばんは、喜んでください。(^.^) 

「界隈には. 役小角の像が鎮座し・・・」
闇の日本史写真集
http://white.ap.teacup.com/dhistory/5.html

「箕面の瀧安寺の開祖は、役の小角(635~702)です。 」
箕面寺秘密縁起によると
http://www5b.biglobe.ne.jp/~hanabata/55642700/

「650年に「役小角」が箕面の滝で修行し、箕面寺を建立したのが始まり」
http://www.assumption.ed.jp/seito_saku2002/k3b_c/ryuuannji.htm

「修験道の先達役小角が庵を結んだ箕面聖天・西江寺、弁財天像
を彫り刻み安置した瀧安寺が厳そかな風情で迎えてくれる。
大阪府 箕面市 福井 栄一さん 」
http://www.rekishikaido.gr.jp/time-trip/taikan/osusume/io08ki.htm

75 名前:吉野山人 :00/03/03(Fri) 17:53 (役行者の生涯E) 
「元亨釈書には「小角甞て摂州箕面山に在り、山に瀧あり、夢に瀧口に入り ... て行けば則ち摂州箕面山の瀧に至る(中略)童子小角に告げて曰う、此瀧穴 …」
http://www.ream.ais.ne.jp/~flower/syugen/75_2ch.htm

「(箕面市) ... 瀧安寺は、修験道の開基役小角が創建したと伝わる。. さらに北側に位 置する、勝尾寺は西国観音霊場33ヶ所の23番札所として有名 …」
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/saigoku1.htm

   参考になれば幸いです。

[2337] Re[2336]: 行者山(宝塚)  神奈備 2006/07/28(Fri) 16:13 [Reply]
行者と言えば役行者。
地域にお詳しい方が見ておられたらいいんですが・・・

[2336] 行者山(宝塚)  Y.O 2006/07/28(Fri) 06:35 [Reply]
宝塚市(西宮市との市境)に行者山なる山があるんですが。
我が家のすぐ裏手です。
宝塚聖天了徳密院という参拝のしおりには、
「隣接の行者山の岩窟には役行者菩薩が祀られ・・・」
との記述があるんです。

付近の箕面界隈には、役小角開山の峰が多いのですが、
やはりこの行者山も、役小角の開山と解釈しても良いのでしょうか?
だったら嬉しいのですが。

[2335] 天道根とか紀豊耳はどこから来たのか?  神奈備 2006/07/27(Thu) 20:03 [Reply]
 中公文庫の『日本の渡来文化』の中の考古学者の森氏の発言から

1.紀ノ川の河口地帯

 弥生時代の集落が豊富で、豊かな農耕生産の地帯だったことを思わせますが、前期古墳はほとんどない地帯であること。と言って、古墳前期の住居の跡は減っていない。増えているほど。
 前期古墳がほとんどないと言う特長がある。(日高に少しある)
 古墳時代前期(4世紀)には、半島南部の新羅、百済、加羅でも古墳の存在がはっきりしない。

 5〜6世紀になると、紀ノ川南岸には、大古墳をまじえて、おびただしい数の古墳が密集する。大和を凌駕している。この現象は高句麗と同じであり、高句麗社会の反映ではないかと言われている。
 しかし紀ノ川北岸には小規模な古墳が散在する程度。

 古墳時代の終末は近畿地方一般より早く来ている。

 紀ノ川南岸には初期の仏教遺跡は見いだされていない。これも加羅地方にもない。

2.大和とは独立した別の勢力

 朝鮮半島とのつながりが強い。
 紀州には大和から独立した勢力がいて、朝鮮と紀州との両方に拠点を持っていた。

 5世紀後半、紀小弓宿禰、紀大磐宿禰の活躍が『日本書紀』に出てくる。「任那に拠って高句麗に交い、三韓に王たらんとして官府を整え、自ら神聖といった。」とある。紀大磐は負けて引き上げてくる。

 岩橋千塚古墳は5世紀後半から6世紀初めのもの、このタイプの古墳は朝鮮の大同江流域に見られる。高句麗系の墓制を持った人たちが次から次へとやってきたようだ。

冑の出土
 大阪南の淡輪の西小山古墳 金メッキをした眉疵付きの冑
 紀ノ川上流の奈良県の宇智郡の猫塚からも四方白の冑
 和歌山を南に少し行った有田市の椒浜から蒙古式と言われてきた冑
 紀ノ川流域を執心とした上記の地域がひとつの文化圏をなしている。これに海部というか漁民集団がからんでいる。和歌山の漁民は良い馬を入手できている。(欽明紀)

[2334] 袖ヶ浦にも小銅鐸が出土してました。  和亜布 2006/07/27(Thu) 00:49 [Reply]
上総国分寺を通る「丑」ー「未」ライン上(60度角)にも小銅鐸が出土してました。
東にはポイント〔笠森観音〕が!
〔上総国分寺を通る「丑」〜「未」ライン上 文脇遺跡〕〜東のポイント〔笠森観音〕〜∴史跡 山倉?こどもの国に史跡の記号が?(市原市山倉古墳群)ラインが描く【正三角形】
 「1988年(昭和63年)の道路改良事業による発掘調査の際に、古墳時代前期の埋葬施設(土壙)から小銅鐸や水晶・琥珀・ガラス製の装飾品などの遺物が出土した。」
http://sodehaku-db.sodegaura.ed.jp:8080/FMRes/FMPJS?-db=%8e%77%92%e8%95%b6%89%bb%8d%e0.fp5&-layid=8&-format=formvwcss.htm&-max=1&-skip=27&-token.0=25&-mode=browse&-lop=and&-find

A地点 :千葉市 八釼神社
 「台地の南斜面には日本武尊の伝承や平安時代の神楽面が伝わる八剣神社が,狭い解析谷を挟んだ西対岸には大覚寺山古墳(前方後円墳),七廻塚古墳などの古墳群が展開」
http://members.at.infoseek.co.jp/kaizuka/view_27.html

B地点 :上総国分寺跡
http://hideki55.web.infoseek.co.jp/hundred5.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~AB9T-YMH/chiba_folder/kazusa-kokub2.html

C地点 :文脇遺跡: 「2004年 全長49mの前方後円墳である1号墳から、埼玉県鴻巣市生出塚遺跡で生産された埴輪群が出土した。人物埴輪と円筒埴輪が列状の配置で検出された。*補遺が『年報平成15・16年度』にあり*」
64.4MB

D地点 :∴〔百目木公園井戸〕 「横田は考古学的に、全国から注目されている集落で、中世には横田郷といわれる荘園の一部でした
弥生時代の水田跡が,横田地区(袖ヶ浦市)では荘園の跡が確認される …」
http://www.maff.go.jp/nouson/nouson/denenkuukan/sode/
http://homepage1.nifty.com/lemonade/city/nakagawa.html

E地点:〔笠森観音〕
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/reikenki/bando/reijo31.html
http://www2.odn.ne.jp/aramu/kasamori1.html

F地点:∴ 山倉?こどもの国に史跡の記号が?(市原市山倉古墳群)
http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=all&nl=35/29/11.232&el=140/08/13.931&scl=70000&bid=Mlink
http://www.city.ichihara.chiba.jp/~maibun/pdf.htm

A〜Dライン  C〜Eライン  E〜F〜ライン・・・・正三角形を描きます。(全国的に多くのラインが存在しますが古代からの測量変遷と考えます。)  
特に 「銅鐸→古墳→(巨石)・寺社」   などは古代からの測量の「不動」のポイントと考えます。
 古代からのデータの集大成が【長久保赤水】の【改正日本興地路程全図】と考えます。
http://www.jsdi.or.jp/~taka-lib/page010.html
赤水は、20余年の歳月をかけて出身地である赤浜の地で、日本で初めて緯度をあらわす緯線(よこ線)と方位を示す方角線(たて線)を使った日本地図を作り、大阪で発行しました。この日本地図は比較的正確な、江戸時代としては画期的なもので、水戸藩の長久保赤水の名を全国に広めました。(〔郷土の先人〕 より)

>市原市草刈・川焼台地
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35%2F31%2F36.563&lon=140%2F10%2F38.365&layer=1&ac=12219&mode=map&size=s&pointer=on&sc=4
市原市草刈から〔上総国分寺〕のラインとは、約18度くらいの誤差が有ります。
誤差に関するHP
平安京プロジェクト
臼井正+宮原健吾+京都天文めぐり*平安京プロジェクトチーム
http://homepage3.nifty.com/silver-moon/Heiankyo/Heiankyo.htm

[2332] Re[2331][2326]:千葉の小銅鐸  神奈備 2006/07/25(Tue) 14:46 [Reply]
QUBOさん、ペギラさん、阿波と安房の銅鐸のお話、ありがとうございます。
おっしゃる通り、共通氏族は、それも祭祀氏族として名高い忌部氏が阿波安房と運んだことは十分あり得ますね。
 銅鐸祭祀の氏族名が確認できれば、世間はあわをくうでしょうね。お手柄!


[2331] Re[2326]:千葉の小銅鐸  QUBO 2006/07/25(Tue) 09:23 [Reply]
千葉の小銅鐸
> 総数で8個でしょうかね。…
> http://www.echiba.org/dokitakukun0603.pdf
> …銅鐸模倣品小銅鐸ですね。

調べてみました。徳島県立博物館HP
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/josetsuten/3.htm
3 ムラからクニへ 銅鐸のまつり
…徳島は,全国1,2位の銅鐸の出土数を誇っている
…銅鐸形銅製品は小銅鐸ともよばれ…
なるほど!これのことですか。
(ポロリとウロコが落ちた)

千葉県教育委員会発行「房総のあけぼの1」
P174川焼台遺跡で、「小銅鐸ではもっとも優美…」
とあり、誤解していました。よく読むと
「小銅鐸と銅鐸の関係はよくわからない」とも
本が書かれた昭和59年、千葉県で2例、全国で11例出土。
千葉が8例になっていれば、全国では50例ぐらいでしょうか?

阿波から大事な本物は持ち出せないので、代わりの品を造り
それを新天地(千葉方面)の開拓者達に持たせた。
アマテラスが行けないので、鏡を渡し自分と思えと言った様に。
妄想に近い「あるかもねぎ」ですね。 笑

[2330] Re[2329]: [2327] Re:[2326] 千葉の小銅鐸 の追伸です。       風小僧 2006/07/25(Tue) 07:40 [Reply]
和亜布 さんとやら、
貴殿は自分の意見、主張が殆どなく、ひとのHPの抜書きばかり。
目障りなので、どうかこのサイトへ顔出ししないようにしてくれないか。
特にこの管理人さんにたのまれたわけではないのだが。
他にもそのように思っている人は多いと思うよ。

[2329] [2327] Re:[2326] 千葉の小銅鐸 の追伸です。       和亜布 2006/07/24(Mon) 20:48 [Reply]
 「 Ceと「武峯」が重なるがこれは房総市原市のさき長柄町にある権現森山頂にある武峯神社、日本武尊、ニギハヤヒ孫、山座王を祀る …」(古代であそぼ より)
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/kasi/tko_mmg1.htm
首都圏自然歩道で出会えます。
http://www.zouen.or.jp/midori/57/9.htm

[2328] [2327] Re:[2326] 千葉の小銅鐸 の訂正です。     和亜布 2006/07/24(Mon) 20:30 [Reply]
【行光地】→【行光寺】に訂正です、すみません。

[2327] Re:[2326] 千葉の小銅鐸    和亜布 2006/07/24(Mon) 20:27 [Reply]
出土地からの妄想です。
千葉県市原市の銅鐸出土地 「市原市村 上・天神台 」付近【上総国分寺跡】と「市原市草刈・川焼台地 」付近【行光地】を線で結び「内角45度」の2等辺三角形の交点が「八幡の【飯香岡八幡宮】」でしたので、対面の「中野」の先に「 権現森(173m 長生郡長柄町 1等三角点) 」が在りました。
上総国分寺跡と国分尼寺跡
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/chiba_folder/kazusa-kokub1.html
 「・・之れに沿ひて古墳あり、白旗森あり、傾城窪と称する特殊の地もあり鎌倉時代に守護地頭等の人々が家来を率いて鎌倉へ往復せし昔を偲ばしむ。」
http://www.asahi-net.or.jp/~AB9T-YMH/chiba_folder/kazusa-kisarazu.html
西上総の鎌倉街道地図
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/chiba_folder/kazusa-MAP1.html

千葉県市原市[国分寺・国分尼寺]
http://www.rizardon.com/~nakai/kokubuniji.htm
市原市村上・天神台

市原市草刈・川焼台地
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35%2F31%2F36.563&lon=140%2F10%2F38.365&layer=1&ac=12219&mode=map&size=s&pointer=on&sc=4
 
飯香岡八幡宮
http://www.rurubu.com/sight/sightDetail.asp?BookID=23230580

地図の上での遺跡探し お奨めします、点と点が繋がると線に角度・ラインが交わる・・・そこに古代が・・・予測が的中すると!「快感」です。

[2326] Re:千葉の小銅鐸  ペギラ 2006/07/24(Mon) 18:47 [Reply]
すいません。
私のHPではあまりに正確ではないので、
一応ここで。
総数で8個でしょうかね。

・市原市大字村上天神台
・市原市草刈川焼台 2個
・市原市草刈
・市原市草刈 草刈遺跡
・君津市大井戸八木
・袖ヶ浦市文脇
・木更津市大久保中越

http://www.echiba.org/dokitakukun0603.pdf

の画像などを見て見ますと、銅鐸模倣品小銅鐸ですね。

阿波とのつながりか、、、あるかもねぎ。

[2325] Re][2320] [2323][2324] ヤマトタケル  QUBO 2006/07/24(Mon) 17:18 [Reply]
> このところ興奮気味の書き込みで失礼しました。
見直して愕然!こんなに興奮していたのか。本当にひどい。
倭武命 じゃあないですね。
倭建命 HPの信頼性を自分で壊してますね。すいません。

[2324] Re[2323]他 百足  QUBO 2006/07/24(Mon) 10:34 [Reply]
> > 日本武尊と倭武命の違いくらいは知っているだろうから。
>  日本書紀と古事記との差の意味でしょうね。
その通りです。 少し付け加えます。
このところ興奮気味の書き込みで失礼しました

1、銅鐸
 こちら千葉県でも銅鐸は発見されています。
 現在4〜5個ではないでしょうか。
 参考例:http://homepage1.nifty.com/moritaya/syutudo.html
いずれも初期の小型銅鐸で、飾っておくような代物では無いと思います
阿波忌部が、持ち込んだ物ではなかろうか(単なる推論)
 阿波では多くの銅鐸が見つかっています:これは事実
その後ヤマトタケルが、最新の祭りを持ってやってくる
(何かはまだ判りません)古い祭りの形式は放棄した。
争いではなく、平和的に ですね。千葉の特殊な例です。

2、ヤマトタケル 少し詳しく
日本書紀では日本武尊 天皇に愛でられ、自発的に雄雄しく東征に出発
           天皇から斧鉞を与えられる
           (中国的な全権を委任される意味:私の理解)
古事記 では倭武命  天皇に疎まれ、いやいや東征に出発
           天皇からヒヒラギの矛を与えられる
           (大国主以来の呪術的支配権を付与される意味:私の理解)
           伊勢に寄った時に、叔母に泣き言を言う
全く違うんですね 
だから『日本武尊』は兄殺しもしていないし、疎まれてもいません。
「大石蔵之助」と「大星由良之助」は別物です。

最近『紀記に書いてある』と云う表現が嫌いになっています。
日本書紀と古事記は、同じ事柄について も 書いてある全くの別物では
なかろうか。だから『紀』に、とか『記』にとか、峻別すべきだ。と思います。

[2323] Re[2322][2321]他 百足  神奈備 2006/07/23(Sun) 13:26 [Reply]
> 日本武尊と倭武命の違いくらいは知っているだろうから。

 日本書紀と古事記との差の意味でしょうね。


さて、銅鐸祭祀がプッツリ途絶えてしまった訳は如何との思いに、「古代の戦争は、宗教戦争でもあった?」との感想が述べられて、それが「?」を付けておき、「疑問符つきで書いただけです。」とエスケープ、それでは、逃げない方に応答してほしかったとの想いもあります。
 尤も、馬鹿馬鹿しい問いかけだから、まともな応答は期待できない、と言うこと。

 さて、本当にプッツリ途絶えたのか?
  大変な事が起こりそうだ、と手持ちの銅鐸を境に埋めて沈静化を図ったとしたら、それはうまく行ってもまた行かなかっても、掘り出されることがない。銅鐸祭 祀の継続の為には新しい銅鐸を入手したと考えることも出来ます。入手できなかったら、別の祭り方を考える、例えば鏡とか。

 また、吉備の楯筑遺跡から出ている特殊器台は銅鐸の後継器として古墳祭祀にも利用されたとの見解もあるようです。(『王権誕生』日本の歴史講談社02)


[2322] Re[2321]他 百足  QUBO 2006/07/21(Fri) 23:13 [Reply]
> まずは、三上山の検討ですね。  
しかし紹介サイト、信頼性は低い。
『鉱山と水質汚染との関係を正確に理解していたかは定かではなく』
これはデタラメですね。
 河から田に水を引く その河が濁ってきた
 河の魚が死に浮かぶ 水中の昆虫も死ぬ
 稲の成長が前より悪くなる 河の水が濁ったせいだ
 濁らせたのは、最近山に移ってきて何やら穴を掘って
 変なことをしている奴らだ
 あいつらを追い出して、あんな事を止めさせよう
この程度のことは誰でも考え付く。理解できる。
それを『「正確に」理解していたか疑問』などと怪しい表現をする。
変な形容詞をつけて話の内容をすり替える。
よく詐欺師が使う手口ですな。 白馬非馬みたいだな。
それこそ眉唾ものだとおもいます。

[2320] での質問 [2315]でも聞いたんだけど。
「公害問題と昔話」ではなく「百足を鉱山」と結びつける話をしています
PONTAさんの考えでは、 「百足と鉱山」は結びつかないのかな?
考えをきいてるんだけどな。これも何かすり替えますか。

辞書で100項目に1項目変なことが書いてあったら
その辞書は「トンデモ」辞書だよ HPならその程度でも良い?
だったら、サイトそのものが信頼性は低いってことでしょ 笑

最後にもう一つ質問 別問題
僕が出鱈目だと表現した「ヤマトタケル」項目は、
PONTAさんも出鱈目だと思うのかな?

[2321] Re[2320][2319] 聖神社の銅製百足  PONTA 2006/07/21(Fri) 19:04 [Reply]
>しかし紹介サイト、信頼性は低い。 たとえば

他の項目の検討はまた別問題ですよ。
たとえば10個の項目があって、1項目に変なことが書いてあると、他の9項目もおかしいだろうとしてしまう考え方は安易であり危険だと思います。
まずは、三上山の検討ですね。

>サイトは「panda」で「ponta」じゃないですね。ちょっと誤解してました。
はい、ちょっとではなく、非常に大きな誤解だと思います。

[2320] Re[2319] 聖神社の銅製百足  QUBO 2006/07/21(Fri) 10:01 [Reply]
> > 『百足を鉱山と結びつけることは、かなり近代的な考え方だと
> > 言わざるを得ない。』となってますね。この部分は虫(ムシ)かな
> > HPの引用は、信頼性と言う意味では、けっこう難しいですね。

> 正しく(?)引用すると、
> 「中世の以前の人々が、鉱山と水質汚染との関係を正確に理解していたかは
> 定かではなく、百足を鉱山と結びつけることは、かなり近代的な考え方だと
> 言わざるを得ない。」 となります。

「公害問題と昔話」ではなく「百足を鉱山」と結びつける話をしています
PONTAさんの考えでは、 「百足と鉱山」は結びつかないのかな?

サイトは「panda」で「ponta」じゃないですね。ちょっと誤解してました。
しかし紹介サイト、信頼性は低い。 たとえば「ヤマトタケル」の項目
http://www.pandaemonium.net/rdb/menu/file/2487.html
『第十二代天皇である景行天皇の子。兄を殺した事を恐れられ、
疎まれる。休む間もなく討伐を命じられ、最後には命を落とす。
その姿は白鳥になって天に舞った。』
少しでも「日本武尊」を知っていればこんな出鱈目は書けない。
日本武尊と倭武命の違いくらいは知っているだろうから。

早く訂正しないと恥のカキっぱなしだね。
作成日、更新日 共に入れていないところがミソかな 笑

[2319] Re[2315][2314] 聖神社の銅製百足  PONTA 2006/07/20(Thu) 22:45 [Reply]
> ご紹介のサイト
> http://www.pandaemonium.net/menu/devil/tawarano.html だと
> 『百足を鉱山と結びつけることは、かなり近代的な考え方だと
> 言わざるを得ない。』となってますね。この部分は虫(ムシ)かな
> HPの引用は、信頼性と言う意味では、けっこう難しいですね。

正しく(?)引用すると、
「中世の以前の人々が、鉱山と水質汚染との関係を正確に理解していたかは定かではなく、百足を鉱山と結びつけることは、かなり近代的な考え方だと言わざるを得ない。 」
となります。
つまり、「公害問題と昔話を結び付けて考えるようになったのは、公害が問題とされるようになってからのことです」の意味ですね。

[2318] 神奈備Re[7625]: 三島鴨神社  神奈備 2006/07/20(Thu) 10:46 [Reply]
実は神懸かりのお話ですが、鴨系の神社の鳥居や拝殿前で柏手を打ちます と、響きが遠くからくる現象があり、これを「カンナリ現象」と高鴨神社ゆかりの方や宮司さんがおっしゃっていましたが、この三島鴨神社の鳥居(昔の二の鳥 居の場所で、今は一の鳥居)で柏手を打ちますと見事なカンナリ現象がありました。これは鴨系の神社に違いないと思ったことを思い出しました。

[2317] Re[2310][2309]: 聖神社の銅製百足  琉球松 2006/07/20(Thu) 09:53 [Reply]
 元明天皇の時代の「銅製ムカデ」は、雌雄?一対になっているようですね。
 これは、ペアで出土する事がある銅鐸と関係するかもしれません。
 ペアといえば、雌雄で遊泳する「ワニ(鮫)」。。。味方になると心強いが敵にするとヤバイ!?
 「金比羅」の語源も、ガンジス川の鮫神「クンピーラ」ですよね。

 琉球圏では、船上の「ムカデ旗」などで邪悪なモノを排除する効果があるとされていましたし、八重山の伝承では「ムカデは女の脇の下から生まれた」とされています。

[2316] 百足・蜈 (呉) 蛇 (越)  和亜布 2006/07/19(Wed) 09:24 [Reply]

参考になれば幸いです。

「473 越、呉を滅ぼす 呉人渡来、越人渡来 -445 夏末裔杞国滅びり北上す 半島に杞人移住 このころ弥生文化の曙 稲作、原初鉄文化九州に渡来 -333 越滅び四散 …」
紀氏関係年表
http://www.kamnavi.net/ki/ooken.htm

 「弥生人の渡来 BC5世紀 中国大陸の呉人が日本列島へ渡来 弥生人の渡来については諸説ある ... の春秋時代に(BC770~403年) 呉越同舟の熟語で有名な呉国と越国は 長江の下流域に在って30年間ほど 」
農耕民の渡来
呉人が渡来
http://www2.odn.ne.jp/nov.hechima/yayoijin.html

 「渡来人の足跡 今回は飛鳥地域に存在する渡来人の足跡について紹介したいと思います。 ... の時代に新漢陶部高貴らの渡来人を上桃原・下桃原・眞神原の地へ、また呉人を檜隈野に住まわせた事が記されて …」
明日香を探る
http://www.asukamura.jp/asuka-wo-saguru/05-08.html

 「江口久雄の連載コラム メコン・仙人 ... の初めにできた『新撰姓氏録』には、呉からの渡来人として孫権の子孫なる ... 阿曇連百足(アズミノムラジ・モモタリ)がおり、とても他人とは思えない類似が認められます。 呉に加勢して …」
メコン・仙人たより
http://www.mekong.ne.jp/column/eguchi/eguchi15.htm


「... 別冊人物読本『渡来人』(河出書房新社)の「海と日本人」で、網野善彦氏は『若狭には古くか ... むかでは、百足とも、蜈蚣とも書く。 何故、「呉公」なのか。 結論から言うと、銅の採掘技術・製 …」
歴史のコラムのページ
http://members.jcom.home.ne.jp/4313532601/page006.html

他に【呉 渡来 百足】で検索 お薦めです。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%91%89+%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E3%80%80%E7%99%BE%E8%B6%B3&ei=UTF-8&fr=top&x=wrt&meta=vc%3D

[2315] Re[2314] 聖神社の銅製百足  QUBO 2006/07/19(Wed) 07:11 [Reply]
なるほど!
百足(ヒャクアシ)も 大きくなると 二千足(ニセンアシ)
これ全てに松明を掲げると、どうやって歩くのかな
蛇は足を使わずに歩けるから「蛇歩き」でもするのかな 笑

ご紹介のサイト
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/tawarano.html だと
『百足を鉱山と結びつけることは、かなり近代的な考え方だと
言わざるを得ない。』となってますね。この部分は虫(ムシ)かな
HPの引用は、信頼性と言う意味では、けっこう難しいですね。

1龍、2竜、3蛇 三者を比べるとこの順番で偉いのかなぁ 笑
龍王とは言うけど蛇王とは聞かない。 
竜宮は聞くけれど蛇宮は聞かない。
竜の子(タツノコ)、タツノオトシゴは言うけれど、
龍の子(リュウノコ)、リュウノオトシゴは言わない。
龍のほうが竜より偉そう まさに青草感想ですね。
それとも人前に出るときは蛇に変身するのかな?

[2314] Re[2313][2309]: 聖神社の銅製百足  PONTA 2006/07/19(Wed) 01:57 [Reply]
> [2307] [2310] 瀬田の橋の百足と龍の争い…
> 『宗像教授異考録』私も好きですよ 刺激的ですよね 
> 瀬田の田原藤太、確か美女に化けた大蛇の味方をしたのでは?
> 竜では無かったと思いますが? 瀬田の橋西詰めの解説で、そう記憶します。

先に紹介した
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/tawarano.html
から引用すると、

「 朱雀天皇の時代のある時、近江の国瀬田の唐橋に長さ20丈(60m)もの大蛇が横たわるということがあった。人々は怖れて橋を渡ることができなかったが、そこに出くわした藤太は、少しも怖れることなく大蛇の背を踏みつけて橋を渡ってしまう。
 その夜、ひとりの若く美しい女性が藤太を訪ねてきて彼に言う。
「私は昼間お会いした大蛇で、琵琶湖に住む龍神の一族の者ですが、三上山の百足に苦しめられ困っています。あなたを見込んで、百足の退治をお願いしたい。」
 藤太が快諾し、先祖より受け継いだ名剣と重藤の弓に3本の大矢を携えて三上山に臨むと、稲光と共に、2、3千本余りの足の全てに松明を掲げて、三上山を7巻き半するほどの大百足が現れた。
 藤太は2本の矢を射るが、大百足には通じない。そこで矢尻に唾を吐きかけ、南無八幡大菩薩と祈念して射ると今度は通じ、大百足を退治することができた。
 藤太は、龍神の女性からお礼にと、いくら裁っても尽きることのない巻き絹2つと、思うままに食べ物の出る赤銅の鍋、米の尽きることのない俵を贈られた。
 またその後龍宮に招かれ、龍王から黄金札(こがねざね)の鎧と太刀、赤銅の鐘を贈られた。」

だそうです。
若く美しい女性=大蛇=龍神の一族の者であり、その後、この龍神の女性や龍王からお礼の品を受け取っていますので、百足と龍の戦いでいいと思います。

[2313] Re[2309]: 聖神社の銅製百足  QUBO 2006/07/18(Tue) 21:28 [Reply]
ツルカメ算
> 「本来なら文武百官を遣わすべきところ、百足を百官に代えての参列という趣旨が> こめられていると伝えられています。
文武百官とは文官武官、百人の事(本当は多数の意味でしょうが)。
足の数は二百になります。百足では足りないなあ?と思いつつサイトを見ました
「雌雄一対」 やったぁ これなら二百足 百官の代わりになるなぁ 笑

花と竜ならぬ 蛇と竜
[2307] [2310] 瀬田の橋の百足と龍の争い…
『宗像教授異考録』私も好きですよ 刺激的ですよね 
瀬田の田原藤太、確か美女に化けた大蛇の味方をしたのでは?
竜では無かったと思いますが? 瀬田の橋西詰めの解説で、そう記憶します。

本家でやっていた補陀落渡海 これに擬せられた二荒(フタラ)山
日光でも蛇と百足(赤城山)の争いになっています。

[2312] 採掘穴  PONTA 2006/07/18(Tue) 17:57 [Reply]
採掘穴って、どういう形なのでしょうか?
太い穴が1本あって、その壁に細い穴を開けるというのであれば「ムカデ」に似ていますね。穴といえば、私のイメージでは「モグラ」です。「アリ」でもいい。イギリス人なら「ウサギ」かな。

[2311] Re[2310][2309]: 聖神社の銅製百足  PONTA 2006/07/18(Tue) 17:51 [Reply]
> 田原藤太の三上山の百足退治のお話なのでしょうね。

そうです。
http://www.kcn.ne.jp/~bluecity/New-Story/Big_Comic/munakata/munakata_ikou03.htm
http://www.kcn.ne.jp/~bluecity/New-Story/Big_Comic/munakata/munakata_ikou05.htm
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/tawarano.html

> 毘沙門天の持つ鉾

そういえば、七支剣を最初に見たとき、百足に見えました。

> 和歌山は海南市の千種神社は足神さんと呼ばれており、

山頂から山麓にかけて頭社・腹社・足社とあるのは浅間神社しか知りません。
あとは、岡崎市に、首を切られた犬を祀る神社で糟目犬頭神社&犬尾神社があります。諏訪上下社とか。

> 千種神社は元は百草神社であり、草野姫を祭神としていますが、ひょっとすると百足に関係し(足神の百草)、戦後千種神社への改名も千種鋼に縁があるのかも。

神社の改名の理由にはいろいろありますね。
・「当社は式内A神社であるが、流行神の八幡神(稲荷神・諏訪神)を勘定して、八幡社(稲荷社・諏訪社)と(主祭神が変わったので)改名したが、式内A神社に戻した」=式内社(流行に惑わされない由緒ある古社)であることをアピール!
・明治の一村一社で6社を合祀した。六所神社でもいいが、味気ないので、所在地の地名を取ってA神社とした。=6つの神社がそれぞれの社名にするよう主張し、調整がつかなかった。
杵築神社(杵築大社)が出雲大社に改名したり、熱田神社が熱田神宮に改名したのは、伊勢神宮に対する対抗意識(?)。

[2310] Re[2309]: 聖神社の銅製百足  神奈備 2006/07/18(Tue) 11:23 [Reply]
> ネタをばらすと、瀬田の橋の百足と龍の争いは、三上山の銅や鉄の争奪戦だったのではないかということです。

田原藤太の三上山の百足退治のお話なのでしょうね。

> 百足が毘沙門天の眷属である理由は不明。

毘沙門天の持つ鉾が山を掘るボーリングの捧で、それを逆手百足と言ったとか、よく分かりませんが。


和歌山は海南市の千種神社は足神さんと呼ばれており、名草戸畔の足を祀ったとか、紀ノ川に流れ着いた黄金色の蛇の足を祀ったとの伝承があります。

千種神社は元は百草神社であり、草野姫を祭神としていますが、ひょっとすると百足に関係し(足神の百草)、戦後千種神社への改名も千種鋼に縁があるのかも。

[2309] 聖神社の銅製百足  PONTA 2006/07/18(Tue) 02:59 [Reply]
下記サイトによると、

「本来なら文武百官を遣わすべきところ、百足を百官に代えての参列という趣旨がこめられていると伝えられています。又、銅の採掘穴を百足穴と呼ぶことに由来するとも、百足が繁殖するように鉱業も長く栄えることを祈ったとも思われています。」

http://www.chichibu.co.jp/~wado/iseki/jinjya.htm

[2308] Re[2306][2305][2304][2303]: 朝町  PONTA 2006/07/18(Tue) 02:53 [Reply]
> なんでも、百足は毘沙門天の使いだとか・・・
> 百足の足は小金が貯まります様にと願ったんでしょうか?(笑)

百足は毘沙門天の眷属であり、商売繁盛・蓄財の神様であり、養蚕の守り神であり、子授けの神です。

・商売繁盛・蓄財の神様:百足にはたくさん足がある=オオアシ→オアシ=お金だから。
・養蚕の守り神:繭を鼠は食い荒らすが、その鼠は百足を嫌うから。(同じ意味で、猫や蛇も養蚕の守り神とされている。)
・子授けの神=百足はたくさん子を生むから。

*百足が毘沙門天の眷属である理由は不明。毘沙門天が養蚕の守護神だからとか(「仏説毘沙門天王功徳経」による)、毘沙門天が元来鉱山・鍛冶の職業神であるからとか諸説あり。

[2307] 晴耕雨読  PONTA 2006/07/18(Tue) 02:25 [Reply]
私の場合は、本を読むのではなく、漫画を見るのですが。
星野之宣 『宗像教授異考録 第1集』(小学館)に「百足と龍」という話が載っています。ネタをばらすと、瀬田の橋の百足と龍の争いは、三上山の銅や鉄の争奪戦だっ たのではないかということです。また、百足が金掘り衆のシンボルなのは、「金の鉱脈は、白い石英質の層に縦に黒っぽく、百足の這った跡のように見えること から”ムカデ”と呼ばれたらしい」からだそうです。

[2306] Re[2305][2304][2303]: 朝町  イワハシヤマ 2006/07/17(Mon) 21:02 [Reply]
地名辞典には、栗阪には「百足山」が書かれていましたが、小字の地図には今の所見当たりませんでした。
知人と鉱山見学したのは、地図ですと「小金」の小字あたりだったと思います。

百足で思い出しましたが、信貴山の本堂の扁額には百足が描かれています。
なんでも、百足は毘沙門天の使いだとか・・・
百足の足は小金が貯まります様にと願ったんでしょうか?(笑)

> この中の、フロノマエですが、吉野にも風呂谷なる地名があり、精錬をした場所と大山源吾氏が書かれていたように思います。

確認しますと、風呂谷(吉野 丹生・西山)となっています。
風呂の小字はたくさんあって紹介しきれませんが、葛城ですと朝妻にもありました。


> ところで岩橋山ですが、国土地理院で見ましても鳥居のマークはなさそうですね。
> http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?id=51355550
> 磐座のような岩が多いそうですが、お祀りをされている様子はないのでしょうか。

先日、岩橋山の巨石群探索した時、生駒から来られた女性のみの磐座探索グループと途中で御一緒させていただきましたが大変興味を持たれていました。
なんでも今回は、下見だそうで、本番では20人ほどで探索に来られるそうです。

岩橋山の巨石群ですが、ご存知のようにここは今でも葛城修験の行場です。
お祀りの件ですが、今は熊野修験衆が修行されています。
今は残念ながらお祀りなどはされていませんが、間違いなく古代は祭祀されていたと思います。


[2305] Re[2304][2303]: 朝町  神奈備 2006/07/17(Mon) 19:48 [Reply]
イワハシヤマさん ありがとうございます。

> 尾ノ上ヤケ山(尾上山の事か?)・フロノマエ
> 小金口・小金・三ノ小金・イモカ

あるんですね。
この中の、フロノマエですが、吉野にも風呂谷なる地名があり、精錬をした場所と大山源吾氏が書かれていたように思います。

ところで岩橋山ですが、国土地理院で見ましても鳥居のマークはなさそうですね。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?id=51355550
磐座のような岩が多いそうですが、お祀りをされている様子はないのでしょうか。

[2304] Re[2303]: 朝町  イワハシヤマ 2006/07/17(Mon) 18:54 [Reply]
朝町の小字について、紹介させて頂きます。

ニウノマエ・ 藤井・長谷・田井戸・ヒカクボ・谷山・福垣内・水谷・ハシモト・森ノ木・ミヤノクチ・ミヤノ谷・ミヨガ谷・京田・下代・道ノ上・ハカノ下・アジマ・ナシ 代・ワショウ・川添・ユキシ・ミザ・庵ノ前・坂口・田井中・ケラヤシキ・欠田・笠松・迎山・尾ノ上・崩シリ・カクレ谷・コダ山・セゴ・三上・ハクレシヨ・ イユレ坂・尾ノ上ヤケ山(尾上山の事か?)・フロノマエ・真桑・清水・上山・大谷口・シニヤ谷・大谷・大谷登尾・田ノガ久保・宮ノワキ・イノテン・尻ノ 口・上ノ辻・北ソワ・小出・オバサ・オレノ上・市谷口・桑原・イナミ・小金口・小金・三ノ小金・イモカ・上ノマエ・オタニ・松尾・ナシモト・シノ・野口・ チカイ・高井谷・アシ原・シリゲ谷・ミノ山・三反田・コモムケ・ヒル谷・八伏・中ノ谷・峯代・岩阪・山阪・コイ谷・カラス谷・イクサ・平尾・エノコ・柳 谷・ムクオ・墓ノ谷・オノク

知人の紹介で鉱山跡数ヶ所見学しましたが、入り口が埋まっているところもあります。

小字名は、御所市史ではなく「地名辞典」からピックアップしました。

[2303] 朝町  神奈備 2006/07/17(Mon) 14:50 [Reply]
 『黄金と百足』若尾五雄)によりますと、御歳神社の近くに南粟阪と言う所があり、そこに百足山と言う地名があるそうです。朝町との間だそうです。百足とは坑道採掘のイメージだそうで、鉱山がある証のようなものだそうです。
 朝町の尾上山には銅山があったそうで、ヤケ山、小金口、三ノ小金、イモカなる地名があるそうです。ネットの地図には出てきませんね。『御所市史』にはでているのでしょうか。

[2302] Re[2301][2298][2294][2293]:ご無沙汰です。  琉球松 2006/07/15(Sat) 17:00 [Reply]
 農耕の発展拡大は、国境やタテ組織を生んでいったと思います。

 銅鐸は本来の農耕のための祭器から「10人のうち5人(味方)は生し、5人(敵)は抹殺する」と表現されるような時代を産ん(カグツチ?)でいったと考えます。
 「倭国大乱」は、九州、四国、本州、朝鮮半島南部の女達にとっては克服すべき社会になったんでしょうね。
 「1500の産屋を立てよう!」と宣言した革命勢力?によって、銅鐸は鏡に "再生" されたはずです。それは女性の持つ子宮以外には不可能だったと認識していたのではないでしょうか?

[2301] Re[2298][2294][2293]:ご無沙汰です。  神奈備 2006/07/15(Sat) 15:06 [Reply]
> >  銅鐸は農耕儀礼の祭具?という説に共感しています。

  銅鐸の絵には農耕を示すものが多くあり、そのように位置づけられているようです。しかし、それでしたら、何故,埋納されて忘れられてしまったのでしょう か。農耕は毎年毎年同じような作業の仕事で、大きい変化があったとも思えず、農耕のための祭具であれば、みんなで隠してしまう必要はなかった。

 お寺の釣鐘がなくなったのは、戦時中の供出で、鉄砲の弾などになったのでしょう。戦争というような大事件が起こってこそ、銅鐸が姿を消すと考えることができます。
 例えば鏡を尊ぶ勢力が権力を握り、各地の銅鐸を取り上げては鏡に鋳直す、これはいかんと山間に隠す、なにかそのようなことがあったのでしょう。

 銅鐸が消えてから、前方後円墳が登場する、銅鐸の上に鏡を立てた形です。
 鏡と銅鐸の地上絵、これが前方後円墳なんてね。繭椿。

[2300] Re[2299]: 口笛  琉球松 2006/07/15(Sat) 13:08 [Reply]
 PONTAさん、どうもです。

 琉球圏でも、夜の口笛には魔物がよって来ますね。
 銅鐸には二面性があると考えますが、イリ王朝以降の前方後円墳に添えられた埴輪にも、銅鐸に似た穴がありますね。

 同じように、音を出す装置に見えますがどうでしょうか?

[2299] 口笛  PONTA 2006/07/15(Sat) 08:34 [Reply]
口笛の意味は、民俗学の範疇かな。
2ちゃんにスレたってますね。
http://academy4.2ch.net/min/
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/min/985683508/

[2298] Re[2294][2293]:ご無沙汰です。  琉球松 2006/07/14(Fri) 18:33 [Reply]
 神奈備さん、ペギラさん、ありがとうございます。

 銅鐸は農耕儀礼の祭具?という説に共感しています。
 僕が子供の頃には "口笛を吹くと風が来た" わけで、猛暑のサトウキビ畑ではしょっちゅうピューピューやてましたね。
 そのうちに祖父もピューピューやると、雲が湧いてきて雨になる(ような気がした)んです。
 日本本土にも、こういう迷信はあるんじゃないでしょうか?
 銅鐸は、「出雲の土笛」のアップデート版のような気かしますが、最近の猛暑にも効くでしょうか(笑)。。

[2297] Re[2296] [2295][2294]ちょっと、あらけない。  いこまかんなび 2006/07/13(Thu) 19:52 [Reply]
銅鐸の孔については、[2295]賛成です。一度眉に唾してみました。
青草バージョンで答えるか、真面目にあ保草にこたえたらいいのか、
ちょっと迷ってしまって。
ぺギラさんの型持の部分が通説では。大型ほど鋳込みが難しい。
都出さん、枚岡時代の先輩?、お元気なのかな。
簡潔に心掛けました。
ゴキブリ、ホイホイ。これからますます必要ですね。青草・青草。。

[2296] Re[2295][2294]ちょっと、あらけない。  神奈備 2006/07/13(Thu) 18:41 [Reply]
> 神奈備さんがそんな発言すると、みんなホイホイと・・のっちゃうから。^_^;

ペギラさんならともかく、小生が銅鐸について何かを言っても、人は眉に唾をしてくれます。

>> >西暦0年頃、日本では小さい銅鐸(鳴らす銅鐸)は埋納されてしまい、大きい銅鐸(見る銅鐸)は未だ登場していない、銅鐸ゼロの期間があったそうですね

上記の件は、『古代国家はこうして生まれた』都出比呂志編)のp.222 で、福永伸哉さんが、指摘されています。

最近、銅鐸は何故埋められてしまったのか、ちょっと考えたりしています。

[2295] Re[2294]ちょっと、あらけない。  ペギラ 2006/07/13(Thu) 17:55 [Reply]
神奈備さん!(叫)
神奈備さんがそんな発言すると、みんなホイホイと・・のっちゃうから。^_^;

銅鐸の孔について、佐原眞著「銅鐸の考古学」P44 引用
・・・・・・・・・・引用・・・・
多くの銅鐸では、両面ともに肩の左右に2個ずつと、
身の上面に2個の円または方形の孔があいている。
また身の下端の左右には、両面ともに台形の凹みが2個みられる。
この計6個の孔と4個の凹みとは型持の孔である。
銅鐸の鋳造には内型(中子)と外型(鋳型)とを必要とする。
内型と外型の間隔、すなわち銅鐸の厚さを等しくたもつために
内型と外型とのあいだにおかれるのが型持である。
そして、その材料が熱に融けぬものであったため、
ここに孔がのこされた。
小型の銅鐸には肩に型持の孔をもたないもの、
身の下端の型持孔を左右2個はもたず、その一方のみのものもある。
小型品を造るには、かならずしも多数の型持を必要としなかったのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・以上・・・・・・・・

鋳造製作上、型持部分が必要でその痕跡がある穴となっている。
なら、どうしてあとでその穴を塞ぐ手段を取らなかったのか?

久野邦雄著「青銅器の考古学」で音響実験のことが記述されている。
・・・・・・・・・引用・・・・・・・・・・
孔の無いものから順じ孔の数を増した場合の実験で
六個の孔と二個の切り欠き孔が余韻のあるもっともよい音色を発する
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

作為的なのか偶然なのか、いい音出たからでしょうね。


次に体形 これも同じ「銅鐸の考古学」から引用するならば、
・・・引用・・・
筒状といっても身の平面形は銀杏形をしているのがつねである。
これにはさらに船の平面形にちかい扁平なものから、
正円にちかい分厚いものまで多くの段階がある。
・・・・・・・・

>西暦0年頃、日本では小さい銅鐸(鳴らす銅鐸)は埋納されてしまい、大きい銅鐸(見る銅鐸)は未だ登場していない、銅鐸ゼロの期間があったそうですね

青草ですからって、ほんとに神奈備さんが言うとみんな踊っちゃうよ。(笑)
銅鐸構造上から連続していない状態は存在しない。
初期の銅鐸と終末期の銅鐸だけを比べたら、
途中の銅鐸たちを無視したら
こんなこともいえるかもしれない。




[2294] Re[2293]:ご無沙汰です。  神奈備 2006/07/13(Thu) 16:01 [Reply]
> >  大型化した近畿地方の銅鐸には何ヶ所か穴があいてますが、これってどうなんでしょう。
>  風を通し、ピューピューと音を出す装置にも思えるんですがどうでしょうか?


  黄金色に輝く大型銅鐸、それが風で音まで出るのは凄い迫力でしょうね。銅鐸の断面図は二つの円弧を合わせた眼形だそうです。長い方を東に向けて置くと、左 手前の穴から右向こうの穴を見ると、冬至の日の出、反対に見ると夏至、このことは『邪馬台国は二カ所あった』大和岩雄著)の中で藤芳義夫氏が指摘したと書 いています。

西暦0年頃、日本では小さい銅鐸(鳴らす銅鐸)は埋納されてしまい、大きい銅鐸(見る銅鐸)は未だ登場していない、銅鐸ゼロの期間があったそうですね。

[2293] Re[2284][2283][2281]: PONTAさん、ご無沙汰です。  琉球松 2006/07/13(Thu) 13:50 [Reply]
 神奈備さん、久しぶりです。

 大型化した近畿地方の銅鐸には何ヶ所か穴があいてますが、これってどうなんでしょう。
 風を通し、ピューピューと音を出す装置にも思えるんですがどうでしょうか?

[2292] Re[2291][2290][2289} :かまどさん、丹生神社の本の件  かまど [Url] 2006/07/11(Tue) 21:03 [Reply]
とみた様

> 書名:丹生の研究(歴史地理学から見た日本の水銀)
> 著者:早稲田大学文学博士  松田壽男
> 出版社:早稲田大学出版社

早々の回答ありがとうございます。なるほど丹生の研究だったんですね。確かにかなり分厚いですよね。あまりにも分厚いので私も必要なところだけコピーして持ってます。(^^;)

内容は少なくなりますが、同じ松田教授著「古代の朱」(ちくま学芸文庫)¥1,000ってのもありますよ。


>7/29の国学院大学の丹生都比売の講演にも出かける予定ですので、講演の概要をお知らせするつもりでおります。

私は九州で住んでおり、時間・金銭的にも難しく断念しましたので、とみた様のご報告楽しみにしております。
国学院藤井先生にメールで問い合わせしましたら1,2年先に丹生都姫神社誌が出版されるとの事なので、詳細はそれ待ちで買って読んでみるつもりです。

[2291] Re[2290][2289} :かまどさん、丹生神社の本の件  とみた 2006/07/11(Tue) 09:58 [Reply]
かまどさん
>
> > セミナーの開かれる東京の虎ノ門の図書室で、先日、丹生神社に詳しい厚い本を見つけました。
> >
> > それって書籍名分かります?もし覚えておられたら教えて下さい。よろしくお願い致します。m(_ _)m
>
> 青草や神奈備で、丹生とか丹錦とか狩場明神の話が出てきすので、少し興味を持っていましたら、図書室に丹生の分厚い本を見つけました。
>
> 吉野川や紀ノ川に朱や水銀が取れるということは承知していましたが、宇陀郡莵田にも水銀が取れ、宇陀の奥地の入谷(ニウダニ)とそこに鎮まる丹生神社が日本最古代史の中核である。
>
> 入谷=ニウダニ=丹生谷と解説してありました。>

私から、今朝図書室に電話を入れて書名を確認できましたので、お知らせします。

書名:丹生の研究(歴史地理学から見た日本の水銀)

著者:早稲田大学文学博士  松田壽男

出版社:早稲田大学出版社

昭和45年刊行

ページ数:410

少し古い本ですが、私がコピーした部分は・・・宇陀の入谷/血原の伝説/二つの丹生神社/水分け神の性能/宇陀の水分け神社/式内社への疑問・・・などと展開されています。

村誌、宇陀郡史料、万葉集、丹鶴叢書、都祁水分大明神縁起絵巻などを駆使して説明されております。

以上ご参考までに


[2290] Re[2289} :かまどさん、丹生神社の本の件  とみた 2006/07/11(Tue) 08:26 [Reply]
かまどさん

> セミナーの開かれる東京の虎ノ門の図書室で、先日、丹生神社に詳しい厚い本を見つけました。
>
> それって書籍名分かります?もし覚えておられたら教えて下さい。よろしくお願い致します。m(_ _)m

青草や神奈備で、丹生とか丹錦とか狩場明神の話が出てきすので、少し興味を持っていましたら、図書室に丹生の分厚い本を見つけました。

吉野川や紀ノ川に朱や水銀が取れるということは承知していましたが、宇陀郡莵田にも水銀が取れ、宇陀の奥地の入谷(ニウダニ)とそこに鎮まる丹生神社が日本最古代史の中核である。

入谷=ニウダニ=丹生谷と解説してありました。そのあたりだけを20ページほどコピーして手元に持っております。

本の名は控えておりませんが、近日中に図書室に参りますので調べてご返事いたします。

お急ぎであれば、NPO国際縄文学教会 (東京虎ノ門) TEL:03−3591−7070  の図書室にお問い合わせ下さい。

係りのスタッフは親切に答えてくれると思いますが、蔵書が多い中スタッフの人数が少ないので探せるかどうか少し心配です。

不確かですが2-300ページはある本です。丹生神社XXX??という表題か少し怪しいですね。

7/29の国学院大学の丹生都比売の講演にも出かける予定ですので、講演の概要をお知らせするつもりでおります。




>

[2289] Re[2287][2286][2280][2277][2276]:  Re QUBO :房総、常陸、武蔵  かまど [Url] 2006/07/10(Mon) 21:36 [Reply]
とみた様

こんばんは。

> セミナーの開かれる東京の虎ノ門の図書室で、先日、丹生神社に詳しい厚い本を見つけました。

それって書籍名分かります?もし覚えておられたら教えて下さい。よろしくお願い致します。m(_ _)m

[2288] Re[2287][2286][2280][2277][2276]:  Re QUBO :房総、常陸、武蔵  nick [Url] 2006/07/09(Sun) 07:43 [Reply]
とみたさん、おはようございます。
千葉方面のご紹介、ありがとうございます。

台風3号が接近中です。
しかしこれが停滞気味の梅雨前線を押し上げて、早朝から「お日様」が。。
久々の上天気のようです。

性分でしょうか。自分なりの確証を得ないと納得出来ない。
そこであちこち、走り回っては「ネタ探し」を。笑。

寺社探訪もそうでしたが、史資料だけでは計り知れない現場の雰囲気、環境が
ありますから。
「推論」は、所詮は『空論』、バックデーターあっての「論考」
を心がけたいと念じています。

[2287] Re[2286][2280][2277][2276]:  Re QUBO :房総、常陸、武蔵  とみた 2006/07/08(Sat) 21:57 [Reply]
nickさん 

千葉の土器に詳しい方との接点もお持ちなのですね。私は未だそのレベルにありません。

千葉県の遺跡や考古学の掲示板がありますよ。

http://bbs3.on.kidd.jp/?0330/sawabbs

私もこれを覗いては縄文セミナーに押しかけています。

セミナーの開かれる東京の虎ノ門の図書室で、先日、丹生神社に詳しい厚い本を見つ

けました。

東京渋谷でも月末に國學院大學の丹生比売神社の講演もあります。みんな無料です。

交通費だけで済みますので助かります。

別の掲示板に、魏呉蜀の三国時代の呉の孫権が魏に対抗するために甑島に、兵を送り指令基地にした・・・さらに南九州に渡った兵が隼人だ〔甑隼人?)という」新説を本に著した人が出てきましたよ。

[2286] Re[2280][2277][2276]:  Re QUBO :房総、常陸、武蔵  nick [Url] 2006/07/08(Sat) 20:51 [Reply]
とみたんさん
千葉でも次のような当地に関連の縄文土器の出土があります。

曽畑式土器、轟式土器、塞ノ神式土器

来週、当地の上野原縄文遺跡へ出かけ新東さんにでも
伺おうかと。
いずれにせよ千葉の調査報告書の閲覧が出来ればいいですが。

[2285] Re[2284][2283][2281]: PONTAさん、ご無沙汰です。  PONTA 2006/07/08(Sat) 16:43 [Reply]
> 鬼道、神獣鏡のような道教的な宗教権力がこの国を席巻したことがあったとか。

宗教の力というか、洗脳(マインドコントロール)力はすごいですからね。
鎌倉時代には仏教が流行したし、古代においては富士川で常世神が流行したし。

信長が長生きしていれば、日本はキリスト教国になったかも?
「(一揆を起こすような)仏教を信じるな」と禁止しても人は動かない。
「キリスト教を信じろ」と言うと(仏教を捨てて)キリスト教を信じる。

心理学的に、一方的に「Aはダメ、やるな」ではAをやめないんです。人は。
Aをやめさせるためには、「(Aの代わりに)Bしなさい」と言わないと。

太 陽信仰にしても、「天照(アマテル。男神。ニギハヤヒ?)を信じるな」と言うと猛反発されるけど、「同じ太陽神の天照(アマテラス。女神。卑弥呼?)を信 じろ」と言えば、比較的少ない反発で(アマテルを捨てて)アマテラスを信じさせることが可能だったかと。それに、古代の人々は、「支配者が変われば、神も 入れ替わる」のは当然のことで、仕方ないことだとあきらめていたかもしれません。一般大衆にしてみたら、太陽神が誰であっても、今まで通り朝日に向かって 祈ればいいので大差ないのかもしれません。今でも初詣に神社に参拝するものの、その神社の祭神名を正確に言えない人が多いですから(苦笑)。

[2284] Re[2283][2281]: PONTAさん、ご無沙汰です。  神奈備 2006/07/08(Sat) 09:01 [Reply]
> 生き返っても歩けないように足の骨を折ってから埋めるとか、縄で縛って埋めるとか。

あ! それで幽霊には足がないのだ!


> > それにしても銅鐸もそのままとか壊されて埋納されていますが、一斉に埋納されるというのはすごい宗教改革があったのでしょうね。
>> 一体、何があったのだろうね。

> 異民族の侵入でしょうか? 騎馬民族征服説?
> 祭政一致の古代においては、他民族に戦って勝ったら、「われわれの神を信じよ」と自分達の神を押し付けたのでしょうね。

崇神天皇の物語では、結局の所、三輪山の神を祀ることになります。被支配者の神を共に祀ると言うのが、支配者としての手なずける手段でもあったのでしょう。神社によっては、地主的な神がいて、その上に支配者の神がかぶさるイメージです。


銅鐸の場合には、悉く埋納しないと、祟りがある、と言った程度では出来なかったもっと強い圧力、皆殺しの圧力が伴っていた祭政権力の交替が必要だったように思います。
鬼道、神獣鏡のような道教的な宗教権力がこの国を席巻したことがあったとか。


[2283] Re[2281]: PONTAさん、ご無沙汰です。  PONTA 2006/07/08(Sat) 02:33 [Reply]
> 丁度、吉田敦彦著『日本神話の成り立ち』と言う本を古書市で手に入れて読みかけています。縄文時代から神話が流入しているようですね。

私も吉田敦彦著『神話の考古学』という写真集のような本を読んでいるところです。

> 今は出棺の時に故人の茶碗を割りますが、二度と生き返らないとのとのとの呪いなのかな。

確か、屈葬も化けて出ない(?)ようにするためと聞いたことがあります。
生き返っても歩けないように足の骨を折ってから埋めるとか、縄で縛って埋めるとか。

> それにしても銅鐸もそのままとか壊されて埋納されていますが、一斉に埋納されるというのはすごい宗教改革があったのでしょうね。
> 一体、何があったのだろうね。

異民族の侵入でしょうか? 騎馬民族征服説?
祭政一致の古代においては、他民族に戦って勝ったら、「われわれの神を信じよ」と自分達の神を押し付けたのでしょうね。
伊 勢神宮の建設に当たっては、倭姫命がご神体(鏡)を伴って20箇所以上移動してから伊勢に落ち着いたといわれていますが、現在「元伊勢」と呼ばれる倭姫命 が立ち寄った場所は太陽信仰の中心地だとする説がありますね。つまり、そこで祀られている太陽神を天照大神に換えるための戦いをそこで行ったのだそうで す。(「戦いは行われなかった」とする説もありますね。「新技術(稲作技術、製鉄技術等)を教えてくれるなら、大和朝廷の傘下に入る」と言った人々が結構 多かったとか。)

[2282] 薩摩切子  nick [Url] 2006/07/07(Fri) 22:52 [Reply]
今、薩摩切子の紹介があった。「美の壷」

そう云えば、幼い頃こんなことがあった。

隣のお姉さんが、空になった瓶類を
花壇の縁に埋めて廻らせ仕切りを作っていた。

ある日、縁側にあった綺麗なガラス瓶を
真似をして得意満面で埋めた。

2、3日して大騒ぎになった。
そして皆血眼になって探している。
きょとんとして、、指差したら、、
皆胸なで安堵していた。

当時は何のことかさっぱり判らなかった。
大人になって、貴重な伝統工芸品
それも世界に誇れる「切子」が
あったことを知った。

あの時の「薩摩切子」はどこへ消えたのかな。
いつも親切にしてくれたお姉さんは
暫くしてアメリカへ移住されたが、、
渡航費用にでも流用されたのだろうか。

http://www.shimadzu-web.co.jp/kiriko/menu.asp


[2281] PONTAさん、ご無沙汰です。  神奈備 2006/07/07(Fri) 21:44 [Reply]
> 私、土いじりは嫌いなんです。腰が痛くなるし(笑)。

お若くて、はつらつとされた印象ですよ。腰痛とは聞きたくないお話ですね。

>  1つの国に話っていくつあるのでしょうか? 数千? 数万? たくさんあればあるほど、他の国の話と同じ話、似た話がある確率が高いですね。

丁度、吉田敦彦著『日本神話の成り立ち』と言う本を古書市で手に入れて読みかけています。縄文時代から神話が流入しているようですね。


>  鏡を割るのは中国では死者の魂を呼び戻すためにするものだそうです。

あえて割った鏡を埋葬している古墳もあったような・・・。
今は出棺の時に故人の茶碗を割りますが、二度と生き返らないとのとのとの呪いなのかな。
それにしても銅鐸もそのままとか壊されて埋納されていますが、一斉に埋納されるというのはすごい宗教改革があったのでしょうね。
一体、何があったのだろうね。

[2280] Re[2277][2276]:  Re QUBO :房総、常陸、武蔵  とみた 2006/07/07(Fri) 21:14 [Reply]
nickさん 

東京地方も暑いですよ。

昨日一昨日など、熱帯性のスコールみたい。

急に強い雨が降ってきて、雷もついて、そしてしばらくするとあがってしまう。

隼人のこと、いろいろとHPで紹介していただいているようですね。見つけました。

隼人が用いた土器なんてありました。やはり土器の比較が出来ないと古代史は

探索不可能なんでしょうかね。少し勉強するとしましょうか。

例の房総と常陸へは、忌部氏と多氏がやって来たことが確かめることが出来ました。

隼人もやってきたでしょうね。

しつっこくやっていると、向こうから近づいてくれます。

神奈備から
これ以降に2277の全文が載っていました。冗長に過ぎますので、早晩、消さして頂きます。

> とみたさん、雨はどうですか。
> 当地はよく降りました。在来線は基より新幹線もダメージを。
>
> >ついに房総にも阿多隼人が来てる?
>
> 別の掲示板に参照サイト掲載しています。
> 調査報告書が閲覧できたら、後日内容を掲載します。

[2279] ネタばらし  PONTA 2006/07/07(Fri) 19:27 [Reply]
6/30に発行された星野之宣「宗像教授異考録」第二集(小学館) を読み終えました。(漫画ですが;)

内容は、
・花咲爺の犬
・割られた鏡
・織女と牽牛
の3本立てです。

*以下ネタばらし

・花咲爺の犬

 「花咲爺」の元の話は中国の「狗耕田」で、原型の「狗耕田」では兄弟対立の話なのに、「花咲爺」では他人同士のお爺さんの対立に書き換えられたのはなぜかということで、縄文人(原日本人)と弥生人(大陸からの渡来人)の対立の話に変えただからとする。

 興味深かったのは、p.28〜29の犬神明神の話です。近江の話だそうですが、これと全く同じ話(犬の首をはねたのは狩人ではなく武士ですが)が三河の糟目犬頭神社に伝えられています。近江の話を元に、新田義貞の首を隠す口実に創作したのかな。

http://www6.ocn.ne.jp/~kanpanda/inunaki.html

・割られた鏡

 鏡を割るのは中国では死者の魂を呼び戻すためにするものだそうです。
  三河の鳳来寺山の鏡岩の下から割れた鏡が大量に出土して、「鏡岩下遺跡」と名付けられました(まんまじゃん)。この鏡は平安時代〜江戸時代のもので、自分 の姿を鏡に写して、自分の穢れを鏡に移して投げ捨てた物です。岩に当てて割ったのでしょうね。 (鳳来寺はお寺なのに絵馬があります。絵馬には銀色の丸い鏡が貼られています。)

・織女と牽牛

 七夕伝説の原型はギリシア神話だとする。
 確かにヨーロッパと中国はシルクロードで結ばれて、物品だけでなく、話(伝説・民話・神話・説話等)も伝えられたことでしょうね。  
 1つの国に話っていくつあるのでしょうか? 数千? 数万? たくさんあればあるほど、他の国の話と同じ話、似た話がある確率が高いですね。
 七夕伝説とギリシア神話は確かに似ていますが、似ていると言うだけでは「ギリシア神話が七夕伝説の原型になった」とは断言しがたいですね。
 上の犬神明神の話と糟目犬頭神社の話は、同じ話が元になってるのでしょうね。犬の首を切った人と、それが行われた場所が違う以外は全く同じ話ですから。

[2278] 日本人とは?  PONTA 2006/07/07(Fri) 19:19 [Reply]
某タレントさんが、某ラジオ番組で「私の趣味はガーデニング。土をいじってると癒される。日本人は農耕民族だからでしょうね。私のDNAが私が日本人だって教えている」とおっしゃいました。

私、土いじりは嫌いなんです。腰が痛くなるし(笑)。
私の場合、海を見ていると癒されます。私の先祖は海洋民族だと思います。(と言うのは嘘で、海を見て癒されるのは、多分、「波の音がお母さんの胎内にいるときに聞いていた音(「ザー」という血液が流れる音)と似てるから」だと思います。)

日 本人は本来、田畑を耕して生きる農耕民族なのか、平野部の狭い島国に生きる海洋民族なのか・・・PONTAでは、陸の民に「ヤマサチ」、海の民に「ウミサ チ」と勝手に名前を付けて、日本における両者のかかわりを研究中です。(正確には「研究していました」かな。現在はお休みして、鉄ちゃんになるべく「鉄道 の研究」をしています。)ヤマサチ=山で狩猟・採集生活、ウミサチ=海で漁業であって、平野で農耕生活するノサチの台頭は弥生時代以後? 某タレントが言 うように、日本人は本来、農耕民族なの?

正解は「日本人はいろんな民族の混血」なのでしょうね。シルクロードを西洋から日本まで旅し た写真家が、「いろいろな国の人の顔を撮りながら旅した。どの国も同じ顔の人が多かった。しかし、日本に着いたら、顔がばらばらで、いろんな国の人の顔が 混じっていることに気付いた」と言っています。(今の日本人はいろんな民族の混血だとして、混血する前の原日本人は農耕民族なの? しつこい!)

[2277] Re[2276]:  Re QUBO :房総、常陸、武蔵  nick [Url] 2006/07/07(Fri) 17:53 [Reply]
とみたさん、雨はどうですか。
当地はよく降りました。在来線は基より新幹線もダメージを。

>ついに房総にも阿多隼人が来てる?

別の掲示板に参照サイト掲載しています。
調査報告書が閲覧できたら、後日内容を掲載します。

[2276]  Re QUBO :房総、常陸、武蔵  とみた 2006/07/06(Thu) 10:07 [Reply]
QUBOさん 早速、船橋で一杯うれしいですね。

柏で古代史仲間を10人集めて、最近まで千葉のカルチャーセンターで例の小林恵子さんのユニークな説を4回聴いて帰路船橋で4人衆と飲みながらワイワイやっておりました。

QUBO さんは相当勉強されているようですね。私は守備範囲は広くってシルクロードまで行ってますが、底が浅くってすぐ知識の無さが露呈します。メルアドを神奈備 さんから教えてもらってよろしいですか。(公開の掲示板に出すとワンサカ迷惑メールがやってきますので、公開したくないんです。)

nick さんは、現役時代、関東圏で活躍されていたようですね。齢をとるとお互い田舎の方がいいですね、コンクリートは飽き飽きします。隼人が房総にも来ているん ですか。ネタいただけますか。南九州阿多族は、紀伊半島の吉野川の阿多に入植しています。関東の熱海は阿多の海という説もありますし・・・ついに房総にも 阿多隼人が来てる?

神奈備さん、埼玉東松山市で4世紀の水晶の玉造り工房を発見!

ありがとうございます。川沿いですね。流通拠点です。関東圏はどうなっているんでしょうね。

QUBOさんご案内の茨城の夜刀の神で有名な行方郡にも玉造り。忌部は祖を天太玉命とし玉造で祭具を製造していた氏族でもありますね?四国から発し房総へさらに常陸へも行ったのでしょうか。忌部は出雲の意宇でも玉造りをやっています。初代出雲国司でもあるし・・・

夜刀の神は、霞ヶ浦湖の入り江に先住していた民の神。この神の妨害をなだめ懐柔しては干拓した。この地を継体天皇時代に麻多智が入植、孝徳天皇時代の壬生連麻呂まで干拓した。この功績で国造になった。


ここのところ分かりませんね。鹿島神宮近くの潮来にはオホ神社があり、これが鹿島神宮の祭神の武甕槌神の元祖だとも言いますし・・・このオホは出雲の意宇のオホとつながっていると言う人もいます。

埼玉は稲荷山古墳で、石棺の石は房総の富津から荒川を遡って運んだ。逆に房総の円筒埴輪の生産拠点は埼玉の川沿いにあって、11人チーム(一人が棟梁)であった。この埴輪を房総の豪族の要請で配分した。

水辺が流通拠点です。

埼 玉は武蔵国で氷川神社が沢山ありスサノオを祭っています。出雲の翳が房総も含めて多いと勝手に推量しています。日向一族系図〔原田常治)によれば出雲国造 の祖である天穂日命の子孫の武比良鳥尊の後裔に武蔵国造と千葉県の国造が出てきます。大宮氷川神社は武蔵国の一宮で、社家の西角井家は景行天皇の時スサノ オを奉じて武蔵に移住し成務天皇の時朝廷から国造に任命されたとあるそうです。

話は、二転三転 ゴチャゴチャですみません。

[2275] 豪雨が  nick [Url] 2006/07/06(Thu) 08:58 [Reply]
この連日の雨量が甚大で無い様子。
1日で250mmアップの地区が並んでいる。

私の住んでいる所は、河川の中流域。
これから未だ降るようだから、河川の許容量を
突破しなければいいが。
幼い頃はいつも畳をあげ近隣に非難したが。。

そういえば、近くの橋も平成5年の集中豪雨では数本
流失した。
また、比賣之城も崩落で人災になった。
それ以来の豪雨のようだ。

この時、旧嶋津氏の居城だった
「舞鶴城」の鬼門鎮護で勧請した伊勢神社の
社殿の一部と境内が土石流で半壊したのは
記憶に新しい。
この後、『雨降神:阿夫利神社』を勧請したが。。

過日、管理人さんと参拝した「大穴持神社」だが
当日は生憎のお天気で最高の景色をお見せできなかった。
実際は目前には火を噴く櫻島が迫ってくるのです。

「続日本紀」:宝亀九年(778)十二月甲申

去神護中。
大隅國海中有神造嶋。
其名曰大穴持神。至是爲官社。

当地は、古来より「神様との共存共栄」
ご加護を祈願するのみ。

皆さんもご留意を。
懐中電灯、ラジオ、水、簡易食料、合羽は大丈夫ですか。

[2274] Re   QUBO 2006/07/05(Wed) 21:29 [Reply]
とみた さん  船橋で一杯 いいですねぇ
『忌部氏と房総』は、私も大変興味深く視ています
私の昔の転勤先が徳島でした。
昔使ったハンドルネームは「酔っ払う安房」でした。
ついでに「ソバタカ」神社については、その後の
ハンドルネーム「習志野のてつ」で以前書き込みました。
http://kamnavi.jp/log/ktba0306.htm の[41]です

nickさん 「昭和46年頃、八千代台の公団・・・」
花見川、高津両団地とも健在ですよ 設計をされたのですか・・・絶句

神奈備さん いつもお世話になります
また、ホットニュース有難うございます。
「玉作り工房の発見は関東では初めて…」知りませんでした
地名ですが 茨城県行方(なめかた)市玉造(旧玉造町)があります
 あの夜刀の神の祭られているところです 
当然のごとく、玉を造っていた、と思っていました。

[2273] Re[2270][2268][2267][2266]: 縄文風弥生土器  神奈備 2006/07/05(Wed) 17:58 [Reply]
> 神奈備さんは邪馬台国大和説ですか!

邪馬台国片道1000円以内、と言うのがモットーです。

http://www.asahi.com/culture/update/0704/029.html
埼玉で水晶や碧玉を加工した4世紀の工房跡を発見したそうです。玉作り工房の発見は関東では初めてだそうです。

日本はそれほど広い国ではないので、このような神器などもよく似たものが全国的にもてはやされたのかも。

[2272] Re[2271][2266]: 少し真面目に  nick [Url] 2006/07/05(Wed) 16:15 [Reply]
QUBOさん とみたさん、

2泊3日位の小旅行でぜひお越し下さい。
喜んでご案内します。(私の元気なうちに。笑)

昭和46年頃、八千代台の公団を設計して、船橋から箱型グリーン電車で
数回行きましたっけ。
その後、千葉の日の出町のコンビナートや幕張辺りの官庁物件や
ショッピングモール、ホテル等多数設計して。。
当時は埋め立て地で、交通機関が皆無。
深夜タクシーで交通費2万円だったのを懐かしく思い出します。
連日の残業で、歴史探訪どころでは無かった。

そういえば銚子の石油コンビナートも行きましたっけ。
あれも遠かった。笑。

当時は、『隼人との接点』があろうとは夢にも思わなかったが、
インターネット様さまですね。笑。

[2271] Re[2266]: 少し真面目に  とみた 2006/07/05(Wed) 10:22 [Reply]
QUBOさん 
とみたです

なんと、八千代とはびっくりです。
私は柏だから、船橋あたりで古代史談義も面白いですね。両者とも30分で着きます。如何ですか

勝田台のこのセミナーなんですが行くつもりでしたが風邪でダウンしました。おかげさまでほんの少しセミの内容が分かりました。

縄文セミナーが東京虎ノ門でも毎月ありますよ。7/21 は沖縄風水 8/12は沖縄考古学です。

(無料です)

忌部氏と房総の接点とか、出雲のオホ氏と鹿島の接点とか調べているんですが。

nickさんが隼人も着たと言ってますが。。。

姫さんは、須恵器の製造と物流拠点を河内と見て房総にも来ているのでは。。。

市原の神門4号墳は奈良の纏向の石塚古墳と同時期野3世紀の中〜後半といわれています


[2270] Re[2268][2267][2266]: 縄文風弥生土器  QUBO 2006/07/04(Tue) 22:36 [Reply]
姫さま 何となく姫だと「さん」ではなく「さま」になりますね
こちらこそよろしくお願いします
『縄文風須恵器』ほっほぉ〜う そんなのも有りますか!!

nick さん やはり 一度は行きたい上野原 ですね
上野原の縄文人は、火山の爆発以前に、黒潮にのって
紀伊や静岡方面に来たみたいですよ
少なくとも、舟を作るための石製丸ノミは、伝わっています。

神奈備さんは邪馬台国大和説ですか!
私は九州説で、安本美典さんの「邪馬台国の会」にも
時々ですが参加してますよ

すいません一箇所訂正です
四隅突出型『墳丘』墓です
 四隅突出型『周溝』墓とは、間違いですね
広島から島根、鳥取、富山とあり、何と福島でも見つかっています
http://www.hist.shimane-u.ac.jp/kouko/List.htm

[2269] Re[2266]: 少し真面目に  神奈備 2006/07/04(Tue) 19:14 [Reply]
> 前方後円墳=天孫型 中央集権的部族連合

前月の「豊中歴史同好会」の講演は、福永伸哉さんの前方後円墳に関するお話でした。その中で、卑弥呼があれほど長生きしなかったら、日本に「前方後円墳」は現れて射なかったのではないか、との言葉があり、印象に残りました。
 偉大な女王として君臨し、彼女の統治時代にこの国はまとまって来て、卑弥呼の記念物として前方後円墳が成立、以降の政権は前方後円墳の秩序を受け継いで行って大和政権の基盤となっていったと言うこと。
 
 卑弥呼がそこそこで死んでいたら、この国の統治が固まったかどうか、よしんば固まったとしても、さほど偉大でもなかったとすれば、只の円墳だった可能性もあり、円墳秩序で大和王権がスタートしていたかも。

 この辺りの論議はおそらく都出比呂志さんが始めて唱えたのかも。

 推薦図書『古代国家はこうして生まれた』角川書店 ¥2100.−
豊中歴史同好会
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

[2268] Re[2267][2266]: 縄文風弥生土器  nick [Url] 2006/07/04(Tue) 17:37 [Reply]
弥生の頃になると黒潮に乗って「隼人」がそちらへ行っていたようです。

http://www.jomon-no-mori.jp/japanese/a.htm

鹿児島でもこれだけの文様があるそうです。

そういえば、9500年前の集合住宅「上野原縄文遺跡」
今ならさしずめ別荘地のような立地条件
展望良好、日当たりよし、環境抜群、交通不便

昨年の夏休み明け父と出かけました。
模様は、メニュー>>縄文の窓>>2005年上野原縄文遺跡

からどうぞ。

[2267] Re[2266]: 縄文風弥生土器   2006/07/04(Tue) 16:53 [Reply]
QUBOさん、 
始めてレス差し上げます。 どうぞよろしくお願いします。

> 全く知らなかったのですが縄文の模様を付けた弥生土器が多数紹介されました
> 私の記憶では、「縄文が付けば縄文土器」だろう?と思っていましたのでビックリ
> 弥生文化は取り入れても、千葉の弥生人は、縄文の心は持っていた?

発 掘された縄文風弥生土器の出来栄えはいかがなものだったでしょうか。  と、申しますのも、私も一見したところでは縄文なのに、実は須恵器、という土器 を、スライドで見せてもらいました。  竹之内遺跡から出土したものです。 私には縄文か須恵器か、さっぱりわかりませんでしたが、説明では非常に良く出 来た作品なのだそうです。
決して偶然にそうなったのではなく、わざわざこのように焼いたのだということでした。  このような須恵器は河内の陶邑から運ばれ、竹之内に集積され分配されましたので、縄文風須恵器が沢山出土した理由として、需要が多かったのかもしれないとも考えられます。  
弥生人も土器に芸術性をみていたのだなと思って、ワクワクしてしまいました。
印旛沼周辺の弥生人はどうだったのでしょうね?

> 方形周溝墓
> 一辺20Mもある巨大なものが、部落中心に在る例がある。

それは凄いですね!  私などが考えるとあまり気持ちの良いものとは思えないのですけど、村が成立した最初の形は、村の真ん中に墓があったそうですので、印旛沼の遺跡は非常に古い時期のものでしょうね。  

>  普通は部落の外で、一辺数メートルです
> 周溝墓の溝は、ちょっと表現が変ですが 1二1 の状態、
> つまり四隅が切れています
> これなら盛り土を多くすれば例の出雲の墓制
> 四隅突出型周溝墓(ヨスミトッシュツガタ・ひとでがたの墓)
> と同じになります

出雲からは遙かに遠い土地ですが、四隅突出型の、もしかしたら成立段階の形かもしれませんね。  よく古い形の村が残っていたものですね。
どんな村だったのか、想像が膨らみます。

> 『ひそかに』以下のことが言えないか?と思いました。
> 方形周溝墓=スサノウ型 ゆるやかな部族連合
> 四隅突出型周溝墓=オオクニヌシ型 より強固なクニの連合
> 前方後円墳=天孫型 中央集権的部族連合

[2266] 少し真面目に  QUBO 2006/07/04(Tue) 13:16 [Reply]
性神信仰の話だけでは気が引けるので、別のかきこみです
先週の土曜日曜でシンポジウム「印旛沼周辺の弥生土器」に行きました
それなりに面白かったのでいくつかご紹介。

全く知らなかったのですが縄文の模様を付けた弥生土器が多数紹介されました
私の記憶では、「縄文が付けば縄文土器」だろう?と思っていましたのでビックリ
弥生文化は取り入れても、千葉の弥生人は、縄文の心は持っていた?

私の住む千葉県八千代市は、北に印旛沼があります。その南岸に、
栗谷(クリタニ)遺跡があり、90戸以上の住居跡が見つかっています
 栃木、茨城では、10戸以上の集落はごく稀だそうです。
弥生時代には、千葉はかなり人口の多い所だったようです

方形周溝墓
一辺20Mもある巨大なものが、部落中心に在る例がある。
 普通は部落の外で、一辺数メートルです
周溝墓の溝は、ちょっと表現が変ですが 1二1 の状態、
つまり四隅が切れています
これなら盛り土を多くすれば例の出雲の墓制
四隅突出型周溝墓(ヨスミトッシュツガタ・ひとでがたの墓)
と同じになります
『ひそかに』以下のことが言えないか?と思いました。
方形周溝墓=スサノウ型 ゆるやかな部族連合
四隅突出型周溝墓=オオクニヌシ型 より強固なクニの連合
前方後円墳=天孫型 中央集権的部族連合

[2265] Re[2262]: 笑点の山田君  QUBO 2006/07/04(Tue) 12:41 [Reply]
>  大阪天満のOMMで古書市があり、性神信仰の本がありました。…
性神信仰といえば、尾張の大縣(オオアガタ)神社、田縣(たあがた)神社
3月15日の天下の奇祭ではないでしょうか
尾張の大形→大張形 とつまらない連想をしてしまいます
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/hokan/ooagata.html
一度は見に行きたいと思っています。

> 古は…それほどまでして子供をほしがったのに、現在は…
子供を欲しがるだけではなく、『生産=豊作』を願ってのことでもあるようです
子供だけでなく米の生産も制限される時代ですからね

[2264] Re[2263][2262]: 笑点の山田君  神奈備 2006/07/04(Tue) 08:37 [Reply]
> > この矢根研石↓のことでしょうか?

かまどさん、ありがとうございます。
このような石がありましたか。
ヤーネー。

[2263] Re[2262]: 笑点の山田君  かまど [Url] 2006/07/03(Mon) 20:58 [Reply]
> 和歌山県伊都郡高野町金剛峰寺・天野宮 丹生大明神 一名狩場明神ともいう。 Why?

この矢根研石↓のことでしょうか?

http://kamado.blog.ocn.ne.jp/niu/cat2754553/index.html

狩場明神がこの石で矢を研いだようなのですが、その形が女性の・・・に似ていることからご利益は安産だとか。

[2262] 笑点の山田君  神奈備 2006/07/03(Mon) 18:41 [Reply]
 大阪天満のOMMで古書市があり、性神信仰の本がありました。

各地の事例があり、若干紹介いたします。

伊勢市内宮内子易社 山ノ神 明治半ばまで内宮神域に接して一丈ともあろうと思われる陽石が立っていて、その周囲に何千何百と同形の石があったそうですが、全部埋められてしまったそうです。

和歌山県伊都郡高野町金剛峰寺・天野宮 丹生大明神 一名狩場明神ともいう。 Why?

奈良県桜井市大三輪町 大物主神社 夫婦石

奈良県吉野郡 金峰神社 金精明神

大阪市天王寺区 生玉神社境内金山彦神社 現在は見えない。精鎮社か?

京都市(右京区梅津) 梅宮神社 マタギ石

京都市(右京区嵯峨朝日町) 車折神社 陽石

兵庫県尼崎市 大物浦大権現 陽石

兵庫県津名郡一宮町 イザナギ神社内 楠サマ 大楠の樹があり、古は夫婦裸で抱き合ってこの樹の周りをまわったと言う。   それほどまでして子供をほしがったのに、現在は・・・。

[2261] Re[2260][2259]: 高皇神社 騒ぎの常連から  神奈備 2006/07/02(Sun) 21:31 [Reply]
> 私の勝手な勘違いでした。

何か嬉しいですね。
ペギラさんでもこの手の騒ぎを!!

[2260] Re[2259]: 高皇神社  ペギラ 2006/07/01(Sat) 12:43 [Reply]
> > >人壬の乱(672)で大海人皇子のため
> > > > 公正部より。(笑)
>
> 校正しようと探しているのですが・・・

ごめんなさい!<(_ _)>
私の勝手な勘違いでした。
私を校正してください。(爆)

http://akon.sakura.ne.jp/jinja/mura-ma.html

の方でした。

人騒がせな。^_^;
もう本当に、すいません。


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