青草掲示板ログ平十八年 九月 2006.9 |
[2510] Re 『題目立』 MADOKA | 2006/09/30(Sat) 21:16 [Reply] |
姫さん はじめまして 『題目立』興味ぶかく読ませていただきました。 非常に古い形態を残した芸能ですねえ 写真も拝見 非常に能に近いですね 猿楽能全勢時にできたようですし 演目も能の題材ににてますねえ 能舞台の建築様式は元々神社建築にもとづいています。創世期の歌舞伎も能舞台を使っています。 本来の芸能は神を寿ぎ、御霊を鎮め。演者を通じて神霊の姿を垣間見る。 こういう芸能を村の宮座で演じ続けている例は稀。 壬生狂言などがそうですが猿楽能の活劇的なところが強いですが。『題目立』は静的 呪的なところがつよそうで 面白いと思いました。 また。演じられることがありましたら。日程等をUPください。是非見てみたいとおもいました。 能 おすすめサイト http://www.h6.dion.ne.jp/~asano/tamago.htm |
[2509] Re[2503][2500]: 八柱神社 姫 | 2006/09/28(Thu) 21:22 [Reply] |
こんばんは。 > 神社庁の資料から > 四柱神社 上田市大字古安曽1187 > 熊野皇大神 金刀比羅大神 大山祇大神 養蠶大神 > > 六柱神社 上田市大字古安曽字西山1478 高オカ神 菊理姫神 大物主神 火産靈神 大山祇神 宇氣母智神 ご紹介くださったので、私も大和高原の八柱神社のことを少しご紹介したくなりました。 八柱神社は全国にたくさんあると思いますが、大和高原にも二社あります。 元は八王子社と言ったそうですけど、明治初年に八柱神社に改められたそうです。 二社のひとつ、都祁村上深川の八柱神社の宮座では「題目立」(だいもくだて)と称する民族芸能がつたわっていて、毎年宵宮に奉納されています。 「題目立」は国の重要無形民俗文化財に指定されています。 私は少し遠方ですので見た事がないのですけど、先日「題目立」についての説明会と実演がありましたので、見学に行きました。 八柱神社の祭神は、高御産日神、神産日神、玉積日神、足産日神、言代主神、大宮売日神、生産日神、御食津神の八神です。 「題目立」は「多聞院日記」にその名前が見られますので、天文三年(1534年)以前には既に存在していたことがわかっています。 元は宮座22戸の子弟が数え年17歳になったとき、大人入りの証として演じたものです。 その後明治21年に村中が宮座に加わることになり、やはり大人入りの儀式として継承されているそうです。 もう400年も途切れることなく演じられてきましたが、一度だけ奉納を休んだ年があって、その年には疫病が流行り、村は大混乱を来たしたと伝わっています。 演題は三つありまして「厳島」「大仏供養」「石橋山」と言います。 前二題は平氏が主役で、「石橋山」のみ源氏が主役と言う筋立てになっていますが、どうやら「石橋山」は後年になって付け加えられたらしく、題目立はやはり平氏を中心として作られていますので、私はもしかしたら、平家の落人がこれらをつくったのではないかと思いました。 けれども大和高原に平家の落ち武者関連の伝承は何もありませんし、そもそも「題目立」が最初からこの村に伝わったものかどうか、わかりません。 一説に寄れば、「隣村が伝承したものを、何時の頃からか現在の村が演じるようになった」と言うことです。 どういう経緯があったのかわかりませんが、この二つの村の間には、ずっと大昔から現在に至るまで、婚姻関係は一切ありません。 題目立の意味ですが、題目というのは、「名乗りをする」と言う意味があることから付けられたもの(題目立が始まるとき、演者がそれぞれに自分の役の、名前を名乗ります。)と言う説と、神を寿ぐ気持(題目)を定めるとする説とがあります。 演じられるのは、全編一定の調子で語られる(唱えられる)語り物としての要素が強く、動作はあまりありません。 また一般の観衆の興味を惹くための配慮がなく、専ら神に捧げる芸能であることが明確であることから、命名の由来は後者のように感じられますね。 今も「題目立」は、神に奉納する儀式としての性格を固く守り続けて、継承されています。 写真を写真掲示板に貼り付けて紹介させていただきます。 |
[2508] おしらせ QUBO | 2006/09/28(Thu) 15:10 [Reply] |
すこし前この掲示板で話題になった 黒潮圏ネットワークの 小田静夫 さんの講演 南からの縄文人の遠祖 スンダランドの人々の そこからの旅立ちについて 東アジアの古代文化を考える会 主催で 講演会「縄文人の故郷ースンダランドからの旅立ちー」 日時 2006年10月22日(日)13時30分〜 会場 豊島区生活産業プラザ JR池袋駅東口徒歩5分(区民センター隣) http://ao.jpn.org/kuroshio/index.html |
[2506] 青草も役に立つ。 素人 | 2006/09/26(Tue) 23:08 [Reply] |
サン・グリーン さま 一部予想と違っていましたので追加で。 > 私は全くの素人なので解説も何も出来なくてすみません。 > 百聞は一見にしかず。 > まるで焼き芋でも作っているような楽しい作業?風景でしょう? > > それから、井関教授は久慈市の餅鉄を入手したいとおっしゃっています。 > 心当たりの方がおられましたらご一報くださいね。 タタラでは製鉄終了時に炉頂部に青草(イネ科の雑草)をかぶせて酸化防止処置をするものがあるそうです。炭の残った状態で、青草で空気と遮断するとともに温度を下げる操作と思われ「火伏せ」と呼ばれているそうです。この状態でさらに炭を燃焼させて送風をとめて炉を解体して、さらに取り出した鉄塊を水中で急冷したりして酸化を防止して鉄の歩留まりを上げています、 これに対して、写真の鉄を含む塊ですが、酸化防止の処置をしていないか、処置の効果が不十分かして生成した海綿鉄の一部が酸化雰囲気で燃焼してこの熱で1500度以上に温度が上がり純鉄を溶かして一部が鉄塊となり一部がウスタイト(酸化鉄)になったように思います。 製鉄時の還元雰囲気での温度が800℃以下と言うことで、生成した海綿鉄(融点1535℃)は溶解しないはずですが、多量に生成した海綿鉄が酸化雰囲気で一部燃焼すれば1535℃以上となり浸炭をあまり伴わないで、鉄塊と酸化鉄の塊を得る可能性はあります。 以上私見ですが、前回大はずれでしたので自身はありませんがタタラ製鉄でノロ出し後、に羽口付近温度が軽く1500℃を越えることがあり一部鉄の酸化に伴う高温と推定されますので、生成した海綿鉄の一部が酸化雰囲気で酸化されれば1535℃以上の高温となり海綿鉄が溶解して塊状の鉄塊となるのではと夢想しました。また小型タタラで終了間際に送風量を増やして酸化雰囲気としてノロ上部の海綿鉄や高沸点の鉄を溶解してノロの中に落としたりすると聞きます。これも鉄の部分酸化により融点以上として融解してノロの中に落とす操作とも推定できます。 素人の机上の空論ですから、炉底部分の製鉄終了、前後の温度測定などで確認しないとなんともいえませんが、融点1535℃?の海綿鉄が800℃で融解することはないのではと思います。生成した鉄を酸化することは、極めて収率を低下させますので製鉄屋さんは大嫌いでしょう。しかし、1500度以上と言う高温を得る手段がない場合にはしょうがない選択で有ったのかもしれません。 それよりも、大学の先生はこの製鉄の原理をどのように、ご指導なさっているのでしょうか。最低でも熱伝対・放射温度計での羽口付近の温度変化ぐらいは、解からないでしょうか。異形の鞴で変わり番子に、8時間製鉄したのかと思っていましたが、小型のブロアーが写真に写っていますのでこれで送風したのでしょう。 餅鉄情報 コンノ電気総合技術研究所Wab 個人で餅鉄での手作り炉での製鉄をやっておられます。餅鉄は大変に詳しいと思われます。 http://kondensouken.hp.infoseek.co.jp/index.html コンノ電器総研掲示板 こちらでご相談になさってはいかがでしょうか。 http://kondensouken.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/bbs/joyful.htm 青草の書き込みでした。 |
[2505] Re[2504][2501]: 塩田平 nick [Url] | 2006/09/26(Tue) 20:45 [Reply] |
くずさん、説明ありがとうございます。 > 古安曽周辺で気になるお社がありました。佐加神社。明治期に白髭大明神から改名されたとあり、また社伝に「799年帰化人5人が山門寺に住む」とありました。 この帰化人と言うのは「新羅」でしょうか。 この頃、博多辺りにも着てますよね。 弘仁五年(814) 新羅入辛波古知等二十六人、帰化せんとして、 筑前國博多津に漂着す > 上田の東方、佐久市岩村田には曲口(しゃぐち)神社があるようで、土地の人が「岩村田の地尺をはかるときに尺を入れはじめをしたところ、入れはじめと入れじまいをした所に夫々曲口社を祀った」と語られていたと、(これは「信濃小社考」からです)ありまして、 なかなか知名や名称の由来も面白いですね。 当地も「条里」の尺が残っている地名が散見されます。 それに由来する神社はどうでしょうか。 > 田んぼを作る際の測量を、土地の岩(ないしは木)を基準とし、はかり始めた。その基準の場所、岩を祀ったとするのが、東北信地方の社宮司社において、自分の中では説明をつけやすいように思います。今のところ。 山頂や岩はいい目印になりますから、山の場合、航行や漁場の目安にしたようですし。 今ならGPSでしょうか。しかし北斜面では役立たずですが。 当地の場合、明神や権現では、2点の山頂を延長した線上に鳥居を立てたりしています。 > ただ、安蘇繋がりで言いました丹後の"御田口の祠"の た が、県内総じて さ、しゃ に変わったとは言えませんし、諏訪大社上社前宮で受けました、強烈な祭祀のイメージにも繋がってはきません。 お諏訪様は当地にもありますよ。 鹿児島県揖宿郡山川町成川に鎮座する「南方神社」がそうです。 当初「熊野の南方翁」との繋がりかと思ったのですが、、 |
[2504] Re[2501]: 塩田平 くず | 2006/09/26(Tue) 07:05 [Reply] |
>
四柱神社とは別のようですよ。 六柱神社、やはりございましたか。お狐様と龍神様を柱にはまとめませんよね。松茸の香りに誘われてしまったようです(笑) 四柱神社は止め山の上という事もあってか、参道(山道)も草ぼうぼうで、少し寂しい感じがしておりましたので、またの楽しみが出来ました。 nickさん、 >秋晴れの爽やかな中大収穫のご様子。 古安曽周辺で気になるお社がありました。佐加神社。明治期に白髭大明神から改名されたとあり、また社伝に「799年帰化人5人が山門寺に住む」とありました。三門寺とはここの地名だそうで、三孤社跡の近くでもありましたし、ミシャクジ様をおしゃごじ様、おしゃもじ様、と伝えるところもありますので、しゃもじ、が、さんもんじ に転化したのかもと考えました。 上田の東方、佐久市岩村田には曲口(しゃぐち)神社があるようで、土地の人が「岩村田の地尺をはかるときに尺を入れはじめをしたところ、入れはじめと入れじまいをした所に夫々曲口社を祀った」と語られていたと、(これは「信濃小社考」からです)ありまして、 田んぼを作る際の測量を、土地の岩(ないしは木)を基準とし、はかり始めた。その基準の場所、岩を祀ったとするのが、東北信地方の社宮司社において、自分の中では説明をつけやすいように思います。今のところ。 ただ、安蘇繋がりで言いました丹後の"御田口の祠"の た が、県内総じて さ、しゃ に変わったとは言えませんし、諏訪大社上社前宮で受けました、強烈な祭祀のイメージにも繋がってはきません。 |
[2503] Re[2500]: 塩田平 神奈備 | 2006/09/25(Mon) 10:30 [Reply] |
> 塩田に行ってまいりました。 くずさん、行動的、すばらしい。 神社庁の資料から 四柱神社 上田市大字古安曽1187 熊野皇大神 金刀比羅大神 大山祇大神 養蠶大神 六柱神社 上田市大字古安曽字西山1478 高オカ神 菊理姫神 大物主神 火産靈神 大山祇神 宇氣母智神 ネットでは六柱神社と石神公民館を開催場所として石神獅子神楽の紹介が出ていますね。 |
[2502] Re[2500]: 塩田平 nick [Url] | 2006/09/25(Mon) 07:54 [Reply] |
くずさんおはようございます。 > 塩田に行ってまいりました。 早速出かけられたんですね。秋晴れの爽やかな中大収穫のご様子。 > 蚕さんは別に蚕影社として色々なお社の境内社にありましたし、地図上の鎮座地 当地も古来からの養蚕の産地なのですが、神社は見当たらないですね。 掘り起こせば出てくるかな。 これからの自社探訪にいいヒントを頂きました。感謝。 |
[2501] Re[2500]: 塩田平 玄松子 | 2006/09/25(Mon) 00:56 [Reply] |
> 上田市誌の別冊「図でみる街や村のうつりかわり」に三狐(さんこ)社跡の場所が記載されていました。 > 明治期に九頭龍社と共に六柱神社に移されたとありました。 六柱神社に合祀されているんですね。ありがとうございました。 > 四柱+三狐+九頭龍で六柱かと思い 四柱神社とは別のようですよ。 |
[2500] 塩田平 くず | 2006/09/24(Sun) 23:55 [Reply] |
塩田に行ってまいりました。 独鈷山の山なみ、夫神(おがみ)岳と女神岳のきれいな円錐形が印象的でした^^ > 古安曽の三狐神社 上田市誌の別冊「図でみる街や村のうつりかわり」に三狐(さんこ)社跡の場所が記載されていました。やはり宇気母智神を祀ったとあり、尾根川の川沿いにあったようです。(書店での立ち読みだったので川を違えていたら失礼。) 明治期に九頭龍社と共に六柱神社に移されたとありました。六柱神社は解らなかったのですが、四柱神社がありましたので、四柱+三狐+九頭龍で六柱かと思い、そこを尋ねてみました。 四柱神社のあるお山は松茸山で秋は止め山だそうですが、参拝と理由を話しましたら通して頂けました。塩田平、上田平を眺める頂の上の小社で、傍らに石の祠が3つありましたが、社名、神名の解るものはありませんでした。時代の流れに忘れられていく小社なのかもしれません。 塩田にはその他にも五加八幡社の境内社に社宮司社がありました。又、下之郷(生島足島神社の近く)にあった左口社は浅間神社に合祀されたと、前出の上田市誌別冊にありました。 蚕さんは別に蚕影社として色々なお社の境内社にありましたし、地図上の鎮座地(跡)と現在の地形を見ますと、やはり水田に関係しているのではないかと思います。また上田の社宮司関係と思われるお社はすべて千曲川を境にして南側にあるようにも思われましたがどうでしょうか? もう一つ、別所は祇園祭りが行われるところですが、信濃国分寺の八日堂縁日の蘇民将来符、 又塩田地区の獅子舞は三頭獅子でそれぞれ角があるそうですし、牛に引かれて善光寺参りも小県郡の婆さです。角のあるものにご縁がある土地なのでしょうか。 |
[2499] Re[2498][2497][2495][2488][2484][2482]八十嶋祭り&アフリカの鉄のつくりかた??? サン・グリーン | 2006/09/24(Sun) 19:46 [Reply] |
神奈備さま。またまたお手数をかけました。ありがとうございます。 > > 下記の住所にアップいたしました。解説をお願いいたします。 > http://6314.teacup.com/kamnavi/bbs 私は全くの素人なので解説も何も出来なくてすみません。 百聞は一見にしかず。 まるで焼き芋でも作っているような楽しい作業?風景でしょう? それから、井関教授は久慈市の餅鉄を入手したいとおっしゃっています。 心当たりの方がおられましたらご一報くださいね。 |
[2498] Re[2497][2495][2488][2484][2482]八十嶋祭り&アフリカの鉄のつくりかた??? 神奈備 | 2006/09/24(Sun) 13:25 [Reply] |
> 大阪芸術大学井関チームの鍛冶場の実験現場写真メールで送らせていただきますのでお手数ですがアップしていただけるでしょうか? 下記の住所にアップいたしました。解説をお願いいたします。 http://6314.teacup.com/kamnavi/bbs |
[2497] Re[2495][2488][2484][2482]八十嶋祭り&アフリカの鉄のつくりかた??? サン・グリーン | 2006/09/24(Sun) 11:59 [Reply] |
神奈備さま すみません、やっぱり写真掲示板に上手くアップできません。 大阪芸術大学井関チームの鍛冶場の実験現場写真メールで送らせていただきますのでお手数ですがアップしていただけるでしょうか? よろしくお願いいたしまぁ〜す。 |
[2496] 魏志倭人伝 gonta [Url] | 2006/09/24(Sun) 10:30 [Reply] |
これまでの魏志倭人伝の解説書は、重要な見落としをしています。 魏は倭の使者を熱烈歓迎しています。 この理解なくして、魏志倭人伝の意訳は不可能でする 過去の解説書で漏れていた部分に、新しい提案を行っています。 http://koala65.com/gishi/gishi.htm |
[2495] Re[2488][2484][2482]八十嶋祭り&アフリカの鉄のつくりかた??? 素人 | 2006/09/23(Sat) 01:54 [Reply] |
サン・グリーン さま 書き込みが遅れてすみません。早速のご回答ありがとうございました。 > 素人さんへ > 鍛冶場の作業でノロと鉄を叩き出すのを見ていた時、傍目にはどっちも真っ黒なのでどうやって見分けるのですか?と尋ねたらノロと純鉄を実際に触らせてもらえたのです。少しさめてからですよ。私の感じではノロは堅くてカサカサ、鉄は柔らかくて手で曲がりました。Kクンが選別作業をさせてもらったので聞いたところ鉄は柔らかいのですぐ判ったらしいです。 > それから、選別作業の台は石床でした、鉄床では純鉄を叩き潰す恐れがあるようです。 > アフリカのジージー(古老)は今の若いもんは鉄をやさしく扱わないといって嘆いていたそうですよ。(井関教授の話) 鉄は柔らかいので純鉄の繊維状のものの表面にウスタイト(FeO、黒色)の皮膜の出来た鉄の集合体がノロと結合したものでしょう。炉内温度は800度以下ですから純鉄の融点は1535℃と非常に高いので溶融状態の鉄を経ずに生成した鉄と思われます。 前に書きました、古くからある確かブラスト炉とか言う海面鉄(スポンジ状)を目的とする製鉄法の一つと思われます。古代中国では角型の背の低い炉が出土していたように記憶しています。 > 鉄鉱石の色は黒でした。 > Kクンが以前に天河の川の中で拾った石を井関教授に見てもらった所、カナクソとのことでした、私たちは隕石だと思い込んで神棚に置いていたのに… > あそこの隕石?を拾って売っていた人がいるのですが、買ったひとは気の毒かも? 「鉄鉱石の色は黒でした。」とすると磁鉄鉱ですね。釜石市の会社で硫黄分は多いようですが小粒の磁鉄鉱は購入出来るようです。磁鉄鉱には石灰分が多いものなどあり製鉄には向いているようです。 ノロの冷えたものカナクソにも鉄の含有量が20%とか60%とかあるようで、鉄の含有量の多いものはずっしりと重く隕鉄のようでガラス質を含むために表面がザラザラして隕石のように見えると思います。製鉄のはじめに鉄分の多いノロが出ることがあるようですが、鉄分の多いノロは製鉄としては好ましくなく、失敗したときなどに多量に出るようです。上手くいくと軽いノロがたくさん出ると思われます。 磁鉄鉱は表面がザラザラしていなくて、磁石に砂鉄と同じように付きます。 上流に磁鉄鉱の鉱山が有った地域の河原で拾えるのではないでしょうか。 お話から推定しますと熱効率は悪いですが、あまり技術のいらない簡易な製鉄の方法に思われます。とても面白い方法です。 鉄は出来てしまえば鍛冶技術で浸炭させて鋼鉄にも出来、過剰に浸炭させれば銑鉄にも出来ますがもったいないので銑鉄にはしないでしょう。日本の鉄は古代でもリサイクルされていましたその技術が役立ち、色々な鉄への加工が出来ました。 あまり複雑では有りませんからこの程度で宜しいでしょうか。 |
[2494] Re[2493]: 多氏と五行 神奈備 | 2006/09/22(Fri) 17:26 [Reply] |
>
石上と関係するのかもしれません。 石神は「シャクジ」とすれば、三狐(さご、さぐ)神に通じるのかと期待していました。 しかし、どうやら、石神は「いしがみ」とよむようです。 そうしますと、おっしゃる通り、布留の石上の訛のようですね。 |
[2493] Re[2492][2491][2490][2485][2469][2468]: 多氏と五行 玄松子 | 2006/09/22(Fri) 13:27 [Reply] |
>
古安曽の安曽神社辺りの字に「石神」がありますね。何かにおいますね。 安曽神社の境内社として布留社がありますからね。 石上と関係するのかもしれません。 |
[2492] Re[2491][2490][2485][2469][2468]: 多氏と五行 神奈備 | 2006/09/22(Fri) 10:27 [Reply] |
> 古安曽の三狐神社については「土俗より見た信濃小社考」に記載がありました。 横から一言。 古安曽の安曽神社辺りの字に「石神」がありますね。何かにおいますね。 養蚕も盛んだったようですね。それで受持神が祀られているのかも。 それにしてもこの地域は溜め池が目立ちますね。大きい川がない。雨が少ないとか。 |
[2491] Re[2490][2485][2469][2468]: 多氏と五行 くず | 2006/09/21(Thu) 18:06 [Reply] |
> > ●古安曽から > > 古安曽には三狐(さご、さぐ)神社がありまして宇気母智の神が御祭神だそうです。 > > すみません。これは上田市の古安曽でしょうか。 > 上田に住んでおりますが、三狐神社という神社はどこにあるのでしょうか。 > お教えください。 上田にお住まいでしたか。 古安曽の三狐神社については「土俗より見た信濃小社考」に記載がありました。 自分の目で確認したわけではありません。出典を書くべきでした。 同書の文面が「諏訪藩一村限村地図」の中に、いくつか三狐神社が確認できる事、 それが御射宮司社に対応している事、その上で東塩田、古安曽の三狐神社が出てまいります。 上田にお住まいの玄松子さんがご存知ないのなら、現在はすでに無く、「諏訪藩一村限村地図」に確認出来るという話なのかな? いずれにしましても塩田には近々伺うつもりです。 またのちほど。 |
[2490] Re[2485][2469][2468]: 多氏と五行 玄松子 | 2006/09/21(Thu) 14:22 [Reply] |
> ●古安曽から > 古安曽には三狐(さご、さぐ)神社がありまして宇気母智の神が御祭神だそうです。 すみません。これは上田市の古安曽でしょうか。 上田に住んでおりますが、三狐神社という神社はどこにあるのでしょうか。 お教えください。 |
[2489] Re[2485][2469][2468]: 多氏と五行 神奈備 | 2006/09/21(Thu) 10:09 [Reply] |
> ●古安曽から 丹後の田口神社の鎮座地は舞鶴市朝来中(あっそなか)で、天橋立の阿蘇海とは距離がありますが、住所の朝来は阿蘇に通じるのでしょう。 田口神社の祭神の日本得魂命ですが、この名は建国の父のような名ですね。一時、卑弥呼のパパかもと思っていました。 信濃の安曽はやはり九州の阿蘇の多氏が伝えた地名と見ていいのでしょうね。 吉備の鳴釜神事では、阿曽郷の阿曽媛とそこの鋳物師が登場するのですが、吉備の国魂神は岩山社に祭られている建日方別命とされ、この神は肥の国や熊曽の建日を冠にしている神々に通じるようにも思え、多氏が一枚かんでいるのかも知れません。 > あるいは丹生関係の構造線鎮守とか、 吉備と信濃とは阿智神社が共通で東漢氏に関わるようです。阿智臣の後裔に坂上氏がいて、丹生都比売神社の祭祀に関係しています。 |
[2488] Re[2484][2482]八十嶋祭り&アフリカの鉄のつくりかた??? サン・グリーン | 2006/09/21(Thu) 07:02 [Reply] |
とみたさん カメハメハ大王のお話ありがとうございました。 滝の傍は人を元気にするマイナスイオンが多いと聞きました。 昔から人は病気になると大自然の中で癒やされていたようですね。 でも私が検証しているのはちょっとラインが違う線からなのです。 八十嶋祭りもイザイホーの祭りも(沖縄、久高島)権力者が自分たち一族のためにだけの祭りにしたためにヤヤコシクなったのでは?と疑っています。 もちろん、鉄の作り方もね。 MADOKAちゃん >。MADOKAちゃんの目のうろこを落とすというのは、なぜ八十島祭りは難波津でなければならなかったか? なぜ天皇は病気になると難波津に行ったのか?という話に関する事なのです おうーあいも変わらずでかいことをほざいてくれます この2問が明確に答えられれば八十嶋祭りの謎が解ける 王手です! あーたでなければ そんなことは言えましぇん! そうなんです、ど素人の頭で古事記を素直に読んだ私だったから判った理論です。 もうすぐMADOKA女史の目のうろこをひっぱがしてあげるから覚悟しておいてね。(*^_^*) くずさん 私も製鉄実験している井関先生の傍で「今度は大きなお芋持ってくるので一緒に焼いてください」と言ってしかられました。「だから女を鍛冶場に入れるな」といわれるのよね。と… アフリカでも製鉄する時は注連縄のようなもので周囲を囲って作業するそうです。 鉄を作るというのは神さまの領域なんだと感じました。 だから、MADOKAちゃんの口車に乗って芋と一緒に鉄作ってはイケマセン! 素人さんへ 鍛冶場の作業でノロと鉄を叩き出すのを見ていた時、傍目にはどっちも真っ黒なのでどうやって見分けるのですか?と尋ねたらノロと純鉄を実際に触らせてもらえたのです。少しさめてからですよ。私の感じではノロは堅くてカサカサ、鉄は柔らかくて手で曲がりました。Kクンが選別作業をさせてもらったので聞いたところ鉄は柔らかいのですぐ判ったらしいです。 それから、選別作業の台は石床でした、鉄床では純鉄を叩き潰す恐れがあるようです。 アフリカのジージー(古老)は今の若いもんは鉄をやさしく扱わないといって嘆いていたそうですよ。(井関教授の話) 鉄鉱石の色は黒でした。 Kクンが以前に天河の川の中で拾った石を井関教授に見てもらった所、カナクソとのことでした、私たちは隕石だと思い込んで神棚に置いていたのに… あそこの隕石?を拾って売っていた人がいるのですが、買ったひとは気の毒かも? あっ! まだ鍛冶場の写真アップできてません。すみません(~_~;) |
[2487] 大青草八十嶋祭り??? MADOKA | 2006/09/21(Thu) 02:42 [Reply] |
サングリーンさん >。MADOKAちゃんの目のうろこを落とすというのは、なぜ八十島祭りは難波津でなければならなかったか? なぜ天皇は病気になると難波津に行ったのか?という話に関する事なのです おうーあいも変わらずでかいことをほざいてくれます この2問が明確に答えられれば八十嶋祭りの謎が解ける 王手です! あーたでなければ そんなことは言えましぇん! まあたぶん大平洋はひっと飛びぐらいの論でしょ! 確かにサングリーンさんは検討している。もとは地球もひとっ飛び!ですから大平洋は確かに検討。 いーんじゃないか それはそれで なにがしかのヒントにはなるし。。予告編だけじゃなくて披露してくれて、 大青草八十嶋祭りで! 不肖わたくしが通訳補正 大平洋が琵琶湖ぐらいに修正できるでしょうか??? 八十嶋祭りは難波津古代史の最大の謎なわりにまだメジャーじゃないし。いろんな興味や論が出てくるのはよいことだとおもいます。 コバヤシクンの日頃の苦労がわかるよね。。。。 わかるよ!コバヤシクン! 私は君を応援している! とみたさん >船橋の神宮の件は、期待はずれで申し訳ありませんね とんでもない 参考になってます。 レスをまとめるのに時間がかかってます まっててね\(^0^)/ >MADOKAさんは、土地の方のようなので鴨と鉄の関係付けは大変参考になり励まされます。 イーエ!私は浪速生まれの河内の山の手育ち 旧大阪城内で毎日天守閣と生駒山を見て暮らす コツマナンキンです!! ひょんな縁で葛城に出没するだけ。このサイトには葛城方面に詳しい方が何人かいらしゃいますので。呼び掛ければ 答えてくださるとおもいますよ!そのほうが精度は高いです! くずさん >サン・グリーンさん、MADOKAさん、 鉄、作ってみたくなりました^^ ぜひ 焼き芋と共にお作りください\(^0^)\ |
[2486] Re[2482]八十嶋祭り&アフリカの鉄のつくりかた??? 素人 | 2006/09/21(Thu) 02:02 [Reply] |
MADOKAさまへ > 素人さんの要望に答えられてないでしょうがこれが限界これをヒントに調べていただいて仔細を報告していただけるとありがたいです 早速詳細なご報告をいただきありがとうございます。 柔らかい炭での大きな鉄鉱石での長時間製鉄面白いので調べてみたいと思います。 大きな鉄鉱石での製鉄は古代中国での溶鉱炉による銑鉄の製造時に使われていますが、温度が1200℃以上で巨大な装置によるもので、今回の事例とはまったく違います。 今回の事例では、大きな鉄鉱石は底付近で表面がウスタイト(FeO)化しながら羽口からの空気で発生する高温のCOで還元されて鉄が生成するものと思われます。最終的には鉄は炉材や炭・鉱石より生成するノロ(鉱滓)の中に沈んでいると思われます。 多少知りたいことがありますのでご指導ください。 > > 鉄鉱石??をとりに行く > 掘るのではなく 拾いにいく。この石がゴロゴロ落ちてるのを拾うだけ > 大昔は日本でも河原で拾っていました。今でも拾える川があるようです。 東北では餅鉄などと言う名前が残っています。 鉄鉱石の色は赤い石でしょうか、黒い石(磁鉄鉱・餅鉄)でしょうか。 > 鉄鉱石?が溶けて下に溜まる(ふいごの口に集まる) > それを叩きだして矢じり完成! > 矢じり数個からよくできて10個くらいじゃないのかな > 鉄の塊とノロ(鉱滓)を叩き出したと思うのですが、塊の鉄でしょうか。 純鉄ですと手で曲がるぐらい柔らかですが硬さはいかがでしょうか。 ご返事いただきましたら、再度調べまして書き込みさせていただきます。 |
[2485] Re[2469][2468]: 多氏と五行 くず | 2006/09/21(Thu) 00:29 [Reply] |
とみたさん、遅いレスですみません、、 多氏については確かに多すぎてつかみどころがない感じもしますが(笑) 長野(地元)を起点に考えますと、阿蘇氏との関係、生島足島神社の祭祀、また建御雷神との関係が自分にとってはとりかかりかな、と。 ●東海地域との関係 塩尻で銅鐸も出ていますし、天竜川、木曽川を通じての繋がりはあったでしょうね。 銅鐸祭祀をされていた方達が追われてきたかも。 金刺氏、他田氏、尾張部氏(他にも沢山)は森将軍塚古墳のお膝元、屋代で発掘された木簡(屋代遺跡群出土木簡)に名があり、他田さん銘の木札の裏に「乙丑年」(665年)があった事から7世紀後半という年代が確認出来たようです。 個人的には尾張部氏については天武(壬申の乱)に関係した移動ではないかと考えます。善光寺(出土)瓦(川原寺式)からの想定です。 金刺氏、他田氏の科野入りは継体系支持団体への牽制だったりして。(笑) ●森将軍塚古墳 都祁氏の関係との話は知りませんでした。新羅と関係の深い姓でしょうかね。 森将軍塚は屋代木簡の時代よりも200年ほど古くなりますが、三角縁神獣鏡も出ていますので中央との関わりを持った、初期の科野国造の墓であってもおかしくはないかなとは思います。 埋葬物には鎌もありまして、古墳の独特の形状は"鎌のマガリ"をあらわしているのでは(なんとなく)と思ってます。 九頭龍さんとの関係ですが、生島足島神社のある塩田(上田)は年間の降水量が少ない地域でして、農業用の溜池が沢山あります。その意味で田を作るには労の多い土地と思います。 室町時代(1504年)に大干ばつがあって夫神岳山頂の九頭龍神に雨乞いをしたそうで、(雨が降ったとか!)その雨乞いが現在も「岳の幟」というお祭に引き継がれています。 戸隠の九頭龍さんも雨乞いの効力は抜群です。種池(付近で赤ベトが取れる)からお水を頂いてその水を目的の地に撒くのですが、お水を頂いてから目的地に着くまで一切しゃべってはいけない事になっています。現在でも他県からわざわざお水をもらいに来る方々がいらっしゃいます。 ●古安曽から 古安曽には三狐(さご、さぐ)神社がありまして宇気母智の神が御祭神だそうです。三狐はミシャクジ。長野市上松の社宮神の伝えでは往古この付近は大きな沼で、それを開いて田とした神が社宮神なのだそう。 阿蘇繋がり(阿蘇の海)では豊受皇大神を祀る丹後の田口神社(御田口の祠)が。これは、あれとこれが似ているかも。という話。 肥後の阿蘇、科野の安曽、それに丹後の阿蘇。もしここに繋がりがあったとしたら、丹後が渡来元の新羅経由大陸文化(楚とか)なのか、それとも古代国家の国境防衛か、あるいは丹生関係の構造線鎮守とか、色々想定して見ます。 サン・グリーンさん、MADOKAさん、 鉄、作ってみたくなりました^^ |
[2484] Re[2482]八十嶋祭り&アフリカの鉄のつくりかた??? とみた | 2006/09/20(Wed) 12:41 [Reply] |
サン・グリーンさん アフリカの鉄の紹介 意表を衝かれたんですが面白かったですよ。鉄も量産体制的思考で考えてしまいますね、確かに現代人は経済性や効率に毒されていますね。もっと古代やアフリカでは鉄は神聖であったか、それないに狩猟や農耕や戦のために有効であったか。 >難波津に天皇が病気の時行った この件で、先日テレビで思い当たる話がありました。 18世紀ハワイはポリネシア人のカメハメハがハワイ諸島の王になりますね。 オアフ島以外に、ハワイ島は4000m級の高山が二つあります。 山から落ちる滝に神秘性を感じていたようです。滝のあたりは王様以外は入れず、王様が病の時などには、霧立つ滝の水滴の霊気で病を治そうとしたようです。 カマハメハ王は19世紀にアメリカに懐柔されてハワイは今はアメリカの州になりました。 MADOKAさん 息長=鉄の話、読んでいただいたようです、これで忌部の本の紹介の恩義の義理を果たせましたね。古い人ですなあ! > とみたさん > >つまり、息長はフィゴに気/息=空気を長く送ること、製鉄と関係があるかと想像しました。 > > これはおもいつかなかったですねえ!頂! > > くずさんの > アメノヌボコは鉄はあきらかですが > 息長=ふいご は感激でした!! > > とみたさん > 雁多尾畑には神武だったかだれだったか?うら覚えですが古代に聖火が焚かれたという地元の伝承があります&スサノオ神社があります。出雲の熊野神社にいったおり聖火を表現したオブジェが村の入り口にあり。出雲大社の聖火は熊野神社から火切りされて出雲に行くという話をきいて雁多尾畑の聖火伝説はこれかなあと思ったことがあります(青草ジャンピング説) > > ●民俗学の谷川健一先生の本(四天王寺の鷹) > 山本博(古代製鉄)引用 おもしろかったですよんでみます。 > > >葛城には鉄工人が朝鮮から入って現地の人にも教えたのではと思っています。これがいつも私が想像している、高鴨アジスキ神社周辺です。 > > これはあります!!! > 大穴持神社と葛城御歳神社をお調べください! > 大穴持神社から葛城御歳につづくカナ山は古代の鉄鋼石を掘った穴だらけ。 > 葛城御歳は中鴨です。 > 大穴持神社は私の聖山で山の中でタタラ跡と思われる数センチ炭化したひらべったい石 横幅は手を大きく開いたぐらい 縦はひとかかえほど のを見つけました。 ここはビョウビョウと風が吹く尾根です。 > 私は最初 のろし台かと思ったんですが。。少し削りとってウガの黒ちゃんに見てもらったらこんなに炭化してるのは タタラ跡だろうと。それで調べていくと製鉄の痕跡が。。。ただ妙に生々しい跡。。完全に炭化していることと風が始終吹いていること人が普段入らないせいではないかとおもっていますが。。。誰か目ききのある方にみてほしいんですが?素人さんだったらわかるでしょうか??いつになるかわかりませんが今度仔細に写真とってきますんでよろしく!! > このあたり貴重です。MADOKAさんは、土地の方のようなので鴨と鉄の関係付けは大変参考になり励まされます。 船橋の神宮の件は、期待はずれで申し訳ありませんね。紀州と阿波と安房と黒潮でつながる。隼人も宗像も住吉も安曇もみんな海を介してどこかでつながる。 理数的人間がいつの間にか、古代の迷宮に入り込みました。 > |
[2483] Re[2482]八十嶋祭り&アフリカの鉄のつくりかた??? サン・グリーン | 2006/09/20(Wed) 07:46 [Reply] |
素人さん&大三元さん&MADOKAちゃんへ MADOKAちゃんの懇切丁寧なレポートで大まかなことは想像して頂けたことでしょうね。 本当にありがとう(*^_^*) なんでこんなに整理して文章にできるの? アフリカの製鉄のビデオはたった25分なので、全容はわかりませんが、とにかく鉄のプロは目からうろこでは? 量産体制的思考「少量の鉄しか出来ないと無駄なエネルギーが多くて割に合わないようです。」からではとても考えられない時間と労力ですね。 そのため4、50年前にこの方法は絶えてしまったようです。 今回井関教授が現地の古老にお願いして再現してもらったのがあのビデオです。 それから 私はまだぐずぐずして鍛冶場(囲炉裏)の写真がアップできません、もう少し待ってね。 さて、八十島祭りについては… >「自分で検証できないことには同意できない」という傾向はあります。かつ、「自分で検証できて、さらに他人様も検証できること」を求めて行く この線で目下検証中です。29日の講演会でその一端を披露すべくがんばっています。MADOKAちゃんの目のうろこを落とすというのは、なぜ八十島祭りは難波津でなければならなかったか? なぜ天皇は病気になると難波津に行ったのか?という話に関する事なのです、また時間があるときにゆっくり聞いてね。 大三元さま おしてるまにわ=月と日が同時に輝く神の庭 なぜかそのシーンを想像しただけで涙が出てきます。 久高島のイザイホーの神女たちが手にもつ扇の模様が浮かびます。 またまた青草ですみません(~_~;) |
[2482] Re八十嶋祭り&アフリカの鉄のつくりかた??? MADOKA | 2006/09/20(Wed) 03:20 [Reply] |
大三元さんへ >「自分で検証できないことには同意できない」という傾向はあります。かつ、「自分で検証できて、さらに他人様も検証できること」を求めて行く これは貫いていただきたいものです。 アワ考 拝見 >apa に子宮(産道)の意味を感ずれば、淡路州を「胞(え)」とした、というイザナギ・イザナミの国生み神話にもつながる解釈となる。(『日本書紀』第8の一書では、オノコロ州を「胞」とする。オノコロは u-nukar で 互いに目を見る→目交い、結婚する。) の一文面白く読ませていただきました。 前に直感系の人から。 琵琶湖は子宮で 竹生島が卵子 淀川が産道 淡路嶋が胎児 (琵琶湖の形と淡路嶋は双似形) というのを聞いておもしろいなあ がその根拠は?ビジュアル以外の何?とおもっていたんですが。。。 言葉でもあるんだなあと。。。??? 八十嶋祭りは6年近く 離れていて最近勉強しなおさなくてはと思っているところです 岡田精司説は好きな説です ただ、太陽霊には一時はまりこんで調べておったんですが。太陽霊というのは いささか概念すぎるんじゃないか?もっと別の複線が必要では?ということでいきずまり、巳。姫神。竜宮ラインを調べていました。太陽も産道を通って生まれ変わるということでリンク。 大三元さんの投稿で嬉しいやら。以外な気もしました。また いろいろ教えてください。 現在 ひょんなことから住吉つながり等で和歌山が浮上難波津の祭祀はどうも和歌の浦等が深く関係しそうで探索中 まだぜんぜんわかりませんが。。。 紀氏ラインか?? 松原右樹さんから聖武天皇が八十嶋祭りの先蹤祭祀を行ったことを直木考次郎が発表していると聞いたんで(読んでないですが)勉強しなきゃねえ痛感! アフリカの鉄のつくり方 (覚えているかぎり仔細は各自でお調べください) まず、木の伐採に行く(南方系の木 やしかバナナみたいな こんなんで?と思うような木)これを焼いて消し炭をつくる。保存 ふいごの口を作る バナナみたいな植物の葉を丸め円推形を作りそれを土台に粘土を表中に塗って乾かす。乾いたところで。ある植物?の葉を煎じた茶色い液体をこの円推形土器に塗り塗り(中表)どうもこれがうわ薬の働きをするみたい。 穴を掘る(半円球)粘土を塗り茶色の煮汁をかける どうも これが 炉のようです。 鉄鉱石??をとりに行く 掘るのではなく 拾いにいく。この石がゴロゴロ落ちてるのを拾うだけ ふいご これは お風呂で履くママブーツ両足そろえたの大きいようなものに皮でカバー(どうもこれが蛇腹?現在はタイヤのゴムが転用)その上に 片一方ずつに棒がありこれをパコパコ手でやって風を送る これを炉??の近くに置き ふいごの先を装着 口が炉?の一番底にあたるように設置 炉で消し炭を燃やす ある温度になったら?鉄鉱石?をお芋のようにドカドカ掘りこむ上にも消し炭ドカドカ ハッキリいって焚火(ただどうも長時間高温を保てるようになっているのか?) ふいごで風を送る 8時間かかる(労働歌をうたいつつタラリタラリと延々と)消し炭を何度も投下 鉄鉱石?が溶けて下に溜まる(ふいごの口に集まる) それを叩きだして矢じり完成! 矢じり数個からよくできて10個くらいじゃないのかな まあ 我々が考える タタラ&製鉄なんてもんのイメージがガラガラ音立てて崩れるぐらい安直な焚火製鉄作業風景 こういう方法でいまでもやっているといのが何ともいえない。ヒマーな男どもがゴロゴロいて金なし膨大な時間があり。あくせくせんでも食うことぐらいはできるという状況がないととてもできない。 ひゃーーなんと日本人は勤勉かと!! (石の種類とかはわかりません。25分のビデオでみただけなんで。。。見る価値は確かにある) 素人さんの要望に答えられてないでしょうがこれが限界これをヒントに調べていただいて仔細を報告していただけるとありがたいです とみたさん >つまり、息長はフィゴに気/息=空気を長く送ること、製鉄と関係があるかと想像しました。 これはおもいつかなかったですねえ!頂! くずさんの ●褐鉄鉱について 真弓常忠著 「古代の鉄と神々」&赤べと 参考になりました。 実は私のメインはアカルヒメ アメノヌボコ 神宮皇后 アメノヌボコは鉄はあきらかですが 息長=ふいご は感激でした!! とみたさん 雁多尾畑には神武だったかだれだったか?うら覚えですが古代に聖火が焚かれたという地元の伝承があります&スサノオ神社があります。出雲の熊野神社にいったおり聖火を表現したオブジェが村の入り口にあり。出雲大社の聖火は熊野神社から火切りされて出雲に行くという話をきいて雁多尾畑の聖火伝説はこれかなあと思ったことがあります(青草ジャンピング説) ●民俗学の谷川健一先生の本(四天王寺の鷹) 山本博(古代製鉄)引用 おもしろかったですよんでみます。 >葛城には鉄工人が朝鮮から入って現地の人にも教えたのではと思っています。これがいつも私が想像している、高鴨アジスキ神社周辺です。 これはあります!!! 大穴持神社と葛城御歳神社をお調べください! 大穴持神社から葛城御歳につづくカナ山は古代の鉄鋼石を掘った穴だらけ。 葛城御歳は中鴨です。 大穴持神社は私の聖山で山の中でタタラ跡と思われる数センチ炭化したひらべったい石 横幅は手を大きく開いたぐらい 縦はひとかかえほど のを見つけました。 ここはビョウビョウと風が吹く尾根です。 私は最初 のろし台かと思ったんですが。。少し削りとってウガの黒ちゃんに見てもらったらこんなに炭化してるのは タタラ跡だろうと。それで調べていくと製鉄の痕跡が。。。ただ妙に生々しい跡。。完全に炭化していることと風が始終吹いていること人が普段入らないせいではないかとおもっていますが。。。誰か目ききのある方にみてほしいんですが?素人さんだったらわかるでしょうか??いつになるかわかりませんが今度仔細に写真とってきますんでよろしく!! |
[2481] Re[2470]: 八十嶋祭り 大三元 | 2006/09/19(Tue) 12:22 [Reply] |
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大三元さん サングリーンさん大三元の理論にびびってまんねん! 「理論」なんて言われるとビビリますけど。要するに自分の考えを、他人に共有して貰いたくって発言するときに、何を基盤にするのだろうか、ということになるんかなぁと思います。例えば今朝見た夢の話を伝える「だけ」なら、それはそれで「おはなし」として伺っておけば良い。面白ければ面白いし、面白くもなければ面白くもない。 うろ覚えですが「ベンゼン環」を発見した人は、猿が6匹手足としっぽだったかをつかみ合って、環状につながっている夢を見た。その夢の話だけ聞かされると、ふぅん、ということで終わっちゃう、かな。その先生は、それがベンゼン環の仕組みなのだ、と「気が付いた」。この段階で「ベンゼン環」とはこういう構造なのだ、と言い切ってしまうと、一般的には(?)猿とベンゼンのつながりが全く理解できない。その先生は、たぶん、実験を色々繰り返して、あらゆる現象が彼の「気か付いた」分子構造で説明できることが判ったので、こういうことに違いない、とやっと自分の判断に確信をもって発表した。ってなことじゃなかったかな、と美化が入ったり重要な欠損があるかもしれないけど、そんな風に記憶してます。 つまり自分の発見、発想を他人様に共有して欲しくて発表するなら、あらゆる可能性をチェックするわけには行かないだろうけど、他の解がないのか、都合の悪いデータを無視していないか、とか、それなりの自己批判も通さなければならないのでしょうね。 ま、この掲示板は青草と銘打っているので「夢のお告げによれば」とか「あれとこれが似ている、だから(それだけの理由で)どっちかがどっちかの起源だ」とか言いっぱなしもありなのかもしれないけど、「もしも」他人に理解して貰いたいのなら、一歩一歩理解可能な(多分、論理的な、ということと等価)ステップを踏まないと判って貰えないと思う。 というわけでMADOKAさんはお優しくも「書物にへばりついたカンカチコの難しそうな人」ではないように書いてくださったけど、すくなくとも「自分で検証できないことには同意できない」という傾向はあります。かつ、「自分で検証できて、さらに他人様も検証できること」を求めて行くと、どうしても書物中心になってしまっています。(と、言いながら辞書に書いてあることは結構そのまま信じてしまうのですけどね。それでも、複数の辞書で確認するとか、一般的には複数のデータで確認する、ということには努めているツモリですが。) 具体的にサン・グリーンさんお話のMADOKAさん翻訳: >例の中央アフリカ展会場で葬儀儀礼のビデオを見ている時、井関教授がこれは実質上の族長就任儀礼ですと説明されたのを聞いて「これが、謎の八十島祭りの原型では?」とヒラメイタのです ヒラメキは大事です、似ているとか、語呂合わせが出来る、というような発端でのヒラメキは本当に大事です。ヒラメキをA地点とすると、結論はZ地点あたりにあって、その中間を埋めるのに四苦八苦するんですよね。 「あわ」について: http://www.dai3gen.net/apa.htm で一文をあげてますのでお暇な折にでもご覧ください。 |
[2480] Re[2472][2470]: 八十嶋祭り&製鉄その二 素人 | 2006/09/19(Tue) 00:18 [Reply] |
サン・グリーンさま > さて、鉄についてその第二弾ご報告。 > 井関チームが9日の作業で出来た鉄(なんていう名前でしたっけ?)をさらに精製するための鍛冶場作業を16日にされていましたので追加取材してきました。また近いうちに写真掲示板にアップしますので楽しみにしてください。 製鉄にとても興味を持っております。硬い鉄か柔らかい鉄か解かればお教えください。 何キロの鉄鉱石と木炭から何キロの鉄が出来たか解かると製鉄炉の性能が解かりますので出来ればお教えください。少量の鉄しか出来ないと無駄なエネルギーが多くて割に合わないようです。 改訂してくださってありがとうございます。今回は自分でチャレンジしてみますね。 > 3世紀頃の遺跡からフイゴは出るのに釜跡が出ないという謎が解けると思いますよ。つまり鉄のプロは絶対にこんな簡単な装置で鉄が出来るわけがないと思うことでしょう。まるで焼き芋でも作るような…、MADOKAちゃんいわく(囲炉裏?)だったんです。 > しかし、井関教授によると、ヨーロッパ人が鉄を持ってアフリカに侵入したときに、アフリカンの鏃のほうが精度が高く殺傷能力に優れていたとも言われている。とのことですよ。 製鉄炉では炉の高さが1m〜1.2mないと以前思っておりましたが、タタラ式の製鉄炉や簡易製鉄炉で製鉄を目的として研究されている鍛冶の専門の方のご意見では0.6mメートルぐらいでも炭の密度を大きくして十分な滞留時間と羽口温度を維持すれば製鉄でき、海面鉄から塊状鉄、銑鉄まで作り分けられるそうです。 炉の高さが1m〜1.2mを主張なさるのは工学系の研究者の方に多いようです。タタラ製鉄の本などに多いようで、私も固定概念になっていましたが間違えでした。 これは簡単な初心者のための製鉄の条件ではあるようです。 ただ簡単な炉で製鉄する場合は原料の選定、鞴での送風量の厳密な調整など高度な鍛冶技術の習得が条件となるようです。鍛冶技術は秘伝などになっている場合も多く伝わりにくいのかもしれません。 製鉄は中国で古代に高度に発展しましたから、中世のヨーロッパの製鉄は必ずしも高度とはいえないかもしれません。中世のヨーロッパには銑鉄による鋳造技術など有りません。それに伴う炒鋼の製造技術もありません。 簡易製鉄は難しいのに、工学系でない大学の先生が実施されるとは驚きです。 ご報告を楽しみにしております。 |
[2479] Re[2477]: 実証の可能性 玄松子 | 2006/09/18(Mon) 13:28 [Reply] |
> もしこれらの墳墓・墳丘から盗掘もないのに重要な副葬品が出てこない > ならば、私の説は間違いだということです。これが反証可能性です。 > つまり掘ればわかるという単純な話です。 無かった場合。 盗掘の有無の検証が難しいし、そこに無いからといって何処にも無いとは限らない。 次の候補地を挙げればキリがありませんし、無いことの理由は他にも考えられるでしょう。 発見されれば単純な話ですが、発見されなければ単純な話ではありません。 だからこそ、古代史は魑魅魍魎で賑わうのです。 記紀や旧記に書かれているすべての記述が現実(史実)である可能性は低いので、選択的解釈も必要ですが、 神奈備さん> 「僕は国津神、名は猿田ヒ古の神なり」とあります。 このような都合の悪い記述は無視、あるいは都合の良いようにこじつけることもできるのですから単純にはいきませんね。 |
[2478] 倭人伝など 神奈備 | 2006/09/18(Mon) 12:08 [Reply] |
> もちろん想像とこじつけです。 これでは、丁寧に反論するのは馬鹿馬鹿しいことですが、読者の誤解はといておきたいと思いますので、書いておきます。 従っていちいち反論は不要です。 > 皇帝の命令に背いてまで行きたくないとするのはあまり現実的ではないと思います。 「皇帝の命令」はどこに記載されているのでしょうか?寡聞にして存じませんので。 > 瀬戸内海の潮流を利用したほうが早いので、航海方法が異なってしまったというのが私の推測です。 航海に潮流を利用するのは当たり前のことで、瀬戸内海だけではありまん。行かなかったので里数がわからなかった。倭人からの伝聞で書いたとの理解の方が無理はありません。奇妙な苦しい解釈は不要です。 > 「水行十日陸行一月」は「水行ならば十日、陸行ならば一月」 が標準的な解釈です。 倭人伝には、「邪馬壱国女王之所水行十日陸行一月」とあります。このどこにあなとの言われる標準的な解釈ができるのでしょうか?恣意的に過ぎます。誰が見ても、水行の次ぎに陸行と読むべきでしょう。 > 戸数・道里を記している邪馬台国は、もちろん其余の旁國ではないですし 邪馬台国への道里が記されているとありますが、小生の見ている倭人伝には記載がありません。もし記載の文献があれば画期的大発見ですね。 邪馬台国まで何里となっているのでしょうか? 倭への道里を邪馬台国への道里と同じと見ているのでしょうか。 > 邪馬台国はもちろん其余の旁國ではないですし 倭人伝には、自女王国以北其戸数道里可得略載其余旁国遠絶不可得詳」とあります。 女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。 女王国は邪馬台国のことです。女王国の辺傍の国と読むのが自然です。女王国が遠絶だからその傍にある国も遠絶だと言っているのです。 どう見ても邪馬台国の中心からとは読めません。 『古事記』での猿田彦の挨拶 「僕は国津神、名は猿田ヒ古の神なり」とあります。 国津神とは、この国の土着の神のことです。 |
[2477] 実証の可能性 やまし [Url] | 2006/09/18(Mon) 11:50 [Reply] |
私が主張しているのは、記紀の神代は2世紀後半から4世紀後半の 徳島県吉野川北岸か流域における実際の出来事に基づいた歴史であり、 その歴史は魏志倭人伝にも一部記述されている、という2点です。 もちろん前半の主張を100%正しいと証明する手段などないわけですが、 文献や考古学上の遺物とのすりあわせがうまくいけば状況証拠くらいには なるでしょう。 他方倭人伝に関しては、魏からの100枚の銅鏡・五尺刀等の副葬品が 3世紀中頃に築造された墳墓からみつかるなら、それは卑弥呼の墓 である可能性が非常に高いわけです。既にその位置を推定していますが、 丘陵の発掘調査の着手にはまだ時間がかかりそうです。 それよりも萩原2号墓の埋葬施設の調査のほうが早そうです。 この墳墓の副葬品はかなり豪華だと推測しているので、まずは これが楽しみです。 もしこれらの墳墓・墳丘から盗掘もないのに重要な副葬品が出てこない ならば、私の説は間違いだということです。これが反証可能性です。 つまり掘ればわかるという単純な話です。 倭人伝−記紀−墳丘墓(人物の対応) 男子王−イザナギ−阿王塚古墳(白銅鏡2枚=舶載画文帯神獣鏡2枚、優品) ***−イザナミ−萩原1号墓(舶載画文帯神獣鏡1枚、優品、楽浪鏡の踏返し) 卑弥呼−天照大神−大麻神社丸山(丸山社) ***−思金神-大麻神社丸山(丸山稲荷社) 男弟−月読命−西山谷古墳(舶載斜縁上方作銘獣帯鏡) 載斯烏越−須佐之男−萩原2号墓 難升米(男王)−天之忍穂耳−大麻 都市牛利−手力男−大麻 壱与−豊秋津師比売−大麻 魏使梯儁 猿田彦I(明光鎧を身に付け、魏からの贈り物を携え突如現れる。) 掖邪狗ら 天鈿女ら 魏使張政 猿田彦II(中国に渡った掖邪狗らに来訪を促される。檄をつくり告諭し、 国中が定まったあと、掖邪狗らに見送られて魏に帰る。) ・ニニギ命の降臨は倭人伝には記述無し。247年に壱与は13歳なので、 降臨は250年代あたりか。 ・大麻彦神社伝来書上帳に「まり山 右御神徳蹴鞠の坪を守らせ玉ふより 残りし名にて御座候」とある。ニニギ命の伝承が天日鷲命と置き換わったが、 丸山への「鏡=丸=まり」の副葬についての伝承と考える。 |
[2476] Re[2475][2474][2473]: 玄松子さんへ 玄松子 | 2006/09/18(Mon) 11:15 [Reply] |
> > 想像とこじつけであることを認識しているのなら、何も言うことはありません。 > > 宇宙人説だろうが、超古代文明の生き残りだろうが、問題ありません。 > > それらの説は多分実証性がないので、私には同意しかねます。 > 当時の宇宙人来訪や超古代文明が生き残った証拠を、科学者が > 同意する形で提出できるならばまだ可能性がありますが。 貴方の説の実証性はありますか? 期待的想像の積み重ねにみえます。 > > 他に、赤ホウズキのようだともありますよ。 > > 護心鏡が赤銅色か、あるいはそれをとりまく部分が赤かったのでは。 さらに憶測が必要ですね。 > 遮光式土器は以下のような土偶の認識でよいですか? > これは宇宙人あるいは超古代文明の生き残り説でしょうか? そのようには書いておりません。 光って大きい眼のみに着目した青草です。 > あと1.2mの鼻はなんでしょう? > というか、人間以外の知的生命体を考えるのですか・・・。 貴方の説では馬の鼻でしたか。 僕が古代人なら、馬こそを神(あるいは魔)として記憶します。 馬が日本に現れたのはこの時が最初でしょうか。 騎馬姿を最初に見たのはいつでしょうか。 > ちょっと私にはその解釈はつらいです。 貴方の説には、みんながつらいと表明しています。 > 多分遺体も見つからないだろうし、実証が不可能と思える > 事柄だからでしょう。魏使の遺体は特定できないかもしれませんが、 > それでも倭人伝の記述に来訪したとの記述がありますし、 > 当時の鎧がどうだったのか調べようもありますから。 調べてみてください。待っています。 > 様々な宝物を持ってきた功労者の使いが神になるということを、 > 受け入れがたいというのが分かりません。 「使い」だからです。 それ以前にも「使い」は来ているし、こちらからも派遣しているはずです。 古代人でも「使い」の意味を正しく理解していて当たり前です。 > 宇宙人や超古代文明の生き残りはOKなのですか? これは、青草としてOKという意味で書いています。 他社の書き込みの意味を正しく理解してください。貴方の説も、青草としては申し分ありません。 |
[2475] Re[2474][2473]: 玄松子さんへ やまし [Url] | 2006/09/18(Mon) 06:25 [Reply] |
> 想像とこじつけであることを認識しているのなら、何も言うことはありません。 > 宇宙人説だろうが、超古代文明の生き残りだろうが、問題ありません。 それらの説は多分実証性がないので、私には同意しかねます。 当時の宇宙人来訪や超古代文明が生き残った証拠を、科学者が 同意する形で提出できるならばまだ可能性がありますが。 > > 猿田彦の目が大きな鏡のようだという記述 > > 他に、赤ホウズキのようだともありますよ。 護心鏡が赤銅色か、あるいはそれをとりまく部分が赤かったのでは。 > 大きな眼で、充血ぎみということじゃ駄目ですか。 > 遮光式土器のような装束だったとしたら。 遮光式土器は以下のような土偶の認識でよいですか? http://ja.wikipedia.org/wiki/åå¶ これは宇宙人あるいは超古代文明の生き残り説でしょうか? 上下を照らしていて、目が大きな鏡のようだという解釈が 分かりません。下にはときどき振り向いたのかな? 巨大な目が発光したと考えるならば、 その発光メカニズムが知りたいところですね。 あと1.2mの鼻はなんでしょう? というか、人間以外の知的生命体を考えるのですか・・・。 ちょっと私にはその解釈はつらいです。 多分遺体も見つからないだろうし、実証が不可能と思える 事柄だからでしょう。魏使の遺体は特定できないかもしれませんが、 それでも倭人伝の記述に来訪したとの記述がありますし、 当時の鎧がどうだったのか調べようもありますから。 > > 魏使を皇帝自身とみなした可能性もあります。 > > これは古代人を馬鹿にしすぎですね。 > 青草以前だと思いますので、ノーコメント。 梯儁は代理で皇帝からの次の詔書を読み上げました。 「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の 大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・ 女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、 乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。 今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の 太守に付し仮綬せしむ。・・・(中略)・・・五尺刀二口・銅鏡百牧・ 真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。 還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを 知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」 卑弥呼、難升米、都市牛利らは、皇帝とは違うことが分かっていても、 政治的な理由もありますし、行政に携わらない一般の人々には 皇帝だと説明したほうが分かりやすいでしょう。 正確には代理ですけど。 様々な宝物を持ってきた功労者の使いが神になるということを、 受け入れがたいというのが分かりません。 その判定条件が知りたいです。 宇宙人や超古代文明の生き残りはOKなのですか? |
[2474] Re[2473]: 玄松子さんへ 玄松子 | 2006/09/18(Mon) 00:00 [Reply] |
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もちろん想像とこじつけです。 想像とこじつけであることを認識しているのなら、何も言うことはありません。 宇宙人説だろうが、超古代文明の生き残りだろうが、問題ありません。 > 猿田彦の目が大きな鏡のようだという記述 他に、赤ホウズキのようだともありますよ。 大きな眼で、充血ぎみということじゃ駄目ですか。 遮光式土器のような装束だったとしたら。 > 魏使を皇帝自身とみなした可能性もあります。 これは古代人を馬鹿にしすぎですね。 青草以前だと思いますので、ノーコメント。 |
[2473] 玄松子さんへ やまし [Url] | 2006/09/17(Sun) 23:09 [Reply] |
ひっこしてきました。 > 魏使が、猿田彦神とする根拠は、魏使が着用していたかもしれない鎧が、 > 記紀の猿田彦神の記述と一部似ていると解釈できるという、その一点だけ、ということ? (違うかもしれない) 猿田彦の件は、邪馬台国=東四国説がまずあって、 天照大神=卑弥呼という解釈をすると、魏使の記述が記紀に あらわれないと妙だということから出てきたものです。 倭人伝、記紀、考古学的遺跡・遺物のすりあわせのほんの一部です。 猿田彦だけではなく、他の倭人伝と記紀の他の人物と神様の対応 もつけたつもりです。 > しかも、胸の飾りを目に見立てることが出来るという、想像とこじつけを重ねた論としか思えないのですが。 もちろん想像とこじつけです。記紀の登場人物がそのようにこじつけて 見てしまったのではないかという私の想像です。 (鎧によっては目のように見えるかどうか、アンケートでもとればいいかな。) 猿田彦の目が大きな鏡のようだという記述を他にいろいろ 解釈できるのに、この説しかないというなら、恣意的といわれるのは 分かります。他にはどんな具体的な解釈があるのでしょう? > そもそもの疑問は、単なる使いが、日本全国で信奉される神となる理由が不明だということ。 > たとえば、その魏使が土着して、ある氏族の始祖となったとか、各地の開拓に貢献したとか、そういう神となる過程を示す根拠があるのですか。 倭人伝に、壱与は大夫率善中郎将掖邪狗ら20人を遣わし、張政らを 送らせたとの記述があります。これが、天鈿女が猿田彦を見送ったという 記紀の記述に対応すると考えています。掖邪狗ら一行のなかに天鈿女がいて、 猿女の一族になったというのが推測です。 思いもかけない素晴らしい品物をもってきた魏使が単なる使いかどうかは、 その当時の人の気持ちによります。私の想像では、神様になっても妙では ありません。魏使を皇帝自身とみなした可能性もあります。 私にとってはこういった「説」は、文書や考古学上の遺物のすりあわせが うまくできるかどうかで判断するくらいしか、状況証拠を示す方法はない と思うのですが、他にあるのでしょうか。 上手な解釈かどうかは、他に同様な解釈をどのくらいたくさん作れるかで 判断できます。 |
[2472] Re[2470]: 八十嶋祭り&製鉄その二 サン・グリーン | 2006/09/17(Sun) 21:15 [Reply] |
MADOKAちゃん! ありがとうね! パワー炸裂の援護射撃? 感動すら覚えています。 素敵な大三元さんにはぜひぜひお目にかかってみたくなりましたぁ〜! 十年前に高安山のイワクラの上から見た満月と夕日が一緒に輝く光景をお伝えしたいです。 さて、鉄についてその第二弾ご報告。 井関チームが9日の作業で出来た鉄(なんていう名前でしたっけ?)をさらに精製するための鍛冶場作業を16日にされていましたので追加取材してきました。また近いうちに写真掲示板にアップしますので楽しみにしてください。 神奈備さん写真掲示板改訂してくださってありがとうございます。今回は自分でチャレンジしてみますね。 3世紀頃の遺跡からフイゴは出るのに釜跡が出ないという謎が解けると思いますよ。つまり鉄のプロは絶対にこんな簡単な装置で鉄が出来るわけがないと思うことでしょう。まるで焼き芋でも作るような…、MADOKAちゃんいわく(囲炉裏?)だったんです。 しかし、井関教授によると、ヨーロッパ人が鉄を持ってアフリカに侵入したときに、アフリカンの鏃のほうが精度が高く殺傷能力に優れていたとも言われている。とのことですよ。 昔、阪急百貨店の日本刀のお店番をしていた時、古代の剣の方が純度が高くて錆びないのが謎だという話を聞いたことがあります。 権力者が鉄を牛耳って大量生産がはじまり、風もないのに鉄を作れと命令されて強制された時代以降、鉄は本来の魂を抜かれて殺人兵器になりさがったのでしょうか? |
[2471] Re[2470]: 八十嶋祭り 大三元 | 2006/09/17(Sun) 07:06 [Reply] |
MADOKAさん、 旅行中なので帰宅しだい、ゆっくり考えてご返事しますね。 とりいそぎ |
[2470] 八十嶋祭り MADOKA | 2006/09/17(Sun) 00:28 [Reply] |
大三元さん サングリーンさん大三元の理論にびびってまんねん! サングリーンさん大三元のこと書物にへばりついたカンカチコの難しそうな人って想像してない?ちゃうでー!大三元さんはオシャレで素敵なジャズマンみたいな人やでぇー!大三元さんサングリーンさんは勢いはあるんですが。しょうもないことにびびるかわいい奴と思ってチョンマゲ!わからんでもないサングリーン論法は直感一発ぶっとび変換法。青草ジャンピング型の私でも遠い目になることは良くある。が!?無視できないなにかはある!?? >きっとMADOKAちゃんも唸って納得してくれるかもね? M>小指一本の肯きですがーーーー サングリーンさんは言葉が足りんので不肖私が通訳 青草青草青草青草青草青草青草青草青草 >例の中央アフリカ展会場で葬儀儀礼のビデオを見ている時、井関教授がこれは実質上の族長就任儀礼ですと説明されたのを聞いて「これが、謎の八十島祭りの原型では?」とヒラメイタのです アフリカにおいて。埋葬と葬儀儀礼は別のようで、数年後。数十年後に葬儀儀礼を行う場合もある。理由は祭祀集団芸能また集まった諸部族に飲食を伴う盛大な祭りをしなければならない。それだけの財を蓄えなければならない。葬儀儀礼の祭りが行われる場合ラジオマスコミを通じて周辺一帯に広報され、人が押し寄せる。つまり葬儀儀礼の祭りを執り行えるということは実質的に亡くなった首長の跡取りとしての実力があることの証であり。これをもって世間に跡取りと認められる。なかなか実質的な相続の仕方である。ただ。現実はそんな盛大のことのできない へたれ跡取りも多く都会に行ったきり帰ってこない 不肖者も多いらしい。 このことから。大じょう会の翌年に行われた八十嶋祭りもそういう意味があるのではないか?とサングリーンさんは考えたようである。八十嶋祭りは葬儀儀礼ではないので 話が飛んでますがー。部族間に知らしめる就任儀礼ととらえたらしい。 私はふと。 八十嶋祭りで 百種の供物を献じ、その供物を海面に投じて祭りが終わることを思い出し、この百種の供物は百種(八十百?)の神々?またはそれを奉じる百種の部族に献じる饗応することが形式的になったと考えるとこの論はそれなりになりたつかも?ウガの黒ちゃんがこの説を聞いたら。女御祭りなのはそれを 接待するためだーとの給うに違いない!! 私は女御祭りは天皇が国御霊を得新たな天皇として生まれ変わる介添え役とだと考えていますが。。。 青草青草青草青草青草青草青草青草青草 八十嶋祭りとは? 帝即位の大じょう会の翌年難波津にてとり行われた謎の祭り。帝と女御。乳母。宮中八神殿に勤務する御巫が出仕してとり行われる。帝は来ず。御衣のみという説も。百種の供物を献じ。箱に入れた御衣を海に流し 琴を鳴らし法要。御衣を打ち振り国御霊の付着した?御衣を帝が着衣し新しき天皇となる。 記録には文徳天皇から13代最後は確か高倉天皇? この祭りを大じょう会より古い祭りで天皇は難波津でこの祭りをしなければ天皇になれなかったとする説 いざなぎいざなみの古式に乗っ取った大じょう会と同じまたは新しい祭り とする 2説がある 鈴鹿千代乃氏は大じょう祭から切り離してこの祭りを考えるべき&この祭りは大じょう会より古いという話をうかがった。私もこの説にちかい。 なぜならば 重要な祭神が生玉。住吉。座摩。 海洋民の首長たる時代の祭りの痕跡を色濃く残す祭りと考えるからである。 大三元さんの引用 >「そこで復元した結果では、海の彼方から太陽霊をむかえそれと一体となる形をとる族長就任儀礼であり、河内王朝が〈大王〉の地位を占める以前の、一地方族長にすぎぬ時代から行われてきたものである。・・・五世紀代には依然として大王家の私的な族長就任儀礼として、古来のままの形で太陽霊を浜辺で迎える祭りとして行われていたものと推定される。」 難波津は大阪市史、巻頭にもあるように。全国的に見て 古代に太陽祭祀の跡が多いのが特徴。一説に盲目になるまで太陽を追い続けるシャーマン日子が存在し。後世それが仏教の西城極楽思想と結びつき有名な四天王寺の日想感になったともいうが 論拠が乏しく立証しがたい。 ただ。難波津は全国的にみて数少ない西に向いた良港で夕日信仰?の痕跡はある? 古代難波津に[ニライカナイ]のような精神世界があったようにはおもわれる。 少なくとも。平安時代までは 天皇がミソギをするのは難波津という意識は庶民にもあったようで。神社等で行われた オオハラエの人型は都よりわざわざ難波津に運ばれて流されたらしい。 私は大じょう祭の中で白布を踏んで歩んだ天皇の衣に女官が三度 杓で水をかける所作をするのが八十嶋祭りの痕跡であろうと推定している。 このあいだの新作能 八十嶋祭りを題材にした『生国玉』でも仁徳の「おしてるやーーー」は使われてました NHKで放映されるんじゃないかなあ?先導する二人の童女の舞いが愛らしい。童女の活躍は新しい発見でした。また豊国神社に昭和4年作成された「八十嶋祭絵詞」全三巻があるらしい。 八十嶋祭りを調べたのは随分前で うらおぼえですがーー。 大三元さん やましさんの時 ふとおもったんですが。一説に淡路嶋の国御霊を招くのが八十嶋祭りというのがあったことや 国生み神話の生まれる順番は 国造りの順番という説があり「アワ」という言葉が妙にひっかかるんですがねえ。。。 「アワ」ってなんかないですか???????? アフリカ展なんで?サングリーンさんの勢いに飲まれて拝見これはヒット。「中央アフリカの製鉄作業実験」 ビデオでみましたが。こんな囲炉裏のようなもので製鉄ができるなんて!目から鱗。&部族の屋敷や村の構造。習俗。これはーー縄文弥生の姿がそのまま現代にある感じ。縄文弥生の生活や精神や習慣のヒントはアフリカにあるかも???御勧め!!! サングリーン直感一発ぶっとび変換もなかなかやります!!! とみたさん QUBOさん 舟橋大神宮の件ありがとうございます。 とみたさん 素人さん くずさん 鉄の件もいい話あります。 が二件は長文になりますので また別に投稿します。 |
[2469] Re[2468]: 多氏と五行 とみた | 2006/09/16(Sat) 11:00 [Reply] |
くずさん 貴重な信州情報の提供、ありがとうございます。 本当に多氏が各地に出てきますね。オオは大、多、大生、意宇、意冨、青・・・本当に多い氏族です。神武の長男の神八井耳命が始祖で,多臣・科国造、阿蘇君だとなっています。奈良県の田原本町に多神社があるそうです。このあたりは茨田連の本貫地と比定されています。 屯倉開拓などで見ますと秦氏と多氏は重なっていますし、秦氏と勝氏の関係もあり謎めいております。 勝は、秦氏の下にある在地の小首長と解釈している人がいます。 私たち関東圏の常陸の鹿島近くの潮来も大生氏で、人によっては大氏(和邇氏の一族?)とか言っています。印旛国造にはオオシの豪族が多いようです。 > ●科野国造の多氏と五行 > 長野県上田市、生嶋足嶋神社は大地(五行で言う土、中央)を祭し、神社のすぐ南には古安曽の地名が残り阿曽神社がありまして、初期の科野国造、多氏との関係が伺えます。 > 科野国造の金刺氏は欽明帝の都、磯城島金刺宮から、他田氏は敏達帝の訳語田幸玉宮(おさださきたまのみや)から、同じく多氏系で仏教の伝来との関係、善光寺にも関係ありかもしれません。 ところで、千曲川の畔の有明山に森将軍塚古墳がありますね。4世紀中葉の前方後円墳です。 先月探訪したのですが、ここは科野国造の本拠地で、大和の北方の都祁氏の同族と唱えているそうです。朝廷に従った一族でしょうか。 大和の都祁国の都祁氏は多氏一族だそうです。大和では都祁氏から倭氏へさらに大三輪氏に勢力が移ります。 和田アツムさんによると、都祁は九頭竜で蛇信仰とのことです。くずさんは戸隠の九頭竜のこと話されていましたね。和田アツムさんは、大和王権が進出した各地で神社を勧請している。善光寺には三輪の神を勧請していると言っておられました。 そしてやはり気になるのは、尾張部が6世紀の後半以降、東海地方から北信濃地域に移住した集団であること。さらに遡って、松本の弘法山古墳が前方後方墳で、3世紀後半に東海式土器が出ており、東海地方の勢力が松本と関係を結んでいたことです。 五行思想の影響は面白い視点です。 |
[2468] 多氏と五行 くず | 2006/09/16(Sat) 01:58 [Reply] |
●科野国造の多氏と五行 長野県上田市、生嶋足嶋神社は大地(五行で言う土、中央)を祭し、神社のすぐ南には古安曽の地名が残り阿曽神社がありまして、初期の科野国造、多氏との関係が伺えます。 科野国造の金刺氏は欽明帝の都、磯城島金刺宮から、他田氏は敏達帝の訳語田幸玉宮(おさださきたまのみや)から、同じく多氏系で仏教の伝来との関係、善光寺にも関係ありかもしれません。 薙鎌の風習については、五行で風は東方(木)の悪とされ、打ち滅ぼすのは金、この意味で木に鎌が打たれたのではと、 又古事記の意富多多泥古の行った祭祀は疫病封じとして「宇陀墨坂神、祭赤色楯矛。」「大坂神、祭黒色楯矛。」とされていますが、大和の東の結界にあたる墨坂に赤は、東(木)と赤(火)の関係になり、五行の相生(陽の関係)、西の結界逢坂には西(金)と黒(水)で、同じく陽の関係になります。 ●天之日矛と阿加流比売 太朝臣安萬侶による古事記の伝承は、姫が赤玉を宿したのが沼であったり、虹の表記と、褐鉄鉱系の説話(褐鉄鉱は虹彩をおびる事がある)に感じます。日本書紀では都怒我阿羅斯等に主人公が代わり玉は白玉。出自は意富加羅国… ●息長氏 近江での出自に意富々杼王(応神帝の孫)があり、継体天皇の袁本杼王(ヲホド)にも。 多氏は新羅(伽耶、加羅)経由で、五行(大陸中央の思想)にも通じた氏族では。 息長氏もその関係でしょうか? 褐鉄鉱を使った製鉄を縄文まで遡れるか?については疑問ですが、北信地方で言えば弥生後期、 千曲水域にベンガラを塗って焼かれた特徴的な箱清水式土器が多量に出ます。 http://www.city.nakano.nagano.jp/rekimin/R8.files/kuribayashi.htm 以前紹介しました伽耶の鉄剣が出土している根塚の墳丘墓からも出土し、「大」の文字が確認されています。少なくても弥生後期には伽耶から褐鉄鉱を原料にした製鉄技術(フイゴなしで風を利用した野踏鞴)が伝わっていてもおかしくない。とは思います。 |
[2467] Re[2462][2460][2454]: 中央アフリカの製鉄作業実験 素人 | 2006/09/15(Fri) 01:23 [Reply] |
とみたさま > ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー > 製鉄が行われたのは、晩くても6世紀半ばには吉備を中心として始まった。 > > それまでは朝鮮から鉄鉱石を鉄の地金=鉄ていの形で輸入して、日本ではフイゴの技術で木を燃やして製鉄していた。 > > 6世紀後半からは日本の砂鉄を原料として製鉄が始まった。 > このように考えております。 > その通りでしょう。そのために吉備国に大和政権は手を焼いたと思われます。 古代の吉備国では備中地域の鉱石、美作地域の鉱石・砂鉄などの鉄資源に恵まれ巨大古墳に象徴されるように大いに繁栄したが、大和政権の確立に伴い、吉備中枢の備前から分国政策により鉄資源を切り離して吉備を弱体化させたようである。吉備の弱体化に伴い製鉄技術の拡散も始まったと推定されます。分国の経緯は以下のようなものです。 古代の吉備国は、大化の改新後(7世紀後半)に備前、備中、備後の三国に分割され、さらに奈良時代に入って和銅六年(713)に、備前国北部から六郡を割いて美作(みまさか)国として分国した。 備前の製鉄は8世紀後半には資源の枯渇で消滅寸前となっています。 > 6世紀後半からは日本の砂鉄を原料として製鉄が始まった。 丹後半島での海砂鉄等での製鉄と思われますが、初期の砂鉄製鉄では炉内温度が1250℃のイルメナイト溶融温度に到達しないためにこれが、鉄中に残留して良質の鉄が製造できなかったのではと夢想します。一時中断後に高温での製鉄として再開され不純物の少ない鋳鉄を中心とした製鉄として連続操業したと夢想します。 また聞きの知識でした。 |
[2466] Re[2465][2462][2460][2454]: 中央アフリカの製鉄作業実験 とみた | 2006/09/15(Fri) 00:22 [Reply] |
サン・グリーンさん 皆さん > 芸大の井関教授は「風さえあれば鉄ができる」という説を唱えておられます。 > 近いうちにこの自説を検証、実験される予定だそうです。 > 私は葛城の「風の森」付近などが適地ではないかと考えているのですが…。 これは面白いですね。 実は、いろいろな本を読んでいると、息長氏は何の民か。で分からなくなります。 息長氏はご承知のように、近江国坂田郡=近江の三上山の近くの有力な豪族です。神功皇后の諡号は息長帯比売(古事記)、気長(日本書紀)。敏達天皇は息長真手王の娘、広姫を娶ります。舒明天皇の諡号は息長足日広額尊です。 息長はイキナガ・・・息が長いということが、何を意味するかが問題です。 ●千田稔先生は・・・水中に沈む海女の息長と解釈されて、水の巫女・海女の呪術的能 力を想定されています。何れにせよ海女系、海の民です。 ●東大の上垣外憲一先生は、近江は産鉄の国。アメノヒボコは鉄の技術を持ち近江に 一時住んだ。息長氏の出身である神功皇后は天日槍(アメノヒボコ)の子孫。近江 では5世紀には加茂族による砂鉄からの製鉄が行われた。 つまり、息長はフィゴに気/息=空気を長く送ること、製鉄と関係があるかと想像しました。 その説は、 ●民俗学の谷川健一先生の本(四天王寺の鷹)で確かめられました。近江の三上山を 神体山とする三上神社の祭神は天之御影命であり別名は天目一箇命(社伝)・・・鍛治 の祖神。その子孫に息長帯比売命がいる。 息長は鍛治(鉄鍛治、銅鍛治)に関係がある。フィゴを使って鋳造する金属神である。 息長とは・・・息が長い。フィゴの風がよく通るとの説です。 竜田川の近くの神社で風神を祭る行事がありますね。私は風水に関係ありとか台風除けの行事と思っていましたが、なんと製鉄と関係があるようです。 ○山本博先生の〔古代の製鉄〕を引用して書かれています。 竜田神社の西の山脈につながる雁多尾畑の近くで、二箇所の鉄さいを発見した。そこは嶽山の北側にあるが、そのさらに北にある御座峰から吹き付ける自然風を利用して製鉄が行われていた。 御座峰は古くから竜田神、すなわち風の神の降臨する聖地とされていて、今もって毎年4月4日の竜田神社の例祭の日、神官が登山して祭祀を続けている。また嶽山の頂上に金山姫と金山彦の金属神が祭られていたのが、あとで現在地の雁多尾畑の位置に下りた。御座峰の風神も天武朝になって現在地の竜田神社に移した。と山本博さんは言われている。 ちなみに雁多尾の雁は朝鮮語のカル、すなわち刃物を意味する語で、多尾は、タワすなわち峠を意味するそうです。 、 > > > |
[2465] Re[2462][2460][2454]: 中央アフリカの製鉄作業実験 サン・グリーン | 2006/09/14(Thu) 11:17 [Reply] |
神奈備さま・MADOKAちゃん、N様 昨日は雨の中ありがとうございました。 八十島祭り=実質上の族長就任儀礼&太陽を西の海に送る(先帝の葬儀儀礼)説、1部理解してくださってありがとう。私のはひらめきだけなので論拠できないのが悲しいです。 とみたさま、素人さんさま、くずさま、 「鉄」の話が波紋を呼んでしまってどきどきしています。 私は上記の通り、ひらめきだけの人間なので、なにかすごいことを垣間見たという感覚だけをたより動いています。 鉄に関する詳しいことは全くわかりません。 MADOKAちゃんも関係している古代の葦舟を復活させるプロジェクトのキャプテンから高師小僧から鉄ができることはかなり前から聞いていました。 その日本最大の良質の葦の収穫地は浪速=今の淀川河口付近です。 いろいろ妄想していると、古代倭の五王の時代=河内王朝の繁栄が垣間見えてくるのです。 芸大の井関教授は「風さえあれば鉄ができる」という説を唱えておられます。 近いうちにこの自説を検証、実験される予定だそうです。 私は葛城の「風の森」付近などが適地ではないかと考えているのですが…。 |
[2464] Re[2458][2459]船橋大神宮 感想他 QUBO | 2006/09/14(Thu) 09:00 [Reply] |
> 船橋市史に… > 神宮寄進の夏見御厨(別称、船橋御厨)が1138年に成立すると、 > 意冨比神社の神威を借りる為、神明宮を意冨比神社に遷して合祀… > それ以降、天照大神宮と記されることになった。 「大神宮」の名称 「大神宮」の名称は、普通使えません。 正しくは「使えなかった」かな 延喜式で、神宮名称は鹿島香取の両社のみです。 「船橋大神宮」入り口の大きな石碑(東郷平八郎揮毫)も「意冨比神社」です つまり明治の後半でも「大神宮」は使っていません。 あちこちに「大神宮」ができるのは戦後のことでしょう。 古代に関心を持つものとしては、「意冨比神社」を使いたいです > 由緒書きによれば・・ヤマトタケルが、東征の折、船橋湊郷に到着 この到着地、現在の入日神社辺りといわれます。 http://www.akamon.or.jp/map.html 地図の北右側に飛ノ台遺跡があります 貝塚のある縄文遺跡で、この南崖の下が、当時の海岸線です。 南の右下に、入日神社があります。船橋大神宮の元宮と言われます。 この辺りの地名は海神です。ヤマトタケルは船でここに到着。 縄文時代から数千年?で、海岸線が動いたと思うと面白いです。 |
[2463] Re[2462]:国境の薙鎌 くず | 2006/09/13(Wed) 15:16 [Reply] |
製鉄のお話興味深く伺っております。 ●薙鎌の縄文起源説 まだ拝見していないのでなんとも言えませんが、個人的には道教(五行)の影響を受けた祭祀形態と考えていますので、なんらかの原形はあったのかもしれませんが、後から入ってきたものではないか(あるいは建御名方神とともに)と考えます。 科野国造として多氏の存在があるのですが、彼らに関係してくるのではないかと、太田田根子(意富多々泥古)の系譜(父)に建甕槌命の名が見えるのは興味深い点ですが・・ ●国境の薙鎌 長野県立博物館で出版しております信濃の風土と歴史12「いのる人びと」という冊子に、諏訪市史からの出典として長野県内の薙鎌所在地を図示したものがあり、伊那、諏訪周辺にならんで、北信地域にも多数あるのですが、旧郡部を境界にしますと、意外なほど水内郡に少なく、水内、更級、埴科の3郡を囲む形で薙鎌が伝わっているように見受けられます。諏訪(建御名方)関係のお社が少ないというわけではないのですがね。不思議に感じております。 建御名方神の諏訪入りのさい争い負けたとされる、鉄輪に象徴される守屋(洩矢)の神の存在があるのですが、彼らの文化を引き継ぐ者達が水内地方を中心に拠点を張ったのではないかと考えます。勢力を維持できたのは7世紀後半くらいまでか、 日本書紀、天武天皇十三年(684)二月、「遣三野王。小錦下悉女臣筑羅等於信濃令看地形。將都是地歟。」とあってこれを受ける地元の伝説にこんな話があります。 「一夜山の鬼」 http://homepage3.nifty.com/hakuhou/ichiya.htm 海人系の尾張部氏の科野入りもこの頃?713年に科野から信濃にクニの名がかわります。 ●褐鉄鉱について 真弓常忠著 「古代の鉄と神々」が興味深かったです。 現在の褐鉄鉱の産出について。戸隠の赤ベトの話です。 http://www.janis.or.jp/users/gann//100sen/tikasigen/kaiwabara_kouzan.htm |
[2462] Re[2460][2454]: 中央アフリカの製鉄作業実験 とみた | 2006/09/13(Wed) 10:06 [Reply] |
サングリーンさん、素人さん みなさん 古代史をやっていると神社だけでなく、鉄の話も追っかけないといけないようです。 私も呆け予防の刺激剤として鉄を追っています。これも未だ駆け出しです。 よろしくお願いします。製鉄の技術的な側面と、渡来人による技術移転の側面で関心 があります。時期的なことも考え合わせて神話伝承との整合性を確かめています。 > 鉄にも興味を持っております、遅れた書き込みですがよろしくお願いいたします。 、なんと現地では近年までごく普通に自然炉で製鉄が行われていたというのです、ちょうど今日9日はその製鉄作業実験がキャンパスであったので幸運にも見学してできました。 > > まるで小さな蟻塚のような炉が傾斜地に作られていて600度〜800度で鉄鉱石から製鉄(かなり質の悪い鉄のようです)作業を見学することができました!!!!! > タタラの専門家からのまた聞きでは低温では浸炭が進まず、原料が砂鉄や磁鉄鉱、ヘマタイトでも純金属のスポンジ状の海面鉄が出来るようです。純鉄ですから悪い鉄では有りませんが、柔らかいのでこのままでは使用できないために鍛冶炉で浸炭させるか、鋼に溶融させる必要があるようです。このタイプの製鉄は紀元前からあるようです。鞴を写真で見ましたが、息継ぎしないで連続送風できるように2個がペアー日本で、 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 製鉄が行われたのは、晩くても6世紀半ばには吉備を中心として始まった。 それまでは朝鮮から鉄鉱石を鉄の地金=鉄ていの形で輸入して、日本ではフイゴの技術で木を燃やして製鉄していた。 6世紀後半からは日本の砂鉄を原料として製鉄が始まった。 このように考えております。 フイゴは、纏向箸墓の土壙のなかから3世紀のものが、葛城南部の南郷地区からは5世紀のものが出ています。倭風の鉄鍛治と渡来の鉄鍛治があるそうです。葛城には鉄工人が朝鮮から入って現地の人にも教えたのではと思っています。これがいつも私が想像している、高鴨アジスキ神社周辺です。 鉄器は、最古は今のトルコ地方のアッシリアの商館で紀元前20世紀の鉄片=鋼が出ています。イラン北部で紀元前15世紀、ヒッタイトも同じくらいでしょうか、インドで紀元前10世紀前後、中国ではそれより少し後れて紀元前9世紀に鉄剣が出ています。戦国時代つまり紀元前5世紀あたりから実用化されたとされています。朝鮮はどうなっておりましょうか。 そこから日本へ伝播したのでしょう。以上は通説です。 最近異説を知りました。 諏訪の御柱祭を研究されている方の高師小僧という鉄の話です。 御柱祭では、鉄の薙鎌を御柱に打ち込みます。この起源が縄文時代にあるのではという研究です。縄文時代に鉄が日本でも取れたとの説です。諏訪?スワ一大事! 葦は川水の鉄分を吸い取って、それが枯れると鉄分が残り塊ができる、これが高師小僧の正体。縄文土器を焼くときはかなりの高温を必要とします。一方、400℃の低火力で高師小僧の成分の褐鉄鉱は熔解するという実証があります、不純物が多ければ一層低温で熔解するそうです。縄文土器を焼く温度で褐鉄鉱は十分、溶け出すというわけです。 信州は縄文時代中期には、縄文のビーナスがでるほど、先進地域で、豊富な縄文土器を作っています。そして、鉄分も豊富な河川や湿地があったようです。 郷土愛もあってか、この著者は縄文時代の諏訪の鉄の存在を主張されています。 どの程度、この説に信憑性があるかどうか私には分かりません。 ふと、皆さんの投稿で、お知恵を借りたくなりました。 > |
[2461] Re[2457][2456]: 八十島祭(*^_^*) サン・グリーン | 2006/09/13(Wed) 07:17 [Reply] |
大三元さま > 八十島祭の「謎」どういう具合に解けかけてきているのか教えて頂けるとありがたいです。私のこれまでの理解は、岡田精司著『古代王権の祭祀と神話』という本に基づくものだけです。 私のヒラメキ=たわごとに興味を抱いて頂き恐縮です。 岡田先生の講演は以前に拝聴させて頂いたことがありますが、引き出しが幾つもあって何を質問しても的確に答えてくださるので感激でした。 > > この本では「八十島祭り」の原形(住吉神社が主催するようになる前の形)を推定して:(同書から引用) > 「そこで復元した結果では、海の彼方から太陽霊をむかえそれと一体となる形をとる族長就任儀礼であり、河内王朝が〈大王〉の地位を占める以前の、一地方族長にすぎぬ時代から行われてきたものである。・・・五世紀代には依然として大王家の私的な族長就任儀礼として、古来のままの形で太陽霊を浜辺で迎える祭りとして行われていたものと推定される。」 例の中央アフリカ展会場で葬儀儀礼のビデオを見ている時、井関教授がこれは実質上の族長就任儀礼ですと説明されたのを聞いて「これが、謎の八十島祭りの原型では?」とヒラメイタのです。詳しいことは長くなるので書けませんが、今日まどかちゃんと神奈備さんが芸大&我が家に来るのでその時に私の考えを聞いてもらう予定です。29日の講演会でその一端をお話できればうれしいのですが…。 > 河内王朝の最深部に転居して3ヶ月が過ぎました、古墳の丘の上に立って眼下の河内平野を見ながら妄想に励んでいます。いつか神奈備さまのオフ会でお目にかかれりたいです。よろしくお願いします。 |
[2460] Re[2454]: 中央アフリカの製鉄作業実験 素人 | 2006/09/13(Wed) 02:13 [Reply] |
鉄にも興味を持っております、遅れた書き込みですがよろしくお願いいたします。 > それから神奈備さま&ご一族さまへトピックスのお知らせです。 > 今日、家のすぐ近くの大阪芸術大学構内で「中央アフリカ、民族芸術と環境」という展示会に行ってきたのですが、なんと、なんと現地では近年までごく普通に自然炉で製鉄が行われていたというのです、ちょうど今日9日はその製鉄作業実験がキャンパスであったので幸運にも見学してできました。 > まるで小さな蟻塚のような炉が傾斜地に作られていて600度〜800度で鉄鉱石から製鉄(かなり質の悪い鉄のようです)作業を見学することができました!!!!! タタラの専門家からのまた聞きでは低温では浸炭が進まず、原料が砂鉄や磁鉄鉱、ヘマタイトでも純金属のスポンジ状の海面鉄が出来るようです。純鉄ですから悪い鉄では有りませんが、柔らかいのでこのままでは使用できないために鍛冶炉で浸炭させるか、鋼に溶融させる必要があるようです。このタイプの製鉄は紀元前からあるようです。鞴を写真で見ましたが、息継ぎしないで連続送風できるように2個がペアーになっているようです。日本での古代鞴の復元では上下に二個鞴を重ねて、真ん中に取っ手をつけて上下させる鞴であったようです。炭を用いて鞴を使用すれば羽口付近は1000℃以上も楽に可能なような気もします。自然風ではなかなか難しいようです。 > 私はその炉と製鉄作業をこの目で見てコーフンしてしまいました。 > ウガネットで以前から論議している「銅時代より鉄時代」が古いという検証ができるかも????? 面白いフイゴも展示されていましたよ。 刀鍛冶の方の書かれているものを読みますと、砂鉄での製鉄は少量であれば鍛冶炉でも作れるようなことが書かれていました。火を自在に操る技術があれば鍛冶炉でも鉄を少量作ることは出来た可能性はあるようです。これを製鉄と言うかは別の問題と思われます。近代の刀鍛冶の方はここから発展して「タタラ」を始められた方も居たそうです。原料としての良質の鉄や銑鉄を多量に作る技術が製鉄ではないかと思われます。鍛冶炉は5世紀ごろから有ったようですが、これをどう見るかです。 中世に日本でも関東地方などで丸型の製鉄炉で不純物の多い砂鉄を原料として銑鉄を作っていましたが、炉内温度は1250℃以上でしょう。 素人のたわごとでした。 |
[2459] Re[2458]: お待たせ 船橋大神宮 とみた | 2006/09/12(Tue) 23:56 [Reply] |
自己レス・・・ 修正と船橋市史による追加です。 >神宮寄進の夏見御厨(別称、船場御厨)が1138年に成立すると、意冨比神社の神威を借りる為、神明宮を意冨比神社に遷して合祀したのであろう。それ以降、天照大神宮と記されることになった。 船場御厨→船橋御厨に訂正 要するに、意冨比神が平安末期以後、夏見御厨に勧請された伊勢神宮と合祀されて船橋大神宮となり今日に至っていることは確かであろうということです。 > 意冨比に対する解釈は、いろいろあるそうです。 イ)イフヒ=夕日 つまり夕日の宮 。伊勢の大神は朝日の宮、船橋大神宮は夕日 の宮 ロ)オホヒ=大炊 つまり宮中の料理を司ること、このあたりの農漁民の信仰した 食物神 ハ)オホヒ=大日 つまり偉大なる太陽神 の宮でこの地方の農民が元から祭って 来た太陽神 ニ)オホヒ=多氏(大、意冨、飫冨など)の古氏族の移動による前線基地の守護神 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ニ)説は黒潮に乗ってきそうで面白いですが、ハ)説に支持が傾いているようで す。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー > しかし征討の貢献度としての > 勲位授与は、延暦年間で大体終わっており、意冨比神社の勲位授与は後れて貞観時代に集中している。しかも武位でなく文位としての官位であることから豊作祈願などではないか。 貞観5年(863年)、871年、874年に昇位している。 文献に船橋という記事がはじめて見えるのは9世紀後半とこちらでは書かれています。日本三大実録に下総国意冨比神と出ている。 |
[2458] お待たせ 船橋大神宮 とみた | 2006/09/12(Tue) 23:08 [Reply] |
MADOKAさん 今日は同窓会が船橋でありましたので、ついでに船橋市役所文化課で船橋歴史風土記をコピーした後、電車で一駅、神宮前で下車、船橋大神宮へ行きました。 とみたさんへ > 阿波忌部の本手に入れられたようですね。私は渡来系祭神&姫神&海洋民に興味があり、難波津から紀の国。黒潮ルートの日本への最終地点が房総半島であることで興味をもっておりますが。勉強不足と土地感のなさでちんぷんかんぷん。そちら方面の情報楽しみにしてまーす。今。舟橋を追っております。千葉県に船橋大神宮。ここに関わる情報があれば掲示くださーい。待ってマース\(^0^)/ @由緒書きによれば・・・ヤマトタケルが、東征の折、船橋湊郷に到着。たまたま住民が旱魃で困っていたので、天照神を分霊したら神徳駕顕現された。13年後に景行天皇自ら東征された折、ヤマトタケルの事跡を称えて意冨比神社を創建された。 これが宮司代行のお話です A船橋歴史風土記によれば・・・平安時代末期、豪族は荘園を守るためや、税を免除してもらうために、伊勢神宮に寄進し、この地は伊勢神宮の御厨(ミクリヤ)となった。 元々は、夏見村の台地に意冨比神社という霊験あらたかな神社があったが、伊勢神宮寄進の夏見御厨(別称、船場御厨)が1138年に成立すると、意冨比神社の神威を借りる為、神明宮を意冨比神社に遷して合祀したのであろう。それ以降、天照大神宮と記されることになった。 意冨比神賀歴史に登場するのは、平安中期の摂関時代(日本三大実録の貞観5年=863年)。船橋という地名が歴史に登場するのも、寄進の後の平安後期です。 意冨比に対する解釈は、いろいろあるそうです。 イ)イフヒ=夕日 つまり夕日の宮 。伊勢の大神は朝日の宮、船橋大神宮は夕日の宮 ロ)オホヒ=大炊 つまり天皇の食膳に供する神社 ハ)オホヒ=大日 つまり偉大なる太陽神 の宮 確かに船橋は下総の国府のある市川に近く、坂東は蝦夷征討の兵站の基地でした。 したがって、船橋もその性格があるかもしれません。しかし征討の貢献度としての 勲位授与は、延暦年間で大体終わっており、意冨比神社の勲位授与は後れて貞観時代に集中している。しかも武位でなく文位としての官位であることから豊作祈願などではないか。 以上、黒潮とは余り関係がなさそうです。 この船橋大神宮のある船橋市宮本は、太宰治が昭和10年夏から11年秋まで借家生活をしたところで、、愛着を持っていたとのことです。 もう一晩、この家に寝かせてください。玄関の爽竹桃は、僕が植えたのだ。 MADOKAさんの宿題はこれにて一旦終了、Nickさんからの宿題もありますね。房総の古代の土器の調査です。 黒潮のことなら、黒潮の考古学・・・橋口尚武著 同成社 ¥4800 船橋歴史風土記 綿貫啓一著 崙書房 0471−58−0035 ¥1030 船橋市史(原始・古代・中世 ) 文化課 047−436−2898 |
[2457] Re[2456]: 八十島祭(*^_^*) 大三元 | 2006/09/12(Tue) 09:20 [Reply] |
神奈備さん、サン・グリーンさん 八十島祭の「謎」どういう具合に解けかけてきているのか教えて頂けるとありがたいです。私のこれまでの理解は、岡田精司著『古代王権の祭祀と神話』という本に基づくものだけです。 この本では「八十島祭り」の原形(住吉神社が主催するようになる前の形)を推定して:(同書から引用) 「そこで復元した結果では、海の彼方から太陽霊をむかえそれと一体となる形をとる族長就任儀礼であり、河内王朝が〈大王〉の地位を占める以前の、一地方族長にすぎぬ時代から行われてきたものである。・・・五世紀代には依然として大王家の私的な族長就任儀礼として、古来のままの形で太陽霊を浜辺で迎える祭りとして行われていたものと推定される。」 これによって(太陽霊を迎える、ということ)私は「おしてる難波」の「おしてる」は「輝・照る」であり、「難波」は「真庭」が原義であろうか、と考えております。 そこで八十島祭が「太陽霊」と天皇の関わり、であることが確認出来れば大歓迎だし、否定的な観察が出来るようなら伺っておきたい、と思う次第です。 私説、詳しくは:前半に関しては布忍神社の「布忍」の語義に関する考察 http://www.dai3gen.net/nunosi.htm 後者については http://www.dai3gen.net/ositeru.htm に掲げております。 |
[2456] 八十島祭(*^_^*) サン・グリーン | 2006/09/10(Sun) 16:42 [Reply] |
神奈備さま 大恩人、伊太祁曽名誉宮司さまにはいつまでもお元気で頂きたいものですね。 ところで… その八十島祭の謎がようやく解けかけてきました。 先にもお知らせしました大阪芸大での中央アフリカ展会場で現地の葬祭儀礼のビデオの中で呪術師たちの仮面ダンスの説明を聞いてヒラメイタのです。 他にも、体調がすぐれない状態になれば難波宮に行幸、多分堀江のほとりで国土の霊力を受け、気を奮いたたしていたのでしょう。 この神奈備さまのコメントで益々確信に近いものをいただけました。 ありがとうございます。 私の考えは9月29日の講演の中で皆さまに聞いて頂く予定です。 きっとMADOKAちゃんも唸って納得してくれるかもね? それから、芸大での製鉄実験の写真を近いうちに神奈備さまにメールで送りますので写真掲示板にアップしてくださいね。(私は不細工で自分でどうしてもアップできません) |
[2455] 八十島祭 神奈備 | 2006/09/09(Sat) 21:18 [Reply] |
サン・グリーンさん、ご無沙汰です。お盆に伊太祁曽、爺は元気でした。 「東アジアの古代文化を考える」の講習会に参加、栄原永遠男さんが講師。 難波宮への行幸について の話が印象に残ったので、備忘録として。 文武天皇 即位 文武元年八月 大嘗祭 文武二年十一月 行幸 文武三年正月 元正天皇 即位 霊亀元年九月 大嘗祭 霊亀二年十一月 行幸 養老元年二月 聖武天皇 即位 神亀元年二月 大嘗祭 神亀元年十一月 行幸 神亀二年十月 『続日本紀』に出ている行幸の三例は大嘗祭の翌年に天皇自ら難波宮へ行幸しています。一体何の為でしょうか? 聖武天皇は天平十七年八月にも難波宮へ行幸、九月に「朕はこの頃病気がちで・・」と発表しています。 後のことになりますが、天平勝宝八歳三月に、太上天皇(聖武)は難波の堀江の上(ほとり)に行っています。太上天皇は前年十月に健康がすぐれない状態です。また天平勝宝八歳四月にもお体が不調とあり、五月には崩御されています。 さて、大嘗祭の翌年に難波で行われる行事は八十島祭です。奈良時代以前には天皇自ら難波の堀江のほとりまで行っているようです。 他にも、体調がすぐれない状態になれば難波宮に行幸、多分堀江のほとりで国土の霊力を受け、気を奮いたたしていたのでしょう。 難波の堀江、今の大川の南岸、天満橋、まさに熊野古道の出発点付近だったと思います。 |
[2454] 中央アフリカの製鉄作業実験 サン・グリーン | 2006/09/09(Sat) 17:34 [Reply] |
MADOKAちゃん、9月29日講演会告示してくださってありがとうござます。 転居してまだまだ落ち着かないので、すっかりご無沙汰しております。 「古事記の宇宙観」中央公会堂講演がんばりますので応援にきてくださいね。 それから神奈備さま&ご一族さまへトピックスのお知らせです。 今日、家のすぐ近くの大阪芸術大学構内で「中央アフリカ、民族芸術と環境」という展示会に行ってきたのですが、なんと、なんと現地では近年までごく普通に自然炉で製鉄が行われていたというのです、ちょうど今日9日はその製鉄作業実験がキャンパスであったので幸運にも見学してできました。 まるで小さな蟻塚のような炉が傾斜地に作られていて600度〜800度で鉄鉱石から製鉄(かなり質の悪い鉄のようです)作業を見学することができました!!!!! 展示会は布や染色が主で、9月13日(水)まで、入場無料です。 近鉄河内長野線、喜志駅下車、大阪芸大行きスクールバス(無料)が出ています。 中央アフリカ民族芸術と環境展に行くといえば誰でも利用できるそうです。 神奈備さま、MADOKAちゃん 例のチケットを使ってぜひぜひその目でみてくださいね。 私はその炉と製鉄作業をこの目で見てコーフンしてしまいました。 ウガネットで以前から論議している「銅時代より鉄時代」が古いという検証ができるかも????? 面白いフイゴも展示されていましたよ。 それから、芸大に来られる時にはぜひ我が家にも来てくださいね。 メール連絡を楽しみにしていまぁ〜す。 |
[2453] 探してみました。 素人 | 2006/09/08(Fri) 22:17 [Reply] |
> > ナスカ地上絵 > > 本物を上空から見てみたいものです。セスナでの観光があるようですね。 > JTBの型録と財布の中身を検討中。 > 遅れた書き込みですみません。長江流域にも地上絵のようなものが、ないか探してみました。低空から見えるものと違って衛星写真で見えるものは難しいようですが、重慶市の鳥江の近くに鳥らしいものが有るようです。 鳥江の巨大な鳥地上絵?? 鳥江の流域から辰州にかけては地殻変動の激しい地域で褶曲や断層が多くあり、これにより鳥江の北斗七星の形をした流路や北斗の柄杓の先の部分の長さを5倍ほどした、北極星にあたる部分が、地殻変動で描かれた巨大な鳥の地上絵のような鳥の頭に当たります。解かりにくい鳥ですが長さ150km、幅50kmの巨大な鳥のようなものが見えます。この頭の部分が秀山と思われ、良質の水銀鉱山のある街で、この周辺は広大な水銀鉱床地帯です。見つけにくいgoogleマップですが、湖南省・洞庭湖は見つけやすいので、ここから西に250Km位の所に巨大な鳥?のようなものがいます。 場所検索「渋谷」で地図を拡大してから、倍率を戻して中国の洞庭湖で拡大すれば見つけやすいようです。 googleマップ http://maps.google.co.jp/maps お恥ずかしい、青草でした。 |
[2452] Re[2449][2448]: 饒やかな疑問 神奈備 | 2006/09/08(Fri) 15:33 [Reply] |
話が前後になりましたが、饒やかな疑問について 兄弟か? 『古事記』では、勝速日天押穂耳の子に天火明命と瓊瓊杵命。 『旧事本紀』では、天押穂耳の子に饒速日命と瓊瓊杵命。 瓊瓊杵命は皇統に属し、間違われない名前。残りの名が今回の問題。 饒速日は名前からして勝速日の子に相応しい名。速日は他に桶速日、甕速日、乳速日があるが、これらとは関係はなさそう。 神武さんは饒速日の道具を見て天神の子としている。 『旧事本紀』の二神の名は「ニギ」を共有し、兄弟の名に共有の言葉が多い法則(といえるかどうか)に則っている。 饒速日は神武さんより一つか2つ上の世代、瓊瓊杵は3つ上の世代、一応よく似た世代。 結論 兄弟である。そうすれば、自ずから饒速日尊と天火明尊とは同一神となり、『旧事本紀』の云う天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊のフルネームは同一神を示している。 実際に存在したの? よく分からないのですが、お釈迦様は存在したが観音菩薩は存在したかどうか。キリストはいたがモーゼはどうなの。モーゼ的存在かも。 ほぼ同じ見解でした。 |
[2451] 「古事記の宇宙観」講演会ご案内 MADOKA | 2006/09/07(Thu) 20:56 [Reply] |
講演会のご案内 9月29日(金) 午後6時半〜八時半 大阪市中央公会堂、大会議室 「古事記の宇宙観」 講演者、小林晴明、宮崎みどり 会費2000円 主催、感動塾、重藤悦男さん 連絡先、090−3975−2602 自宅п父tァックス0745−78−1198 たくさんのご来場をお待ちしております。 とのことです 講演者は 稗田阿礼が語るゆかいな日本の神話 「古事記のものがたり」 著者 http://www5c.biglobe.ne.jp/~izanami/ |
[2450] Re[2449][2448]: 饒やかな疑問 神奈備 | 2006/09/07(Thu) 19:34 [Reply] |
QUBOさん、お考えのご披露ありがとうございます。 物部氏が相当の存在感を持って古代社会と古代史に君臨しているのは何故だろうか、などと考えておりました。そうして物部氏と云えば饒速日尊です。河内に降臨し、長髄彦の妹を娶り、子供が産まれる前に死ぬ、これでは人々の記憶にはたいして残りません。 少なくとも、大国主以降で天孫政権の始まりまで数百年は物部の天下でないと、古代に燦然と輝く豪族とはいいにくいのではと思っています。 経津主が大国主に国譲りを強制しています。 経津主とは物部の神です。この神話は、大国主の国を奪ったのは物部だったと云うことを語っていると思います。 出雲の大量の銅製の祭祀道具の埋納、だいたい紀元0年の頃、それから卑弥呼の登場と死、前方後円墳時代の到来、その後の河内王朝の成立、300年〜400年頃まで物部氏中心の政権から天孫中心の政権に徐々に移行していったのではと思っています。 銅鐸的に云えば、初期・最盛期銅鐸は大国主の時代 終末期銅鐸は物部の時代 さて、終末期銅鐸は三河、遠州、近江、尾張、紀州、河内から多く出ています。『旧事本紀』(国造本紀)によりますと物部系の国造が多いこと、また物部氏とのつながりが目立つ地域が多いようです。 また、狗奴国の位置ですが、邪馬台国が大和に来た頃には、狗奴国は大和からは東とか南に位置していたようで、まさに終末期銅鐸と重なり、また物部とも重なるようです。 狗奴国の名は焼き蛤の桑名に残っていると云われます。確かに伊勢には物部系の神社は多いようです。 |
[2449] Re[2448]: 饒やかな疑問 QUBO | 2006/09/07(Thu) 11:22 [Reply] |
◎日本書紀 饒速日命 神武天皇より先に河内河上に天下る ◎古事記 邇藝速日命 ナガスネヒコの妹、トミヤスビメ(登美夜須毘売)のむこ殿、 二人の間に生まれたウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)は 物部連の祖。ウマシマジは 神武天の東征時、ナガスネヒコを 裏切る(解釈は違いがある) ◎先代旧事記 天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊 天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)の子。ニニギの兄。同一の神としている ◎新撰姓氏録 ●たとえば 尾張連を天孫とし祖を火明命としている 火明命は天孫(天照の系、皇統) ●たとえば 石上朝臣は天神とし祖を神饒速日命としている 饒速日命は天神(高天原出身、皇統ではない) 別であるかのように見えるが、同一と考えられる 天神>天孫 つまり アジア人>日本人のような概念と思えば良い 私なりの解答 > 饒速日尊と天火明尊は同一神か? → 同一神 > 饒速日尊なる人物は存在したのか? → 存在した(可能性は神武と同程度) > 瓊瓊杵尊と饒速日尊とは兄弟か? → 瓊瓊杵尊と饒速日尊とは兄弟 おまけ: 役人の 子はニギニギを 欲覚え 江戸時代の川柳です。現代のことではありません。 |
[2448] 饒やかな疑問 神奈備 | 2006/09/06(Wed) 20:09 [Reply] |
饒速日尊と天火明尊は同一神か? 饒速日尊なる人物は存在したのか? 瓊瓊杵尊と饒速日尊とは兄弟か? よく判らない所。 |
[2447] Re[2446][2439][2438]: 特急 黒潮ルート沿線 ネット!? nick [Url] | 2006/09/04(Mon) 21:16 [Reply] |
> > 当地では、ナスカ地上絵展をやってます。 管理人さん。こんばんわ。 先週土曜日、病院の診察がてらでかけました。 いや〜、大混雑で、幼い子供のミイラとにらめっこしている ヤングレディーが、、動きません。 余計黒山の人だかりで。 ナスカ地上絵の縮小版が床にあって立つと空から見下ろした気分には なりました。 熊野も空から眺めるといいでしょうね。 は、は、それにしても多すぎて、 5分で流して帰宅してのんびり録画を。 疲れました。 帰途パソコンショップを除いてHDD購入。 昨日、HDD200GB==>>250GBに入れ替えを。 なんとwindowsOS再インストールで一日かかりました。 参った。 |
[2446] Re[2439][2438]: 特急 黒潮ルート沿線 ネット!? 神奈備 | 2006/09/04(Mon) 17:48 [Reply] |
> 当地では、ナスカ地上絵展をやってます。 熊野古道を歩いて来ました。まだまだ暑いので、秋深の頃がいいようです。 世界遺産登録のブームでのおしかけも落ち着いたようで、じっくり鑑賞できる時に戻ってきているようです。 > ナスカ地上絵 本物を上空から見てみたいものです。セスナでの観光があるようですね。 JTBの型録と財布の中身を検討中。 |
[2445] Re[2444]: 瞬間 QUBO | 2006/09/03(Sun) 17:32 [Reply] |
>
自分が追い求めているのは日本という国家の"現在に繋がる本流" そしてその流れの始まりについてです。 表現が判り難いので別のことかと思っていました。 > 今の流れでは日の本という名前の元にある国家… > >「日本という国家が生まれるに至った瞬間」 ←時間的幅としてはほぼ通説があるのではないのでしょうか 『日本』の始まり これは定説が有りますよ フリー百科事典『ウィキペディア』によれば、壬申の乱以降です。 具体的には701年 かなり瞬間的だと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/å さる8月26日、東北大学埋蔵文化財調査室の藤沢敦さんが講師で、 「本州島東部から見た大和政権」という題の講演がありました。 古墳時代の『東日本』ではなく、本州の東部と表現されました。 つまり古墳時代はまだ『日本』は無いからです。 |
[2444] 瞬間について、などです。 くず | 2006/09/03(Sun) 01:18 [Reply] |
大三元さん、遅くなりました。 >国家の定義、日本列島内部だけでの普遍的な定義なのか、世界規模なのか。 世界には様々な国の形態があり、それぞれの成り立ち、成立過程がある事を理解しているつもりです。 自分が追い求めているのは日本という国家の"現在に繋がる本流"そしてその流れの始まりについてです。 それを探る意味においての外部との比較という視点はアリだとは考えています。 似た成立過程を持つ国、それとは逆にまったく違う国との比較ですね。 ブルース・バートン氏の著した「国境の誕生・・大宰府から見た日本の原形"は興味深い視点からの考察でした。 >「この国の根本に危機感」→倫理的な側面のことかな、とも思ったのですが、そうでもなさそう? 論理的な側面も見てはいます。日の本である国がさらに東に聖地を求めたなら日の本ではなくなるわけで、 今の流れでは日の本という名前の元にある国家としての終焉に進んでいるのではないか。 そんな漠然たる不安と、末端(田舎)にまで波及してきた原形(自分が育ったバックボーンたる風景)の崩壊を危機と感じています。あくまでも個人的にはですけど。 >「日本という国家が生まれるに至った瞬間」←時間的幅としてはほぼ通説があるのではないのでしょうか。その「幅」に疑問がある?「幅」では不満で「瞬間」を求める? それとも「過程」に重点があるのかな。 あくまでも瞬間を求めています。自分の場合なんでもそうですが、目指す時はピンポイントを求めます。 届く届かないは別の話で、瞬間であり特異点を求める事があいまいさを無くし、物事を正確に捉えるコツだと思っておりますので。 その瞬間を探るために、その瞬間を生み出すに足りえた過程についても興味がある事は無論です。 具体的に言う瞬間とは、ですが、 例えば人間(ホモ族)が生まれた瞬間については自説を持っています。 それは"青"への気付き、覚醒であったのではないかと。 人を除く哺乳類は一般的に青が識別出来ない事が知られています。体色に他の類に見られるような青がないですよね。 進化の過程で、青を知らない生活(土中なのかは解りませんが)の継続があって、その過程が青を感じる色覚の要素を奪ったのだと思います。 ここからは自分の想像なのですが、 哺乳類が地上での生活を取り戻してのち、一匹のサルが好奇心から空と海を分ける水平線の不思議に目を凝らしていた。 そしてある時、彼には見えたんだと思います。"青"が。青を見つけた"彼"は海(水平線)に向かって走り出した。一目散に・・・ 青に驚き、それを掴み取ろうとしたのが、人間の始まりであったのではないか。 海の浮力が2足歩行の成立を助け、その後の海を中心とした生活が体毛を失わせるに至った。青を見つけた驚きを仲間に伝えようとした、その思いがコミュニケーション(言葉)の発達を生んだのではないかと、 青を認識できるに至った過程、その後の進化に段階も重要ですが、人間の始まりの瞬間とは、青を識別(機能の回復)するに至った瞬間にあるのではないか。 もしかしたら、室戸岬の窟の中での弘法大師の気付きも、その事に由来した何か、なのではないか。あくまでも自分の考えですけどね。 でもそうした瞬間と呼べるようなものが、日本と呼ぶに至ったその成立過程にもあったのではないかと思うわけです。そしてその瞬間(あると仮定して)に近づきたいと思っています。 >とみたさん、 自分は戸隠と善光寺(平)について、ある程度昔からの親しみ、その風土の中で育った自分が感じるものの中で、何かを考える基盤として、またそれを時間(空間)を計る為のモノサシとしています。他の地域のそれは正直わからない。それをこれから見ていきたい。知りたいと思っています。 他の風土を基盤に持つ方が見た信州、信濃、あるいは科野について、純粋に聞いてみたい。もちろん他地域の風土を背景にしたお話にも興味を持っています。 >河川改修 戸隠にも九頭龍権現に関係した"戸隠瀬替えの法"なるものが、他言禁止の法として伝わっています。書物もあるようですが、それこそ見せては頂けない。 見てみたいのですけれどね、治水が大事な時にありますので。長野のこれからを左右する可能性があるのではないか、又それに関連したなんらかの発信を戸隠から出来ないものかと今、画策しております。 |
[2443] Re[2442][2441][2427]: 遅レス&産屋と藤娘 とみた | 2006/09/02(Sat) 09:31 [Reply] |
素人さん 早速のレスポンスありがとうございます > > 素人さん> > > > > 印旛のHPありがたく拝見、香取の海は弥生や古墳時代にどこまで深く入り込んでいたかご存知でしょうか。それにしても湖面に映える夕日がとても綺麗でした。 > > あまり役に立ちませんが、参考までに。 > 残念ながら1000年前、以前の資料は持っていないのですが、以前ご紹介したかもしれませんが、以下のWebが参考になるかもしれません。1000年前は湖沼も大きくて、たくさん有ったようです。 > 1000年前の利根川等河川図 > http://www.geocities.jp/cxnpp630/suimyaku.JPG > http://www.geocities.jp/cxnpp630/tonegawasi.html > >鳥見を追っかけておられる白井の主でいらっしゃいますか?(失礼) > Googleマップの衛星写真で空の上からこの辺を鳥見しているととても興味深い地形なのでいろいろ空想してしまうだけです。印旛沼に流れ込む鹿島川は南から北に流れる川です。この川の右岸の河口近くに佐倉があります。この川の右岸には四明山に当たる山はないようですが、関係ないですが佐倉には大きな博物館があるようです。印旛沼の北西、新川の支流神崎川の上流に白井市神々廻があります。この上流にあまり似ていませんが柄杓もどきの流路があります。また、この近くに滑走路が見えます。 > この辺を見ているとあきません。 いえいえ、大変参考になりました。 利根川なんて、当時は今の東京都心に流れ込んでいますものね。確か川の付け替えで銚子の方へ動かしたのは江戸時代です。大そうな水利工事でしたでしょう。 千年前の写真といえば、平将門の活躍した関東圏ですね。ヤマトタケルの東国遠征時代より数世紀は進んでいるのでしょうか。でも騰波江という沼がはっきり分かり、手賀沼あたりも葦津江があります。これは香取の海が奥深く陸地に入っていた証拠です。木下(キオロシ)布施、鳥見立もはっきり見えますね。現在はその近くに利根川が走っています。木下には貝層がくっきり残っています。 木下街道もあり、水運で物資を運んだので木下あたりは賑やかな土地だったのでしょうね。 江戸時代以降は大いに開拓したでしょうから、開拓に関わった民はそれぞれの所縁の神社を勧請しているんでしょう。農耕地や牧を開発したようです。今も在地の人は葦の原を開拓して牧があったと語っています。 古代においては・・・・東京湾へ安房の館山を経て浦賀水道の急流を越え(ヤマトタケルは妹を犠牲にして難所を越えている)下総の市川や上総の市原を通り、常陸の石岡あたりへ進んでいます。どんな道を辿ったか。古代の海道も調べる必要がありそうです。そのうち武蔵経由の陸路に代わるんでしょうね。 こんなこともいろいろ考えてみると面白いですね。 6500年前の縄文時代は温暖のため海進があり房総は海の中に浮かんでいたのでしょう。 印旛沼の近く成田空港の近くにあります佐倉には国立博物館があります。大きな施設ですがやや古い印象です。九州の国立博物館のようにモダンではありませんね。 佐倉には川村美術館があります。これは大日本インクの創業者の川村さんが佐倉の出身ですので美術館を設立されました。大きな池があり景色はなかなかのものです。 |
[2442] Re[2441][2427]: 遅レス&産屋と藤娘 素人 | 2006/09/02(Sat) 00:52 [Reply] |
> 素人さん> > > 印旛のHPありがたく拝見、香取の海は弥生や古墳時代にどこまで深く入り込んでいたかご存知でしょうか。それにしても湖面に映える夕日がとても綺麗でした。 あまり役に立ちませんが、参考までに。 残念ながら1000年前、以前の資料は持っていないのですが、以前ご紹介したかもしれませんが、以下のWebが参考になるかもしれません。1000年前は湖沼も大きくて、たくさん有ったようです。 1000年前の利根川等河川図 http://www.geocities.jp/cxnpp630/suimyaku.JPG http://www.geocities.jp/cxnpp630/tonegawasi.html >鳥見を追っかけておられる白井の主でいらっしゃいますか?(失礼) Googleマップの衛星写真で空の上からこの辺を鳥見しているととても興味深い地形なのでいろいろ空想してしまうだけです。印旛沼に流れ込む鹿島川は南から北に流れる川です。この川の右岸の河口近くに佐倉があります。この川の右岸には四明山に当たる山はないようですが、関係ないですが佐倉には大きな博物館があるようです。印旛沼の北西、新川の支流神崎川の上流に白井市神々廻があります。この上流にあまり似ていませんが柄杓もどきの流路があります。また、この近くに滑走路が見えます。 この辺を見ているとあきません。 |
[2441] Re[2427]: 遅レス&産屋と藤娘 とみた | 2006/09/01(Fri) 21:06 [Reply] |
MADOKAさん おおきに、遅遅レスです。 実は、避暑を兼ねて、信州の古墳を追っかけていました。 > とみたさんへ > 阿波忌部の本手に入れられたようですね。私は渡来系祭神&姫神&海洋民に興味があり、難波津から紀の国。黒潮ルートの日本への最終地点が房総半島であることで興味をもっておりますが。勉強不足と土地感のなさでちんぷんかんぷん。そちら方面の情報楽しみにしてまーす。今。舟橋を追っております。千葉県に船橋大神宮。ここに関わる情報があれば掲示くださーい。待ってマース\(^0^)/ 私はMAD0KAさんの聖地?の紀ノ川、橋本にhpや本で侵入して丹生都比売を追っかけていたら、なんとMADOんなさんは、我が近所の船橋に侵入とは、ハイハイ機会があれば由緒書きでも見てまいりましょう。 おかげさまで、ご紹介の忌部の本を手に入れてツンドクしながら、なんとか通読しました。 おかげで神奈備さんのご指南もいただきました。 素人さん> 印旛のHPありがたく拝見、香取の海は弥生や古墳時代にどこまで深く入り込んでいたかご存知でしょうか。それにしても湖面に映える夕日がとても綺麗でした。鳥見を追っかけておられる白井の主でいらっしゃいますか?(失礼) 水銀の調査の資料も読ませていただきましたよ。樟も黒潮もチャレンジされておられますね。 nickさん> 毎度毎度、頑張っておれれるようでご苦労様です。黒潮のルート、 先月の縄文学セミナーで、小田静雄先生はトカラ海峡を境にして、その南北で動植物も人も異なると言っておられましたが、黒潮はトカラを通るんでしょうか。伊豆も房総も黒潮のルートを拝見できました。黒潮は房総でお別れして、陸地を離れてゆくんですね。それで房総は大切なんだ。 今になって、こんなあほな事をゆうております。 それで土器の話ですが・・・ 信州松本と塩尻の博物館でおもしろいことが、書かれていましたよ。 信州には、東海地区系の土器が紀元前3世紀頃(弘法山古墳)だけでなく、それより随分古いときに入っていますね。 信州塩尻には縄文中期(5500年〜4000年ぐらい前:青森の三内丸山遺跡の時代)には、愛知県渥美、岡山県倉敷、和歌山県広川町、京都(琵琶湖湖西南)、千葉県房総の加曾利海塚Eから異なる縄文土器が入ってきているんです。 沖縄の伊是名貝塚には5500年前にゴホウラ貝やイモガイと交易する熊本の民が使った曾畑式土器が残っているそうです。 要するに、黒潮ルートで縄文時代から交易が各地であったような気がしますね。 でも人口は縄文中期は全国で25万人と推定(真偽は誰も分かりません、三内丸山で200人ぐらいか?)されていますから、少人数には違いありませんね。 土器の宿題をいただいていましたから変化球で回答します。 くずさん> 信州へ行ってきました。信州の古代は今までは諏訪大社のことを少しだけ調べておりましたが、随分興味のある古墳があるのでびっくりしました。 |
[2440] 9/17:徐福祭 nick [Url] | 2006/09/01(Fri) 09:55 [Reply] |
「徐福にささぐ 冠岳 不老不死祭り」 日時:2006年9月17日(日)11:00‐20:00 場所:鹿児島県いちき串木野市 冠岳徐福公園 主催:まつり実行委員会 日本徐福会副会長 三善喜一郎 事務局:鹿児島県日置市東市来町美山 喫茶風の丘 TEL 099-274-9516 お近くの方どうぞお越しやす。 |
[2439] Re[2438]: 特急 黒潮ルート沿線 ネット!? nick [Url] | 2006/09/01(Fri) 09:52 [Reply] |
> おーすごーい! > こりゃー特急 黒潮ルート沿線ネットワークができそうですね\(^0) > > 九州。四国。近畿。房総は地名同じとこおおいですもんね。 このような掲示板だから、広域の情報も得やすいのではと期待しています。 当地では、ナスカ地上絵展をやってます。 今日、川内の新田神社に参拝し帰途鹿児島黎明館のこれを観る予定でしたが 父の具合が芳しくなく、、、 明日、一人で寂しく出かけましょう。 あ、そうそう、この16日、徐福祭りがあるので、その日に変更してと。 別掲載で、宣伝をば。笑。 |
[2438] 特急 黒潮ルート沿線 ネット!? MADOKA | 2006/09/01(Fri) 02:06 [Reply] |
おーすごーい! こりゃー特急 黒潮ルート沿線ネットワークができそうですね\(^0) 九州。四国。近畿。房総は地名同じとこおおいですもんね。 素人さん いいHP御紹介ありがとうございます 三宅島と八丈島のあたりで黒潮がわかれる話もおもしろかったです。 あと 化学?のHPの紹介もこういう方面も調べないといけないなあとおもいつつ。いたって弱い分野で。どどどどど素人の私は遠い目で眺めつつ。眺めてたらいつか。ひとつかふたつの用語ぐらいおぼえれるかなあと。。。がんばります。 ギャグ親父さん >番地も 448 なら良かったのにね 座布団一枚!\(^0^)/ |
[2437] Re[2435][2431][2427]: 遅レス&産屋と藤娘 鳥 | 2006/09/01(Fri) 00:25 [Reply] |
横から失礼いたします。 神々廻は江戸時代、神々迫でシシバと呼ばれておりました。 ちなみに神々廻の鳥見神社は慶長7年鎮座です。 |
[2436] Re[2435][2431][2427]: 遅レス&産屋と藤娘 ギャグ親父 | 2006/09/01(Fri) 00:00 [Reply] |
> > 千葉県印旛郡白井町神々廻1408ですね。それでシシバですか?。 番地も 448 なら良かったのにね |