青草掲示板ログ平十九年一月 2007.1
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[2718] 宗像教授4集発行!  PONTA 2007/01/31(Wed) 23:25 [Reply]
表紙の教授がやけに若々しいのですが・・・。

「八股大蛇」は「八つ股」という穀物倉だとか、猿田彦が象を模った構造物だとか・・・建物を神格化して記紀に載せた事例は他にもあるのかな? 「八股=八幡=八流の旗(軍旗)=多くの軍勢」とか、「八股=八幡=産鉄民」の方が私にはまだしっくりきます。

くろがね八幡神社のご神職がみな片目というのは不気味でした。副業で刀鍛治をやってるのなか。

p.63の「神とはいろんな伝承の重ね合わせ多重像だ!」「一面だけ見るな」「単純化するな」は半分賛成、半分反対。確かに、サッカーの神様を祀っている神社に対して「この神社の創建時にはサッカーは存在しなかった。サッカーの神では有り得ない」と否定するのは間違いで、ご神徳はどんどん重ねられていくものだろうと思います。でも、後から付けられた衣をどんどん剥していって、「この神は本来は蹴鞠の神だ」と創建時まで遡ることを単純化だとされると嫌かなと。

いずれにせよ、八幡は謎ですね。秦氏の神社だとすると製鉄には関係なさそうですし・・・製鉄と言うとシュメール人ですし・・・。

[2717] 珍彦物語 その10−完−  神奈備 2007/01/31(Wed) 08:36 [Reply]
9.珍彦(宇豆彦)が井光姫の子ですから、祖神は女神。祖神が女神の氏族は勿論天皇家で祖神は天照大神、もう一つの氏族は猿女君で天宇豆女命(天鈿女命)です。
 
 『古事記』に、椎根津彦の登場のシーンがあります。
故(カレ)、その国より上り幸(イ)でましし時、亀の甲(セ)に乗りて、釣りしつつ打ち羽(ハ)ふり来る人、速吸門(ハヤスヒノト)に遇(ア)ひき。(略)名を賜ひて槁根津日子(サヲネツヒコ)と号(ナヅ)けたまひき。

同じく、天宇受売命の所作。
天宇受売命、(略)、天の石屋戸にうけ伏せ、蹈(フ)みとどろこし神懸(カムガカ)りして、胸乳(ムナチ)をかき出で、裳緒(モヒモ)をほとにおし垂れき。

 宇豆女と宇豆彦、名前、女系、道案内にからむことなど、実によく似たペアの神々です。

 それぞれ、登場シーンの呪術的動作はおそらくはよく似ているものと思われます。天宇受売命は乳とホトを出しています。これは神前での巫女の所作の原点の動作です。
 『雄略紀』九年春二月 天皇は凡河内直香賜と釆女を遣わして宗像の神を祀らされた。香賜は、いまにも行事を行おうとする時、その釆女を犯した。(略)香賜は捕らえられて斬られました。
 この記事は釆女の神祭りの姿を暗示しているように思います。

 一方、宇豆彦は亀に乗っています。先端は亀頭です。「打ち羽ふる」のは「蹈みとどろこす」動作と同じで物部のふるえふるえにつながる神懸の所作です。「槁」は男根の隠語です。裸の釣り人をイメージして書いているようです。裸にはモノノケを払う目的があります。

 紀州の怪人南方熊楠は熊野の山中を粘菌採取で歩き回っていましたが、着物の前をはだけて(ふんどしはしていない)一物をだしながらの格好だったと言います。出会った山人はびっくりしたのですが、女神である山神は喜んで熊楠を山にいる蛇、蛭、虫、モノノケから守ったことでしょう。

『古事記』は太安麻呂が撰したとされています。時代は天武天皇・持統天皇の時代になっており、萬世一系の思想が固まりつつありました。このような時期に、多氏に伝わる誇りある伝承であっても、倭国の初代の大王が椎根津彦であり、多氏の祖神であったとは書けなかったのでした。
 しかし記紀をよく読みますと、多氏の言いたいことが良くわかるようになっています。(完)

[2716] Re[2714]: 風早高宮  神奈備 2007/01/30(Tue) 09:33 [Reply]
 『国内神名帳』の播磨国飾磨郡に早風太神、早風武男命明神の名が見えます。伊予の多い風速ではないのですね。速が頭につく神に速素戔烏神、速秋津比売や速玉男命などが見え、神々のパワーを形容する言葉のようですね。
 
 風大神とは風の神で級津比古神や級津比賣神と見なされているようです。
 
 大阪府寝屋川市に高宮神社が鎮座、天剛風命(アメノコカゼ)と言う神が祀られています。
http://kamnavi.jp/en/kawati/takamiya.htm


[2715] 珍彦物語 その9  神奈備 2007/01/30(Tue) 09:33 [Reply]
7.猪と水、日とのつながりが何も日本に限ったお話ではありません。
 猪の背中に乗っている神に摩利支天がいます。西アジアでは摩利支天と猪とは水と光明を通じて結ばれたとも言われています。イラン神話では光明神ミスラを先導しています。

 椎根津彦がなった倭国造の末裔に市磯長尾市と言う者がでます。彼は倭大国魂神を祀ります。倭大国魂神とは椎根津彦のことでしょう。長尾市はまた長尾神社を祀ったかも知れません。さらに長尾市は但馬の出石神社の神宝を取り上げに行きました。その出石神社の神官も長尾氏でした。
 また日矛の後裔かもしれない秦氏の親分は太秦でウズマサです。貴いとの意味もあるようですが、珍彦のウズヒコとは面白い符合です。

 8.椎根津彦神は神八井耳尊の別の名であることが多坐弥志理都比古神社の祭神や社名から明らかになってきました。多氏と言えば、伊勢の船木氏などの祖である大田田神、神田田神は『住吉大社神代記』に登場、大八島に日神を出す神とされています。

 
大和国葛下郡(葛城市當麻町)長尾神社「水光姫命、白雲別命」吉野首の祖神
丹後国竹野郡(京都府弥栄町船木奈具)奈具神社「豐宇賀能賣命」
伊勢国度会郡(伊勢市吹上)世木神社「天牟羅雲命」外宮禰宜度会神主の遠祖を奉斎した社であった。
伊勢国多気郡(三重県多気町)佐那神社「天手力男命」伊勢船木の祖 
伊勢国朝明郡(四日市市大鐘町)太神社「神八井耳命」多氏の祖を祀る。銅鐸出土。

 大鐘町の名は出土した銅鐸に由来しています。銅鐸はサナキ(ギ)とよばれていたようです。船木氏の祀る佐那神社、また丹後の奈具神社、それぞれ銅鐸の記憶が残っている社名です。佐那+奈具=サナキ。
 椎根津彦や神八井耳命が活躍してから崇神天皇の前の時代までを欠史八代と言います。銅鐸祭祀の時代であったのでしょう。市磯長尾市の時代に大和は卑弥呼か台与の東遷を受け入れたのでしょう。

[2714] 最古(室町)のお菊さん「花野」は石櫃で蛇責め  田仁 2007/01/29(Mon) 12:50 [Reply]
「サラキ」につきまして、皿屋敷のお菊さんを持ち出しましたのは、播州で成立した室町時代の最古の原型に、後に定型となる悲劇のヒロインが石櫃…コレは明らかに古墳の石棺…に蛇…多分「鉱石野掘り跡・製鉄時の蹈鞴」か、或いは仰る通り「必ず一枚欠ける」皿や貝合せの貝からの連想…を集めて、拷問される場面があるからです。ご理解ください。所謂「神々の零落」の始まりかと。
所で今は無き「風早高宮」名のですが、三代実録巻十三清和天皇の貞観8年7月に「十三日乙卯。雷雨。烏筮抜内堅傳點籌木。大鳥集大蔵省正倉院納薬倉上。播磨国无位速素戔烏神。速風武雄神並授従五位下。」とあり、高雄が武雄になると意味が違ってしまいます。困った事に、近くの白国神社と峯/谷関係からタカオカミ/クラオカミ関係も成立し得るし、神功皇后伝説も多い新羅と関係が深い土地柄から武内宿禰もあり得るのです...?!

[2713] 珍彦物語 その8  神奈備 2007/01/29(Mon) 08:48 [Reply]
 6.『籠神社に伝わる系図』では、天村雲の別名は天五十楯、また妃に大屋津比売の名が見えます。天五十楯は五十猛神を指しているように感じます。五十猛神は素盞嗚尊の子で一応高天原出身ですから天神であった時代もあります。
 井光の居た吉野川、その下流が紀の川、ここは名草郡であり、名草の武神はまさに五十猛神。
 素盞嗚尊・五十猛神に縁の深い韓国の言葉を経由させれば、五十猛神の「五十」が「多」に通じるのです。多−押−韓国語O.Ship−五十。
 椎根津彦の父神は五十猛神だったのかも知れません。そうすれば名実共に国神。多氏と同族に伊勢の船木氏がいます。植樹神・浮き宝(舟)の神こそ五十猛神ですから。

紀伊国名草郡(和歌山市伊太祈曽) 伊太祁曽神社「五十猛神、大屋津比売神、都麻都比売神」

 神武天皇の父親は彦渚建鵜葺草不合尊であり、渚に建てた産屋の屋根をふき終わらないうちに誕生した皇子とと言う意味の名だそうです。海岸や川の側に産屋は建てられるそうで、わざわざ渚に建てたなどと言う必要はないのです。従って敢えて彦渚建としたのは、別の意味があって名草をの武神のことを言いたかったのです。彦渚建鵜葺草不合尊とは五十猛神を含んだ神名と言えます。

 『海部氏勘注系図』では武位起(タケイタツ)の子が宇豆彦すなわち椎根津彦。『旧事本紀』ではタケイタツは不合尊と兄弟となっています。神武天皇と椎根津彦、ここでも実に近い関係だと言えるのでしょう。

       ┌−彦渚建鵜葺草不合尊−−神武天皇
山幸彦−−┤
       └−武位起(タケイタツ)−椎根津彦
       
       共に五十猛神に近い雰囲気

越前国丹生郡(福井県朝日町)佐々牟志神社「鵜茅草葺不合神、神倭磐余彦尊、椎根津彦、武位起命」


 椎根津彦は神武天皇のモデルであり、またその子とされている神八井耳尊とも同体のように見えています。

 彦渚建鵜葺草不合尊の父神は所謂山幸彦です。彦火火出見尊と言い、神武天皇も同じ名をもっています。山幸とは何でしょうか? 山の幸、山のシャチ、山のワニ、どうやら猪のようですね。
 日神の子孫に猪がおり、また猪の子孫に日の御子がいるのは何故なのでしょうか。

 『播磨国風土記』賀茂の郡 山田の里 の記事
 猪養野 仁徳天皇の時代、日向の肥人、朝戸の君が天照大神のおられる舟の上に猪を献上し、この地で飼うようになった。だから猪飼野と言う。

 日神と猪、猪(ゐ)は井が連想され、井は水や川(かは)につながり、ここに「か」が日(三日月のか)につながる古語の連鎖があったかも知れないとの多段論法を大三元さんは示唆されています。(神奈備掲示板[8065] )

[2712] 珍彦物語 その7  神奈備 2007/01/28(Sun) 10:49 [Reply]
 5.東征の戦いの中で、椎根津彦は兄磯城を攻めるべく女軍を出す作戦をたてて梟雄兄磯城を滅ぼしました。見事な作戦を立てているのです。海導者であり、変装も行い、度胸もあり、立案能力にも秀でています。まさに映画ならば主役でしょう。

 東征後6年経過、周辺の地は治まらないが、しかし内州(うちつくに)の地は騒ぐものはなくなった。
 東征成功の論功行賞で椎根津彦は倭国造になりました。剣根を葛城国造とした。国造はこの二人のみ。
 葛城は雄略天皇の頃まで独立王国、神武天皇の支配の範囲は内州から葛城を除いた範囲、すなわち倭国。倭国造とは倭国王のこと、即ち神武天皇は椎根津彦をモデルに構想された人物かもしれません。この二人、祖神が女神である希有な氏族に属していると言う共通点もあります。

大和国山辺郡(天理市新泉町)大和神社「大和大国魂神、他二柱」大和大国魂神とは。
淡路国三原郡(南淡路市三原町)大和大国魂神社 伊香里という地名が近くにある
阿波国美馬郡(徳島県美馬町と脇町)倭大國魂神社
大和国葛下郡(葛城市新庄町)葛木御縣神社「劔根命」 

[2711] 珍彦物語 その6  神奈備 2007/01/27(Sat) 08:58 [Reply]
 4.椎根津彦の別名の神知津彦の「知る」とは統治するの意味です。統治の為の瓷を赤土で作りました。瓷は酒や水を入れるもの。天つ水は八井の水とされています。これは神八井耳尊のことで、多氏の祖神の名です。椎根津彦の採取した赤土は水を入れる瓶でこれは神八井耳尊と関連があるのかも知れません。

 大和国十市郡(現在の田原本町多)に鎮座する多坐弥志理都比古神社は周辺の神社と合わせて多氏の祖神を祀っている神社と思われます。現在の祭神は神八井耳尊ほか三座です。
 久安五年(1149)の『多神社注進状』には、珍子と天祖を祭神としています。珍子はウズノミコ、珍彦を思わせますね。天祖とは日神である火明命か天照大神かも。鎮座地は三輪山から登る朝日を祀るに相応しい地ですから。

 もう一つの考え方としましては、多神社二座には母子神が祀られているとの考えです。祀られている女神は神八井耳尊の母神の比売多多良伊須気余理比売。ホトをつかれての誕生は赤留姫の場合とよく似ているようです。

 多坐弥志理都比古神社の「弥」は「ミ」であれば水の事とも言えます。井戸が出てきます。『中臣寿詞』に、天の八井の水を天の水と言うとあります。弥志理都比古は水神でもある椎根津彦であり、かつ神八井耳尊であると言えるのでしょう。椎根津彦が多氏の祖であることを物語っていると思われます。

大和国十市郡(奈良県田原本町)多坐弥志理都比古神社「弥志理都比古神、三輪山から登る日神」「神八井耳命、多多良姫」「珍子、天祖」など

大和国十市郡(奈良県田原本町)姫皇子命神社 「飯富青皇女:『稚狭考』」

[2710] 珍彦物語 その5  神奈備 2007/01/27(Sat) 08:47 [Reply]
 3.神武天皇の夢に、天香具山の赤土をとって平瓦をつくり天神地祇を祀れば敵を打ち払い安いとのお告げがあり、椎根津彦を現地の老人に、弟猾を老婆に化けさせて、香具山の赤土を取りに行かせ、赤土で平瓦や厳瓷などを作りました。
 椎根津彦は地元の老人に化けています。化けるのであれば、地元の言葉をしゃべる者でなければならないわけで、椎根津彦が大和の出であることが判ります。丹後や豊後で育ったのではなく、大和は吉野で育ったことがここで判ります。
 吉野の井光姫の子であったと断定していいのでしょう。

大和国宇陀郡(大和国宇陀市)丹生神社<通称>朝原宮 天香具山の赤土をとって平瓦をつくり天神地祇を祀った場所の近くと言う。

大和国吉野郡(奈良県東吉野村)丹生川上神社(蟻通しさん)神武天皇が天神の教示で天神地祇を祀った、厳甓を川に沈めて戦勝を占った聖地という。

[2709] 珍彦物語 その4  神奈備 2007/01/26(Fri) 10:36 [Reply]
 2.先に述べたように、神武天皇が吉野を行幸した時に、井戸の中から「臣是国神。名為井光。」と名乗る者が出てきました。天皇は水光姫(ヰカリ姫)と名付けました。吉野首の祖です。氏族の祖神としましては、天照大神と天鈿女命のぞけば唯一の女神です。

 椎根津彦と井光とは、共に国神と名乗っています。
 神武天皇は吉野で国神らしい3人に出会っています。まず井光、つぎに岩押分の子、その次が苞苴担の子です。国神と名乗ったのは井光のみです。
 前述したように、椎根津彦は「臣是国神。名曰珍彦。」と名乗っています。井光とよく似た名乗り方です。

 さて『籠神社に伝わる系図』から見て、椎根津彦は本当に国神なのでしょうか。天火明命は天神です。天神の子はやはり天神なのです。天村雲命も天がついていますので天神です。従ってその子である倭宿禰も天神のはずと言えます。それが自ら国神を名乗るのです。これは解明すべき謎です。

 井光姫は天照大神と天鈿女命を除けば女神として唯一の祖神となっているので、吉野首はこの時期には母系制と言うか、父神の素性より母神の素性が尊重されたと言うことでしょうか。丹後の伊加利姫が懐妊した後か幼い珍彦をつれて吉野にやって来たのかも知れません。

 天照大神と井光姫、天皇家と椎根津彦、ともども祖神は女神と言う共通点があるようです。

 もしくは天村雲命の子と言うのが事実でないのかも知れません。椎根津彦は日本海側で有力な海人族である青海首の祖ともされており、丹後の海部氏としては青海首を自己の系列に取り込んだのかも知れません。

関連する神社
丹後国加佐郡(舞鶴市公文名)加里姫神社 笠水神社に合祀

大和国吉野郡 (奈良県吉野町)井光神社八幡宮「井光神」飯貝の近く

大和国吉野郡 (吉野郡河上村)井光神社「井光神」

大和国葛下郡 (葛城市当麻) 長尾神社「水光姫命、白雲別命」水光姫命が、応神天皇の御代に当麻町竹内の三角岩に降臨され、子孫の加彌比加尼に命じて長尾に祀らされたものでお姿は白蛇であた。父神が天より降臨された天白雲別命であるというのは、白雲が雨をもたらし、雷にもなるところから、水の根源を現したものであります。

若狭国大飯郡 (福井県高浜町)青海神社「椎根津彦命」 

越後国蒲原郡 (新潟県加茂市)青海神社「椎根津彦命」

[2708] 珍彦物語 その3  神奈備 2007/01/25(Thu) 18:03 [Reply]
【『日本書紀』等に見る椎根津彦の物語】とそれから推測されること。

 1.珍彦は、豊予海峡とされる速水乃門で東征中の神武天皇を迎えます。「臣是国神。名曰珍彦。」と名乗り、水先案内をすることになりました。ここで椎根津彦の名を得ました。『古事記』では、神武天皇が吉備の国を出てからの速水乃門で珍彦に出会います。明石海峡付近かも知れません。なぜなら、後の明石の国造に、椎根津彦の子孫が指名されているからです。ここに拠点があったかも知れません。

東征ルートに鎮座する椎根津彦を祀る神社抄

豊後国海部郡(大分県佐賀関町)椎根津彦神社 東征後、神武天皇は椎根津彦命を倭国造に任ぜられた。これを伝え聞いた里人らが、小祠を建てて命を祀ったものがその創祀と伝えられる。

備前国邑久郡(岡山市) 神前神社、亀石神社など

摂津国菟原郡(神戸市東灘区)椎根津彦命の子孫たる倉人水守等が祖先を祭祀し奉る。立地は高地性集落、磐座。

紀伊国海部郡(和歌山市宇須)宇須井原神社


[2707] Re[2706]: 珍彦物語 その2  神奈備 2007/01/25(Thu) 08:43 [Reply]
>  【丹後国風土記残欠】
>  【新選姓氏録 大和国神別】
ここは大三元さんの
http://www.dai3gen.net/tango_yosi.htm
「丹後と吉野につながり発見?」
を多いに参考にさせて頂きました。

[2706] 珍彦物語 その2  神奈備 2007/01/24(Wed) 20:34 [Reply]
 この井光、白雲については丹後と吉野によく似た話があるのです。

 【丹後国風土記残欠】に下記の記事があります。
 真名井、白雲山の北郊にあって、清いこと麗しい鏡の如し。 けだし、これは豊宇気大神が降臨した時に当たり、■■湧き出た霊泉。その味は甘露のようで、万病を癒す力がある。傍に、祠が二つある。東は、伊加里姫命、或いは豊水富神と 称す。海部直たちの斎きまつる祖神。西は笠水神。

 【新選姓氏録 大和国神別】には次の記事があります。
 神武天皇 行幸吉野、到神瀬、遣人汲水、使者還曰、有光井女。天皇召問之、汝誰人、答曰、妾是自天降来白雲別神之女也、名曰、豊御富、天皇即名水光姫、吉野連所祭水光神是也。

 『日本書紀』に、「神武天皇が吉野巡幸した時に井戸の中から出てきて体が光っており尻尾があった人がいました。手前は国神で名は井光。」と名乗った記事があります。『姓氏録』は、それに加えて、父神は白雲別神、井光の別名は豊御富、天皇は水光姫と名付けたとあるのです。
 丹後と吉野とのお話は白雲、イカリ姫、豊ミ富と共通であり、出所は同じ伝承なのでしょう。

 上記のような事を踏まえて、これから珍彦こと椎根津彦についていささか語っていきましょう。

[2706] 珍彦物語 その2  神奈備 2007/01/24(Wed) 20:34 [Reply]
 この井光、白雲については丹後と吉野によく似た話があるのです。

 【丹後国風土記残欠】に下記の記事があります。
 真名井、白雲山の北郊にあって、清いこと麗しい鏡の如し。 けだし、これは豊宇気大神が降臨した時に当たり、■■湧き出た霊泉。その味は甘露のようで、万病を癒す力がある。傍に、祠が二つある。東は、伊加里姫命、或いは豊水富神と 称す。海部直たちの斎きまつる祖神。西は笠水神。

 【新選姓氏録 大和国神別】には次の記事があります。
 神武天皇 行幸吉野、到神瀬、遣人汲水、使者還曰、有光井女。天皇召問之、汝誰人、答曰、妾是自天降来白雲別神之女也、名曰、豊御富、天皇即名水光姫、吉野連所祭水光神是也。

 『日本書紀』に、「神武天皇が吉野巡幸した時に井戸の中から出てきて体が光っており尻尾があった人がいました。手前は国神で名は井光。」と名乗った記事があります。『姓氏録』は、それに加えて、父神は白雲別神、井光の別名は豊御富、天皇は水光姫と名付けたとあるのです。
 丹後と吉野とのお話は白雲、イカリ姫、豊ミ富と共通であり、出所は同じ伝承なのでしょう。

 上記のような事を踏まえて、これから珍彦こと椎根津彦についていささか語っていきましょう。

[2705] 珍彦物語 その1  神奈備 2007/01/23(Tue) 21:50 [Reply]
【丹後の国 籠神社に伝わる海部氏本紀の系図】から。
 始祖天火明命−天香語山命−天村雲命亦名天五十楯(妃−伊加利姫)−倭宿禰
 始祖天火明命−天香語山命−天村雲命(妃−大屋津比売)−熊野高倉下

【丹後の国 籠神社に伝わる海部氏勘注系図】

 始祖彦火明命−彦火火出見命−建位起命(たけくらき、たけいたつ)−宇豆彦命

 倭宿禰とは神武東征時、水先案内となった珍彦こと椎根津彦のことです。この人は後に倭国造となりました。別の名として槁根津彦、神知津彦とも呼ばれていました。
 母神である伊加利姫は井光(ゐかり)姫とも書かれます。井光姫は大和の吉野の国神ですから伊加利姫は丹後の国神と思われます。

 丹後と吉野を結ぶものは何があるのでしょうか。『旧事本紀』では、天村雲命の子の天忍人命は葛木出石姫を娶り、また天忍男命は葛木奈良知姫を娶っています。丹後と葛木とは天村雲命の子の段階で葛木の姫達と婚姻関係で結ばれていたようです。
 また葛城市に長尾神社が鎮座しています。祭神は水光姫命とその父神である白雲別命となっています。これは吉野首の祖神と遠祖を祀っているのです。
 と言うことで、丹後と吉野は葛城を介してつながっているのです。

[2703] Re[2702]: 3万年前の遺構  神奈備 2007/01/18(Thu) 16:41 [Reply]
> 縄文がまた古くなりました。
> 鉄砲伝来の種子島から出土したようです。

 海上の道ですね。
 縄文人はウサギが木の根っこにつまずくのを待っていては生き残れなかったと言うこと。

 大阪では讃良郡(四条畷市・寝屋川市)から紀元前7世紀〜同5世紀の初期の弥生土器が出てきました。縄文土器の影響が残っているようです。弥生時代も古くなりつつありますね。

[2702] 3万年前の遺構  nick [Url] 2007/01/17(Wed) 20:31 [Reply]
縄文がまた古くなりました。
鉄砲伝来の種子島から出土したようです。

2007/1/16:大津保畑遺跡
場所:鹿児島県中種子町坂井本村
概要:国内最古の落とし穴
土坑12基
年代:3万年前
問い合わせ先:県埋蔵文化財センター:0995-48-5701

[2701] Re[2700]:神奈備[8095] 椎根津彦  神奈備 2007/01/15(Mon) 09:27 [Reply]
くずさん、こちらこそよろしくお願いいたします。

> 記紀編纂時の頃と隼人の反乱は重なります。その上で極めて近しい形で天孫との繋がりが語られている。

 おっしゃるように隼人の存在と王権とは底の方で結びついていそうですね。隼人をとりこみ、西日本の安定を得てから蝦夷などを平定したいと王権が思っていたとすれば、『記紀』の中で隼人とは近い関係があり、かつ王権に服従を誓ったではないかとの主張が見受けられます。

 宮殿の護衛にも隼人がついていたのですが、サウジアラビアの王宮の護衛も外人の傭兵だとか。国民を雇った場合、クーデターなどをもくろむ可能性があるのが理由の一つです。
 尤も、隼人と王権はこれ以上の関係があったのかも。何だろう?


> 日矛とウズ

 紀の国でも、武内宿禰の叔父さんにあたる人の名が宇豆彦です。また日矛の後裔かもしれない秦氏の親分は太秦でウズマサです。貴いとの意味もあるようですが、面白い符合ですね。


> 珍彦(椎根津彦)が土を取りに行っている。

 そうです。地元の老人に化け、弟猾を老婆に化けさせています。珍彦が大和の国の人でなければ、敵に素性を問われた時に、「おいどんは農夫でごわす」では拙いのです。それ以外にも珍彦の働きは軍の作戦立案、神意を知る占いと完全に主役の活躍を思わせます。


 珍彦は大和の地元で生まれ、大和の方言をしゃべる。
 瀬戸内の水先案内として海路、海流などにも通じている。

 
> 大隅國囎唹郡 韓國宇豆峯神社

 昨年参詣できました。この地域への豊国からの移住者が祀ったようです。

[2700] Re[2699][2689]:神奈備[8095] 椎根津彦  くず 2007/01/15(Mon) 01:10 [Reply]
遅ればせですが・・・・あけましておめでとうございます。
昨年中は大変お世話になりました。勝手ではありますが本年もよろしくお願いします。>皆様

珍彦の考察拝見しました。神武帝については隼人との繋がり、どうでしょうか。
記紀編纂時の頃と隼人の反乱は重なります。その上で極めて近しい形で天孫との繋がりが語られている。倭王権の成立の一翼を隼人が担った事は事実と考えられないでしょうか。

その上で隼人、ウズ、紀の国(五十猛神)丹波、豊国、を考えますと、大隅國囎唹郡 韓國宇豆峯神社が浮かびます。
韓國、 天之日矛との関係も。播磨風土記に見える日矛とウズの川底、葦原志挙乎命と対立しつつ海上(瀬戸内海)に勢力を張ったとも読める。
倭政権確立のおり、神武がおこなった埴土の祭祀においても、珍彦(椎根津彦)が土を取りに行っている。そしてその神事を今に伝えるのが日矛の裔でもある神功皇后に関係の深い住吉さんですよね。その線からも丹波、豊国とも繋がる。

椎根津彦=神武と言い切れるかはわかりませんが、韓国と極めて近い勢力で瀬戸内に力を持っていたんだろうとは思います。






[2699] Re[2689]:神奈備[8095] 椎根津彦  神奈備 2007/01/13(Sat) 19:52 [Reply]
籠神社に伝わる『籠明神延喜秘伝』によりますと、
丹波 ホアカリノミコト−ホホデミノミコト−タケイタテノミコト−ヤマトスクネ。
海部 ホアカリノミコト−タケイタテノミコト−ウズヒコノミコト−ヤマトスクネ
『日本書紀』
九州 ホホデミノミコト−ウガヤフキアエズノミコト−神武天皇

 椎根津彦である倭宿禰は倭国の国造となったと『神武紀』にありますが、国造の制度は後代のことですが、倭宿禰との名前を見ても倭国の王のように見えます。従って、神武天皇とは倭宿禰をモデルに構想された人と考えました。

 裏付けの為にその父親を見てみましょう。まずウガヤフキアエズノミコトですが、フルネームはヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト、このヒコナギサタケですが、これを彦名草猛と理解しますと、名草の猛、これはどう見ても紀の国は名草郡に鎮座する伊太祁曽神社の祭神の五十猛神そのものです。

 この神が丹波ではタケイタテノミコト、建位起命であり、ホアカリノミコトの子の天村雲命の別名に天五多底の名があり、アマノイタテノミコトであり、
やはり五十猛神を指し示しています。

 紀ノ川を押さえていた五十猛軍団が上流の井光(猪飼)の暴れん坊の珍彦を預かり、瀬戸内海で鍛え上げたのが椎根津彦であり倭国造であり、神武天皇であったと言うことになります。

http://www.amigo2.ne.jp/~yaji/bokeisei.htm


[2698] Re[2697][2692]: 道教と常世連とクーデター  とみた 2007/01/12(Fri) 13:43 [Reply]
神奈備様 

古代史は謎めいて本当に面白いですね。現役時代の資料をドンドン捨てて、古代史の資料と置き換えています。

考古学も発達し裏付けも豊富になりつつありますので信憑性も高まっています。



>
> > 水谷千秋さんの本
>
>  穏やかなものの見方の方のようです。栗本慎一郎さんの『シリウスの都飛鳥』(たちばな出版)では、蘇我氏や聖徳太子をサカ人としています。黒海北岸の南ロシアにスキタイ人の帝国があったそうですが、そこの民が流れ着いたとの仮説で、青草的には面白いと思いました。

私も、サカ人はシルクロードまで旅して相当追っかけました。中国では塞人と書きますね。

スキタイ人は紀元前7世紀から紀元前4世紀ごろに今の南ロシアに相当する黒海の北や東の草原で闊歩した民です。

匈奴に騎馬戦術を教えたようです。スキタイの民が南進して今のアフガニスタンの北部に移動したのがサカ人です。

パクトリア(大夏国)にも侵入しますが匈奴に追われた大月氏に追い出されます。

トカラ人が日向に漂着して飛鳥で斉明女帝に饗応されますが、これもアーリア人ですから同じような人種だと考えています。トカラ(トハラ)とサカのパクトリアは近い国でした。

変わった説で有名な小林恵子さんによると聖徳太子は突厥人、これもシルクロードの民には違いありません。

蘇我氏研究は面白いですね
>
>  
> > 随書は意外と正しい。
>
> そう思います。『隋書』倭国伝には「倭国…邪靡堆(やまと)に都す。則ち魏志の謂うところの邪馬台なり」とあります。
>  随の人にとっては邪馬台国が大和にあったことは常識だった。

ヤマタイ国は大和説のほうが有力になりつつあるようですね。九州説、出雲説、四国説・・・枚挙にイトマなしです。クナ国はどこなんでしょうか


>
>
> > 朝鮮半島は、クーデターの渦の真っ只中です。日本も645年にクーデター。
>
>  同じ様な事件が世界的に同じ頃起こるのは今の時代に限ったことではなさそうです。375年と言えば「皆ご免」でユーラシア大陸では民族大移動が起こっています。
>  日本では神功皇后伝説の頃でしょうか、ある勢力がこの国に移動してきたのかも知れません。香春神社の祭神に辛國息長大姫大目命がいますし、赤染氏の拠点でもあったようです。

丹生都比売神社の宮司さんにもお会いしましたが、神社の由緒には応神が母の神功皇后が朝鮮出兵で成功を収めてそれを感謝して神社を建てたとされていますね。

神功の実在性と年代観がいつも問題になります。干支を60年一サイクルとして、2−3サイクル後にずらすことが良く行われています。息長氏とつながりがあることに注目しております。
>
> > 道教
>
> 卑弥呼さんの鬼道も道教の一種、不老長寿の旗を掲げ、美貌と教義で各地の豪族を虜にしてしまったのかも。

中国の後漢時代つまり三国志の前の、2世紀後半には中国では道教旋風が吹き荒れています。

神獣鏡も方格規矩四神鏡も不老不死の神仙の世界を描いております。

四国の徳島県には公孫氏が燕王としていた朝鮮北部出土の画文帯神獣鏡と同じ型の鏡が出ています。

公孫氏は238年魏によって滅ぼされ、239年に卑弥呼は魏の都の洛陽に使者を送ります。

公孫氏は魏と対抗する呉と連携していましたので、鏡つくりや道教が盛んだった呉の工人を朝鮮北部に連れて来た。魏に滅ぼされた公孫氏につかえた鏡造り人が倭国に北のが赤染氏だと考えています。常世連と言われます。道教風の呪術で病を治し長生きを祈祷する役を仰せつかった。

7世紀乙巳の変というクーデターの前に常世神の信仰が高じ、常世虫というのが騒動を起こします。蚕に似た虫でこれを侍らせて常世神を祀れば、若返り冨を得られると言いふらした。この信仰は大和まで広がった。現世利益の道教と効能が似ていますね。



>

[2697] Re[2692]: 道教と常世連とクーデター  神奈備 2007/01/12(Fri) 10:10 [Reply]
とみた様、こちらこそよろしくお願いいたします。

> 水谷千秋さんの本

 穏やかなものの見方の方のようです。栗本慎一郎さんの『シリウスの都飛鳥』(たちばな出版)では、蘇我氏や聖徳太子をサカ人としています。黒海北岸の南ロシアにスキタイ人の帝国があったそうですが、そこの民が流れ着いたとの仮説で、青草的には面白いと思いました。

 
> 随書は意外と正しい。

そう思います。『隋書』倭国伝には「倭国…邪靡堆(やまと)に都す。則ち魏志の謂うところの邪馬台なり」とあります。
 随の人にとっては邪馬台国が大和にあったことは常識だった。


> 朝鮮半島は、クーデターの渦の真っ只中です。日本も645年にクーデター。

 同じ様な事件が世界的に同じ頃起こるのは今の時代に限ったことではなさそうです。375年と言えば「皆ご免」でユーラシア大陸では民族大移動が起こっています。
 日本では神功皇后伝説の頃でしょうか、ある勢力がこの国に移動してきたのかも知れません。香春神社の祭神に辛國息長大姫大目命がいますし、赤染氏の拠点でもあったようです。


> 道教

卑弥呼さんの鬼道も道教の一種、不老長寿の旗を掲げ、美貌と教義で各地の豪族を虜にしてしまったのかも。

[2696] 操作を間違ってごめんなさい  田仁 2007/01/11(Thu) 21:42 [Reply]
>皿や土器をサラキと言ったそうです。
姫路で「サラ」と言えば、播州皿屋敷になるんですが、更地とも井戸とも関わりがあるって言う?いきなり時代が下って恐縮ですが。結構、観光を当て込んで?!昔から色々伝説とか作ってるらしいんですよ。元ネタが無い訳じゃない筈なんで、その辺りが由来か知れません...?

[2694] Re[2693][2691]: 失われた神社を求めて  神奈備 2007/01/11(Thu) 19:58 [Reply]
>> 奈良県御所市には蛇口と言う場所があってサラキと訓みます。

失礼いたしました。蛇穴です。サラギです。ここに野口神社が鎮座、稲藁で約10m程の蛇体を作り、これを当地各戸へ巡幸する蛇綱引祭が行われています。
 当地は茨田と言われ、河内の堤防で有名な茨田堤の茨田連の移住先とも言われています。河内では茨田郡に枚方の里があり、ここから漢人が播磨に移住し佐比の岡の出雲の大神を鎮めています。


>「蹈鞴」若しくは「鉱石採掘跡」

 大和での蛇穴は蛇が丸く巻くことから皿や土器をサラキと言ったそうです。また蛇穴の地は橿原市和田や大和高田市にもありますが、概ね低地で湧き水があるような地です。室生の竜穴雨乞信仰につながっているようです。

 水脈がある所に金属の鉱脈があるとも言われますが、大和の場合には金属との関係は少ないようです。

[2693] Re[2691]: 失われた神社を求めて  田仁 2007/01/11(Thu) 16:01 [Reply]
どうも早速に、有難うございます。大変勇気を頂きました。流石は神奈備様、知識もお深いですし、助かりました。
>風早高宮は増位山(随願寺)の付近に鎮座していたのでしょうか?
要するに、年代的には先に砥堀古墳が出来、すぐ真南に神社も建ってから、広峰との間の西峰に隋願寺が出来たんでしたが、今現在地図には隋願寺の増位山しかありません。維新の時、官軍に味方して処刑者も出しつつ獄に繋がれて生き残った一派が、却って藩主の墓がある寺を保護した模様です。古墳脇の社務所跡は発掘さえされてません。神社のあった峰は有明の峰と言い、現在では増位山の一連の峰の東端で、辛うじて小学校校歌に歌われるのみで名前さえ消えかかっています。白国神社からハイキングコースを北上して小一時間位でしょうか。
> 地形を見ていないし、何ともはや…。
ご無理を言いまして、申し訳ありません。兵庫県は日本海と瀬戸内海に面して、中国山脈が真ん中に通り、その現国定公園などを境に河が南北へ流れ、古来水運に使われて来ました。市川・揖保川・加古川・夢前川など瀬戸内海側にも数条あります。その市川沿いに、北から生野銀山→香寺→砥堀となります。明治期の「銀の馬車路」を復活しようとか、最近自治体が言っております。
ただ、香寺広瀬の神社は何故か?名称が「蛇口」ではなく「蛇穴」です、類語でしょうけれども。俗語で「蹈鞴」若しくは「鉱石採掘跡」を意味するのか?と解釈しておりましたが、そんなに外れてませんよね?秦氏系も、古いと物部系と混ざるんでしょうかね?

[2692] 道教と常世連とクーデター  とみた 2007/01/11(Thu) 11:44 [Reply]
神奈備さま 皆様 遅ればせながら 本年もご指導ご厚誼のほどよろしくお願いします。

書きなぐりの試論ですが、道教の地下水脈を考察中です。少し怪しいので皆様のご叱正をいただいて修正できればと思って青草に投稿させていただきました。

長文をお許しください。

2世紀から7世紀まで脈々と影響を与えてはいないか、その作業仮説です。蘇我入鹿を倒すクーデターまでの話です。ご笑覧ください。


蘇我氏の謎、乙己の変のクーデター。水谷千秋さんの本では、

蘇我氏は官僚と、豪族の二面性がある。屯倉の管理など経済財政で力を振るった官僚で、天皇の外戚として勢力を伸ばした。物部を倒してその領地を奪って冨を蓄えた。それで豪族とし

て伸すために名族の葛城氏の縁戚であると

名乗ったのではないか。本拠地を葛城の高宮とした。やはり曽我が本居であった。

蘇我氏は根無し草で最後まで味方についたのは、倭漢しかなかった。

この本で,確かめられたことがあります。

通常、遣隋使は607年小野の妹子が派遣されて帰りに、隋使のハイ清世が来ますよね。


その前に600年に倭国より遣隋使が行っているんですね。記紀には書いてないのに、随書倭国伝に書かれているんですね。随書は意外と正しい。

巣山古墳の直弧文の木船の葬具の話は随書にかかれた通りでした。

630年にも唐に漸く使いをやり帰りに高表仁が来朝してます。618年に唐が建国しているのになかなか日本から遣唐使をやっていませんでした。

物別れでトラブルを起こし帰っているそうです。これも記紀には書かれていないようです。

唐と倭国の間に不穏な空気がありますね。

東アジアでは、クーデターが頻発しています。

640年百済では義慈王が即位し専制政治を始める。

641年高句麗は泉蓋蘇文のクーデターで専制政治を始める。

高句麗と百済が新羅に対抗する。新羅は唐に応援を求める、唐のサク封下に入り暦も年号も唐のものを使わされる。

新羅の政変は647年に起こる。

朝鮮半島は、クーデターの渦の真っ只中です。日本も645年にクーデター。

面白いのは、高句麗は蘇文は仏教から道教に切り替えます。

日本では常世神運動が地方で起こります。

駿河富士川の大生多氏の騒動、これを秦河勝が鎮める。

蘇我氏は、巫女の集団にその横暴を非難されます。

巫女の集団はシャーマンや道教の一派です。

陰陽道や民間道教と深い関係がありそうです。

皇極の時代。皇極は道教とつながります。

蘇我氏 vs 非蘇我氏

蘇我氏の血筋を引かないのが敏達ー押坂彦ー舒明です。 押坂彦の子供が茅淳王でその子供が皇極。舒明も同じく非蘇我系。

舒明と皇極の間で天智、天武が生まれます。

非蘇我系しかも息長系ですね。

蘇我氏の仏教派に対して、道教贔屓の非蘇我系がクーデターを起こした。

宗教以外の絡みのほうがずっと多いのはもちろんです。

クーデターの理屈は適当につけて天皇の転覆を図ったなどと・・・言えば済むわけです。


高句麗と同様、皇極以下道教が絡んでいる。舒明から文武までは八角墓で息長系の道教。


道教と即断するのは早とちりではありますが、

なぜか常世神が絡んでいる。

常世神は長江流域から朝鮮の北部に浸透している。3世紀公孫氏が燕国王となり、そこに鏡作人がいてそれが九州に来て豊前の香春神社にやって来たのが赤染、常世連(公孫淵を祖)です。

魏によって滅ぼされて倭国に来たんでしょう。

この赤染、常世連は呪術で支配層に取りたてられているんです。道教的な呪術なんです。


これが7世紀の皇極まで引きずっている。

和田アツムさんも、大化改新と常世虫、朝鮮の動乱の関係を仰ってました。

これと道教が絡んでいそうです。

書いた後も冷や汗です。


[2691] Re[2690]: 失われた神社を求めて  神奈備 2007/01/11(Thu) 11:43 [Reply]
田仁さん、こんにちは。興味の湧くご投稿ありがとうございます。

> 風早高雄神を祀る風早高宮と言ったらしいのですが、場所が姫路市なものですから多分、宗像郡物部珂是古の姫古曽神社とか、物部阿佐利の伊予風早国津比古神社とかと関係があったんじゃないかな?などと見当をつけてみたのですが。

 砥掘は『播磨国風土記』の飾磨郡大野の里のことですね。現在の飾磨地域は物部氏の影の薄い地域のように見えますが、饒速日尊降臨の供をした二十五部人の中に播磨物部の名が見えます。風早高雄神は伊予の風速國造にかかわる神で物部系と思われます。また、ある物部系の神主さんから聞いた青草話ですが、水神・竜神とされるタカオカミ(高雄神)を饒速日尊だとする見解もあるようです。

 風早高宮は増位山(随願寺)の付近に鎮座していたのでしょうか?
 随願寺の鎮守は野里の日吉神社、また随願寺境内には弁天様が祭られているようです。

> ついでに、車で15分程北の姫路市香寺広瀬の蛇穴神社に宗像三女神の媛命が祀られているのも根拠の1つです。

 じゃこう神社ですね。市杵嶋姫命。奈良県御所市には蛇口と言う場所があってサラキと訓みます。今来を思わせます。渡来人の多い所だったのでしょうが、この漢字を使ったのには何か意味があったのでしょうね。


> 平たく言えば、多可郡で掘り出した鉄鉱石他を市川沿いに香寺へ水運で運び、野蹈鞴で精錬して金属に加工して、物見の塔っぽく山頂から交易を裁量していた、古代の出張所か何かだったんじゃないかと、想像するのが自然な地形のように思うのです。

 地形を見ていないし、また香寺が風が強い場所なのかどうかも判りませんので、何ともはや・・。しかし面白い見方ですね。


[2690] 失われた神社を求めて  田仁 2007/01/10(Wed) 23:46 [Reply]
兵庫県・播磨地方にも力を入れて頂き、拝見して非常に嬉しいです。光栄に思っております。
実は明治の廃仏毀釈の時に失われた、村の裏山の頂の神社を調べている最中で、心情的に切ないです。本来ご神体だった筈の砥堀古墳まで、念入りに中身を空にしたらしく、昭和に発掘されても何も出て来ずに「作りかけ?」という話になってしまった位です。
風早高雄神を祀る風早高宮と言ったらしいのですが、場所が姫路市なものですから多分、宗像郡物部珂是古の姫古曽神社とか、物部阿佐利の伊予風早国津比古神社とかと関係があったんじゃないかな?などと見当をつけてみたのですが。
ついでに、車で15分程北の姫路市香寺広瀬の蛇穴神社に宗像三女神の辺津媛命が祀られているのも根拠の1つです。
平たく言えば、多可郡で掘り出した鉄鉱石他を市川沿いに香寺へ水運で運び、野蹈鞴で精錬して金属に加工して、物見の塔っぽく山頂から交易を裁量していた、古代の出張所か何かだったんじゃないかと、想像するのが自然な地形のように思うのです。
いきなりご迷惑かと思いますが、そんなに不自然ではない想像でしょうか?出来れば採点して頂きたいと思いまして。お忙しいとは存じますが、勝手ながら何卒お助けください。

[2689] Re:神奈備[8095] 椎根津彦  神奈備 2007/01/10(Wed) 21:07 [Reply]
> 神武さんがやっとの思いで手に入れた大和、即ち倭国、この倭国の支配者は椎根津彦、これはおかしいではないだろうか。

 この意味神武天皇の論功行賞では椎根津彦が倭国の国造に任じられたと『日本書紀』にあるからです。大和を饒速日尊から奪うべき出発したはずですが、これでは椎根津彦が倭国の主になってしまいます。

 葛城では剣根を国造にしています。葛城の地は大和王権にとっては長い間目の上のたんこぶで、やっと雄略天皇の頃に屈服させたのです。
 
 倭国と葛城の二国の国造を作り、神武さんはその上に載っかっているように見えるのですが、実は倭国だけを手に入れたのです。

 従って、椎根津彦が神武さんだったということになります。これは神武さんは元々居なかったのであって、椎根津彦をモデルに神武さんが構想されたとも言えるのかも。

(青草)
 椎根津彦は井光(ゐかり)ではと書きましたが、ひょっとしたらMr.碇だったのかも。海人族の若手に与えられる称号!?



> 椎根津彦は伊加里姫命(井光姫)の子。ここには丹後のことは考慮にいれていませんが、丹後と豊国がどう関わるかは残された課題。

 丹後には笠水神社が鎮座、ここに伊加里神社が合祀されており、祭神は伊加里姫。また大和にも井光神社が鎮座、祭神は井光神。
 大三元さんのサイト( http://www.dai3gen.net/tango.htm )に丹後風土記残欠と姓氏録から見た比較表があります。

    丹後風土記残欠  姓氏録
降臨  白雲山へ     白雲別神
    豊宇気大神が降臨 天より降る白雲別神
姫の名 伊加里姫命    光井女
別名  豊水富      豊御富

 椎根津彦の母神の井光のルーツは丹後なのか大和なのか、これがよく分からない。丹後の籠神社に伝わる『海部氏系図』によりますと
火明命−天香語山命−天村雲命(妃 伊加里姫)−倭宿禰命(別名 椎根津彦)
 天村雲命の子は多く葛木の姫達を妃にしています。何となく大和へ乗り込んできた神武さんの後裔が事代主神の娘達を妃にしているのと符合しています。ついでに神武さんの日向での妃は吾平津媛、天村雲さんは阿俾良依媛と実によく似ています。ひょっとしたら天村雲さんが神武さんのモデルだったのかも。


 丹後と豊国との関係
 
 豊後国海部郡には椎根津彦神社が鎮座、また関鯖で有名な佐賀関に鎮座する式内社の早吸日女神社の摂社の木本社にも祭られています。縁があったのか、『記紀』の逆流なのかは不明ですが、疑似歴史に分類している本屋もある『天皇家と卑弥呼の系図』(澤田洋太郎)P43に豊国と丹後との地名が似通っている所があることを指摘しています。丹後の豊受大神も豊の国からの神かと示唆されており、興味を引きます。

[2688] Re[2687]: 高千穂  神奈備 2007/01/08(Mon) 09:44 [Reply]
nickさん、今年もよろしくお願いいたします。

 高千穂峡散策はかねてからやってみたいと思っていました。丁度初詣ツアーがあり、やっと実現しました。
 梅原猛さんの『日向紀行ママ』を読み、やはり天孫降臨とされた土地にはそれなりの伝承があるようですね。

 私の氏神は五十猛神で所謂国津神に分類されます。そう言う気分から天津神の拠点や神社へ参詣するよりはむしろ、国津神である大神神社や出雲の諸社が好みなのですが、南九州ではその天津神がまともに仕事をしている印象を受けています。
 
 逆に隼人の国では五十猛神も天津神側にたっているようですね。

[2687] 高千穂  nick [Url] 2007/01/07(Sun) 08:30 [Reply]
管理人さん、おはようございます。
今年もご教示お願い致します。

そうですか。元旦は高千穂でしたか。
私も未だ心残りで、春の祭に再度出かけたいと希望しています。
それと他の幾つか探訪したい箇所もあります。

この連休は全国的に大荒れも模様。
お出かけの方はご注意を。

なかなか治らない風邪と咳で参っています。
こちらの方もご留意を。

[2686] 垂水と高樋と長柄など  神奈備 2007/01/03(Wed) 18:16 [Reply]
 吹田市に式内社である垂水神社が鎮座、ここの由緒については前々から疑問を持っていました。
 由緒概略 孝徳朝、旱魃があり、河川が涸れてしまった。阿利真公が高樋を作り、垂水岡基の水を宮内に通わせた。その功により垂水公の名を頂いた。


 さて、垂水神社の標高は40m弱、一方、孝徳天皇の宮は長柄豊碕宮とされており、上町台地の北端に近い所、台地の最高所で23m、樋があれば理屈上は流れることになります。距離は12km、淀川などは渇水中だから水がないので、竹をつないだとして1200本、実際には高樋でなくとも平地をはわせればいいのですが、それでも相当な難工事だったでしょう。

 この水を宮におくったのは事実なのか、伝説なのか、はたまた長柄豊碕宮が上町台地だったのか、吹田にあったのか、または一時的に垂水神社の近くに仮宮を設けたのか、と言うのは垂水神社の南西1kmの所に豊津と言う地があり、これが豊の港であり、そこの出っ張りに仮宮があれば豊碕といえそうです。

 長柄はどうする? 長柄橋については人柱の物語があり、「雉子の鳴かずば撃たれまい」とその娘は歌ったのです。人柱にされた長者は垂水長者と呼ばれていたそうで、長柄と垂水との近さが感じられます。
http://nire.main.jp/rouman/fudoki/36ohos02.htm

[2685] Re[2684]: はじめまして 新顔です  神奈備 2007/01/03(Wed) 12:39 [Reply]
 縄文の風農場さん、初めまして。
 大和と縄文と言いますと
 山添村、二上山のサヌカイト、五條市や吉野などが思い浮かびます。
 長髄彦、土蜘蛛、葛、九頭?、大和の縄文も現代にまで残っているようですね。

[2684] はじめまして 新顔です  縄文の風農場 2007/01/03(Wed) 09:13 [Reply]
神奈備さん 生駒の神奈備さん 私も今年から登場しますのでよろしく。と言ってもまだパソコンがありません。どなたか旧式ので結構ですので頂けませんか?すでにCATVインターネットが開通しております。まどかさん年女 私も年男 今年は私たちの年!一万三千年縄文の祭を大和でやろう!

[2683] Re[2682]: 今年も宜しく!  神奈備 2007/01/02(Tue) 16:25 [Reply]
nickさん、あけましておめでとうございます。
昨年はひとかたならぬお世話になりありがとうございました。

ご近所の高千穂町で初詣をして来ました。
天気予報がはずれてくれたようで、幸い日がさし、暖かい一日でした。
ただ、高千穂峡などいささか俗化の気配もあります。聖地の維持と観光、ここいらのさじ加減が難しいところのようですね。

[2682] 今年も宜しく!  nick [Url] 2007/01/01(Mon) 00:23 [Reply]
また長生きをしました。
こうなると欲がでて、また「初午祭」を見物したい。
ついでに霧島の権現信仰の調査もと。、、
ま、体調次第ですが、、
今年も宜しくお願い致します。


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