青草掲示板ログ平十九年六月 2007.6
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[3118] すみません  狐の使い 2007/06/29(Fri) 01:00 [Reply]
すみません。本日少しだけ自宅マシンを使う機会があったので、先の話題の写真郡を神奈備別荘に連張りしてしまいました。神奈備さん、趣旨に合わなければ消してください。(^^;

[3117] 今日読んだ本のメモ  さき(PONTA) 2007/06/28(Thu) 22:38 [Reply]
1.卑弥呼と日食
説1:日食が起きたために卑弥呼は殺された。
説2:卑弥呼は(中国から情報を得て)日食を予知し、その結果、邪馬台国の女王となった。

2.巫女が処女である理由
説1:巫女は太陽神と結婚するから。太陽神は男神(大物主命=ニギハヤヒ命)。
説2:男性による中央集権の政治が中心となっていく過程で、卑弥呼のような強大な力を持つ女性は1代限りでないと困るようになったから。(強大な力を持つ巫女の血は絶やさないといけないから。)

[3116] Re[3114]: 「こわくび」に便乗  神奈備 2007/06/28(Thu) 09:57 [Reply]
 長柄神は『三代実録』や『延喜式神名帳』には、河内国若江郡に記載されています。若江郡は河内湖の南側にあたり、長柄船瀬の範囲の「> 南を限る、大江。」(大江:難波堀江・安曇江・草香江のライン)より南のようです。河内湖の南岸には瓜生堂遺跡もあり、放出の目と鼻の先になります。ここらを大江の範囲に含めますと、長柄神と長柄船瀬の長柄とは無関係とはいえなくなるのかも。

 
> 「四至(東を限る、高瀬・大庭。南を限る、大江。西を限る、鞆淵。北を限る、川岸*土へん)

 おっしゃる通りの範囲と思われます。現在の地名で言えば、
東 守口市大宮・高瀬から放出(有名な難読地名:ハナテン)のライン
西 長柄橋から鴫野、放出
南 近鉄奈良線
北 現在の淀川から1〜2KM南
となるのでしょう。


>住吉大神の子神とされる謎の「長柄神」
『住吉大社神代記』に住吉大神の子神の一覧が記載されています。

 座摩神二前、一名、爲婆照神  中臣住道神 須牟地 住道神  須牟地曾禰神  住道神

  件住道神達八前 天平元年十一月七日依二託宣一移徒坐二河内國丹治比郡楯原里一。故號二住道里住道神一

赤留比賣命神 中臣須牟地神 草津神  船玉神 今謂。齋祀紀国紀氏神。志麻神。静火神。伊達神本社。
多米神  須牟道曾禰神  止櫛侶伎比賣命神 天水分豐浦命神  奴能太〔比〕賣命神
津守安必登神 二前。號二海神一。  難破生國魂神二前
下照〔比〕賣神  味早雄神  萱津神
長岡神  大歳神  忍海神  伎人神
片縣神  阿閇神  魚次神  田蓑嶋神
開速口姫神  錦刀嶋神  長柄神  武雄命〔神〕

この内、伎人神、片縣神、錦刀嶋神、長柄神、武雄命〔神〕が比定できていないとされており、故に謎。

[3115] 無題  縁MADOKA [Url] 2007/06/28(Thu) 01:17 [Reply]
長柄
こわくびさんのことは初耳でおもしろく読んでいます

いこまかんなびさん
>南方の長柄・友渕のある都島区・旭区から南方城東区のほとんどの地域は、長柄船瀬と呼ばれていたと考えるのが妥当な所ではないかと「住吉神代記の研究」に大いに共鳴しているところです。
住吉大神が造り進られた遣唐使の荷積港のあった所というのは、何れの岸にあったのか不明です。この辺りには住吉大神の子神とされる謎の「長柄神」が祀られていたのかもしれません

非常に興味ぶかい内容ですねえ(*^0^*)\
特に
>住吉大神の子神とされる謎の「長柄神」
とは???

解説おねがいしまーーーす(^^)/

[3114] 「こわくび」に便乗  いこまかんなび [Url] 2007/06/27(Wed) 21:00 [Reply]
神奈備さん、いつもありがとうございます。
古代の淀川の流路と茨田の堤の位置関係がどのようであったのか興味が尽きません。便乗の寄り道にさせますが、ご勘弁を。

『住吉大社神代記』長柄船瀬の本記 
「四至(東を限る、高瀬・大庭。南を限る、大江。西を限る、鞆淵。北を限る、川岸*土へん)右の船瀬泊は、遣唐貢調使の調物を積む船舫の泊を造らむ欲と、天皇の念行へる時に、大神の訓へ賜はく「我、長柄船瀬を造りて進らむ。」と造り□?なり。」は、こわくびさんが犠牲になったと思われるこの辺りでしょうか。

南北に続いてきた摂津・河内両国堤(剣堤)が、守口=高瀬の西方で大きく西へ張り出して淀川からの流入水を護る茨田堤に接続するとの前提で考えますと、強頸さんが身を投じたらしい千林の西・南方の長柄・友渕のある都島区・旭区から南方城東区のほとんどの地域は、長柄船瀬と呼ばれていたと考えるのが妥当な所ではないかと「住吉神代記の研究」に大いに共鳴しているところです。
住吉大神が造り進られた遣唐使の荷積港のあった所というのは、何れの岸にあったのか不明です。この辺りには住吉大神の子神とされる謎の「長柄神」が祀られていたのかもしれません。
強頸さんのずっと後のことなので、大きく地形が変わっているかもしれませんが、『行基年譜』に「高瀬大橋(嶋下郡高瀬里)・高瀬堤樋(茨田郡高瀬里)」や高瀬を起点とする「生馬大山登道」の名が登場する、現在の旭区千林〜清水〜守口市高瀬神社の周辺など、淀川に沿った摂河国境の守口〜大阪市東端部周辺の地域が大変面白くなってきました。

[3113] Re[3112]: 無題  神奈備 2007/06/26(Tue) 10:08 [Reply]
 いこまかんなびさん、貴重な情報のご提供ありがとうございます。

> (註)ここは淀川に沿った摂津・河内両国境の地で、現在は大阪市旭区千林。千林村には字名にタイマという所があったらしい。すぐ東側の国境堤に位置した南島村や友淵村に鎮座した神社はどうでしょうかね。

 旭区に大宮神社が鎮座、明治四十年に大字千林字一のタイマの村社産土神社「大国主神、事代主神」等を合祀しています。国つくりの大国主神と豊漁のエビス神と言うコンビを祭っていますが、タイマの地の神社であれば、茨田の堤の造営に功のあった者を祭っていたのかも知れませんね。

[3112] 無題  狐の使い 2007/06/26(Tue) 09:51 [Reply]
いこまかんなびさん こんにちは

いやいや、続々と資料が出てきますね。
>3 強頸断間の跡は、摂津国東成郡千林村の絶間=断間池だと伝わる。

んでもって、強頸断間の址があるのが、千林大宮。
近くには大宮神社があるのですが、ここの祭神も応神天皇なんです。(たんなる偶然か?)
城北公園近くにある日吉神社の方に話を伺ったところ、大宮神社は源義経にゆかりがあるそうです。
・・・じゃあ強頸がらみの八幡とはならないか。(上手く行かないな・・・)

私も昨日「寝屋川市史」を読んでみましたが、ざっと見たところ石津の若宮八幡宮に関しては書かれていませんでした。
(先に述べた石津の竜神様に関しては、もっと詳しく書かれていました。)
ついでにネットで調べると、「絶間」が変化して「太間」になったと言う話もありました(なるほど、これは面白い!)。

[3111] 資料-ともろき・こわくび  いこまかんなび [Url] 2007/06/25(Mon) 22:22 [Reply]
こんばんわ、詳しくないものの、ちょっと横から失礼して、資料の紹介です。

1 茨田郡 郡村の友呂岐神社
この神社は、村の南端の字御所山にあり。祭神は応神天皇。創建年月は不詳。もと八幡神社といった。明治43年に三井村の氏神社(菅原道真)・田井村の二本松神社(菅原道真)を合祀して現在の社名に改め、同年さらに太間村の菅原神社(菅原道真)を合祀。
氏神社は、菅原道真が左遷の際、この地に宿した縁から神霊を勧請し、三井・田井・太間・石津・川村・中村・下村の7ヶ村で社殿を造って産土神としたが、慶長の頃に座論が起り各村に分社したものの、ついに三井村のみの産土神として祀られてきた。田井村の二本松神社は、座論の際に、村にあった菅原道真手植の松と伝わる古木の下に道真を祀る一社を建て、一方、太間村の菅原神社では、従来からあった「衫子連社」の横に祠を設けて道真を産土神として祀り、こののち衫子連社を菅原神社に合祀したものであると言う。

2 茨田郡 木屋村の鞆呂木神社
この神社は、字新にあり天照皇大神・春日大神・住吉大神・稲荷大神・恵比須大神を祀る。清和天皇貞観3年頃の勧請かとされる。
昔からの祭典に妙齢の処女に薦巻飯を供進させる神事があった。大正3年木屋村の字浦の無格社の若宮八幡神社(誉田別命)を合祀している。

3 強頸断間の跡は、摂津国東成郡千林村の絶間=断間池だと伝わる。

 以上全部参考『大阪府全誌』

(註)ここは淀川に沿った摂津・河内両国境の地で、現在は大阪市旭区千林。千林村には字名にタイマという所があったらしい。すぐ東側の国境堤に位置した南島村や友淵村に鎮座した神社はどうでしょうかね。

なお、若宮八幡神社の資料はありませんでした。

[3110] Re[3109]: 無題  神奈備 2007/06/25(Mon) 19:22 [Reply]
> >現在は、石津には若宮八幡宮は鎮座しておらず、どこかに合祀されたものと思われます。
>
> 今、石津に若宮八幡宮はありますよ・・・ね(ニセモノ?)、

googleの地図を見ますと南石津に鎮座されていますね。

面白い由緒があるのですね。

この若宮八幡神社の歴史を知りたいものです。

[3109] 無題  狐の使い 2007/06/25(Mon) 17:45 [Reply]
たびたびすみません、狐の使いです。

>太間天満宮は明治五年に石津村の若宮八幡宮へ合祀されています。所が明治十五年に復旧しています。この復旧の際に袗子の神霊は若宮八幡にも残ったのかも知れません。

>以下は調べれば出てくるお話でしょうが、大正三年までに石津村と木屋浦の若宮八幡宮が合併しているならば、袗子の神霊は鞆呂岐神社の奧宮に鎮座しているのかも知れません。

もはや、「寝屋川市史」を超える話となっていますね。
フィールドワークしてみようかな?、しかし、相当昔から住んでいる古老の方にでも聞かなければわからないかも・・・。(大変そうだぞ・・・)

>現在は、石津には若宮八幡宮は鎮座しておらず、どこかに合祀されたものと思われます。

今、石津に若宮八幡宮はありますよ・・・ね(ニセモノ?)、
ちなみに以下は、石津・若宮八幡宮での案内板に書かれていた記述

石津の竜神さま
この話は、古くから石津に伝わっている物語で、『石津の竜神さま』『菱に乗ってきた竜神さま』などといわれています。
田植えがすんで数日すると、大雨になり激しく降り続きました。せっかく植えた苗も水の底に沈んでしまい、村は湖に浮かんだ小島のように見えました。その時、水面を菱がものすごい勢いで流れてきました。見るとその上に竜神さまが乗っているではありませんか。
村の東の端の岸に着いた竜神さまは、空を見上げました。すると、空一面にたちこめていた雨雲の一部が激しい勢いで垂れ下がり、竜神さまを包み空へ舞い上がっていきました。雲が天にとどいたかと思うと、天候は一転し、日がさし、青空がのぞき、水は減りはじめ、青い田んぼが姿を現しました。村人はよろこび、竜神が空へ舞い上がった場所を神域としてお祀りするようになりました。
この神域といわれるのが、ここから北西約400メートルのところにあります小さなお宮で、「元宮(もとみや)」と呼ばれています。
現在では、ここ若宮神社(わかみやじんじゃ)で祀られるようになりましたが、長い年月を経た今でも人々は、毎年十月の秋祭には元宮から若宮神社に至る参道をちょうちんで飾り、菱を供えて「竜神さま」をお祀りします。
(狐の使い談:「菱って何?」)

他には、人もいなかったし、由緒も書かれていませんでしたので、祭神が何かは明確にはならなかったのですが、八幡宮なので応神天皇だろうと思っておりました。・・・が、
それだけでは、上記案内板記述と合致しないので、貴船よろしくオカミ神でも祀っているのかな?とぐらいに思っていました(さすがに貴船と同神格とは思いませんが)。

実は、今会社でこれを書いており、せっかくの「寝屋川市史」も読めない状態なので、帰宅し次第(まずは)調べてみることにします。

ちなみに小松和彦先生曰く、「若宮神社」と名の付く神社は、御霊信仰と関連するものが多いとのことですが(「神になった人々」)、この若宮神社もそうなのでしょうか?
また寝屋川には、もう一つ若宮神社が存在し、それが対馬江の「しょうごん」に関係する若宮神社です。
この若宮神社こそ正面には、出入り口(参道・鳥居)はなく(なんと社の後姿を見ながら敷地に入る形です)、いかにも御霊って感じだったですけど。

[3108] 鞆呂岐神社と袗子  神奈備 2007/06/25(Mon) 09:20 [Reply]
 太間天満宮は明治五年に石津村の若宮八幡宮へ合祀されています。所が明治十五年に復旧しています。この復旧の際に袗子の神霊は若宮八幡にも残ったのかも知れません。

 普通、合祀しても再び分祀した場合、神霊もとどまらないとの見方がありますが、靖国神社の分祀論議で出てくるのですが、一旦祭った神霊は分離できないとの見解もあるようです。従って東條英機の霊は靖国から離れないのだとの理屈です。

 現在は、石津には若宮八幡宮は鎮座しておらず、どこかに合祀されたものと思われます。

 また、鞆呂岐神社は大正三年に木屋浦の若宮八幡宮を合祀しています。

 以下は調べれば出てくるお話でしょうが、大正三年までに石津村と木屋浦の若宮八幡宮が合併しているならば、袗子の神霊は鞆呂岐神社の奧宮に鎮座しているのかも知れません。

[3107] 無題  狐の使い 2007/06/24(Sun) 23:01 [Reply]
実は、せっかく寝屋川の全神社25社(といいつつも、全部廻ると28社ありましたが)を訪問したのですから・・・と思い、「寝屋川市史 第八巻 民俗資料編」を購入してみました。(あまり普通の人は、こんな本買わないんだろうな(^^;)

そこに載る「鞆呂岐神社」の箇所を読むと、

(前略)明治初年に神社合祀が奨励されたときも、多くの村々が神社合併を行う中で、木屋村は基本財産をつくり一村でもって神社を維持してきた。この神社は六大明神と称して六神をお祀りしている。しかし、時代の移り変わりの中で六神にも異動があった。もともとは天照大神・春日大社・住吉大社・恵比須大社・稲荷大社・蔵王権現をお祀りしていたという。その後、稲荷大社を末社として分離したので、変わりに神功皇后をお祀りしたそうである。また明治の初めに神仏が分離されたとき、蔵王権現は仏教的であるということで、代わりに豊受大神をお祀りした。
また奥の宮といって境内奥の台地に若宮八幡の社がある。祭神は八幡さんであろうといわれている。しかし、その横に「茨田蛇の池の址」と彫られた石碑が建てられており、なお考え直すべき余地があろう。

とのことでした・・・袗子、居ませんね・・・。
確かに「考え直すべき余地がありそうです」。しかし、明治のころに定めなおされた祭神っていうのは、ほんとうにいいかげんな決め方をされていたようですね、南方熊楠さんも大いに怒ってらっしゃったようですが、ほんと明治政府は神社ファンにとっては、ずごいことしてくれていますね。

[3106] Re[3104]: こんばんわ  玄松子 2007/06/24(Sun) 21:32 [Reply]
> ・・・そうか、贄ですものね、祀られないのか・・・。

日本武尊を援けた弟橘媛も、贄といえば贄。
ただし、祭神として祀られるのは日本武尊に愛されていた后だったことが重要だと思います。后なのに身を呈して…という点が、他の人柱などとは違うのではないかと思います。

強頸も、自ら身を呈して…ということなら祭祀対象になったかもしれませんね。

[3105] Re[3104]: こんばんわ  神奈備 2007/06/24(Sun) 07:56 [Reply]
> 友呂岐神社は良くわかりましたが、鞆呂岐神社の方はどうなのでしょう?
> 「茨田蛇の池跡」があるだけで、祭神に袗子は関係ないのでしょうか?

友呂岐神社で聞いた話ですと、鞆呂岐神社は友からの分社だとのこと。そうしますと、袗子さんも祀られていても不思議ではありません。

しかし、鞆呂岐神社は貞観年間の勧請と言われており、現在の祭神もまったく違うようです。こちらが本社としますと、こちらから友に行ったわけで、こちらに袗子さんがいた可能性もあります。

神様のことは良くわからないのです。それがいいのかも。

[3104] こんばんわ  狐の使い 2007/06/23(Sat) 23:41 [Reply]
神奈備さん、玄松子さん こんばんわ。

袗子の話だけで、ここまで細かくこだわるとは・・・(^^;
さすがは、神奈備さんというところでしょうか?

友呂岐神社は良くわかりましたが、鞆呂岐神社の方はどうなのでしょう?
「茨田蛇の池跡」があるだけで、祭神に袗子は関係ないのでしょうか?

>ついでに、人柱となった強頸は、神への贄であり供物なので祭祀の対象(祭神)にはならないと思いますよ。
・・・そうか、贄ですものね、祀られないのか・・・。
でも、考えようによっては、代表的な犠牲者じゃないですか。
「おかげで淀川の氾濫もなくなり・・・」なんてことで祀ってくれないのでしょうか・・・って、
これも近世・近代の人臣神社の考え方ですよね。

本日残り2社を廻り、寝屋川中にあるとされる25社を全て参詣してきました。
勿論最後は「打上神社」、打上神社で打上と洒落込んで見ました。
ただ神奈備さんのガイドでは、東寝屋川の駅からいとも簡単に行けそうな表記でしたが、思いっきり山の上じゃないですか!
(まぁ少しは予想していましたが・・・)
行ってみないと生じない疑問もあるもので、正面にある「打上行者堂」がとても奇妙に思いました。
 ・まず、向かって右に「住吉大明神」左に「天照皇大神」を祀っている祀り方
 ・「打上神社」と向かい合うように立てられている祀り方
いろいろと余計なを想像してしまいそうです。

[3103] Re[3102][3101]: ご回答ありがとうございます  神奈備 2007/06/23(Sat) 17:56 [Reply]
玄松子さん、こんばんは。

> 太間神社が分離独立しているのなら、現在の祭神は応神天皇+菅原道真だけじゃないですか?

 『鞆呂岐』と言う寝屋川市の西北地域の歴史や伝承を書いた冊子が図書館にあり、これによりますと、太間村にあった袗子を祀る小祠に道真公を合祀、後に道真公の後裔の方が太間の有力者となり、道真公を盛大に祀ったことが続き、袗子のことは忘れられてしまったとありました。

 従って、友呂岐神社から袗子の分霊を頂いて再度祀ったとあります。現在は主神は道真公、地主神は袗子となっているようです。

 これから考えますと、袗子は太間の小祠と現友呂岐神社とに祀られていたと思わないと理屈がつきません。明治末期に太間社は友呂岐神社に合祀されましたが、昭和四十二年に分離していますが、本来の袗子の神霊は留まっていると言えますね。

 この事を知らずに、朝、友呂岐神社で神職さんに袗子のことを聞いた所、一応本殿に合祀をしていますが、本家本元は太間の方だといわれていました。

 写真掲示版に友呂岐神社の祭神名と太間天満宮を載せました。

[3102] Re[3101]: ご回答ありがとうございます  玄松子 2007/06/23(Sat) 01:22 [Reply]
横から失礼します。

> 明治四十三年元の若山神社(三井神社)、元の二本松神社(田井神社)、元の太間神社(これは昭和四十三年に分離)が八幡神社に合祀し、此の地の地名をとって友呂岐神社と改稱し現在に至っています。

つまり明治の頃は、
若山神社(菅原道真)+二本松神社(菅原道真)+太間神社(茨田連袗子)+八幡神社(応神天皇)。

で、太間神社が分離独立しているのなら、現在の祭神は応神天皇+菅原道真だけじゃないですか?

すると、茨田連袗子を祀っているのは太間神社。これは神奈備さん指摘の「太間天満宮」のことですかね。


ついでに、人柱となった強頸は、神への贄であり供物なので祭祀の対象(祭神)にはならないと思いますよ。
後に怨霊となって祟ったのなら御霊(神)として祀られたかもしれませんが。

実在(かもしれない)人が神として祀られるのは、祖・英雄偉人・御霊。
調べれば他にもあるかもしれませんが、今思いつきません。

[3101] ご回答ありがとうございます  狐の使い 2007/06/23(Sat) 00:29 [Reply]
早速のご回答ありがとうございます。

>茨田郡に茨田連の祖神(神八井耳尊など)を祀る神社が古くからあっても不思議ではありません。
・・・なるほど確かにこの辺りは、もと茨田郡と呼ばれており茨田連が実在したとすれば、この地に住んでいたからこそ茨田郡と呼ばれていたと言う訳ですか。寝屋川は、秦氏も居たと言われているし、以外に賑やかな土地なのですね。

>衫子ゆかりの他の神社はどのような神社でしょうか。
鞆呂岐神社と友呂岐神社に祭られています。
両社とも「ともろぎじんじゃ」と称し、もともとは何れも鞆呂岐神社と記したそうです。

友呂岐神社御由緒
友呂岐は鞆呂岐とも書き古代から皇室の荘園でした。御祭神の応神天皇(三〜四世紀)別名大鞆別命と申し上げ、鞆・・は天皇の立派なお姿の形容、呂岐は神を表す語でトモロギの語源がしのばれます。
この地は天皇の皇子仁徳天皇が茨田の屯倉を置かれ、太間の袗子はその時の伝説です。ここは皇室の別荘の営まれたところで御所山と呼ばれます。又、菅原道真公左遷の時の通路に当たり公を祀る神社が多く、公を祀った三井・田井・太間の各神社を合祀しています。
大祭は十月十六日、一月のお弓神事は美井(三井)に残る伝統行事です。

とのことで、社で配布している由緒書きによると、

明治四十三年元の若山神社(三井神社)、元の二本松神社(田井神社)、元の太間神社(これは昭和四十三年に分離)が八幡神社に合祀し、此の地の地名をとって友呂岐神社と改稱し現在に至っています。

とのことです。
友呂岐神社は、祭神 応神天皇・菅原道真公・茨田連袗子。末社には、稲荷(成願稲荷社)のみ。
鞆呂岐神社は、祭神こそ明記されていませんが奥社があり、そこには「茨田蛇の池跡」の碑があります。
また鞆呂岐神社自体が寺院のような建てられ方をしており、元々の神仏習合時代には寺であったのではないかとも思えるたたずまいです。
(ここの狛犬はとても愛嬌のある顔つきをしています。)

[3100] Re[3099]: はじめまして  神奈備 2007/06/22(Fri) 20:00 [Reply]
> はじめて投稿させていただきます。狐の使いです。
狐の使いさん、こんばんは。

> それならなぜ「茨田連衫子」が祀られる事となったのでしょうか?

 太間天満宮には茨田連衫子の伝承が伝えられているそうですね。

 いつ頃から伝えられたのか、それが興味ある所です。茨田堤が出来た頃からですと、奇跡的。江戸時代に生活も豊かになり、文化が発展、古代史にも多くの関心が寄せられました。
 
 江戸時代に、出雲の船通山の頂上に素盞嗚尊降臨縁の碑や鳥居が立てられました。
 明治になってから、大屋姫神社が創建されています。理由は村おこしでした。
 神社や史蹟と雖も、中世だけではなく近世のものも混ざっています。

 茨田郡に茨田連の祖神(神八井耳尊など)を祀る神社が古くからあっても不思議ではありません。その茨田連の祖神が茨田連衫子に置き換わったとも考えられます。特に河の神と称する物の怪を瓢で見破っており、堤防を築いた功績は大きく評価され、祖神として崇められたのかも。

 残念ながら『河内名所図会』には太間天満宮の事は出てきませんが、瓢を投げる茨田連衫子の絵が載っています。絶間池、衫子絶間址もあったようですし、堤防が築かれてその頃の人々は強頸断間衫子断間と呼んだそうです。

 衫子絶間址が太間天満宮に発展したのかも知れません。太間にはこれ以外の神社は見あたりませんので氏神社として建立されたのかも。現在宗教法人ではないようです。天満宮になったのはこの地域に濃密に分布しているので右にならえと。

現地も見ずに勝手なことを書きました。明日にでも太間天満宮に行って見ようと思います。衫子ゆかりの他の神社はどのような神社でしょうか。



[3099] はじめまして  狐の使い 2007/06/22(Fri) 13:51 [Reply]
はじめて投稿させていただきます。狐の使いです。

私は、歴史好きというより、妖怪好きなのですが・・・故あって神社を巡っています。
現在地元大阪北河内寝屋川市の神社を総当りしている最中で、26社中、24社まわり終えた状況です。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ie=UTF-8&oe=UTF-8&tab=wl&q=

ここで質問なのですが、
寝屋川の神社では「茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)」を祀るものが3社ほどあります。
はずかしながら「茨田連衫子」とは、何者なのか調べてようやく、祀られている意味を理解したのですが、
この茨田堤伝説に現れる「武蔵の人強頸(こわくび)」は何故祀られないのでしょう?(「武蔵の人強頸」を探して、大阪千林周辺の神社を(特に淀川沿いを)まわってみましたが、該当する神社は何処にもありませんでした。)

伝説どおりであれば、「武蔵の人強頸」こそ人柱となり、「茨田連衫子」は生き延びたかのように思えるのですが、
「武蔵の人強頸」は石碑こそあれ、神社はありません。
確かに御霊信仰が主流となる時代とは、会わないため「武蔵の人強頸」を御霊として祀る神社が無いことは納得しますが、
それならなぜ「茨田連衫子」が祀られる事となったのでしょうか?
それらしく辻褄の通る推論はありませんか?

[3098] Re[3096][3093]: SF「玉置山」  さき(PONTA) 2007/06/21(Thu) 00:37 [Reply]
入鹿池の拡大によって、入鹿村は水没しました。
その直前、入鹿村の天道宮や式内・虫鹿神社等の神社は遷座しました。
天道宮神明社(前原字天道新田1)の現在の祭神は高皇産霊神、豊受大神、須佐之男命です。(明治維新の神仏分離で天道宮は末社の神明社に合祀)

http://www.city.inuyama.aichi.jp/manabu/bunkazai/008.html


[3097] 謡曲「二人静」  神奈備 2007/06/20(Wed) 21:35 [Reply]
 気のおけない仲間達と吉野は国栖方面の神社参詣してきました。

 磐座祭祀、岩陰祭祀の神社を巡りながら、縄文のにおいだとかなんとかかんとか。

 車の中で、謡曲をテーマにしたHP発信の人の話が話題になって、謡曲には失われた古風土記を伝えているものもあるのでは、謡曲を理解するには神社の由緒などに通じておく必要があるとか、いろいろなお話がでていました。

 天武天皇を祭る浄見原神社にも謡曲「国栖奏」の説明板がありました。ここは川沿いのすがすがしい神社で、木霊がよく響いていました。

 由緒不明の菜摘の八王子神社は大きい磐座の前に鎮座する美しい神社でしたが、この郷の名の菜摘はやはり謡曲「二人静」で若菜を摘ませた場所であり、静御前の鎮魂を行った神社だったそうです。


[3096] Re[3093]: SF「玉置山」  さき(PONTA) 2007/06/19(Tue) 00:29 [Reply]
尾張富士は新しい名前だろうし、入鹿池の入鹿も蘇我入鹿が来てからの名前でしょうから、古くは玉置山、星池と呼ばれていたのかもしれません。

尾張富士は富士山のように円錐台の山ではなく、先の尖ったピラミッドのような形の山です。こういうピラミダルな山容の山ではUFOがよく目撃されるそうです。

愛知県でUFOの目撃回数がダントツに多いのは猿投山です。三河の山ですが、実際には、三河と尾張の国境付近の山で、猿投山はもちろん、近くの山々には巨石が散在していますので、この山々の中の1つが玉置山なのかもしれません。

[3095] Re[3094][3079][3078][3077]: 妙見神はどこから来たのか  たんかんさ〜 [Url] 2007/06/18(Mon) 13:40 [Reply]
御多忙のところ仔細なご教示
ありがとうございます。
この神社の由来は結構面白いかもしれません。

私の歴史探訪の発端がその「妙見神社」でした。
仔細は「歴史探訪の動機」に記載してあります。
公開されている地元の史資料「国分諸古記」を
見ますと、拙宅の近くにこの妙見神社が点在して
いるのです。
八代の妙見宮かもしくは豊後勢が勧請したと
推察されているようで、
一昨年、天草のイルカ見物にかこつけ
熊本、阿蘇の帰途途中下車し探訪しました。
その妙見宮をやっと先月アップしました。

明治初年の廃仏毀釈で神社となって
後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねよし)を
合祀されたようです。
御陵墓はすぐ近くにあるんですね。

神社の位置関係は当方の『妙見宮』google_mapをどうぞ。

寺社探訪==>>八代妙見宮

[3094] Re[3079][3078][3077]: 妙見神はどこから来たのか  神奈備 2007/06/18(Mon) 10:57 [Reply]
 肥後国八代郡(熊本県八代市)の八代神社は妙見宮と呼ばれており、九州では古い妙見信仰の神社のようです。
 『日本の神々1』(八代神社)には、「『妙見縁起』によれば、むかし漢土の白木山神が、四つの津より亀蛇(きだ)に駕して、天武朝の白鳳九年(680年)に来朝、数年後に八代神社上宮に鎮座したのが本朝妙見の始まり。」と記しています。

 漢土の白木山神とは韓半島の新羅の山神のことでしょうから、そしもり神話で言いますと、素盞嗚尊や五十猛神がこれにあたるようです。そのような意味でしょうが、福岡の白木神社二座が妙見と関係しています。

福岡市西区金武には白木神社が鎮座していますが、この神社は別に妙見神社とも言うようです。
福岡市西区大字西浦妙見に鎮座の白木神社はやはり五十猛尊を祭神としています。

 妙見神は鉱山神・金属神ともされており、素盞嗚尊・五十猛神も製鉄・鍛冶にかかわると言うことでは混ざり合ったのかも知れません。王権は金山彦神、中山神、南宮神を金属神として盛り立てているようです。

 妙見とは北辰であり、伊勢へ斎宮が向かう期間は一般人は北辰を祀ることは禁止されたと言います。斎宮は北辰を祀る為に伊勢に赴くと言うことでしょう。内宮とは北辰、従って外宮は北斗七星で、御餞を北辰に届けるのが北斗七星の柄杓の役割。


 周防国都濃郡(山口県下松市)の降松神社(くだまつ)の由緒書きによれば、「三十三代推古天皇の時代に一松樹に降臨して霊異を輝し玉ひ宣託した神は天之御中主尊。今より三年ならずして百済国の王子来朝すべし其の擁護のためにここに天降りしなりし。」とあり、その琳聖太子は「龍頭の船を艤し推古天皇五年丁子巳の春三月二日周防国鞠府の浜に着船し玉ふ時に勅使秦の川勝吉敷郡問田村に仮宮を建てて移し鎮め奉り。」・・とあります。

 百済の王子を妙見菩薩として、それを多分新羅系の秦川勝が祀ったと言う奇妙な伝承であり、先の八代の妙見とは白木の神でこれは新羅の神のことでしょうから、これから言えるのは妙見菩薩とは渡来神であろうと言うことです。
 百済は660年に滅びます。それ以降は百済からやって来ても新羅(の国)からとなるのでしょうが、推古天皇はその20年前に亡くなっていますので、百済は百済。

 百済の王子を本気で妙見菩薩と見る気分があったとしますと、百済の王家を皇室の祖先を出した家と見ていたことになります。桓武天皇の母親は確かにそのようですが、男系で来ていたのでしょうから、もっと昔、例えば天武天皇とか継体天皇とかにその可能性がありそうです。
 妙見信仰にはどんでもない皇室の歴史が潜んでいるのかも知れませんね。
 

[3093] SF「玉置山」  さき(PONTA) 2007/06/18(Mon) 00:35 [Reply]
『尾張国風土記』(逸文)

「玉置山 出鹿狐。在神號道主命。亦有一小石。昔人云、赤星之所落也。山麓有星池。星之常宿所也。亦有怪石。星之所化石也。今猶且星落焉。」

「玉置山 鹿、狐出る。神在り。道主命と号す。また一つ小石あり。昔の人が言うに、赤星の落たる所也。山麓に星池有り。星の常に宿る所也。また怪石あり。星の化せし石也と。今、猶且つ、星、落る。」

SF的に解釈すれば、星=隕石ではなく、星=UFOですね。なぜなら、「今猶且星落焉」ですから。「焉」は断定や強調などの意を表す置き字ですから、かなり確信や証拠があるのでしょうね。かといって、同じ場所に何度も隕石が落ち続けるというのは変です。「星之常宿所也」ということは、星池の湖底にUFO基地があり、その離陸・着陸(離池・入池)が何度も目撃されてるということでしょうね。「星之所化石也」は墜落したUFOの破片かも知れません。

玉置山と星池に行ってみたいのですが、尾張にあるってことしか分かりません。出典の『雲根志』(卷之三)を見れば分かるかしら? それとも、解説本の今井似閑「風土記殘篇(尾張國風土記)」『万葉緯』卷第十七(『未刊國文古註釋大系』3)の方を見れば分かるのかな?

私のイメージは、「玉置山と星池」は「尾張富士と入鹿池」のイメージですね。入鹿池があるのは、春日井郡入鹿村です。蘇我入鹿は、乙巳の変で暗殺されずに、尾張の入鹿村に移り住み、そこで亡くなったそうです。明日香村の甘樫丘の近くにある「入鹿の首塚」が墓所とされていますが、霊能者が霊視したところ、墓ではなく、単なる供養塔だったそうです。明日香村の龍脈(レイライン)上にあるので、それに関係する物だろうとのことです。

現在の入鹿池は、広大な湖ですが、これは、寛永5(1628)年に、後に「入鹿六人衆」と称された6人が尾張藩に申し出て、川をせき止めたために広くなったわけで、蘇我入鹿の墓は、というか、春日井郡入鹿村自体が今では湖底に沈んでいます。今では満濃池(香川県仲多度郡まんのう町)と1,2を競う広さで、農業用の人工ため池としては異例の大きさであり、農業用という名目で、入鹿村を沈めるために作ったのではないかと思われます。

この入鹿池の北にあるのが今井山で、南西にあるのが本宮山・尾張富士・白山のいわゆる「尾張三山」で、池畔には博物館明治村があります。
尾張富士は本宮山と背比べしたことで有名な霊山、岩山で、霊感の低い私ですらぞくぞくする山です。(最も有名な背比べは富士山と白山の背比べですね。)尾張富士の山頂にあるのが大宮浅間神社奥宮です。残念ながら祭神は道主命(丹波道主命?)ではないです。少なくとも現在は。
尾張富士の奇祭「石上げ祭り」は、本宮山と背比べをして負けたことから始まったとされ、木曽川の石を持って尾張富士に登るわけですが、石上げ=頂上に石を上げること=頂上に石を置くこと→玉置とならないかしら? 祭りの始まりも、墜落したUFOの残骸の回収作業とか。

[3092] Re[3091][3090][3088]: これはーー  たんかんさ〜 [Url] 2007/06/16(Sat) 21:23 [Reply]
管理人さん、ご教示ありがとうございます。
出目は「三国名勝図会」でしょうか。

当地の「隼風神社(ハヤカゼ)」の
主祭神は「日本武尊」ですが
三国名勝図会には
「隼人討伐の時の矛を祭祀した」とあります。
この神社は大抵が「境内社」です。

また、隼人系の神社には境内に「大隅尊」を
祭祀しています。

過去の反乱を鑑みて神社も「折衷案」で。
中央として最大限の努力の賜でしょうか。
それとも後世、先祖への手向けに
勧請したのかも。

いずれにせよ、出典が一つではどうも。
宇佐神宮史辺りから何かヒントをと。
田舎の図書館は予算の関係で他所の蔵書が
少なく手探り状態です。

今朝、明治37年の銅版画
「大分県社寺名勝図録」が届きました。
少し参考になればいいのですが、。


[3091] Re[3090][3088]: これはーー  神奈備 2007/06/16(Sat) 10:36 [Reply]
 隼人の国に早風神社、隼風神社が摂社として若干鎮座しています。現在のデータでは、いささかお笑いに近いのですが、殆ど日本武尊を祭神としています。
 『真言密教と古代金属文化』からの孫引きで「地理纂考」では、止止八幡の境内の早風神社の祭神はホスセリ命となっています。御神体は隼人鉾だそうです。
 
 祖神のホスセリ命を祀ること、また大人弥五郎神事を行うことは、王権が隼人の慰霊を行ったのではなく、隼人自らが祖神ホスセリを祀ることで、隼人の立場での犠牲者の慰霊・よみがえりを祈ったものと考えることができます。

 隼人の呪いは強烈であったのでしょうが、それで隼人の霊を祀ったのは征服者とは限らず、残った隼人達は隼人の霊を鼓舞することによって呪いのパワーをアップしていたのかも。

[3090] Re[3088]: これはーー  たんかんさ〜 [Url] 2007/06/15(Fri) 13:08 [Reply]
こんにちわ。

今、子連れ狼を久々に見ていたら
「黒い灰」が苗木を植える頃吹くとあった。

多分「黄砂」のことだろうか。

途中から見たから場所の設定がよく判らないが
東北の方だろうか。

この物語にしても昔よく読んだ「ゴルゴ13」に
しても世相や時代考証に長けている。

さて、お尋ねの「放生会」は、江戸末期までの呼び方で
明治以降は「浜下り」が主だそうです。
祭祀時期は春か秋、当地の場合は秋にやります。

一応私のサイトに説明を。
出典も列記してあります。ご参照下さい。

歴史探訪==>>お浜下り・放生会

[3089] 放生会  さき(PONTA) 2007/06/15(Fri) 05:55 [Reply]
隼人と放生会って、宇佐神宮のことかしら?

http://washimo-web.jp/Report/Mag-Usa.htm

[3088] これはーー  縁MADOKA [Url] 2007/06/14(Thu) 23:51 [Reply]
たんかさーさん
>それが「隼人の呪い」となって「放生会」へと。。
これなんですか???
できれば詳しく教えていただけませんでしょうか?
放生会の起源が隼人の呪いにかかわるということですか????

>公害に関しては興味深い記事が次のサイトに。
実におもしろい論文ですねえ
この論文を読みながら私は素人さんに感謝したわ!
素人さんが懸命に書いてくれた水銀情報のおかげでこの論文の意味がすらすらと!
以前の私ではちんぷんかんぷん
素人さんに多謝!!

[3087] Re[3086]: ノイローゼ?  たんかんさ〜 [Url] 2007/06/14(Thu) 13:16 [Reply]
縁MADOKAさん、こんにちわ。
鹿児島もやっと入梅。
あじさいが艶やかです。

短期間の遷都の要因の一つに
相次ぐ仏閣の建立にあった。
それが二次的公害被害を誘発した。

世情が余計不安になる。
それが「隼人の呪い」となって「放生会」へと。。
公害に関しては興味深い記事が次のサイトに。

http://homepage2.nifty.com/singingsand/powder/daibutu.html


[3086] ノイローゼ?  縁MADOKA [Url] 2007/06/14(Thu) 01:14 [Reply]
>聖武天皇の頃は、あまりいい時代ではなかったのでしょう。

ですよね
あおによしと謡われた奈良時代は芸術が花開いた時代ですが実は天災、飢饉の時代 佐保川には死体がごろごろ 聖武は仏教の力で国の立て直しを志し 自分の徳の足らなさが天災を止められないとノイローゼ 謎のうろうろ遷都事件はその性らしい。
芸術が花開くルネッサンスがおきるときは実は時代があまりよくなく、イタリアのルネッサンスが花開いた時代もペストで人がごろごろ死んでいくじだいであったらしい

[3085] Re[3084][3083]: 赤い雪  たんかんさ〜 [Url] 2007/06/13(Wed) 19:11 [Reply]
> 11月23日、大隅国で空中で音がして、地面が大層揺れたとあります。
> 聖武天皇の頃は、あまりいい時代ではなかったのでしょう。

早速のレスありがとうございます。
当地、鹿児島は火山国ですが、
これは「霧島山」としての初見のようです。

■天平十四年(742)十一月壬子《十一》

大隅國司言。從今月廿三日未時。至廿八日。
空中有聲。如大鼓。野雉相驚。地大震動。

■天平十四年(742)十一月丙寅《廿五》
丙寅。
遣使於大隅國検問。并請聞神命。

■天平十四年(742)十二月丁亥《壬申朔十六》
◆十二月丁亥。地震。

どうも噴火したのは、地図で見ると
「炭化木」のある辺りのようです。

http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&oe=UTF-8&q=&hl=ja&z=13&om=1&msid=107811878349948264619.000001123315ac2dda060&msa=0

また、他にも錦江湾に島が出現し、
例の「大穴持神社」が出来ています。

■天平宝字八年(764)十二月是月。
西方有聲。似雷非雷。時當大隅薩摩兩國之堺。
烟雲晦冥。奔電去來。七日之後乃天晴。
於麑嶋信尓村之海。沙石自聚。化成三嶋。
炎氣露見。有如冶鑄之爲。
形勢相連望似四阿之屋。爲嶋被埋者。
民家六十二區。口八十餘人。

当時としては大きな集落のようですが、
この場所、村の所在地がはっきりしないのです。
諸説あるようですが、
現在は櫻島の焼山辺りかと言われていますが
これだと「大隅薩摩兩國之堺」とは??

■宝亀九年(778)十二月甲申

去神護中。
大隅國海中有神造嶋。
其名曰大穴持神。至是爲官社。


開聞岳は平安時代(874,885)に
2回も大爆発をしたり。。

近年では、大正年間に櫻島が大爆発をして
大隅半島と陸続きになったのは有名です。

霧島の新燃岳のお鉢(噴火口)は、大昔
007で浜三枝さんが出演された時
宇宙基地として、、、

私が知ったのは上京して暫くしてからの話。
それも寮の先輩に教えて頂いてのことで。

他に幕末の志士「坂本龍馬」が新婚旅行で
天孫降臨の『高千穂の峯』を踏んだのは
案外知られていませんが。

[3084] Re[3083]: 赤い雪  神奈備 2007/06/13(Wed) 09:48 [Reply]
> 天平十四年(742)正月己巳《廿三》◆己巳。陸奧國言。部下黒川郡以北十一郡。雨赤雪平地二寸。


正月23日とすれば、今の2月半ばでしょうか、ぼちぼち黄砂の到来の季節。

雨や雪が赤いとの形容ですが、火山の噴火なども考えられますね。

6月5日には、「京中のところどころに飯が降った。」とあります。これは驚き。

11月23日、大隅国で空中で音がして、地面が大層揺れたとあります。

聖武天皇の頃は、あまりいい時代ではなかったのでしょう。

[3083] 赤い雪  たんかんさ〜 [Url] 2007/06/13(Wed) 08:03 [Reply]
隼人の抗戦関連で「放生会」について
起源を調べていたらこんな記載を見つけました。

続日本紀

天平十四年(742)正月己巳《廿三》◆己巳。
陸奧國言。部下黒川郡以北十一郡。雨赤雪平地二寸。

この頃、季節風に乗って「黄砂」が
舞っていたのでしょうか。

パリにはアフリカのサハラ砂漠から
ジェット気流に乗って飛来するそうですね。
昔アルジェリアのオラン大学を設計していた時
そんな話を小耳に。。

そういえば、人気絶頂の歌手:倉木麻衣の唱に「白い雪」が。。

おりしも今の時期はこの黄砂で「灰色の空」ですが
今朝は久々の恵みの雨か

[3082] サイト内検索  たんかんさ〜 [Url] 2007/06/11(Mon) 23:46 [Reply]
最近、気が狂ったように更新をしているつもりですが、、
捗らない。。なぜかなと思っていたら、、
どこに何を書いたか覚えていないのですよ。

苦肉の策で、貼り付けているgoogleの検索ボタンをサイト内検索用に
張替えました。
当初これだったのですが、どうもレンタルサイトのサーバーとの不具合で
利用していませんでしたが、、

昔はA4での印刷を配慮して字数も決めていたのですが、今はソフトで縮小も
やってくれるようですから、難しいことを考えなくてよさそう。

更新は気長に見てやって下さい。

それにしてもgoogleのはいいですね。
ディスクトップにも貼り付けています。
また3Dのマップもあるし、結構はまってます。
昔のフライトシュミレーターですね。面白い。

[3081] Re[3078][3077]: 妙見神はどこから来たのか  さき(PONTA) 2007/06/11(Mon) 03:04 [Reply]
> > 邪馬台国は1番大きくて
> 小生は漢文が苦手ですが、上記の文章はなさそうですが・・・

はい。「訂正」が正しいです。

[3080] 変なおじさん蛍観賞  たんかんさ〜 [Url] 2007/06/11(Mon) 00:28 [Reply]
先日、八幡様に参拝したおり
父が「ほ、ほ、ほ〜たる、こい。。」
と歌っていた。

そうか蛍の時期だ。今年はどうだろうか。
この数日気にはしていたのだが
夜になるとなぜか忘れてしまって、、
さっき慌てて下見に出かけた。

『蛍の夕べ』のセレモニーをやる堤。
今年は30分程見ていたのだが1匹も
お目にかかれなかった。
あちこち探して走り回っていたら
ミニカーが追いかけてきた。
2人が素早く降りて駆け寄ってきた。
暗がりに目をこらすと何とパトカー。。

は、は変なおじさんが走り回っているから
さもなん。。
ついでに他の所の情報を仕入れようと
尋ねたがさっぱり要を得ない。
余り興味が無かったのかな。
そういえば未だ若い方だったが。

[3079] Re[3078][3077]: 妙見神はどこから来たのか  たんかんさ〜 [Url] 2007/06/10(Sun) 20:31 [Reply]
管理人さん、こんばんわ。
御多忙のところ覗いて頂いてありがとうございます。
また由来も詳細にご教示頂いて。

気分でページのフォーマット変えているので
あちこち不具合がありました。
変更も四苦八苦でした。昔のようにはできません。
深夜父のオムツを取り換えそのまま寝ないでページ更新を。
やはり歳を痛感しました。笑。

玄松子さんのページのようにはいきません。
いや〜見るたびに敬服です。
調査範囲も半端じゃないですもんね。
いいお手本があるんですが、なかなか。。

今度は11/23の「妙見祭」を見物しようと思ってはいるのですが。
今日は霧島神宮の「お田植え祭」でしたが頓挫でした。
これから蛍観賞にでも出かけましょうかね。
(先日八幡様へ詣でたら父が、ほ〜ほ〜たるこい、、、て)


[3078] Re[3077]: 妙見神はどこから来たのか  神奈備 2007/06/10(Sun) 17:31 [Reply]
 八代の妙見宮の鎮座する山を白木山と言うそうです。

筑前に白木神社が幾つか鎮座、殆どが五十猛神を祀っています。

福岡市西区金武には白木神社が鎮座していますが、この神社は別に妙見神社とも言うようです。
福岡市西区大字西浦妙見に鎮座の白木神社はやはり五十猛尊を祭神としています。

妙見さんと五十猛は九州でつながっているように見えます。

妙見信仰は北斗七星を祀る信仰で仏教と結び妙見菩薩として祀られたのですが、これは新羅系渡来人がその信仰を持ち込んだとされています。新羅と言う意味では素盞嗚尊・五十猛尊も新羅に縁の深い神です。

 ついでですが、『日本の神々1』高祖神社:奥野正男氏)によりますと、志摩郡の郡大領を肥君猪手(いで)と言い、二代にわたって宅蘇吉志と婚姻関係を結んでいるそうです。この宅蘇とは『応神紀』に見える韓鍛宅素のことと思われます。

 住吉大社の真弓宮司とお話をしていた時、「君、伊太祁曽は韓鍛だよ。」3回ほど言われました。まさに「猪手 宅素」が並び、伊太祁曽になってしまいそうです。


nickさん 妙見さん、拝見。
稲荷神社(国分) 考察 の中の 天之御中主神社:姫城阿多石===>>妙見神
この妙見神がリンク切れになっています。


さき(PONTA) さん
> 邪馬台国は1番大きくて

小生は漢文が苦手ですが、上記の文章はなさそうですが・・・


[3077] 妙見神はどこから来たのか  たんかんさ〜 [Url] 2007/06/10(Sun) 05:42 [Reply]
今日、思い出したように
昔父と巡った神社をアップした。

当地の「氏神」稲荷神社(旧妙見神社)
に関連の妙見神の本宮の「八代神社」だ。

この神社の由緒には2通りあって
一方は、中国からの渡来神説
片方は、朝鮮の皇子亡命説

いずれにせよ「渡来神」
ま、日本の場合「神教」を除いて
全て渡来の神だからさもなんだが、、

当地の場合、例の隼人抗戦で
平定のため政府系の渡来人(秦系)が
勧請したとの伝承もあるらしいのだが。。
豊後勢の牙城「鶴ヶ城」の麓(現在の医療センター辺り)には
多数の妙見神社が点在していたと古記にはある。
そこで2000年頃、現地を数度調査したのだが
痕跡は見出せなかった。

いずれにせよ、もっと出目がほしい。

ついでに以前アップしたページも
気分転換で更新した。
何と5年ぶりの内容更新だった。

今度は、九州の三大祭の一つと称される
秋の「妙見祭」(11/23)に父とまた出かけたいと念じているが
隼人の末裔「弥五郎祭」と重なってなかなか叶わない。


http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&oe=UTF-8&q=&hl=ja&om=1&msa=0&msid=107811878349948264619.000001130e4ed4a7f0975&z=9

[3076] 訂正  さき(PONTA) 2007/06/10(Sun) 02:01 [Reply]
>『後漢書東夷伝』に倭には30カ国あって、どの国の長も「国王」と名乗っているが、邪馬台国は1番大きくて、その国の長だけが「大倭王」と名乗っているとあります。

原文は「倭在韓東南大海中,依山島為居,凡百餘國。自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。其大倭王居邪馬臺國」ですから、「倭には100余国あり、そのうち30カ国が使者を通わせている。皆「王」と称し、邪馬台国には「大倭王」がいる」ですね。

[3075] 無題  さき(PONTA) 2007/06/10(Sun) 01:51 [Reply]
>全国130カ国が60カ国にまとめられたわけで、大合併時代になぜ分割されたのか?

記紀を読むと、九州には元々、筑紫国・豊国・肥国・熊曾国の4カ国があり、それが後に、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩国の9カ国に分割されたような気になりますが、(『魏志倭人伝』の対馬国、投馬国、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国等の20数カ国は九州の国々でしょうから)実際にはもっと多くの国に分割統治されていたのでしょう。

『国造本紀』を見ると、九州には

筑志国造→筑前国
筑志米多国造→筑後国
豊国造→豊前国
宇佐国造→豊前国
国前国造→豊後国
比多国造→豊後国
末羅国造→肥前国
葛津国造→肥前国
阿蘇国造→肥後国
葦分国造→肥後国
天草国造→肥後国
火国造→肥後国
日向国造→日向国
大隈国造→大隈国
薩摩国造→薩摩国
津嶋縣直→対馬国
伊吉嶋造→壱岐国
多ネ嶋国造→種子島国
松津国造→?

の19カ国があったわけで、これらの国々が大化の改新で合併させられて9カ国にまとめられたのでしょうね。

[3074] 天照大神  さき(PONTA) 2007/06/10(Sun) 01:25 [Reply]
天照大神は太陽神であること、別名が「大日」孁貴神であることなどから神仏習合(本地垂迹説、反本地垂迹説)では、大日如来(本地は盧舎那仏)で、「如来、菩薩、明王は男女の性別を超越した存在」(天部の仏様は性別あり)であるので、大日如来像は中性的な造りになっていますね。

>サラスヴァティは弁天さんになっています。
ですね。稲荷と結びついて弁才天から弁財天に変化したり、神仏習合では市杵島姫になってますね。

[3073] Re[3071]: 天照大神  神奈備 2007/06/09(Sat) 09:50 [Reply]
さき(PONTA)さん、労作ありがとうございます。

> 天照(アマテラス)大神=大日霊貴神=日巫女(卑弥呼)=女神 (霊は下に女)


 天照大神はインドやイランの古神界のであるアナーヒターやサラスヴァティーのような大女神と同じ系列にある神として見る学説があります。吉田敦彦さんた大林太良さんです。
 概要は神の三機能、すなわち第一機能は祭祀的・主権者的機能(古代の支配者)、第二機能は戦闘・暴力的力の行使(軍事)、第三機能は生産・生殖・豊穣の神の三機能を供えた氾機能的大女神とする説です。

 第一機能は天照大神の後裔が天皇となること、第二機能は、高天原で素盞嗚尊を待ち受ける戦いの姿に彷彿と出ていますし、神功皇后にもこの機能が出ています。第三機能は保食神の死体から生じた五穀を人民が生きていくのに必要な食物とされ、自らも稲の田植えを行っています。

 おそらく古代には多くの渡来人がおり、彼らの中にアナーヒターやサラスヴァティの物語が持ち込まれて天照大神が構想されてきたと考えていいのではないでしょうか。
 なお、サラスヴァティは弁天さんになっています。

[3072] 自己レス  さき(PONTA) 2007/06/09(Sat) 03:57 [Reply]
> *天照大御神、月読命に建速須佐之男命を加えて「三貴子」(「3柱の尊い男神」の意)と言うが、天照大神は女神であるから、一般には「三貴神」という。

『古事記』に「此時、伊邪那伎命、大歡喜詔、吾者生生子而、於生終得三貴子」とあり、「於生終得三貴子」を「生の終(はて)に三(みはしら)の貴き子を得つ」と読むと「3柱の尊い子供」でいいが、「生の終に三の貴子を得つ」と読むと「3柱の尊い男の子」となり、天照大神が女性であるなら「三貴子」ではなく、「一貴女二貴子」と書いてなければおかしいとする説です。

[3071] 天照大神  さき(PONTA) 2007/06/09(Sat) 03:40 [Reply]
天照(アマテル)大神=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=男神
天照(アマテラス)大神=大日孁貴神=日巫女(卑弥呼)=女神

*アマテルとアマテラスの融合は、漢字で書けば同じなので、比較的短期間(50年程度)で行われた?
*男尊女卑の時代である江戸時代に、国学者たちが「国で一番偉い天照大神が女神であるはずがない。男神に違いない」との仮設を立て、様々な調査を行った。その結果、伊勢神宮に納められる神が着る着物が女性用ではなく、男性用であることなどが分かった。

*天照大神(太陽神)と対になる月の神は「月読神」で、記紀には性別が書かれていないが、一般的には男神とされている。
太陽は農業国にあっては作物の成長を支える重要な神であり(というけど、古代人は植物が光合成で成長するのを知ってたの???)、満ち欠けを規則正しく繰り返す月は農業暦(太陰暦)の制作に必要不可欠な重要な存在である(というけど、古代人は作物を植える時期を暦からではなく、どの位置から太陽が昇るかで知ったのでは???)。
月読神が(保食神を殺すことによって)作物を生んだとすると、「母なる大地」ではないが、女神的存在。とすると、対になる太陽神は男神か???

*天照大御神、月読命に建速須佐之男命を加えて「三貴子」(「3柱の尊い男神」の意)と言うが、天照大神は女神であるから、一般には「三貴神」という。

[3070] 九州  さき(PONTA) 2007/06/09(Sat) 03:00 [Reply]
今、九州に興味あります。
宇佐神宮、福岡(香椎宮)〜大宰府(倭国の首都)〜英彦山、吉野ヶ里、高千穂と行きたい所が多い!
死火山の英彦山、火山の阿蘇山、桜島(御岳)&開聞岳と古代人との関係を調べてみたいものです。

通称「九州島」の正式な島名が「九州」です。「九州地方」と区別するために、「九州本島」「九州本土」ともいいます。古代には「筑紫島」「筑紫洲」と呼ばれていました。たとえば、『古事記』の天孫降臨の記事には「筑紫の日向の高千穂」とあって、これは「筑紫島の日向国の高千穂」の意味でしょう。

古田氏の九州王国説では、九州王国=倭国は、九州の北部の国で、「筑紫の日向とは福岡市と前原市との間にある日向峠であり、高千穂とは前原市の高祖山のこと」だとしていますが、大分県の旧名は豊国(とよのくに)であって、『魏志倭人伝』の台与(とよ)=『日本書紀』の神功皇后=伊勢神宮外宮の豊受(とようけ)大神の国であり、宮崎県の旧名は日向国(ひむかのくに。後に「ひゅうが」と読み方を変えられた)であって、『魏志倭人伝』の卑弥呼(ひみこ)=『日本書紀』の天照大神=伊勢神宮内宮の天照大神の国であることからすると、『魏志倭人伝』の倭国とは、九州の北部・東部の国で、九州の西部・南部の国が熊襲&隼人の国かなと思います。(伊勢神宮に祀られている天照大神とは、アマテラスではなく、アマテル(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のことであり、天皇家の祖先の天照大神(アマテラス。卑弥呼)が祀られているのは、豊国の宇佐神宮(旧社名は「宇佐八幡宮」)の「比売大神」だとする説もあります。だから、弓削道鏡が天皇になれるかどうか、和気清麻呂が勅使として参向したのは伊勢神宮ではなく、天皇家の祖先(卑弥呼。通説では応神天皇)を祀る宇佐神宮の方なのだとする説です。)

九州とは俗説では「9つの国」の意味で、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・壱岐・対馬国の9カ国。824年以後は壱岐・対馬国の代わりに大隅・薩摩国を加えて9カ国としたようです。(三河=3本の大河、三野(後の「美濃」)=3つの野原というのも俗説ですが、地名には数字がよく出てくる!)
筑紫国が筑前国・筑後国に、豊国が豊前国・豊後国に分割されたのはくっついてるからいいとして、火国(ひのくに。後の「肥国」)が肥前国・肥後国に分割されたというのは分かりにくいです。くっついていないから。離れていますから。(肥前国と肥後国の間に筑後国が挟まっています。)肥国=阿蘇山のある国(肥後国)とすると、肥前国の位置付けが分かりません。
あと、国の分割というのも理由が分かりません。古代には「大化の改新」と呼ばれる行政改革があり、全国130カ国が60カ国にまとめられたわけで、大合併時代になぜ分割されたのか? 大和朝廷を脅かす巨大国家(九州王国)を小さな国に分割して勢力を弱めたかったのかなとも思います。肥国の中間に筑紫国が割り込んでいるのもそういう理由かなとも思いますが、肥前国だけは、肥前国・壱岐国・対馬国の3国を合併して1国にされています。日本全体が稲作中心の農業国になって、壱岐国・対馬国を「国」と呼べるほどの力を両国が持てなくなったからでしょうか?

大和(大倭)国は、九州の倭国と奈良の日本国が合併して出来た大きな国ということだそうですが、『後漢書東夷伝』に倭には30カ国あって、どの国の長も「国王」と名乗っているが、邪馬台国(「台与」は「たいよ」ではなく「とよ」ですから、「邪馬台」は「やまたい」ではなく「やまと」と読むのが正しいでしょう。「やまたい」と読ませるのは「やまと」と読んでもらうと困る学者の策略? 当時の中国語の発音で「邪馬台」は「ヤマドゥ」と読むそうです)は1番大きくて、その国の長だけが「大倭王」と名乗っているとあります。この「邪馬台(やまと)国王」=「大倭国王」→「邪馬台(やまと)」=「大倭」となって、これが「大倭(大和)」と書いて「やまと」と読む原因かと思います。

そして、邪馬台国東遷説です。
これは、「昔、民族が移動する場合には、その地名を持って移住しました。奈良大和地方と甘木・朝倉地方との主要な地名が一致し、地名配置も極めて類似点があることから、邪馬台国は甘木・朝倉地方に存在し、それが東遷し、大和朝廷の母体となったと考えられる」とする説です。(この説によれば、九州の地名が大阪・奈良にあっても、不思議ではありません。)
http://www.amagiasakura.net/hiratuka/yamatai.htm

九州の卑弥呼(天照(アマテラス)大神)の子孫(=天皇家)の男性が奈良の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天照(アマテル)大神)の子孫(=物部氏)の女性と結婚し、出来たのが「大和国」「大和朝廷」というわけです。確かに、初期の天皇たちの妻のリストの中には必ず物部氏の女性が入っています。2つの王朝を1つにまとめるための政略結婚?

【九州の国々】

・筑紫島は筑紫国・豊国・肥国・熊曾国の4カ国からなる。(『古事記』大八島生成神話)
・「豊国国前郡」(『日本書紀』垂仁紀)
・筑紫君磐井が「火豊2国」に拠って戦った。(『日本書紀』継体紀)
・「筑紫・豊・肥3国」にわけて屯倉を置いた。(『日本書紀』安閑紀)

[3069] Re[3068]: 寛政原本?  神奈備 2007/06/08(Fri) 19:09 [Reply]
ZOUさん こんばんは。

 谷川健一さんは言葉使いと「人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」の福沢諭吉の文言をあげて偽書としています。
 しかし「人の上」の台詞ですが、諭吉さんが明治になって最初に言ったのかどうか、寛政年間と言えばフランス革命もあり、そのような思想がこの国に入っていたかも知れません。
 偽書とはフィクションのこと、小説として読めば面白いと言うか、よく書いたものと誉めてあげましょう。

[3068] 寛政原本?  ZOU 2007/06/08(Fri) 13:52 [Reply]
神奈備さん、みなさん、お邪魔いたします。

出れば偽書説が覆るといわれていた
東日流外三郡誌 寛政原本が古田武彦氏によりもうそろそろ出版されるそうです。
電子出版です。怖いもの見たさで欲しい気はします。
http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0069

ですが、
原田実氏(mixiでは別ハンドル)によれば寛政原本なるものもやはり眉唾だそうです。
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/kanseigenpon.htm

偽書ではないと思っていたころ、これ関係の本は良く読みました。
が、谷川健一氏は「白鳥伝説」の中でこっぴどく評してましたよね。
信望者以外にはもう顧みられることはないかもしれません。
アラハバキ神という神名を知ったのは東日流外三郡誌の解説書によってですが、
この神は東日流外三郡誌とは関係ないところで古くから存在していたんですね。
http://kamnavi.jp/jm/arahaba.htm すごい量のリスト。さすが♪

[3067] Re[3064][3063][3061][3060][3056][3050]: 豊国2  神奈備 2007/06/06(Wed) 20:50 [Reply]
> でもなぜ?金山彦じゃないのかな??不思議だ。

金山彦神と言えば、南宮大社即ち仲山金山彦神社が有名です。この神は真弓常忠氏は7世紀の構想の神と述べておられ、公権力によって多くの金属精錬の神の集積であったようです。

 この神を祀る神社ベスト4は

静岡  99
島根  93
岐阜  83
三重  82

です。中部地域に多いと言う特長があります。島根に多いのは金屋子神を金山彦としているからです。
古い金属神は金山彦神ではなく、それぞれ独自の神を祀っていたのでしょう。

[3066] Re[3064] Re[3063][3061][3060][3056][3050]: 豊国2  縁MADOKA [Url] 2007/06/05(Tue) 22:02 [Reply]
岡山県総社市の姫社神社
ここいきましたわ!!

私のあとに行った、猪飼の古書店主の話では
この姫社神社の
宮司の名字が  小橋!

ヒメコソ神社は 小橋命に関係あり
地名も 小橋  おもしろいなあ 偶然???

今回しらべたら 神奈備さんの
阿麻美許曾神社
http://kamnavi.jp/mn/osaka/amamikoso.htm

こら 知らんかった ますます謎だなあ
ヒメコソは。。。。

[3064] Re[3063][3061][3060][3056][3050]: 豊国2  ペギラ 2007/06/05(Tue) 12:24 [Reply]
> ついでに、岡山県総社市の姫社神社では、製鉄(鉄造)の神だそうです。

http://kamnavi.jp/ym/hiboko/kibihime.htm

神奈備さんの記述の
>この血の小幡さんと言うお家

いや〜なんとも、奥が深い同音異語。(笑

総社市は、確かに製鉄でしょう。
他の各地での製鉄話は、ほとんど胡散臭いですが。。

でもなぜ?金山彦じゃないのかな??不思議だ。


[3063] Re[3061][3060][3056][3050]: 豊国2  玄松子 2007/06/05(Tue) 11:37 [Reply]
> 御原郡の姫社之社とある。
> 頭注では、福岡県三井郡小郡町大崎の岩船神社としている。

現社名は媛社神社。
由緒では、媛社=ニギハヤヒ。織姫とは別神として祭られています。
ニギハヤヒゆえに岩船となったのでしょう。

ついでに、岡山県総社市の姫社神社では、製鉄(鉄造)の神だそうです。

[3062] Re[3061] Re[3060][3056][3050]: 豊国2  縁MADOKA [Url] 2007/06/05(Tue) 01:25 [Reply]
ぺギラさん!
>御原郡の姫社之社とある。
頭注では、福岡県三井郡小郡町大崎の岩船神社としている。

おうーーーーーー
ありましたか!!!
やっぱ 姫と岩船は関係ありか!?

牛=堂門説にあわせれば
牛はインドで聖獣

>牛と比売とは牽牛と織女

牛。姫。石
は当たり検索かも????


[3061] Re[3060][3056][3050]: 豊国2  ペギラ 2007/06/04(Mon) 13:26 [Reply]
>  語曾は社(もり)の意味がおだやかなところ。
>

そうですね。おだやかです。(^_^;)

肥前国風土記 基肄郡 姫社郷
岩波大系本の訓は、「ひめこそ」

肥前にも「ひめこそ」社がある。

さらにこの場面を読み込んでいくと
御原郡の姫社之社とある。
頭注では、福岡県三井郡小郡町大崎の岩船神社としている。

肥前国
御原郡と基肄郡に「ひめこそ」社があるということだ。

ここの荒ぶる神は、機織の女神。

>牛と比売とは牽牛と織女

むむむむ、、。

[3060] Re[3056][3050]: 豊国2  神奈備 2007/06/02(Sat) 22:11 [Reply]
> 「語曾」この意味は??
> 日本書紀を読んで関連しそうなキーワードを考えるならば
> 「媛」「牛」「石」ではなかろうか??

紀伊国名草郡 伊太祁曽神社 五十猛(いたけ)曽?
摂津国東生郡 比賣許曾神社
河内国澁川郡 波牟許曾神社[ハムコソ]  蛇草(はむくさ)、蛇社(はみこそ)
河内国丹比郡 阿麻美許曾神社[アマミコソ] 許曾は尊親、阿麻岐志
伊勢国三重郡 小許曾神社[ヲコソ] コノは社(もり)
出雲国秋鹿郡 許曾志神社[コソシ] 古来からのコソシノカミ
近江国淺井郡 上許曾神社[カミコソ] 神社(かみこそ)忌寸の祖神を祀る

 語曾は社(もり)の意味がおだやかなところ。

 牛と比売とは牽牛と織女、牛には角があること、都怒我阿羅斯等は黄牛に農具を負わせて田舍に行った。

[3059]  縁MADOKA [Url] 2007/06/02(Sat) 03:27 [Reply]
ペギラさん お久しぶりです
>「語曾」この意味は??
ですね! 私も知りたい(^0^)/
>「媛」「牛」「石」ではなかろうか??
こういうふうに思ったことはなかったですわ
新鮮!でした
>嶋は「牧」には適した環境
たしかに、ヨーロッパに小さい小島が集まった場所を牧にしている例がある つまり 小島と小島の間の海川が天然の柵 で牧には良いらしい
難波八十嶋は適地です。姫島はね!

が実は私はヒメコソと牛の関係はいままで問題にしたことはまったくなかったんですが。。。

今回ぺギラさんの牛を読んでふと
アカル姫というよりもアカル姫と非常に関係の深い
住吉神にこそ!牛との関係が考えられるのではないのでしょうか?
つい最近 神奈備さんの住吉の真西 で牛窓 牛転びの話がでましたが。。。
でここでふと なんで住吉神が牛と関係あるんでしょうかねえ?

私はアカル姫といえば赤い石ばかり追ってましたが。。
石といわれて あっ!
最近実は大岩がでました!現在存在しませんが。。。
ヒメコソ神社のご神体は岩船である!
くわしくは
いこまかんなび さんとこの過去ログ
http://www.h7.dion.ne.jp/cgi-bin/ezboard/iko-kan/1/
で いこまかんなびさんが文献だされてます
http://8421.teacup.com/iko_kan2/bbs
には 岩船図も

謡曲本の『岩船』の話からです

ここにも 住吉神がかかわる

コピーしたいんですが モバイル機では過去ログみれなんでめんどいですが、見てみてください。

[3058] Re[3056][3050]: 豊国  神奈備 2007/06/01(Fri) 21:26 [Reply]
> 媛嶋には「牛」がおり、たぶん、推測の域を出ませんが「比賣語曾社神」がいたのでは?

 摂津の姫島には姫島神社が鎮座、阿迦留姫命を祀っています。
 『摂津国風土記逸文』に「比売島の松原。昔、軽島の豊阿伎羅の宮に天の下をお治めになった天皇(応神天皇)のも世に、新羅の国に女神があった。その夫からのがれて来て、しばらく筑紫の国の伊波比の比売島に住んでいた。そこでいうには、「この島にいるならば、男神が尋ねて来るだろう」と。それでまた移って来てこの島にとどまった。だから、もと住んでいた土地の名をとってこの島に名づけたのである。」 と出ています。
 難波の媛島松原は大隅島とともに放牧地でありました。(安閑紀二年九月)

参照 http://kamnavi.jp/ym/hiboko/himejima.htm

> ちょっと寒いか

 結構、暖かい。

[3057] Re[3055][3053][3052]: 豊国  神奈備 2007/06/01(Fri) 21:24 [Reply]
> 「凡河内直香賜」という奇妙な名前には、「出家僧」という意味があるのではないか、と思います。

 仏教伝来の時期については卑弥呼の時代と云う説もあります。思いがけない程古い時代だったのでしょうが、さて雄略天皇の時代に出家僧が河内にいたのかどうか、それが『日本書紀』に記載されていることを見ますと、カタブさん、香を賜ったかも知れませんね。
 そうすると『紀』などの仏教公伝の時期をもっと早くするのか、民間仏教のようなもので、お上には仏教と認識されていなかったのかも。

 『新撰姓氏録』に、「巫部連 雄略天皇御躰不豫。因茲召上筑紫豊国奇巫。令真椋率巫仕奉。仍賜姓巫部連。」とあります。

 豊国奇巫とは今までの巫覡とは違う雰囲気を持つ巫覡だったのでしょうから、仏教的な巫覡だったかも知れません。用明天皇の病には豊国奇巫の裔のような豊国法師が呼ばれています。そうしますと雄略朝の時代は仏教公伝の100年前にあたりますが、豊国には来ていたのかも。

 河内と豊国とは瀬戸内海の東西に向かい合い、比売語曽神社も両方の地に鎮座、遠くて近い関係があったのでしょうから、河内にも来ていたのかも知れませんね。

慧眼!

[3056] Re[3050]: 豊国  ペギラ 2007/06/01(Fri) 13:13 [Reply]
>豊国に棄て流せの豊国とは難波の堀江のことでいいのではないでしょうか。

この豊国ネタで少々。(^_^;)
『日本霊異記』のこの一文の云う「豊国」=「難波堀江」という部分
シンプルに文章を読めば、そういうことだと思う。
ということで、極寒の迷宮へとご案内。(笑

なぜ、難波堀江が豊国と呼ばれるのか?呼ばれたのか?

難波と豊国の共通項は、何かあるのか?という旅立ち。
超有名処として、
日本書紀 巻六 垂仁天皇二年 是歳
小文字注 一云 部分
遂遠浮海以入日本國。所求童女者。詣于難波爲比賣語曾社神。且至豐國國前郡。復爲比賣語曾社神。並二處見祭焉。

比賣語曾社神というキーワード
この神名で以前から不思議に感じているのは
「語曾」この意味は??
日本書紀を読んで関連しそうなキーワードを考えるならば
「媛」「牛」「石」ではなかろうか??

その中で今回「牛」をキーワードに考えてみた。

そうすると、
日本書紀 巻十八 安閑天皇二年 九月丙辰
宜放牛於難波大隅嶋與媛嶋松原。
「難波」「媛」「牛」とくる。
さらに
『続日本紀』巻七霊亀二年(七一六)二月己酉《戊申朔二》
令攝津國罷大隅媛嶋二牧。

媛嶋には「牛」がおり、
たぶん、推測の域を出ませんが「比賣語曾社神」がいたのでは?
嶋は「牧」には適した環境のようで、延喜式の「牧」にも数箇所存在する。

ならば!
豊前の媛嶋に「牛牧」や「牛」に関わるキーワードが存在するか?
今の所、私には見つけられない。(>_<)

微かな残り香から
ある豊国人達は、牛に関わる何かがあったのではなかろうか。
その人達が難波に移住したか、させられたかで
難波八十嶋 姫島へ。
そのあたりが、リトル豊国と呼ばれた。

ちょっと寒いか。。

[3055] Re[3053][3052]: 豊国  堂門 2007/06/01(Fri) 10:07 [Reply]
>  大坂で「凡」と云えば、凡河内直香賜(おおしこうちのあたいのかたぶ)と云うスケベェさんを思い出します。

「凡河内直香賜」という奇妙な名前には、「出家僧」という意味があるのではないか、と思います。

「僧侶による女犯」という話でとらえれば、8世紀に奈良朝がさかんに布告していた「僧侶の風紀取締り」という政府の態度と重なります。

新しい秩序(仏教国家の誕生)のもと、
権威をかさに政府の統治方針に逆らう「出家僧に対する処断」の正当性を
正史の中で担保した話のようにも思われます。







神奈備掲示板、写真掲示板、過去ログ集




神奈備ホームに戻る